ジャングルジムのてっぺんから
小学校の校庭を踏みしめたのは、かれこれ10年ぶりになる。中学生の時に、サッカーをやるために忍び込んで以来だ。
きれいに整備されたグラウンドの中心部を避けて、端の方を歩く。器具庫があり、鉄棒があり、バックネットがある。当時と何一つ変わっていない。銀杏の木が夕日に照らされ黄色く輝いている。
車を停めたのと反対側の方には、いろいろな器具が設置されている。ためしにブランコに乗ってみると、錆び付いた鎖がぎしぎしと悲鳴をあげた。雲梯は両手で掴んでも足が地面についてしまう。登り棒は昔から苦手だった。バスケットゴールは低く、今ならダンクシュートだってできる。
何もかもがあの頃のままだった。器具によっては腐食しているものや、塗装し直されてより派手な姿に生まれ変わったものもある。小学生の頃は、一日の多くの時間をそれらとともに過ごした。
ジャングルジムのてっぺんに座って校庭を眺める。無骨に組まれた鉄製のそれは、僕が在学中の頃は、年に一人か二人を地面に突き落とし怪我を負わせていたように思う。危険だから撤去するという話も挙がっていたようだが、危機を脱し今も変わらず校庭を見下ろすように屹立している。
ここから見える景色が好きだった。地面に立っているだけでは見えない特別な世界を見ることができた。この広い世界をどこまでも見渡せるような、誇らしい気持ちになった。落ち込んだり嫌なことがあったりしたときは、いつもここに座っていた。小さく見える同級生や先生を眺めたり、外の世界を想像したりするだけで、沈んでいた気持ちが元通りになった。
僕はジャングルジムのてっぺんから眺める景色が大好きだった。
小学五年生の頃、初めて好きな人ができた。チカちゃんという女の子だ。僕とチカちゃんは親友と呼べる同性の友達がそれぞれいて、いつも四人で遊んでいた。お絵描きしたり、かくれんぼをしたり、五月の宿泊訓練も四人で班を作って行動した。四人で一緒に下校することもしばしばあって、そんなときはよくチカちゃんの家に道草し、おやつをごちそうになった。
チカちゃんはとても明るくてやさしい子だった。クラスで仲間はずれにされている子や友達の少ないおとなしい子にも、分け隔てなく接した。放課後の課外活動ではボランティアクラブに入っており、チカちゃんのことを好きな僕はしたくもないボランティアを手伝ったりもした。
六年生になると、僕の友達がチカちゃんたちと一緒に遊ぶのを嫌がるようになった。女子と仲良くすると、他の男子に冷やかされるからだ。友達は休み時間になると、他の男子と一緒にサッカーやドッジボールをやりたがった。僕も彼について一緒に遊んだ。そのうちチカちゃんたちとはあまり遊ばなくなり、お喋りするのもときどきになった。修学旅行では同じ班にならなかった。
卒業前のバレンタインの日に、チカちゃんの友達からチョコレートを貰った。いつも四人で遊んでいた、チカちゃんの親友だ。僕は少し残念な気持ちになった。そのチョコレートを僕に渡したのは、他でもないチカちゃんだったからだ。チカちゃんは誰にあげたんだろう。ホワイトデーのお返しは用意しなかった。好きでもない人にプレゼントをあげるのはなんだか違うような気がしたからだ。できればチカちゃんから貰って、チカちゃんにお返しをあげたかった。
中学校に入学し、僕とチカちゃんはますます疎遠になった。僕は男友達と頻繁に遊ぶようになり、チカちゃんは他の小学校から来た女の子たちと一緒にテニス部に入部した。僕はバスケットボール部に入部したので、帰宅時間も合わなくなった。クラスも離れ、言葉を交わす機会も減った。
みるみる離れていくチカちゃんとの距離に、僕は焦った。チカちゃんは学年内で少しずつ人気があがり、それは男子の間でも評判になった。チカちゃんを狙っている奴がいる、という話をあちこちで耳にした。
そして一年目の秋、僕はチカちゃんに告白した。試験前で部活がないある日、下校時間に校門の前でチカちゃんを捕まえた。ちょうどそのときは周囲に人がほとんどいなかったので、僕は勢いに任せて自分の想いを打ち明けた。僕が話し終わると、チカちゃんは顔を真っ赤にして走り去ってしまった。僕は足が震えて、なぜだか泣き出したくなった。家に帰ってからも、心臓の鼓動はなかなかおさまらなかった。明日からチカちゃんとどうやって接すればいいのか、布団の中でもがき悩んだ。チカちゃんは僕と付き合ってくれるだろうか。きっと良い返事をくれるに違いない、そう思い込むしかなかった。小学生の時はあれだけ仲が良かったのだから、きっと他の男子よりも僕は特別な存在だ。淡い期待にしがみついたまま、僕は眠りに落ちた。
チカちゃんが僕の告白にどうやって返答したか、実はあまり覚えていない。友達づてに聞いたのか、直接答えを貰ったのか、その部分だけやけにおぼろげな記憶となっている。確かなことは、僕は彼女にふられた。
彼女はそれからしばらくして、テニス部を退部した。不良と呼ばれる先輩らと行動をともにするようになり、教師から素行の悪さを指摘されるようになった。スカート丈は膝上になり、髪を脱色した。廊下ですれ違うと香水の匂いが鼻腔を蕩かしたが、僕は彼女と目を合わせないようにした。彼女の声を直接耳にすることはなくなった。人混みの中でしか、彼女を目にすることはなくなった。
中学校を卒業して、僕と彼女は別々の高校に進んだ。以来、僕は彼女と会っていない。
彼女の噂は何かしら耳に入ってきた。高校卒業後は短大に進学したこと、地元の自動車教習所で見かけたこと。何より僕を驚かせたのは、小学校の親友だと思っていた僕の友達と、高校に入ってから付き合い始めたという情報だ。小学校の仲良し四人組は、それぞれの利害関係を内包して成り立っていたものだったのだと、その時初めて理解した。友達とは中学校を卒業後、やはり連絡をとっていない。
人生は続く。なだらかな坂道を転がるように、それは続いていく。
久しぶりの帰郷だった。高校を卒業したあとは隣の県の国立大学に進学し、そしてその街の役所に就職した。ひとり暮らしのワンルームにもすっかり慣れ、いつでも帰ることができるからというのを言い訳に、大学時代からほとんど帰省しなかった。仕事にも慣れ、気持ちに余裕が生まれたので、ふと思い立ち車を走らせたのだった。
見慣れた街を走る。高速道路を下りて、国道を東へ、駅前を抜け、しばらく一本道を走れば実家が見えてくる。のどかな田園風景と呼ぶにはあまりにも田舎くさい町並みが、否応なしに郷愁を誘う。夕食の時間にはどうやら十分間に合いそうだ。
途中、手土産を何か買っていこうと思いつき、コンビニに立ち寄った。ゴシップ誌を何冊か立ち読みした後、冷蔵棚からコーラを取り出した。めぼしい品が特になかったので、適当なデザートをカゴに突っ込んでレジに向かった。
「いらっしゃいませえ」
聞き覚えのある声だった。それは長年の蓄積により絡み合った記憶の糸を、急速にたぐり寄せた。わずかに視線を上げ、カウンターの向こう側にいる店員の顔を一瞥する。
チカちゃんだった。濃いめの化粧と仰々しいつけまつげのために気付かなかったが、目の前のそれは、脳内の記憶媒体に焼き付けられた初恋の女の子と余すところなく一致した。胸につけられたネームプレートは見覚えのない名字が表記されていたが、まぎれもなく、僕の好きなチカちゃんだった。
「1,029円になります」
店員の女性は業務を淡々とこなした。僕は慌てて財布を取り出し、お金をカウンターの上に置いた。
「71円のお返しです」
伸ばした右手の平に、彼女の指が触れた。記憶が洪水のように溢れ返り、今にも喉からこぼれ落ちそうだった。
覚えていますか? 小学生の頃、よく一緒に遊んだ、**です。久しぶりですね。ええ、本当に。今日はちょっと、ふらっと地元に帰ってきたんです。あ、そうです、今はこっちに住んでいないんですよ。え? 元気ですよ? 疲れてるように見えます? 昨日まで少し忙しかったんで、そう見えてしまうのかもしれませんね。あの、ち、チカさんはこっちにずっといるんですか? いや、なんだか、懐かしいなあと思って。もし良かったら、食事にでも行きませんか? ほら、仲の良かった**や**も誘って。チカさんの暇なときで結構なので。え? さん付けはおかしいですか?
言葉はぐるぐると渦を巻き、そして喉の奥へ吸い込まれていった。
「ありがとうございましたあ」
彼女は、一度も僕と目を合わせなかった。
ジャングルジムのてっぺんに座り、校庭を眺める。僕はここから見える景色が好きだった。
グラウンドに敷き詰められた灰色の乾いた砂、沈む夕日を背にした銀杏の木、錆びの浮いた鉄棒、ひと気のない校舎、それらはごくありふれた景色だった。およそ二メートルの高さから見下ろす世界は、地面に立って見るそれとほとんど遜色なかった。特別だと思っていたものは、記憶のフィルターを透過した幻想にすぎなかった。
きっと変わってしまったのは、僕の方だ。世界はいつも、ありのままの姿であり続けたのに、僕は何もかもを失いながら、ここまでやってきてしまったのだ。あの頃見えていたものが、今はもう見えない。
夕日が沈む。時間は僕を置き去りにして流れ続ける。もう、あの頃に戻ることはできないのだ。
チカちゃんは言った。
「私はここから見える景色が好きなの。落ち込んだ時はいつもここに来て、元気を貰うんだ。いつもと違った世界が見えるでしょ? ここは私にとって特別な場所」
チカちゃんが教えてくれた世界は、僕にはもう見えない。君にはまだ見えているのだろうか。
完
ジャングルジムのてっぺんから