FISHMANS

羽沢タケル

 不思議な光景だった。
 川縁に座り、釣り糸を垂らしている中年男性の背中が見えた。川幅こそ広いが水量はごく少なく、いつ涸れてもおかしくないこの川で魚が釣れるという話は、あまり耳にしない。一般的にはありふれた光景なのかもしれないが、僕にはその様子が不思議なものに見えた。僕は跨っていた自転車を道の脇に停め、青々とした草が生い茂る坂道を下った。
 釣り糸の先に意識を集中するおじさんのそばに立つ。やはりそれは不思議な光景だった。おじさんは決して綺麗とは言い難い洋服に身を包み、胡座をかいて、竿を揺り動かすこともせず、リールもガイドもない安っぽい竿からのびる糸の先をただじっと見つめている。もし魚が釣れたらどうするつもりだろうか、バケツなどは見当たらない。
「釣れますか?」
 そう尋ねると、おじさんは静かに首を横に振った。
「いや」
 それきりおじさんは何も言わなかった。僕も、他に何も聞かなかった。僕はその場に腰を下ろし、おじさんと同じように川面に視線を固定した。
 心地良い秋の風が二人の間を流れた。地元を離れ、遠く離れたこの田舎町に移り住み、初めての秋が訪れようとしている。大学生活は、想像していたものよりずっと退屈だった。生来の人見知りがあだとなり、友達と呼べるものとは、いまだに出会えずにいる。高校の頃とは違って、一人で行動していても誰も何も干渉してこないので、その居心地の良さに肩までどっぷりと浸かってしまっている。平日の昼下がりにみすぼらしいおじさんに話しかけているようでは、友達を手に入れることなど夢のまた夢だ。
「何が釣れるんですか」地面に生えた草をむしりながら、僕は尋ねた。
「ん、何も、だな」
「何も釣れないのに、釣りをしているんですか」
「まあ、そういうことになるな」
「釣れなきゃ楽しくないじゃないですか」
「まあ、そうだな」
 のんびりとした口調。僕は、きっとこの人は社会のシステムからはじき出された人間なのだな、と思った。悪意や侮蔑の意味などはまったくなく、ただそういうことが頭の中にぽっと浮かんだにすぎない。
「釣れたらどうするんですか。バケツとか、ないですよね」
「ん、でもまあ、釣れないだろ」
 まったくその通りだった。なんだかおかしくなって、僕は思わず吹き出してしまった。
「なんていうか、おもしろいですね」
「そうか」
「明日もまた、ここにいますか」
「ん、たぶん」
僕はズボンについた土埃をはたき落としながら立ち上がった。
「また来ます」
 おじさんは何も言わなかった。

 それは、やはり不思議な光景だった。
 昨日とほぼ同じ時刻、おじさんは、昨日と同じように釣りをしていた。しかし、昨日とは決定的に違う部分があった。おじさんの右隣に、高校の制服に身を包んだ女の子が三角座りをしていたのだ。不思議というよりは、それはどこか異様な光景と呼べるものだった。
 わずかに躊躇いが生じたものの、僕は昨日と同じく道ばたに自転車を停め、川縁に続く坂道を下りていった。
「釣れますか」
「いや」
 昨日と同じ反応だった。身につけているものが少し違っているような気もするが、一方で、昨日からずっとそこにいたんじゃないかとも思えた。もしかしたら、僕がその存在に気付くずっと前から、おじさんはそこにいたのではないだろうか。根が生えた植物のように、ただ太陽の光を浴びてゆるやかに生長する新種の生物なのかもしれない。
 おじさんの隣に腰を下ろす。女子高生とは、おじさんを挟んで反対側だ。隣の子は誰ですか、と聞く勇気を残念ながら僕は持ち合わせてはいない。制服から察するに、大学のすぐそばにある高校の生徒に違いない。
 横顔をちらりと盗み見る。彼女のぼんやりとした視線は、おじさんと同じように川面に向けられている。幼さが残る顔立ちだが、髪の色はほのかに茶色く、垢抜けた印象を併せ持つ。一言で言うと、とてもかわいらしかった。三角座りをしていたら向こう岸から下着が見えてしまうのではないか、ということがどうしようもなく気になってしまう。
 女子高生はおじさんの何なのだろう。娘? それとも、いかがわしい関係? どちらも、どこか現実味がないように思えた。彼女もただ僕のようにふらりとここへやってきただけなのかもしれなかった。
はたから見れば、奇妙な光景だろう。みすぼらしい中年男性を挟むようにして、大学生と女子高生が肩を並べて座っている。親子のように見えるだろうか。だとすれば、僕と女子高生は兄妹ということになる。それはそれで悪い気はしない。しかし、もし僕たちが本当の家族だったら、まずは釣れもしない川で釣りを続ける父親を説得するだろう。
 ぼんやりと川を眺める。ただそれだけの時間。なんのつながりもない三人。まるで、騒がしい世界から隔離されたような気分だ。車が走り抜ける音も、川のせせらぎも、遠くで聞こえる子供の声も、それが必要不可欠であるかのように確信を持って鳴らされている。不協和音はない。波立っていた心が静けさを取り戻していくようだった。
 
 時間の隙を見つけては、僕はおじさんに会いに行った。相変わらずほとんど言葉を交わすことはなかったが、秋晴れの穏やかな気候の中、川の流れをただ眺めるだけでも、退屈な日常に潤いを与えてくれた。学校に行って、講義を聴いて、バイトに行って、家に帰る、そんな単純な繰り返しに埋もれるよりもずっと健康的なことだと思った。講義もバイトもすべてすっぽかしてしまおうかと思ったこともあったが、一応自分で設定した最低限のラインは踏み越えずにいた。
 僕はおじさんに何度か質問をぶつけた。どこに住んでいるのか、歳はいくつか、結婚はしていないのか。そういう時、おじさんは決まって、さあ、とか、どうだろうな、とか言ってはぐらかした。もちろん僕もまともな回答なんて望んではいなかったので、それで問題はなかった。代わりに、僕の思っていることや今日あったことなんかを話したりもした。おじさんはたまに相槌を打つこともあったが、ほとんど黙って耳を傾けていた。
 一度だけ、おじさんが僕の質問に答えたことがあった。
「魚が釣れないとわかっているのに、どうして釣りを続けるの」
 おじさんはううん、とうなってから、間延びした声で言った。
「釣れることばかり考えても、しょうがないだろう」
 わかったような、わからないような。おじさんの言葉をそのまま口にしてみたが、やはりよくわからなかった。おじさんがそう言った時、女子高生は三角に組んでいた足を崩して座り直した。
 女子高生はしばしばおじさんの隣にいた。言葉を交わすことはなかったが、僕たちはお互いの存在を認識し合っていた。彼女の方も、僕の存在に理解を示してくれているような気がした。目を合わせたことさえないが、おじさんという仲介者によって、僕と女子高生は単なる赤の他人ではないような、そんな感覚を抱かずにはいられなかった。
 女子高生は何も喋らない。おじさんと同じように、ただずっとそこに座っていた。制服の袖から白い包帯をのぞかせていたこともあったが、おじさんも僕も、それに触れることはなかった。

 忘れもしない、あれは、秋もいよいよ深まってきた頃のこと。小雨が降る寒い日の夕方だった。
 僕は、その日最後の講義を終え、帰宅の途についていた。雨の日は自転車ではなく徒歩で通学していたので、少し億劫だなあとかそんなようなことをぼんやり思いながら、傘をさし、とぼとぼと歩いていた。
 数十メートル先の前方から、高校の制服に身を包んだ女の子が歩いてくるのがわかった。半透明の傘に映るその顔は、いつもおじさんの隣にいた、あの女子高生だった。川縁以外で彼女の姿を目にしたのはこれが初めてのことだった。全身が熱を帯び始める。彼女はゆっくりと僕の方に近づいてくる。歩道は狭く、隠れる場所はない。隠れる必要なんてないことはわかっているけど、僕は迷った。このあとどういう行動をとればいいのか、ほてった頭をフル回転させた。彼女は僕に気付いているのかいないのか、俯きがちに歩いている。標準より少しほっそりした脚が短いスカートからのびており、背は僕より小さい。改めて正面から見ると、やはり彼女はとてもかわいらしく、それが余計に僕の心臓を不整に打ち鳴らした。僕は気配を消すかのように、ことさらゆっくりと歩みを進めた。愚かなことだとはわかってはいたが、このまま彼女に気付かれなければ、それはそれで良かった。あいにく僕も半透明のビニール傘なので、顔を隠すことはできないが、風景に同化してしまえば、きっと大丈夫だ。何が一体大丈夫なのだろう。僕と彼女は顔見知りだ。おじさんという共通の情報も持ち合わせている。話しかければいい。気さくに、フランクに、ポップに話しかければいいじゃないか。話しかけてどうする。そのあとどんな会話を続ければいいというのだ。いや、もしも彼女が僕に気付かなかったら、僕がおじさんの隣にいた男だということを彼女が思い出さなかったとしたら、そうしたら僕はもうどうしていいかわからなくなってしまう。しかし、彼女はもう目の前に迫っていた。
 彼女は、つと目を上げた。その動きに思わず反応した僕の視線と、彼女の視線がぶつかった。一秒にも満たない瞬間ではあったが、しかし、僕は、つい目をそらしてしまった。そして傘がぶつからないようにすれ違い、彼女は僕の視界から消えた。
 僕はいつの間にか、立ち止まっていた。淡い期待を抱きつつそうっと振り返った時には、もう彼女の姿はどこにも見えなかった。
 他人同士がすれ違った、ただそれだけのことにすぎなかった。

 あの日以来、彼女はおじさんのもとへ姿を見せていない。

 二週間ほど経ったある日、僕はバイトの休憩時間に、さりげなく後輩に話しかけた。僕の半年あとに入った後輩は、いなくなった女子高生と同じ高校の女子生徒だ。同じバイト仲間とはいえ会話を交わすのはこれが初めてで、彼女は最初とまどいを隠せずにいたが、話が進むとすぐに打ち解けた表情を見せてくれた。八重歯が魅力的な、明るくてとてもいい子だ。そして僕は会話の中で、思い切って、いなくなった女子高生のことについて聞いてみた。顔立ちや体型や髪の色など、記憶をたよりに思いつくまま説明すると、彼女はすぐに思い当たったようだった。
「ここだけの話ですけど、あの子、自殺したらしいですよ」
 彼女はわざとらしく声をひそめて言った。
「あの子は私の一つ下なんですけど、なんだか精神的に病んでいたみたいで。あと、あまり男癖が良くなかったみたいですよ。援助交際してるとかって噂もあったし」
 後輩は知っていることをすべて教えてくれた。いなくなった女子高生は、二週間ほど前に、自宅で首をつっていたという。
「中学も彼女と一緒だったんですけど、わりとおとなしい感じの子でしたね。高校に入ってからはあまりクラスに馴染めなかったみたいで、だんだん見た目も不良みたいになっていって。何度か自殺未遂したこともあったらしいですよ、手首切っちゃったりとか。まあ、全部部活の後輩に聞いた話なんですけどね。っていうか先輩、なんでその子のこと知ってるんですか?」

 冷たい空気が鼻を通り抜け、肺いっぱいに満たされる。もうすぐ吐き出す息が白くなる時期がやってくるだろう。久しぶりの秋晴れを仰ぎ、目を細める。雲一つない空は高く、どこまでも続いている。
 冬になれば、このあたりにはきっと雪が積もる。そのとき、おじさんはどうするのだろう。相変わらずここにいて、ぼんやりと糸を垂らしているのだろうか。そばに立ち、身動き一つしないおじさんを見下ろす。丸まった背中は、何も語らない。ただそこにある塊のようだ。
「あの時、彼女に話しかけていたら、もしかしたら彼女は自殺を思いとどまってくれたのかな。だけど、僕は彼女の人生を背負っているわけではないし、その道筋を決定する力も持っていない。目の前で起こるあらゆることを傍観するしかなくて、すぐそばにある身近なものにただ手を伸ばすだけなんだ」
 独り言のように呟く。おじさんは、いつものように何も言わなかった。おじさんは出会ったときからずっとそうだった。僕がする話を、ただ静かに聞いてくれるのだ。
 僕は持っていたバケツを足もとに置き、ポケットに手を入れた。冷え切った手が温もりを取り戻していく。
「バケツを買ってきたんだ。ホームセンターで、安いやつだけど。魚が釣れたとき、バケツがなかったら困るだろう?」
 おじさんの隣で三角座りしていた女の子の姿を思い描く。きっと、彼女は今もここにいるし、はじめからこんなところにはいなかったのだ。流れゆく川のように、それはひどく曖昧で、しかし何よりも明確なものだ。僕もおじさんも、ただじっとそれを見つめて、時間をつぶしていただけだった。魚は釣れない。釣れることばかり考えても、しょうがないのだ。
「じゃあ、もう行くよ。バイトに遅れそうだ」
 僕は踵を返して、道ばたに停めておいた自転車へと足を向けた。もうここへ来ることはないだろう。いや、明日になれば、おじさんはどこかへ行ってしまっているかもしれない。そこには何の痕跡も残らないだろう。僕の分も、おじさんの分も、彼女の分も。そしていつか思い出すこともなくなる。時間は僕達を押し流す。川底を転がる石のように、丸く、丸く。
 背後で、水のはじける音が聞こえた。しかし僕はその音に振り返ることなく、勢いよく坂道を駆け上がった。

 バイト先の後輩とはあの日の会話のあと、すぐにメールアドレスを交換した。赤外線で通信しようとしたが、携帯電話を買い換えてから一度もその機能を使ったことがなかったことに、そこで気がついた。とまどう僕を見て、彼女は笑った。八重歯が魅力的な、かわいらしい子だ。
 大学に入ってから、初めてできた友達だった。



   完

FISHMANS

FISHMANS

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-23

Copyrighted
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