老人の嘘
夢を見た。
私は、見渡す限り一面の草原の真ん中に、ぽつんと一人佇んでいた。時折うねるような強い風が吹き、草葉を裏返して去っていくのだが、この広い世界で、私は一人ぼっちだった。草原に目印となるようなものは何もなく、どちらへ向かうべきかを決めかねて、じっと立ち尽くしていた。
やあ、こんにちは。
ふいに、声がした。振り返るとそこに、道化師がいた。トランプに描かれるジョーカーを想起させる出で立ちで、顔は全体的に白く塗りつぶされ、口元のいやに赤い紅が目につく。紅は唇をはみ出して引かれており、両端が上方を向いているので、一見すると笑っているように見えるのだが、実際にはちっとも笑ってはいない。せわしなくステップを踏んでは、奇妙なポーズで静止したりと、どうも見ていて落ち着かない。
ここはどこだ、と私は問いかけた。道化師はくるりとターンして、そんなことはどうでもいいじゃないか、と言った。振り回したステッキの先が私の鼻先を横切った。
私は呆れて、その場を立ち去ろうとした。すると道化師はぴょんと飛び跳ねて、私の進行方向に立ちふさがった。
まあまあ、お待ちよ、オニイサン、ちょっと聞いておくんなさい、と、道化師は小気味よく口ずさみ、私の顔の前で人差し指をくるくる回した。僕は今、アンタに魔法をかけたのさ。
魔法? 私は、少々面倒臭く思いながらも、道化師に尋ねた。それはどんな魔法だい?
それは、嘘をつくと年老いていく、という魔法さ。道化師は、赤い紅の上からでもはっきりとわかる薄笑いを、初めてその白い顔に浮かべた。嘘つきなアンタには、ピッタリの魔法だよ。
私は、そら恐ろしい感じがした。到底現実味のない話であるはずなのに、道化師の瞳には不気味な説得力の炎が灯っていたからだ。道化師は再びくるりと回り、今度はうまく止まれずその場にどしんと尻餅をついた。
私は嘘つきなどではない。いや、そんなくだらない話をでっち上げるお前のほうがよっぽど嘘つきではないか。私は幾らか声を荒げた。
道化師は、尻をさすりながら立ち上がった。そして、嬉しそうに笑いながら、さっそく嘘をついたね、と言った。アンタは自分のことを何もわかっちゃいない。嘘にまみれすぎて何が嘘なのかさえもわからなくなってしまったのかい? アンタは根っからの嘘つきなのさ。ほら、見てごらんよ、顔に醜いしわが浮き出ているぞ。
私は、何を馬鹿な、と思いながらも、おそるおそる自分の手指を見た。道化師の言うことは、真実だった。先ほどまでは確かになかった深いしわが、手の甲にこびりついているではないか。その手で顔をなでてみたが、頬は張りと水分を失い、まるで他人の顔をなでているような手触りだった。顎には髭も生えている。
どうだい、驚いたかい。道化師は嬉々とした声で言った。僕は嘘つきなんかじゃなかっただろう。
私は震える手でもう一度顔を撫でた。頬も額も鼻も、まるで別人のようだ。私は、動揺を悟られまいと、深く息を吸って、吐いた。
なあ、君、悪ふざけはよしてくれないか。なぜ私がこんな仕打ちを受けなきゃならんのだ。お願いだから、魔法をといてくれ。
道化師はどこから取り出したのか、色とりどりのボールでお手玉をしていた。その容姿に違わず見事なボール捌きで、私の話を聞いているのかいないのか、くるくる回るボールを忙しなく目で追っている。
なあ、そんなことをしていないで、ちゃんと話を聞いてくれ。確かに私は嘘つきかもしれない。しかし、だからと言って、君にこんな仕打ちを受ける筋合いはないはずだ。それに、私は家に帰りたい。ここはどこだ。道を教えてくれ。私は家に帰らなければならないのだ。家に帰れば愛する妻も、子どももいる。こんなことをしてひどいと思わないのか。私のこんな姿を見たら、妻はきっと悲しむだろう。子どもは怖がってなついてくれないかもしれない。こんな辛いことは他にない。おい、聞いているのか、お願いだから、魔法をといてくれ。
ぽとり、とボールが落ちた。続けざまに三つ、四つと地面をはね、足もとに転がった。道化師は器用に動かしていたその手を止めて言った。オジサン、また嘘をついたね。私は息を呑んだ。
オジサン、また嘘をついたね。オジサンには、妻も子もいないじゃないか。ずっと一人で生きてきたんだろう? 近づく者を誰一人として信用せず、一人ぼっちでさ。何人もの人間がアンタに近づいたはずだ。しかし、アンタは裏切られることを恐れ、彼らから距離を置いた。それが理想だったんだろう? アンタがいなくなっても、それに気付く者なんていやしないのさ。家に帰ってどうするつもりだい? どうせ一人で安い酒をあおるだけだろう。
私は心底、恐怖した。道化師に、ではない。驚異的な速度で老いていく自分に、だ。手には先ほどよりも深く細かいしわがみるみる刻み込まれ、足は力を失い、立っているのもやっとというほどになってしまった。背筋を伸ばし道化師を見据えることさえままならない。死の実感が体の中に充満する。
お願いだ、助けてくれ。私はまだ死にたくない。乱れる呼吸を抑えながら、私は訴えた。私は懸命に生きてきた。夢を叶えるために、誰よりも生に執着した。私の旅はまだ終わっていないし、まだまだ時間は足りない。夢半ばで崩れ落ちる男の姿を君は見たいのか? 私は、こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。
道化師は、ふうっとため息をつき、肩をすくめた。彼はやはり気付いたようだった。私がまた嘘をついたことに。
ジイサン、アンタ、不思議な男だね。どうしてこの期に及んで、なお嘘をつくんだい? 見上げた根性だ、と褒めるべきなのか、あるいは愚かな男だ、と嘆くべきか、判断しかねるよ。アンタは、ずっと死に場所を探していたじゃないか。誰よりも生に関心を示さず、また、夢も希望も、生きる目的だって何一つ持たず、だらだらと生き長らえてさ。本当は、誰かに幕を引いてもらいたかったんじゃないのかい? 退屈だったんだろう、生きることが。良かったじゃないか、アンタの死に場所はここだよ。僕が最期を看取ってあげよう。どうだい、幸せだろう?
道化師は高らかに笑った。嬉しそうに飛び跳ね、上手に宙返りをしてみせた。
己の体を支えることもできず、私はその場に倒れ込んだ。体は枯れ木のようにやせ細り、靄がかかったように視界が霞む。意識はぼうっとして、道化師の耳に障る甲高い笑い声が少しずつ遠のいていく。草の匂い。道化師はうずくまる私の周囲をぴょんぴょんと跳ね回っている。軽やかでリズミカルなステップが、私を意識の外へ連れて行く。湿った地面が、頬のしわに染みる。私は死ぬのだ。
道化師は高らかに笑った。
老人はひとつ、くしゃみをして、目を覚ました。
突き抜けるような青空の下で、エメラルドグリーンの海が太陽の光を反射してきらめいている。波は穏やかで、水平線が緩やかな弧を描く。真っ白な砂浜とのコントラストが美しい。寝惚けた頭で辺りを見回し、そして、ゆっくりとロッキンチェアーの背もたれに身を預けた。
いつの間にか、眠ってしまったようだ。ヤシの木が作る日陰が潮風を冷やしたようで、少し肌寒く感じる。
木製のサイドテーブルに置かれたグラスを手に取り、すっかりぬるくなってしまったビールを喉に流し込んだ。気の抜けた炭酸と過剰な酸味が舌を刺激する。空になったグラスをテーブルに戻し、ふうっと息を吐いた。ロッキンチェアーがきいきいと音を立てて揺れる。潮風がやさしく頬を撫でた。
夢を見た。奇妙な夢だった。道化師の笑い声は、今も鮮明に、耳にこびりついている。
老人は両手に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。震える手はしわにまみれ、膝はぎしぎしと悲鳴をあげる。水滴のついた空のグラスを手にとり、覚束ない足取りで部屋に戻る道へと向かった。
「一人は、寂しい」
老人は静かに呟いた。
完
老人の嘘