カリブの紅玉

花頂WHOGETS

 「ちっ、しけた船だぜ」
 一七一八年、八月――。
 バハマ近海を航行中のオランダ船を捕らえた海賊ポール・ウィリアムズは、甲板上に集めた乗客たちの姿を一瞥して、吐き捨てるように言った。
 そろいもそろって、みすぼらしい。
 どうやら、祖国での生活が苦しくなり、新大陸に活路を求めてやって来た貧乏人どものようだ。
 金目のものなど、望むべくもない。すでに抵抗する者とてなかったが、腹立ちまぎれに数人の海賊が、乗客に暴行を加えていた。
 「おい、誰か英語が話せる奴はいねえのか?」
 ピストルを振りかざしながらポールが言うと、訛りのない英語が返ってきた。
 「無抵抗の者には危害を加えないというのが、海賊の慣だと聞いたが?」
 涼しげな声で言ったのは、すらりとした体躯の美丈夫であった。
 その言は正しい。
 相手が無抵抗の場合、乗員乗客、とくに女性は丁重に扱うというのが、海賊たちの慣わしであった。そのかわり、抵抗した場合は、苛烈な報復が待っている。
 「海賊もいろいろってことさ」
 言いながら、ポールは臆する色も見せずに立っている若者を値踏みするように上から下まで眺めた。
 金はかかってないが、他の乗客たちと違い、清潔感のある服装をしている。
 太陽に燃えるような黄金の髪を、風がなぶっている。
 とりわけ印象的なのはその青い瞳で、炎と氷が同居しているような不思議な光彩を鮮烈に放っていた。
 「おめえ、名は」
 「エドワード・ジョーンズ」
 「よし、おめえ、俺たちの仲間になりな」
 ポールは、胆力、知力、カリスマといった、およそ海賊船の船長に必要とされるような資質は持ち合わせていなかったが、唯一、特殊な嗅覚を備えていた。
 それは、金のにおいを嗅ぎ分ける能力である。
 当時、世界で最も民主的だった場所は、おそらく海賊船の中であった。
 船長は乗組員の投票によって選ばれ、その人物が船長に相応しくないと思われた場合、同様にして罷免された。
 ポールのような小器が船長になれたのは、他に適当な人材がいなかったこともあったが、まさにその嗅覚が買われてのことであった。
 その嗅覚が、言っていた。
 〝こういう男とつるんでれば、食いっぱぐれることはねえ〟
 格が違うとは、こういうことをいうのだろうか。
 ポールは、自分より頭ひとつ小さい若者を、仰ぎ見るような錯覚にとらわれていた。
 以前、大海賊のエドワード・イングランドという男と会ったことがあるが、その時の感覚と少し似ている。
 珍しく勘が外れたと思ったが、嗅ぎつけた金のにおいのもとは、この男だったのだろう。
 「海賊に?」
 若者は、形の良い眉をひそめた。
 海賊が襲った船の人間を仲間に引き入れることは、珍しいことではない。強制する場合もあるし、すすんで仲間に加わりたがる者もいる。
 「いやとは言わせねえぜ」
 ポールは、本能的に抱いた劣等感を悟らせぬよう、ことさら大袈裟にピストルをちらつかせてみせたが、若者の眼には入っていないようだった。
 少し首を傾げ、眠そうな表情で考えた後、
 「まあ、それもいいさ」
 と、他人事のように言った。どこか投げやりな響きがあった。
 エドワード・ジョーンズ――後の女海賊メアリー・リードの、男装時の偽名であった。

 一四九三年、世界は二分された。
 前年のコロンブスの新大陸発見を契機に、ローマ教皇アレクサンデル六世が、大西洋上に一線を設定し、その西をスペイン、東をポルトガルの勢力圏と認めたのである。
 翌一四九四年には、スペイン、ポルトガル間でトルデシリャス条約が締結され、両国による本格的な分割植民統治が開始された。
 納得がいかないのは、これによって巨額の利益を生む貿易から締め出されたヨーロッパ諸外国である。
 そのため、というのは極論だろうが、一五一七年にはルターによる宗教改革が起こり、旧教から分離した国々は教皇の権威を否定、よって教皇の定めた勢力分界線も無効とし、実力をもって新世界との貿易に参入した。といっても、巨大な富を背景とした強大な軍事力、とりわけ無敵艦隊(アルマダ)を擁するスペインと正面きって戦えるだけの力は、まだ他の国にはない。彼らにできることといえば、せいぜい私掠免許状(レター・オブ・マーク)を発行し、利益の一部をかすめとるくらいのものであった。
 私掠免許状とは、敵船に限り拿捕、掠奪を認めるとする、民間の船舶に対して与えた委任状である。戦争行為の一形態とみることもできるが、要するに政府公認の海賊である。ゲーテの言葉を借りれば、「戦争と貿易と海賊は三位一体にして分かち難い」のだ。
 時代が降り、各国の関係が改善されると、私掠船の数は減り、それに反比例して無印の、つまり私掠免許状を持たない非合法の海賊の数は増えていった。かつての私掠船員の多くが、そのまま海賊に転職したのである。主な理由は二つ。一つは、再就職先をみつけるのが困難だったこと。もう一つは、一度覚えた蜜の味は、なかなか忘れられないということであろう。
 こうして、十八世紀初頭には、海賊たちはその黄金期を迎えていた。
 女海賊メアリー・リードが生きていたのは、そういう時代であった。

 ポールの直感は正しかった。
 エドワード・ジョーンズことメアリー・リードは、海賊の仲間になったその日、自己紹介もそこそこに、ポールに、規約書を見せろと言った。
 「ない」
 「ない? 馬鹿な」
 海賊にとっては常識である。今日でいえば、労働契約書のようなものだ。
 ないわけがないだろう、となおも提示を求めたが、どうやら本当にないらしい。
 「呆れたな。よくそれで海賊をやれたものだ。どうりで規律がなっていない」
 入りたての新参者が、仲間の面前で船長を痛罵したのだが、不思議と反感を抱く者はなかった。メアリーの人としての格がそうさせるのか、一同、教師に叱られた生徒のようにうつむいている。
 彼女はすぐさま規約書を作成すると、有無を言わさず、仲間全員に署名させた。
 内容は、報酬の分配に関する規定のほか、
 武器の手入れを怠るな
 無抵抗の相手に危害を加えるな
 獲物をくすねるな
 等といった禁止事項を記しただけの、ごくありきたりのものであった。
 どれも海賊にとっては常識である。べつに、道徳上の理由からできたルールではない。命知らずの荒くれ者といっても、死にたいわけではない。自らの身を守るために、自然発生的に出来上がった掟であった。
 その当たり前のことでも、きちんと言葉にして言わねばわからないのが、海賊という生き物なのだ。
 それにしても、とポールは疑問に思い、
 「やけに詳しいじゃねえか。海賊の経験があるのか?」
 「べつに。誰でも知ってる程度のことさ」
 メアリーは、つまらなそうに言った。
 確かに海賊あがりには見えないが、誰でも知っているようなことでもない。
 過去のことを言い出したらきりがない連中の集まりだ。ポールは、それ以上きこうとはしなかった。
 その後、彼らの組織は一変した。
 女を船に連れこむ者はなくなり、仲間同士の争いごとも減り、錆の浮いていた剣は、陽光が滲むほどに磨き上げられるようになった。
 メアリーが特に神経を尖らせたのは、獲物に対する取り扱いだった。あるとき、仲間の一人が獲物の娘にちょっかいを出そうとしたところ、いきなりその腕を剣で斬り落としたということもあった。
 この女はまた、腕っぷしも強かった。剣も銃も、仲間の誰よりも長けていた。
 過去のことを語らない女だったが、強さの理由について、酒席でぽろりとこぼしたところによると、軍隊にいたことがあるらしい。
 メアリーの提案で、船もそれまでのブリグ船から、捕らえたスループ船に乗りかえた。
 スループ船は、喫水が浅く、小回りがきく。
 海賊船の命は船脚の速さだということを、メアリーはよく理解していた。
 彼女はさらに、船底の掃除を徹底させた。
 船底に海藻やフジツボなどがつくと、速度も操作性も格段に落ちる。それは即ち、彼らの寿命が縮まることを意味するのだ。
 快足と規律を手に入れた結果、以前は食うや食わずの貧乏海賊だった彼らも、俄然実入りが増えた。追えば逃がすことなく、追われれば影も踏ませぬ。
 全てが順調に見えた、そんなある日――ひとつのニュースが、カリブ海に蟠踞する海賊たちの間を駆け巡った。
 指定期限までに投降した海賊は全て、その罪を不問とし赦免するという、英国王の布告が発せられたのである。
 海賊の横行に手を焼いた英国政府の、苦肉の策であった。
 状況は一変した。
 多くの海賊がこの布告に応じて投降し、その中に、ポール一味も含まれていた。
 ポールの特殊な嗅覚は、海賊というものの行く末を敏感に感じ取っていたのかもしれない。
 「ここらが潮時さ」
 メアリーを海賊の世界に引き入れた男は、そう言い残して、あっさりと海を去った。
 メアリーは、また、一人になった。

 赦免を受けてから二か月。メアリーは、無為徒食の日々を送っていた。
 日がな一日、海を眺めながら酒を嘗めている。
 しかし、酔えない。
 わかっている。
 自分は、恋と血にしか酔えない人間なのだ。
 だが、恋は、自分にはもう無理だと諦めている。
 となると、残りは後者しかないわけだが、血は宿酔がひどい。
 酔っているときはいいのだが、それが醒めた後、きまって猛烈な自己嫌悪に襲われる。こんなことはもうやめよう、と心の底から思う。しかし、暫くすると、またあのめくるめくような感覚が、血の沸き立つような興奮が欲しくなってくるのだ。
 血の匂いを忘れようと思ってアメリカくんだりまで来たが、結局のところ海賊になり、そんな自分を再認識しただけであった。
 その海賊すらもやめた。
 酒でも飲むよりほか、どうしようもなかった。
 一七一九年八月、無聊をもてあましていたメアリーの耳に、プロヴィデンス島の総督ウッズ・ロジャーズが、スペインに対する私掠船活動を企図しているという噂が舞いこんだ。
 〝私掠船……〟
 ざわり、と蠢くものがあった。
 ちょうど、懐具合もさびしくなってきたところであった。
 ――あくまでも、金のためだ。
 それ以上は、考えようとはしなかった。

 私掠船は、私掠免許状を与えられた民間の武装船である。
 その報酬は「買物なくんば支払いなし」、即ち獲物がそのまま報酬であり、逆に言えば獲物がなければ収入もゼロということである。その点は海賊と同じだが、海賊と違い、どこの国の船でも見境なしに襲うというわけにはいかない。私掠船活動は、あくまで戦争の一部なのだ。
 ところで、赦免を受けて陸に上がった元海賊の連中の多くは、不満を感じていた。仕事が無いのだ。選ばなければ無いではないが、それでも充分な量ではないし、なにより海賊という自由気儘な職業に馴れてしまっている。
 金も無い。海賊で稼いだ金はとっくに使い果たした。宵越しの銭は持たぬとばかりに稼ぐ端から蕩尽するのが、海賊の性である。海賊がどこぞの離れ小島に財宝を隠したというのはよくある話だが、実際にはそんな呑気なことをする者はほとんどいない。明日死ぬかもしれないのに、後生大事に金を持っていてどうするのか。
 しばらくすると彼らは、かつての生活が恋しくなってきた。
 そんな彼らが再び私掠船に乗りこんだとき、何を思ったか。
 「うまい具合に、船が手に入ったじゃねえか」
 ――エドワード・ジョーンズこと男装のメアリー・リードが憮然としているのは、そういうわけである。
 彼女の乗り組んだ私掠船でも反乱が起こり、海賊船に早変わりしてしまったのだ。どうも彼女は、そういう星の運りらしい。
 首謀者はジョー・バンスという元海賊であり、メアリーと船長を除いた他の乗組員五人も全員、進んで彼の話に乗った。彼らも元海賊だった。
 「さて、お前さんはどうするね?」
 ジョー・バンスが、カトラスの腹でメアリーの頬をピタピタと叩きながら言った。
 抵抗した船長は、今頃鮫の腹の中である。
 「もちろん、俺たちの仲間になるよな?」
 メアリーは、カトラスを意に介した様子はない。無言でじろりとジョーの顔を見る。
 〝……何だ、こいつ……?〟
 ジョーは、何か違和感のようなものを感じていた。
 虚無の深淵を覗きこんだような心地がした。
 猫のつもりでいたぶっていた相手が、実は虎だったのではないか?
 ジョーの背を、冷たい汗が流れ落ちた。
 と、不意に若者の手が持ち上がり、カトラスの刃を掴んだ。
 いくら綿の手袋をしているとはいえ、無茶である。反射的に、ジョーは剣を引いた。
 が、若者の指が落ちることも、掌が裂けることもなく、剣はピクリとも動かなかった。おそろしい力だった。
 メアリーは、怒ったような顔で、じっと前を、いや、空を見つめていた。
 事実、怒りに似た思いがあった。
 こうも好き勝手に人の運命を弄ぶ権利が、世界にはあるというのか。
 気に入らなかった。
 「はっ、離せっ、このっ!」
 ジョーが躍起になって引いていると、
 「いいだろう」
 メアリーがぼそりと言った。
 「え?」
 手を離した。ジョーが尻餅をついて倒れた。
 メアリーは、ジョーを見おろし、
 「全世界に、宣戦布告してやろうじゃねえか」
 昂然と言い放った。

 「くそったれ」
 ジョー・バンスが、ラムを呷りながら吐き捨てた。
 海賊に戻ったはいいが、それから二週間以上、獲物の影すら見ないのである。
 くさる仲間たちをよそに、メアリーは一人、黙々と銃の手入れをしていた。
 「見つけたぞ! 補給船だ!」
 見張りについていたハリー・ヘイズが声を上げた。
 ジョー・バンスが、テーブルを蹴飛ばして立ち上がった。
 甲板に出てみると、二時の方向に、小さな船影が見えた。スループ船である。
 「よし、野郎共、配置につけ! ダンスの時間だ!」
 ジョーの号令で、海賊たちは配置についた。
 獲物を油断させるために七人のうち三人は舷側に身を隠し、残りの四人は水夫のふりをした。マストにはスペイン国旗が揚げてある。
 「へへ、こいつで、銃は頂きだぜ」
 舷側に背を預けながら、ハリー・ヘイズが嬉しそうに言った。
 獲物の第一発見者には、その船で得られた最高の銃が与えられることになっているのだ。
 メアリーの乗る船が、海面を滑るように獲物に近付いてゆく。
 獲物には、英国旗が掲げてあった。
 舷側から顔を半分だけ出して獲物を見ていたメアリーは、妙だな、と思った。
 遅すぎる。
 相手のスループ船は、こちらのスノー船よりだいぶ速いはずだ。
 〝もしかして……〟
 気をつけろ、とメアリーが言いかけたとき、獲物の英国旗がおりてゆき、かわりにするすると揚がるものがあった。
 「あいつは……!」
 瞬間、獲物の大砲が轟然と火を噴いた。
 砲弾は風上に落ち、飛沫がメアリーの顔を叩いた。
 獲物のマストに翻っていたのは、海賊旗であった。
 〝陽気な(ジョリー)ロジャー〟という名を持つこの旗は、別名黒旗、あるいは死の王の旗とも呼ばれ、一般的には黒地に頭蓋骨と交叉させた大腿骨を白く染め抜いたデザインになっていた。海賊の象徴のようなイメージが強いが、この意匠自体は、死のシンボルとして、当時は墓石にも普通に彫られたような、ごくありふれたものであった。もちろん「逆らえばお前もこうなるぞ」という恫喝の意味がこめられているのだが、裏には、「俺たちはいつでも死ぬ覚悟ができているのだぞ」という、死線に生きる男たちのある種の矜恃も含まれていた。
 海賊旗の意匠は幾種類かあるが、今、メアリーの眼前に翻るそれは、大腿骨のかわりに剣が描かれていた。
 「なんでえ、お仲間かよ」
 ジョーは気の抜けた声で言うと、礼砲を指示した。
 こちらも海賊旗を掲げ、相手の風下遠方に向かって砲撃を行う。
 メアリーたちが同業者と知った相手も、同様にして答礼した。
 両船からボートが降り、中間の海上で船長同士が挨拶を交わした。
 「よう兄弟、俺は船長のジョー・バンスってんだ。よろしくな」
 ジョーは右手を差し出した。
 「船長のジョン・ラカムだ。こちらこそよろしく」
 ラカムが手を握り返す。
 「ジョン・ラカム!? もしかしてキャリコ・ジャックか!? こりゃ凄え、あんたみてえな有名人と会えて嬉しいぜ」
 ジョーは、大袈裟に腕をひろげた。
 ほう、こいつが、とボートに同乗していたメアリーは思った。
 ジョン・ラカム――キャラコ(薄く光沢のある綿布)のジャケットとズボンをいつも着ているので、キャリコ・ジャックと呼ばれている男だ。なるほど、キャラコの服を着ている。
 この界隈では知られた男だが、メアリーは、派手な男だ、という以上の印象は持たなかった。
 「噂では、先日赦免を受けたと聞いたが?」
 メアリーが言うと、
 「男の仕事が恋しくって、自由の海に戻ってきたのさ」
 「ふうん」
 ラカムのにやけた笑みが、メアリーの癇に触った。
 そらしたメアリーの眼が、ふと、ラカムの背後の男にとまった。
 「あんた……」
 「え?」
 と相手がメアリーを見た。
 女じゃないか、と言いかけて、メアリーはやめた。
 男装してはいるが、確かに女だ。他の連中は気付いていない様子であったが、メアリーの眼には一目瞭然であった。
 普通、海賊船に女は乗せない。船員同士の争いの種になるからだ。
 だから彼女を見て驚いたのだが、考えてみれば自分がそうなのだから、他にもそういう者がいても不思議ではない。
 「いや……なんでもない。エドワード・ジョーンズだ。よろしく」
 メアリーは右手を差し出した。
 「ボン・スチュアートだ」
 相手が手を握り返した。
 ボン・スチュアート――本名アン・ボニー。
 メアリーとともに後の歴史に名を残す、女海賊であった。

 ジョーとラカムらの一行は、双方とも人員不足で難渋しているという事情から、行動を共にすることになった。
 ジョーたちがラカムの船に移り、乗っていた船は沈めた。
 海賊船の役職には、船長、砲手、甲板長、船大工、操舵手などがあるが、話し合いにより、船長はジョン・ラカムとなり、ジョー・バンスは操舵手と決まった。
 メアリーが船首でボンヤリと海原を眺めていると、ジョン・ラカムとボン・スチュアートことアン・ボニーがやって来た。
 「よう、エドワード、だったな。飲るかい」
 ラカムは、ラムの入った革の袋を振ってみせた。
 「もらおう」
 メアリーは袋を受け取ると、飲み口に口を当てて呷った。
 首に巻いたスカーフから覗く喉の白さが、アンの眼に眩しかった。
 メアリーは、あまり酒が好きではなかった。彼女にとって酒とは、愉しむものではなく憂さを紛らわせるものなのだ。が、仲間といるときは、極力飲むようにした。海賊船では、酒を飲まないと、しばしば軽侮されたり要らぬ懐疑を招いたりするからだ。
 「いい船だな」
 メアリーが言った。
 船脚が軽く、水を裂くように進む。これだけ速い船というのは、メアリーは初めて見た。
 「そりゃそうだろう。なんたって、あのジョン・ヘイマンの船だからな」
 ラカムが得意気に言う。
 「なに!? サブリナ号か」
 「今は改名して、ゴールデン・グローリー号だがな」
 ジョン・ヘイマンといえば、この辺りではちょっとした有名人であった。
 プロヴィデンスの近くの小島に家族だけで住んでいる男で、理由は知らないがスペイン船を専門に襲撃するという。が、有名なのはそのためではなく、その船の快速のためであった。海賊(パイレート)というよりも、一昔前のバッカニアと呼ばれる男達の生き残りというのが、メアリーの印象だった。
 ラカムはその快速スループ船サブリナ号を、夜陰に乗じて奪取したというのだ。
 「こいつの下調べが精確だったおかげで、完璧な襲撃計画が立てられたんだ」
 と、ラカムは背後のアンを指さした。
 「ほう」
 「勇気と無謀を履き違えてる奴が多いがな、大切なのはここさ」
 と、ラカムは人差し指でこめかみをトントンと叩いた。
 「なるほど」
 メアリーは興味なさそうに言った。
 この手のセリフを吐く奴は、小利口の鼠輩と相場が定まっている。
 海に視線を戻したメアリーの眼が、すっと細くなった。
 「船だ」
 ぼそりと言った。
 「何?」
 見ると、遠くに小さな船影が見える。ラカムはにやりと笑った。
 「おい、野郎共、集まれ! 勘定に出かけるぞ!」
 と、声を張り上げながら船室へ向かう。
 アン・ボニーは、エドワードの顔を見て、ぎくりとした。
 たいがい仏頂面のこの男の口元に、凄惨な笑みがへばりついていた。
 眼が濡れたように光っている。
 およそ恐れというものを知らぬアンが、気圧された。
 この男を敵に回したら、果たして自分は生きていられるだろうか――。
 海賊船には似つかわしくない、理知的な男という印象を抱いていたが、やはり海の男だったということなのだろう。
 人として大事な何かが、間違いなく壊れていた。

 メアリー達の船は獲物の後方に回ると、ゆっくりと近付いていった。
 海賊の襲撃は、ネコ科の肉食獣の狩りに似ている。そろそろと獲物の背後に忍び寄り、ある距離まで近付くと、一気に襲いかかる。
 追跡は夕に始まり、夜のうちに距離を詰め、未明、行動が開始された。
 獲物はオランダのブリガンティン船だった。
 直前まで気付かれることなく接近することには成功したが、大砲の一斉射撃から接舷し乗りこむと、相手は猛烈な反撃に出た。どうやら密輸船だったらしく、荒事にも慣れているようだ。
 激しい銃撃戦が展開された。
 メアリーが驚いたのは、アン・ボニーの働きであった。
 そこらの男どもより、はるかに使える。腕もなかなかだが、なにより度胸がいい。
 自分には弾が当たらないという信仰でもあるらしく、弾雨に全身を曝して平然としていた。そして不思議と、弾丸のほうでもアンをよけていくようであった。
 アンの働きはめざましいものがあったが、いかんせん火力が違った。
 メアリーたちは、徐々に劣勢に追い込まれていった。
 メアリーがマストの陰で銃に弾をこめていると、凭れかかってくる者があった。
 「おい……?」
 男は、そのまま力無く頽れた。
 顔の半分を吹き飛ばされた、ジョー・バンスであった。
 ハリー・ヘイズは、それを見た瞬間、頭にかっと血がのぼった。
 「ちくしょう!」
 あっ、と止める間もなく飛び出した。
 次の瞬間、全身に銃弾を浴び、ヘイズがメアリーの足元に倒れこんだ。
 不幸なことに、ヘイズはまだ息があった。
 「エド……ワード……ら、楽に……して、くれ……」
 メアリーは、無表情に銃を構えた。
 「言い残すことはあるか」
 ヘイズは微かに唇の端を歪めた。笑ったらしい。言葉はなかった。
 メアリーは、ヘイズの頭を撃ち抜いた。
 「どうせ俺達は、遅かれ早かれみな地獄行きだ。先に行って待ってろ」
 言う間にも、ヘイズの後を追う者が続出した。
 相手は武装した者が五十名以上、対するこちらは二十名にも満たない。長引けば不利なことはわかりきっていた。
 「エドワード」
 ラカムとアン・ボニーが、背を屈めてメアリーの所にやってきた。
 「どうにもうまくねえな。そろそろ退くか」
 駄目だなこいつは、とメアリーは思った。
 船長の口から出るべきは決断だけだ。部下に相談してどうするのか。
 「まだ早い。ボン」
 「ん?」
 「俺が出る。掩護頼む」
 「わかった」
 アンはにやりとしぶとい笑みを浮かべた。
 メアリーがマストの陰から飛び出した。
 同時に、アンの銃口が火を噴く。
 メアリーは、舷側に向かって走ると、その側面を蹴って駆けた。
 思いがけぬ動きに、敵の銃口が泳ぐ。
 一発の銃弾がメアリーの脇腹を浅く抉ったが、彼女は構わずに駆け抜け、一気に敵の背後に回りこんだ。すぐさま剣を抜き、敵集団に飛びこむ。
 近接戦闘では、銃よりも剣の方が威力を発揮する。メアリーの剣風の前に、たちまち四人の敵が倒れた。
 ヒュウ、とアンが口笛を吹いた。 
 敵は銃で応戦したが、同士討ちを誘い、大混乱に陥った。
 「今だ、野郎共、突っこめ!」
 腹を食い破られた敵は、海賊達が一斉に襲いかかると、総崩れになった。
 後は、一方的な殺戮だった。
 二十分後、甲板上は血の海になっていた。
 「よし、後はお宝を頂くだけだぜ!」
 興奮したアンが船室に続く扉を開けた瞬間、剣が飛び出してきた。
 中にまだ、敵の生き残りが隠れていたのだ。
 アンの胸が刺し貫かれたと見えたその時、敵の剣尖がはね上げられ、天井に突き刺さった。
 何者かののカトラスが、横から弾いたのだ。
 その人物は、アンの体を突き飛ばして敵の前に出ると、無造作に敵の胸を刺した。
 剣を抜くと、血が噴出し、敵は声もなく倒れた。
 アンは、床に座りこんだまま、自分を助けた者の背中を茫然と見上げていた。
 「大丈夫か」
 振り向いたその顔は、湯に浸かったように返り血に塗れ、紅く染まった髪はよじれ、その先から血が玉となって滴っていた。
 エドワード――メアリーであった。
 「……あ、ああ」
 「迂闊だぞ」
 言いながら、メアリーは手を差し伸べた。
 アンは、その手を握って立ち上がった。
 アンの顔は、紅潮していた。

 困ったことになった。
 さきの一件以来、アンのエドワード――メアリーを見る目つきがおかしい。
 彼女の危機を救ったことが、はからずも彼女の心を奪う結果になってしまったようだ。
 そのうち、
 「おまえら、できてんのか」
 と仲間達がからかうほどに、あからさまに近付いてくるようになった。
 かてて加えて、ラカムのメアリーを見る目つきまでおかしくなってきた。こちらには、明らかに嫉妬の色が含まれていた。
 ははあ、とメアリーは事情を察した。
 全く、頭を抱えたいような気分であった。
 そうして、ついに恐れていたことが起こった。
 ある夜、アンがメアリーのベッドに忍びこんできたのである。
 「おい、俺はそんな趣味はないぞ」
 メアリーはとぼけようとしたが、通用しなかった。
 「いいんだよ、それで。ほら」
 アンはメアリーの手を取ると、自分の胸に導いた。
 嬉しくもない隆起があった。
 「わかるだろ? あたしは女なんだよ」
 アン・ボニーは、大柄な女だった。
 太り肉というよりも、骨が太いという印象を与える体つきをしている。
 髪は黒髪。肌は灼けた赤銅色。
 顔の部品も全てが大ぶりで、とくに口の大きさが際立っていた。美形というわけではないが、下品と紙一重の野性的な魅力があった。
 声も野太く、男装をしていなくても首から上だけを見れば充分男に見えた。
 その女が、今、メアリーに迫っている。
 「待っ……!」
 言おうとする口を、アンの唇がぬめりと塞いだ。
 首に腕を回された。
 凄い力だ。
 歯の間を割って、アンの舌がねじりこむように入ってきた。
 メアリーの口内を蹂躙しながらも、アンの眼はかっと見開かれたままだった。濡れて、爛々と輝いている。火がついていた。
 メアリーは、肉食獣に襲われる草食獣の気持ちを知った気がした。
 歯茎の裏までたっぷりとねぶられた後、メアリーはようやくアンを引き離すことに成功した。
 「ちょ、ちょっと待った!」
 「なんだい、待てないよ。あたしが嫌いかい?」
 「そうじゃなくて――」
 言ってから、しまった、と思った。
 「だったら、いいじゃないか」
 アンの顔が近付いてくる。
 メアリーはアンの肩を必死で押さえると、覚えず言っていた。
 「あたしも、女なんだ!」
 アンは、きょとんと目を丸くしたあと、
 「そんなに、あたしのことが嫌いかい……?」
 悲しそうに言った。
 どうやら、断るための嘘と思ったらしい。
 「そうじゃなくて……」
 「だったら何? 誰かいい娘でもいんのかい?」
 「だから……」
 「かまわないんだよ、あたしは。体だけでも。ね、試してみてよ。あたし、すっごいんだよ。絶対気に入るからさ」
 そう言うと、アンはメアリーの右手の人差指を口に含んだ。
 「う……っ!」
 人差指から送りこまれる舌技の感触に、メアリーは思わず声をもらしそうになった。
 メアリーとは、場数に天地の開きがあるのだろう。確かに、すごいものを持っていそうであった。
 押し寄せる快感の波に抗いながら、メアリーはどうにか指を引き抜いた。
 「待てって」
 「なに、よくなかった?」
 「そうじゃなくて……」
 「もしかして、あんた、ホモ?」
 「だから、あたしは女だって言ってるだろ」
 「まさか。こんないい男が女のはずないさ」
 アンは一笑に付した。
 処置なしである。
 やむなく、メアリーは証拠を見せることにした。
 シャツの前を開き、寝るときも外さないサラシを取ると、驚くほど豊かで真っ白な双丘がこぼれた。
 同時に、アンの顎も落ちた。
 固まった。
 どれほどそうしていただろうか。
 「……そうかい……」
 アンは、長い、本当に長い溜息をついた。憑物の落ちた顔をしていた。
 「まあ、ついてないんじゃ、仕方がないよねえ」
 しみじみと言った。
 だますつもりはなかった、とは言えないメアリーは、
 「悪かったね」
 とだけ言った。
 「ま、お互いさまだからね」
 「何故、男装してまで船に? やっぱり、ラカムといるため?」
 「気がついてたのかい?」
 「なんとなくね」
 「まあ、そうなんだけどね。でも、ガキの頃のクセもあったのかな。別に陸で待ってても良かったんだし」
 「ガキの頃のクセ?」
 「まあ、いろいろあってね」

 アン・ボニーは、一六九四年、アイルランドのコーク州で生まれた。
 弁護士の父親が女中であった母親に産ませた、不義の子である。この浮気が原因となって、父親とその正妻は別居することになった。
 まずいことに、彼の実母が正妻の味方についた。そして、遺産を全て正妻と、彼女が産んだ二人の子供に譲って、他界してしまったのである。
 生活費の大部分を実母に頼っていたアンの父親には、これは大打撃であったが、正妻は天使の如き優しさを発揮し、別居中の夫のために毎年いくばくかの金を送った。
 そんな生活が五年ほど続くと、父親はアンをひきとって一緒に暮らしたいと思うようになった。しかし、そんなことを彼の正妻が知ったら、ただで済むはずがない。
 そこで、アンの父親は彼女に男の服を着せ、親戚の子供と偽って育てることにした。
 しかし、そんな嘘はすぐにばれる。天使の優しさにも限度はあり、送金は打ち切られた。
 結局、父親はアンと母親を連れ、カロライナへ渡った。
 幼い頃男として育てられたせいかはわからないが、長じたアンは、男まさりの気性の烈しい女になっていた。ついでに、男の出入りも激しかった。父親はどうにかこのじゃじゃ馬娘を落ち着かせるため、良い夫をあてがってやろうともしたが、奮闘努力もむなしく、アンはジェームズ・ボニーなどというどこの馬の骨ともわからぬ男と結婚してしまい、勘当同然で家を追ん出た。
 二人は、プロヴィデンス島に渡った。
 ジェームズは、以前は海賊だったが赦免を受け、今はまっとうな船乗りをやっていた。
 しかしアンは、まっとうな男の手におえる女ではなかった。結婚しても男癖の悪さは治らず、次々と浮気をくり返した。
 そうして、ジョン・ラカムと知り合ったのである。
 二人はジェームズにアンとの離婚を迫ったが、この話を総督が耳にし、アンとラカムの不品行の数々を知ると、アンの離婚を禁じ、もし離婚などしたら二人とも牢にぶちこんで、鞭打ちの刑に処してやると通告した。
 これに対するアンとラカムの答えは、ジョン・ヘイマンのスループ船奪取であった。
 つまりは、駆け落ちである。

 「あんたは、どうして男装を?」
 今度はアンがきいた。
 「似たようなもんさ。あたしも、ガキの頃から男として育てられてね。もっとも、あたしの場合、人生のほとんどを男の格好して過ごしてきたんだけどね」
 「どうりで、男っぷりがいいわけだ」
 アンはくすくすと笑った。
 「それにしても惜しいなあ。本当に、あんたが男だったら良かったのに」
 「ついてなくて悪かったね」
 「いや、この際、ついてなくてもいいや。ねえエディー、いや、メアリー、しようよ」
 アンはメアリーにしなだれかかってきた。
 「ちょ、ちょっとよしてよ。それこそ、そんな趣味はないんだからさ」
 「ふふ、冗談だよ」
 アンはメアリーに軽くキスをすると、
 「おやすみ」
 とベッドに潜り込んだ。

 翌日、アンとメアリーは、ラカムの船室に呼ばれた。用件は、訊くまでもなかった。アンがメアリーの部屋から出てくるところを、誰かが見ていたのだろう。
 部屋の中には、剣呑な香りが充満していた。火薬庫の中に、火打石(フリント)を抱いて立っている気分である。ちょっとの刺激でも爆発しそうであった。
 「あー、てめえら、その、あれだ……」
 気持ちが昂ぶり過ぎているためだろう、ラカムは、なかなか言葉が出てこないようであった。
 眼が、半分イッている。
 メアリーは、先手を打った。
 「はじめに言っとくけど、あたしは女だからね」
 二拍の間を置いて、
 「……あ?」
 とラカムは言った。
 「これが証拠よ」
 とメアリーはシャツの前を開け、胸の谷間がわかるところまでサラシをめくってみせた。
 あまりの展開に、ラカムは言葉を失っていたが、やっとのことで、
 「……そうか」
 と、間の抜けた声をしぼり出した。
 「だからね、アンとは、あんたが考えてるようなことは何もなかったの。わかった?」
 と、ラカムには、新たな疑念が浮上したようであった。
 「おい、おめえ、本当に何もなかったんだろうな?」
 とアンに向かって言った。
 「あんた、あたしがどれだけ男好きかって知ってるでしょ?」
 アンは、自慢にもならないことを堂々と言った。
 「それもそうか」
 ラカムは、あっさりと納得した。
 しかし、メアリーが退室した後も、ラカムは、疑念は晴れたが、釈然とはしないようであった。
 俺は、女に愛人を寝取られそうになったのか?
 そう言っている顔である。

 互いの正体が発覚して以来、アンとメアリーは、親友と言っていいほどに親しくなっていた。
 メアリーのみたところ、アンはさっぱりとした気持ちのいい性格で、友人とするには素晴らしい相手であった。ただ、自分が男だったら、こういう気の多い女とは絶対つきあいたくない、とも思ったが。
 それから暫く、彼らは海賊の仕事に励んだ。
 メアリーとアンの働きはぬきんでており、剣をとっても銃をとっても二人に敵う者はなく、真っ先に敵船に斬りこむのも、最も勇敢に戦うのも、常にこの二人であった。
 そのうち、アンの腹が大きくなってきた。
 時期からしてラカムと知り合う以前の種だが、なにしろアン・ボニーという女のことだけに、父親を特定することは困難であった。
 アンとメアリーとラカムは三人で相談して、他の仲間がアンの正体に気付かぬうちに、キューバに住むラカムの知人にアンを預けることにした。
 「元気な子を産むんだよ」
 別れ際、メアリーは言った。
 「女の子だったら、メアリーって名付けるよ」
 「やめときな、ロクな人間にならない」
 「そんなことないさ。きっといい女になるよ」
 「男だったら、もちろんジョンかジャックだよな」
 ラカムが口を挟んだ。
 「男の子だったら、エドワードにするよ」
 「おいおい」
 こうして、彼らはアンと暫し別れることになった。
 すると、想像した以上に寂しいと感じている自分を発見し、メアリーは驚いた。アン・ボニーは彼女にとって、自分が思うよりもはるかに大きい存在になっていたらしい。
 気分も沈みがちなある日、捕らえた船に乗っていたジョン・ブラウンという男が、エドワード――メアリーに訊いたことがあった。
 「おまえさん、なんで海賊なんかやってるんだね」
 「あん?」
 「みたところいい男なんだから、他にいくらでも仕事があるだろうに、なんでよりにもよって、常に死の危険と隣り合わせで、運良く生きのびて陸に上がっても、捕まったら今度は絞首台が待ってるような、そんな稼業を続けてるんだい?」
 気分のささくれ立っている彼女には、面倒くさい質問であった。彼女は投げやりに答えた。
 「縛り首なんか大したこっちゃねえよ。それがなきゃあ、どんな臆病者だって海賊になっちまって、海が海賊で溢れちまう。そうすりゃ商人も俺たちも干上がっちまって、みんな仲良く野垂れ死にだ。縛り首大いに結構、バンバンザイだね」
 神ならぬ身のメアリーには、この時のどうでもいいような会話が、のちに重要な意味を持ってくることなど、知る由もなかった。
 もしも半年後に同じ質問を受けていたら、彼女はこう答えていただろう。
 全くその通り。本当は、一刻も早く海賊をやめたいと思ってるんだ、と……。

 一七二〇年三月――事件が起こった。
 ラカムら一行は、相変わらず西インド諸島近海を航行する船を襲っていたのだが、そうした船の一つに、ウォルター・スコットという名の若者が乗っていた。
 青白い顔をした線の細い青年であったが、医学の心得があるということで、ラカムらは彼をむりやり仲間に引き入れた。
 当時、医者は、どの船でも欲しがる貴重な存在であった。なにしろ、腕や脚が簡単になくなる稼業である。
 数日後、仕事中に珍しく怪我をしたメアリーは、この新参者のもとを訪れた。
 ひ弱そうな男だ、というのが、メアリーのウォルターに対する第一印象であった。
 腕の刀創を診てもらっていると、
 「女の人みたいな腕だね」
 ウォルターが、突然どきりとすることを言った。
 メアリーは、反射的に腕を引っこめていた。
 そうだった。普段は、体毛の薄さから女であることが発覚するのを恐れて、常に長袖長ズボンを着ているのである。そのため、顔以外の肌は、驚くほど白く滑らかで美しいのだった。
 「あ、まだ……」
 「うるせえな、いいよ、もう」
 わざと荒々しく言う。
 ウォルターは、しまった、と思った。
 男に向かって女みたいな腕だなど、侮辱以外の何物でもあるまい。
 「ごめん、そういうつもりじゃないんだ。ただ、本当にきれいな肌だったからさ」
 と、フォローになってないことを言う。
 「うるせえ!」
 叩きつけるように言って、メアリーは去って行った。

 数日後、昼食時にメアリーが甲板に座ってパンをかじっていると、ラムの入った革袋とパンを手にしたウォルターがやって来た。
 「ここ、いいかな」
 とメアリーの隣を指す。
 「だめだ」
 メアリーは即下に言った。
 「どうして?」
 「理由が必要か」
 「僕のことが嫌い?」
 「ああ、嫌いだね」
 「僕、何か君の気に障ることをしたかい? こないだのことかな?」
 「そんなんじゃねえよ。ただ、おまえみたいな青っちろい奴は大っ嫌いなんだ。ただそれだけさ」
 「……そうか」
 ウォルターは、おとなしく帰っていった。背中が寂しげであった。
 少し可哀想な気もしたが、仕方がない。
 医者は苦手なのだ。いつ自分の正体がばれるともしれない。
 翌日。
 同じことが起こった。
 ウォルターがやって来て、メアリーが追い払う。
 そのようなやりとりが、以降も繰り返された。
 メアリーが場所を変えても、ウォルターはついてきた。
 「勝手にしろ」
 七日目、メアリーがついに折れた。
 ウォルターは、ひまわりが咲いたような笑顔を満面に浮かべた。嬉々としてメアリーの隣に座った。
 可愛い奴だ、と認めざるを得ない。
 「どうして、俺につきまとうんだ」
 「だって、この前みたいなことが起こったら困るからね」
 「この前?」
 「つまり、君が大きな怪我をしたとき、治療をさせてもらえないんじゃ困るだろ?」
 「放っときゃいいじゃねえか」
 「そうはいかないよ。死んだらどうするんだい」
 「死にたい奴は死なせとけばいいのさ。どうせみんな悪党だ」
 「それは違う」
 ウォルターは、きっぱりと言った。
 「誰を生かして誰を殺すのか、それを決める権利なんか、医者にはない。裁きは、司法と神の手に委ねるべきものだ。医者にできるのは、ただ治療することだけさ」
 ほう、とメアリーは微笑した。
 いっぱしの口を叩く。
 「だから、君が怪我をした時は、たとえ君がいやがっても、僕は君を治療するよ」
 「そうかい」
 言いたいことを言ったのか、ウォルターは満足げに一つうなづくと、ラムをぐっと呷った。
 むせた。
 「飲めないなら飲むなよ」
 咳きこむウォルターの背中に、呆れながら言った。
 「飲めるさ」
 ウォルターは、もう一口飲んだ。
 たった二口で、真っ赤になっていた。
 「おまえ、年はいくつだ」
 「二十七だ」
 メアリーは驚いた。同い年ではないか。
 それで、この十代の少年のような純真さは何だろう。
 「ところで、この船は、赦免を受ける予定はないのかい?」
 「さあな。前回の赦免はもう期限を過ぎてるし、次回の赦免の話はまだ聞いてない」
 「そうか」
 ウォルターは落胆の色を浮かべた。
 「海賊がいやか?」
 「そりゃそうさ! 人を救うべき医者の僕が、人を殺す海賊の片棒を担いでるんだぜ。こいつは、ひどい喜劇だと思わないか?」
 メアリーは、呆気にとられた。
 「さっきと言ってることが違うじゃねえか」
 「違わない。目の前に怪我人がいれば、海賊だろうが山賊だろうが治療する。それが医者の義務だからだ。でも、人殺しなんか救いたくない。だったら、船をおりればいいだろう。目の前にいなければ、救わないで済むじゃないか」
 そんなことを、真っ直ぐな瞳で言ったのだ。
 メアリーは、たまらずに笑い出した。
 「何がおかしい」
 「いや、気持ちはよくわかるがな、そういうことは、大声で言わないほうがいいぜ。よく思われない」
 「そうか、気をつけるよ」
 しかつめらしく答えるものだから、ますます笑いが止まらない。
 普段、滅多に笑わないエドワードが大笑いしたというので、このことはずいぶん仲間たちの口の端に上ったものであった。

 一七二〇年四月のある日、メアリーが熱を出して倒れた。
 この報せを聞いて蒼白になったのは、ボン・スチュアートことアン・ボニーと、ウォルター・スコットであった。どちらも彼女の友人として心配したのだが、アンの場合、若干違う意味の心配も含まれている。
 ちなみにアン・ボニーは、二月に無事元気な女の子を出産し、その子をラカムの友人に預けると、再びラカムらの船に乗りこんでいた。
 倒れたメアリーは、船医室に運ばれた。
 アンもすぐに駆けつけた。
 メアリー、という言葉を言いかけてかろうじて飲み込み、
 「エド、しっかりしろ!」
 メアリーの返事はない。ベッドに横になったまま、玉の汗を浮かべている。意識がないらしい。
 「静かに!」
 ウォルターは、眼や口をのぞきこんだり、脈をとったりしていた。この時代、聴診器はまだない。
 彼の専門は外科だが、解熱の基礎知識ぐらいはある。
 「とにかく安静にして、服をとりかえないと……」
 その瞬間、
 「だめだ!」
 アンは反射的に叫んでいた。
 「だめ?」
 ウォルターは眉をひそめた。
 「服は……だめなんだ……」
 アンは、苦しげに言った。
 「このままじゃ診察もできない。それに、汗に濡れた服は体にもよくない」
 「だったら、俺がやる!」
 「何を言ってる?」
 「服をとりかえりゃいいんだろ!」
 「うるさい、ひっこんでろ! これは医者の仕事だ!」
 この若者には珍しく、声を荒げた。
 アンは、唇を噛んだ。
 メアリーの秘密は守ってやりたい。
 でも、治療も受けさせなければ。
 アンがふたつの気持ちに板挟みで動けなくなっている間に、ウォルターは手際よくメアリーのシャツを脱がしていった。
 「……?」
 手が止まった。
 なぜか、エドワードの胸に、サラシが巻いてある。
 妙だとは思ったが、治療に集中している彼は、その理由を考えることは後回しにした。
 サラシを外した。

 ――固まった。

 ひたり、とアンのカトラスが、ウォルターの首に当てられた。
 「他の連中に言ったら、俺がおまえを殺す」
 「……言わないよ」
 ウォルターは、作業を再開した。それからは、黙々と動き続けた。残りの服を脱がせ、体を拭き、額に濡れたタオルをのせ、薬草をすりおろし、調合し、エドワード――メアリーの喉に流しこむ。
 アンはその様子を、凝然とみつめていた。

 翌日、意識を取り戻したメアリーが周囲を見回すと、ウォルターは床に突っ伏して眠っており、アン・ボニーも、壁にもたれかかり、立ったまま眠っていた。
 メアリーはよく覚えていないが、ウォルターが必死に自分を治そうとしてくれていたのは、なんとなく覚えている。
 その手がとても温かかったことを、覚えている。

 メアリーは一週間ほどで体調を回復し、再び海賊業に復帰した。
 「アン」
 ある日の甲板上、メアリーがアンに声をかけた。
 「ボンだろ」
 アンが訂正する。
 二人で部屋にいる時以外は、たとえ周囲に誰もいなくても、互いを偽名で呼ぶことが、彼女たちのルールになっていた。
 「あたしは、男に惚れたらしいよ」
 アンは、飲んでいたラムを、思いっきり噴き出した。
 「鼻から出てるよ」
 「ちょっとちょっと、正気かい!? また熱でも出たんじゃないか!?」
 「かもしれないねえ」
 メアリーは口元に微笑を含んだまま、ぼんやりと海を眺めている。
 「本当なんだね」
 「うん」
 「へええー……」
 アンは、メアリーの顔をまじまじと見つめた。
 「まさか、あんたがねえ……」
 「自分でも驚いてるよ」
 「で、相手は誰なんだい?」
 「ウォルター」
 「え?」
 アンは、聞き間違えたと思った。
 「ごめん、もう一回」
 「ウォルター」
 アンは、露骨に眉をひそめた。
 「ウォルターって……え? あの?」
 「うん、ウォルター。ウォルター・スコット」
 「……冗談じゃなくて?」
 「うん」
 アンは、天を仰いだ。
 その姿勢のまま、メアリーの言葉を反芻し、理解しようとした。
 しかし、脳が拒絶するかのように、意味が入っていかない。
 だいぶ経ってから、ようやく絞りだすように、
 「あんた、趣味が悪いねえ」
 しみじみと言った。
 メアリーは苦笑した。
 「あんたにだけは言われたくないよ」
 アンは、納得がいかなかった。
 なぜだ。
 なぜよりにもよって、あんな甲斐性無しの青瓢箪なのだ。
 メアリーほどの娘の相手であれば、王侯貴族か大海賊ぐらいでないと、釣り合いがとれないと思っていたのだ。
 「どこがいいんだ、あんなやつ」
 吐き捨てるように言った。
 「なんだろう……優しいからかな?」
 言いながら、自分でもよくわからなかった。
 「優しい? ありゃ八方美人っていうんだ」
 憤然と言っても、幸せそうにへらへらと笑っているメアリーを見ていると、一人でイラついている自分が馬鹿らしくなってくる。
 「……いつからなんだいっ」
 「うーん、いつからだろう……」
 それもよくわからない。もしかしたら、初めて出会ったときから惹かれていたのかもしれないとも思う。
 アンは、どうしても納得がいかない様子であった。
 「なんていうか、ピストルでガレオン船を沈められた気分だよ」

 メアリー・リードは、一六九二年、イギリスで生まれた。
 彼女の母親は船乗りと結婚したが、彼は身重の妻を残し、消息を絶った。死んだのかもしれない。
 生まれた子は男の子だった。
 ほどなく、彼女は二人目の子を宿してしまった。相手は彼女しか知らない。彼女は不義理を隠すため、別の地へ去って行った。
 間もなく、彼女の息子は死んだ。
 そして、いれかわるようにして生まれたのが、メアリー・リードである。もちろん、その存在は秘匿された。
 メアリーの母親は、夫の母親から養育費をせびろうと思い、メアリーに亡き息子の影武者をやらせた。つまり、メアリーを男として育てたのである。
 しかし、やがてパトロンが亡くなり、金が入ってこなくなると、メアリーは十三歳でさる婦人の家へ奉公に出された。
 が、すぐにここを抜け出すと、いくつかの仕事を転々とした後、軍艦に乗りこみ、ここで船のイロハを覚えた。後に海賊になったとき、すぐに順応できたのは、このとき習得した知識と経験によるところが大きい。
 その後フランドルへ行き、はじめ歩兵連隊、次いで騎兵連隊に加わって戦争に従軍した。無論、ここでも男装をしている。そして、ここで彼女は運命の出会いをした。一人の兵士に恋をしたのである。
 初恋だった。
 思いこんだら一途な女だった。相手の男が戦地へ赴くとき、命令がなくても彼女は勝手についていき、男の身を護った。
 命懸けの恋であった。
 自らの正体を明かすと、彼女の想いは通じ、やがて彼女はその男と結婚した。二人で軍を退き、居酒屋を開いた。幸せの絶頂であった。
 が、幸福な日々は、流星のように儚く去っていった。結婚して一年と経たぬうちに、彼女の夫は病でこの世を去ったのである。
 四年間、何もやる気が起きなかった。
 恋と血でしか酔えぬ女であった。
 その恋を、喪った。
 その後、貯えも底をつき、オランダの歩兵連隊に入隊したが、
 〝自分には、血だけか〟
 と思うと、たまらなくなった。
 何か新しい生き方が見つかるのではないかと思って新天地へ向かったが、しかしそこにあったのは、やはり血と、そして、恋であった。

 夜、甲板で一人星空を見上げる、メアリーの姿があった。
 口元には、知らず微笑が浮いてしまう。
 〝もう二度と、恋なんてできないと思ってたんだけどな〟
 メアリーは、自分で自分がおかしかった。
 そこへ、ウォルターがやって来た。
 「やあ、メア……エドワード」
 「メアリーでいいよ」
 言ってから、しまった、と思った。
 自分が彼に対して特別な感情を抱いていることを、気付かれてしまうのではと思ったのだ。
 「じゃあ、メアリー、その……」
 「ん?」
 「えーと……」
 と、言葉を探すようにあらぬ方を見る。
 「メ、メアリーは、一度赦免を受けたんだよな」
 「ああ。もともと好きで海賊になったわけじゃないからね」
 「だったら……!」
 「……?」
 ウォルターは、二、三度大きく深呼吸すると、覚悟を決めたように言った。
 「だったら、次に赦免の布告が出たら、一緒に船を降りないか?」
 「一緒に?」
 ウォルターは頷くと、一拍置いて、
 「僕と、結婚してほしい」
 はっきりと言った。
 ムードもへったくれもない。
 重い沈黙が流れた。
 「……いきなりだね」
 メアリーが言った。
 「ごめん」
 ウォルターにも、どうしてこんな気持ちになってしまったのか、よくわからない。
 まぶたの裏に、メアリーの白い裸身が、鮮烈に焼きついている。
 単なる性欲を、愛情と勘違いしたのかとも思う。
 しかし、エドワードだった頃の彼女と交わした会話の相手が、彼女だったのかと思うと、全てが素敵な恋の語らいだったようにも思えてくるのだ。
 都合の良い記憶の改竄かもしれない。
 しかし、所詮恋など、思いこみであろう。
 大事なのは経緯ではなく、今の気持ちだ。
 メアリーは、沈黙したまま、遠くを見ていた。
 ウォルターもまた、言葉が見つからない。
 メアリーの横顔は、どこか憂いを含んでいるようにも見えた。
 これはふられたか、とウォルターが諦めかけたそのとき、
 「一つだけ、約束して」
 メアリーが、ぽつりと言った。
 「あたしよりも先に、死なないで」
 「――」
 「死ぬ時は、あたしも一緒に連れていって」
 ウォルターは、メアリーの体を抱き寄せた。
 「約束する。決して一人にはしないよ」
 「約束だよ」
 二人の唇が、重なった。
 メアリーは、恋をしていた。

メアリーの恋は、相変わらず一途で、命懸けであった。
 ある時、ウォルターが、仲間の一人と口論になった。
 ウォルターとメアリーの仲が良すぎることについて、からかったのである。メアリーが男だと思っているのだから、無理もない。自分の悪口を言われているぶんにはウォルターも構わなかったのだが、メアリーに対する侮辱の言葉については、誤解とわかっていてもなお、聞き捨てならなかった。理屈ではない。
 船上での揉め事は御法度である。喧嘩が起きた時は、近くの島におりて、剣とピストルで決着をつけるのが彼らの慣わしであった。二人は、決闘することになった。
 この話を聞いた時、メアリーは「バカか」と吐き捨てた。相手のムーディーという男は、数々の死線をくぐり抜けてきた強者である。ウォルターが十人いたって、勝てる相手ではない。
 すぐさまメアリーはムーディーのもとへ向かうと、いきなり急所を蹴り上げ、倒れたムーディーの顔へ唾を吐きかけた。
 「何しやがる」
 床に這いつくばり、脂汗を浮かべながら、ムーディーはメアリーを睨め上げ、呪詛のような声を絞り出した。
 「これでもわからないバカか、おまえは。喧嘩を売ってるんだ」
 理不尽もいいところだが、メアリーにとっては、ウォルター以外のことはどうでもいい。
 当然、決闘ということになった。
 メアリーは、その開始時刻を、ウォルターのそれより二時間前に指定した。
 二人は形式に従って小島へおりると、背中を向け合う形で十メートルほど離れて立った。
 立会人は、操舵手のリチャード・コーナーである。
 彼の銃声を合図に、メアリーとムーディーは振り返り、ピストルを撃ち合った。
 双方外れた。
 すかさず両者はカトラスを抜いた。
 勝負は一瞬でついた。
 踏みこんで突こうとしたムーディーに対し、メアリーは剣先で足元の砂をはね上げた。
 「うぐ……っ!?」
 視界を奪われムーディーがひるんだ隙に、メアリーは、ひゅん、と剣を横に払った。
 軽く素振りをするような、何気ない動きだった。
 メアリーが一歩離れると同時に、ムーディーの頸から扇状に血が噴き出し、ムーディーは倒れた。
 船に戻ると、ウォルターがメアリーのもとに駆け寄った。
 「よう、ウォルター。悪いが、ムーディーの野郎は俺が先にいただいたぜ」
 メアリーは、仲間達の手前、抱きつきたい気持ちをぐっと堪え、笑みを浮かべてみせた。
 ウォルターの顔は、複雑だった。
 メアリーの無事を嬉しく思う反面、自分の軽率な行動が彼女を危険に巻きこんでしまったという苦い気持ちと、何もできぬ己に対する不甲斐なさ、無力感。
 平和を愛し、力を否定してきたが、今、彼は、力が欲しいと痛切に思っていた。
 誰も護れなくてもいい。ただ一人、メアリーを護るためだけの力を。
 一方、メアリーは、思いつめるウォルターをよそに、満足していた。
 ウォルターさえ無事なら、それでいいのだ。
 身を賭して愛する人を護ることは、彼女にとっては当然のことであり、その為に死しても些かの悔いも無い。それは彼女にとって、覚悟をするほどの必要さえ無い、呼吸をするようにごく自然なことなのであった。

十一

 一七二〇年十一月二日――カリブの空は、ひどく澄んでいた。
 「船影を発見。スループ船です」
 報告を受けたジョナサン・バーネットは、唇の端を吊り上げた。
 「見つけたな」
 動物的な勘を有つこの男は、それが探していた相手であることを直感していた。
 バーネットは、私掠船の船長として有名な男であったが、今は、海賊の探索にあたっていた。
 少し前、オチョ・リオス湾の海岸でカヌーが海賊に襲われるという事件があり、報告を受けた総督ニコラス・ローズが、経験豊富なバーネットに海賊捕縛の任を委託したのである。海軍が弱腰で、全く役に立たないからだ。
 こうしてバーネットは武装スループ船グレイハウンド号を駆り、まさに猟犬となって獲物を探していたところであった。
 バーネットは、船首に立った。
 四十代半ばだろうか、獅子に似た体躯をしており、獰猛な精気を身に纏った男だった。
 「どこだ」
 「一時の方向です」
 バーネットは、望遠鏡を覗きこむと、猛禽類を思わせる眼を細めた。
 島に重なって、小さな船影が見える。
 「ネグリル岬だな」
 ぼそりと言うと、バーネットは踵を返し、簡潔に指示を出した。
 狩りを開始する、と。

 その頃、ジャマイカ西岸のネグリル岬では、ラカムら一行が酒宴を開いていた。
 船には、たまたま近くを通りがかったプティオガ船の乗組員九人の姿もあった。
 彼らにとっては甚だ迷惑な話であったが、ラカムが気紛れに船上に招いたのである。
 「ウォルターのお母さんって、どんな人?」
 酒宴の輪から離れた舷側で、ウォルターとメアリーが話していた。
 「普通だよ。優しくて、明るくて、時々少し口うるさい、普通の母親」
 「ふうん」
 「メアリーのお母さんは?」
 「どうだろう……よく覚えてないんだけど、あんまりいいイメージは無いね」
 というよりも、狭い部屋に閉じ込められていたことと、男の服を着せられていたという記憶くらいしか残っていなかった。なにしろ、子供を生活費を稼ぐための道具としか思っていないような母親だったのだ。親の愛情を知らずに育った。
 「まあ、ガキの頃別れてそれっきりだから、生きてんだか死んでんだかもわかんないけど」
 「……そう、か」
 「だからね」
 「ん?」
 「少し怖いんだ……母親ってものをよく知らないから、自分がいい母親になれるのかどうか……自信無い」
 「大丈夫だよ。メアリーなら、きっといい母親になれるさ」
 「なれるかな」
 「うん、きっとなる」
 その自信はどこから来るんだ、とメアリーは内心苦笑しつつ、
 「そうだね、なりたいな」
 「うん」
 「……きっとなる」
 ウォルターは、おや? と思った。
 なんともいえない柔らかい空気が、周囲を包んでいた。
 何だ、この空気は?
 予感めいたものがあった。
 「……もしかして?」
 ウォルターがメアリーの腹を指さすと、メアリーはこくりと頷いた。
 頬が、桜色に染まっていた。
 ウォルターは、しばらく惚けたように口を開けたまま突っ立っていたが、やがて体が震え出し、
 「すごいぞ、メアリー!」
 叫ぶやいなや、メアリーに抱きついた。
 いや、抱きつこうとしたが、出来なかった。
 この行動を予想していたメアリーが、ウォルターの両腕を掴んで制止していたのだ。
 「飲み過ぎだぜ、ウォルター。俺はエドワードだ」
 抱き締められたい気持ちはやまやまだが、人目がある。船をおりるまでは、正体が発覚するようなまねは避けねばならないのだ。
 長年離れていた主人に再会した犬のように、歓喜を爆発させ、なおも抱きつこうとするウォルターを、メアリーは苦笑しながらなだめた。
 と、そのとき、メアリーの眼が、こちらへ向かってやって来る一隻のスループ船の姿を捉えた。
 ぞくり、と背を駆け抜けるものがあった。
 「ジョン!」
 「んあ?」
 甲板上で飲んでいたラカムが、濁った眼で振り向いた。
 「宴会は終わりだ! 犬が来たぞ!」
 「犬ぅ?」
 抜けた返事をするラカムの横で、真っ先に立ち上がったのはアンであった。
 「どこだ!?」
 早足でメアリーの横に来たアンは、もうベルトに差していた銃を抜いていた。
 「あそこだ」
 アンは眼を細めた。
 まだ遠く、見た限りでは軍艦かどうかは判らない。
 「間違いないのか?」
 「勘だ」
 「そうか」
 アンは、メアリーの勘を全面的に信じている。踵を返すと、ラカムの所へ戻っていった。
 「ウォルター、お前は船倉に隠れてるんだ」
 「でも、メアリー」
 「エドワードだ。大丈夫だ。いいから早く」
 渋るウォルターを無理矢理船倉に押しこみ、メアリーは首に巻いていたスカーフを頭に巻き直した。
 「こんなところで、捕まってたまるか」

十二

 ラカム達は、大急ぎで錨を引き上げ、逃走した。
 が、追手の船脚は速く、じりじりと迫ってくる。
 〝サブリナ号だったら……〟
 メアリーは思った。
 今のゴールデン・グローリー号は二代目で、かつてジョン・ヘイマンから奪った初代の方は、以前の戦闘で大破して破棄したのだった。
 今の船も遅くはないが、やはり初代とは比ぶべくもない。ラカムが脅してプティオガ船から来た客人たちにも無理矢理漕ぐのを手伝わせていたが、追手との距離は縮まるばかりであった。
 「しつけえ野郎だ」
 ラカムはいまいましげに吐き捨てた。
 やばい相手だ、とメアリーは思った。
 彼女の鋭い嗅覚は、追手の船から放たれる獰猛な気配を敏感に察知していた。
 ついに捕捉された。
 追手の船のマストには、英国旗がはためいていた。
 「くそったれ、撃て撃て!」
 ラカムの合図とともに、ゴールデン・グローリー号の大砲が一斉に火を噴いた。
 「早いよ」
 メアリーが憮然として呟くのと、
 「慌てるな、当たらん」
 追手の船長が言うのは同時だった。
 その言葉通り、砲弾は全て外れた。
 「よくひきつけてから撃てよ」
 追手――ジョナサン・バーネットは、不敵な笑みを浮かべた。
 グレイハウンド号は獲物との距離を一気に詰めると、片舷斉射を見舞った。
 ゴールデン・グローリー号のセールには穴があき、大砲も一門吹き飛んだ。
 更にバーネットは船を寄せると、大声で呼びかけた。
 「キャリコ・ジャック、ジョン・ラカムだな」
 「誰だ、てめえ」
 ラカムはどなり返した。
 「旗を見ればわかるだろう。英国王の名において命ずる。無駄な抵抗はやめて、速やかに投降せよ」
 「寝言は寝て言え!」
 言いながら、ラカムは銃を撃った。
 そう来なくてはな、とバーネットは嬉しそうに肉食獣の笑みを浮かべた。
 両船が接舷すると、鉄掛け鉤が投げられ、バーネットの部下達がゴールデン・グローリー号の甲板になだれこんできた。
 初めこそ両者の間で激しい銃撃戦が展開されたが、カトラスによる白兵戦になると、先刻まで酒盛りをして酔っているラカム達は、たちまち劣勢に追いこまれた。
 その中にあって、獅子奮迅の働きを見せていたのが、アンとメアリーの二人である。
 二人は甲板上を縦横に駆けながら、剣を揮い銃を撃ち、次々と血の雨を降らせていった。
 「ほほう」
 戦況を見つめていたバーネットは、眼を細めた。
 〝面白い奴らがいる……〟
 バーネットは、アンとメアリーを倒せば敵は瓦解すると見て、この二人への集中攻撃を指示した。
 と、そのとき、メアリーは、信じられない光景を目撃した。
 状況不利とみたラカムが、
 「こりゃやべえ」
 と船倉へ逃げ隠れてしまったのである。
 戦場において、指揮すべきはずの司令官が真っ先に逃げ出してしまったのだ。
 およそありうべきでことではない。
 これにより、彼の部下たちも元々乏しかった戦意を完全に喪失し、雪崩をうって船倉へと駆けこんだ。
 後には、アンとメアリーの二人だけが残された。
 絶句するしかなかった。
 とりわけ、アンの受けた衝撃は大きい。既に熱が冷めていたとはいえ、一度は愛した男が、自分を見捨てて逃げたのである。
 バーネットもまた、意外な展開に、肩すかしをくったような気分を味わっていた。
 狩りは、獲物が必死の抵抗をするからこそ楽しいのだ。
 軽い失望を感じつつ、バーネットはアンとメアリーの捕縛を命じた。
 しかし、二十人以上の敵に囲まれてなお、二人は抵抗を諦めなかった。
 短い茫然自失の状態から立ち直るや、アンはラカムへの怒りを叩きつけるように、敵に斬りかかった。
 メアリーもまた、自らの運命を切り拓こうとでもするように剣を揮う。
 二人の戦いは凄まじく、さらに数名の敵を倒したが、数の差はいかんともし難く、二人は徐々に追いつめられていった。
 その様子を船倉から見ていたウォルターが、思わず本名を叫んでいた。
 「メアリー!」
 「来るな!」
 メアリーは振り向きざま、叩きつけるように怒鳴った。
 「メアリー……」
 「来るんじゃない!」
 もう一度言った。
 そうだ。
 こんなところで捕まってたまるか。
 あと少し、あと少しなんだ。
 あと少しで、あたしとウォルターは船を降りて、子供と三人で幸せに暮らせるんだ。
 こんなところで……!
 歯を食い縛り鬼神と化して戦う二人の前に、さらに数名の男が血の海に沈んだ。
 と、突然強烈な斬撃を受け、メアリーは吹っ飛ばされた。
 「メアリー!」
 アンが叫んだ。
 「……大丈夫だ……」
 メアリーは咳きこみながら、剣を支えにして立ち上がった。
 腕が痺れている。
 〝ガードした剣ごと持ってかれた……〟
 心の中で呻きつつ、打ちこんできた者を睨みつけた。
 四十代半ばだろうか、射抜くような炯眼を有った大男が立っていた。
 筋肉男なら大勢見てきたが、こういう肉体は初めて見た。骨格が違うとでもいおうか。立ち上がった獅子をイメージさせる肉体であった。
 手には、狭い船上で振るにはいささか不向きと思われる大剣を握っている。
 「相手をしてもらおうか」
 男は、太い声で言った。
 「……名は?」
 「ジョナサン・バーネット」
 聞いたことのある名だった。
 「……大船長直々のご指名とは、いたみいるぜ」
 「お前の名は」
 「エドワード・ジョーンズ」
 バーネットは、小さく首を傾げた。
 「メアリーというのが本名じゃないのか」
 ぎくりとした。
 聞かれていた。
 「エドワード・ジョーンズだ」
 メアリーは、硬い声で言った。
 「まあいいさ、どうでもな」
 実際、男か女かなど、どうでもよかった。バーネットにとっては、相手が強敵でさえあればそれでいいのだ。
 この男もまた、血にしか酔えない人種であった。
 「来い」
 バーネットは、構えもとらずに言った。
 「あいよ」
 しッ、という鋭い呼気とともに、メアリーの手からバーネットの顔に閃光が疾った。
 「むっ!」
 バーネットが柄頭でナイフを弾いたときには、メアリーが懐にとびこんでいた。
 「ぬうっ!」
 戦慄を奥歯で噛み殺し、バーネットは剣を打ち降ろした。
 が、メアリーの体は既にそこにはなく、剣は空を斬るのみであった。
 バーネットの脇腹が裂け、血が飛沫いた。
 「船長!」
 「騒ぐな!」
 バーネットは、傷口を手で押さえながら、騒然としかけた部下を一喝して静めた。
 バーネットの脇を駆け抜けたメアリーは、渋い顔をしていた。
 「浅かった」
 同じ手が二度通用する相手ではない。
 ウォルターの方を見たくなる気持ちをぐっと抑え、メアリーはバーネットの方に向き直った。
 バーネットは、メアリーに眼を据えながら、呼吸を整えていた。
 内臓には達していないとはいえ、相当な痛みがあるはずだが、微塵も顔に出さない。
 「今度はこっちの番だ」
 バーネットは、鋭い踏みこみとともに、雷光のような斬撃を見舞った。
 まともに受ければ、剣ごと頭を叩き割られる。
 メアリーは剣を立て、バーネットの剣をどうにか受け流した。それでも足元がぐらつくほどの衝撃があった。
 続けざまに、バーネットが剣を揮う。
 銀色の雨が降る。
 そのどれもが、一撃必殺の破壊力を有している。
 メアリーは、防戦一方になった。
 「メアリー!」
 アンは助けに行きたかったが、できなかった。こちらも他の連中を相手にするので手一杯だ。
 メアリーはバーネットの猛攻をしのぎながら、じっと隙をうかがっていた。
 が、その隙が見当たらない。
 バーネットの攻撃は、乱暴のようでいて、実に無駄がなく洗練されていた。
 チェスのように、理詰めでメアリーを追い込んでいく。
 攻撃の間に継ぎ目がなく、反撃する前に次の打ち込みが来る。
 受け流していても、一撃一撃が重く、骨に響く。
 それでもメアリーは辛抱強く耐えながら、一瞬の好機を待っていたが、徐々に体力が削られてゆき、とうとう弾きとばされた。
 今だ!
 と、バーネットとメアリーの双方が同時に思った。
 弾きとばされたように見えたのは、バーネットの隙を誘うための擬態であった。
 待ち望んだ僅かな隙が見えたと思ったそのとき、予期せぬことが起こった。
 擬態を真実と信じたウォルターが、愛する女の危機を救うべく、甲板上に飛び出してきたのだ。
 「メアリー!」
 「バカ、来るな!」
 その瞬間、銃声が轟き、ウォルターが倒れた。
 「ウォルター!」
 メアリーは、バーネットの突きを転がってかわすと、反射的にバーネットの脛をカトラスで薙いでいた。
 すぐさま跳ね起き、ウォルターのもとへ駆け寄る。
 既にメアリーの頭から、バーネットの存在は消えていた。
 「ウォルター! ウォルター!」
 メアリーは、ウォルターの肩をがくがくと揺すった。
 「メアリー……大丈夫か」
 ウォルターは、薄く目を開けると、苦痛に顔を歪めながら言った。
 「どこだ!? どこを撃たれた!?」
 半狂乱になりながら、メアリーは傷口を探した。
 ウォルターの腿から血が流れ、ズボンを赤く蚕食していた。
 「ウォルター……血が」
 メアリーは、消え入りそうな声で言った。
 気を失いそうだった。
 「……大丈夫だ」
 「でも、血が……!」
 「大丈夫だ……僕は医者だぞ」
 ウォルターは、無理矢理笑ってみせると、メアリーの頬を撫で、ベルトで自らの脚の付け根を縛った。
 「大丈夫……人間は、これ位じゃ死なない」
 「ウォルター……」
 気がつけば、アンも後退し、メアリーの背を守るように剣を構えていた。
 「アン……」
 「やばいね……どうする?」
 アンは、前方を見据えたまま言った。
 メアリーは、ウォルターを見て、周囲を見て、それから再びウォルターの顔に視線を落とすと、
 「ウォルター」
 覚悟を決めたように言った。
 「ウォルター、聞こえる? ……ウォルター」
 「……なんだい? お姫様……」
 ウォルターは、失血のために意識が朦朧としているのを悟られまいと精一杯の気力を振り絞っていたが、あまり成功しているとはいえなかった。
 メアリーは微笑すると、優しい声で、囁くように言った。
 「よく聞いて……いいかい? あたしとあんたの関係は、秘密にしておくんだ……」
 「……何?」
 「裁判の話さ……大丈夫、あんたは無理矢理船に乗せられたんだし、仕事にも加わってないんだから、きっと無罪になるよ」
 「何を言ってるんだ、メアリー……秘密って何……」
 「言ったろう? いい母親になるって……母親が海賊だってんじゃ、子供が可哀想じゃないか……」
 メアリーはこの時、すでに自分の運命を予感していたのかもしれない。
 「メアリー、何を言ってるんだ、メアリー……」
 「大丈夫……あんたと子供の命は、きっとあたしが守る」
 「メア……リ……」
 ウォルターは、気を失った。
 「……愛してるよ、ウォルター……」
 メアリーは、ウォルターの額に、そっとキスをした。
 「挨拶は終わったかい?」
 剣を構えたまま、アンが言った。
 「ああ……ありがとう、アン」
 アン・ボニーは、ふふん、と微笑を浮かべると、剣をおろした。

十三

 一七二〇年十一月十六日、ジャマイカへ連行されたラカム一味は、セント・ジャゴ・デ・ラ・ヴェガにおいて裁判を受けた。
 ラカムの逮捕は人々を驚かせたが、それ以上に耳目を集めたのは、法廷において明らかになった、最後まで勇猛に戦った二人の強者が、実は男ではなく男装した女だった、という事実であった。
 ラカム以下九名が死刑判決を受け、後日行われた裁判でも、更に数名が有罪判決を受けた。
 ウォルター・スコットは、メアリーの言葉通り、ラカムの仲間になった経緯とその後の行動が斟酌され、無罪となった。メアリーがそれとなく援護の証言をしたことは、言うまでもない。
 メアリー・リードとアン・ボニーの両名については、日を改めて裁判が行われることになった。
 翌十七日、ラカム処刑の日の朝、アンはラカムに面会した。
 アンは会いたくなかったのだが、メアリーの勧めで、会うことにしたのだ。
 「今さら会ってどうするんだい。あんな男、面も見たくないね」
 「文句を言うだけでもいいんだよ。どんな男だろうと、お腹の子にとっては父親なんだろう? 最後に顔くらい見ておいてやんな」
 それを言われると弱い。アンの腹の中には、ラカムの子が宿っていたのだ。
 アンの顔を見ると、さすがにラカムはバツの悪そうな顔をした。
 「ドジっちまったぜ……キャリコ・ジャックともあろう者がな」
 と、自嘲するように言う。
 「あんたはドジっちゃいないよ、ジョン」
 アンは、感情のこもらぬ声で言った。あるいはそれが、最大の侮蔑の表現だったのかもしれない。
 「アン……」
 「あんたは意気地が無かったのさ。勝てない相手じゃなかった。もしあんたが男らしく戦ってりゃあ、犬みたいに首を吊られることもなかったんだ。あたしらが捕まることもね」
 ジョン・ラカムは、ポートロイヤルのギャロウズ・ポイントで処刑され、亡骸は見せしめのため晒しものにされた。
 一七二〇年十一月二十八日、メアリーとアンの分離裁判が行われた。
 二人の女性の波瀾に満ちた生涯も、ここで語られるところとなった。ただしメアリーは、彼女の愛した男の名については、ついに答えることはなかった。
 メアリーの境遇や海賊になった経緯は人々の同情を誘い、一時は無罪も有り得るかと思われたが、一人の男の証言によって、その空気は一変した。
 かつてラカムらに捕らえられていたジョン・ブラウンという男が、メアリーと交わした会話について語ったのだ。「縛り首など大したことではない」などといったメアリーの言動が、挑発的で反社会的と取られた。
 メアリー・リードとアン・ボニーには、有罪判決が下されたが、二人は妊娠中であることを理由に、刑の執行の延期を願い出た。
 事実であることが検査により確認されると、二人の請願は容れられた。
 ウォルターは、毎日のように監獄を訪れ面会を求めたが、メアリーは、知らない男だ、と一度も会おうとはしなかった。
 一七二一年四月、メアリー・リードは熱病を発し、産褥で死亡した。享年二十八歳。

 後日、父親の尽力により少し前に釈放されていたアンのもとを、一人の老婆が訪ねてきた。
 亡きメアリー・リードから、預かったものがあるという。
 手渡されたのは、生まれることなく母親とともに埋葬されたはずの、メアリーの子供だった。
 死と出産の床で、メアリーは助産婦をしていた老婆に事情を話し、子供は死んだことにして、内密にアン・ボニーにその子を渡してほしいと頼んだのだという。彼女なら、きっと悪いようにはしないからと。
 女海賊ではなく、ひとりの母親の真摯な願いに、老婆の心は動かされた。
 「あの娘は、最後までダンナの名は……?」
 「ええ、言いませんでした」
 不意に、アンは笑い出した。
 何がおかしいのかと老婆が訝しんでいると、アンの眼から、大粒の涙が零れた。
 メアリーが死んだと聞いても涙を流すことなく、弔いの酒をくらうだけの日々を送っていたアンが、初めて泣いた。
 笑いながら泣いていた。
 メアリー・リードの恋は、最後まで一途で、命懸けだった。

カリブの紅玉

カリブの紅玉

十八世紀に実在した男装の女海賊、メアリー・リードの物語です。(「小説家になろう」「ねっと小説投稿広場」等、他サイトとの重複投稿)

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  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-09-23

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

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