夏の終わりの静かな風 12

 僕と狭山さんが病室に入っていったとき、狭山さんのお姉さんはベッドを起こして本を読んでいるところだった。狭山さんのお姉さんは僕たちが病室に入ってくると、すぐに気がついて本から顔をあげ、僕たちを歓迎するように笑顔を浮かべた。

 狭山さんのお姉さんは思っていたよりも健康そうに見えたので安心した。多少頬のあたりがやつれたりはしていたけれど、髪の毛が抜け落ちていたり、極端にやせ細たりはしていなかった。

 それから付け加えて言うと、狭山さんのお姉さんも、狭山さんと同じできれいなひとだった。モデルや芸能人になれそうなほど際立って美人というわけではないのだけれど、その意志の強そうな瞳や、何気ない仕草や、ふとしたとき浮かべる表情などから、内側から伝わってくる静かな美しさを感じた。

 それはたとえば山奥を流れる澄んだ川の流れの、その水面に映りこんだ鮮やかな濃い緑の木々の葉を見ているときのような涼やかな美しさだった。

「お姉ちゃん、約束通り、吉田くんをつれてきてあげたよ。」
 と、狭山さんはお姉さんの顔を見ると冗談めかして言った。
「ほんとにつれてきてくれるとは思わんかったけど。」
 と、お姉さんは狭山さんの科白に軽く笑って答えると、改めて僕の顔に視線を向けて、
「はじめまして。狭山の姉です。・・・こんな寝巻き姿で初対面っていうのもあれだけど、いつも妹がお世話になってます。」
 と、丁寧に挨拶をして軽く頭を下げた。

 僕はそんなふうにきちんと挨拶をされるとは思っていなかったので変に緊張してしまって、「どうも。吉田です。よろしくお願いします。」
 と、いくらかぎこちなく挨拶を返した。

 そんな僕の挨拶が奇妙に感じられたのか、お姉さんと狭山さんは顔を見合わせると、噴出すようにして少し笑った。僕もつられるようにしてなんとなく小さく笑った。

「今日はわざわざお見舞いにきてくれてありがとう。ゆかりが無理やり連れてきたちゃっろ?ごめんね。」
 と、狭山さんのお姉さんは僕の顔を見ると言った。
「わたしが冗談で吉田くんに会ってみたいって言ったのを、ゆかりは本気にしたみたいやっちゃわ。」

 僕は微笑してそんなことないですよと答えると、僕も一度狭山さんのお姉さんがどんなひとなのかと見てみたいと思っていたし、お会いできて良かったですと僕は言った。

 狭山さんのお姉さんは僕の言葉にどこか安心したように微笑すると、
「ゆかりから聞いたんだけど、ほんとに吉田くんって小説書いてるの?」
 と、ちょっと改まった口調で尋ねてきた。
 僕はお姉さんの問に、「はい。書いてますよ。」と簡単に答えた。
「そっか。すごいね。」
 と、お姉さんは感激したように言った。

 僕はなんだかお姉さんに誤解を与えてしまったように感じて、
「いや、全然すごくないですよ。」
 と、苦笑して言った。
「小説書いてるって言ってもプロじゃないし・・。」
「いや、すごいよ。」
 と、お姉さんは僕の言葉を否定して言った。
「わたしも本やったら結構読む方やけど、自分で物語は書けんかいね。」
「いや、書こうと思えば意外と書けるかもしれないですよ。」
 と、僕は言った。
 
 すると、お姉さんはとんでもないというふうに首を振って、
「わたしには絶対無理やわ。想像力とかゼロやかいね。」
 と、お姉さんは自嘲気味に笑って言った。

「吉田くんってどんな小説書いてるの?」
 と、横から狭山さんが尋ねてきた。
 それで僕はお姉さんの顔に向けていた視線を狭山さんの方に向けた。 
「うーん。どんなのだろう。」
 と、僕は狭山さんの問にちょっと眉根を寄せて答えた。
「一口で説明するのは難しいけど、どちらかといえば文学ぽい感じなのかな。」
 と、僕は少し考えてから言った。

「文学っていっても色々とあると思うけど、どんな感じ?」
 と、狭山さんが続けて尋ねてきた。

 僕は狭山さんのその問にまた更に頭を悩ませてから、基本的には自分の小説を読んだひとが何かについて考えさせられたり、啓発されたり、あるいはその小説を読むことでちょっとでも前向きになれるような物語が書きたいと思っていると僕は答えた。

 でも、今のところそれが上手くいっているかどうかはわからないけどと僕は付け足して言った。

「今はどんな話を書いちょっと?」
 と、お姉さんが興味を惹かれたように尋ねてきた。僕はお姉さんの顔に視線を戻すと、
「今は花の話を書いてます。」
 と、簡単に説明した。
「僕の大学のときの友達がモデルなんですけど、その子が、色々苦労しながら冬の花を育ってるっていう話・・あんまりストーリーとよべるほどのものはないんですけどね・・でも、その主人公の女の子が色んなひとと出会って話して考えさせられたりしながら成長していくような物語にできたらいいなって考えてます。」

「へー。面白そうやね。」
 と、狭山さんのお姉さんはその瞳のなかに明るい微笑を含ませて僕の顔を見つめた。僕はちょっと照れ臭くなって軽く眼差しを伏せた。

「もし、その小説が完成したら見せよ。」
 と、お姉さんは微笑んで言った。
「郵便か何かで送ってくれてもいいし、今はインターネットもあるし、簡単に送れるちゃろ?わたし、その吉田くんの書いた小説がすごく読んでみたくなってきた。」

「いや、でも、きっとがっかりすることになると思うから、読まない方がいいですよ。」
 僕は苦笑いして言った。
「がっかりなんてせんが。絶対送ってよ。楽しみにしちょっかいね。」
 と、お姉さんは微笑みながら念を押すように言った。

「わたしも吉田くんの書いた小説読んでみたいかも。」
 と、狭山さんもお姉さんの言葉を後押しするように悪戯っぽい微笑を口元にたたえて言った。そうやってふたりに頼まれると、僕としても断り切れなくて、じゃあ、できたら送ります、と、曖昧に了解した。

 その僕の返事を聞いて、「やったー。楽しみ。」と楽しそうに話している狭山さんとそのお姉さんを見ていると、果たして自分はふたりの期待に応えられるような小説を書くことができるだろうかと今からすごくプレッシャーを感じてきて僕は不安になった。

 それから、僕がふと気になったのは、狭山さんのお姉さんの手元に置かれている一冊の本だった。ガバーはついていなかったのでそれが誰のどんな本なのかはわからなかったけれど、ページの色あせぐらいや、適度くたびれた感じから、その本がかなり読み読み込まれていて、なおかつ大切に扱われている本だということがわかった。

 それで僕が何気なくその本はなんの本なんですかと尋ねてみると、狭山さんのお姉さんは僕の顔を見て、ちょっと寂しそうに微笑すると、
「ああ。これ?これは詩集やっちゃわ。夏の終わりの静かな風っていう題名の。」
 と、教えてくれた。

 お姉さんがそう僕に教えてくれたとき、狭山さんがお姉さんの顔をどこか気遣わしげな眼差しで見つめたのが、僕はちょっと気になった。

「マリー・クロードっていうフランスの詩人が書いた本やっちゃけどね、吉田くんは知ってる?」
 僕はお姉さんの問に全然わからないというように首を振った。
「僕はほとんど詩は読まない人間だから。」
 僕が苦笑して言うと、お姉さんも軽く口元を綻ばせて、
「わたしも全然詩なんて読まん人間やったちゃけど、前付き合っちょったひとがすごく詩とか読むのが好きなひとでかいね、そのひとにオススメされて読むうちに、わたしも好きになったとよね。」
 と、お姉さんは言い訳するように続けて言った。

「どんな内容の詩なんですか?」
 と、僕は興味を惹かれて尋ねてみた。

 すると、お姉さんは僕の顔から本の上に眼差しを落とすと、少しの間どう説明したものか考えるように黙っていて、やがて顔を上げて僕の顔を見ると、
「ちょっと一口で説明するのは難しいちゃけど、なんていうか、ほんの少し哀しくて、でも、優しい詩やね。」
 と、説明してくれた。

「この詩を書いたひとは女のひとで、その作者には敬愛にするお兄さんがひとりいたんだけど・・」
と、お姉さんは言った。
「そのお兄さんは音楽がすごく好きなひとで、自分で作曲したり、歌を歌ったりしちょて・・そのお兄さんはプロのミュージュシャンになることを目指しちょったちゃけどね、でも、現実は厳しくて、なかなか音楽では芽がでなくて・・それで最後お兄さんは自分の才能のなさに絶望して自殺してしまうちゃけどね。」

「・・・何かちょっと哀しい話ですね。」
 と、僕は言った。すると、お姉さんは僕の言葉に軽く頷いて、
「それで、この夏の終わりの静かな風っていう詩集は、その死んでしまったお兄さんのことを想って書いた詩集やちゃっわ。」
 と、説明した。

「そっか。」
 と、僕はお姉さんの説明に頷きながら、何日か前に妹と交わした会話をふと思い出した。
「でも、なんで夏の終わりの静かな風っていうタイトルなんですか?」
 と、僕は気になって尋ねてみた。

 すると、お姉さんは何かを確認するようにまた本の上に眼差しを落として、
「それは、この作者のお兄さんが死んでしまったのが夏の終わりやったから。」
 と、静かな声で答えた。その声には、どこか誰のことを偲ような寂しげな響きがあった。それから、お姉さんは本を開いてページを繰ると、とあるページで手を止めて、
「ここに書いてる詩がわたしが一番好きな詩やっちゃわ。そんなに長くない詩やかい、ちょっと読んでみてよ。」
 と、お姉さんはそのページを広げたままの状態にして僕に本を手渡してくれた。
 
 僕はわかりましたと答えて、そこに書かれている、それほど長くはない詩に目を通してみた。

 今年もまた夏が過ぎ去ろうとしている
 あなたの大好きだった夏がまた終わろうとしている
 あなたはまるで夏が終わってしまうのを嫌がるみたいに
 ひとり
 わたしを残して遠くにいってしまった

 どうしてなの?
 わたしはまたあなたのその優しい歌声が聞きたいのに
 今年もまた夏が終わって寂しいねって話したいのに
 もうどこにもあなたはいないのね

 もうどこへ行ってもあなたの歌声を聞くことはできない
 永遠に

 ねえ わたしはこれから夏が失われてしまって
 永久にわたしの大嫌いな凍てつく冬で世界が満たされてしまったとしても

 あなたに戻ってきてほしいの
 あなたの歌声が聞きたいの
 側にいて
 昔みたいにわたしに色んな話を聞かせて欲しいの

 いま、夏の終わりを告げる静かな風が
 そっと耳元を吹きすぎていった
 その風は穏やかな海原を渡り
 鮮やかな緑の木々の葉をそっと揺らし
 わたしの耳元をたどり着いて
 何か美しいものが砕けてしまうときのように
 そっと音を解き放っていく

 そしてそれはほんの少し
 あなたの歌声に似ている気がする
 少しだけ哀しくて
 だけどとても優しく感じられるその歌声に

 わたしは夏が終わってしまうのが寂しい

 だけど でも
 こう思うことにしたの

 わたしはわたしにできることをしようって

 わたしには何ができるだろうって

 あなたの代わりに
 わたしにできることが何かあるかもしれないって


 そこに書かれている詩を読み終わると、哀しいような優しいようなそんな不思議な気持ちになった。確かにそこに描かれている詩の内容はとても哀しいものなのだけれど、でも、その詩の底流に流れている、兄を慕う優しい想いのせいなのか、まるで心が淡い水色の色素を持ったやわからな水に包まれたように、ただ哀しいだけではなくて、同時にとても穏やかな気持ちになることもできた。

 たとえばそれは突然降り始めた夏の雨が道端の草の花を濡らし、やがて雨が上がったあとに、草の花についた細かな水滴を目にしたときのような、心に涼しいような、甘いような感覚を、その詩は僕にふと感じさせた。
「何か哀しい詩だけど、でも、不思議と優しい気持ちにもなれる詩ですね。」
 と、僕は受け取った詩集を狭山さんのお姉さんに返しながら感想を述べた。
「そうやろ。」
 と、お姉さんは僕の手から詩集を受け取りながら目元で微笑んで言った。

「狭山さんも、この詩集読んだことあるの?」
 と、僕は狭山さんの顔に視線を向けてなんとなく訊ねてみた。すると、狭山さんは僕の顔を見ると、苦笑するように小さく口元を綻ばせて、
「わたしは詩なんて興味ないって言ったんだけど、お姉ちゃんがあんまりしつこくオススメするから」
 と、答えた。
「でも、よかったやろ?」
 と、お姉さんが狭山さんの顔を見て冗談めかして尋ねると、狭山さんは、
「まあね。」
 と、小さく笑って認めた。

「吉田くんも気が向いたら読んでみてよ。」
 と、お姉さんは僕の顔に視線を戻すと言った。
「わりと有名な詩集だし、大きな本屋さんに行けば大抵おいてあると思うかい。」
「そうですね。また今度探してみます。」
 と、僕は微笑んで答えた。

夏の終わりの静かな風 12

夏の終わりの静かな風 12

夏の終わりの静かな風の続きです。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-09-03

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