Cast a spell
1
天気が良かったから、気まぐれに庭のベンチで本を読もうと思った。
適当に本棚から引っ張り出したのは、古いレシピ本だった。まぁいいかと一人頷き、ベンチに腰掛けて、ページを開く。一項目はシフォンケーキの焼き方について。材料や手順の文を読んでいるだけで風がふわりと甘く香るような気がして、私は深く息を吸う。
ふと、顔を上げる。気がしたのではなく、私の庭には甘い香りが確かに漂っていた。
奇怪なものが視界に飛び込んでくる。
「……あっ、どうも」
塀の近くの桜の枝に見知らぬ女がしがみ付いていた。私はパタンとレシピ本を閉じた。
「すいません、降りれなくて……手伝ってもらえませんか」
片手に持った空瓶を掲げ、照れくさそうに女は笑う。
一瞬混乱したものの、とりあえずは立ち上がり、桜の木の下へ行ってみる。古着屋にしか売っていないような不思議な柄のワンピースを着た女が……女と言っても同い年くらいだが……相変わらずへらへらしながら不安定な体制のままで私に空瓶を差し出してくるので、手を伸ばしてそれを受け取った。
「ありがとう」
風にたなびいた彼女の長い黒髪が、蝶のりんぷんみたいにきらきらと、アプリコットの香りをばら撒いている。
それに気付いて少しだけ目を細めた次の瞬間、女は派手な叫び声を上げながら、地面に落下した。
「う、わ」
ビビって一歩後ろに下がる。
女は「痛い」と呟きながらもすぐに立ち上がり、ワンピースについた土を両手で払い出した。私はなすすべも無く、それを無言で眺めていた。
「ん、大丈夫大丈夫」
「……」
笑顔で大丈夫だと言い放った彼女の額に、一筋の流血。
「あ……嘘」
やっぱ大丈夫じゃない、と笑って訂正した彼女の手を咄嗟に取って、ベンチに座らせて、「血ぃ!!」と叫び、私は猛然と救急箱を探しに家の中へと飛び込んだ。
2
「妖精の類を追いかけてて、夢中で上っちゃったんですよ……あちち」
彼女の額の傷を消毒する手が止まる。
私はまじまじと彼女の顔を見つめ、「強く打った?」と心底真面目に訊ねた。薄桃色の唇を一気に尖らせて、「違います」とあくまでマジの姿勢を崩さない。
頭がおかしいんだ。心の中で呟いてから、私は消毒液を染み込ませた綿を再び彼女の傷にあてる。幸い、ざっくりとまではいかなかったようだ。
「その空瓶は妖精捕獲用に」
私の傍らに置いてあった空瓶を視線でさして、彼女は言う。私はへぇーふぅーんと曖昧に返事をする。
「私の庭に妖精が住んでるっていう、そういうメルヘン」
「住んでいるというよりは、通り道になってるみたいだけど」
「へぇーふぅーん」
「あぁっ、信じてない」
「私は過酷な現実に生きる高校生ですので。髪、もっと上にあげて?」
ガーゼを貼るテープを準備しながら、話半分で彼女のお喋りに付き合う。
お人形のように可愛らしい顔なのに、頭の中と行動力は残念な方向にぶっ飛んでいるようだった。
右手でぐわっと髪の毛をあげる彼女は微妙な顔で呟いた。
「あなた、良い人だけど、頭固いですね」
「じゃあ……魔法とかも、使えたりするわけ」
少しきつめに傷口にガーゼをあてて、テープを貼り付けていく。
目をぎゅっと閉じて痛みに耐えるような仕草をしながらも、彼女は口元だけで笑みを浮かべて言った。
「もちろん。ここでは道具が足りなくて出来ませんが」
「……なんじゃそりゃ」
手当てを終わらせ、救急箱の中にひとつひとつ道具を仕舞いつつ言う。魔法のステッキでも出てくるのだろうか。この女は本格的に電波だった。
「ともかく、ありがとうございました」
髪をぱさりと下ろし、ガーゼをなぞりながら彼女は笑った。
「私、丹羽野 弥生っていいます……あなたのお名前も訊いていいですか?」
「……真澄」
この歳になって名乗りあうというシチュエーションが何故か妙に恥ずかしくて、ぶっきらぼうに自分の名を口走る。
ベンチから立ち上がった彼女は私のほうを振り向くと、「今度お礼させてください」と血の気のいい人形みたいに微笑んで言った。
本当はもうあまり関わりたくないような心境だったが、すっと細められた彼女の瞼と瞼の隙間で光る瞳が不思議な色をしていて、私はその色につられるかのように首を縦に振っていたのであった。
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