Hammock

「ハンモックって、私初めてだけど、意外と寝心地いいのね」
 君は朱色のハンモックからひょこっと顔を出してそう言った。僕は斜向かいに設けられた黄色いハンモックにくるまれながら、そうだね、と応えた。
 朝、携帯電話のアラームより早く目が覚めて、ぼうっとした頭で煙草をふかしていると、それがどこからやってきたものかはわからないが、ふとハンモックに揺られたいという衝動にかられた。隣で寝ていた彼女をたたき起こして、すぐさまインターネットで調べ、この湖畔にハンモック・カフェがあるという情報を仕入れた。自宅から車で約三時間。彼女はそんな僕を不思議そうに見つめていたが、珍しく愚痴一つこぼさずに、黙って助手席に乗ってくれた。
 ハンモック・カフェは、湖畔に近い森の入口付近にあった。まばらに設置されたウッドデッキの柱に、赤や黄色やカラフルなハンモックがそれぞれひっかけられている。午前中であるためか、人の姿もほとんど見かけない。中央のカウンターでは軽食が売られているので、僕はアイスコーヒーとホットドッグを、彼女はレモネードとBLTサンドを購入した。
 ブランチを済ませてから、僕達は林の一番奥のハンモックを選んだ。それは今朝の起きしなにぼんやりイメージしていたものとは趣を異にしており、一枚の大きな布にくるまれるようにして使用するもので、その様子は端から見るとまるで蝶か何かのサナギのようでもあった。
 まっすぐに伸びたヒノキは頭上で葉を広げ、日の光を遮ってくれている。湖から吹く涼やかな風が木々の間を通り抜け、ハンモックにくるまれていてもほとんど暑さを感じない。自然な揺れに身を任せ、目を閉じる。昨夜あまり眠れなかったせいか、気を抜いたらたちまち睡魔に打ち負かされてしまいそうだ。
 枝葉のこすれあう音と鳥のさえずりの隙間を縫って、彼女の鼻歌が聞こえてきた。それは行きの車中で流れた、ビートルズの「ノルウェイの森」だった。
 いつのことだったか、彼女に「“ノルウェイの森”は誤訳なんだよ」と得意げに教えたときのことを、ふと思い出した。彼女はそのとき、どんな顔をして僕の話を聞いてくれていただろうか。木漏れ日の向こうにあの頃の君を思い出す。
 僕達はどこで間違えたのだろう。いや、それには少し語弊がある。間違えていたのは、いつも僕だ。
 昨夜、僕たちは離婚届に判を押した。お互いの意思はずいぶん前から決まっていたし、子どもを授かる前だったので、話し合いにそれほど時間はかからなかった。彼女が離婚届に記入している間、僕はただ黙って彼女の睫毛を見つめていた。二年と数ヶ月、彼女と一緒にいた時間は決して長くはなかったけれど、いざ終わりを目の前にすると、それらは僕のすべてであったかのように振る舞う。彼女は最後まで、僕を責めなかった。
 「ノルウェイの森」のメロディが穏やかな風に吹かれ、湖の上を翻っていく。朱色の布は君を覆い隠す。僕はハンモックに寝転がったまま、君の方へ手を伸ばしてみたけれど、それは空をつかむばかりだった。転げ落ちそうになる体を慌てて立て直し、布の真ん中に改めて体を沈めた。
「ねえ」君は鼻歌をピタリと止めて言った「ここって、ノルウェイかな?」
 僕はノルウェイのことなんて何一つ知らないけれど、「そうだね、きっとそうだよ」と答えた。
 ハンモックはゆらゆらと、風に乗り、僕たちを運んでいく。静かに揺られ、今はただ、このままでいい。



   完

Hammock

Hammock

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-22

Copyrighted
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