practice(6)

mute


「難しいものです。綺麗なスーツを上から羽織っていても,そもそも身に着けているシャツが袖を通した時から皺くちゃです。あるいは,身に着けたシャツに皺は一つも無いけれど,スーツに対して何の配慮もなされていないのが外部からはよく分かります。それはどっちにしろ,ということです。だから信用出来ない。躾や身嗜み,社会性といったことからではありません。『それで良し。』として,例えば喫茶店の対面の席に着くことが信用出来ないのです。」
 拳銃を,不釣り合いなくらいに丁寧に作られたと分かるただ真っ平らな木の机の上に置いた男は,背もたれから椅子に座り直した。懐からして座り心地は大分良くなったと思う。机と同じく木製の椅子もまた丁寧な音をさせて,そこに座る人を選んでいない。
「ガムシロップを開けます。それは勿論,ウエイトレスに持って来て頂いた注文通りのアイスティーに入れるんです。縦に積まれた三つか四つの氷を避けて底に向けて沈めていくことになるのですが,出来ればそこに沈む前にかき混ぜて,甘さを満遍のないモノとしたい。けれどそのシロップは融通が効きません。トロトロとして,ゆっくりなのがその喫茶店のシロップなのです。一番最後の一滴が液体に混ざろうとする頃には,一番最初の一滴がもう底に沈んで溜まり始めます。ストローでかき混ぜる,手首を中心とした努力も無駄です。残念ながらガムシロップは底に溶け残ることになる。下手な運命のようで,それはやっぱり信用出来ません。」
 僕は言う。
「仕方のない事じゃないですか?いくらなんでもそのシロップの,特徴的と思える溶けるまでのその速度を人のせいにしてしまっては,もう言い掛かりでしかないと思うのですが。」
 口を挟んででも会話として繋げようとする一応の反論に,手を軽く前に翳して男は明確に答える。
「言わんとすることは分かります。けれどまだ早い。私は自分が言った事の論理の飛躍をまだ埋めていません。反論などは,それを聞いてからにして欲しい。」
 それで僕は黙った。そして男は話しを始める。
「そのガムシロップの溶け残りを解消するには,例えば適量のシロップを二回に分けて入れれば良い。一番最後のモノがアイスティーの中で,溶け残った一番最初に入れたモノに再合流する頃合いでも,それは恐らくグラスの真ん中辺りで落ち着きます。そう二回繰り返す。それで溶け残りは無くなります。それで無くなる。」
 容器の空(から)の部分だけを表現するように,男は手の平を上に向けた。男は続ける。
「思い付かないのならまだ良い。思い付かないことを捕まえて,取り上げる意味はあまりない。特に『ここ』ではないです。それに思い付いている,あるいはそれを知っている。けれど理由はありません。そして試みもない。ただ『それを良し。』としている。ただ『それを良し。』としているんです。」
 男の顔は苦痛にとても嫌がって見える。自身の言葉に篭ってる,嫌な感情にまた嫌がっているためかもしれない。僕は言う。
「それは,自由なことであって,駄目なことなんかではないのでは?知っていても,やらずに『それで良し。』とする。そういう自由は,誰に迷惑になることとも思えません。」
「他害原理に適っている,と?」
 男は姿勢を変えずに言う。僕は黙って頷いた。
「それには私も同意しましょう。」
 そう言って男は僕の後ろの壁を確認するように,一通りに眺めてからまだ言葉を続ける。
「ですが,私の話はまだ終わっていません。論理の飛躍はまだ埋まっていない。自由がどうの,という話じゃないんです。」
「自由ではない。」
「そう,自由ではない。」
「それでは,何が?」
 聞いた僕に,男は見つめて返事を返す。
「それがもたらす信用の損ない。私には,とても引っ掛かることです。」
「信用の損ない?」
「そう,信用の損ないです。」
 確認は,しかし疑問は減らさなかった。ガムシロップの,溶け残らない入れ方はどこに流れ込んでも人の味覚に甘みしか残しそうになく,信用はそれと関係のないところで育まれていくイメージしでしかない。
「趣味趣向はマシなものです。こちらも『どうすれば良いか』を決めて行動することが出来る。しかし『それで良し。』はそうはいかない。『それで良し。』は『それで良し。』を『それで良し。』としてしまう。『何故』に『何で?』も寄せ付けない。そいつは答えない疑問です。」
 そいつは答えない疑問。
「だから『読めない』と?」
「『読むものがない』んですよ,そこには。」
「信用も,だから『出来ない』?」
「いえ,信用は出来ます。それを『損なっていく』んです。」
 僕は言う。
「分からない。『それで良し。』として,ガムシロップをアイスティーに一度に入れることが相手に抱いていたその信用を『損なう』ことになるとは思えません。」
「大袈裟でないかと?」
 男はそう聞く。僕はこう言う。
「そう,も思えます。」
 男はそこに,「ふむ。」という腕組みと理解めいたものを置きつつ,スーツに付着していた埃を二本の指先で取って捨てた。黒だから余計に目立つのだろう。男はすぐに腕を組み直さないから,他の場所も点検したがっているのが分かる。しかしその清潔さもこの場所ではあまり意味をなさない。出掛けられない決まり事を遵守する埃は,部屋として使われている四角形のどちらの四隅にも勝てずに,今も落ちているはずだ。
「職業柄,というのはあるかもしれません。曖昧は避けなきゃいけないものと,指でなぞって確認しなければならない常態ですから。特に『われわれ』は。」
 それに僕は何も言わない。男は続ける。
「対象に対して真摯に向かい合わなければならない。『われわれ』はそうです。そうでなければならない。非常に肩が凝る性質(たち)です。歳なんて重ねたくもない。しかし引退は許されません。それこそ死ぬまで,『われわれ』足らんことを強いられる。その上,有れば身体が丈夫な『われわれ』と来てる。捻くれるか,小難しくなるのも致し方なしというところです。」
 閉じて開いて,両手を確認する男は机の上の光を手元に寄せて影を机の上に作った。反対に,暗闇に包まれて影も無くなった僕は後ろ手に縛られている手ごと,勢いよく椅子に座り直したためによろけそうになるはめになる。身体ごと踏ん張って,床を踏んでしまったアクセントは意味があり過ぎるように響いた。例えば,少し黙れというところのような。
 男は言う。
「大丈夫ですか?」
 僕は言う。
「はい,大丈夫です。」
 それを聞いてから,男は影から直すように両手を閉じた。光は影をまた作っているが男はそれに構わず,埃とスーツを気にした(腕時計も簡素に見て。)。
「危機的状況。」
 そう切って男は繋げる。
「そこにおいては信用の手綱がモノをいう。これ以上は引っ張れない,そういう限界の手応えが必要になる。命がけで何よりも,誇張なく,本当の事柄としてです。『それで良し。』にはそれがない。答えない疑問とは,そういうニュアンスなんです。」
 僕は言った。
「底が知れない。そういう恐怖心。」
 男は僕を見る。光に助けられて,男の目はとても黒い。
「深い意味は,ないです。あなたが喩える感触を探っただけで,僕自身の経験に裏打ちされた何かがあるわけじゃない。でも,登るにしろ下りるしろ,そんな手綱は僕は怖いです。」
「ふむ。」
 そう漏らす男は腕組みを解かずに考え込んだ。目線も逸らされて僕を見ていない。素っ気ない後ろの影は大きく,目の前の彼はそれに比べれば小さい。その対比は,僕には無縁だ。
「恐怖心,ですか。その発想はなかったですね。それも恐怖心によるものかどうかは,今は別のものとして,置いておくとして,信用の損ないの素地としては大きく貢献しているかもしれませんね。」
 そう言った言葉を確かめるようにそのまま腕組みをする男は,しかし時計を確認し,意味ごと腕組みを解いて止めた。男は言う。
「だからあなたで良かった,ということですかね。『それで良し。』です。ここで敢えて使いましょう。」
 そして付け加える。
「では改めてお聞きします。消してくれますか,『それ』を。」
 そう言った男はまた僕を見る。
 僕はさっきから男を見ている。





 この部屋に換気扇はない。玄関は固く閉じて,匂いの年月は空気から出入りを忘れさせてる。男は煙草を吸わない。そもそもこの部屋に住んでいるわけでもない。机と光と,僕らの分の椅子は今回この部屋に持ち込まれたものに違いない。机の脚は床面の埃を乱してる。この部屋は僕と話すためだけの部屋だ。こうして捉えた,対面の僕と。
「どうですか?」
 高圧的でない男の声は,しかしどこも優しくはない。机の表面に倣って,随分と平らに要求を投げかけてくる。しかし僕は受け取れない。両手を後ろ手に縛られている,ただそれだけではない。
「答えは先程と変わりありません。」
「では再び断ると?」
「そうです。」
「これ以降も,ずっと?」
「そうです。」
「ふむ。」
 腕組みをしなかった今度は,視線もそらさない男だった。その真意を探っているか,真意に逆らっている理由を探しているかのどちらかという圧迫感は黒いスーツに似合っている。
「何故でしょうか。」
 その疑問はさっきから生まれていて,今はじめて内側からその顔を見せたようなものだろう。伝わってくる驚きの新鮮さは少しもない。
「あなたは『これ』を使える。それは確かだ。」
 それに僕は何も言わない。男も答えなどは待っていない。
「使用経験もあるはずだ。合法非合法を問わず,確かにある。技術に申し分はない。そして,」
 男は言う。
「消したこともある。『これ』を用いたか否かに関わらず,何度だってある。手抜かりなく,余計なことも当然ない。出来ないあなたではない。」
 僕は何も言わない。間違っているとも言わない。
「可能性が無いあなたではない。」
 言って男は視線を動かさない。改めて男は僕を確認してる。
「だからその説明は,あなたにしか出来ない。」
 そう言って男は黙った。
 静寂はこの部屋には馴染み深いものと見えて,物怖じなんて少しもせずに端っこまで拡がる。そして戻ってきては男と僕の,顔を順番よく眺めてる。冷めた目で言いたがる。『これはどちらの話なの?』と,埃で汚れた手足を気にせずに,とてもクリアに言っている。僕はただ聞いた。
「部屋と認識された部屋は死ねることなく生き続ける。知ってましたか?」
 外されていない視線を頼りにするように,男は首を傾げた。
 男は言う。
「いえ,聞いたことがありません。誰か,建築関係あるいは心理学に精通した著名人の格言ですか?」
 僕は言う。
「いえ,酔っ払った知人が格好つけて言ってたことです。意味は全くないのでしょう。ギリシア悲劇辺りを,下手に真似たような台詞です。」
「なら,本当に意味はなさそうですね。」
「はい。本当に意味はないです。しかし僕は信じてます。」
 傾げた首を戻そうとしてた男はまた,半端な位置で首を傾げ続けることになった。そこには疑問しかない。男は暗にそう言っている。
「信じるのですか。意味もないことを?」
「はい,信じます。」
「その意味をお聞かせ願いたいところです。」
 男が聞いたその意味。そう聞いて,なぞるように僕は話し始める。
「部屋は区切られた空間です。内側を仕切りで設けて,外側を仕切りで明確にする。それは単(ひとえ)に認識です。そうさせる認識です。」
 男は言う。
「そうですね。そして認識である以上,外部の変化にも多大な影響を受ける。例えば,部屋の仕切りが一つ無くなるというだけで。」
 頷き,僕も続ける。
「ええ,そうです。部屋はそれで無くなる。ある意味で部屋は死にます。しかし,」
 男が言った。
「信じることで認識は変わらない。信じることの頑なさを,利用するわけですか?」
「利用というよりそう決める,と僕は言いたいところです。」
 僕の言葉に,傾げていた首を元の位置に戻した男が襟元を正して言う。上がった袖口から,時計は少し見えた。
「それは表現の違いでしょう。」
「しかし決定的な違いです。」
  部屋の壁に向かって薄まっていく机の上の光は,男の手元で固まりそうなくらいに明るい。それが足下で興味を隠さない,静寂が走り回る手助けをしている。『何がどうしてこうなってるの?何がどうして?』。目が合えば,僕にそう問いかけるだろう。しかし僕に答えることは出来ない。僕は男を見ている。
「真摯に向き合っていないですね,そう言うあなたも。私は『それ』に賛同しかねます。」
 咥えていない苦虫を噛むことを,男は避けて平静を崩さない。そしてそれは僕も同じだ。
 静寂ははしゃぐ。
「まあ,ここで『それは良し。』としましょう。私はこうして学習をするものです。それで?あなたはそうして,何を言いたいのですか?」
 男は初めて足を組む。僕はここで聞かなければならない。
「無くならない部屋のことです。あなたはそこをどうしたいのか。あなたはそこでどうするのか。」
 舞い落ちている埃は光る。声は男に届いているはずだ。部屋は敏感に震えてる。
  「それはまた。」と漏らした男は,「僕にそれを聞きますか?」と続けたかっただろう。それでも笑いはしない男は本人が語ったとおり,対象には真摯に向き合う。机でも僕でも,間に置かれた拳銃でも。その一つの,賛同しかねることも。
 だから男は言う。僕はそれを聞いた。
「観葉植物,ですかね。」
 繰り返す。
「観葉植物ですか。」
「はい。その部屋に,まず足りないと思ったものです。」
「足りませんか。」
「足りませんね。恐らくその部屋は殺風景過ぎる。それは良くない。」
 部屋を見渡した男は,それで「ふむ。」と言った。そうでもないとも取れる短さだ。
 男は言う。
「あとは,麦わら帽子ですかね。」
 僕の背後,僕が決して見ることが出来ないそこの壁を男は見上げた。余分なスペースの検分を,怠ることなく眺めている。代わりに見られていない僕は言う。
「麦わら帽子ですか?今度は。」
「はい,麦わら帽子です。」
「それも部屋に足りない?」
「いえ,これはこの部屋にあっても良い,というものです。潤いには満たなくても思い出のようなものにはなる。ありふれていて,具体的なエピソードよりもそれは健全でしょう。」
「思い出ですか?」
「思い出のようなもの,です。」
 男はまだ僕に視線を合わせない。けれど「ふむ。」とも口にしない。訝るような部屋の壁は,男の後ろにも立っている。
 男は続ける。
「あとは換気ですね。これが何よりも先に手を付けるべきところです。換気扇でも良いし,通風口でも良い。流れを作り,時を流す。忘れたりはしていませんでしたが,使ってなかったのも事実でしょう。その部屋には大きく居座る誰かが必要です。」
 加減を覚えて,今度は音一つも立てずに僕は椅子に座り直した。埃は僕を無視して目の前を通り過ぎて落ちていく。先程の静寂は無言でありながら,耳を澄まして忙しそうにしている。対面の男はもう話さない。組んでた足は下ろされて,腕組みはもう現れない。
 この隙に,僕は勝手に麦わら帽子から部屋の壁に飾ってみた。想像でありながらそれは悪いものになりはしない。赤いリボンに青いリボンというありきたりな組み合わせには我ながら呆れもしたけれど,この部屋には必要なものと十分に思えた。三個目を飾るとしたら,黄色よりは水色かもしれない。観葉植物は三つ,玄関から奥の隅に二つと,玄関側に一つ置く配置が良い。何も置かないひと隅にはそのまま何も置かない。どういう植物かは後で決めよう。換気扇との関係でも考えて,それで部屋は変わる。
「窓枠。」
 僕をもう見つめていた,男が僕にそう聞いた。僕は答えなかった。片付けには手間取るタイプだ,それは男も知っている。だから男は重ねて聞く。
「窓枠も付けますか?」
 今度は答える僕だ。考えることはない。
「それはあなたが決めることです。あなたにはそれが分かっているはずです。」
 聞いた男はでも笑わない。黒のスーツに付着した埃はそれによって落ちたものも,そうでないものも残る。ここはそういう部屋だ。だから男は真っ平らな机の上を叩く。それでメモは取れたかのように,木製な音が部屋中に響いて残る。男はまた重ねて言う。
「では,良いのですね?」
 僕は新たに返事をする。
「はい,構いません。」
 それを聞いた静寂は言いふらすために,静寂であることをやめた。銃口は最初から男に向いていて,僕の両手は自由になるだろう。それに手を伸ばすにはまだ遠い距離,僕は椅子から立ち上がることを始めることになる。





「方法は問いません。あなたの裁量に任せます。結果は勿論のことですが,出来ればその経過報告もお願いします。」
 時計を外していても,必要なことを必要なタイミングで言う男は僕を見ることなく部屋の壁を手で触れている。留め金を打つように,等間隔で部屋の玄関に向かっている。僕は準備を済ませて,後ろからついて行く。二人ともきちんと椅子は机に納めた。
 特に返事をしないことは,特に問題になっていない。 
「帰ってくる頃には換気扇は完備しておきます。通風口では,おそらく不十分でしょう。この部屋は見た目よりも広いですから。」
 空気が変わる。それはもう,僕の気分かもしれない。だから何の意味もなく男に聞く。
「心配してますか?」
 「今更何を?」という顔をして,男は僕を見た。その真意を探ろうとしているようで,またそこにある希望を当てようとしているような二対の視線だった。
 男は言う。
「心配はしてません。あなたは私の『影』ですし,私は私を信用します。」
 聞いて僕は返す。銃口は下を向いている。
「掃除はしておいた方がいいかもしれない。」
「ええ,それもまた,帰って来てから。」
 男との口約束は果たされる。それもまた帰って来てからになる。
「では,行ってきます。」
 振り返らない男は玄関先に設けられている配電盤の主電源に手を掛けている。しかし心配はない。声が届いていることは分かっている。
「では,宜しくお願いします。」
 そう言って男は主電源を下げた。部屋の真ん中の机の上で灯されていた光も消えて,他にもう誰も居ない。暗闇に包まれて,区別できるとすればそれはもう影じゃない。
 記憶に従い,部屋の玄関を探り当てた男は後ろを振り返って立ち尽くす。先程の部屋の壁の,見た目の感触を思い出してから麦わら帽子を思い描く。男は言う。
「黒も良いかもしれない。」
 そう生まれた男の声は,この部屋に良く響くのだ。
 

practice(6)

practice(6)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted