二度目の初恋
小学生の頃、女子の間で流行っているものがあった。おそらく市販されていたであろう、可愛らしいアンケート用紙を片端から配っていた。そのアンケートには名前、誕生日、血液型、好きなもの嫌いなもの、そして好きな人の名前を聞く欄が当然あった。
質問にはもちろん強制などなく、答えたくないものは秘密などと書いておけば良い。実際そうする人も多くいた。
しかし当時の自分は馬鹿と言えるほどまっすぐで、そういった秘密を隠すという術を持っていなかった。だから好きな人の欄に正直に片思いしていた女の子の名前を書いてしまい、広い範囲に知られることとなるはず、だった。
だが正直であると同時に怠け者でもある自分はアンケートに答えるのを後に後に延ばしてしまい、結局卒業式の前日にまとめて答えて翌朝まとめて返して回った。
好きな人の名前が隠されず書かれた紙。それを返すと受け取った女子は皆同じ目でこちらを見て、すぐに微笑んだ。だが書いた名前を書かれた女子はまだ登校しておらず、怠け者で臆病な自分は彼女の席に紙を裏返しで置くだけで逃げてしまった。
その後のことはあまり覚えていない。
卒業式を済ませ、友達と語らい、母に連れられて小学校を去った。彼女と話すことなどできなかった。
自分は父の仕事の都合で、同級生とは違う、遠く離れた中学へ通うこととなっていた。
僕の初恋はこうやって放置されたのだ。
そして俺は高校二年の春を迎えていた。
中学は他県で通っていたものの、高校は地元に戻って入学した。俺の中学の成績は上位をキープしたままで、将来的に進学を続けるならば東京に近くレベルの高い高校を受ければプラスになるだろうと、親からの勧めもあってそれを選択した。もっともそこには早く帰りたいという母の心中があったとも考えられるが。
ともあれ俺は第一志望とした高校に難なく合格し、単身赴任の父と年子の妹を残して母と二人でこの街に帰ってきた。
高校最初の一年は帰ってきた喜びと高校生ということの興奮で、早速仲良くなったクラスメイトと遊びまわっていた。小学校の同級生とも連絡を取り、お互いの近況を知ることもまた楽しいことの一つであった。
二年生に進級するにあたって、進学校であることから早めに文系理系の選択が迫られた。自分の向き不向きなど分からなかったが、理数系のほうが成績の良いこと、理系のほうが就職の際に有利であると聞いたことから、俺は理系のクラスを選択した。
すると、理系というのは特殊なのだと知った。通う高校は共学で男女が半々のはずだが、三十一人のクラスに女子が六人しかいない。更に全部で六クラスあるうちの二クラスだけが理系なのだ。つまり理系の女子は全体の七パーセントしかいないことになる。それだけ女子が理系に進むのは稀なことなのだ。
そしてその稀な現実の中で、僕は彼女を見つけた。
「中島美希です、よろしくお願いします」
その声が耳に届いたのは二年時最初のホームルームだった。担任は去年自分たちのほとんどを担当しておらず、また学年に人が多いから知らない相手も多いだろうと名前だけの自己紹介を順に済ませていた。
学校側の配慮か女子は出席番号を最初に割り振られ、席もすぐ近くにまとめられていた。彼女、中島美希は女子の最後で、淡々と決められた言葉だけを発してすぐに座ってしまった。そしてすぐに次の生徒、男子の一番目が立ち上がってそちらに全体の視線が向けられた。
しかし俺の目はそちらに向かなかった。今聞いた名前は俺の記憶に強く残っているものだった。
小学生の記憶が呼び起される。馬鹿で正直で臆病だったあの頃。間欠泉のように噴出してくる怒涛の記憶に一瞬頭がふらつく。あの名前は俺が記した名前と同じではないか。
続く自己紹介に体ごと向く彼女をじっと見つめる。ああ、そういえばあの頃の彼女の面影があるかもしれない。だがそうであるとは言い切れない。たった四年の歳月が過ぎただけなのに自信が持てない。それほどまでに彼女は年よりも大人びて見えた。
それで、と考えた。彼女がそうだったとしてもどうすればよいのか。当時の僕は投げ出して逃げた。今の俺なら別のことができるのだろうか。
否、と後ろ向きの答えが脳裏に浮かぶ。三つ子の魂百まで。臆病な少年は成長しても逃げ回るのがオチだ。
けれど胸の奥に感じるこれは何なのだ。内臓の全てが肥大化したような圧迫感。
俺はどうすれば良いのだろうか。
僕から見たあの子の印象はハムスターのような小動物だった。男子よりも女子の方が背の高い年頃だったが、彼女は僕よりもずっと小さかった。やったことはないが、ちょっと手を持ち上げるだけで頭をなでることができる身長差。けれども彼女はよく動きよく話しよく笑った。
その頃髪はショートで、誰よりも活動的な見栄えだった。事実誰とでも分け隔てなく話をした。いつも話す友達だけでなく、一人で座っている子がいたらすぐに駆け寄った。おかげで他のクラスにあったいじめ問題もうちのクラスで持ち上がることはなかった。
僕はそんな彼女を見てたびたび笑顔になるのを感じていた。同時にその笑みが普段自分で浮かべるものと違うことも、なんとなくだが悟っていた。その正体が何なのか、布団の中で悩み続けることもあった。
彼女と話をすればそれが分かるかもしれない、そんな風に結論を出したこともあった。何しろ原因は彼女とはっきりしているのだ。
けれど自分から話しかけようとすることはまず無かった。やっぱり、僕は臆病だったのだ。
高校生になった今、俺が住む家は小学生の頃と同じだ。俺が小学校に上がる前に買った一軒家らしく、父が転勤になると決まった時にも手放すことはせずにいた。
その家と通う高校は比較的近い距離にあった。有名進学校だけあってクラスメイトには一時間もしくは二時間かけて通う者も珍しくない。比較的、というのはその連中と比べればということだ。
バス停まで徒歩十五分、バスに乗って二十分、降りて歩きで十分。朝起きる時間を考えるととても楽な通学方法だ。バスの本数も十分にある路線なので行きも帰りも時刻表を気にすることはあまりない。
ただこの帰宅方法には一つの難点があった。同じ帰宅路の人間がいないのだ。友人たちは皆電車通学をしており、帰りの道は学校の最寄り駅までしか被らないのだ。
だから暇のある人間同士が駅近くのどこかで遊び、適当な時間になったら帰る。そんなものが俺達の日常だった。
今日も俺は友人たちと遊びに出かけた。カラオケに入り約三時間、ほかの高校生が部活等に費やす体力を吐き出してきた。そして駅の改札前で別れ、いつものように一人バス停に向かった。するとバスが行ってしまったばかりなのか、停留所には同じ制服を着た女子が一人立っているだけだった。少しうつむいた姿勢で、微動もせず立っている。
「あれ、中島?」
気付き、近づきながら声をかけると彼女は振り返った。
「――林原?」
同じクラスとはいえ、彼女とはほとんど話をすることがない。それでも彼女はこちらの名前を覚えていた。
もしかして、と心の中で呟いた。彼女はあの時の女子ではないかと。もしそうなら俺の名前を覚えているのも不思議でない。
けれどそれを問うことはできない。彼女が違うのならばなんら問題はないだろうが、もしもそうだったらどうなる。昔の臆病な叫びを思い出されてしまうのか。そのことを笑われるのか或いは真面目に返事をしてくるのか。都合の良い想像と現実的な悲観が目まぐるしく脳内を駆け回る。だから妥協案として一つの問いを放った。
「中島も家、こっちの方なのか?」
「うん、二十分くらい」
簡潔な答えに心臓が高鳴る。やはり彼女はそうなのかもしれない。
横目で彼女を見る。中島は手に持っている英単語帳に目を落としていた。その姿からは彼女が気付いたかどうか察することはできない。
無言の時間が過ぎる。なんとなく時計を見る気分になれないまま、俺はぼうっと立っていた。時折背後を同じ制服の高校生が通り、しかし中島と二人で作った列に並ぶのは駅から出てきた別の制服の高校生。その人数が二桁になったところでようやくバスが来た。
バスからほとんどの客が降りた。そのため座る席は自由に選べる。中島は乗り口の右手にある席に座り、度胸のない俺は真後ろに座るのが精いっぱいだった。
俺の席から見える彼女は細い肩と、肩より下まで伸びるきれいな黒髪だけ。バスの振動にやや遅れて揺れる彼女の髪を見ながら、俺は思い出にある彼女の後姿と見比べていた。
やがてバスは最寄り駅に着く。彼女の横を歩くときに視線をやると、やはり彼女も降りるようだった。
バスのタラップを踏み外に出ると、肩に冷たい滴が落ちてきた。
「――雨か」
そういえば朝の天気予報で言っていた気がする。けれど気に留めずに家を出てしまった。
屋根があるぎりぎりのところでどうするか悩む。雨が止むまで待つか、我慢して走り出すか。
両方の具体的なプランを考え始めた時、いきなり横から青の傘が差しだされた。驚いて振り向くと、中島が無表情に傘を突き出していた。
「これ、使っていいよ」
そう言って更に押してくる。だけど、と躊躇う俺に彼女は言葉でもうひと押ししてきた。
「傘持ってないんでしょ。私は折り畳みがあるから大丈夫」
見ればもう一方の手にはピンクの折り畳み傘がある。
「……ありがとう」
素直に好意に甘えて傘を受け取る。彼女は一度頷いただけで歩き出してしまった。
「明日学校で返してくれればいいから」
それだけを残して人ごみの向こうに消えてしまった。
彼女から借りた傘を開く。女性用で自分には少し小さかったが、多分あの折り畳み傘よりも大きいだろう。そんな小さな気遣いに顔が緩む。
ところが歩き出してすぐに雨は止んでしまい、彼女の好意を感じる時間は少なかった。
僕と彼女は理科係というものをやっていた。内容は理科の授業の準備を手伝うことで、主に仕事は実験前後の準備と片付けだった。当時からそういったものに興味の尽きなかった僕には楽しくてたまらなかった。
しかし今にして思えば、楽しいのはそれだけではなかったのだろう。たった二人しかいない係で、行きも帰りも二人きりだった。非常にばかげているが、それが彼女を独占できる時間などと考えていたのかもしれない。
無論実際は全く違う。だが誰も間に入らずに話すそんな時間が、僕の中の感情を育てた可能性だってある。
ところで、僕の中に思いが芽生えたのはいつだろうか。
それから週に一度か二度、中島と帰りのバスが同じになることがあった。それは遅い時間だったが、一度一緒に帰ってから不思議と同じになることが多くなった。もっとも遅くなる理由は正反対のもので、俺は遊び回り、彼女は部活を終わらせてというものだった。
「部活って何やってんの?」
「書道部」
「え? 中島って書道やってたの?」
「全く。ただ運動部みたいに休日とか拘束されることなさそうだから」
こんな感じに彼女に話しかけることもできるようになった。ただ彼女は英単語帳を片手に持ったままだったが。
関東が梅雨を迎えることには会話の内容も多彩になっていった。例えば話のついでに進路のことも聞いたりした。
「うちの高校いいところの推薦があるから、できるならそれを使いたいの」
「だったら書道部なんかより生徒会とかのほうがよくない?」
「それだって忙しい時期は生徒会の仕事だらけになるでしょ? あんまりそっちに時間を費やしたくないから」
なるほど、と頷くと彼女は続けた。
「それにできるなら自力で上を目指したいから。そのためにも勉強する時間は削りたくないの」
そんな彼女の言葉が胸に刺さる。同い年でここまで考えている。だというのに自分は毎日遊びほうけて明日のことすら考えていない。その差が胸に鋭い痛みを与えてくる。
「――そういえば、さ」
痛みから逃げるために無理やり別の話題を探し出す。
「いつもの単語帳開いてないけどいいの?」
尋ねると彼女は首をかしげた。
「人と話してる最中にそういうことするの、失礼でしょ」
怪訝そうな彼女の顔を見ていると笑いが漏れてきた。彼女は案外、間の抜けた女の子なのかもしれない。
あの頃は男子と女子の垣根がとても低いものだった気がする。お互いを異性と見るには幼すぎたと言うべきなのか。ともあれ普段の生活では男子だから女子だからなんて理由で区別し合うことも少なかった。
僕らの小学校では当時集団下校をしていた。帰宅方向がある程度同じ児童をグループに分けるもので、帰宅路の枝分かれによって徐々に小グループになっていった。
僕と彼女も帰宅時のグループは同じだった。ただ帰宅路の半ばで道が分かれるため、一緒の時間は少ない。
前の日に見たテレビの話、家族の話、そういったものが話題の中心だった。それらを誰かに届けるように大声で話し続け、正直相手の話なんて聞いていなかった気がする。皆がそうであっても誰一人話すことを止めず、僕らのグループは朝の小鳥のように囀り続けていた。
無論彼女もその小鳥の一羽だった。彼女は特によく喋り、ふやけたような顔で笑っていた。
あの時の彼女はどんなことを話していたのだろう。僕はそれを聞こうとしなかった。そのことが悔やまれる。
文化祭を一学期にやる高校は少数派だと俺が知ったのは、ずいぶん遅れてからだった。春に中学の友人たちと会う口実として彼らの文化祭の日程を聞いたのがきっかけだった。
自分たちの高校では梅雨が明けた後に文化祭を行う。他校の文化祭を経験していないので規模が大きいのかどうか分からないが、ドラマや漫画なんかで見られるものよりたいしたことないのは確かだ。何しろクラスごとの催し物がさほど盛り上がらない。クラスに行動力がある数人のお調子者があればそれなりに盛り上がるのだろうが、残念ながらうちのクラスにそんな人間はいなかった。議論と呼べぬ話し合いを数回重ねた後、担任の趣味で展示物が決定された。
準備には多少なりともやる気のある人間と、担任に気に入られた数人だけが徴収された。幸運にもそのどちらにも当てはまらない俺たちは文化祭の到来を実感せず、相変わらずの日々を過ごしていた。
しかし学校全体で見ればそれは少数派のようで、いつもの時間に帰ろうとすると普段より多く学生の帰宅姿が見られた。中島も同様で、本格的な準備期間に入ってからは帰りのバスが同じになることが多くなった。
「中島も文化祭の準備とかあるのか?」
「書道部のほうでね。毎年たこ焼き売ってるから」
「……たこ焼き? 書道部で?」
「伝統なんだって」
肩をすくめて答えた。
「古いたこ焼き器があるし、代々受け継がれてきたレシピだってあるんだから。林原も食べに来たら?」
「安くしてくれる?」
「それは無理」
即答されてしまってはどうしようもない。仕方なく話題を少しずらす。
「中島はクラスの方の手伝いしないのか?」
「先生から声はかけられたけどね。書道部の方でやることがあるからって断った」
「ここで先生に気に入られておけば推薦取りやすくなるかもよ?」
「でもやることは先生の趣味でしょ? いちいちそんなの相手にしてられないわよ。――それより林原はクラスの手伝いに、……誘われるわけないか」
「――なんでそう断言するんだよ」
膨れて問う。すると彼女は、だって、といたずらっぽく笑った。
「林原って先生に好かれるタイプじゃないもの。――ね?」
文化祭当日になって、俺は思っていた以上の暇な時間を使いあぐねていた。
そもそも当初の予定ではいつもの遊び仲間と校内を歩き回るつもりだったが、他のクラスにいる仲間は準備をさぼった分当日の仕事を多く回されて、同じクラスの仲間は他校にいる彼女を連れてきた奴と、そもそも学校に来ない選択肢を取っていた奴だ。
「――どうするか」
ため息を落とすと、余計自分が一人だと実感できる。右を見ても左を見ても二人以上で笑みを浮かべるグループばかり。一人でいるように見える生徒だって、何か目的を持って歩くのが見て取れる。
帰ろうか。そう考えた時、ふと約束を思い出した。
『林原も食べに来たら?』
いや、正確には約束ではなかった。話の流れで誘われただけで、心の底から来てほしいと願っているわけではないだろう。かといって本当は来てほしくないけど社交辞令で嫌々言った、そんな風でもなかった。単に売り上げに貢献しろと言われただけか、或いは。
「行ってみるか」
決心し、事前に配られたパンフレットを開く。書道部のたこ焼き屋を探すと、校舎脇に店を出しているのを見つけた。可愛らしいイラストと一緒にたこ焼きの文字が入っている。書道部には女子が多いのだろうか。
考えてみれば、クラスと帰りのバスの中島しか俺は知らない。書道部が何をするか知らないが、部活中の彼女を想像してみる。おそらく習字をするのだろうが、それもどんな活動をしているのか。習字というからには筆と硯は必須だろう。それに半紙も。それで文字を書くのだ、きっと。でも何て書くのだろう。中島は真面目そうだからビシッとした四字熟語とか書くのだろうか、例えば『健康第一』とか。いや、これだと小学生の書き初めみたいだ。子供っぽいにも程がある。
そんなくだらないことを考えているうちに、俺はたこ焼きの文字が近くまで来ていた。
少し離れて様子をうかがう。そもそも中島がいないと行っても意味がないのだ。テントの中にはエプロン姿の女子が四人。そのうちの一人が見知った姿であるのを確認し、気合を込めて近づく。
「――よう」
できるだけフレンドリーに話しかけてみた。
「林原? どうしたの?」
林原、という名前が出た途端に他の女子が目配せをしたのは気のせいだろうか。
「前に食べに来い、って言ってたじゃん。だから売り上げの貢献に」
「そう、ありがと。でも一人だけ?」
「ダメだった?」
「売り上げに貢献するなら十人くらい連れてきてよ」
「俺だっていつもの連中と遊びたかったけどさ」
「フラれた?」
「いや、拉致られた。あいつらが」
「なにそれ」
中島は笑いながら、吊り下げてあるメニューを指差す。
「どれがいい?」
「どれがおススメ?」
「裏メニューのプレーン」
「たこ焼きのプレーンってなんだよ?」
「タコが入ってない」
「たこ焼きの看板下ろせよ」
今日はずいぶん気楽に彼女と話ができる。祭りの高揚感のおかげか。
それじゃあ、とメニューを睨んでいると、書道部の女子が中島に話しかけていた。
「美希さ、ちょっと遊んで来れば?」
「なんで?」
「だってチャンスじゃん!」
「だいたい私シフトに入ったばっかだし」
「いいのいいの! こんなの三人でもできるんだから!」
そうそう、と残りの二人も力強く頷いている。
女子だけで通じ合っているようだ。それに参加するのも無粋だから自分は注文を済ませよう。
「じゃ、チーズくれ」
「やだ」
「なんで!」
思わぬ即答に抗議する。けれど彼女は、明らかにこちらを馬鹿にした目で見てくる。
「ちょっとは空気読みなよ」
「もしかしてチーズ売り切れ?」
「……そうじゃなくて」
彼女は大きくため息をつき、
「美希と一緒にさ、もっとおいしいもの食べてきなよ。ね?」
売り手がそんなことを言っていいのか。疑問は残らないでもなかったが、結局美希と二人で店から追い出されてしまった。
この瞬間、俺と中島の心は同じだったと思う。
変なことになった、と。
あまり思い出したくないことだが、僕は泣き虫だった。小学校低学年の頃は転べば泣く、問題が解けないと泣く、親に叱られて泣く。みっともないことこの上ない。
それが高学年になれば少しだけマシになった。見栄っ張りになったのか、泣きそうになっても涙をこらえるようになった。
いじめ、と呼べるほどではないが、数人僕をからかってくる奴らがいた。見栄っ張りにもなった僕はすぐにやり返すが、当然のように仕返しがやってくるのだ。
その日はたまたま、僕に仕返すだけの気力がなかった。からかわれてすぐに仕返しされると思ったそいつらは逃げたが、僕は追いかけられなかった。ただ廊下の隅に立ち尽くして湧き上がる涙を必死で堪えた。
そのときだ、彼女に声をかけられたのは。何と言われたのかもう覚えていない。ただ彼女の言葉に憤ったことだけは記憶にある。今考えれば何てことをしたのだと思うが、同時に仕方なかったとも思う。
恥ずかしかったのだ、自分の弱みを女の子に見られたことが。見栄っ張りの弱虫は涙をぬぐって、何事も無かったかのように立ち去ろうとしたと思う。しかしそれは叶わなかった。彼女の手は僕の頭に置かれていた。まるで小さい子を褒めるときのように、或いは赤ん坊をあやす時のように僕の頭をなでていた。
傍から見ると滑稽だっただろう。女の子が自分より一回り大きい男の子を慰めているのだ。けれどその手は僕に母親を思い出させ、同い年の女の子がこんな手を持っていることに驚いた。
この時かもしれない。彼女が少し違って見えるようになったのは。
俺の頭にデートという単語が浮かんだのはたこ焼きの文字が遠くなってからだった。
デート。仲のいい男女が一緒に遊びに行く行為、だったはず。しかし俺と中島はそういう間柄だろうか。
たこ焼き屋でのやり取りを思い出す。中島に対してあの女子はチャンスだと言って追い出そうとしていた。それも俺と一緒に。ならば俺と中島がそういう関係だと考えたか、または中島がそういう感情を抱いていると考えたか。
中島が俺の名前を口にした時、少し彼女らの顔が変わった。今思えばあれは中島から俺の名前を聞いていたからで、これまでの推測と合わせると比較的良い感情を持っているのではないか。
ここまで考えて、待てと自分を制する。俺の話をしたからといって、それが好意的な評価とは限らない。愚痴ばかり言っている可能性だってあるのだ。
そっと彼女の顔を覗き込む。いつもと変わらない無表情。不快感は覚えていないだろうが、同時に喜びなども感じていない可能性がある。ちょっとまずいかもしれない。
「どこか行きたいところある?」
「んー、……アイス食べたいかも」
「じゃ、行こう」
いつも通りの口調。テントの下にいた時は、もっと砕けた会話できていたと思うのだが。
心の中で首を傾げながらアイスの店に向かう。
「――林原はさ」
中島が口を開く。
「彼女とかいないの?」
「どうしたんだよ、いきなり」
「だって、ほら」
彼女は周囲に視線を送る。
「右も左もカップルじゃん。だから林原はどうなのかな、って」
「答えてもいいけど、俺も聞き返すぞ」
「……やっぱりいい」
視線を合わせずに会話が終わってしまった。ここまでくると異常事態とさえ思える。
大体、周囲がいけないのだ。中島の指摘した通り、どこを見てもカップルが人目をはばからずいちゃつく。一人で歩いていたら羨ましい程度に思うだけだろうが、こうして女子と二人で歩くと何かしなければという強迫観念に襲われる。
内心の冷や汗に苛立っていると、突然中島が足を止めた。
「どうした?」
「やっぱりアイスはいいや」
彼女の視線を追うと、そこにはクレープの屋台があった。あれもどこかの部活で出しているものだろうか。
その店に駆け寄る中島を追いかけながら問う。
「クレープ好きなのか?」
「人並みにね」
「どれ食べんだ?」
「えっと、……これ」
決めたのはチョコとバナナを入れたスタンダードそうなもの。
「じゃ、これ二つ下さい」
「林原も食べるの?」
「急に食いたくなった」
「そう。それなら……」
中島が小銭を差し出してくるが、それを追い返す。
「おごってくれるの?」
「ああ、まあ、ちょっと」
不慣れな手つきで包まれるクレープに目をやったまま答える。
「ちょっと迷惑かけるかもしれないから」
周りの空気がいけないんだ。俺は自分の心にそう言い訳していた。
「……甘い」
「普通でしょこれくらい」
「でもこれ甘いって、めっちゃ甘いって」
「そんな言わなくても分かるってば」
中島が苦笑する。
クレープを買ってから俺たちはベンチを探した。すると校庭の手前に簡易式のベンチが設置されていたので、そこでクレープを食べることにした。
近くに複数のベンチが設置されていたが、他に座っている人はいない。午前中だから人が少なくて当たり前だろうか。
「スッゲー甘かった」
「さっきから甘いしか言ってないでしょ、林原」
包んでいた紙を丸め、近くのゴミ箱に投げ込む。
「ゴール」
「何言ってんの」
中島は笑いながら、同じように紙をゴミ箱に投げる。山なりのゆったりとした軌道で目的地に入る。
「ゴール」
「中島も言ってるじゃん」
あはは、と二人で笑いあった。こんなくだらないことを言い合えるまで二人きりの空気に馴染めた。
「――あのさ」
今しかない、と思い口を開く。
「中島って好きな人とかいるの?」
「さっき自分は言いたくない、って言わなかった?」
「そうだな。……うん、中島がどうとか関係ないのかもしれない」
「何の話?」
身を乗り出してくる。流石に何が言いたいのか分かったのかもしれない。
がんばれ俺、とむなしい声援を送りながら言葉を続ける。
「何ていうか、こういうの恥ずかしくてうまく言えないんだけど、俺、前から中島のことが気になってたんだ」
「前っていつ? ……もしかして小学生の時?」
瞬間、息が止まりそうになる。
「覚えてたのか?」
「あんなことしておいて『覚えてたのか?』はないでしょ。ちょっとドラマチックで、ちょっとだけドキドキしたんだから。――ちょっとだけだからね」
いたずらな目で彼女は言う。
「それで、いつなの?」
「中島には悪いけど、その頃じゃないんだ。初めてバスで会った時のこと覚えてるか?」
「傘を貸してあげた日?」
「そうそれ。正直、最初の自己紹介の日には中島とのこと思い出してたんだよ。だからバスに一緒に乗った時に色々と思い出してたんだ。――だけど、それはどうでもよくなったんだ」
「……どうして?」
「傘貸してくれたじゃん? あの時の俺たちの関係って初めて会話するクラスメイトだったのに、中島は俺に傘を貸してくれたんだ。そんなことする必要がないのにしてくれたのが、俺にぐっときて」
「それから?」
彼女の促しに応える。
「不思議かもしれないけど、小学生の時のことなんてどうでもよくなったんだ。――あ、いや、たまに昔のことも思い出したけどさ、昔と今の中島を比べることはなくなった。昔も中島にその、アレだったけど、俺にとっては今のほうが、えっと」
顔が熱い。心臓の高鳴りがひどい。視界が歪む。けれど俺は言葉を続けた。
「――俺は中島が好きだ」
言い切った。彼女の方を向いているはずなのに、彼女の反応が見えない。分かるのは自分の異常と、彼女の声だけ。
「――私もね、林原のことは覚えていたんだ」
彼女はとつとつと語りだす。
「自己紹介の時林原の名前を聞いてすぐに思い出したよ。ドラマチックだったんだもん、覚えていて当たり前だよ」
だけどね、と続ける。
「もし告白してきたら絶対許さない、そう考えてたんだ。当たり前でしょ。顔も合わせず好きだって言って、返事を聞こうとせずどっか行っちゃうんだもの」
今度は顔が冷たくなった。今の自分はひどい顔だろうと、そんなことを揺らぐ頭で考える。
しかし彼女はこちらにかまわず話を続ける。
「だけど林原はさ、そんなこと一切口にしなかったよね。だから忘れられたのかな、って少しだけ悲しくなったりもした。だけど今林原が勇気を出してくれたから、私も勇気を出してみた」
小さく笑う彼女の息遣いが聞こえる。
「さっきの質問に答えるね。私は今好きな人はいない。だけど林原が小学生の時のことを持ち出してきたなら断ろうって思ってた」
だけど、と言葉は続く。
「林原は言ってたよね。昔じゃなくて、今の私が好きだって。今を大切にしてくれたことは、――すごく嬉しい」
ようやくまともになってきた目で中島を見る。彼女の瞳は潤み、頬は紅潮していた。
「こういうときにどうやって返事したらいいのか分からないけど……、林原は分かる?」
「俺だって分からねえよ」
二人で笑いあった。
「私、これでも結構モテたんだよ」
中島が笑いながら言う。
「中学の頃に何回か告白されたことあるんだから」
「それで答え方が分からないのか?」
「だって困ってたんだもん」
口をとがらせる。
「告白されてもさ、私には準備ができてなかったんだ。林原に勝手なことされて、ずっともやもやしたものがこう、胸の奥に溜まってるって言うのかな。そんな感じでその人たちにうまく向き合えなかった。それが気になってたけど、大人になれば忘れるかなって」
でもね、と彼女は目を弧の形にする。
「やっぱり私が待ってたのはこれだったのかもしれない。私は今の私しかいないけど、昔の私が吹っ切れるから。――あ、でも勝手なことしたのは怒ってるよ」
「それは本当にごめん」
俺は素直に頭を下げた。
「お詫びにどんなことでもします」
「それじゃあ私の我儘を何でも聞いてもらおうかな。それぐらい良いよね?」
「喜んで」
「よろしい。それじゃあ改めて……」
彼女は深呼吸。
「私からの返事はこうかな? ――不束者ですが、よろしくお願いします」
「なら俺はこう言おうかな? ――あなたを絶対幸せにして見せます」
場にそぐわない、演劇のような台詞。そんな下らないもので、しばらく二人で笑いこけていた。
俺の初恋は二度目で成就した。
二度目の初恋
たいていの人にとっては失敗しかしない初恋の思い出。
でも、それが成就したっていいじゃないですか。