排水溝

羽沢タケル

 シャワーから出る湯を頭に浴びせ、泡のついた髪をがしがしと無造作に洗い流す。狭い浴室には湯気が満ちている。ひとしきり洗った髪をかきあげ、湯で口をゆすいでから、ぺっと吐き出した。
 今日も一日が終わったなあ。居間からくだらないバラエティ番組の音と、バアチャンの笑い声が聞こえる。僕は、ふうっとため息をついた。クリーム色の壁にこびりついた黴を爪で掻いてみる。嗚呼、コーラが飲みたいなあ。


 排水溝の蓋がかたかたと音を立てた。目をやると、蓋を押し上げて、ネズミがひょっこり顔を覗かせた。
 やあこんにちは、とネズミは言った。僕は、とくに理由もなく、知らん振りをした。つれないなあ、僕が何か悪いことをしたかい、チュウチュウ、と、彼は鼻をひくつかせながら、足もとに這い寄ってくる。踵の臭いを嗅ごうとしている彼の尻尾をひょいとつまみ、顔の近くまで持ち上げた。やあこんにちは、と彼はもう一度言って、器用に鼻でお辞儀をしてみせた。シャワーの湯を浴びて、文字通り濡れネズミとなっている。僕は、こんにちは、と挨拶を返し、そして天井を仰ぎ見た。換気扇が不穏な音を立ててぐるぐる回っている。露がぽたりと額に落ちる。僕は口を大きく開き、そこにネズミを放り込んだ。うわっ、何をする気だ、やめてくれ、と喚く彼に構わず、僕はそれをごくりと丸呑みした。
 ネズミは少しほろ苦く、あまり美味いものではなかった。シャワーの湯で、ネズミに触れた指を念入りに洗う。ごしごしごしごし。腹の中でネズミが暴れ回っている。じたばたじたばた。
 そのうち、ネズミは静かになった。僕はボディータオルを泡立てて、全身を隈無く洗う。足も腕も首も、耳の裏も足の指の間も、念入りに、丁寧に洗う。すると今度は、腹の中から聞き慣れない音が鳴り始めた。かりかりかりかり。音の原因はすぐにわかった。ちくしょう、どうやらネズミのやつ、かじっていやがるな。かりかりかりかり。ばか、やめろ、くすぐったいじゃないか。身をよじってみても、しかし、その音は鳴りやまない。
 へその穴からネズミがひょっこり顔を覗かせた。やあこんにちは、また会ったね、と彼はそこから僕を見上げて言った。そしてぴょんと飛び出して、すとっと床に着地した。ひどいことするなあ、と僕は口をとがらせた。ネズミは、お互い様だろう、と冷笑した。
 ぺたり、と僕はその場にへたり込んだ。しまった、さてはネズミのやつ、“芯”を喰いやがったな。人間は“芯”を失うと立っていられなくなることを、ネズミは知っていたのだ。膝は逆側に屈曲し、腹は真ん中で二つに割れ、蛇腹のように折り畳まれて、頭がごとりと床に落ちた。ネズミは振り向きざまに、けけけ、と笑って、ドアの隙間から外へ走り抜けて行ってしまった。あっ、おい、待ってくれ、このままじゃいけない、力が入らないんだ、立つことも、手を伸ばすこともできないよ。


 さあああああああああ。シャワーの湯が、折れ曲がり這いつくばった体にとめどなく降り注ぐ。耳の穴から流れ込む湯は、体の中を通り抜け、ネズミの喰い破った穴から、茶色の液体となって流れ出る。だんだん体が溶け出しているのだ。原型をとどめておくことはもはや難しいらしい。ゼリー状になり、少しずつ排水溝に吸い込まれていく。やれやれ、長い旅の始まりだ。かつて腕だったものが吸い込まれ、足だったものが吸い込まれ、最後に、せっかく綺麗に洗った髪が吸い込まれ、ぞぞぞという音を立てて、僕の体は跡形もなくなった。


 くだらないバラエティ番組の音がやみ、しばらくして、浴室のドアが開いた。バアチャンはのんびりとした動作で中の様子を伺ったが、湯気が立ちこめるばかりで、誰もいない。不思議そうに首をかしげ、蛇口の栓をきゅっきゅとひねり、シャワーの湯を止めた。そして、ぞんざいに転がっていた蓋を排水溝にかぶせ直し、電気を消してまた居間に戻っていった。その様子を、ネズミは洗面台の上から見下ろしていた。チュウ、と一鳴きしたが、耳の悪いバアチャンが気付く様子はなかった。


 どろどろになった僕の体が、暗くて狭い管をゆっくりゆっくり流れていく。ネズミはあのあとどこへ行ったのだろう。バアチャンに見つかって、叩き殺されたりしていなければいいのだが。


 排水溝の中で、僕は静かに息をする。三十八度のぬるま湯がとても気持ち良い。



-完-

排水溝

排水溝

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-21

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