湖畔の水族館

湖畔の水族館

 

 幼い頃、水族館で外国人を見た。誰もいないチョウチンアンコウの水槽の前で、魚を観察している白人男性。身長が高く、薄手の黒いコートを手にかけて、深海魚に見入っている。他の何物も目に入らないように。
 その青い瞳は少年のように見えたが、白い頭髪と肌に刻まれた皺から老人と分かった。水の青が彼の白い肌に反映している。彼はふと口髭を掻いて、僕の方を振り向いた。彼が微笑んだとき、僕はなぜだか彼を可哀想だと思った。
 これは、いつのことだったのだろう?
 と思った瞬間に目が覚めた。少し前まで暑かったはずだが、もう朝晩はすっかり冷える。カーテン越しの日の光も、ずいぶん弱くなった。布団の中でぐずぐずしながら、僕はさっきの夢を思い出していた。子供の頃を思い出しても、水族館で白人男性を見たなどという記憶にはぶつからない。今まで母から聞いたエピソードの中にも、そんな話はない。が、なぜだがこれは僕が過去に体験したことだ、という奇妙な確信があった。まるで誰かに、自分の大切な記憶を抜き取られてしまったような不安を覚えながら…… 
 水族館に行ってみれば何か分かるかもしれない。もうずいぶん長い間行っていないが、歩いて行ける距離に、水族館があった。チョウチンアンコウがいるかどうかは、知らない。しかしその日は休日で、特に予定もなかったので、調べもせずに僕は水族館に出かけてみることにした。

 家を出ると、雨だった。朝だというのにあたりは薄暗く、もうすっかり夜になりかかっているようだった。信号機や自動車のウインカーが、雨粒に反射して大げさに明滅し、濡れた道路に反射していた。折り畳み傘しかなかったため、足はすぐびしょびしょになった。雨だからか、人通りは全くなかった。自動車ばかりが水たまりをまき散らしながら走っていた。
 暗い朝の道を歩きながら、僕はふと、熱にうなされているような感覚を覚えた。自分と周囲の世界の間を、薄い、湿った白い布が覆っているような……
 その白い布の中を半ば夢中で歩いていると、いつの間にか地面がアスファルトから、赤や黄の落ち葉に変わっているのに気が付いた。一歩踏みしめるたびに、落ち葉の中に沈んでいくような感覚。雨と土と葉の匂い。足がひどく冷えている。ふと前方に目をやると、靄のような白い布の中に白樺の木々がゆらゆらと立っていた。まだ緑を残す葉の間から、ねずみ色の空が窺われた。
 もうそろそろ、湖が見えるはずだけど……と思うと果たして眺望が開けて、視界に湖が広がった。誰もいない静かな水面を雨が打っていた。
 その波が寄せては返すだけの、淋しい湖畔の風景の中で、ただ一つ、白いロッジが立っていた。ねずみ色の空に、白いペンキが浮かんでいるような光景。おぼろげな記憶ながら、そのロッジが水族館の入り口に違いないと、僕は思った。

 ロッジは近くで見ると、ところどころペンキが剥げていて、木が露出していた。入り口数段の階段を上り、立てつけの悪いドアを開けると、地下に向かうらしい階段が目に入った。そして、その他は何もなかった。椅子もテーブルも、照明器具すらなかった。灯りは外の日の光に頼っているようで、薄暗い日には、中は真っ暗でただ雨の音がするばかりだった。が、暖房はついているらしく、雨で冷えた体がほぐれてくるのを感じた。その地下に向かう階段が水族館に向かっているに違いない。僕は真っ直ぐ階段に向かった。
 階段からすでに水族館は始まっていて、右手のガラス面は、湖をそのまま水槽として見せるしくみになっていた。ガラスを上下に区切る水面に、雨が規則的に波紋を起こし、湖の一部として取り込まれていった。遠くには魚群の影が遠ざかっていった。
 階段を降り切ると、左手には通常の水族館のように白い壁に水槽が埋め込まれてあり、熱帯魚からクジラまで様々な魚が展示されていた。そして、人間は一人も見当たらなかった。魚たちがただ、狭苦しい水槽の中にじっとしているだけだ。ヒレだけがわずかに水に揺らいでいる。右手の水槽には、砂の粒子が舞っているだけで、もう何も映ってはいない。僕の足音だけが狭い通路に響いていた。僕はサメもクジラも見ないで、深海魚の水槽に急いだ。
 チョウチンアンコウの水槽の前にも、誰もいなかった。仕方がないので、僕はそこいらの水槽の深海魚を観察することにした。顎が外れたようなのや、目が飛び出ているような魚ばかりで、あまり綺麗ではない。やはり夢なんかに従って来たのが間違いだ、と踵を返すと、僕の真後ろに白人男性がいた。海のような色の瞳で、真っ直ぐ深海魚を見ている。
 夢の中そのままの姿だった。目の色も肌の色も、皺の刻み方まで朝に見た夢そのままだった。彼は、口髭を掻きながら僕に視線を移した。
「こんにちは」
 びっくりした僕は、つい挨拶をしてしまった。

 彼の名前はトマルキンといった。トマルキンは不思議にも、僕と親しくなりたいと思っているようだった。挨拶をしたとき、彼は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに笑顔になって挨拶を返してきた。そして、挨拶をした後どうしたらいいのか分からなくなってしまった僕の気持ちを察して、自分から名乗ったのだった。
 しかし、僕たちの会話は全くかみ合わなかった。僕は二十歳になったばかりの日本人で、彼は七十過ぎのロシア人だった。そしておかしなことに、二人とも水族館に来ているのに、特別魚に興味があるわけでもなかった。僕達の会話はまるでお互いに空気を掴み合っているようだった。二人の間には自然と沈黙が横たわった。
 にもかかわらず、彼は僕を水族館のレストランに誘った。

 レストランは、天井を含め四方を水槽で囲まれていた。そのため、白いテーブルクロスには水槽を通過してきた光がゆらめいて、食卓にクラゲが泳いでいるようだった。キウイ、バナナ、オレンジ、リンゴ。テーブルに置かれたそれらのフルーツは、微妙に色彩を変化させ続けていた。
 ウォッカとキール・ロワイヤルで乾杯をした後、注文もしていないのに食事が運ばれてきた。時折、トマルキンが給仕に何か耳打ちし、そのたびごとに新しい皿が運ばれてくる。彼が勝手に注文しているのかもしれないと思ったが、特に食べたいものもないし、好き嫌いもないので、そのことについては何も言わなかった。僕たちは殆ど会話を交わすことなく、夢中で食べ続けた。
 食事が終わると、トマルキンは再び給仕を呼んで、卓上のフルーツを群青色の紙箱に詰めさせた。片手で持てるようなその箱に、卓上に山盛りになっていたフルーツは難なく収まった。それらが収まるのが、少しも無理な様子はなくあたかも自然だったので、僕は不思議に思っていた。しかし、給仕はそんな僕にまったく注意することなく、すぐにふたをして、真っ黒なリボンをするすると付けた。それを受け取ったトマルキンは満足げに微笑み、極自然な動作でそれを僕に差し出した。
 僕はもちろん断った。が、彼はどうしても僕にプレゼントをしたいと言い、最終的には受け取ってしまった。フルーツで満たされているはずの箱は空箱のように、異様に軽かった。
 そして、彼に渡す何も持たないのを詫び、僕達はそのままレストランで別れた。夢の話はとうとうできなかった。

 外に出ると、すっかり暗かったが雨はあがっていた。手に持った群青色の箱は闇を、星を、月を吸収、反映し、内部のフルーツが溢れ出ているようだった。まるで絵の具で塗りたくられているよう――と、ふとゴッホの『星月夜』という絵が思い出され、不吉な予感を覚えた。急に夜空が渦巻いて、何もかもを飲み込んでしまいそうな……
 その時、あの外国人が僕の幼い頃から変わっていないのは、もう死んでいる人だからなんだな、と突然に理解された。
 なお残る不吉な予感を楽しみながら、僕は帰路についた。

湖畔の水族館

湖畔の水族館

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-21

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