呪縛

私は、精神障がい者1級です。何度も自殺未遂を繰り返しそれでも生きています。『誰か』に活かされているのです。辛かった過去の中にも必ず一筋の光がありました。「自分なんて生まれて来なければよかった・・・」「死んでしまいたい・・・」そう考えている人、ちょっと待ってください。必ず・・・必ず幸せはやって来るのです。今、私は苦難を乗り越え幸せです。産まれて生きてくれた子供たちが、「今度産まれてくる時も母さんの子供でいたい」そう言ってくれました。障がいがあって子供たちに迷惑をかけ続けていても、今は生きていて良かったと思うのです。この自伝書く事で、今、苦しみの中にある人、苦しみを与えている人・・・どうか気付いて欲しい・・・私のような障がいを持つ人間を作らないで欲しいと・・。
人は、産まれてくる時と死ぬ時は自分では決められません。ですが、途中の人生は自分で決められるのです。どうか諦めないで生きて欲しい・・・
何度リセットしてもいいのです。自分の人生なのですから。
過去のトラウマで障がいに苦しんでいる方・・病気を治すのは医者ではありません。現代の精神科医療はどこか間違っている・・漠然とそう思います。本当に病気を治してくれるのは、あなたの家族や友人なのです。・・・・・・私は今、幸せです・・・・・・

出生

脳の思考回路がすべて停止し、
その回路を繋ぐ線の切れる音が、
頭蓋骨の中で聞こえたような気がしていた。
電話の向こうの声は、誰に何を言っているのか、
切れた線では、その判別がつかない。
60秒にも満たない時間の中で、
やがて回路は結びつき、茂美はぼそぼそと答えた。
「そうですか・・・それで私はどうすれば良いのでしょうか」
「まず、日本の出生地と思われる役所に行って、
出生届を貰ってきたください」
担当の職員は、たどたどしい日本語で話しを続ける。
「それを本国に送り、新たに戸籍を作る申請をしますから。
 パスポートはそれから先になるので、まあ、2か月位はかかりますね。」

(自分には戸籍すらない)
(私は、誰・・・・?)

手元にある外国人登録証を眺めながら、
これからやらなければならない
ややこしい手続きに、吐きそうになっていた。

西成区役所の中は、外気温に比べ少しは涼しい。
「戸籍係」と書かれたカウンターへ行くと、中年の職員が
「ご用件は何でしょう」
と、眼鏡越しに微笑みかけた。
「あのお。昭和33年1月から4月の間に出されているかもしれない
 出生届け・・・その証明っていうか・・・探してほしいのですが・・・」
職員は、小さく深呼吸をした後、また優しく微笑みかけて
「父母の名前、わかりますか・・?」
茂美は、少し救われた気がしていた。
「母は、尹 福東。父は・・・松村としかわかりません」
「当時の記録は、コンピューターに入っていませんので、
 手作業で探す事になります。少し、お時間がかかりますが・・・」
「子どもを6時までに迎えに行かなければならないので
 それまでなら大丈夫です。」
役所を出た辻向かいに小さな喫茶店があった。
(そういえば、朝から何も食べていないなあ)
古ぼけた腕時計の液晶画面は、14:00と表示してある。
子育てと借金に追われる足は、喫茶店へと向かわず、
そのまま、役所の軒下で煙草と缶コーヒーで時間を待っていた。
役所の入り口を行き交う人々で、
自動ドアから流れてくる冷風が心地よい。
壁にもたれ掛かり、茂美は自分の人生を恨んでいた。
左腕に残る火傷を後を見ながら、

(本当にいらない子だったんだな)

茂美の顔は、苦笑に満ちていた。



「すみません、すみません、茂美さん」
職員の声で浅い眠りから覚めた茂美は、大急ぎで立ち上がり
「ありましたか?」
と尋ねると、
「おっしゃっていた年月に該当する届出はなかったのですが、
 昭和36年にそれと思われる出生届けが見つかりました。」
書類は、カウンターから少し離れた相談者用のソファに用意され
茂美は食い入るように、一字一字を見ていった。
受理年月日 昭和36年6月12日
   父    空欄
   母    尹 福東
 子の氏名  尹 荗美
出生年月日 昭和33年4月3日
出生体重  820瓦

産まれた場所も、鬼畜の生年月日も、「茂美」という名も・・・・
二女と書かれてある部分は、横線で消されている。
鬼畜の出生児は、4のはずだ。そこには3としか記されていない。
ここに記載されている事は、全部ウソだ。と、茂美は確信した。

「お前が生まれた日なんか、どうでもええ。
 今宮戎で、えべっさん、やってたから1月の頭ぐらいやろ。
 あの時、そのまま死んでてくれたらよかったんや。
 情け深い乞食に拾われたのが、災難や。」

火傷の後を摩りながら、茂美はつぶやいた。
(所詮、ウソで生まれて来た人間やな・・私・・)

幼少期

薄っぺらな紙を眺めながら、鬼畜の言葉を思い出していた。

「お前は死んで生まれて来た。米袋に放り込んで
 トントで焼いてしまおうと思ってたんや。ふっ。
 そこでお前は息を吹き返した。もうちょっと早く
 焼いてしまえば良かったんや」

茂美は4人兄弟の末。盛康というのは、8歳年の離れた兄だ。
その下に姉・仁美、兄・秀盛と続く。
盛康は生まれた直後に父・「松村」に連れて行かれ
やがてどこかで息を引き取ったという。
昭和33年、厚生省が「栄養白書」の中で日本人の4人に1人が
栄養不足であると発表している。そんな時代に、800瓦の
乳児が何の保護も受けずに育つわけがない。
鬼畜が見たという「えべっさん」も、4月では在りえない。
この年の4月1日に国法として
「何人も、売春をし、又はその相手方になってはならない」
と定めた。売春の一切を禁じたのは、歴史上はじめてという。
それによって、遊廓は廃絶し、花街も衰退して赤線の灯と
全国3万9千軒の業者と12万人の従業婦が消えた。
鬼畜もその1人だった。
鬼畜は、国法によって失業したのを知らず、
「お前」が生まれたせいだとしていたのだ。

産まれてはいけなかった命に何故生年月日が与えられたのか?
昭和36年といえば、姉9歳・兄5歳・茂美3歳の頃だ。
1枚の写真がある。皆、浴衣を着せられ、手には小さな紙袋を持ち、
トタン屋根の上で3兄弟が並んでいる。
この頃なのだろうか・・・・
「誰かに愛されていた」と、断片的な記憶が蘇る。
2階建てのアパートのような部屋のたくさんある一室で
セルロイドの人形を持っていた。
服を着せられていない人形の腹に「澄子」と青い文字が書かれ
「いつも寂しくないようにね。お母さんと一緒よ」
と言う誰かの言葉が記憶に残っていた。
そうだ・・・どこかの施設。その為に必要だった誕生日。
誰かに愛されていた日々は、そう長くは続かなかった。

その日、茂美は滑り台の上で人形を抱いていた。
背中に何か冷たく固い物があたり、茂美は転げ落ちた。
まだ柔らかい身体は、さして傷もなく、
落ちる時に離してしまった人形が気になった。
茂美は、急いで階段へと向かおうとしたその時、
腰のあたりを強い力で引き寄せられた。
(熱い・・・・)
一瞬の事だった。両足の親指の生爪が剥がされ
みるみる血に染まってゆく地面を見つめながら、
茂美は、叫び続けた。
「もう人形は、いらん。お母ちゃんや。」
にやりと笑ったその手には、ペンチが握られていた。

あの日・・・・あのペンチで頭をぶち割ってくれていれば良かった。
滑り台から落ちた事故で処理されていたはずだ。
そうすれば、鬼畜のおもちゃとして生きなくともよかったのだ。

幼年期

その部屋は、神戸・三宮からほど近い春日野道商店街。
「ふさや」と書かれた菓子屋の2階にあった。
店の裏側から階段を上ると、細く短い廊下があり、
右側にトイレ。反対側に部屋。
廊下には小さな台所と、木製の冷蔵庫があった。
部屋は、商店街に面した窓と、大きなベッドが置いてある。
ほとんど毛の生えていない頭を、ベッドの下から覗かせると、
鬼畜は100円を投げつける。
100円は、畳を転がりベッドの奥へと進んで行く。
ベッドの下を這いまわり、「それ」を見つけると、
急いでポケットに押し込み、底の抜けかけた黄色いズックを履き、
汗まみれになった頭を毛糸の帽子で隠すと、
商店街の入り口にある米屋と向かう。
夕刻の米屋は、買い物客であわただしく、
茂美は客の途切れるのを待っていた。
店主は、一合升の淵を定規で手際よく摺り切り、
客の注文に応えて行く。
「ああ・・・茂美ちゃんか・・・」
そう言うと、店主は持っていた定規を腰に差し、
一合升いっぱいの米を差し出した。
「大事に持って帰るんやで」
茂美は、「それ」を差し出すと、「それ」は数が増える。
増えた「それ」をポケットに入れ、米をスカートにくるんで
ゆっくり・・・ゆっくり・・・ふさやの2階へと向かった。
この日の階段は、いつもより長い。
何段か登った時、雨で濡れた靴底が滑り
米が、舗装されたいない道の水たまりへと零れ落ちた。
最後の1粒を拾った時、茂美のスカートはスイカでも包んでいるかの
ように膨れ上がっていた。
今度は靴を脱ぎ、またゆっくり階段を登ってゆく。
台所の流しは、スカートの中身を出すには少し高い。
床におかれた鍋に、中身を出すと
丁寧に土と米を選り分け、分けられた米から
茶碗半分の米を鍋に残し、残りは木製の冷蔵庫へと入れた。
何本目かのマッチに、やっとの事で火を灯し、
プロパンガスのコックを開けると、鍋の下へと放り込む。
米が炊き上がるまでの時間、菓子屋へ降りて行き、
「増えたそれ」を差し出すと、
「ええよ。持って行き。」と、菓子の屑をもらう。
少し焦げた香りがする鍋の火を止めると、
隣のゆうこちゃんから貰ったママゴトの茶碗に、
白飯を入れると、そこへ菓子の屑を振りかける。
醤油の味がする飯・・・何度もおかわりができる茶碗・・。
鍋の底には、まだ暖かい焦げがある。
その中に水を入れ、蓋をすると焦げは何倍にも膨れ、
茂美の腹を満たしていた。
部屋に入る事を許された時間がやってくる。
午後6時。鬼畜が「アリランヤ」へ出かけて行く時間だ。
ベッドの下へ潜り込む。ここからは、テレビの足しか見えない。
ベッドの上では仁美が、テレビから流れてくる音楽に身を躍らせている。
バネを避けるように、隅に寄ると茂美は眠りに落ちた。

「行くよ」
強い口調で起こされた茂美は、そそくさと身支度を済ませ、
全身を強張らせながら、鬼畜の後をついて行く。
「平山さ~ん、茂美さ~ん」
にっこり笑う看護婦に呼ばれた茂美は、猶も強張らせた身体を
診察台にあずけると、
「今日もがんばろうね・・・」
医者はそう告げると、茂美の剥げた頭に注射を打って行く。
茂美の頭には、ほとんど毛がなかった。
円形脱毛症。それが無数にあったのだ。
剥げた部分の毛穴めがけて、針は突き刺さる。
滲んだ血を拭い、治療が終わると頭全体が重く、腫れあがっていた。
そこに、笑みを浮かべた鬼畜が、毛糸の帽子をかぶせる。

週に1度。鬼畜の楽しみにしている遊びだ。
治療後、2日程経つと、毛糸の帽子は頭皮にべったりと張り付く。
それを一気に剥がすのだ。生えている毛も同時に剥がされる。
(これが終わったら、お米が貰える・・・)
飢えた腹には、何でもない事だ・・・そう言い聞かせていた。

「死」を知らない人間の生への執着・・・・
幼い茂美にとってのそれは、「腹を満たす事」。
その力は、素様しい。小学校に上がる頃には、
剥げていた髪もすっかり生え揃っていたのだから・・・。
生きる為の目的なんて、何でもいいのかも知れない。
夢なんてなくてもいいのかもしれない。

自分の中の「一日一生・・・一日一笑」
それがあれば・・・。

始まり

いくばくかの「餌」を与えられ、そこにいるという
存在を消されてしまう・・・・ネグレクト。
「餌」と「鞭」を与えられても、そこにいるという
存在は、「鞭」によって立証される・・・虐待。
後者の方がまだましだ。
春日野道にいた頃の茂美の記憶は、ばったりと
途絶えている。小学1年生の記憶が何もないのだ。
かすかに残っているのは、赤いとは程遠いオレンジがかった、
ミシン目のほつけたランドセルだけだ。
どんな遊びをしていたのか、誰と会話をしていたのか・・・
米粒を拾った時と、流れる血膿の匂い以外の
記憶が全く消されている。

テレビの映像は「てなもんや三度笠」が流れ、
鬼畜と仁美、そしてもう一人の家族・・
お父さんと呼ばなければならない「前田」が
笑い声をあげているその部屋の隅で、
(何故、笑っているのだろう・・・)
と、時折映像を見ながらアイロンをかけていた。
8歳の手には、重く熱いアイロン。
『あたりまえだのクラッカー~』
(ふっ・・同じ名前や・・・)
流れるコマーシャルに、唇をニヤリとしたその時、
アイロンが床に落ち、その反動で傍においてあった
霧吹きが、鬼畜の方へと転がった。
咄嗟に身構えた茂美は、睨みつけた鬼畜を目を見上げると
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」と唱えるように訴える。
この言葉は、鬼畜にとっての起爆剤になる事を知っていたはず。
(やってしまった・・・)そう思った時にはもう遅い。
霧吹きをアイロンに向けて、温度を確かめると
その手は茂美の左太ももに充てられた。
グジュっという焦げた臭いが鼻先をかすめると
鬼畜は高笑いしながら、
「畳が焦げるから気をつけや」
と、またテレビへと向かう。仁美は振り返るとクスっと笑い
手に持った駄菓子を食べている。

小学2年生。兵庫県明石市に移り住んだ茂美の記憶は、
ここからはっきりと残る事になる。

少女期

冷たく氷そうな身体に、男物のベルトが
グシッグシっと単調なリズムを刻みながら
太ももや、背中に腫れを作っていく。
薄れて行く意識の中は、もう寒さも痛みも感じない。
感じてはいけないのだ。

・・・心はどこにある・・・・
脳だ。心とは感情で、思いというのは
脳の中の何かと何かが結びつき、「言葉」、
誰かに伝える見える、或いは聞こえる
という形になって表面化する。
相手はその反応によって、右へ左へと動く。
人間にとって感情とは、電池だ。
電池の切れた人形など、誰の手にも触れない。
錆びついた電池ケースは、どんな手を使っても
もう元には戻せない。
・・・心を無くしていた・・・・

4年生のクラスは、校舎の2回にあってとても陽当りが良い。
静かな授業中の廊下に、靴音が二つ響いていた。
靴音は、茂美のクラスの前は立ち留まると、
前のドアがスルスルと開き、「平山さ~ん」と呼ばれた。
教頭の横には、ハンチング帽を被った小さな男が立っている。
「この人、知ってる?」
教頭はずり落ちそうな眼鏡を左手の中指でヒョイとあげると、
茂美の顔を覗き込みながら言った。
「知らない」
そう言うと、ランドセルに荷物を突っ込み速足で階下へと降り、
上靴をまたランドセルに押し込むと、いつものあぜ道を通り
駄菓子屋の前を少し小走りに通りすぎる。
「逃げなきゃ・・・」
いつもなら、ここの薬局の前で立ち止まり、店主に挨拶を交わす。
振り返ると、男はついて来ていた。
茂美は、そのまま唯一の「居場所」へと逃げ込んだ。
そこは、住んでいるマンションのベランダの下。
通気口があるその場所は、少し窪みになっていて、
小さな身体を埋めるには丁度良い空間なのだ。
男は、家のチャイムをならしている。
ほどなく、鬼畜の金切声が聞こえてくる。
「今更、なんや。帰れ」
(松村・・・?おとうさん・・・)

狭いけれど、誰にも知れらない空間で時が過ぎるのを待った。

目の前には、大きな桜の木があって、白とも灰色ともいえない
犬が繋がれてある。
形の変形した金属製の洗面器が置いてあり、
そこには米粒が固くへばりついている。
犬の身体には、ボロ布のような破片があちらこちらにぶらさがり、
それでも気持ちよさそうに、両手足の上に顎をのせて、
隠れ家から顔を覗かせている茂美を見ている。
(お前・・・いつからそこにいるの?)
ジョン。赤い首輪にそう書かれてあった。
(お前、ジョンっていうのか。私の方がマシだね)
太いくさりに繋がれたジョンは、動くたびに音をたてる洗面器が
どうやらうるさいらしく、口にくわえると茂美の方へと放り投げた。
茂美は、ランドセルから夕食用に残してきた給食のパンを取り出すと、
半分をジョンへ投げた。ジョンからの距離は2メートルも離れていなかったが
投げられたパンを、必死になってたぐりよせようとしているジョン。
手足を交互に出し、しまいには、パンに向かって吠えているジョン。
(お前、可哀想だな)
ドアからは、まだ聞こえている争いの声。
今のうち・・・・隠れ家から身を出すと、パンをジョンの傍に置いた。
急いで元に戻ると、男が足早に去っていく足元が見えた。
開けっ放しのドアからさっきとは打って変わって、
鬼畜のねこなで声が聞こえてくる。
「平山ですけど、学校から帰って熱があるのでしばらくお休みします」
茂美は、ふっと笑った。
(またやるな。今日も)
隠れ家を後にし、ランドセルを背負うと茂美は、ジョンがくくられている
桜の木へ登る。そこから下を見ると、さっきのパンを咥えたジョンが
尾っぽを振りながら、茂美を見上げていた。
(ほんとうにお前は可哀想だな)

近くの林神社から、5時を知らせる鐘がなる。
急いで木から降りた茂美は、何事もなかったかのようにドアを開ける。
ランドセルを机の上に置き、エプロンをつけると台所へ向かった。
鬼畜と姉、前田の夕食を作るのが日課だ。
夕食を作り終えると、それを食卓に配膳する。
茂美は炊飯ジャーとコンロに置かれた味噌汁鍋を行ったり来たり
しながら、奴らの給仕をする。食事が終わると後片付けをしながら
食べ残しを確認すると、鬼畜に見つからないようさっと口へと運ぶ。
その日は、いつもより腹がへっていたのだ。
炊飯ジャーに残っている飯・・・両手で思いっきり握りエプロンへと押し込んだ。
その様を待っていたかのように、鬼畜の視線を感じた茂美は、
無表情のまま、その場に立っている。
「泥棒の始まりやな・・・そんなに腹が減ってるのか」
そういうと、鬼畜は茂美の髪をつかむと、そのまま鍋に火を付けた。
残り少ない味噌汁は、すぐに煮え立ち、良い香りがしている。
鬼畜もそれなりに考えている。見える所に傷がつかない事を。
煮えたぎった味噌汁は、茂美の左肩へと浴びせられた。
茂美の脳は、数を数えていた。
(1,2,3,4・・・・いつか終わる)
やがて風呂場へ連れて行かれると、2月の冷たい水に中へと沈められる。
もう、傷みも、寒さも何も感じる事が出来なくなっている茂美は、
泣く事も、謝る事も出来なくなっていた。
そこにいるのは、電池の切れた人形。

言葉を発する事も無く、表情のない人間という「物」は、
次第に相手にされなくなる。茂美にとっては都合の良い事だった。
まだ、電池が残っていた頃、鬼畜が欲求を発散する度に
飯代と称し、300円が投げつけられる。
部屋中を這いまわり、それを集めると引き出しにしまった。
生活保護を受けている家にとって、当時の300円は大金である。
それが毎日ともなると、保護費の4分の1程度を貰っている事になる。

やがて茂美は学校へも行かなくなった。
家事をし、鬼畜たちの給仕を済ませると、
夜の世界へと向いて行く鬼畜に着物を着せる。
深夜、酔って帰って来る鬼畜の着物を脱がせると、
あちらこちらから、1000円札が出てくる。
畳んだ着物の上に札を整え、茂美は眠りにつく。
昼前にまだ寝ている鬼畜たちを起こさないよう
スーパーに行き、今日の自分の食糧と、ジョンへの
魚肉ソーセージを買う。
電池が切れたブリキ人形でも、時折、鬼畜は「遊ぶ」

茂美は、魚肉ソーセージをジョンに食べさせると、
ジョンの繋がれた鎖を解いた。
ジョンは、しばらくそこを動かなかったが、
這い蹲りながら、木の周りをウロウロすると、ふいに立ち上がり
一目散にどこかへ駈け出して行った。
(お前は自由だ)
ジョンが遠くで吠えたような気がしていた。

合田と名乗る先生は、毎日やってきた。
やってきては、プリントを一枚差し出し、
「これ出来たら、はい、これ」
と、ナッツボン・・・ナッツが包まれた飴も1つ差し出す。
飴など、うれしくもなかったが、やれと言われた事は、
やらなければ、何があるかわからない・・・
考えるという事すら考えられなくなっていた茂美は、
決まった時間に小便をするがごとく、それをこなしていった。

合田と鬼畜が何やら話している。
「・・・・体が弱いのは良くわかっています。
 ですが、お母さん、修学旅行だけは・・」
修学旅行・・・
友達のいない茂美にとって学校行事など、どうでも良い。
「うちにはそんなお金ありませんから・・・費用は先生が出してくださいね」
「もちろんです。小学校最後の思い出に・・」
後は、うまく聞き取れない。
鬼畜は、身体の弱い娘を大事にしていますと言わんばかりか、
始めて茂美の服を新調した。
修学旅行の記憶など、茂美にはない。
1枚残されてある、とても小学生には見えない服を着せられた写真だけである。

正月が過ぎても、合田はやってきた。
「なあ、詩を書いてみないか」
「はい。」
そんなものに興味はない。
書けと言われたから書く。
高度成長期の日本は公害問題で騒がれていた。
知っている限りの、公害の種類を書き並べ、最後に
「おばあちゃんは、昔はよかった」と書いた。
数日した後、合田はいつもより早くやってきて、
「平山!!喜べ!。新聞に載ったぞ、お前の詩」
1人喜んでいる合田に、茂美は冷ややかな笑いを浮かべた。
(嘘だよ・・・おばあちゃんなんていない・・)

みんながよそゆきを来て、両親と学校へ行くのを
隠れ家から覗いていた。
(ジョンは生きてるかなあ)
桜の花びらが舞っている木の根元には、ジョンが残して行った
太い鎖と、色の褪せた首輪が哀しい。
いつものように、スーパーに行き食糧とソーセージを買う。
錆びた鎖を膝に置き、ソーセージだけを食べる。
そして、スーパーの袋の中身を自分の引き出しの中へしまうと、
プリントがないという事に気付いた。
もう、合田もやって来ないだろう。
そう思っていた時、ドアを叩く音がした。
そこに立っていたのは、カーネーションを持った合田だった。
合田は、目に涙をいっぱい浮かべ、
「平山、もう逢えないかもしれないが、
 お前、強くなれ・・・」
そう言い残すと、一枚の色紙が手渡された。

そこには・・・・

不正を怒る人間であれ

と書かれてあった。

思春期

「頂点AからB・・・ヒィーを結んだ・・・・」
暑苦しく太り、黒縁の眼鏡を鼻っ先で支えながら
舌足らずの口元に泡をふかしながら、チョークを
黒板に走らせている。時折、キーキーうるさい。
勉強・・・数学なんて意味がない。
授業の終わりを知らせるチャイムが鳴ると、
急いで立ち上がった。
昨夜の痛みが痛烈に残る股間をかばうように
階段を駆け下り、購買部へ向かい人気の焼きそばパンを買う。
すぐに売り切れる焼きそばパンを数個買うと、
またすぐに2階に戻り、買った値段より少し高値で売る。
その利益で、いつも弁当を食べている奴から、その弁当を買う。
そしてその弁当をまた誰かに売るのだ。

(世の中は金だ)
鬼畜は生活保護でありながら、男には高級車をあてがい、
仁美には100万の振袖を着せていた。
茂美は、引き出しの中の金を見つめながら
(金だけが信用できるな)
と思っていた。

人間の欲というものは、絶え間なく襲ってくる。
電池の切れたブリキ人形でも、「遊びたい」という
人間の愚かな欲は、それを追及する事を止めない。
そんなゴミ同然のおもちゃでも、まだ遊べると・・・。

ボーっとした頭の中で、経験した事のない痛みが走った。
股間に火箸を入れられたのか・・・
茂美の身体は、さっき飲まされた「ビタミン剤」によって
動けなくなっていた。
やっと開けられた半開きの目の前に、前田の顔があった。
前田は、茂美の身体に覆いかぶさり、あえぎ声をあげながら
腰を上下に揺すっていた。
かすかに動く首を横に向けると、豆電球の下に
鬼畜の笑い顔がある。立膝に座り、右手に挟まれた煙草の煙が
豆電球を曇らせている。
前田は、突如、茂美から身を離すと、白い液体を体に浴びせていた。
そして、ばらまかれる金・・・・。
動きの取れない身体で、金を拾い集める。身体に浴びせられた液体など
どうでも良い。茂美にとっては、金が全てだった。

無。

無というのは、何も無いと言う事。
無心というのは、心も無い。
心は脳で生み出されるものだから、それも無い。
考えないでいようということすら、考えない。
それが、「無」なのである。
茂美の選択した事は、その場の状況を的確に、客観的に
そして冷酷に、脳に叩き込んでいくことだった。
人は、無になると、何も感じない。
食べている物の味さえわからなくなるのだ。
自分が太っているのか、痩せているのか、
美人なのか、そうではないのか・・
花が綺麗だとか、太陽が暖かいとか、
そんな事すら感じなくなる。
まるで、脳の中に薄黒い空洞ができたかのように。

前田は、今日も茂美に薬を渡す。例の「ビタミン剤」
前田は白い液体を、身体に浴びせると、
鬼畜の方を振り返り、茂美の身体検査を促す。
鬼畜は台所へ向かうと、出刃包丁を手にし、
小学校の時に手術した盲腸の後をえぐる。
そして、木綿糸で縫い合わせるのだ。
何度も同じことを繰り返された盲腸の傷跡は、
ケロイド化し、もう、固くなってそこはえぐれなくなっていた。
それでも、鬼畜はケロイド化した表面の皮を剥ぎ取り、裂く。
そんな「遊び」の後にばらまかれる金の中には、札も入り混じる。

そうして手に入れた札は、人を寄せ集めるには魅力的だった。
中学生にしては、有り余る金。そこに群がるハイエナたち。
放課後の校門前には、クラブを終えたハイエナ達が、茂美の帰りを待つ。
茂美は、得意げにチェリオをおごり喫茶店に行く。
そこにもハイエナ達が待っている。
喫茶店の隅を陣取ると、コーヒーを注文し、煙草に火を付ける。
そこへ、生活指導の先生がやってきて、
「・・・平山・・・合田先生が死んだ」
一瞬、凍りついた。手に持っていた煙草がほとんど燃えて、
人差し指と中指を焦がし始めた。

喉頭がんに侵されながら、私の所へ毎日来てくれていた人。
茂美は、遺影を見つめながら涙の出ない自分を恥じた。

前田の執拗な性的暴力は留まる事を知らず、
また、鬼畜もそれを楽しみ続けた。
鬼畜は金も亡者でもあった。

大原は、会社を経営したいた。
鬼畜は、「そんな遊び」も飽きたのか、
大原の金をむさぼった。そんな大原を前田が許すわけがない。
大原と鬼畜は、夜逃げするように京都の向町へと行った。
まだ、柱がたったばかりの家に茂美は置き去りにされた。
だが、もう14歳。生きていく術は知っている。
近所の農家でできた茄で飢えを凌いだ。
やがて、大原は前田に見つかり、
鬼畜と共に、茂美は前田の元に引き戻された。
たった3週間の逃亡生活である。

そして・・・4人目の父。

杉本利富。通称・とっとみ。
とっとみは、良く笑う鬼畜と仁美とは対照的に
しゃべらない・笑わない・泣かない茂美に何かを感じていたのであろう。
時々、やってきては玄関先に置いて行く果物。肉。
鬼畜は、ただの客と前田に言い聞かせていた。

今日も、とっとみがやってきたのか・・と思い
玄関を開けた茂美は、そこにいた人物に見入った。
頭を坊主にした、茂美より少し年上に見える少年。
兄・秀盛だった。
秀盛は、数日間神社の境内で野宿をし、やっとの思いで
玄関をノックした。
「秀ちゃん・・・」
始めて見る鬼畜の涙。
「お母ちゃん・・逢いたかった」
引き取られた先、茂美の父である松村から逃げてきたのだ。
(お兄ちゃん・・・?)
1週間・・・10日ほどだったんだろうか、兄と妹として暮らした日々。
その間も、隣の部屋から聞こえてくる前田と鬼畜の喘ぎ声。
秀盛の失望は、そこしれないものがあっただろう。
母と尋ねてきたのは、娼婦に似た「女」であった。
秀盛は、シンナーや薬に没頭して行った。
やがて、精神病院の閉鎖病棟から、姿を消して行った秀盛。

全てを悟ったとっとみは、前田との決別を金でかたをつけ、
鬼畜たちの生活は、新しい場所へと変わっていった。
金に全く不自由しなくなった鬼畜は、いつしか茂美への遊びにも
執着を示さなくなっていた。

「俺が、お前の盾になってやる。この金でここを出ろ。
 母親の注意がお前に向かないよう、俺が守ってやる。」

感情を失くしている茂美は、とっとみの言っている事を
理解するのに、時間がかかった。

やがて、3畳一間の1人暮らしが始まるまでは・・・

昭和49年11月。
産婦人科の1室で天井を見上げながら
(高校生活・・・終わりだな)
何分かおきにやってくる痛みの間で
ただ天井を見つめ、あの日の事を思い出していた。

いつもなら、学校が終わるとまっすぐ帰っていた。
このクラスは面白い。中学校とは違って
クラスの仲間の年齢も様々で、もちろん制服などなく、
茂美のベージュ色のVANのスーツは一際、目を惹いた。
金太郎と呼ばれる男は実におかしな奴で、
しんさい狩りにした頭をボリボリかきながら、
いつもラリッて登校してくる。登校してくると
そのまま保健室に直行し、目覚めた頃には、
もう授業は終わっていた。
終業のチャイムは鳴っていたが、茂美はまだ
黒板に目をやりながら、それをうつしていた。
「ひらやまさ~ん。たまには遊ぼうや~」
廊下の窓越しから聞こえる声は、金太郎とその取り巻き達だ。
(・・・・遊ぶか・・・)
相変わらず、無表情のまま金太郎の誘いを受け、
明石の海岸へと向かった。
そこには、更に数人の「仲間」がいて
手には、袋を持ちそれを口に当てがい、
時折、袋の底を手で捏ねながら、呼吸をしている。
焦点の合わない目をし、よだれを流してるやつもいる。
金太郎はというと、茂美に耳打ちをしながら
「チャンソリは、やったらあかんで」
と言いながら、水の入った袋を渡してきた。
テトラポットの陰に1人1人と消えてゆく。
「ふけるで」そういうと、金太郎は茂美の手を強く引っ張り
駈け出して行った。

暗い階段を登ると、カビとオスの匂いが充満している
部屋へと通された。
「ここは、大丈夫や。誰も来ない。」
そういうと、金太郎は敷きっぱなしの布団へ転がった。
茂美は、VANの上着を脱ぎ、金太郎の横に寝た。
やがて金太郎は、茂美の身体をまさぐり始め、
覆いかぶさると、・・・・あの日と同じ・・・前田・・
茂美は、シミだらけの天井を見つめていた。

どれ位の時間が経ったのだろう。
部屋の外がやけに騒がしく、階段を登ってくる足音が聞こえた。
鍵のかかったドアを蹴破る音がし、茂美と金太郎は裸のまま、
咄嗟に押入れの中に隠れた。
鬼畜が二人を見つけるのに時間はかからなかった。
髪の毛をつかまれたまま、階段から引きずり降ろされ
蹴られ、殴られ・・・・数人の警察官が止めに入る。
路上に突っ伏したまま、見上げると、毛布にくるまれた
金太郎の手には、手錠がかけられ、
「誘拐・監禁・婦女暴行で現行犯逮捕ね・・」
何が起きているのか・・・わからないまま
数か月が過ぎて行った。

杉本と新しく暮らした家は、1階に台所と部屋、
2階には6畳の続き間があった。
ふすまを一枚隔てた向こうから、鬼畜の喘ぎ声が毎夜聞こえてくる。
前田と重なる・・・・
金太郎はどうなったんだろうか・・・・
汚いやつら・・・・

「死」というものに何の抵抗もなかった。
「生」に対する執着もない。
哀しむ友もいなければ、ごめんねと書き残す事もない。
電池も切れ、錆びたブリキの人形は、やがて捨てられる。
手元にあった煙草を27本飲み、折り畳み式の剃刀で
一気に手首を曳いた。吹き出す血は生暖かく、ベッドを染めて行く。
血の上に茂美の吐瀉物が重なって、またその上に血が重なる。
激しい嘔吐の声に気付いたのか、杉本がふすまを開けた。

「お嬢さん、妊娠してますよ。もうすぐ8か月です」
カーテンの向こう側で医師が話している。
「あの馬鹿・・・手間かけやがる」
鬼畜は吐き捨てるように言うと、カーテンを荒々しく開け
茂美を別の病院へと運んだ。

「は~い、息を止めて・・・さ、いきんで」
苦ではなかった。
その瞬間、ぬるりと股間から何か固い物が出た。
そして猫が鳴くような声を聞いた。
茂美は恐る恐る聞いて見た。
「女の子ですか」
看護婦は、首をたてにふると「それ」を処理していた。
病室に戻ると、靴箱のような箱を抱えた看護婦がやってきて、
「お別れをしますか」
そういうと、その箱を茂美の枕の横へ置き、蓋を開ける。
人間の形をした、ピンク色のそれは、髪も爪もない。
小さく身体を丸め、脱脂綿の中で眠っているかのように・・・
茂美の脳の中で、何かはじける音がした。
ぼわっとした、何かわからないけれど「心」が痛くなった。
(ごめんね・・・名前・・・いる?)
そうつぶやき、「それ」に触れようとした時、
「世話、かけやがって・・」
茂美の「それ」は、鬼畜の用意したゴミ袋へ入れられ
看護婦の手へと渡されて行った。

その二日後、同じ病室で祝福を受けながら仁美が男の子を生んだ。

孤立

3畳一間のアパートの窓を開けると、建売住宅が並んでいる。
暖房のない部屋で布団に包まりながら、1軒の家を眺めていた。
おそらくリビングであろう窓は、レースのカーテンが引かれ
そこからこぼれる灯りは、赤や緑の電球が点滅し、
大人と子供が、忙しく動き回っている。
暖かい色の電球が消えると、ロウソクの火が揺れ
揺れたかと思うと、勢いよく消えた。
そしてまた電球が灯ると、子供たちの歓喜の声が聞こえてくる。
(馬鹿馬鹿しい)
隣家に聞こえんばかりの音で窓を閉めると、茂美はそうつぶやき、
布団にもぐりこんだ。

「さあ、今年の仕事も終わりだ。お疲れさん。良い正月を迎えてくれ」
がっしりとした体格の監督は、そう言うと
一人づつに給料を手渡してゆく。
茂美の手元にも給料袋と餅代と書かれたのし袋が渡された。
引っ手繰るようにその袋をつかむと、すぐ様アパートへ帰り
化粧を施し、夜の街へと出勤してゆく。

『いづみ』というスナックでは、茂美は20歳で直子と呼ばれていた。
経営者は、元一流ホスト。
店内は、仕事納めの男たちで賑わっている。
オールドとリザーブでは、リザーブの方が喉に突き刺さらない。
『直子』は、チャンスボトルを一気に空にし、次のボトルをオーダーする。
飲めば酔う。それが酒だ。『直子』には、酔っている暇などない。
オーナーの指示で他の席に付き、またそこでチャンスボトルを空ける。
ボトルを空けると、いくらかのバックがあり、『直子』は飲み続けた。
もうだめだ・・・と思うと。
(世の中で信じられるものは、金だよ)と、誰かが囁く。
そしてまた飲み続ける・・・・

夕方近く、やっと布団から出た茂美は、布団の下に隠してある封筒を
取り出すと、一枚一枚丁寧に方向を揃え、封筒を二つに分ける。
そろそろ鬼畜がやって来る時間だ。
この一つを鬼畜に渡せば、茂美は『恐怖』から逃れる事ができる。
ドアがノックされる音が聞こえると、ドア下の隙間から封筒を差し出した。
「ちっ、これだけか」
がさがさと封筒を開ける音と共に、その声が聞こえると鬼畜の足音は遠ざかって行った。
窓を少し開け、鬼畜が去っていくのを確認すると
茂美の硬直していた身体は、少しづつほぐれて行き
また、深い眠りについた。隣の部屋から聞こえてくる紅白歌合戦をききながら・・。

「茂美ちゃん、何か食べた?」
昼前に起きだし、階下のトイレへ行こうとした時、
管理人が声をかけてきた。そう言えば、酒ばかり飲んで何も食べていない。
けれど、茂美は首を横に振った。そして、
「新聞、ありますか」と聞くと、番組欄を外し、読み終えた新聞を貰った。
トイレを済まし、急いで部屋に戻ると求人欄に目を通す。
美容部員募集・・・の広告が目に入る。
募集条件:18歳以上・高卒・・・・

宿った血なのか、環境なのか。
宿命とは、恐ろしいものである。
鬼畜の天才的とも言える世間を欺く手腕は、
茂美の中にも流れている・・・
茂美はそんな自分を呪っていた。自分は絶対そうならない
と、どこかで信じていたはずだった。
だが、小学校や中学校まで頑張れと教えられていた『努力』は、
世間では何も通用しないという事を知り尽くしていた。
社会という場所が望むのは、努力ではなく結果だ。
結果とは数字・・・金である。
いくら努力して勉強しても、受験という結果を争う現場で
すべての努力は水の泡と消える。
学校というのは、実に不思議な場所である。
仕事の種類は教えるが、その稼ぎ方や使い方は教えない。
その点、茂美は幸いだったのかもしれない。
虐待と引き換えに金を手にしていたから、
それをどう使い、どう貯めるかを身につけていた。

人は3度殺されるという。
1度目は、家庭で・・
2度目は、学校で・・
3度目は、社会で・・

茂美は、中学を卒業後、学校からの斡旋でガソリンスタンドで働いた。
貧困であり、韓国人であり、中卒・・
このラべリングは、大人達から差別や偏見を記すラベルであり、
「一生懸命働いている姿・・・努力している姿」などを覆い尽くすラベルであった。
ある時、その日の日計が合わない日があり、現金が足りない。
わずか数百円の事であったが、大人の目は、ラべリングされた茂美に集中され、
それを払拭する時間さえ与えられす、茂美は職場を去った。
3度目の殺人を経験したのだ。
茂美は、全ての心を殺された。

残された僅かばかりの心が支配していたもの。
それは、関わってきた人種への復讐と、それを成し遂げる為の『金』だけであった。

虚像

長崎県唐津。境港近くの病院のベッドにいた。

ぽつぽつと穴の空いた天井の壁を数えていた。
どれ位眠っていたのか、自分が誰なのか、
どうしてここにいるのか・・・・記憶が無くなっていた。
足元に中年の女と医者らしき男の話声に、
意識が引き戻されると、酷い頭痛と吐き気がする。
中年の女は、茂美の顔を覗き込むと、
「なんや。生きとったんか・・・」
と、落胆の表情を浮かべていた。
空っぽの胃が酷い痙攣をおこす度に、
連動するかのように、頭を殴られている感覚がある。

(・・・鬼畜・・・・?)

咄嗟に身を起こそうとしたが、胸から下の感覚がない事に気付いた。
頭痛は更にひどくなり、ズキンと一波がくる度に記憶が戻ってくる。
学歴・年齢詐称で入った会社は、半年はいただろうか・・
会社はどうなったんだ・・・
男友達と四人でフェリーに乗り、唐津に着いて・・・・
水たまりがあって・・・・崖から転落した・・・・

次に目を覚ましたのは、大阪行のフェリーの中だった。
頭の中で砂時計が何度も回転している。
回転する度に、時計が逆回りしているかのように
記憶が戻っていく。
「これだけ業績がよくても、中卒の上に年齢詐称・・それに朝鮮人ではね」
椅子にすわった人事課長は、淵のない眼鏡を鼻さきにかけ、
机の上に両肘をついて、唇の横に泡を溜めながらそう吐き捨てた。
茂美は会社を辞め、何だかむしゃくしゃする気持ちを晴らす為に
付き合っていた男と、その友達を誘って唐津までいったのだ。
途中、迷った車は山道へと入って行った。
右側が山肌。左は崖。車一台がやっと通れる道幅の真ん中に
水たまりがあった。その水たまりを避けようと、右側の寄ったその時、
何かに乗り上げ、車は四人を乗せたまま、16メートル下へと転落していった。
車外に放り出されて逝く物体を、助手席にしがみついたまま見ていた。

「あの子達はどうなったん?」
「死んだ。お前もついでに死んでくれたら良かったのに。
 ほんま、悪運強いな。まあ金になるからええけどな」
薄笑いを浮かべながら、鬼畜は答えると煙草に火を付けた。
煙草の煙が、茂美の鼻先をかすめる。
煙の中に浮かぶ、友達達の顔。そして死に損ないの自分。

「背骨の一部が圧迫骨折によって粉砕され、手術は出来ません。
 脊椎の神経は、断裂されていませんが、
 骨折によって少し損傷しているかもしれません。
 歩ける可能性は、あると思いますのでリハビリに励んでください」
毎朝10時にリハビリ室へ行き、マットの上で背筋運動を繰り返す。
ギブスで覆われた身体は重い。腰にあたるギブスの端が骨盤の皮を削り、
身を削って行く。マットが血に染められて初めて気付く。
排泄の感覚も何もないのだから、傷みなどもない。
茂美は、毎日それを続けた。
もう一度歩きたいとか、死んだ友達の為に生きなきゃとかいった
感傷的な感情は一切なかった。
一日でも早く退院する事で、鬼畜の取り分が減る。
ただそれだけで、続けたリハビリは、7か月後終わりを告げた。

まだ麻痺の残る足を引きずりながら、アパートの階段を登り
部屋に入ると、そこには干からびたコーヒーカップが目に入る。
3つの季節を過ごしたコーヒーカップの内側は、
幾重にも線が出来ていて、底には黒い点が残る。
黒い点を爪でこすりながら
(こすっても消えないよな。ぼろぼろになって散乱してるだけだ・・・)
消えない過去と見えない未来。
消えないなら、隠してしまえ・・・
見えない未来なら、見せていけばいい。

幾何か手元に取り戻した賠償金で車の免許を取り、
外車を買った。
詐称するのは、学歴だけだ。学歴なぞ調べる事などできない。
一流化粧品会社の途中入社面接に合格し、寮の近くに外車を止め、
集団就職で入社してきた同期達の目を欺き、
(お前達とは違う)と、嘯き・・・・
茂美は幾重にも十二単を纏って行った。
重ねられた着物は重く、独りでは立つ事も座る事もできない。
金は自分を裏切らない。茂美は金という餌をばらまき、女官を従えた。
美しく十二単に身を包み、女官を従えた茂美に男たちがまとわりつく。
天井まで伸びた鼻で、男たちの横っ面を叩き、金を出させる。
そして、それをまたばらまく。
着物の下の身体が蝕まれていっていることも知らず・・・・・

再会

疲れていた。眠っている時でさえ身体中が痛い。
歩く度に小さな骨が折れている・・そんな気さえしていた。
それでも、業績TOPの座に君臨していた茂美は、
ハイエナのような女官に即され、会社へ向かう。
脳の中では、1匹の虫が絶えず飛び回り脳の
あらゆる回路を支配している。
何かを食べようとしても、、虫は耳元で囁く。
ある時は、(食べるな)と囁き、
またある時は、(食えよ。食ったら吐け)と囁く。
自分の意志などこの虫には逆らえない。
時折、虫は茂美の前頭葉までやってきて
(見ろよ。お前の周りの人間なんて誰もお前を助けやしない)
(お前の金が無くなったら、誰もお前に見向きもしなくなる)
虫は次第にその数を増やして行き、眼球を覆った。
明るかった照明は次第に黒くなり、茂美はその場で倒れ込んだ。

看護師では刺せない血管の壁は枯草のようのもろく、
いたるところに針の穴が増えてゆく。
「ごめんね。点滴しないと身体がもたないんだよ」
医者は、そう告げると新たな血管に針を刺していく。
白衣を着ていない若い女が、茂美のベッドの横に座り
茂美の忌々しい過去を聞き出そうとするが、
茂美は、あえて何も答えなかった。
脳を支配していた虫は、やがて姿を消し
半年の入院生活を終え、茂美は退院していった。
もう、戻る職場はない。
手元に残ったいくばくかの退職金と傷病手当、
蓄えていた貯金を元に、スナックを開店した。

多くの開店花に誘われて、男たちが入ってくる。
茂美には男たちの顔が、万券に見えていた。
しばらくして、5人ほどの男たちの最後に
万券ではない、見覚えのある顔が見えた。

金太郎だった。
金太郎と茂美の空白の時間を埋めるのに、時間はかからなかった。
そしてそれは、鬼畜にとっても都合の良い出来事であった。

ほどなく、結婚・・妊娠・・
茂美には金太郎への「愛」などなかった。
あの時亡くした「それ」への後悔だけだったのである。
金太郎は、茂美への愛ではなく、茂美の金・・・金を稼ぐ能力に惚れていた。
繁盛していた店には出る事もなくり、鬼畜と姉、金太郎の手によって閉店されていた。

昭和55年5月29日午前11時3分。26時間の陣痛に耐え
優一は産まれて来た。まるで子猫が泣くような声で。
「男の子ですよ。検査をしますので、
 赤ちゃんに逢うのは、少し待って下さいね」
そういう看護師の顔は、こころなしか強張って見えた。
父親も鬼畜もいない病室で独り過ごす時間が
ひどく長く感じられた。
夕方近くになって、保育器に入って優一が来た。
「お母さん、落ち着いて聞いて下さいね」
医者は静かな口調で、それでいて淡々と話し出した。
「赤ちゃんは、ダウン症です。
 それに、心臓もうまく動いていません。
 心臓はもう少し詳しい検査をしますので、
 このま小児専門病院へ搬送します。
 赤ちゃんの退院は、小児病院と相談して決めますね。
 恐らくですが、赤ちゃんはお誕生日を迎える事は
 できないと思います。
 それから、このような重篤な状況の赤ちゃんには
 稀に突然死が起こります。
 ま、それも専門病院の詳しい検査の結果を待ち
 そのような状態であれば、不審死と間違われないよう
 診断書も書いておきます。常に携帯しておいてください」

生きるという事は残酷である。
誰かに認められたくて、どんなに一生懸命働いても
結果を出さなければそれは意味をなさないし、
結果を出せるようになると、何かが足を引っ張る。
『何か』とは何なのだろうか・・・。

(そうか・・・死ぬのか・・・)
産まれて1か月後、優一を胸に抱いた茂美はつぶやいた。
「あのね、優君。母ちゃんはいらない子なんだよ。
 友達が死んだ時も、母ちゃんだけ生き残って
 みんなから・・・・きっと恨まれたと思うよ。
 優君、なんで母ちゃんの所になんか生まれて来たの?
 生まれて来たのに、母ちゃんより先に死ぬんだよね。
 母ちゃんも連れて行ってくれない?」
不意に胸が熱くなった。涙がこぼれた。優一を抱きしめた。

心・・・・これが心なのか・・・

50CCのミルクを1時間近くかけて飲み終えては
噴水のように吐く。吐いてはまた飲ませる。
それで1日が終わってしまう日々。
一瞬、早く死んでくれれば・・・そう思うと、
限って、優一は微笑みを浮かべる。
天使・・・それは天使が微笑みかけているかのように。
微笑みかけられると、優一を抱きしめ、何度も何度も詫びた。
眠っている時が怖い。そっと鼻元に耳を当て、寝息を聞く。
くしゃみをすると、すぐに肺炎になり、1か月以上の入院を余儀なくされる。

そんな生活が続いていた冬。
病院から戻ると食卓の上に見慣れない封筒が置かれてあった。
公民金融金庫・・・国民信用保証金庫・・・
いづれも、融資が決定したとの通知だった。
400万と600万。
鬼畜と金太郎は、以前勤めていた茂美の所得証明を
偽造し、借金をしていた。その金で焼肉屋を開店していた。
1日の売上が上がると、それを持って宝石屋へ日参する鬼畜。
おこぼれを頂戴した金太郎は、パチンコ三昧。
店は半年も経たず、潰れた。
鬼畜は、次々と借金を繰り返しその額は4000万を超えていた。
督促状は、ゴミが溜まる以上に増えて行く。
毎月返済しなければならない50万以上の金・・・
そして優一の入院生活・・・。

覚悟。生きてこの子を守る為にはそれしかなかった。
入院している昼間、茂美は当時流行っていた
トップレス喫茶で働いた。時給は6000円。
夜は病院で寝た。
やがて、優一が退院するともう働く事ができない。
流行のトップレス喫茶も、すぐにブームは去り
茂美は、昼サロで働いた。
昼サロの店長は、優一と同じ子供を持っていて
会社が経営する託児所にすぐに受け入れてもらえた。
辛い時・・・苦しい時・・・優一は相変わらず天使の微笑みを
茂美に投げかけてくる。
愛おしい・・・心がそう叫んだ。

鬼畜と金太郎は、小さな土木会社を興し
茂美は、会社の2階へと移り住んだ。
西成から日雇い労働者を15日契約で雇う。
派遣先の土木会社から1人12000円を請求し
作業員には7000円しか払わないのだから、
会社は、120人を使うほどすぐに大きくなった。
そこの社長の椅子に座っていたのは、あの時別れた
兄・秀盛であった。
誇らしげに高級車を乗り回し、高級品を身につけていた。

昭和57年4月29日。
優一がいつもとは違うひどい熱を出し、金太郎や鬼畜、兄にも
病院へ連れて言って欲しいと懇願したが、
所詮、望まれなかった命・・・
茂美はタクシ―で病院へと向かった。
翌、30日。
優一は、今まで見た事のない管があちらこちらに刺されている。
31日。優一の身体が大きく膨らんでいる。
1日。医者から告げられた。身内を呼ぶようにと。
2日。誰も来ない病院で、底知れぬ怖さに茂美は震えていた。
3日。夕刻、医者からの最後の宣告。
「優一君の脳は、もう機能していません。今は人工呼吸器で
 心臓を動かしている状態です。それもいずれは・・・
 この点滴と呼吸器を外すと、優一君の命は終わります。
 どうされますか・・・・?」
茂美は優一の小さな手を握ると、
いつもと変わらない暖かさが伝わってくる。
(母ちゃんを置いて行くんだね・・・あのね、優一、
 母ちゃんんのお腹の中に弟かな?妹かな?
 優一は、お兄ちゃんになるんだよ。それでも
 行ってしまうの?)
哀しさよりも、寂しさよりも、茂美はただただ怖かった。
二人の・・・誰にも祝福されなかった二人の絆が切れてしまう事が・・。

4日。午前11時。
心臓が止まった。医者は一生懸命蘇生させようとしている。
「やめて!これ以上苦しめないで・・・」
そう言い放つと、茂美は機械のスイッチを止めた。
身体中に刺さっていた管が外され、優一は綺麗になった。
(ありがとう・・・母ちゃん)そう聞こえた気がした。

「お母さん、亡くなられたご遺体は病院の裏口から
 お帰り頂く規則になっていますので、手続きが終わり次第
 そのようにお願いします。」
看護婦は、うつむきながらそう伝えた。
「はい」
と、頷いた茂美は優一を真っ白いおくるみに包むと、
そのまま正面玄関へと向かった。
(死んだんじゃないよね・・楽になったんだよね。
 これからも生きてるよね、母ちゃんの心の中で・・)

病院から出るバスは、満席だった。
赤ちゃんを抱いた茂美に、1人のご婦人が席を空けた。
小声でありがとうというと、優一をそっと膝に置いた。
ご婦人は、優一を覗き込むと、
「よく眠ってますね。あら?ちょっと笑ってますよ」
と、目を細めた。
「はい。良く眠ってます。病院生活で疲れたんでしょう。
 今日、退院したんです・・・」そう答えた。

昭和57年5月4日。2歳の誕生日を迎える前に
そっと旅立って逝った。
翌、5月5日。子どもの日。
優一の葬儀は社葬として送られて逝った。
きっと一人では寂しかったのだろうか・・・
茂美のお腹の子も連れて・・・・

4人部屋の窓の傍に置かれたベッドからは、
花を咲き終えた桜の木が、新緑の葉を実らせ
初夏の風が、葉達を躍らせている。

(ジョン・・・あの時、首輪を解き放した子は
 幸せだったのだろうか・・・
 ジョンの事だから、お腹が空いたらきっと
 誰かに美味しい物を貰って、好きな場所で
 眠ったに違いない。あれから随分の時が経つ。
 もう、どこかの軒下で永遠の眠りについただろう。
 私の事は、覚えてくれていただろうか・・・)

病室には、次々と見舞客がやってきて、
口々におめでとう。可愛い赤ちゃん・・・
と幸せそうな会話が閉められたカーテン越しに聞こえてくる。

(私は何の為に産まれて来たのだろう。
 鬼畜たちの娯楽を満足させるための道具なのか。
 これからも、そう生きていくのか・・・)

茂美は自分の過去を呪った。
過去は、大きな岩石となって茂美の上に覆い被さる。
渾身の力を込めて叩き潰そうとも、びくともしない岩石。
とげとげしく黒光りし、身体中を突き刺してゆく。
ふと、見上げた空に沈む黄昏の雲。
暖かだった春の終わりを告げているような雲。
春の終わりが告げられた雲を見上げて、
これからやってくる突き刺すような夏の日差しを感じながら
春という時間が確かにあったような・・・そんな気もしていた。
雲と一緒に時という時間が流れて行ってしまったように・・・

インターフォンから茂美を呼ぶ看護婦の声が聞こえる。
ナースステーションに向かうと、
「中期の死産は、出産したのと同じですから、安静にしてくださいね。
 これは、出生届けと死亡届けです。同時に手続きしてくださいね。」
2通の書類には「子の名前」という欄があって『優子』と名付けた。
退院の支度を終えた頃、段ボールでできた靴箱のような箱が
白い布に包まれて手渡され、役所で埋葬手続を済ませると
そのまま火葬場へ向かった。
火葬場の職員は、一瞬驚いた顔を見せたが
すぐさま元の顔を取り戻し、キャスターの付いた大きな台の
上に小さな箱を乗せると、
「赤ちゃんですから、1時間ほどで終わります。
 そこに待合室がありますから、そこでお待ちになりますか?」
と聞くと、
「最後のお別れです。」
と線香を差し出し、合掌を即した。
1週間前に訪れた茂美を覚えていたに違いないが、
職員は、マニュアル通り伝えると、台は奥へと進んで行き
扉が閉められた。
優一の骨は、箸で摘み上げる事が出来たが
優子の骨は、箸で挟むともろく崩れてしまう。
冷めるのを待って、湯飲み茶わんのような小さな骨壺に収めた。
そのまま海岸へ向かい、静かに押し寄せてくる浪間に
一かけらづつ・・・想いを込めて流してゆく。
初夏の日差しが背中に痛い。

(愛してたよ。ごめんね。母ちゃんの愛する人は
 みんな死んで逝くんだ・・・。お姉ちゃんとお兄ちゃんが
 優子をまってるよ、きっと。優しくしてくれるから逝っておいで)

最後の一かけらになった時、茂美は優子を口に含み
舌でそれを潰すと、ゆっくり飲みこんだ。

(ずっとずっと一緒だよ)

空虚

何も無い。
「遺骨は?」
「近所の寺の地蔵の下に入れた」
鬼畜はそう言いながら、香典の札束を数えていた。
お気に入りだったおもちゃ、着ていた服・・・・
大好きだったベビーカー、食器・・・
想い出のアルバムさえも・・・
すべて無くなっていた。全ては夢だったのか?
部屋の家具の全てが呼吸を止め、色あせて見える。
ただ、時計だけは無情に針を進めて行く。

明け方近く、西明石駅にほど近い陸橋の上に立っていた。
まもなくブルートレインが通過する時間だ。
橋げたの上に両足を揃えて立った。
不意に、背後から声が聞こえた。
「死ぬの?」
自転車の前かごと後ろかごに新聞を積んだ婦人がそう尋ねた。
「はい。」
「じゃ、後から背中押してあげるから、その前に家でお茶しよう」
婦人は、茂美の足や身体を支えるわけでもなく、
自転車にまたがったまま、静かな口調で話した。

婦人の部屋は2DKの団地で、家族はいない。
綺麗に整理された部屋の隅に、手入れの行き届いた
観葉植物が置かれ、ベランダから吹かれてくる風に踊っている。
昔ながらのちゃぶ台に座ると、上品な器に入った緑茶が置かれた。
「何があったかしらないけどね・・」そう言いながら
婦人は、便箋と封筒を茂美に差し出した。
「死ぬんなら、遺書書いた?まだならここで書きなさい」
「誰にですか?」
「あなたが関わったすべての人だよ」
「何を書けばいいんですか?」
「死ぬんでしょ?だったら最後のお礼と別れの言葉だよ」
そう言うと、婦人は洗濯機に向かい、それを干しだした。
そこから一部を取り出すと、今度はアイロンがけを始める。

ゴミ袋から拾い上げてくれたホームレスの人々
ふさやのおばちゃんや、米屋のおじさん
合田先生・・・
ありがとうで始まり、ごめんなさいで終わる遺書。
鬼畜や兄弟・金太郎・・・
恨みだけの遺書。

「あのさ、こんな遺書では、あんた死ねないよ。
 ありがとうだけで終われるならいいけど、
 ごめんなさいって言われた人は、どうすんの?
 後悔が残るよ。
 恨みの遺書読んだ人は、あんたが死んだら
 きっと保険金か何か入って、大喜びさ。
 相手の思うツボだよ」

頭の先から、鋭く細いけれど銀色に光る鉄柱を撃ち込まれた気がした。
その鉄柱は、黒く澱んだ『心』に光という穴を開けた。

無言のまま、玄関に向かうと、
「あ、それからあの死に方は良くないな。
 あなたとは関係のないたくさんの人々に迷惑をかける。」

団地の外へ出ると、初夏の日差しが眩しい。
ふと、地面を見下ろした時、小さなタンポポや、
白い小さな花が咲いていた。
人の目線より下に咲く花は、上を見上げて咲いている。
目線より上に咲く花は、下を見下ろしている。

(綺麗だな・・・・雑草と言う名の花はない・・・・)

塀の上

8人乗りのバスのフロントガラスに、
『15日契約食い抜き8000円』と貼り出し、
背中に二つの鳳凰を背負った茂美は、
職探しの男たちで、ざわついている間を
スルスルと通り抜け、いつもの喫茶店で
モーニングコーヒーを飲む。
「姐さん、おはようございます。」
鈴木は、頭をぼりぼりと掻きながら、
愛想笑いを浮かべ、茂美の前へ座った。
50も近い男が、二十歳を過ぎたばかりの
小娘に、頭を下げるのは実に滑稽である。
(アホなチンピラ・・・)
西成あいりん地区で、人夫を探すのは、
ほとんどが、男の仕事である。
センターと呼ばれる建物は、日雇い労働者で溢れ、
地方から出てきた出稼ぎ人や、
どこかから逃げてきた荒くれ男たちで溢れている。
仕事に炙れた男は、ワンカップ酒を片手に
センターで寝転がり、
また、ある男は一点を見つめヨダレを垂らしている
シャブ中・・・薬中・・・アル中・・・そんな類だ。
大の男でも、危険な場所、それがセンターなのだ。

そのセンターの真ん中を、咥え煙草で堂々と闊歩して
いるのだから、『姐さん』と呼ばれてもしかたがない。
手配師・鈴木は、どこかのうだつのあがらないチンピラで、
労働者を手配し、その労働者が15日契約を満期すると
報酬が支払われるという仕事をしている。
センターでも古株で、目利きは良い。

鈴木は、バスに8人を乗せると
「姐さん、揃いました」
と、またぺこぺこやってくる。
何度嗅いでも、嫌な臭いだ。
饐えた汗と酒の匂いが充満したバスは、
男たちが普段押入れ代わりに使用している
ロッカー巡りを済ませ、会社へと戻る。

会社へ戻ると、各々名前を聞きながら名簿を作る。
どれも、田中であったり、山本であったり・・・・
それを済ませると、男たちの宝物『手帳』を預かる。
この手帳に、1日働くと1枚雇用印紙を貼る。
15枚貼られると、男たちは満期を迎え、頭抜きされた
給料を手にする事が出来る。
その後、センターに戻り、仕事にありつけなくても、
15枚貼られた手帳を見せることで、『あぶれ手当』が
3か月支給されるで、しばらくは働かなくとも良い。
印籠のような手帳なのである。

鬼畜と兄が経営する『澄興業』は、悪どい。
男たちが10日ほど働いたのを確認すると、
追い出す・・・トンコさせるのだ。
それは、番頭と呼ばれる、同じくセンターから
拾ってきた頭の良さそうな男の仕事である。
15日未満なら、給料も払わなくて良いし、
鈴木にも手配料を払わなくて良い。
頭はねした上に、15日未満の取り下げ賃金は、
総取りしているので、あっと言う間に会社は大きくなった。

120人分の食事を作り、男たちを現場に送り届けると
寮の掃除を済ませ、経理業務をする。
何も考えたくなかった。ただ、疲れていたかった。
そうすることで、死からの誘惑を避けていた。

その日、普段とは違う疲れを感じていた。
激しい吐き気と、下腹部の痛みを感じた茂美は、
まさかとは思ったが、産婦人科へ向かった。

「おめでとうございます。ですが…
流産の兆候が見られますので、このまま入院してください。」
入院するための準備を整えて、一人病院に戻ると、
誰も来ない病室の天井を見つめながら、
この子が死んだら、自分も死ぬと覚悟を決めた。
白い天井に張られたパネルの穴が黒く見える。
一つ一つ・・・・黒い穴が・・・・
一つの黒い穴が、まるで自分の過去に見えていた。


(誰のために頑張ってるの・・・)
そう呟かずにはおれなかった。
この月齢だと、ピンポン玉位の大きさで
その輪郭は、はっきりしていて真ん中の
心臓はしっかり鼓動しているはず。
それが、一部崩れ、心臓はかすかに動いているだけ・・・
一日に何度もやってきては、眼鏡を曇らせて
病室を後にする医者や看護婦。

「おめでとう」
そう言いながらカーテンからひょっこりと顔を
覗かせたのは、あの新聞配達のおばさんだ。
「会社にあなたを尋ねて行ったら入院してるって・・」
と言いながら、形の不揃いなおはぎを重箱から取り出し
茂美に一つ、差し出した。
「ありがとうございます。でも・・・この子・・・」
と、言いかけると、
「あなたが頑張らないで、誰が頑張るの?
 もう一度、親になれるのよ!
 あなたは、その子に支えられるのよ」
そう言うと、おばさんは細い皺に涙をしみこませながら
おはぎをほお張った。
「あなたのお腹の子の命はね、あなたが決める命じゃないの」
静かな口調でそう言い残すと、重箱をベッド脇のテーブルに
置いて、病室を後にした。
手渡されたおはぎを、重箱に戻そうと蓋を開けると
おはぎは、半紙で覆われていて、そこに

『顔晴れ』

と書かれてあった。

頑張る事は、難しいけれど
顔晴る事なら、出来るかも知れない。

甘い・・・甘すぎるおはぎは、時折流れてくる涙のしょっぱさが
ほどよく・・・・胸が暖かい・・・
(顔晴れ・・・・)

昭和59年5月22日。
先に生まれた子よりも、どの子よりもその産声は高らかだった。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
5月に生まれ、5月に死んで逝ったあの子が帰って来た・・・
そう思わずにいられなかった。
産まれたばかりの裕太を抱きしめ、
(生まれて来てくれてありがとう・・・
 また、母ちゃんになれるね・・・)

そして想った・・・・
自分が産み捨てられたあの公園。
誰かが拾い上げてくれた自分の命。
か細い声でも、誰かがきっと喜んでくれたのではないだろうか。
ふさやのおばちゃんや、米屋のおじさん・・・
不正を怒る人間であれと、逝った合田先生。
顔晴れと教えてくれた新聞配達のおばちゃん・・・・
いつも、誰かが見ていてくれた。
信じられるものは、自分と金・・・・そう思い続けて生きて来た。
だが、違う。
誰かが、信じてくれていたのだ。
茂美は、「母親」がわからない。
優一の時も、病気と闘う事ばかりが脳裏を過っていた。
「母親」が解らなくとも、「人間」ならわかる。
自分が作ったたった一人の家族・・・裕太。
この子と共に、親業を学ぶ・・・・
そして、「人間」として育もうと・・・・

自由


茂美の兄・秀盛も鬼畜を恨んでいた。
秀盛が中学を卒業後、鬼畜を探してやっと
辿りつた時、鬼畜は我が子より男を優先していた。
秀盛は、1週間ほど家に居たが、その後
寿司店に奉公に出されてしまっていた。
秀盛の口癖は、
「信じられるものは、自分と金。
 その為に利用できるものは何でも誰でも利用する」

バブル景気は澄興業をどんどん大きくし、
それを聞きつけた秀盛は、ちゃっかり舞い戻り
社長の椅子に座り、金太郎は専務に、鬼畜は会長
という名目の椅子に座っていた。

寮に住む男達の夕食が終わり、茂美と金太郎は
食堂で夕食を済ませた後だった。
「ここを出るぞ」
一言そういうと、燗酒を飲み干し部屋へ戻った金太郎は、
自分の荷物をまとめ始めた。
茂美は、わけのわからないまま、裕太の着替えや自分の
着替えを袋に詰めると、新たな家へと向かった。

真新しい高級マンションには、全ての家財道具が置かれてあり
今まで見た事も無いような高級品ばかりであった。
その日から茂美の生活は一変した。
今まで家族の事など返り見なかった金太郎・・・・
(何故?)
と不思議に思ったが、同時に自由になったのかとも思った。
家にはメイドは常駐し、着たい物を着、つけたい宝石は
デパートの外商が持参してくる。
そんな生活が1年ほど続いた師走のある日、
久しぶりに帰って来た金太郎は、
「年玉だ」と言って差し出した封筒は、テーブルの上に立つ程の金額であった。
そして、胸ポケットから大事そうに半紙に包まれた物を出すと、
「これは大事なものだから、神棚に飾っておけ」
と言い残し、茂美の部屋へ入るとなにやらごそごそし始めた。
半紙に包まれたものは、白い杯であった。
「これは、何?」
「俺は企業舎弟になった。」
「企業舎弟って・・・」
「まあ、ヘッドハンティングみたいなものだ。」
「ヤクザって事?」
「そう。それも幹部だ」
「私の部屋で何してたの?」
「箪笥を入れ替えた。大事なものを仕舞ってあるから開けるな」
「会社は?」
「もうやめだ。幹部舎弟になったんだから働かなくてもいい。」
「私名義の借金は、どうなるの?」
「そんなもん、放っておけ。会社が払うさ」
「あいつらが払うわけないでしょ?」
「俺には関係ない」
そう言い放つと、外のベンツの中に待たせておいた女と消えて行った。
相変わらず、裕太はソファを上で飛び跳ねたり、
家中を走り回っている。
疲れたのか、キングサイズのベッドに登ると
そのまま小さな寝息をたてていた。
(ヤクザの女・・・・ヤクザの子供・・・)
除夜の鐘が、心を打ちぬいてゆく・・・・

正月も過ぎた頃、家には男たちが絶えず出入りし
リビングで神妙な顔をしながら話し合っている。
着替えをしようと、箪笥部屋に入った茂美は、
開けるなと言われていた和箪笥が気になった。
そっと開けると、そこには油紙に包まれた10丁ほどの拳銃があった。
そういえば・・・テレビのニュースでどこかの組長が殺されただの、
暴力団同士の抗争が始まっただのというニュースが流れている。
茂美はその中から一丁の拳銃を取り出すと
男たちに混ざった金太郎にそれを向けた。
「あなたたちは、ヒットマンなの」
一様に男たちの膝の震えが見えた。
金太郎は、真っ青になった唇を震わせながら
「それをしまえ!!」と強い口調で命令をしたが、
手も足も肩さえも震えていた。
拳銃をリビングのテーブルに放り投げると、
自分の部屋に戻り、裕太を抱きしめながら、逃げる決意をした。

宿命とは、宿った命。自分ではどうする事もできない。
その宿命のまま、自分の意志ではない人生を26年間生きて来た。
逃げても逃げても、追いかけてくる鬼畜からの執念。
支える事も、支えられる事もなく、道具のように活かされ続けた時間・・・

運命・・・自分で運ぶ命。
宝物の裕太に支えられ、この子を大事と思い生きて来た1年半。
この子にだけは、幸せを与えたい。
例え、両親が揃っていなくとも、例え、どんな貧乏が待っていようとも
愛する心は、与えられる。そして、愛される事も手に入れられる。

「私、逃げるからね。この子と・・・・」
そう言って離婚届を差し出した。
金太郎は、凍りついた目で茂美を見ていた。
「条件がある。判子を押す。そしたら・・・俺も逃がしてくれ・・」
「逃がすって言っても・・・・」
ふと、亡くなった優一が入院していた時、知り合った友人がいる。
その友人は、障害時を抱え、今は金沢で小さなスナックを
経営している事を思い出した。
友人に電話をかけ、一部始終を話した。
友人は、茂美の気持ちを察し金太郎の組み抜けの手伝いを快諾した。
持っていた金を全て金太郎に渡し、新大阪まで見送ると
茂美はそのまま下りの電車に飛び乗った。
着の身着のまま・・・子供だけを抱きしめて・・・
ヤクザの女など、誰も助けてはくれない。
勿論、鬼畜も兄も・・・少ない友人さえも電話を切る。
各駅停車の電車はどこまで行くのだろうか・・・
一駅ごとに乗客は入れ替わり、楽しそうに話している人や
読み物に耽っている人・・すぐに眠る人・・
みんな幸せそうに写る。
裕太は、初めて乗る電車にはしゃいでいる。
手のひらに広げた5千円札。
これだけが、この子と生きていく金。
「乗車券を拝見します」
乗務員が当たり前のように茂美の横に立つ。
「すいません。入場券しか持っていませんが、
 この電車はどこまで行くのですか?」
「姫路が終着です。」
「これで、精算してください。」
と5千円を渡した。

昭和61年2月4日。
夕暮れの姫路駅は、凍りつくような寒さだ。
ポケットの中の数千円では、泊まる宿もない。
風の吹きこまない駅の構内で、おぶっていた裕太を
胸の前でコートに覆い、子守唄を唄った。
「あーちゃん、あったかい」
そう言うと小さな寝息をたてはじめた。
(あーちゃんもあったかいよ)

しばらくすると、大きな荷物を自転車に積んだ初老の男性が近づいて来た。
「あんた、逃げて来たんだね。こんな所でも縄張りがあるんだ。
 子供を抱えてちゃ、追っ払う事もできないねえ・・・}
そういうと、男性はどこからともなく大きな段ボールを運んできた。
それは、親子がすっぽり入れる冷蔵庫の段ボール。
「風邪、引くなよ」
そう言い残すと、男性はおぼつかない足取りで自転車を押して
暗闇に消えて行った。

冷蔵庫の段ボール組み立て、一緒に添えられてあった
新聞紙を段ボールに敷き詰めると、コートに包んだまま
裕太をそっと降し、おんぶ紐を枕に茂美は横になった。

好きで我が子を死なせる母が
どこにいましょういるならば、
それは鬼です、母親じゃない
白いくちなし 匂う夜は
なぜかあの子が この乳房
探し求めている気がします

それであなたの 気が済むならと
酷い仕打ちも 裏切りも
絶えてきました やつれた胸で
そんな私を 置き去りに
逝ったあなたを 恨みます
ましてくちなし 零れる宵は

可愛い我が子を 亡くした母に
乱れ縁の置き土産
抱けば泣けます 幼いこの子
白いくちなし 目で追って
こぼす笑顔に罪はなし
生きて行きます この子とともに

金田たつえの詩が、泪と同時にこぼれた・・・・

今頃、鬼畜は・・・兄は・・・・
考えながら、暖かい段ボールの中で

(自由になった・・・)
と・・・・

バトン

(この生活も悪くはないな・・・独りだったら・・)
駅の住人達は、一様に無口だ。
新入りが来ても、過去を探らず、過去を話さない。
未来に夢を語る者もいなければ、それを強いる者もいない。
最初に段ボールを運んできてくれたおじさんは、
毎日、どこからともなくやってきて食事を与えてくれた。
ある時は、おにぎりだったり、パンだったり・・・
おそらく、70歳前後だろう。
「あんたは食わんでもええけど、子供はのう・・・」
東北訛りの優しい口調で、ぽつりと話す。
「おじちゃん、もうどれくらいこの生活してるの?」
「もう忘れたわい。それよりはよ食え」
少し固くなったパンを裕太の口へ運ぶと
満面の笑顔でそれを食べる。
おじさんは、目を細め裕太を見つめている。
「おじさん、家族はいたの?」
「それも忘れてしもうた。もうここが終の棲家じゃ。
 あんた、若いんじぇけん、働けえよ。」
きっと、このおじさんには嫁も子供もいただろう。
家族を捨てたのか・・・捨てられたのか・・・
小柄で痩せてはいるけれど、手はゴツゴツとしている。
形の変形した老眼鏡を、小鼻の上に乗せ、
生きて来た年輪のように刻まれた深い皺には、
一本一本、優しさを感じる。
裕太がパンを食べ終えると、
「あんたも生きなきゃいかんよ。」
そう言い残すと、荷物を積んだ自転車を押しながら
またどこかへ消えてゆく。

「おうち、おうち」
と言いながら、段ボールの周りを走り回る。
ほんとうに元気な子ども・・・
優一を重ね合わせてしまう・・・・この頃のあの子は・・・

この生活が慣れた頃、よしみと名乗る初老の婦人が
茂美に声をかけた。
「あんた、どこから逃げて来たん?」
「・・・・・・・」
「まあええわ。子どもの為にうちで働かんか?」
よしみは、毛玉がたくさんついたスウェットを着、
古ぼけた袢纏を型に引っかけ、足元は素足に草履を履いていた。
「ついて来いや」
段ボールをたたみ、中に広げていたたくさんの新聞紙をたたみ・・・
駅の柱に立てかけた。
たたんだ新聞紙が風でパタパタ音を立てている。
その音を遠くに聞きながら、
茂美はとぼとぼ歩くよしみの後ろを歩いて行った。

当時ではまだ珍しいオートロック付きの自動ドアのついた
マンションは、よしみの恰好とは縁遠い。
ポケットからオートロックを開ける鍵を取り出すと、
エレベーターの最上階のボタンを押す。
裕太は相変わらず、はしゃいでいる。
部屋に案内されると
「ちょっと待っててや」
そう言うと、よしみはたくさんある部屋へと入って行った。
リビングの豪華なソファに座り、部屋を見渡すと
舶来物の調度品や、手入れの行き届いた観葉植物が
茂美と裕太の眠りを誘った。
疲れたいた・・・・
過去の自分を呪い、寒さと飢え・・・
守らなければならない命があるのに、見えない未来・・・

どれ位眠っただろうか・・。
いつのまにか掛けられていた毛布から顔を出すと、
さっきとは違う、こざっぱりとしたよしみが向かいの
ソファにくつろぎ、昼ドラマを見ていた。
「あんたがどこからどうして逃げて来たかは、何も
 聞かへんよ。けど、子どもの為に今日からうちで働き。
 うちは、水商売やから長くは働いたらあかん。
 ちゃんと目標決めて、次へ行くんや。
 子どもの事は、うちの会社の託児所に預けたらええ。」
よしみは、数店舗を経営する女社長だった。
「うちもな、若い頃逃げたんや。そして拾われた。前の社長に。
 うちは、子どもおらへんかったけど、一生懸命働いた。
 いつか、社長に恩返しをしようって思ってな・・・
 けど、うちが稼げば稼ぐほど、社長も稼ぐ。
 どこまで行っても、社長とうちの距離は縮まれへん。
 やっと恩返しが出来るかなと思った時、社長は逝った。
 社長はな、いつも言ってたわ。恩は次へと渡せってな。
 そやから、あんた、頑張り」
茂美はせきを切ったように、自分の過去や
逃げてきた理由を話した。
「話したかったら、話し。けどな、あんたに
 何があったか、うちには関係ない。同情もせん。
 話しても、右から左・・・今日や。今日が一生や」
茂美は話を止めた。そして、
「どこで働けばいいですか?一番稼げる所・・・」
「そうやな・・・クラブは稼げるけど、衣装や髪のセットで
 余計な金がかかる。どれ位働く?どれ位金、貯める?」
「1年・・・それか、1000万・・・」
「そうか・・・それやったらピンサロがええな。
 男に身体さわられるけど、経費がかからん。
 それでもええか?あんた綺麗やからすぐ売れっ子になれるわ」

姫路・魚町からほど近い大きな道路に面した所に
『赤いライオン』と派手な看板の上った店へと
案内され、店長と合った。
「じゃ、さっそく店名を決めようか。何がいい?」
「決めて下さい」
「・・・・店番は55番。店名はナンシー。それで行こう」
次に店長は、店の給料システムを話し出す。
「もし、保証級が売り上げの50%を超えたら、
 保証級をやめて、その50%を下さい。
 それ以降、日給はいりませんから、指名売上の 
 50%を下さい。」
自信があったわけではない。覚悟したのだ。
ここで、どんなに嫌な事があっても、
拾われた茂美と裕太の二つの命、生きてみせると。

店から支給された衣装は、身体が透けて見える短いナイトウェア。
それを身に纏うと、客待ちの待機中、
店内に流れている曲に合わせてホールで踊る。
(あの頃・・・化粧品会社の帰り、よく踊りに行ってたなあ・・)
10年前のサタデーナイトフィーバーを思い出しながら、
狂ったように、踊り続けた。
男に身体を触られる・・・・茂美にとってそれは苦痛の
何物でもなかった。
あの時の前田の目・・・・金太郎が女を作った理由・・・
トラウマを振り切るように・・・覚悟を決めて踊り続けた。

世間はバブル景気で沸き立っていた。
指名の女がいない客は30分飲み放題で、
本番という名称で店へ入ってくる。
30分の間に、客に付く女は10分で入れ替わる。
その10分間で指名に切り替えさせるのだ。
指名に切り替わると、50分単位で料金が上乗せされる。
30分の間に気に入った女が見つからなければ、
ホールで踊っている女を店内指名する事ができる。
指名された女は、2階のホールへと客と上って行く。
「55番ナンシーさん、3番テーブルご指名です」
曲の合間に、アナウンスが流れ、茂美は初めて客に付いた。
ナンシーは人形になった・・・・

店を午前0時に出ると、まっすぐに託児所に裕太を
迎えに行く。眠っている裕太をしばらく眺め、
起こさないよう、そっと抱き上げる。
男に触られた身体で、子どもを抱く・・・
惨めさと恥ずかしさと・・・不潔な身体・・・
裕太を抱き上げると、すぐに目を覚まし、
「あーちゃん、おかえり」
と拙い言葉で笑顔を投げかける。
身体の中に溜まっていた黒い煙が、
脳天からすーっと抜ける感じを覚え、
「ゆう君、ただいま」
と、笑顔で抱きしめる。

『55番ナンシー』は、人形から女優に変わった。
瞬く間に売れた。

昭和61年12月31日。茂美の箪笥の中には、
1200万円の金が入っていた。
「よう頑張ったな。これからどうするんや?」
「大阪に行きます。昔、住んでいた辺りへ・・」
正月3が日をよしみの家で過ごし、
1200万円の金を持ち、1月4日、よしみの家を出た。

大阪駅の複雑な歩道橋の上に立ち、
『茂美』という名を捨てる事・・・
自分の人生は自分で決める・・・
冬空を見上げ、茂美は裕太を抱きしめた。

また、あの鬼畜が現れる事も知らずに・・・・

呪縛

呪縛

一般社団法人 日本ソーシャルマイノリティ協会 (通称新宿24時間駆け込み寺)代表・玄 秀盛の実妹の歩んできた道。 突き当たってしまったのは超えられない壁ではなく、開ける事の出来る扉なのです。 苦難を乗り越え、最後に手にしたものは、「精神障がい者」と「幸せ」。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青春
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 出生
  2. 幼少期
  3. 幼年期
  4. 始まり
  5. 少女期
  6. 思春期
  7. 孤立
  8. 虚像
  9. 再会
  10. 空虚
  11. 塀の上
  12. 自由
  13. バトン