うさぎの恩返し

プロローグ「旅立ち」

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 まだ、携帯電話もインターネットも、あの頃の庶民には無縁の存在だった。ようやくパソコンなんてものが登場してきていて、会社のオフィスや金持ちのおぼっちゃまの家には置かれ始めてはいたようだけれど、無論僕ら庶民には縁遠いものだった。
 携帯の電子メールなんて想像すらしなかったし、自室にこもってネットで他人とゲームしたり、チャットで話をするなんて、ごく一部の遠い世界の人たちの話だった。
 
 そして僕を取り巻く世の中はというと、まだバブルなんて言葉も知らないくせに、馬鹿げているほどに皆上昇志向に満ちていて「日本は太平洋戦争には負けたけれど今度は経済戦争で世界を支配するのだ!」なんて愚かしいことを、低賃金で働くしがない労働者までもが当たり前のように本気で叫んでいて、まるで僕等は、その戦争のための新兵だった。
「今は受験戦争なのだから皆敵だと思って気を抜くな!」とか「他人を蹴落としてでも学歴社会に生き残るのだ!」とか「偏差値が50以下な奴など脱落者だ!」とか「勉強を怠けて5時間以上寝ている奴は失格だ!」とか、あのころの教師たちは、まるで新興宗教の伝道者のように毎日あきもせず、そんなことばかり叫んでいて、そこから落ちこぼれた人間は生きる資格もない欠陥品だとでも言いたげで、僕等は日々、そうした脅迫観念の中で怯えていた。
 もはや自分の夢のために学びたいなんて考えを抱くことさえも、甘えた幻想物語であるかのように教えられていて、己が夢を実現したいのなら、まずは皆を踏み台にして、人肉の山を這い上がれとでも言いたげであった。
 ・・・でも、気の弱い僕に、そんなことは始っから無理だった。そして、そんな時代の渦中にいた僕は、案の定、落ちこぼれとなった。

                  (1)
 あの日のことはあまり覚えていない。そもそも、まるで無計画だった。真夜中で、真っ暗で、静かだった。全然眠れなくて、ふらりと階段を下りて、リビングに行った。
 たまに親父がグラスに垂らすぐらいにちびちびと少しづつ飲んでいた15年ものだかのジョニーウオーカーが目について、僕はそのボトルを空にした。
 ウイスキーなど特に好きでもなかったし、それまでほとんど口にしたこともなかったが、冷蔵庫に冷やしてあったコカ・コーラで割ると結構旨くて、気づけば全部飲みほしていた。

 僕は音を押し殺しながら、奇妙な喚き声をあげた。声を出さずに叫んだ。もがいた。うずくまり、泣いた。ただ、意味も分からず、訳も分からず、ただ、どうしようもない心の中の鬱積を吐き出したかった。涙が溢れ出すと、少しだけ楽になれた気がした。だから、必死で泣いていた。ただ、音を殺して泣き続けた。
 ふと見上げると、薄暗い室内が奇妙に歪んで見えた。気づけば、体がフラフラして思うように動かなくなっていた。仕方なく、僕は床にしゃがみこんだまま考えた。
 どのくらい時間が経ったのかは判らない。まるで世界が静止しているような感覚だった。音も感じず、空間も曖昧だった。・・・そんな時間が、しばらく過ぎていった。

 大学受験に失敗し、表向き浪人生を語っていたが、現実には予備校にすら通っていなかった。もうすぐ二十になろうというのに何もしていなかった。バイトをしたこともあったけど、いつもドジばかり踏んで、怒鳴られて、自分が嫌になるだけだった。
 言うまでもないが、彼女なんていない。いたこともない。高校時代に好きだった娘はいたけれど、無論相手にもされなかった。「私に、あなたは必要ない」と言われ、自分という人間を自覚した。
 そして僕には、心を割って話せるような友人すらもいなかった。孤独が当たり前で、ひとりでいることが普通で、空っぽの自分の心を、誰かに支えて貰いたいなんて、考えることさえ馬鹿げていたのだ。
 もうこの半年近く、ほとんど家の外に出ていなかった。近所の人にも、無論父や姉にも、誰にも会いたくなくて、出来る限り自室にこもっていた。
 季節はもう夏になっていたが、ポンコツのエアコンはまともに仕事をしなくって、暗い室内は、いつもジメジメとしていて、憂鬱な気分を増長させた。
 ・・・だからもう、この部屋にこのまま居続けることにさえも、限界を感じていたのである。
 どこか遠くへ、僕の知らない、僕を知らない、どこか遠いところへ旅立ちたかった。

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 心を決め、僕はけだるい体を持ち上げた。椅子を支えに立ち上がった。いまだ頭はフラフラで意識は朦朧としていたが、動けないほどではなかった。
 ゆっくりと階段を上り、自室に戻り、カバンを探した。少しばかりの着替えと適当に思いついた日用品をナップザックに詰め、手持ちの有り金を全て財布に入れて、僕は部屋を後にした。誰にも気づかれないように、足音を消し、そっと靴を履いた。

 家の玄関を出て、ふと見上げると、暗い空にほんの少しばかりの星が静かに輝いていた。

第一章「願い札の花火」


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 ・・・赤い光、真っ赤な光、・・・赤い、赤い、赤い空。

 ・・・ああ、夕焼けで、もう空が真っ赤だ!

 いそがなきゃ!
 いそがなきゃ!

 早くしないと、日が沈んでしまう。

 ・・・うっ、息が持たない。足が、思うように動かない!
 っくそっ!
 息なんてできなくていい!こんな足、どうなろうと構わない!
 急ぐんだ!走るんだ!
 ・・・早く!早く!早く!!!

 俺は死んでも構わない!このまま、息絶えたって構わない!

 ・・・彼女の願いを叶えなきゃ!

 なんとしても、日が沈む前に、この御札を届けなきゃ・・・



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 「・・・・・?」
 ・・・ふと、目が覚めた。ひどく暑かった。
 額を手で拭うと、ひどい汗だった。シャワーを浴びた後みたいにびしょびしょだった。
 虚ろな意識の中、辺りを見回すと、そこは列車の車内だった。常にグラグラと揺れていて、レールから響く騒音もひどくて、とても快適とは言えない乗り心地だった。
 車内の内装もオンボロで、塗装は無駄に厚く塗られていて、所々ひび割れていて、網棚の網は荷物を乗せたら破れそうなほど変色していて、それら以外の部分も全体的に薄汚かった。また、僕がずっと横になっていた七人掛のシートには奇妙な悪臭が染み付いていて、その匂いが鼻に付き、その後もなかなか抜けなかった。
 そして何より、ひどい暑さだ。見れば天井には金属製のごっつい扇風機が付いていたが、ガーガーと音ばかりが大きくて、単に熱風をかき回しているだけにしか思えなかった。

 とりあえず、二日酔いと脱水で未だにフラフラとする体を無理やり引き起こした。頭を上げ、改めて車内を見回すと、この列車には自分以外の乗客など一人もいないことがすぐに分かった。なぜならこの列車は、もはや列車とは言い難いことに、この一車両だけで走っていたからだ。当然車掌もおらず、運転席の後ろには『ワンマン』と書かれた札が貼ってあった。
 また駆動音を聞く限り、どうやら電車ではない。ディーゼルか何かだろう。バスのような排ガスの匂いが鼻についた。普段、都内を中心に電車しか乗ったことのない僕には、ある意味新鮮ではあった。
 これは、どう考えても、ド田舎のローカル鉄道だろうことは想像がついた。しかし僕は、この鉄道が日本の中の何処を何処に向かって走っているのかも、まるで判らなかった。

 思えば、昨晩、親父のウイスキーをガバ飲みして家を出てからの記憶は、はっきりとしない。まともにまっすぐ歩けない状態のまま、とりあえず最寄りの駅までフラフラしながら歩いては行ったものの、真夜中の駅は当然閉まっていて、始発の時間まで駅前の公園のベンチで仮眠を取った。
 改札口のシャッターが開く音に気がついて目を覚まし、朦朧としながらホームに入った。そして、たまたま目の前に止った電車に乗り込んで、多分終点までその電車に乗って、その列車が完全に止まると、そこでまた次の電車に乗り換えたのだと思う。そしてそんなことを、その後も何度か繰り返したはずだ。
 切符は適当に買っていたので、列車内で車掌に精算して貰った気がする。だが、泥酔していて記憶は曖昧だ。とにかく僕の目的は、少しでも遠くに行くこと。それだけだった。だから列車の行き先も見なかったし、自分のいる駅が何処なのかも確かめなかった。
 酒酔いがなかなか抜けなくて、何度も駅や車内のトイレに駆け込み、ゲロを吐いた。サラリーマン風のおっさんに睨まれたり、OLらしき女性に気持ち悪い顔をされたりもしたが、もうどうでもよかった。むしろ、自分が惨めたらしく見えれば見えるほど、こ気味良いとさえ感じていたのだ。
 ・・・そして、ふと目覚めたら、いつの間にやらこのポンコツ車両に乗っていたというわけだ。

                  (2)
 ようやく酒酔いの方は覚めてきていたのだが、今度は酷い二日酔いに襲われていた。頭がガンガンと痛むのはもちろん、未だ吐き気もあって気持ちが悪い。多分、身体は脱水しているのだろうけれど何も飲みたいとは思わない。また、昨日の晩から何一つ口にしていないのに何も食いたい気がしない。だから、このまましばらく、この薄汚いシートに横になっていても良かったのだけれど・・・。
「・・・暑い」
 なんだか、脳みそまでもがすっかり茹だってしまったみたいで、どうしようもなく不快だった。とてもこのまま寝ていられるような状態ではなくなっていたのである。
 とりあえず、座席の脇の窓だけでも全開して、思い切り風を浴びたくなった。
 それにしてもこの車両、真夏で冷房もないのだから、もう少し風通しを良くしていてもいいと思うのだが、何故だか車内の窓はどれも申し訳程度にしか空いていなくて、換気は不十分と言わざる得なかった。
 だが運転席の方をふと見てみれば、運転手は横の窓を全開にして涼しげな顔でいるではないか!腹が立つ。ならば自分も!っと、窓枠の両端にあるステンレス製のつまみを握って、力いっぱい窓を持ち上げてはみたのだが・・・。
「・・・あれ?」
 少し持ち上げたところで、ガリッっと、窓枠がかじりこんだみたいで突然動かなくなってしまった。
「くそっ!・・・あっ!・・・げっ、なんだよ!?」
 うっかり手が滑って、窓が落ちて、そして結局完全に閉まってしまった。最悪だ。嫌気がさす。いつも俺はこうだ!何をやってもうまくいった試しがない!
「・・・生きているのも嫌になってくる。もはやどうでもいい。まあ、このまま、このオンボロ車両の中で熱中症で死に腐るのもいいかもしれない。それが、今の俺にはお似合いかもな?」・・・と、その時だった。
「はっ!」
 突然、目の前の視界が開いた。それまで車窓を塞いでいた生い茂る樹木の緑葉がカーテンを開いたみたいにサーッと無くなって、そこに美しい海が広がった。
 線路は少し高台にあるらしく、海は水平線の彼方まで、雄大に、無限に、大きく広がって見えた。僕は、その景色に吸い込まれるように、窓ガラスの存在も忘れ、車窓に張り付くようにして、その海をじっと見つめた。
 何故だか、涙が溢れ出てきた。涙を抑えきれなかった。広大な海の中に、何かを感じた。海は、真夏の日差しを反射して、美しく、キラキラと輝いていた。久しぶりに目にする自然の情景だった。何故だか、自分が、その輝きの中に包まれている気がした。
 ・・・だが、その直後、再び僕の視界は閉ざされた。生い茂る緑が、再び眼前を覆った。僕の目の前から、海は消えた。・・・無に帰った。
 だが、その直後、僕以外誰もいない車内に、アナウンスが響いた。次の停車駅を知らせるものだった。
「この列車は、間もなく浜見駅に停車します・・・・・」
 僕は何の迷いもなく立ち上がった。あの海を、もっと間近に見たかった。ただ、それだけだった。

                  (3)
 運転席横の料金回収機に運賃を投げ入れ、僕は何の迷いもなく列車を降りた。一人の乗客すらも失った列車は、何の躊躇いもなく、すぐさまその駅を離れた。そして、僕はその駅でたった一人きりになって、そこでようやく自分の置かれた状況に初めて気づいたのだった。
 うかつだった。僕はそれまで、旅なんかほとんどした事がなかったのだ。だから、何も考えてはいなかったのだ。
 驚いたことに、この駅には自販機の一つも無かった。無論、車内で運賃の精算を済ますぐらいだから駅は無人だった。駅員もいなければ、当然売店もない。駅の周囲は、鬱蒼とした森に囲まれていて、全くと言っていいほど人けがなかった。そして、この駅の周辺には人家の気配さえもなかったのだった。
 ・・・まいった。
 とりあえず駅の周囲を歩き回ってみたが、結局何の成果もなかった。観光地にありがちな周辺の案内地図すら見当たらない。駅には、崩壊寸前の小さな木造駅舎はあったものの、空白だらけの時刻表が掲げられているだけで、単に虚しさを煽るだけだった。

                  *
 駅の前には舗装もされていない砂利道が真っ直ぐに通っていた。左に行くべきか?右に行くべきか?迷ったが、なんとなく左へ進んだ。
 確かに今にして思えば、駅にそのまま留まって、次の列車を待つほうがよかったのかもしれない。しかし、あの時の僕は、とにかく海を見たかったのだ。何故だかは知らないが、無性に、再びあの海が見たかった。あの、列車の中で見た、あの海を、もう一度、間近で見つめたかった。そんな衝動に押し流されていたのである。
 だが、その考えは完全に失敗だった。僕はしばらくの間、無心になって足を進めたのだが、全く海になど近づけなかった。むしろ、周囲の景色は次第に山深くなっていっくだけで、いつまで経っても一向に海の方へと向かっているとの感触が得られないままだった。
 考えてみれば、ここまでずっと上り坂ばかりだった気がする。海に行きたければ、山を下るべきである。当たり前のことだ。
 ・・・だが、その当たり前に気づくのに、僕はありえないほど無駄に足を進めすぎていた。何も考えていなかった。まるでゼンマイ仕掛けのブリキの人形のように、僕はただ目前だけを見て、機械的に歩き続けていたのだ。
 そして、ふと我に返った時、僕は深い森林に囲まれた山中で独り、迷子同然となっていた。
 固く巻かれていたゼンマイが緩みきって、僕はとうとう力尽きた。糸の切れたマリオネットのように、そこに座り込んだ。
 疲れきった尻を預けた腐りかけの倒木は、少し湿っていたが、そんなことはどうでもよかった。ふと天を見上げると、木の隙間から真っ青な空と、その大海原を悠々うと泳ぐ真っ白な雲が見えた。
「・・・もう、どうでもいいや」
 無意識に呟いていた。
 ひどく疲れた。動いたおかげか頭痛の方は治まってきたが、逆にその分、身体の激しい疲労感に襲われた。喉の渇きもひどかった。喉がカラカラで、吹き出す汗が疎ましかった。頭がぼんやりして、まともな考えが浮かんでこない。もはやどうしたらいいのか、どうしたいのかも判らなくなってきた。
「もしもこのまま遭難して、ここで俺が死んだとしたら、皆どう思うだろう?親父は泣くかもしれないし、自殺したのかと勘違いするかもしれないな。
 ・・・それも、仕方がないか。
 高校の頃の友達は、何を思うだろう?「やっぱり」って思うかな?アイツらしい惨めな最後だって、思うかな?きっと、酒の席での笑い話の種にでもなるんだろうな。
 ・・・まあ、生きていたって、クソほども役に立たない俺が死んでも、皆すぐに忘れちまうだろうけどね」

 生い茂る木々が日除けになって幾分救われたものの、空気は湿っていて蒸し暑く、怒りを込めた叫びのようなセミの鳴き声だけが、エコーを掛けたみたいに僕の耳の奥で、ただ止むことを知らず鳴り響いていた。

                  (4)
 気を取り直し、僕は再び歩き始めた。そもそも、こんなところまで、僕はいじけるために来たわけではない。何かを見つけに来たのだ。
 人目を避け、自室に引きこもっている自分に嫌気がさして、そんなみっともない自分を振り払いたくて、この旅を始めたのだ。
 今までのダメな自分を捨て去って、生きる意味のある自分にしたかった。確かに、今の自分には夢もないし、必要としてくれる人もいない。・・・でも、それでも、少しでも前へ進まなくちゃ、何も始まらない気がしたのである。
 きっと、前にさえ進めば、きっと、何かがあるって、そう信じたかったんだ!

                  *
 元居た駅を目指して、来た道を戻るつもりだった。だが、どうやら完全に道に迷ってしまったらしい。山を下るどころか、気がつけば目の前に続く道は上り坂ばかりになっていた。
「さすがにヤバイか・・・」と、少し気持ちが怯え始めてきた頃だった。ふと、樹木の鬱蒼と生い茂る山道の先に、少々明るく開けた場所が覗き見えてきた。
 急ぎ足を早め、その場所に到達してみると、そこは山の端から少しばかり地面が張り出した感じで、また周囲に樹木も少なく、いわば天然の見晴台のような構造になっている場所だった。
「これは、ラッキー!」
 ようやく功名が見えた気がした。辺りを見回すと、やはり周囲は小高い山に包まれていた。しかし、自分がいる場所が、それほど山深いところでもないこともすぐに分かった。
 見れば、少し下の方には人家の屋根がいくつも見えていた。少しばかり山を降れば、すぐにでも、その集落へとたどり着けそうな感じだった。また、集落のさらに先には海も見えた。
 本当に馬鹿げたな話だが、きっと駅を出た時、あの一本道を反対方向に進んでさえいれば、あっという間に海に出れられたのでは?という気がした。
 しかしながら、近くに人家があることがわかっただけで凄く安心した。正直、このまま山中で餓え死ぬのではないかと、真剣に心配し始めていたのである。別にいつ死んでもいいのだが、皆に自殺したなんて思われることだけは、絶対に嫌だったのだ。
「はーっ」と、無意識にため息が出ていた。これで一安心という感じで、肩の力が少し抜け、緊張の糸が緩んでいた。
 ・・・だが、まさにそんな瞬間だった!
『ボン!ボン!ボボボーン!!ボン!ボボーン!!ボボボーン!!!』
 激しい爆音が響いた!爆音は山々に反響し、地響きのようにさえ思えた。僕は何事かと驚愕した!
 慌てて周囲を見回すと、海の方角で煙が上がっていることに気がついた。細い白煙が幾本も、真っ直ぐに天に向かって伸びていた。
 上空には紙切れのような白い何かが、ばら蒔かれるように散っていた。そしてその白煙の根元は、海に張り出した岬の高台あたりにあった。また、その高台には神社のような、少し特殊な形状の建物が建っているように見えた。
「・・・花火?」
「そうじゃよ。あれは、祭りの花火じゃよ。あれで、村中に願い札をばらまくんじゃ」
 僕はびっくりして振り返った!何気ない独り言のつぶやきに、突然返事が返ってきたからだ。
「うわっ~!?」
 僕の背後には、何故だかいつの間にやら、見知らぬ爺さんが立っていて、金歯混じりの歯をむき出しにして、ヘラヘラと笑っていた。
「どうした?若いの。あの程度の花火でビビっちまったのか?全く、ダメな奴じゃのう。図体ばかりでかくて、そんな小心じゃ女の子にモテんぞ。あはっはっはっはっは!」
 あまりにも突然なことで、僕は何も言い返せなかった。

                  (5)
「あの花火には仕掛けがあってな、花火の中に神社の御札が仕込んであるんじゃよ。そいつをああやって神社の境内から、村中、四方八方に飛ばすんじゃ。
 お前さんにも見えたじゃろ?いくつもの小さな白いパラシュートが空高くで開いていたのを。御札はああして、風に乗って、何処へともなく飛んでいく。その何処かへと落ちていったその御札を探して、拾って、そいつを祭りの日の日没までに神社の境内へと納に行くんじゃよ。
 するとな、たとえどんな願いであろうとも、それが、その者の真に求めるものならば、その願い事を神様がきっと叶えてくれると、そういうわけじゃ」
 爺さんは、僕が尋ねもしないのに、道すがら勝手に一人であの奇妙な花火の説明を続けていた。正直、少しウザかったが仕方がない。こちらが頼んで道中を付いて来てもらったのだから。
 そう、僕はその偶然出会った村の住人らしき爺さんに道案内を頼んだのだ。だが、それはやはり正解だった。この山道は僕の想像よりも少々複雑で、思いがけないところで分岐していたりして、こうして誰かに案内してもらわなければ、きっとまた、僕は迷っていたに違いない。
「ああして花火を使って村中に御札をばらまくのも、古い伝説から来ていることなんじゃ。この村に伝わる古い古い言い伝えじゃよ。この願い札の花火は、十二年に一度の大祭の時にだけ行われる、由緒正しき儀式なんじゃ。
 しかし、お前さんはついていたのう。こんな良き日に、この村にやってくるとは。もしも運良く御札を見つけることができれば、きっと願いが叶えられるぞ。そう、それが、どのような願いであろうとな。ほんとうに、お前さんは運がいい。
 ・・・いや?・・・もしかしたら、お前さんは、導かれたのかもな!そもそも、こんな何もないところに、旅人など、めったに来やせんのだから。
 ・・・あるいは、これは、伝説の通りなのかもしれんなあ、 」
「あの、海はもうすぐなんですか?・・・あっ、あと俺、昨晩からほとんど何も食ってなくって、それに喉もカラカラで、近くに店か何かありませんかねえ?・・・ほんと、パン屋でも蕎麦屋でも、なんでもいいので」
 さすがに爺さんの話がウザくなってきたので、話を逸らそうと言葉をかけた。
 ・・・だが、
「お前さん、海になど行かんで、早々に御札を捜しなさい。お前はきっと、そのためにここに来たんじゃ。そうに間違いない。その方が良い」
 爺さんは、何を思ったのか知らないが、僕の目の中を覗き込むように見つめながら、真剣な眼差しでそう言った。・・・正直、キモかった。
「いや、俺はそういうの全然興味ないんで。その、遠慮しときます」
「何を言っとる!この願い札は、単なる余興のようなものではないのじゃぞ!本当にありがたいものなんじゃ。悪いことは言わん。わしの言うとおりにしなさい」
 僕はきっぱり断って、このつまらない話を終わりにするつもりだったのだが、何故だか爺さんは一層ムキになって絡んできた。
「いや、その、そもそも思うんだけど、そんなにありがたい御札だったら、僕みたいな道もわからないよそ者があがいたところで、絶対に見つけるのは無理ですよ。だって、そんなに良いものなら、今頃村の人たちが、とっとっとと全部見つけちゃってますよ。そうでしょ?」
 仕方ないので、呆れた調子で、そう言い返してみたのだが・・・、
「やはり、何も判っていないようじゃな。そうではないのじゃよ。お前が、その男なら、御札は必ずお前のもとへやってくる。そういうものなのじゃ。判るか?」
「はあ?」
「良いか、心して聞け。この願い札には、このような言葉がある。
 『願い札は、真にそれを求める者の元へと宿る』
 判るか?お前が、その者ならば、その運命を、きっと、成さねばならぬのじゃよ!」
 そう言うと、爺さんは立ち止まり、僕の目をえぐるようにじっと見つめた。だが僕は、爺さんのそのイカれた振る舞いに、しばし呆然としているしか出来なかった。

                  (6)
 その後の道中でも爺さんのカルト宗教まがいの勧誘活動はしばらくの間続いたが、僕が完全無視を決め込んだことで次第に静かになっていった。そして程なくして僕等は海岸線を走る車道へと出た。
 滅多に車など走って来そうのない静かな道路だが、幅の広い片側一車線のその道は、きちんとアスファルトで舗装されていて、海側には低めの波除堤防とガードレールが整備されていて、正常な文明世界への帰還を実感するには十分なロケーションであった。
「どうも、ありがとうございました。大変助かりました」
 僕は爺さんに、そう行儀よく礼を言い、さっさと別れることにした。もう用は済んだことだし、これ以上頭のおかしなジジイに関わって、カルト教団に引き込まれるのはゴメンだったからである。
「おい、ちょっと待ちなさい!」
 僕が早足にその場を立ち去ろうとしたところ、背後で爺さんが声をあげた。無論、僕は無視してそのまま歩き続けようと思ったのだが・・・、
「お前さん、なんも食ってないって言ってたろう!飯屋はないが、この村には一件だけ小さな旅館がある。あそこなら、きっと何か食わせてくれるはずじゃ。場所を教えてやるから、戻ってきなさい」
 僕は思わず立ち止まり、さっと振り返った。見ると、爺さんは嬉しそうに微笑んで、金歯を口の中で光らせていた。

                  *
 爺さんと別れた後、僕は肩ほどの高さのあるコンクリート製の波除堤防越しに海を眺めながら、ひとり海岸線の道路脇を歩いていた。正直、相変わらず腹ペコで喉もカラカラだったが、ズボンのポケットの中には爺さんが書いてくれた旅館への略地図があり、気持ちには少し余裕があった。
 潮騒と海の香りを感じつつ、のんびりと散歩気分で歩くのは、やはり気持ちの良いものである。岩に打ち付ける波が、細かい霧のようなしぶきを上げて舞い散る様を眺めていると不思議に心が癒さた。
 だが、この海、列車の窓から見た時とは少し趣が違っていた。
 この海岸には思っていた以上に岩が多く、また波も荒かった。岸辺には多少砂浜も見受けられたが、やはりそこら中から黒々とした岩が張り出していて、とても素足なんかでは歩けそうにない。楽しく海水浴なんて、全く期待できない状態だった。
 ・・・というか、こんな波の荒い海に飛び込んだら、すぐにでも硬い岩場に身体を打ち付けられて、あの世行きになるのが関の山だろう。

 けれど、不思議だ。何故だか、この景色、見覚えがある。俺は昔、この海岸に来たことがある。確かに、そんな気がする。
 ・・・いや、そんなわけないか。・・・そんなはず、ないよな。・・・あるわけがない。・・・そもそも海岸の景色なんて、何処も似たようなものさ。

          「えっ!?」

 一瞬、何かが見えた。だが、よくわからない。海岸に、人影があった。
 ・・・誰かがいたような気がした。
 ・・・だが、誰もいない。いるわけがない。
 でも、ふと見えたのだ。
 ・・・少女がいた。白いワンピースを着た、髪の長い女の子が、じっと海を見つめながら独りで立っていた。
 寂しそうに、悲しそうな目で、じっと海を見つめながら、岩に砕けた波のしぶきの向こうに、荒れ狂う波の狭間に・・・

 奇妙な感覚に襲われ、ぐらりと意識を失うかのように、僕はその場にしゃがみこんだ。突然、なんだか訳のわからない幻覚を見たようだ。そのことだけは自覚していた。
 しばらく立ち上がれなかった。脂汗が一気に吹き出してきて、めまいがしていた。心臓が不必要なほど強く脈打っているのを感じた。
 ・・・なんだったのだろう?わけがわからない。・・・どうなってるんだ?

 次第に気分が良くなって、僕は自分を取り戻した。
 どうやら、相当に疲れが溜まっているらしい。考えてみれば当たり前だ。全く飲まず食わずで、真夏の日差しの中をずっと歩きづめじゃ、体調がおかしくなって当然である。
「・・・まずい。早いところ爺さんの教えてくれた旅館へ行って休憩しないと、このままじゃ、マジ死ぬな」

                  (7)
 その海岸沿いの道路を、その後しばらく歩いて行くと、そこには爺さんが描いてくれた略地図にあるバス停が確かにあって、そこから山の方へ、集落へと向かう通りに僕は入っていった。
 道は車がギリギリ交われるぐらいの幅しかなく、また右へ左へとクネクネと曲がっていたが、結果としては一本道で、迷子になりそうな感覚は持たなかった。
 道中、所々に民家や小さな畑のようなものがあったものの、全く人に出会うことはなかった。ここはほとんど住人のいない過疎地なのか?はたまた村人は皆総出で、あの爺さんの言っていた花火の御札を探しに行っているのか!?は、わからない。まあ、俺にはどうでもいいことだ。
 それにしても、やはり予想通りというべきか、ここにはジュースの自販機の一台も存在しないらしい。途中に、せめてコンビニの一つでもあればと思っていたのだが、それも絶望的な雰囲気であった。
 しかし、疲れた。この道に入ってから、ずっと上り坂である。もう随分進んだはずだが、例の旅館を示す看板が見当たらない。道が間違っているのではないか?少し心配になってきた。
 だからといって、何度爺さんの手書きの略地図を見返したところで埒があかない。そこにはミミズの這った跡のような数本の線と、汚い下手くそな字で記された少しばかりの目印があるだけなのだ。
 『浜見旅館、かんばん』と記されたこの目標が、本当にこの先に存在しなければ、そこで一巻の終わりである。そろそろ体力も限界だった。・・・せめて、水の一杯でも飲めればいいのだが。このままじゃ、本当に行き倒れだ。
「あっ、あれかな?」
 道の先の立木の影に、それらしい立て看板を発見し、僕は足を早めた。そこにたどり着くと、やはりその錆び付いたブリキの塗装板には『浜見旅館 そこ入る→』の文字が記されていた。
 少しほっと肩をなで下ろした後、その看板の矢印の先に目を向けると、そこには狭い路地の入口があり、またその道の脇にも『浜見旅館 ココ入る↑』の看板が立っていた。
 ・・・だが、僕が、その狭い路地に入ろうと足を早めた、そのときだった。
 ふと視線を感じ、そちらを向いた。すると、そこには少女がじっと立っていた。そして、その少女は、何故だか僕を真っ直ぐに見つめていた。
「・・・・・・・・・?」
 また幻覚を見ているのかと思った。だが、どうやら違った。その少女は、ちゃんとそこに存在しているようだった。要するに、僕がこの集落に来て初めて出会った住人だった。
 高校生だろうか?学生服を着ていた。細身の可愛らしい少女だった。長い髪を頭の両脇に束ねていた。いわゆるツインテールというやつだ。また、そのツインテールには水色の大きなリボンが結んであった。年齢の割には、ちょっと幼い趣味に思えたが、似合っていると思った。
 ・・・だが、奇妙なのは、そんなことではなかった。
 その女の子は、何故だか、僕の10メートル位離れたところに立っていて、ただそこでじっとして、ただ黙って、この僕を見つめていた。
 僕には訳がわからなかった。なんだか、奇妙な感覚だった。意味不明だった。無論、見ず知らずの少女である。そもそも、この土地に知り合いなどいるわけがない。
 何か、この僕に用があるのだろうか?・・・でも、ならば何故、近づこうとも、話しかけようともしないのだろう?・・・なんなんだ?

 少しの間、僕は彼女を見ていたが、結局何も進展がないので、そのまま無視して旅館へ向かう路地へと入った。けれど、少し気になって、路地を進みながらも度々後ろを振り返ってみたけれど、その女子高生が追いかけてくることなど、当然ありはしなかった。
「単なる気のせいだ。第一、あんな可愛い女の子が、俺なんかに興味を持つはずがない。俺はいったい、何を期待してたんだ。バカじゃないのか?・・・どうかしている。
 とうとう、頭が完全にイカレたか?少し目が合っただけで、何考えてんだ。きっとあの娘は、見ず知らずのキモイ男を眼前にして、ビビって硬直していただけさ!」

                  (8)
 路地を進んだ先には石段があり、そこを登ったところに旅館らしき古めかしい日本建築の建物があった。やはりそれほど大きくない二階建てだったが、重厚な風合いの瓦屋根に黒光りした木板張りの外壁は時代感を醸し出していて、なんとなく深い趣を感じさせていた。
 ふと見ると『浜見旅館』と太い墨字で書かれた自然木を切り出した一枚板の大きな表札の下に、玄関らしき両開きの大きな引き戸があって、僕は迷わずそこに向かった。

 引き戸を開け玄関をくぐると、まずは目の前の大きな柱時計が気になった。それは子供の頃よく聴いた『大きなノッポの古時計』の曲のイメージまんまな感じだった。時計の針を読むと、もう時刻は午後3時を過ぎていた。
 そして、あまり広いとは言えないそのロビーの隅には、休憩場所みたいなスペースがあって、座り心地の良さそうなソファーセットと小さなテーブルが置かれていた。また、そのテーブルには、いかにもな感じの大理石の灰皿があって、タバコの吸殻が一本押し潰されていた。
 だが、正直そんなことはどうでもいい。それより、その休憩スペースには僕の待ち焦がれていたものがあったのだ。そう、ジュースの自販機だ!
 僕は急いで靴を脱ぎ捨て、スリッパも履かずに、そこへ向かって走っていった。
 コインを投入しボタンを押すと、ガチャン!とこ気味良い響きと共にコーラの缶が落ちてきて、急ぎそれを手に取り栓を開け、その冷え切ったソーダ水を喉に流し込むと、ありえないほどの爽快感が僕の身体を魅了した。こんな旨いコーラは初めてだった。
 室内は弱冷ながら冷房が効いていて、湿度が下げられているためか、とても気持ちが良かった。僕は疲れた体を休めようとソファーに腰かけた。
 ロビーには人けもなく物音もせず、とても静かだった。せっかく苦労してここまで来たものの、この旅館が本当に機能しているのか少し不安になってきた。
 けれど、正直そんなことよりも、水分補給を達成でき、またエアコンの快適な涼しさに身を置いたことで、僕の体は自己の疲労を自覚してしまったようで、もはやいうことを聞かなくなってしまった。
 柔らかなソファーに沈んだ肉体は、次第に機能を失って、スーっと意識が遠のいて、僕は自分でも気づかぬうちに、そのまま深い眠りに就いていた。

                  *
 ・・・・・

 少女がいた。

 純白のワンピースのスカートが、長いストレートの黒髪が、潮風にそよぐように揺れていた。

 岩だらけの海岸に、少女は一人、立っていた。

 岩場に打ち付ける激しい波が砕け散り、水しぶきとなって、彼女の頬を濡らしていた。

 少女は、何も言わず、ただじっと海を見つめていた。・・・何かを求めるように見つめていた。

 寂しげな表情だった。・・・悲しげな瞳だった。

 彼女の頬を流れ落ちてゆく海水の雫が、僕には涙のように思えた。

「どうしたの?」

 ふと声をかけたが、少女は黙っていた。

 彼女の視線の先を追いかけると、そこにはそれがあった。波の向こうの、遠い岩場に引っかかって、ヒラヒラと揺れていた。

「あれが欲しいの?」

 少女は僕の目を不思議そうに見た。

「俺が、取ってきてやるよ。大丈夫!この俺に、任せてよ!」

 僕は、彼女の返事も聞かず、荒れ狂う波の絶え間なく打ち付ける岩場へと、気合を入れ、飛びこんでいった。

第二章「出会い」


                  (0)
「・・・うっ、うう」
 奇妙な夢を見ていた気がする。・・・なんだったのだろう?・・・思い出せない。

 あれ?ここは何処だろう?・・・えっ?、あの女性は誰だろう?俺は、何でこんなところにいるのだろう?・・・いったい、ここは何処なんだ?
「あら、お目覚めですか?・・・お疲れのようなのに、私が起こしちゃったかな?ごめんなさいね」
 重いまぶたを開くと、そこには和服姿の30代くらいの女性がいて、僕の顔を心配そうに覗き込んでいた。その女性は、とても品の良い感じで、着物はそれほど上等ではなかったものの和服を日頃着慣れているような感じで落ち着いていて、表情も温和で優しげで、不思議に安心感のある人だった。
 そして僕は、ふらりと周囲を見回して、それでようやく自分の置かれた状況に気がついた。
『・・・そうだ、俺は、誰もいなかった旅館の休憩場所のソファーで、うっかり居眠りをしてしまったんだ』
「あ、そうそう。あなたお腹がすいてるのよね。おむすび用意しておいたから、今、持ってきますね。だから、ちょっと待っててね。うふふ」
 女性はそう呟くように言うと、そそくさと廊下を歩き去っていってしまった。僕は未だに寝ぼけていて、何が何だかよく理解できず、ただソファーでぐったりしたまま、そのままぼんやりと時を過ごした。
 すると間もなく、その女性が帰ってきて、僕の目の前のガラステーブルの上に、小皿とお茶の入った湯呑を置いた。その皿には形のいいおむすびが四つと黄色いたくあんが数切れのっていた。
 僕が不思議そうにその女性を見ると、彼女は優しく微笑んで言った。
「遠慮しないで食べて。あなたのことは、村長さんから電話をいただいて聞いているのよ。背の高いハンサムな若者が訪ねてくるだろうから、何か食べさせてくれってね。うふふ」
 僕は正直なところ、その女性の話の意味がよく判っていなかったのだが、腹が空いていることは間違いのない事実であったので、遠慮なくそのおむすびを頂くことにした。
 そして、おむすびを三つほどたいらげたところで、ふと思った。
『・・・そうか、あの女性の言っていた村長って、あの爺さんのことなんだ!あの爺さん、わざわざ、この旅館に連絡を入れておいてくれたのか。意外に親切なんだなあ。
 ・・・しかし、あの薄汚い爺さんが、村長って、嘘だろう?・・・けど、だから、しつこく祭りの勧誘なんかしてきたのか?まあ、御札探しゲームの参加者が、よっぽど少ないんだろうな。まあ、そんなことどうでもいいが。
 ・・・けど、背の高いハンサムって、嫌味のつもりか?そもそも、俺はそんなにノッポじゃない。あの爺さんがチビなだけだ。・・・でも、まあ、いいか。結果的に助かったんだし』
 独りでブツブツ考えていると、女性がニッコリと微笑んで僕の顔をそっと覗いた。
「この村には、誰かを訪ねて来られたんですか?でも、でなきゃ、あなたのような若い人が、用もないのに一人でこんな何もないようなところへ来るわけないわよね。うふふ」
「・・・え?・・・いや、そんなんじゃ。俺は、たまたま、ここの駅で電車を降りちゃっただけで、その、特になにも」
「駅って、浜見駅? ああ、じゃあ、鉄道が趣味なのね。あの駅舎は、とても古くて趣がありますからね。もうすぐ廃線になってしまうらしいし、鉄道が好きな人には興味深いのでしょうね。 ああ、そういえば、前にもそういう方が来られたことがあったわ。古い駅舎や列車の写真を撮影しに来たとかで。 鉄道マニアっていうのかしらね?最近、若い人にも流行ってるんですよね」
「いえ、俺は全然そんなんでもなくて、本当に単なる旅行者です。実際、ここに来る気もなかったんです。ほんとにたまたまで」
「あら、そうなの。・・・ごめんなさいね。私、変なこと言っちゃったかな?」
 僕の顔が不機嫌そうに見えたのだろうか?女性は、少し困ったような顔をした。だが正直言うと、なんでそんな話を振るのだろうかと、僕は少し疑問を感じていた。
 すると女性は、自分の口元を指で触りながら、ぽつりとつぶやくように言った。
「でも、それじゃ、今日の泊まる宿なんかは、決まっているんですか?それとも、日帰りなの?」
 その言葉を聞いて、僕はようやく気が付いた。そうだ、ここは旅館だったんだ!
「・・・いえ、まだです!もし部屋が空いていたら、是非お願いします!」
「じゃあ、急いで一部屋ご用意いたしますね」
 女性は、少しホッとしたように微笑んだ。

                  (1)
 どうやらその女性は、この浜見旅館の女将であるらしかった。しかし、他の従業員の姿がまるで見当たらないことを考えると、もしかしてこの旅館を一人で運営しているのだろうか?・・・いや、確かに、ここはそれほど大きな建物ではないけれど、さすがにそれはないか。
 部屋の準備には少々時間がかかるということだったので、僕はとりあえず洗面所を借りて、汗でベタベタになっていたTシャツを脱ぎ、そのTシャツをタオル代わりにして体を拭いてから、持ってきた新しいTシャツに着替えた。腹も満腹、水分補給も終え、仮眠もとれて、これで気分一新すっきりだ。
 洗面所を出たところで、ちょうど女将が通りかかったので、何気なく訪ねた。
「ちょっと、そこらを散歩してこようと思うんですが、どっか近くに楽しめそうなところありませんか?」
 女将は首を傾げるようにして、少し考え込んでから、
「そうねえ、本当に何もない村なのよねえ。この近くというと、郷土資料館くらいかな?あとは、少し離れてるけれど、浜見神社。あと、天狗山へのハイキングコースもありますけど。・・・う~む。今からじゃ、ハイキングするには時間が遅すぎますよね。
 ああ、でも、天狗山はあ勧めですよ。明日にでも登ってみると、きっと楽しいですよ。あそこからの眺めは、このあたりでは一番良いって、有名なんです」
 僕は正直、もう山登りは懲り懲りだったのだが、一応、軽く微笑んで頷いておいた。すると女将は何か思い出し笑いみたいにクスクス微笑んでから、またその山の話を続けた。
「うふふ、その天狗山なんだけど、別名「お月見山」ともいうんですよ。でもね、その呼び名の由来が面白くて。なんだか、満月の晩になると、周辺の山々に住むうさぎ達がね、みんな集まってきて、あの天狗山の頂上で、お月見をするんだとか。だから、お月見山。 うふふ、古くからの言い伝えらしいのだけど、なんだか、おかしいでしょ?うふふふふ」
 確かに、なんとなく子供っぽくて可愛らしい話だと思ったが、僕はそれ以上に、こんな話を楽しそうに語っている女将の姿に面白さを感じていた。
 この人は外見も綺麗で、とても柔和な感じで安心感のある女性だが、人柄もすごく良さそうである。
 この村自体は貧素でつまらなそうな所だけど、この宿は正解だったと、そう思った。

                   *
 僕はとりあえず、宿の外へと出た。やはり、エアコンのかかっていない外気は蒸し暑く、また夏の日差しは暑苦しかったが、じっと狭い室内にこもっているよりは全然開放感があって、今の自分にはふさわしいと思ったのだ。
 とりあえず、何を思うでもなく建物の周囲をウロウロしていた。ふらりと旅館の裏の方へと回ると、少しばかり開けた敷地があって、そこに自動車が数台停っていた。どうやら旅館の駐車場らしい。
 ここへ来るとき通った道は、ちょっとした石段もあり、絶対に車など通り抜けられない狭さだったので少し疑問を感じたが、見れば、すぐ向こうに舗装された車道が一本通っていた。
 ふと、車道の先がどこに繋がっているのか歩いて行きたくなったが、止めた。不用意に知らない道になど入り込んで、また迷子になってはかなわないと思ったのだ。そう、自慢じゃないがこの僕は、えらい方向音痴なのである!・・・桑原桑原。
 仕方なく再び旅館の正面へと戻った。外出するなら、また同じルートで外道に出ようと考えたのである。・・・だが、そんな時だった。
「あれ?」
 ふと、人影が見えた。あの旅館に繋がる細道の出口付近に誰かがいたような気がしたのだ。・・・だが、改めて見直してみると、そこには誰もいなかった。
 今日の俺は、どうかしている。まだアルコールが抜けきれていないのかもしれない。また幻覚を見てしまったようだ。
 でも、確かに、そこの低木の枝葉の影で、水色の大きなリボンをつけたツインテールの髪の毛がゆらゆらしていたような気がしたのだが?・・・いや、馬鹿な考えは捨てよう!これじゃまるで、変態オヤジの妄想だ!・・・桑原桑原。

                  (2)
 石段を降り、道路へと向かう路地を進んだ。この路地の両側は、低木の鬱蒼とした緑葉が支配していて、また微妙に道がクネクネと曲がっていて、全然先が見えない。
 そう、まるで自然木を使って作った迷路みたいだった。まあ、一本道なので迷うことはないのだけれど、こんな道を真夜中に一人で歩いたら、さぞ不安だろうなとは思った。
 視界の狭い路地を出て、ようやく村の中央を抜ける一本道に出た。そこでふと気になって、ぐるりと周囲を見回したが、当然のごとくそこには誰の姿もなかった。
 やはり、さっきのは幻覚だったのだろう。・・・アホくさ。
 とりあえず、また海へ向かうことにした。海岸で独り、のんびり思いにふけるのも悪くないと思ったのだ。まあ、他に行くあてなどなかったのだが。
                  *
 来た時と同じ道を引き返すように歩いた。けれど今度ほとんど下り坂で、来た時よりも労力的には全然楽だった。また、当然精神的にも気楽で足取りも軽かった。
 それにしても、この村には相変わらず人けがない。まるでゴーストタウンである。これが最近うわさの過疎村の現状ってやつなのだろうか?
 ・・・いや、普段暮らしている東京の下町が、むしろ人が多すぎて騒がしいだけなのかもしれない。とにかく、東京という場所は無駄に人が多い。人が多いということは、常に賑やかで、一見寂しくないように思えるが、現実は違う。
 あまりに多過ぎる人間の渦の中に巻き込まれると、何故か自分を失う。気が抜けて、氷の溶けてしまったコーラみたいに、自分という存在が希釈されて、いてもいなくても同じに感じる。自分と言う存在が限りなく無意味に近く思える。生きている実感を失う。
 ・・・まあ、それはそれで、いいんだけどね。どうせ俺は、何処にいようと無用の存在でしかないのだから。
「あれ?」
 ふと気になって、振り返った。なにやら背後に気配を感じたのだ。誰かにあとをつけられているような気がした。だが、当然、そこには誰もいなかった。・・・当たり前だ。
 今日の俺はやはり変だ。幻覚を見たり、奇妙な気配を感じたり、なにげに幽霊にでもとり憑かれているような気分だ。
 ・・・いや、相当疲れが溜まっているのだろう。やはり無駄な外出などせず、あのまま旅館のロビーに留まって、ソファーで昼寝をしているべきだったのかもしれない。
 だが、
「・・・え!?」
 僕の体が一瞬硬直した。
 ・・・そう、いたのだ!やはり、幻覚なんかじゃなかった!それは道路脇の太い街路樹の影にあった。その木の幹から、ひょっこりと馬のしっぽが覗いていた。そしてふさふさした、そのしっぽの根元からは、チラチラと水色の大きなリボンが見え隠れしていたのである。
 そうだ、あれは間違いない!幻覚なんかじゃない!あの木の影で、あのツインテールの女子高生が、こちらに気づかれまいとこっそり隠れているに違いない!
 僕は足音を消すように、そ~っと、その街路樹に近づいていった。都合のいいことに、どうやら向こうは僕の行動には全く気づいていないようで、未だそのままじっとして、間抜けに、こそこそ隠れ続けているようだった。
 そして僕が、その街路樹のすぐ目前まで迫っていった、そのときだった!
「きゃ~っ!?」
 街路樹の陰から突然僕の眼前に顔を出したツインテール娘が、いきなり悲鳴をあげた!そして、ついでに身体のバランスを崩し、そのまま背後へすっ転んだ。
「・・・う~っ、痛った~っ」
 思い切り尻餅を付いた少女の目は、少し涙ぐんでいるように見えた。
「大丈夫?」
 ふと声をかけると、その娘はちらりと僕の顔を見て、だが、すぐにまたうつむいてしまった。彼女を引き起こそうと、僕は思わず、そっと手を差し伸べた。
 だが、僕のその手をチラリと目にした少女は、また再び視線を下へと落とし、そしてそのまま固まった。奇妙な静寂が僕の心に余白を作った。
 間抜けに差し出されたまま宙を泳いでいる自分の手に気づき、僕は慌ててその手を引っ込めた、・・・いや、引っ込めようとした瞬間だった。すっと、彼女の手が僕の手を握った。とても小さく弱々しく、柔らかな感触だった。
 僕は上体を後ろに下げるようにして、ゆっくりとその手を引きながら彼女の身体を起こしてやった。完全に身体が起きたところで手を離すと、少女は自分のスカートのお尻あたりを手でパタパタと叩きながら、ほんの小さなささやき声で「ありがとう」と、つぶやいた。

                  (3)
「どうしたの?」
 ただ黙って、いつまでもぼんやりとつっ立っている少女に、僕はそっと声をかけた。すると少女は、情けない顔のまま上目使いに僕を見た。
「ごめんなさい」
「え?」
「わたし、こそこそと、あとをつけたりして。・・・その、ほんとは、そんなつもりじゃなかったんだけど、・・・その、なんとなく、声をかけづらくて、つい」
「えっ」
 何故だか少女は、僕が問いただす前に、いきなり自分で白状した。まあ、ようするに、僕は幻覚を見ていたわけでも、幽霊にとり憑かれていたわけでもなかったのだ。意味不明だが、本当にこの女子高生は、僕の跡をずっと尾行していたらしい。
「って?もしかして、俺になんか用でもあんの?」
 僕がそう問うと、少女は少し躊躇った後、口を真一文字にして気合を入れるような仕草をしてから、また軽く深呼吸して、それでようやく口を開いた。
「あのっ!わたし、あなたに、どうしても聞き入れて欲しいお願いがあるんです。お願いします!お願いできるの、あなたしかいないんです。だから、どうか、お願いします!」
「はあ?そう言われても、その、なんていうか、・・・お願いって、何?」
 いきなり早口で訳のわからない言葉を浴びせられ、僕は反射的にそう返した。
 それにしても奇妙な少女である。あの、山で出会った爺さんといい、また変な人間に絡まれてしまったという感じであった。
「あっ、ごめんなさい!わたし、その、緊張してて、つい話の順番がめちゃめちゃでした。実は、そのお願いというのは、その、夏休みの自由課題でして、その、わたしは、何かボランティアガイドみたいなことをしようかな?と思いつきまして、それでその、できたら、あなたの旅の案内なんかができたらいいかな~ぁ、なんて思いつきまして、それでお声をかけたくて、えっと、何言ってるか自分でもなんなんですが、要するに、できればわたしに、この村の案内をさせて貰えないかと、そう思ったのですが、いかがなものでしょうか?あっ、もちろん無料です!それに、わたし、決して怪しい人間ではありません。えっと、その、ですから、是非お願いします」
 そう言い終わると、その娘は深々と頭を下げた。しかし、また更に訳のわからないことを早口で言われても、正直僕には相変わらず意味不明でしかなかった。
「悪いけど、俺はそんなのいらないから、その、他をあたってくれる?」
 何が言いたいのか彼女の真意はよくわからなかったが、とりあえずそう言って、きっぱりと断った。
 すると、その返答が聞こえたのか聞こえなかったのか?その少女は頭を僕の腰のあたりまで深々と下げたままの姿勢で固まってしまった。
 しかし、ようやく、彼女はゆっくりと頭を上げて、僕の顔をちらりと見た。だが、ふと見ると、その少女の大きな瞳は今にも泣き出しそうなくらいに潤んでいた。・・・やばい。
「いや、その、だけど、その課題って何?要するに、夏休みの宿題ってこと?」
 仕方なく、彼女の話に半分だけ乗るつもりで聞いてみた。
「はい!そうなんです。学校の大事な宿題なんです。もしもこの自由課題をちゃんとこなさないと、わたし、多分、落第しちゃいます!・・・その、だから、お願いです。考え直してください!」
「・・・って、言われてもなあ?」
 思わず頭をかいた。困った。わけがわからない。そもそも夏休みの宿題の自由課題で、何故ボランティアガイドなんてするんだ?しかも、こんな観光地でもなんでもない過疎村で?・・・変な女の子だ。・・・できれば関わり合いになりたくない。
 ・・・けど、確かに可愛いし、こんな娘にガイドしてもらえたら、それはそれで、きっと楽しいし。俺みたいな非モテ男には、正直ラッキーなことじゃないのか?・・・っと、少しばかり心の隙が生じた、まさに、その時だった。
「特に、用事はないんでしょ?だったら、このわたしを助けると思って、是非お願いします!今、あなたに断られたら、もう、わたし、どうしたら良いかわからないんです。だから、お願いです!・・・今日だけでもいいんです。いや、一時間でも三十分でもいいから、わたしにガイドをさせてください。ただ、先生に提出するレポートさえ書ければいいので、どうか、どうか、人助けだと思って、このわたしの願いを叶えてください!・・・お願い!」
 少女の潤んだ瞳が、僕をじっと見つめていた。正直、好みのタイプだった。とても、可愛かった。少し小柄だけどスレンダーで、純真そうで、瞳がすごく綺麗で・・・。
 そして、僕は理性を麻痺させた。
「わかったよ」
 僕のその返答を聞くなり、その女子高生は、嘘みたいに嬉しそうに微笑んだ。なんだか、幼い子供みたいな笑顔だった。

                  (4)
 その少女の名前は『入江みつき』というらしい。隣町にある県立高校の二年生で、住んでいるのはこの村だということだ。実はこれらのこと以外にも、なにやら自己紹介をされたのだが、ちゃんと聞いていなかった。まあ、いいや。
 そしてその入江さんは、僕が何も言わないうちに、一人で勝手にそのボランティアガイドなるものを開始した。
「わたし、是非あなたに見せたい素敵な景色があるんです!」
 彼女はそう言って、自分の後をついてくるよう僕に命じた。成り行きとは言え、一旦引き受けてしまった以上、今更あとには引けづ、僕は仕方なく入江嬢の少し後ろを付かず離れずついていった。
 すると次第に道は狭くなってゆき、また周囲をうっそうとした木々が覆い始め、ふと気づけば、辺りはすっかり山深くなっていた。この村に来たとき、駅を出てすぐに迷い込んだ山道を思い出し、僕はなにげに不安になった。
 だが、僕のそんな心中とは裏腹に、入江さんの方は、なんだか御機嫌のようで、たまにチラチラと僕の顔を覗きみては、嬉しそうにニコニコ微笑んでいた。
 ・・・しかし、見ず知らずの俺のような冴えない男の道案内などして、いったい何が楽しいのだろう?へんな娘である。
 ・・・しかし、まいった。今日はずっと歩きづめだというのに、またも山道を登らされるとは。僕は当初、入江嬢の目的地は、それほど距離の離れた所ではないだろうと勝手に思いこんでいたのだが、それは完全な誤解だった。
 その山道の途中には『天狗山ハイキングコース』と書かれた看板があり、どうやら彼女の目的地が、宿で女将が言っていた例の天狗山の山頂であることは、もはや疑うべくもなかった。まあ、要するに、この村で景色の良いところといったら、その場所ぐらいしかないのだろう。・・・って、もっと早く気づくべきだった!こんなことなら、やっぱり断るんだった。

 へとへとな僕に対し、入江さんの足取りは軽かった。細っこくって小柄で、外見上はあまり体力などなさそうに見えるのだが、そこはさすがに地元民である。よほど山道に慣れているのだろう。彼女は僕などお構いなしに、跳ねるように坂をどんどん登っていく。
 こうして彼女の歩くさまを後でぼんやり眺めていると、長いツインテールがうさぎの耳みたいにふわふわ揺れていて、なんだか野うさぎが嬉しそうにぴょんぴょん跳ねながら、お月見山目指して登っているように見えてくる。・・・プププ(笑)
「あれ?斉藤さん、頑張って!もう少しですよ。ぼんやりしてないでどんどん歩かなくちゃ。もう、男の子でしょう!気合入れて、ガンバ!」
 入江さんがチラリと振り向いて、すっかり距離の離れてしまった僕に言った。
 ・・・しかし、なんなのだろうこの娘は?まだ出会って30分くらいしか経っていないのに、すっかりお姉さん気取りだ。って、俺の方が三つぐらい年上なんだけど。

                  *
 正直、きつかった。もはや転ばずに歩くだけで精一杯って感じだった。けれど、年下の、しかも女子高生に舐められるのは嫌なので、僕は無言で頑張るしかなかった。
 そして、この山道に入ってから一時間ぐらい歩いたところで、ようやくゴールが見えて来た。道脇に立っていた木製の小さな看板には『天狗山頂上→ あと100m』とあったのだ。
「斉藤さ~ん。早く、早く!ほら、もうちょっとですよ♪」
 随分と引き離された先から、入江さんが手を振りながら嬉しそうに叫んでいた。相変わらず、入江お嬢様はお元気だ。しかし、何がそんなに楽しいのだろう?登山など好んでする人の気が知れない。暑いし、疲れるし、もう、クタクタだ。
 ・・・けど、この『入江みつき』という少女は、本当に可愛い子だ。明るくて、元気で、常に微笑んでいて。肉体的には苦痛なだけの山歩きだけど、彼女のガイドを受けたことは正解だったのかも?っと、次第に僕の気持ちは変わっていた。
 ・・・でも、こんな俺といて、彼女は何故あんなに楽しそうに笑うんだろう?あんな可愛い女の子が、こんなダサい男といたって、本当はつまらないんじゃないだろうか?
 ・・・変な娘だ。まあ、きっと、どんな相手にでも常に楽しげに接することのできる明るい性格の持ち主なのだろう。

                  (5)
 ようやく入江さんの待っている場所まで到達すると、そこからは天狗山の頂上が見えた。
 すると、そこにはほとんど樹木が茂ってなくて、そこだけ公園のように開けていた。地面はお椀をひっくり返したみたいにまん丸で、野生の芝が一面に広がっていた。確かに、うさぎが集まってお月見するには丁度良い場所かもしれない。
 地面に木の杭を打ち付けて作られた土の階段を上がって頂上まで着くと、そこで初めて雄大な景色が目の前にパッと開けた。その頂上からの風景は、本当に噂通りのものであると感じた。
 周囲を包むように立ち並ぶ深い緑の山々。谷間には、色とりどりの落ち葉を並べて造形したような集落の屋根並。そしてその向こうには、銀色にきらめく大海原が広がっていた。
「ねえ、こっち、こっち!斉藤さ~ん、こっちに来てください!」
 ふと声のする方を見ると、その開けた敷地の中央あたりで入江さんが、大きな動作でおいでおいでと僕に向かって手招きしていた。
 言われた通りそこまで行くと、彼女は大げさにお辞儀をして、ちょっと演技がかった声で言った。
「さあ、こちらにお座りになってください」
 彼女の示した先にはベンチのような横倒しの丸太があって、その上には可愛らしいうさぎ柄のハンカチが一枚広げてあった。
 僕は思わず苦笑いして、そのハンカチをそっと横にずらしてから、ハンカチを避けるように丸太に座った。それからふと見上げ、入江さんの顔を見ると、少し不満そうにほっぺたを膨らませていたので「これは、君が使って」っと言って返した。
 すると彼女は、無言でサッとハンカチを摘み取り、スカートのポケットにしまってから、ちょこんと僕の隣りに腰掛けた。だが、あの長いツインテールが触れそうなくらい彼女の肩の位置が近くって、僕は慌てて自分の尻を丸太の端ギリギリにまでずらした。
 入江さんはチラリと僕の顔を覗いてから、呟くように言った。
「素敵な景色でしょ?ここからの眺めが、わたしの一番のお気に入りなんです。だから、どうしても、あなたに見て欲しくって。・・・でも、ちょっと無理させちゃったかな?」
 僕は、そっと入江さんの方を見た。すると彼女はじっと遠くの景色を眺めていて、その横顔はとても満足げだったけれど、なんとく寂しげな瞳でもあるような気がした。
 ・・・そして何故だか僕は、ふとこの娘に、以前に、どこかで会ったことがあるような気がした。いや、そんなことは決してありえないのだけど。
「確かに、すごくいい景色だね。けど、正直言うと、やっぱ、少し疲れたかな。俺、山道って、ちょっと苦手なんだ。その、方向音痴だし。・・・あっ、でも、この景色は、マジ最高!ありがとう」
 入江さんは、僕の返答を聞くなり、クスクスと笑い出した。そしてポツリと、
「斉藤さんて、やっぱり優しいね。うふふ」
「えっ?」
「わたしね、時たまここに来るの。それで、ここで、この丸太に座って、ぼんやりこの景色を見つめていると、すごく気持ちが清々しくなるんです。つまらないこととか忘れて、明日を頑張ろうって、そういう気持ちになれるの。恥ずかしいけど、わたしにとって、とても大事な場所なんです。だから、どうしても、ここに来たくって、・・・ごめんなさい 」
 その後、奇妙な静寂がしばらく続いた。彼女は何も語らず、ずっと景色を見つめていて、僕も僕で、何も話を切り出せなかった。ただのんびりと、静かに時が過ぎて、それでいいような気がした。
                  *
「この天狗山には、別の呼び名があるんです。この村の人は、ここを『お月見山』って、呼ぶの。うふふ」
 入江さんがそう、突然言葉を発した。僕は笑いをこらえて返答した。
「満月の夜に、このあたりに住むうさぎ達が集まってきて、ここで、皆でお月見をするんだろ?知ってるよ」
「えっ!?」
 入江さんは、僕の言葉にありえないほどびっくりしたみたいに目を丸くした。
「いや、さっき旅館でさ、宿の人に聞いたんだよ、そのお月見山の話。いや、ただ、そんだけ」
「な~んだ」
 入江さんは、何故だか、かがっかりしたように呟いた。けれどその後、またにっこり笑って話始めた。
「わたしの名前、みつきって言うんだけど、漢字にすると満月って書くんです。わたしの父が、母にプロポーズをしたのがここで、だから生まれてきた子に『みつき』ってつけたんだって、そう聞かされました。うふふ、そう言う意味でもここは、ちょっと大事な場所なんです。(・・・だから、好きな人ができたら、絶対一緒にここに来ようって)」
「えっ、なに?」
 僕は最後の方の言葉がほとんど聞き取れなくて、思わず聞き返した。だが、入江さんは澄ました顔で、何も答えてはくれなかった。

                  (6)
 再び、しばしの沈黙が続いていた。僕はそれをなんとか打開したくて、必死に話題を考えた。・・・だが残念なことに、この非モテ男の僕に、女の子を楽しませるような言葉など浮かびようもなく、虚しくも緊張するだけの時間が過ぎていくばかりだった。
 だが意を決して、僕はどうでもいい話を切り出した。
「けど、さすがに入江さんは大したものだね。確かにここは、さして山深いとはいえないかもしれないけど、ほんとに軽がるとどんどん山道を登って行って、さすが山育ちだって思ったよ。俺は生まれ育ちも東京だから、ほんとここまで君についていくのがやっとだったし・・・」
「えっ?」
 入江さんが驚いたように、さっと僕を見て、少し不機嫌そうに言った。
「わたし、山育ちなんかじゃないですよ。小学校までは、ずっと高井戸に住んでたもん」
「えっ、高井戸って、あの世田谷の?」
「やだなあ、高井戸は世田谷区じゃなくて、杉並区です。うふふ」
 つまらない話題を振って、早速恥をかいてしまった。けれど、入江さんが東京人だったとは少し驚いた。
「そっか、だから以前に見たことのある顔だと思ったんだ。だって、俺も東京都出身だもん。そっか、実は同郷だったんだね!」
「えっ!?わたしのこと、知ってるんですか?」
 入江さんが、真面目な顔で僕を見た。僕は思わず苦笑いをした。
「ははは、やだなぁ入江さん。単なるくだらない冗談だよ。だって、東京といっても俺は小岩で全然反対側だし、それにあの人口密集地帯の都会で、入江さんに会って覚えてるわけないじゃん」
「・・・そうですよね。うふふ」
 彼女は、いわゆる天然ボケなのだろう。なにげに会話が噛み合わない感じはしていたが、不思議に憎めないキャラである。そんな天然な感じも、正直可愛いい。
「・・・あの、図々しい奴だと思うかもしれないけど、是非お願いがあるんですけど!」
 入江さんが、突然僕に顔を近づけて言った。
「わたしのこと、入江ではなく、できたら名前の方で呼んではもらえませんか?」
「え?」
「これからは、みつきって、名前の方で呼んでくれません?実は、わたし、名字で呼ばれるのちょっと苦手なんです。ほんと、もしも嫌じゃなかったらでいいんで、これからは名字でなく、名前の方で、みつきって、呼んでほしんです。是非お願いします。・・・だって、その方が、ずっと親しみ安くていいでしょ?」
 不思議なほど、静かな声だった。まるでキャラが変わったみたいに寂しげな言葉だった。
「別に、いいけど」
 僕は何も思わず、知らないうちにそう答えていた。すると入江さんはにっこり微笑んで、少しはにかんだように、また更に言葉を追加した。
「あと、もし良かったら、斉藤さんのことも、大翔(ひろと)さんって、名前で呼んでもいいですか?」
「え?」
 僕は昔から、大翔(ひろと)と名前で呼ばれることには慣れていた。斎藤という名字はとても多くて、学校のクラスでは必ずというほど同じ名字がダブっていた。だから実際、友人からは名字で呼ばれるより、断然名前の方で呼ばれることの方が多かったのだ。だから、それは別にいいのだが・・・
「大翔さん、そう呼んで、いいですよね♪」
「えっ、ああ、別に」
 僕の返事に入江さんは、何故だかとても嬉しそうだった。

                   (7)
「あの少し開けた場所は公園になってて、その奥の四角い建物が浜見村の郷土史資料博物館なんです。あと、多分、あそこに見える瓦屋根の少し大きなお屋敷が大翔さんが泊まってる浜見旅館だと思います」
 まるで立体地図でも見るように、入江さんが景色の先を指差しながら村の説明をしてくれた。
「へーっ、一時間ちょっとで、随分遠くまで来たもんだね。まあ、結構ハイペースだったからなあ。正直、入江さんについていくの結構大変だったよ」
「そうですか~ぁ?わたし一人で来るときは、もっと早いですよ。これでも、随分気を使ったつもりなんだけどなあ」
 入江さんの言葉に、僕はただ苦笑いで答えた。するとまたすぐに、次のツッコミが帰ってきた。
「あと、さっきお願いしたはずなんですが、わたしのことは、イ、リ、エ、ではなく、み、つ、き、と呼んでくださいね。お願いします!」
「・・・・・・」
 僕の顔は更に深い苦笑いになってしまった。しかし、みつき様の厳しい視線には逆らえず、仕方なく「そうだったね。ごめん」と言って、うなずいた。・・・すると!
「じゃあ、練習しましょう♪さあ、大翔さん。大きい声で、み、つ、き、って言ってみて!」
 みつき嬢はニヤニヤしながら、そう僕にけしかけてきた。
「ねえ、早く早く!」
 笑いながら、ポンポン肩を叩かれて、僕はとうとう観念した。
「・・・み、つ、き、ちゃん。・・・って、これでいい?」
「うふふ、合格!」
 僕は目を合わすのも恥ずかしかったのだが、チラリとみつきお嬢様の顔を見ると、彼女はとても嬉しそうに、まるで子供みたいに笑っていた。
 だが、僕は従兄妹でもない女の子に向かって、馴れ馴れしく名前で呼んだことなんて今まで一度もなかった。『みつきちゃん』なんて、声に出すたび口が曲がりそうな気がする。
 しかし、本当に変わった娘である。知り合ったばかりの、しかも何も知らない相手と、しかも僕のような冴えない男と、彼女はどうしてそんなに親しくしようとするのだろう?
 僕には到底理解できない。というか、それ以前に、この僕に女心など分かりようもないのだけれど。
                  *
「あの海に張り出した岬の頂上あたりには浜見神社があるんです。大きな木に囲まれてて分かりにくいかもしれないけど、神社の社(やしろ)がちょっと見えるでしょ。
 今、この村はあの神社の夏祭りの準備ですご~く忙しんです。特に今年は12年に一度の大祭の年だから、それこそ大変で、村を離れて都会で暮らしてる人なんかも、祭りの準備のために、わざわざ里帰りして手伝いに来てたりしてるんですよ。
 実はわたしの父がこの村の出身なんで、まだ東京に住んでた子供の頃にも、わたしも毎年、この夏祭りには必ず連れて来てもらってたんだけど、本当にこの村の人たちにとってこのお祭りは、とっても大事な一大イベントなんです!」
 村の案内が再開したと思ったら、いつの間にやら夏祭りの話でみつきは一人で盛り上がっていた。彼女は僕の前へ立ち、身振り手振りを交えながら、まるで村の広報部員のように祭りのアピールを始めたのだ。
「そう、実はその祭りの本番は、なんとあさってなんです。だから大翔さん、あさってまでは絶対に帰らないでくださいね。絶対ですよ!
 今年は、なんと、日没とともに花火も打ち上げるんだから。すごいでしょ!この村にせっかく来たのに、このお祭りに行かないと、あとで絶対後悔しますよ。ほんとですよ!
 だから大翔さん、きっと、お祭りの日まで、この村にいてくださいね。きっとですよ!」
 それにしても、あの村長らしき爺さんといい、この村の住人は、よほどよそ者の僕をその祭りに参加させたいらしい。・・・まあ、これが郷土愛ってやつなのかもしれないが。
「ああ、あの変な御札をばらまく祭りのことだろ?俺、ここに着いて早々に、変な花火を見たよ。なんだか、願い事がなんでも叶う魔法の御札が手に入るんだとかって言ってたなあ。・・・ああ、そういや、君はあの御札探しに行かなくていいの?だって、あれはこの夏祭りのメインイベントなんだろ?」
 僕のこの質問に、彼女の目が一瞬、スっと変わったような気がした。いや、気のせいかもしれないが。
「えっ?・・・ああ、いいえ。わたしには必要ないから」
 みつきは、サラリと言い捨てるように、そう答えた。

                   (8)
「さあ、大翔さん。そろそろ帰りましょ。あんまりのんびりしてると、日が沈んじゃうから、・・・あっ、ほんとに急がないとマズイかも?」
 腕時計をチラリと見ながら呟いたみつきの、その最後の言葉に驚いて、僕は思わず声をあげた。
「えっ、今何時なんだよ?・・・そういや、大分日が傾いてきてるけど、だいじょぶなの?もしも山ん中で真っ暗にでもなったら、マジで遭難するぜ!?」
「うふふふ、そんな大げさすぎです。ふふふふふ、大翔さんたら突然大声だしたりて、なんだかおかしい♪うふふふ」
 みつきは、慌てる僕をコメディー映画でも見るように笑ったが、僕にしたらマジで気が気ではなかった。考えてみれば、宿を出た時には既に午後4時を過ぎていたはずで、そこから計算すると、すぐにでも暗くなって当然の時間である。
 しかも、山というのは平地よりずっと日没が早まるものだ。山中で真っ暗になったら、それこそ、どうするつもりなんだろう?・・・冗談じゃない!この娘は、何考えてるんだ?天然恐るべし!やっぱり来るんじゃなかった。・・・とほほ
「あはは、大翔さん、意外と小心者ですね。うふふ。・・・あっ、でも山道の途中で暗くなったら、やっぱり困るから急いで帰りましょう!
 そらそら、大翔さん。ぼんやりしてないで、さあ、出発しますよ♪」
 みつきは人の気持ちなどお構いなしにそう言って、楽しそうに歩き始めた。僕は不安と恐怖を抱きながら、力なく、ただそのあとについて行くしかなかった。

                  *
 超マイペース娘の後ろを必死で追いかけるように、僕は狭い山道を進んでいった。今度は言うまでもなく、道中のほとんどが下り坂なので、思いのほか足取りが早かった。僕等は、行きの二倍くらいのスピードで山道を降りていった。
 とはいえ、もはや僕の足は限界を超えていて、一歩足を上げるのも苦痛なほどクタクタだった。正直な話、うっかり転ばないよう足元に気をつけながらの懸命の下山であったのだ。
 しかし見れば、みつきお嬢様は相変わらずお元気である。ぴょんぴょんと跳ねるように、まるで野うさぎのように、軽快に坂道を駆け下りてゆく。そして時より、ふと立ち止まっては、行きと同様に「早く!早く!男の子なんだから、ガンバ♪」と、ふざけ半分に声をかけてくるのであった。・・・勘弁してくれ!
 だが、やはり予想どうりというべきか、辺りはだんだん暗くなってきた。確かに空は、まだ幾分明るいのだが、小高い山々に日差しを遮られ、山道はすっかり薄暗くなってしまった。案の定である。・・・まいった。
 だが、等のボランティアガイド様は何も感じないのか?平然としていた。ただ一言「少し暗くなってきちゃいましたね。急ぎましょう!うふふ♪」と、余裕をかまして笑っていた。
 ・・・とういか?、人けもない薄暗い山道で、まるで面識もない男と二人きりでいて、この娘は身の危険みたいなものを何も感じないのだろうか?現代女子高生恐るべし!
 ・・・いや、単にこの俺が、男として認識されていないだけなんだろうね。とほほ
                  *
 そしてようやく、浜見村のメインストリートにたどり着いた頃には、辺りは本格的に暗くなってきていた。日没にはまだ時間がありそうだが、日の光は周囲の山々に完全に遮られてしまっていて、通りは既に夜の趣をかもし出していた。
 しかし、ここまでくれば一応一安心である。とりあえず、所々に街灯はあるし、あとはこの舗装された一本道を歩いていけば良いだけなのだから。

                  (9)
「やっぱり、ちょっとお月見山は時間的に無理があったかな?でも、どうしても、あそこにだけは行きたかったから」
 道すがら、ポツリとみつきが呟いた。
 だがその時、僕はすでにヘトヘトで、早く旅館に着かないか?とそのことしか頭になく、もはや話する気も起きず、ただ惰性でダラダラと足を進めているだけだったのだ。
 ・・・がしかし、そのみつきの声がなんとなく寂しげで、なんとなく気になって、僕はふと言葉を返した。
「いや、確かに少しきつかったけど、楽しかったよ。マジ、旅のいい思い出になったと思うよ」
 すると、ずっと僕の横で付き添うように歩いていたみつきが「えっ、ほんと?」と嬉しそうに返答しながら僕の顔を覗きこんできた。
「嘘じゃないよ。その、お世辞とかでもなくて、その、俺、元々何もなく無計画な一人旅のつもりだったから、その、今日、君が案内してくれて、方向音痴の俺じゃとても一人じゃたどり着けないような山の頂上の景色まで堪能できて、・・・その、なんというか、ほんと、ありがとう」
 何も思わず、ふと出てきた言葉だった。だが、自分で言っておいて少し照れくさくなって、僕はみつきの顔を見るのを躊躇った。そしてそのまま、何もなかったようにさりげなく歩みを続けようとした、・・・のだが、
 キュッと突然、僕のTシャツが後ろへと引っ張られた。
「ん?」
 振り返ると、みつきがそこに立ち止まっていて、そしてその手は僕のシャツの端をギュッと掴んでいた。
「あの、だったら、お願いがあるんですけど」
 みつきは、少しうつむき気味に視線を下に向けたまま、ボソリとそう言った。とても静かな声だった。だが、なぜか不思議と重たい響きだった。
「えっ、なに?」
 僕が聞き返すと、ようやく彼女は顔を上げ、そしてその少し潤んだ瞳で、僕の目をじっと見つめて言った。
「その、もし出来たら、・・・いや、どうしても、その、明日だけでいいから、明日も、もう一日だけ、わたしにガイドをさせては貰えませんか?お願いします!」
「・・・・・・」
 正直いって、僕には彼女の申し出を断る理由なんか何処にもなかった。むしろ、本当は嬉しい申し出だった。ふと、明日もみつきが一緒にいてくれたら、どんなに楽しいだろうなあと思った。当たり前な話、本心ではそうだった。・・・けど、どうしても、返事ができなかった。だから、ただ、黙ったまま苦笑いをした。
 ・・・そして、
「もう、すっかり暗いし、早く帰んないと。それに俺、もう腹ペコなんだ」
 僕はそう言って話をごまかすと、何もなかったように再び歩き始めた。すると、みつきはそれっきり何も言わず、ただ黙って僕の少し後ろをついてきた。
 それから少しばかり足を進めたところで、旅館につながる路地の入り口が見えた。『浜見旅館ココ入る→』の看板が、間を空けてパチパチと点滅する街灯の明かりに照らされて見え隠れしているのを発見したのだ。
 僕は路地の入口まで付いたところで、ふと振り返り、みつきにそっと声をかけた。
「今日は本当にありがとう。・・・えっと、じゃあ、俺はこっちだから。・・・あっ、でも、すっかり暗くなっちゃったし、やっぱり君を家まで送っていこっか?」
 僕の言葉を聞くと、それまで疲れきったようにだんまりだったみつきが、急にクスクスと笑い出した。
「うふふ、そんな、わたしは全然平気ですよ。地元だもん。うふふ、送っていくって言ったって、大翔さん、方向音痴なんでしょ?そんなことして貰ったら、むしろ、わたしの方が心配になっちゃいます」
「そっか、そうだね。・・・えっと、じゃあ、ほんと今日はありがとう。さようなら」
 そう言って僕は軽く手の平を掲げ、彼女に別れの挨拶をした。するとみつきは、ふと怪訝な表情を浮かべ、そして僕の顔をじっと見つめた。
「わたし、まだ、さっきの返事を貰ってないけど、明日もわたし、ここに来ていいって、そういうことですよね?大翔さん、明日もわたし、頑張ってガイドしますから、楽しみにしていてくださいね!今日行ったお月見山以外にも、まだまだ、この村には良いところが沢山あるから、まだまだ、大翔さんを案内したいところがいっぱいあるから、だから絶対に勝手に帰っちゃったらだめですよ。きっと、明日も旅館で、ちゃんと、わたしが来るのを待っててくださいね。絶対ですよ、お願いします!・・・約束ですからね!」
 口を開くなり、みつきはえらい早口で、何やらありえないほどに押し付けがましいことを突然一方的に言ってきた。だが、僕はその迫力についつい圧倒され、しばし返す言葉を失ってしまった。
 すると、みつきの表情が再び緩んで、やんわりと微笑んだ。
「今日は、わたしのわがままに付き合わせちゃって、本当にすみませんでした。ありがとうございました♪また、明日もよろしくお願いします。
 じゃあ、大翔さん、おやすみなさい♪」
 みつきはそう言って深々と頭を下げてお辞儀をした。長いツインテールの髪がふわっと舞って、水色のリボンが風に揺れて、彼女の頭が自分の体に当たりそうで、僕は思わず後ろに身を引いた。

                  *
 みつきは僕に背を向けて、ゆっくりとした歩みで僕の前から遠ざかっていった。そして、ときより振り返っては、ちょっと微笑んで、軽く手を振って、それからまた向き直り、またその道を先へと歩き去っていった。
 僕はそんなみつきの様子を、彼女の姿が完全に見えなくなるまで、まるで枯れた畑のカカシのように、ただそこに突っ立って、ずっとぼんやり眺めていた。
 不思議な気分だった。奇妙な感覚だった。何故だか、今まで感じたことのなかった、いや、ずっと忘れていた寂しさのようなものを覚え、心の奥にすきま風が通り抜けていくような気がした。
「・・・あの娘、なんだったんだろう?変な女の子だよな。なんで、俺なんかに親切にしようとするんだ?

 ・・・おれ、昔、うさぎでも、助けたことがあったっけ? 」

第三章「鏡月姫の伝説」


                  (0)
 すでに真っ暗になってしまった迷路のような狭い路地をぬけ、疲れ切った身体を引きずるようにして、ようやく浜見旅館のエントランスへと入ると、なにやら賑やかな人々の声が聞こえてきた。
 どうやら、廊下の奥の方で騒がしく宴会でもやっているようだ。そういえば、夕食は一階の奥の広間で7時からだと、宿を出るとき女将から聞かされていた。
 ふと、大きな柱時計の文字盤を見ると、時刻はすでに7時半を過ぎていた。飯のいい匂いも漂ってくるし、今はまさに夕食の真っ最中なのだろう。
 ・・・そういや、めちゃめちゃ腹が減った。
 僕はとりあえず洗面所に寄って顔を洗い汗を拭いてから、急ぎ足でその広間へと向かった。
                   *
「あら、斎藤さん。ずいぶん遅かったですね。どこへいらしてたの?少し心配しましたよ」
 夕食が用意されている畳敷きの広間の中をそっと覗くと、すぐに女将が僕に気づき、そう声をかけてきた。
「・・・ああ、すみませんでした。ところで、俺のめしあります?」
 何気に気まずくて、ペコペコしながら聞くと、女将は優しく微笑んで僕に手招きをしながら言った。
「もちろんですよ。うふふ。さあ、こちらへどうぞ。皆さんと相席でいいですよね?」
「えっ?はあ・・・」
 三十畳ほどのその広間の中央付近には、幾つかのテーブルを縦に並べて一つの大きな長テーブルが作られており、そこに各客一人ひとり分の料理がずらりと並べられていた。そしてそこでは、すでに十人ほどが座って会食を始めていた。そこにいるのは皆中年くらいの男性ばかりで、また、皆気の置けない仲間内なのか、とても和気あいあいと楽しげに談笑していた。
 ・・・しかし、突然あの中に加われと言われても、正直、僕はめちゃめちゃアウェイな感じで気が引ける。というか、凄く困る!?
「よう、にいちゃん♪こっちだこっちだ、さあさあ、・・・ほらほら、そんなとこでぼんやり突っ立ってねえで、こっち来なって!」
 会席のなかの一人の男性が、酔っ払た調子でそう言いながらスッと立ち上がっると、いきなりこちらに歩み寄ってきて僕の腕をギュッと掴み、まるで強制連行するように僕を自分の席の横にへと座らせた。・・・うっ、ひどく酒臭い!
「おう!客人だ。みんな、よろしく!・・・あ、えっと、にいちゃん、名前は何だっけ?」
「えっと・・・斎藤です」
 正直、訳が分からなかったが思わず答えてしまった。
「そう、斎藤君だ!この祭りのために、わざわざ来てくれたんだ!」
「うお~っ!!!よろしく~っ!!!」
 意味不明だが、席についていたオジサン達が皆でパチパチと拍手をしながら声を合わせて歓声を上げた。・・・まあ、単なる酔っ払いである。・・・マジ、ウザイ!
「よう、兄さんは大学生か?一人旅なのか?いいよなあ。若いうちは、何でも好きなことが出来て、ほんと羨ましいぜ!俺も昔に帰りてえなあ」
「けどなあ、せっかくの夏休みに一人旅とは、ちと寂しいなあ。兄ちゃん、彼女はいないのか?」
「あははは、そんなの当然いるだろう。彼女の一人や二人くらい。だって、ハンサムだもんなぁ。・・・いや、それとも女なんか、めんどくさいだけか?あはははは!」
「あ~あ、くそ羨ましいなあ、けどなあ、俺が若かったころは、兄ちゃんなんかより、ずっとカッコよくて、めちゃめちゃモテたんだぜ!あはは!」
「ばか、よく言うぜ!しょっちゅう振られちゃ、ヤケ酒飲んで泣いてたくせに!」
「うるせ~っ!!余計なこと言うな!」
(・・・以下省略)
 僕は何も答えていないのに、何故だかおっさん達は勝手に言いたいことを言いあって、好き勝手に盛り上がっていた。訳が分からん。・・・だから、酔っ払いは嫌なのだ。
 当然僕は、いかれた酔っ払いなど無視して自分の食事に専念することにした。とにかく、一刻も早く飯を済ませてこの場を立ち去るのみである。・・・だが、
「さあ、お前も飲め。遠慮すんな、これはおごりだ。気が済むまでいくら飲んでもいいからな」
 そう言いつつ、隣のオヤジがビールをなみなみと注いだコップを僕の目の前に置いた。
「いえ、結構です。僕、お酒は飲めませんから」
 当然、僕はそう言ってはっきりと断ったが、やはりオヤジむきになって絡んできた。
「嘘つけ。飲める口だろう!顔にちゃんと書いてあるぞ!そのぐれえ見ればわかる。これはなあ、祭りの酒だ。飲まんとバチが当たるぞ!」
「はあ?」
 僕はあきれて、軽蔑の視線を返した。するとそのオヤジは意味深げにニヤリと笑った。
「いいか、今年は12年に一度の大祭だ。祭りの準備も、その後のこうした会食も、皆祭りの一部だ。わかんだろ?お前、そんな祭りの酒を飲まないでどうすんだ?特に今日は願い札の花火を打ち上げた重要な日だ!・・・さあ、文句を言わず、ガンガン飲め!さあさあ!」
「・・・はあ」
 僕は仕方なく、そのビールに口を付けた。本当は全く飲みたくはなかったのだが、これ以上歯向かって口論する元気もなかったのだ。もはやクタクタだった。ここは文句を言わず素直に従順なふりをして、とっとと飯を済ませて引き揚げよう。それが得策だろうと考えた。

                  (1)
 夕食を共にしたオヤジ軍団は、要するに祭りの準備のために集まった仲間らしい。そして皆の顔をよく見れば、70近いだろう年配もいれば、まだ20代後半くらいの若い感じの人もいた。
 また話の感じから、地元に住んでいる者と遠くからここへ手伝いに来ているらしい人がいるようであった。「やっぱり暮らすなら、都会なんかより故郷の方が断然いい!」なんて話題で訳もなく盛り上がっていたのだ。
 ・・・だがまあ、そんなことは僕にはどうでもいいことである。そもそも彼らの話のほとんどが僕には全く無縁の世界であり、何の話をしているのかさえよく判らなかったのだ。
 というわけで、僕としてはとっとと食事を済ませ、一刻でも早くその場を立ち去りたかったのだが、どうにも隣のオヤジが最悪だった。年齢は40代後半くらいで名前は山崎なにがしとかいうらしいが、終始ベタベタとしてきて馴れ馴れしいいのだ。
 それでも単に色々話しかけてくるだけならまだ良いのだが、人の背中をポンポン叩いてきたり、僕の肩に手を掛けてきたり、俺を飲み屋のホステスとでも勘違いしているんじゃないのか?と思うほどだった。って、もしかしてこのオヤジはホモか?・・・キモすぎる。
 しかも、汗臭さとオヤジ臭とアルコール臭の混在した狂気の悪臭を吹きかけられ続けて、もはや飯が不味くなるのは当然で、しかも食事に集中できなくて、なかなか箸が進まなかった。
 そしてまた、流れからついついビールを飲まされて、気がつけば僕もすっかり酔っ払ってしまったのである。・・・トホホ。

                   *
「それじゃ、俺はお先に失礼します」
 自分の食事を終えると、僕は呟くようにそう言って静かに立ち上がった。都合のいいことに、あの山崎は他の連中との話に夢中なようで、僕のそんな様子に全く気づいていないようだった。だから、僕はこっそりと、抜き足忍び足で席を離れた。
 広間から廊下に出たところで、ちょうど女将が広間へと戻るところで鉢合わせした。
「あら、斉藤さん。もう、お食事済みました?」
「はい、どうも。・・・えっと、とっても美味かったです」
「ありがとうございます。ふふふ」
 女将は僕の言葉ににこやかに微笑んで答え、そしてその後、ふと思い出したように言った。
「ああ、そういえば、お部屋のご案内まだでしたね。ちょっと、待っててください。今ご案内しますから」
「あ、はい」
 女将はパタパタと急ぎ足で広間に入ると、手に持っていたお盆を女中らしき人に渡して、少々話をした後、すぐに僕のところへ戻ってきた。
「お待たせしました。さあ、こちらです」

 僕は女将の後について階段を上がった。そして二階の隅の部屋へと案内された。引き戸を空けて部屋へと入ると、そこは角部屋で二面にわたって窓があり外の景色が広がっているのがわかった。とはいえ既に外は真っ暗で、景色などほとんど見えはしなかったのだけれど。
 そして遅ればせながら宿帳に名前を記載し、また旅館の宿泊規則などの簡単な説明を終えたあとで、女将がふと聞いてきた。
「それで、いつまでご滞在ですか?一泊だけでいいのかしら」
「あっ、いえ、祭りの日までお願いします」
 僕は何も考えないまま、思わずそう答えていた。だが、一度口に出してしまった以上今更訂正する気も起こらず、やはり例の祭りを見て帰ろうと、そう改めて思った。
「じゃあ、二泊で良いのかしら?」
「ええ、はい。それでよろしくお願いします。あっ、でも、ほんと飛び込みで、なんだか済みませんでした」
「うふふ、そんなこと。空き部屋ばかりだからありがたいですよ。 ありがとうございます♪どうぞ、ごゆっくりしていってくださいね。あっ、あと、お風呂は10時半までです。お疲れになったでしょ?あんまり大きな浴槽ではないけれど、ゆっくり汗を流してくつろいでいらしてね」
「あ、はい」

                   *
 女将が部屋をあとにすると、僕は早々にタオルと旅館の浴衣を手に風呂場へ向かった。一階へと降り、廊下をずっと奥へと進んでいったところの母屋から少しばかり離れた建物の中に浴場はあった。
 『ゆ』と大きな一文字の書かれたのれんをくぐり脱衣所に入ると、そこには全くひと気がなく、食事をしていた広間とは対極なほど静かだった。見れば棚の脱衣籠はどれもカラで、他に入浴中の客もいないだろうことは明白だった。
 ふと脱衣室の隅を見ると、そこにコイン式の洗濯機と乾燥機が設置されていて、僕は少しホッとした。実のところあまり着替えを持ってきておらず、汚れたTシャツやこの汗ぐちょになってしまったジーンズをどうしたものかと考えあぐねていたところだったのだ。
 Tシャツは流しで雑巾みたいに洗うこともできるし、またすぐに乾くだろうから心配ないがジーンズについては考えものだ。だからといって、汗臭いズボンを何日も履き続けるのは我慢ならない。
 しかしこれで一安心である。ジーンズに替えはないが、乾燥機があるからOKだ。僕は脱ぎかけていた服をまた着直して一度部屋に戻り、昼に着替えたTシャツなどの洗濯物を取って脱衣所に帰ってくると、それらを脱いだ服と一緒に洗濯機へと放り込んだ。そして自販機で購入した洗剤とコインを入れ、機械を始動させてから、改めて浴室へと向かった。

                  (2)
 予想通り、浴室内には誰の姿もなく静まり返っていた。けれど室内は暖かな水蒸気で満たされていて全く寂しさなど感じなかった。むしろ、身も心も疲れきっていた今の自分には実にありがたい環境であった。
 壁際に並んで配置された洗い場で軽くシャワーを浴びてから、浴槽にゆっくりと体を沈めた。風呂はあまり大きくないと女将は言っていたが、僕の感覚からしたら十分すぎるほど広々していた。
 こんなふうに両手両足をいっぱいに伸ばして、ゆったりと湯船に浸かるなんて何年ぶりだろうかと思った。しかも、この大きな浴槽を一人で独占して。
 この湯は残念ながら温泉ではなかったが、入浴剤の程よく控えめな香りはとても気持ちよく、全身にムラなくじんわりと伝わってくる湯の熱も心地よかった。ふと油断すると、このまま眠ってしまいそうな気分で、僕はぼんやりと天井を見上げた。
 天板は、やはり相当年期が入っているようで、全体に黒ずんでいて、所々緑色にコケむしていて、水滴が星空のように散りばめられていて、なんとなく不思議な幻想絵画を眺めているような感覚だった。
 そしてふと、あの『みつき』の顔が浮かんできた。あの笑顔が、あの野うさぎのような後ろ姿が、コロコロとその表情を変える綺麗な瞳が、そして、どこか幼さの感じる彼女の子供っぽい声が、言葉が・・・。

「なんだったんだろう?」

 改めて、思った。本当に奇妙な一日だった。不思議な娘だった。今となっては、まるで現実味を感じられない。・・・本当に、なんだったんだろう?
 彼女は、なんだって、こんな僕に声を掛けてきたんだろう?間抜けそうだから、安心だとでも思ったのだろうか?
 ・・・しかも、どうして、僕のような見知らぬブ男に対して、あんなにも親切にしようとするのだろう?わけがわからない。
 けれど、僕に女の子の気持ちなど全くわからない。そもそも、女の子と二人だけで話をするのも初めてだった。もう二十になろうというのに、デートの一つもしたことがない。
 高校時代に好きな子はいたけれど、なかなか気持ちを告白できなくて、卒業して離れ離れになって、それでも忘れられなくて、ようやく気持ちを明かしたけれど、当然ながら彼女には既に相手がいて、僕はそれでようやく自分を諦めた。
 ・・・いや、未だに未練タラタラか。
 きっと僕は、未だに誰かから愛されたいなんて幻想を捨てきれずにいるのだろう。僕のような無能な男が、女の子から愛されるなんて、絶対にありえないのに。

 ・・・だが、そんなことをぼんやりと夢想している時だった。突然、脱衣所のあたりが騒がしくなっているのを感じた。大勢の人の声が行き交い、この浴室内にもそうした笑い声や会話が響いてきた。
 そうだ、この声の感じは、あの広間で食事を共にした、あのオヤジ達だ!
                    *
 程なくして、この癒しの空間はウザいオヤジ達の臭気で汚染されることとなった。オヤジらは皆、ろくに体を洗おうともせず、湯船から桶ですくった湯を軽く股にひっかけると、ぞろぞろと湯の中に体を沈めていった。
 暑苦しオヤジ達の日焼けした肉体がこちらへ向かって押しかけてきて、僕は慌てて湯船から飛び出した。
「よう、兄ちゃん。もう、のぼせたのか?アハハハ!」
 オヤジの一人がそう言って笑うと、他の奴らもニヤニヤしながら同調するように笑い声を発した。・・・マジウザい!
 僕は当然のごとく無言で急ぎ洗髪を済ますと、逃げるように脱衣所へと脱出した。すると背後で、「なんだ、もう出るのか?カラスの行水だな!」と、馬鹿にするような声が聞こえた。そしてその声は、そう、あの山崎とかいうオヤジであろうことは間違いなかった。
 本当に糞ウザいおっさんだ!嫌気がさす。

 脱衣所で体を拭きながらふと洗濯機を覗いてみたが、やはり洗濯終了までには、まだ時間がかかりそうだった。本当は洗濯物を乾燥機に移してからここを出たかったのだが、あまり長居をしたくないのが本音である。
 仕方なく、僕はドライヤーで手早く髪を乾かし浴衣を着終えると、さっさとその場をあとにした。
 ひとり、宿の母屋に通じる渡り廊下を歩いていると、何もなく静寂なその空間に、僕が床板を踏む軋み音だけが、ギシギシと静かに響いていた。

                  (3)
 自室に戻ると、部屋には既に布団が敷かれていて、それまで畳部屋の中央にドンと鎮座していたはずのテーブルは隅へと追いやられ立てかけられていた。
 僕はおもむろに部屋の隅に設置されていた小型冷蔵庫からソーダ水を一本取り出すと、栓抜きでポンっと瓶の蓋を開け、窓際にあった椅子へと向かった。
 窓の外は当然真っ暗だったが、不思議な静寂がそこにはあって、霞んで見える山々の樹木の枝が、ゆっくりと風に揺れているのが感じられた。すると肉体の疲労が急にすうーっと湧き上がってきて、瓶を持っている手がゆらゆらと落ちていった。
 ハッとして我に返り、僕は瓶の飲み口を唇まで運ぶと、その炭酸の効いた砂糖水を一気に喉へと流し込んだ。冷たくジュワッとしたさわやかな感触が喉の奥まで広がって、それからハーっと深い溜息を吐いた。
 そして、頭に浮かんでくるのは、やはり、みつきのことだった。
「なんでだろ?やっぱり、以前に彼女に会ったことがある気がする。・・・いや、そんなわけ、絶対にあるはずないのに」

                   *
「・・・・・・うっ、あれ?」
 ふと目が覚めた。ぼんやりと、目の前の小さなテーブルの上のソーダ水の瓶が目に留まって、それで今の自分の状況に気が付いた。
 ・・・そうだ。椅子に座ったまま寝ちゃったんだ。
 ソーダ水の瓶を掴むと、まだ中身が半分残っているのが分かって、僕はその少しばかり気が抜けて、ちょっとぬるくなってしまった炭酸水を飲み干した。それから二、三回自分の頬を両手で挟むようにペンペン叩いて気合を入れて、再び浴場へと向かった。

 部屋を出ると、既に照明が落とされ廊下は薄暗かった。そして館内は不思議なほど静けさに包まれていて、自分の足音だけが必要以上に響いていた。
 なんだか妙な気分だった。あの、みつきとの出会いといい、その後のおやじ軍団といい、今日はありえないほどに騒がしい一日だった。そう、僕のそれまでの日々とはまるで真逆で、嘘のように賑やかで、意味不明なほど人のぬくもりに包まれていて・・・

 誰もいない静まりかえった廊下を、自分以外誰の存在も感じない空間を、ひとり歩いていて、ふと言い知れぬ寂しさがこみ上げて来るのを感じた。
「・・・なんでだろう?独りでいるのが寂しいなんて、全然思ったことなかったのに」
                   *
 『ゆ』と書かれたのれんをくぐり脱衣所を覗くと、まだちゃんと電気がついていて少しホッとした。けれど壁の時計を見ると時刻は既に午後11時近くになっていた。
 確か入浴は10時半までと聞いていたから、正直ギリギリだったようだ。でも、別に僕は風呂に入りに来たわけではないから関係ないのだけれど。
 僕は当初の目的を果たすべく、脱衣所の一番奥にある洗濯機へと向かった。当然、既に洗濯は終了しており、洗濯槽を覗くとジーンズやシャツが脱水され絡まって一固まりのドーナツのようになっていた。
 僕はそれをそのまま掴み取り、洗濯機の上部に設置されている乾燥機へと移した。コインを入れスイッチを押すと、乾燥機はゴーッと唸りをあげ、熱風を吐き出しながらガタンガタンと振動しながら回転を始めた。
 しっかりと乾くよう設定時間は2時間としておいた。だが、さすがに2時間もここで独りで終了を待っているのも馬鹿らしいので、明日の朝にでも取りにくればいいやと、そう考えていた。・・・だが、そんな時だった。
 ガラッと、突然浴室と繋がる引き戸が開いた。ふと見ると、そこには素っ裸の10歳くらいの少年がいた。少年は僕を見るなりびっくりしたような顔をして固まった。
 『カラン』っと、何かが落ちる音が人けのない室内に響いて、僕はふと音のする方に目を向けた。すると黄色いアヒルのおもちゃが僕の足元の方へと転がってくるのに気がついた。
 僕はそのおもちゃを何気なく拾うと、その少年に差し出した。少年は何も語らぬままスっとそのアヒルを受け取ると、気まずそうに顔をしかめ、挨拶もないまま自分の服の置いてある脱衣カゴの方へと走っていった。
 なんだか緊張している感じのその少年に申し訳ない気がして、僕は足早にそそくさと脱衣所から外へと出た。
「しかし、こんなギリギリの時間まで風呂に入ってるなんて、あの子もよっぽどの風呂好きなのかな?」
 と、思わず少し笑いがこみ上げてきた。
 思えば、あんな歳の頃、僕も風呂が好きだった。父の帰りを部屋で独りで待っているのが嫌で、意味もなく何時間も小さな風呂場の湯に浸かってぼんやりとしていたことがあったなぁと、ふと昔の自分を思い出した。

                   *
 自室に戻ると、もはや僕の脳みそは眠ることしか思わなかった。歯磨きとトイレを済ますと、意識を失うように布団の上に倒れ込んだ。そして、もはや何も感じることもなく、何も考えず、そのまま深い眠りに沈んでいった。

                  (4)
「ルルルルルルルルルル ルルルルルルルルルル ルルルルルルルルルル ルルルルルルルルルル」
 電話の発する電子音に鼓膜を刺激され目が覚めた。ぼんやりとした意識の中、イモムシのように体を引きずって受話器を取ると、女将の爽やかな声が聞こえてきた。
「おはようございます。昨晩は、よく眠れましたか?うふふっ♪朝食の準備が出来ましたから、お早めに広間の方へおいで下さいね」

 洗顔を終え、すぐに広間に向かおうと思ったが、その前にしておかなければならないことを思い出した。
 僕は部屋を出ると、足早にそこへと向かった。そう、浴場の脱衣室だ。とにかくあそこに行って洗濯物を回収してこなければ、今日履くズボンがないのである。もっと着替えを用意してくればよかったかもと今更に思ったが、あの泥酔位状態で、ちゃんと下着やTシャツの換えを持って出ただけ、まだマシだったのかもしれない。
 そして脱衣所の乾燥機から洗濯物を取り出すと僕は再び自室に戻り、浴衣を脱いでズボンを履いた。それから、ふと洗面所の鏡のなかのみすぼらしい自分の顔と対面して、とりあえず持参した携帯型の電気ひげそりで無精ひげを綺麗に剃って、それから改めて朝食へと向かった。

                   *
 階段を降り廊下を進んで広間についた。そして広間を覗いて、ふと疑問を感じた。思っていたより全然人が少なかったのだ。・・・それも、まるっきり。
 そこにいたのは、なんと一人だけだった。それも、あの山崎とかいうウザいおっさんだけである。
 広い畳敷きの室内にポツンと一つだけテーブルが置かれていて、そこで山崎は独りで黙々と食事をしていた。そして彼の向かい側には、多分僕の分であろう朝食が整然と並べられていた。
 昨晩の、あの賑わいはなんだったのだろ?と思わず首を傾げた。
「おはようございます」
 僕は小声で申し訳程度に、そう挨拶をした。すると山崎は「おう!」と昨日と変わらぬふてぶてしい表情で僕に答え、黒々と日焼けしたその分厚い手のひらを僕に向けてかざした。
 そして、僕は何もないかのように静かに席へと座り、自分の朝食を開始した。とにかく、触らぬ神に祟りなしとばかり、静かに食事を終えたいだけだった。・・・けれど、どうしても気になって、ふと呟くように聞いた。
「昨日の人たち、どうしたんですか?もう、先に食事終えて出てったんですか?」
 僕の問いに、おっさんは少し驚くような表情を浮かべたあと、鼻で笑うように言った。
「泊り客は俺だけだ。昨晩は皆で集まって飲んでただけさ。この村には、飲み屋の一件もないからな。まあ、ほかの連中は、自分家や親戚んとこに泊まってらあ、他に行き場のないのは、この俺だけだってことだよ」
「・・・え?」
 僕は彼のその言葉の雰囲気に、ふと違和感を感じた。
 そして、おっさんは昨晩とは一転して、僕の方にはほとんど目を向けることもなく、ただ独り黙々と食事を続けていた。
 昨日は、単純にむさ苦しいだけのオヤジだとしか思わなかったのだが、不思議と今朝は何か深い寂しさのようなものを彼の中に感じずにはいられなかった。・・・まあ、僕にはどうでもいいことなのだけれど。
 だが、おかげで食事の方は快適だった。僕は周囲のことなど何も気にせず、気持ちの良い朝食にありつけた。
 しかし朝起きると、こんなふうにきちんとした食事が用意されているなんて、ある意味僕には夢のようである。毎朝、誰かが食事や弁当を作ってくれて、それが当然な人生とは、いったいどういうものなのだろうかと、ふと思った。
                   *
「じゃあな、諦めずに今日こそ御札を見つけろよ」
 そう呟くように言いながら、山崎が立ち上がった。どうやら僕より先に食事を終えたらしい。そしておっさんは、そのまま玄関の方へと向かって歩き去っていった。
 ・・・けど?『今日こそ御札を見つけろ』って、何のことだ?訳がわからん。
 すると、入れ替わるように今度は女将が僕のところへとやってきた。そして僕の様子を覗き込むように眺めてから、小声で言った。
「うふふ、斉藤さんたら、やっぱりそういうことだったのね。うふふ」
「え?」
 意味ありげな女将の表情に驚き、僕は首をかしげた。すると女将はニンマリと笑いをこらえるような顔になり、そしてポツリと囁いた。
「ロビーで彼女がずっとお待ちですよ。早く行ってあげて♪」
「は?・・・・・・、あっ!」
 僕は慌てて残りの飯を口の中へとかっこむと、さっさとお茶で喉の奥まで流し込んで立ち上がった。女将はそんな僕の様子を見て、なんだかえらく楽しそうに微笑んでいた。

                  (5)
 急ぎ足でロビーまで行くと、フロアー隅の休憩スペースのソファーにちょこんと座っている、みつきがいた。今日は制服ではなく、涼しげな半袖のシャツにデニム地の短パンだった。けれど、相変わらずの長いツインテールで、水色の大きなリボンも健在だった。
「あっ、御免。なんだか待たせちゃったみたいだね。・・・いや、ホントに来ると思ってなかったから」
「えっ? ・・・いえ、そんなに待ってないです。というか、済みません。その、朝から図々しく押しかけちゃって」
 みつきはそう言って頭を下げた。長い髪がふわりと揺れて、水色のリボンが風になびいて、僕は改めて、昨日の出来事が現実だったことを認識した。
「いや、ほんとに来てくれて嬉しいよ。・・・えっと、今、急いで支度してくるから、ちょっとだけ待ってて」
 みつきは僕のその返事を聞いて、やんわりと微笑んだ。僕は彼女のその笑顔を見て、何故だか少しホッとして、そして急いで部屋へと向かった。
                   *
 部屋に戻ると洗面所で歯を磨いて顔を洗って、少しだけ髪型をいじった。そして服装を確認してから財布をポケットに押し込んで、一度深呼吸してから部屋を出て、急ぎ足で階段を降りた。
 ロビーに戻ると女将がそこにいて、みつきと何やら楽しそうに話をしていた。だが、僕が来たことに気づくと、女将は彼女から離れ僕の方に寄ってきた。そして僕の耳元でこっそりと囁くように言った。
「うふふ、あんな楽しそうなみつきちゃんの顔、初めて見るわ。うふふ、絶対泣かせたりしちゃだめよ♪うふふふ」
「えっ!?」
 僕が驚いて目を丸くすると、女将は更に嬉しそうにニヤニヤしながら歩き去っていった。・・・正直、わけがわからない。
 そしてその時ふと視線を感じ、みつきの方を見た。すると何故か彼女はサッと視線を逸らした。・・・なんなのだろう?
 けれど、いったい女将と何の話をしていたのだろうか?
 少し気になったが、まあ、どうでもいいことだろう。でも、どうやら女将は変な勘違いをしているようだ。・・・まあ、どうでもいいことだけど。
「ごめん。準備オッケー、えっと、今日はどこに案内してくれるの?」
「あっ、はい!・・・えっと、どこか行きたいところはありますか?わたし、大翔さんの行きたいところなら、どこへでもご案内いたしますけど」
 みつきはバカに緊張した面持ちで答えた。だが『どこか』と言われても僕にはこの村に何があるのかさえよく分からない。
「どこでもいいよ。昨日みたいにおすすめの場所があったら、そこに行こう。あっ、でも、もう山登りは飽きたかな。どこか近場で、のんびりできるところがいいかな」
「あ、はい。・・・う~んと、それなら、郷土史資料博物館はどうですか?たいした展示はないけど、あそこなら冷房もきいてるし、すぐ近くだし、のんびりはできるかな?」
「じゃあ、そこに行こう」
 みつきはニッコリと微笑んで頷いた。
 そういえば、郷土史博物館があるという話は、昨日女将からも聞いていた。まあ、要するに、この村にはあのお月見山とその郷土史博物館くらいしか、特に行くとこなんかないのだろうね。

                  (6)
 僕は昨日同様、みつきの後ろを付かず離れずついて行った。そして彼女はその道中、ずっと僕に色々と話しかけてきた。まあ、しかしその内容は本当にどうでも良いような世間話のようなもので、僕は話半分に漫然と聞いているだけだった。
 何か気の利いた返答の一つもできれば良いのだけれど、口下手の僕にはろくな言葉など思いつかない。だからほとんど、ただ相槌をうっているしかできなかったのだ。
 ・・・けれど、今日の彼女は手提げ袋を下げていて、そこには何やら重たそうな箱のようなものが入っているようで、僕は当然手ぶらだったので、ふと「持とうか?」と聞いてみたのだが「全然平気」とあっさり断られた。
 まだ出会って間もないし、彼女のことは全然知らないが、けれどこの『みつき』という女の子はどこか頑固なところがある。また、凄くマイペースな感じがする。そして正直なところ、何を考えているのやら意味不明だ。訳のわからない娘である。
 ・・・でも、なんでだろう?彼女といると不思議と安心する。あの、何気ない笑顔を見ていると、自分は幸せでいて、それでいいような気がしてくる。
 ・・・なんでだろう?
 でも、間違ってはいけない。彼女の親切に甘えてはいけない。馬鹿なこと考えちゃいけない。彼女の思いを裏切らないよう、きっとこの娘が満足するように、きっと楽しい思い出になるように、きっと、僕がそのために少しでも役に立つように、きっと、そうあろう。
 みつきの後ろ姿を見つめながら、改めてそう思った。

                   *
「この公園の敷地には、昔『浜見城』という大きなお城があったと言われています。でも実は、それはあくまで伝説らしくて、ちゃんとした証拠はまだ無いらしいんだけどね。でも、わたしは本当にお城はあったんだと思ってます。うふふふ♪」
 『浜見城跡公園』と書かれ門柱を抜けたところで、みつきがガイド気取りで、そう説明を始めた。
「え?けど、公園じゃなく、博物館に行くって言ってなかったっけ?」
「ああ、大丈夫!郷土史博物館はこの公園の一番奥にあるの。もう少し先だよ♪」
 今日のみつきは、やはり昨日にも増して楽しそうだった。きっと、こんなふうに人に親切にするのが好きなのだろう。明るい子だし、人懐こい性格のようだ。
 ・・・けど、ふと『あんな楽しそうなみつきちゃんの顔、初めて見るわ』と言っていた女将の言葉を思い出し、奇妙な気がした。
 いや、きっとあれは単なる冗談だったのだろう。だってみつきは、どう見たって、みんなから好かれる明るい性格の女の子である。そう、僕なんかとは正反対だ。
「どうしたの?」
 みつきが僕の顔を心配そうに覗き込んだ。
「え?いや、ただちょっと考え事してただけだよ」
「・・・大翔くんて、たまに遠いい目をするよね。ふふふ♪」
 みつきはふざけたようにそう言って笑った。そしてスっと右手をあげると、団体旅行のガイドが客の先導で小旗でも振るみたいなパントマイムをして「さあ、郷土史資料博物館はこちらで~す!ちゃんとついてきてくださ~い♪」と言いつつ小走りに足を進め、それからパット振り返り、「早く早く!」と手招きをしながら一人でニヤニヤ笑っていた。
 本当にひょうきんな女の子だ。

                   *
 公園の奥の方は小山のような高台になっていて、僕はみつきの後についてコンクリートの階段を登って行った。そして上がった先は下とは違い、無造作に太い樹木が生い茂っていて少し薄暗く感じた。
 また、城跡だったという伝説があるだけに、いたるところに大きな四角い岩がゴロゴロしていて、また所々高く積み重ねられていたりして、確かに、かつてここには城の石垣が作られていたのかもしれないなあ、と連想させられた。
 ふと見ると、敷地の中央付近に小さな社(やしろ)がちょこんと建っていた。そして僕がぼんやりとその社を眺めていると、みつきが呟くように言った。
「あれは、鏡月姫の社だよ。鏡月姫っていうのは、大昔この浜見城に住んでいたといわれている伝説のお姫様」
「へえー、ここのシンボルみたいなもんか」
「うん。そうかも。この土地の大切な伝説の主人公かな?・・・そう、そういえば、昔は浜見神社じゃなくて、この場所から願い札の花火を打ち上げていたんだって。でも、火事の心配や、飛ばした御札がうまく散らばらないからとか、そんな理由から、今は神社の方で打ち上げるようになったんだって、子供の頃、父から聞いたことがある」
 みつきは、少し思いにふけるような表情で言った。そして、そのあとポツリと言葉を追加した。
「・・・鏡月姫の伝説って、ちょっと悲しいけど、とっても素敵なお話だよ」

                 (7)
 それは鉄筋コンクリートの簡素な作りの四角い二階建の建物だった。見ると出入口と思われるガラス扉の上部には『浜見村立郷土史資料博物館』と金色の文字があった。
 そして僕は、当然なんの躊躇いもなくそこへ向かった。だが、玄関のガラス戸の前に立って奇妙な違和感を感じ固まった。・・・そう、小さなパネルがドアの取っ手にぶら下がっていたのだ。そしてそこには赤文字で『閉館中』と記されていた。
 ふと、大きなガラス戸に直接書かれた案内書きに目を向けると『開館時間10:00~16:00』とあった。・・・って、おいおい!
「あれ?今日休館日だったっけ?そんなわけないのに!」
 みつきが驚いた声でそう言った。
「いや、そうじゃなくて、まだ開館時間になってないって」
「えっ?、・・・あっ!」
 みつきは僕の指差す案内書にちらりと目を向けた後、自分の腕時計をさっと見て目を丸くした。そして「どうしよ~う?まだ開館まで一時間半以上あるよ・・・」と半泣きな声をだした。
 ・・・って、ダメすぎるだろう?天然恐るべし!全然ガイドになってないぞ!?
「どうする?仕方ないから、他行く?」
 僕がそう聞くと、みつきは更に困ったような顔になって言った。
「でも、ここ以外に行く場所なんかあったかなあ?・・・どうしよう」
「じゃあ、喫茶店とかで時間潰すとかはどう?」
「う~ん、この村に喫茶店なんか一つもないよ」
「じゃあ、・・・えっと、どこでもいいから、どこかないの?」
「う~ん、・・・・・・・・・」
 と、そこで早くも会話が止まった。だが、ここでただ呆然と一時間半過ごすのは堪らない。何とかせねば!・・・っていうか、本当にこの村には何もないらしい。
 考えてみれば、そもそも、こんな村でボランティアのガイドをしようと考えたみつきの頭の中が不思議である。しかも、肝心のガイドの方もこの有様だしね。
「ここは公園なんだし、散歩でもしようよ」
 ふと呟くようにそう言うと、みつきは僕の顔をふと見つめながら「うん」と小声で返答した。
                   *
 特に何もない公園内を二人でフラフラと歩いて回った。そして時より、みつきはふと立ち止まっては「ほら、この花、すごく綺麗♪」などと言って、ちょんちょんと僕の肩を叩いてきて、それで一緒にぼんやりとしばし草花なんかを眺めたりした。
 小山に囲まれた田舎だけに、午前中の空気は何となくひんやりとして涼しくて、特に何もない園内を、こうしてただ歩いているだけでも気持ちがよかった。
 そして、みつきが話すことといえば、結局のところどうでもいい世間話や芸能ネタなんかばかりで、全く観光ガイドを受けているという雰囲気などではなかった。
 ・・・そう、まるでデートでもしているみたいである。まあそれはそれで、本心ではとっても楽しかったのだけれど。でも、やっぱり、違和感が拭えなかった。
「なんでガイドなんかしようと思ったの?しかも俺なんかに」
 ふと聞いてみた。するとみつきは「えっ?」と不思議そうな顔をしてから、ぽそっと呟くように答えた。
「大翔くんを見つけたとき、ふとひらめいたの」
「えっ!?」
 みつきの言葉に違和感を感じ、思わず彼女の顔を見た。するとみつきは、ふと我に返ったように目を見開いた。
「えっと、だから、夏休みの課題を何かしなくちゃって考えてた時に、旅行者らしい大翔さんを見て、それでとっさに、観光ガイドくらいなら自分にも出来るかな?って、そう思いついたの」
「なるほどね」
 僕はみつきの返答を聞いて、少し謎が解けた気がした。やはり、この娘は天然なのである。・・・けれど、ガイドくらいならって、結局出来ていない気がするのだが?
「でも、どうしてそんなこと聞くの?・・・やっぱり、迷惑だったかなあ?」
 みつきが僕の顔を覗き込むようにしながらそう聞いてきた。僕は思わず慌てて返答した。
「えっ、いや、そんなこと全然!ほんと、君のお陰で、すごく楽しいよ。ありがとう」
 けれど、みつきは相変わらず疑問符を残すような表情で、しばし僕の顔を見つめた。
「喉渇いたね。・・・そういえばさっき、博物館の脇で自販機見かけたなあ、なんかジュースでも飲もうよ。もちろん、おごるから」
 僕はそう言って、話を逸した。するとみつきは「うん」と小さく頷いた。

                   (8)
 僕が自販機にコインを入れて「何か選んで」と言うと、みつきは「ありがとう」と答えつつ、すぐにボタンを押した。ガチャンと缶が落ちる音を確認した後、自分の分のコインを投入した。すると、みつきが嬉しそうにポツリと言った。
「うふふ、ファンタグレープあるよ♪」
「あ、ホントだ。ラッキー!」
 僕は迷わず、そのファンタグレープを選んだ。そう、ファンタグレープは僕の一番好きなドリンクだった。確かにグレープジュースのくせに果汁の入っていない代物だが、僕としてはそこに惹かれた。子供の頃この事実を知って以来、自分の中でファンタは科学の凄さを実感できる最も身近なアイテムとして位置づけられたのだ。
 ・・・あれ?でも、なんでみつきは俺の好みを知ってたんだ?
「大翔く~ん。こっちで休も~っ♪」
 いつの間にか、みつきは少し離れた木陰のベンチのそばにいて、僕を呼びながら手を振っていた。僕はつまらない疑問など忘れ、すぐにそこへと向かった。

                   *
「もう、そろそろ開館時間だね。なんだか思ってたより、あっという間に過ぎちゃった」
 木陰のベンチでゆっくりとジュースを飲み終えた頃、みつきが腕時計を見ながらポソリと言った。
 そう、確かに全く退屈しなかった。特に何をしたわけでもなく、ほとんどぼんやり歩いていて、たまに話をしていただけだったのに、・・・本当に不思議だ。
「けど、君のその腕時計、ちょっとガキっぽくない?それって、サンリオか何かでしょ?今、学校でそういうのが流行ってんの?」
 ふと無意識に言葉に出ていた。嫌味のつもりではないのだが、実のところ昨日から気になっていたのだ。みつきのその腕時計は花柄の青いベルトで、文字盤にはファンシーなウサギのイラストが描かれていたのだが、正直小学生向けの幼稚なデザインだった。さすがに高校生がはめているのには違和感があったのだ。
「え?、ああ、うん。・・・これ、父に買ってもらった大事なものだから」
「ふ~ん。でも、君には、もっと大人っぽいモノの方が似合うと思うよ。まあ、ウサギ好きなのは分かるけどさ」
 僕がそう返すと、みつきは少し不満げな表情で首をかしげた。そして、少しばかり刺のある口調でポツリと言った。
「あのね、大翔くん。わたしの名前は『キ、ミ』ではないよ。『み、つ、き』だよ。ちゃんと約束守ってね♪」
「え?」
 僕は、そのみつきの言葉の意味が一瞬わからなかったが、ふと気がつき苦笑した。そして結局、何も言い返せなかった。・・・だが、別にわざと名前を避けて『君』と呼んでいたわけじゃない。ただ、無意識にそう呼んでいただけだ。
 ・・・確かに昨日、名前で呼び合うことを約束したが、別にどうでもいいことな気がするのだが。全く、女の子はめんどくさい。・・・って、あれ?
 気のせいかもしれないが、みつきは俺のこと、いつの間にか『さん』付けではなく、『くん』って呼んでないか?それに、すっかりタメ口になってきているような?
 ・・・まあ、どうでもいいけど。
「さあ、大翔くん。そろそろ行こ♪もう、開く時間だよ」
 みつきはそう言いながら、スっと立ち上がると、スキップするように数歩進んで、パット振り返り、またお得意のおいでおいでポーズをしてみせた。
 ・・・しかし、なんだか、自分が彼女の飼い犬みたいな気がしてきた。まあ、どうでもいいことだけど。
 ・・・それにしても、みつきは本当にマイペースな娘である。かなわん。

                   (9)
 博物館の入口に着くと、丁度係りのおじいさんがガラス扉の札を掛け替えているところだった。そしてみつきがにこやかに軽く会釈すると、爺さんはそっと扉を開き、にっこり笑って手招きしながらホールへと入れてくれた。
 入館は無料だったが、記帳だけは必要だった。しかし、その帳面に記された人の数は見るからに少なく、よくもまあ、こんな過疎村がこんな大層な施設を維持できたものだと少し呆れた。だが室内は冷房が効いていて、外よりは全然快適なのは言うまでもなく、ここは素直に喜ぶべきところだろうと思い直した。
 入ってすぐのホールには、大きな鯨の骨格標本が天井からぶら下げられていて、壁際には古い木造の手漕ぎの漁船が飾ってあった。また、その壁面にはこの地の漁業の歴史を表しているらしき写真パネルなどがずらりと並べられ、解説文付きで展示されていた。まあ、ここは漁村のようだから当然だろう。
 そして隅には『順路→』と書かれたパネルがあって、僕はそれに従いフロアー奥の展示室へと足を進めた。
 どうやらここの展示は歴史の古い順に並べられているようで、古代旧石器時代の黒曜石で作られた石器から始まり、縄文、弥生、古墳時代、奈良平安から江戸時代まで、そして近代へと、徐々に進化していくこの地の生活の有り様を、古地図などと合わせながらも、コンパクトに細かく区切って展示しているようだった。
 しかしながら、正直なところ、やはり田舎の過疎村の博物館だけに、その内容に特筆すべき点等まるでなくて、とりあえず形になりそうなものを適当に集めて並べられているだけのようにしか思えなかった。
 そして、我専属のありがたいボランティアガイド様はといえば、勝手にフラフラと歩き回っては、時より興味深そうにガラスで仕切られた展示ケースの中を一人で覗き込んでいた。・・・要するに、全然ガイドらしい振る舞いはしていないわけだが、まあ、今更気にすることもあるまい。
「ねえねえ、大翔くん、こっち来て。・・・あのさあ、アレなんだと思う?」
 みつきが何やら珍しいモノでも発見したようで、盛んに手招きしながら僕を呼んだ。
「ああ、これは古墳時代に使われていた武具や装具だよ。すっかり錆びて朽ちかけているからなんだか良くわからないけど、要するに鉄器とか刀とかだろ」
 みつきは感心するように目を丸くした。
「すご~い、一目見てわかるんだ。わたしはなんでこんな泥の塊が置いてあるのかって、ビックリしちゃったのに!」
 僕はみつきのその言葉に、思わず呆れて謎解きをしてあげた。
「いや、単にそこの説明書きを読んだだけだよ」
 すると彼女は表情をくるりと変え、
「な~んだ、感心して損したっ!・・・うふふふっ、あははははは♪」
 と、一人でウケて笑い出した。
 ・・・いや、もしかしたらこいつ、わざとボケて俺をからかってるんだろうか?まあ、どうでもいいが。
「あのさあ、君は一応、ガイドなんだろ?だったら、君の方が少しは俺に説明してくれてもいいんじゃないの?一応、地元に住んでるんだし、この土地の歴史についても、少なくとも、俺よりは詳しいわけだろ?」
 そう少々皮肉を込めて言ってやると、みつきは少しだけ真面目な顔になって「そうだね」と答えてから、展示ケースの方に手のひらをかざしつつ「ゴホン、ゴホン」と二、三度咳払いをしてから、スっと真面目な声になって話始めた。
「えっと、まず、これですが、これは6世紀頃の大和朝廷の時代、王権を中心とした各地の有力者たちが・・・」
「あのさあ、話の途中悪いんだけど、解説のパネルなら、俺も自分で読めるから」
「えっ!?あっ、そうだね。・・・うふふふふふ、あははははは♪」
 みつきはやけに嬉しそうだが、正直僕には苦笑いしか出なかった。・・・マジ、女子高生のジョークに付き合うのは疲れる。勘弁してくれ。

                   (10)
 ここの展示は、正直どんなに頑張っても僕には30分見ているが限界だった。はっきり言って、まるでつまらない。しかも、その展示数も内容も、共にお粗末だ。
 だが、みつきの方はといえば、ふざけ半分な割には、あちこち何度もウロウロ歩き回りながら、色々な展示を熱心に眺めているようだった。
「ねえ、その展示、そんなに面白い?だって、君は地元だから、もう既に飽きるほど見てるんじゃないの?」
 熱心に展示ケースの中を見つめているみつきに、そう声をかけると、彼女は不思議そうな顔で僕を見た。
「ううん。実はわたし、ここの展示見るのすごく久しぶりなの。昔、子供の頃にお父さんと見に来て以来かな?でもね、確かにその頃と、全然内容が変わってないんだよね。うふふふふ♪
 ・・・でもね、だからその、いろいろ見てたら、なんだか、いろんなこと思い出しちゃって、その、なんだか懐かしくなってきて」
「そっか、でも、そろそろ二階に上がってみない?なんだか二階にも、まだ少し展示があるみたいだよ」
「うん、そうだね。そろそろ二階にあがろ、」
 なんだか思い出に慕っているらしき彼女には申し訳ないが、僕は退屈すぎて今にも寝てしまいそうだったのだ。・・・まあ、この調子では二階に上がったところで、すぐに飽きるだろうが、このまま一階に居続けるのはもう限界だった。
                   *
 二階に上がりフロア内を一周してみて、みつきが何故いつまでも一階に留まっていたのか、その理由が良く分かった。そう、二階の展示は僕のようなよそ者には本当にどうでもいい物ばかりだったのだ。
 この地のかつての網元だとか郷士だとか、村と繋がりのあった政治家だとか権力者だとか、まあ要するに、そんな郷土に関わりのある有力者たちの人柄や業績などが、古文書や文献など共に、写真パネルや肖像画などで紹介されていたのである。
 しかも、こんなド田舎の小さな村だけに、そんな人物の中に僕が知るような全国区な有名人などいる訳もなく、説明を読んだところで何の得にもならないことは明白だった。
 ・・・いや、しかし、ここは郷土史資料館なのだから、本来こちらの方が主たる展示なのかもしれないけどね。・・・トホホ
 正直僕はもう、すっかり気が抜けてしまって、早くもここから脱出したくなってきた。
 ・・・しかし、考えてみれば、こんなところに入るために一時間半も待った意味ってあったのだろうか?・・・いや、もう過ぎてしまったことは考えまい!
 だが、そんなことを考えていた時だった。ふと気になるものを発見し僕の足が止まった。それは3メートル位ある長細いガラスケースの中に大切そうに収まっていた。
 素人の僕には正直良く判らないが、それはいわゆる絵巻物のようだった。そう、学校の教科書にあった平安絵巻みたいな感じで、長い巻紙に紙芝居みたいな絵が、何かの物語の順を追って続けざまに描かれているようだった。

                   *
 始めの絵は、華やかな感じのお城の中の一室。そこには綺麗なお姫様が一人。だが、何故だか、その隅に奇妙な暗雲みたいな黒い影が滲み寄ってきている感じ。

 そして次の絵は、随分と雰囲気が暗くなって、すっかりと部屋の中が不気味な暗雲に包まれてしまっていて、その中央で姫が怯えている。そして、その暗雲の影には黒々とした気味悪い鬼の姿が描かれている。だが、周囲の従臣たちは皆怯えおののいていて、全然役にたってないって感じだ。

 次の絵。今度は少し背景が変化して、姫らしい女の人は床で寝ているようで、老若男女、色んな人がその周りを心配そうに囲っていて、坊さんだか祈祷師みたいな人物が円い鏡を前に祈っている。そして画面の上部では、そんな皆の振る舞いを眺めるように、あの黒い鬼がニヤニヤ笑っているって感じだ。

 次の絵では構図が随分変わって、村と城を遠くから見た感じの絵になっていて、そして何故だか城を中心に噴水みたいに幾筋も光の線が周囲に向かって広がっていた。そして、やはり、城は黒い雲で包まれているようで、不気味な雰囲気をかもし出していた。
(あれ?この感じ、どこかで見たことがあるような?)

 次の絵。なんだか、また少し感じが変わって、今度は村人らしき人々が、田園風景のあちこちに小さく描かれていて、皆何かを探しているようにかがんでいる。そして、その中には光るガラスの欠片みたいなものを拾って掲げている村人の姿もある。そして、そんな構図の隅の方に、何故だか一人の旅人みたいな侍がスッと凛々しく立っている。

 次の絵。今度はまた、場面が城の中に戻る。姫は相変わらず床に伏していて、けれど、その前には割れて継ぎはぎだらけの鏡が置いてある。そう、幾つか前の絵では普通に円かったあの鏡だろう。だがその鏡は、一か所が抜けていて綺麗な円が出来ていない。また、相変わらず姫は苦しそうで、周囲を取り巻く暗雲も健在だ。
 そして、画面の隅には、何故だかあの旅の侍がまた描かれていて、今度は手に鏡の破片みたいなものを持っている。けど、この人物はいったい何なのだろう?何気にヒーローっぽい。

 次の絵。そう、これがようやく最後の絵だ。鏡の傍にあの侍が立っていて、上の方を見つめている。そしてよく見れば、継ぎはぎだらけだった鏡が、今度は完成したジグソーパズルみたいにちゃんと円になっていて、その鏡が力を得たみたいに光り輝いている。
 そして、その鏡の閃光は暗雲を吹き飛ばしているみたいで、あの黒い鬼の姿が苦しみもがきながら消し飛んでいく感じに描かれている。
 そして、これが一番意味のよく分からない部分だが、話の主人公らしい姫は、この絵の中では、まるで天女みたいに宙に浮いていて、そして、まるで死んで天に召されるみたいに、明るく輝く空に向かって昇っていくような感じで描かれていて、・・・え?、これっていったい、どういう意味?
(あの侍が、最後の鏡の破片を見つけ出して、あの黒鬼をやっつけて、それで姫が助かったって、そういう話なんじゃないのかよ!?)

「これは、この村に古くから伝わる、鏡月姫の伝説を描いた絵巻物だよ」

 ふと、その声に驚きサッと振り返ると、みつきが僕の顔をじっと見つめて立っていた。

第四章「デート」


                  (0)
「昔々、この浜見城には、鏡月姫という美しいお姫様が住んでいたんだって。
 とても心の優しい人で、村人みんなから愛されてて、本当に幸せに暮らしていたんだけど、ある時、恐ろしい魔物がそのお姫様に目を付けて、なんと彼女に憑りついちゃったらしいの。
 そして、その魔物は、少しずつお姫様の魂に侵食していって、ついに彼女は重い病いに冒されちゃったんだって。それで、お殿様は高名な祈祷師を呼んで、この地に古くから伝えられてきた魔除けの守り鏡を使って、その魔物を退治しようと試みたんだけれど、惜しくも魔物の抵抗で失敗しちゃって、その結果、頼りの守りの鏡は砕けて、その破片は村じゅうに散らばってしまったらしいの。
 それで、急いで村人総出で砕け散った鏡の破片を探しまわって集めたんだけれど、どうしても最後の一つが見つからなくて、このままでは、お姫様の魂はあの魔物に奪われてしまうってところまで追い詰められちゃったわけ。
 でも、そんな時、たまたまここを勇敢な旅のお侍さんが通りかかったの。そして、そのお侍さんは、自分には何の関係もないことなのに、魔物の呪いを必死で払い除けて、その残る一つの欠片を探し出してくれたの。それでようやく鏡は復活することができて、それで、その復活した鏡の力によって魔物を姫から追い払い、到頭退治することが出来たらしいの。
 おかげで、お姫様の魂は救われて、心静かに天に召されたって、まあ、要約すると、そんな感じの話かな?」
「・・・え?じゃあ、やっぱり、お姫様は死んじゃったってことなの?・・・なんだよ、それじゃ、全然ダメじゃん!」
 絵巻を眺めながら、みつきが鏡月姫伝説の簡単なストーリーを話してくれたのだが、僕にはその物語のラストがどうにも釈然としなくて、思わずそう呟いた。するとみつきは首をかしげ、不思議そうな顔をして反論した。
「そうかなあ?わたしはダメじゃないと思うけど。だって、確かに現世でのお姫様の命は助からなかったのかもしれないけど、旅のお侍さんのおかげで、魂は魔物には奪われずに救われたんだから、素敵なことだとは思わない?」
「あのさあ、人間、死んだらそれで終わりだよ。死ねば、何もなくなる。無と同じだ!助けられなきゃ、全く意味がないよ!」
 その返答に、みつきは驚いたような目をして、僕の顔を凝視した。僕はハッと我に返り、苦笑いをしてごまかした。
「いや、なんか俺、今つまらないこと言ったかな?・・・その、単なるくだらない伝説なのに、ちょっとむきになってたかも?・・・あはは(汗)」
 そう言うと、みつきの表情が少し和らいだ。だが、相変わらず心配そうな目で、そっと僕を見つめていた。
 そして、囁くような小声でぽつりと言った。
「お侍さんが助けてくれて、鏡月姫はうれしかったと思うよ」

                  (1)
「ねえ、大翔くん。まだ少し時間は早いけど、冷房効いてるし、ここでお昼ごはんにしない?」
 僕が二階展示室からそろそろ引き揚げようと階段を降りようとしたとき、みつきが僕を呼び止め、そう言った。だが、正直僕には意外すぎる提案だった。
「え?・・・昼飯?いや、いくら冷房があるからって、博物館の中ではまずいんじゃないの?勝手に飯なんか食ってたら、管理人の爺さんに怒鳴られるぜ」
「うふふ、全然大丈夫だよ!そこの学習室は、実際には村の人たちの寄合所みたいなものだから、いつだって好きに使って全然いいの。それに片山さんはとっても優しい人だから、絶対怒鳴ったりしないよ。うふふ♪」
 それを聞いて、さすがに納得した。そう、入館した時に顔を合わせた爺さんも、つまりは知り合いなわけだ。みつきは旅館の女将とも親しそうだったし、要するにこの小さな村の中じゃ皆が知り合いだと、そういうことなのだろう。さすがド田舎!めったなことは出来ないな。村人みんなに監視されていると思って間違いないだろう。・・・苦笑!
「ねえ、大翔くん。こっちこっち!ぼんやりしてないで早く来て♪」
 ふと、声のする方を見ると、展示スペースの奥の方でみつきがお得意のおいでおいでをしながら僕がついて来るのを待っていた。
 どうやら、ここでの昼食は既に決定されているらしい。確か僕はまだ了承してなかったはずなんだが?・・・まあ、いいか。

                   *
 その学習室と名付けられた寄合部屋は展示スペースのすぐ奥にあって、その二十畳ほどの部屋の壁際には大きなホワイトボードが配置され、それに向かい合うように長机とパイプ椅子が整然と並べられていていた。まあ、どこにでもある会議室みたいな場所だ。
 だが、少し違う点を言えば、何故だか部屋の片隅には家庭にあるような普通の冷蔵庫がドンと置いてあるし、部屋の後ろのスチール棚には、段ボール箱や書類らしきもののほかに、どう見ても私物っぽい風呂敷包みやカバン、そしてお菓子でも入ってそうなブリキ缶や調味料の瓶、水筒なんかが無造作に置かれていた。
 そしてみつきは、部屋に入るなり何も迷うことなく部屋のエアコンのスイッチを入れ、机や椅子を適当に動かし始めた。そうして部屋の片隅に向かい合わせのランチテーブルを用意すると、その上に、今までずっと大切そうに持っていた手提げから小さな箱を幾つか取り出して乗せた。そう、それは弁当箱だった。
 その可愛らしいウサギのイラストなどが描かれた弁当箱のふたを開けると、彩豊で綺麗に形どられた旨そうな料理の数々が姿を現した。それはまるで料理本の見本写真を見ているようで、僕は思わず驚きの溜息を吐いた。
「これ、まさか自分で作ったの?」
 思わずそう聞くと、みつきは少しニヤニヤしながら答えた。
「『まさか!』は失礼だよ♪買い物に行けなくて、ありあわせの材料で作ったから、いまいちだけど、今朝、早起きして頑張りました!うふふ♪」
「料理得意なんだね。マジ旨そう」
「ありがと。でも、お世辞は食べてからでいいよ。さあ、大翔様、いつまでも立ってないでお座りになってくださいませ♪」
 みつきはご機嫌そうにそう言って、僕の席を引いてくれた。だが、僕はさすがに恥ずかしくなって、苦笑いしながら言葉を返した。
「これじゃ逆だよ。だって、普通レディーファーストだろ?それに、俺も何か手伝うよ。自販機でジュースでも買ってこようか?」
 するとみつきはクスクスと笑いながら答えた。
「もう!素直じゃないね。大翔くんはお客様なんだから、大人しく座ってて♪」
 僕はもう返す言葉もなくなって、素直にその席に座った。するとみつきは納得したように僕の方をちらりと見てから冷蔵庫に向かい、中から冷えた麦茶の入っているらしきガラスのポットを取り出した。

                  (2)
「あ~、旨かった!いや、ほんとにお世辞じゃなく、料理上手だよ。マジ感心したよ」
 みつきに促されるまま、結局その弁当をほとんど残さず食べ終わって、すっかり腹いっぱいになって、ふと正直な気持ちでそう言った。するとみつきは嬉しそうに微笑んだ。
 そして、少し考えるしぐさをした後、ポツリと言った。
「ねえ、次は街に行かない?隣町なら、映画館もゲームセンターも、デパートだってあるし、きっと退屈しないと思うんだけど」
「別に、俺はどこでもいいよ」
 そう返答すると、みつきはホッとしたような顔をして、それから、はにかんだようにうつむきつつ、そっとコップのお茶を口にした。

                   *
 食事を終えると、みつきは空になった弁当箱を手提げにしまい、学習室のスチール棚の隅にそっと置いた。それから、ふと自分の腕時計を見て、驚いたように声を上げた。
「あ、まずい!もうすぐバスの時間だ。街に行くなら急がなきゃ。これに乗り遅れると、また一時間以上待たなきゃならなくなっちゃうよ!」
 「え?」と僕が、呆然として立ちすくんでいると、みつきが僕の腕をパッと掴んだ。
「もう、時間がないから、走って行こ!」
 正直、意味不明だったが仕方がない。僕はそのまま彼女に手を引かれながら足を進めた。公園を出たあたりで自然とみつきの手は離れたが、その後も僕は彼女のあとを追いかけるように走り続けた。
 そして、あっという間に海岸線の道路へと到着し、ふと気づけば、僕の眼前にはバス停の標識が立っていた。
 バス停には着いたものの、さすがに息が切れて、暑さで汗が噴き出してきて、ハーハーと深い呼吸が止まらなかった。するとその時、早くも路線バスがやってきて、エアブレーキのバシューッという低い響きと共にスーッと僕らの目の前で停車した。
「良かったぁ~!間に合ったね♪」
 その声を聞いてみつきの方を見ると、彼女は一緒に走ってきたのがウソみたいに、ほとんど汗をかいている様子もなく涼しい顔をして笑っていた。・・・顔に似合わず、タフな娘だ!
                   *
 僕らはバスの一番奥のベンチシートに並んで座った。バスには数人の乗客しかおらずガラガラで、しかも僕ら以外は皆爺さん婆さんばかりだった。まあ、これではバスが一時間に一便しか来ないのも納得である。
 そしてバスはそのまま、ずっと海岸線沿いの道を走って行った。海岸の岩場に打ち付ける波は相変わらず激しくて、その潮騒はバスのエンジン音に負けないくらいに大きくて、BGMのように常に僕の鼓膜を刺激していた。
 そして僕は、車窓を流れゆくそんな海の情景を、ただぼんやりと眺めていた。
「ねえ、町に着いたら映画でも見る?それとも、どこか行きたいところとかある?」
 みつきが、ふと聞いてきた。
「いや、任せるよ。俺は特に何もないから」
 そう答えると、みつきは僕の顔をまじまじと見つめて、ポツリと言った。
「遠慮しないで、なんでも言ってね。大翔くんには、楽しんで欲しいから」
「えっ?」
 みつきの言葉に、僕は何故だか意味もなく驚いた。少し誤解されている気がしたのだ。
「俺、すごく楽しいよ。・・・恥ずかしい話だけど、・・・正直に言うけど、俺、女の子の作ってくれた弁当なんて初めてだったし、実のところ、こんなふうに女の子と二人で話をするのも初めてなんだ。・・・なんていうか、偶然とはいえ、君みたいな可愛い子にガイドしてもらえて、まるで嘘みたいな気がしてるし、・・・その、バカみたいなこと言うけど、なんか、まるで、狐につままれているみたいな感じで、」
「え?」と、今度はみつきが酷く驚いたように目を丸くした。
 そして僕は、今、自分がとんでもなく馬鹿な発言をしたと、ひどい後悔の念に駆られた。完全な失言だった。
 そして案の定、その後みつきは黙り込んでしまった。

                  (3)
 十分くらい走ったところで、バスは海岸線の道路を離れ、内陸へと入っていった。それからしばらく行くと周囲には人家が多く見られるようになり、次第に街の喧騒を感じ始めた。そして、バスは駅のロータリーの中へとゆっくりと旋回しながら入っていって、そこで終点となった。
「大翔くん。着いたよ♪」
 みつきは明るくそう言って、スっと立ち上がり、そして未だぼんやりとしている僕に向かって、微笑みながらいつものおいでおいでをした。
                   *
 バスを降り、僕はみつきの後ろをついて行った。そしてその道中、彼女は何度もくるりと振り返っては、僕の顔を見て微笑んでいた。だが、僕は何となく気まずくなってしまって、未だにバスで発した自分の言動を嫌悪していた。
(・・・あんなこと言ったら、気持ち悪がられて当然だ。みつきはきっと、俺を非モテのキモイオタクだと思ったに違いない)

 少し歩いたところで映画館の前に到着した。そこで、みつきは並んでいる映画の看板をしばし眺めた後、サッと僕の方に視線を向けてから言った。
「ねえ、この映画なんかどうかな?ホラーだけど、結構面白そうだよ♪」
「ああ、この映画なら前作見たけど面白かったよ。まあ、前作とは監督が違うけど、前評判は良かったし、先行公開しているアメリカではそれなりにヒットしたらしいから、多分ハズレじゃないと思うよ」
「へ~っ、そうなんだあ。大翔くんて、映画に詳しいんだね」
 みつきが驚いた顔をして僕を見たが、僕はただ苦笑いをするしかなかった。確かに映画は好きで中学の頃からはまっているけれど、それほど詳しいわけじゃない。みつきはいちいちリアクションが大げさすぎるのだ。
 というわけで、とりあえず映画館の切符売り場まで行ったところで、ふと気づいた。
「あのさあ、今入ると、オチだけ先に見ちゃうことになるよ。ほら、もう上映時間の半分近く過ぎてるよ。次の上映は午後1時からだから、それまで待ったほうが良くないか?」
 僕が上映時刻表を指差してそう言うと、みつきは「あっ、ほんとだ!」と目を丸くした。そして少し考えこんで、その後自分の中で頷くような仕草をしてから再び僕を見て言った。
「急いでバスに乗ったけど、結局時間が半端だったね。・・・ねえ、大翔くん。外は暑くなってきたし、次の時間までまだ大分あるから、喫茶店でも行かない?わたし、いいお店知ってるんだ♪」
「ああ、そうだね」
                   *
 ということで、僕は再びみつきの後ろについてしばし歩いた。本当なら彼女の横に立って並んで歩きたかったが、正直な話、僕は彼女の恋人でもなんでもない。それこそ友達ですらないのである。そのへんは、しっかりわきまえなくてはいけない。
「ここでいいかな?」
 みつきが、少し緊張した感じで聞いてきた。見ると、その喫茶店はカジュアルな雰囲気ではあるものの、何となく古い年代を感じる趣のある店でもあった。
「実は、わたし、ここに入ったこと一度もないんだ。ただ、見た感じすごく雰囲気がいいから、一度くらい入ってみたいなあって、ずっと思ってたの。大翔くんが一緒なら、安心して入れるし♪」
「え?・・・ああ、いいんじゃない。じゃあ、ここで時間潰そう」
 何故だか妙に緊張しているみつきの様子が面白くて、僕はそう答えるなり、おもむろに喫茶店の扉を開いた。すると『カラ~ン、コロ~ン』とドアベルの鐘の音が心地よく辺りに響いた。

                  (4)
 その喫茶店の内装は外観を裏切ることなく良い感じに落ち着いていた。いわゆる50年代のアメリカン・ポップカルチャーをイメージしているようで、アンティークな感じのコカ・コーラなどの小物やネオン管の看板なんかも置かれていて、また音量を小さめにロックンロールなどの懐かしい雰囲気のサウンドが常に流されていた。
 席に座ると僕は何も考えることなく、ホットのブレンドコーヒーを頼んだ。すると、すぐにみつきも同じものを注文した。そして、ふと「俺がおごるから、ケーキでもどお?」と尋ねたのだが、彼女は何も言わずに静かに首を横に振った。
 そこで僕は「あと、苺パフェ、一つお願いします」と立ち去ろうとする店員に追加注文をした。無論、自分の分ではない。僕はそもそも甘いものは苦手なのだ。
「苺パフェ、食べたそうにしてたから頼んだよ。もちろん、俺のおごりだから安心して」
「えっ?そんな、いいよ!気を使わないで。ホントにいらないから!」
 みつきは慌ててそう言ったが、僕は店先で彼女がサンプルの苺パフェを欲しげに眺めていた様子をちゃんと目撃していたのだ。
「俺のささやかなお礼だよ。・・・っていうか、もう頼んじゃったから、迷惑でもちゃんと食べちゃってよ。俺は甘いの苦手だからおねがいします。あははははは」
 そう言うと、みつきは観念したようで、苦笑いしながらも小さく頷いた。

                   *
「お砂糖とか入れないの?」
 僕がブラックのままコーヒーを口にすると、みつきは不思議そうな顔をして、そう聞いてきた。
「コーヒーの始めの一口は、何も入れないで飲むのが常識だろ」
 そう返すと、みつきは少し疑問符を残した表情をしながらも、おもむろに自分も何も入れないままのブラックを一口飲んだ。
 だが、直ぐに「苦~っ」と、顔をクシャクシャにして舌を出した。そんなみつきの振る舞いがおかしくて、僕は思わずクスクスと声を殺して笑った。
 すると、そこに丁度ウエイトレスがやってきて「お待たせしました」と言いつつ、苺パフェをテーブルの上に静かに置いた。
「口直しに、パフェ食べなよ」
 そう声をかけると、みつきは僕の顔を変な目で斜めに見ながら、少し口元をとんがらせた後、にっこり笑って苺パフェのクリームにスプーンを刺した。
「あっ、このクリーム、すごく美味しい♪」
 パフェの生クリームを口にして、みつきは子供みたいに微笑んだ。僕はそんなみつきの笑顔を見て、何故だかとても嬉しかった。ようやく少しだけでも恩返しが出来たような気がしたのだ。
 昨日から世話になりっぱなしで、何かお礼をしなくちゃいけないとの思いが溢れていて、僕の心はずっと落ち着かなかったのである。
「博物館はどうだった?少し退屈だったかなあ?」
 パフェをぱくつきながら、みつきが僕の表情を探るような目で言った。
「ああ、面白かったよ」
 ポツリとそう答えると、みつきは不満そうに僕の目をチラリと見た。
「何が良かった?」
 彼女は尋問するように、また質問を重ねてきて、仕方なく、とりあえず適当に答えた。
「鏡月姫の絵巻物かな?あれは、意外と印象に残ったかも。あれだけは、この村の限定品だから、他じゃ見られないからね」
「ああ、うん。そうだね。そうかもね。・・・でも良かった!なんだか、退屈そうにしてたから心配だったの。だって、大翔くんには、出来るだけ楽しんで欲しいから」
 みつきが、少し心配そうな目でそう言った。それで僕は、慌てて返答した。
「ありがとう!でも、本当に君のおかげで、すごく楽しかったよ。嘘じゃないって!」
 そしてそれは、本当に僕の本心から出た言葉だった。そう、全くお世辞などではなかったのだ。
 本当に楽しかった。こんなに楽しい日が来るなんて、今までの人生で一度も想像したことがなかった。自分が楽しんで、それが許されて、そんな自分の姿を喜んでくれる人がいて、・・・何故だか凄く不思議な気分だった。
 まるで嘘みたいで、自分の足が地に付いていないような、宙に浮いているような、そんなふわふわした感覚だったのだ。
 ・・・そして、ふと思った。こんな幸福な時間が、本当に、この僕に許されるのだろうか?と。

                   (5)
「大翔くんって、本当に彼女いないの?」
 パフェを食べ終えた頃、突然、僕の顔をまじまじと見ながらみつきが言った。
「えっ?」と、驚いた顔をすると、みつきは更に言葉を追加した。
「だって、モテるでしょ?」
「えっ?、全然モテないよ!だって、俺みたいな根暗、誰も相手にするわけないじゃん」
 びっくりしてそう答えると、みつきは鉄砲玉をくらった鳩みたいに目を丸くして固まった。そこで僕は、正直な気持ちで言葉を返した。
「それより、君の方こそモテるだろう?可愛いし、すごく明るいし」
 するとみつきは、少し首をかしげてから、ポツリと小声で言った。
「・・・わたし、全然、明るくなんかないよ」
 そのみつきの反応が余りに意外すぎて、僕はしばし言葉を失った。正直、少し思考が混乱していた。・・・だが、ちょうど、そんな時だった。
 背後から、ヒソヒソと妙な話声が聞こえて来た。
『・・・あれ、やっぱ、イリエじゃない?』
『マジ、そうだよ!』
『でも、何?あのぶりっ子なツインテール。しかも、すげーバカみたいなリボンなんかして、ありえなくない?』
『・・・けど、あのイリエが男といるなんて、マジ信じらんな~い!?』
『あいつ、身体でも売ってんじゃないの?』
『え~っ、マジ、キモ~い!』
 サッと振り返り、その声の方を見ると、そこには女子高生風の二人組がいて、僕らの方を眺めていた。だが僕と目が合うなり、彼女等はサッと視線を反らせ素知らぬ顔をした。
 そして、ふとみつきの方に向き直ると、彼女は硬い表情で少し目線を下げたまま黙っていた。
「知り合い?」
 そう何気なく聞くと、みつきは静かに答えた。
「ただのクラスメイトだよ。あんまり仲が良くないだけ」
 僕はみつきのその声を聞いて、もう何も問うまいと思った。そして、さりげなく言った。
「そろそろ、出よっか」
 すると、みつきは小さく頷いてから、そっと立ち上がった。

 会計を済ませ店を出るとき、ふとあの二人組の方にチラリと目を向けると、彼女等は奇妙な目で僕の顔をじっと見ていた。そして、ヒソヒソと耳打ちし、またヘラヘラと笑いあった。・・・これだから、女という生き物は嫌なのだ。

                    *
 喫茶店を出て映画館に戻ると、次の上映にはまだ少し時間があったが、とりあえず館内に入ることにした。すっかり蒸し暑くなってきていて、外で待つよりは良いと思ったのだ。そして、冷房の効いた廊下の休憩スペースのベンチに座って、のんびりしながら次の上映時間まで待つことにした。
 すると、さすがにそろそろクライマックスシーンだけに映写場内の激しい音響が地響きのように外まで伝わってきていた。しかしながら、洋画なのでセリフは英語で何を言ってるのやらチンプンカンプンで、先にオチが分かってしまう心配はなかった。
「なんだか、すごい迫力みたいだね。音聴いてるだけで、なんだかドキドキしてきちゃった♪」
 みつきがニコニコしながら、僕を見て言った。
「ああ。とりあえず、この映画にして正解だったかな?まあ、実際に見てみないと、音だけじゃ判らないけど」
「そうだね。早く中に入って、見たいね!」
 みつきは子供みたいにそう言って笑った。けれど、ふと気になって聞いてみた。
「そういえば、他に恋愛映画みたいのもあったけど、本当にこのホラーの方で良かったの?普通、女の子ならラブロマンスとかの方が好きなんじゃないの?」
 すると、みつきは少し苦笑いを浮かべながら答えた。
「・・・う~ん。今はそういうの、あんまり見たくないかな?それに、大翔くんはこっちのほうがいいでしょ?」
「ああ、そうだね」
 僕はそう返したが、実は少し複雑な気分だった。だが、すぐに妙なことを考えている自分に気づき、己に言い聞かせた。
(馬鹿な考えは捨てろ!俺は彼女の彼氏でもなんでもない。みつきが俺なんかとロマンス映画など見たくなくて当たり前だ)

                  (6)
 それはオカルトというよりも、むしろジェットコースタームービーのような活劇的演出が中心で、全面最新のSFXを駆使した迫力のある映像だった。おかげで見ていてほとんど飽きることがなく2時間近い上映時間があっという間に過ぎてしまった。
 また、確かにホラーではあったものの、いわゆるスプラッター的なグロイ演出はほとんどなくて、むしろコミカルな感じにまとめられていて、子供でも安心して見られるような映画になっていた。そしてラストは意外なくらいハートフルで、家族愛をテーマにしているらしく温かな親子の愛情を前面に押し出したような展開で、定番のお涙もののエピソードで幕を閉じた。
 スクリーンにカーテンがかかり場内に明かりがついて、ふと隣を覗いてみれば、案の定みつきは今にも泣き出しそうなほどすっかりと真っ赤な涙目になっていて、僕は思わず声を殺してプスッと笑った。
「思ってたより、全然面白かったねぇ。わたし、最後の方泣いちゃった」
 席を立ながら、みつきがポツリと言った。
「そうだね。けど、なんだかホラー映画見たって気がしなかったなあ、あんまり怖くなかったし」
「え~っ、嘘~っ!わたしすごく怖かったよ!」
「マジで?・・・あははははは!そうかなぁ~?アハハハハハハハ」
 僕は、みつきの表情が面白くて、とうとう耐え切れずに笑い出してしまった。するとみつきは膨れっ面になり「なんで笑うの~っ?ひど~いっ!」と言って、僕の肩を手のひらでポンポンと叩いた。

                   *
 映画館を出て、街の通りを少しばかりフラフラ歩いた。だが、やはりここは田舎で、ただ歩きながらウインドーショッピングを楽しむには少々貧素であった。すると、みつきが僕の肩を指先でツンツンとつつきながら言った。
「ねえ、デパートに行こ♪最近、新装リニューアルしたから、きっと面白いよ」
「ああ、うん。そうしよう」
 そう答えると、みつきはニコニコしながら、再び僕を先導するように前に出て軽快に歩き始めた。そんな彼女の後ろ姿を見て、僕はまた思わず笑いが込み上げてきて、そんな自分を必死で抑えた。
 ・・・けれどこれじゃ、なんだかまるでデートでもしてるみたいだ。・・・しかし、何でこうなっちゃったんだろう?
 まあ、みつきがそれでいいなら別にいいのだけど。
                   *
 その駅前のデパートはどうやら大手の系列らしく、他にあまり大きな建物のない駅前にドカンと存在感を見せつけるようにそびえ立っていた。そして僕はみつきの後につき、何も思わず、その建物の中へ入って行った。
 しかしながら、デパートというものは何処でも似たり寄ったりで、ふと見回せば一階は化粧品やらジュエリーなどのご婦人向けの装飾品の売り場になっていて、どうも二階以降も、やっぱり婦人服などが中心みたいで、要するに女性向けの物ばかりが商品のほとんどを占めているらしい。
 ・・・そう、正直言って僕などには、すごく場違いな気がする。まあ、今更そんなことに気がついても遅いのだが。
 そして、自称ボランティアガイドのみつき様はといえば、やはり女の子だけあって、あっちこっちをキョロキョロと見回しながら、なんとも楽しそうに笑っていた。
「あっ、これ可愛い♪」
 みつきがジュエリーの展示ケースを覗きながら嬉しそうに言ったので、僕も思わずそのガラスケースの中を覗いてみた。すると、そこには小さなウサギの形をデザインした白銀色のネックレスがあった。そして、みつきは僕がそばへ来て見ていることに気づくと、そのネックレスを指差しながら、また言葉を重ねた。
「ほら、見て、あのウサギの目のところには小さな赤いルビーが埋め込んであるんだよ。すごく綺麗だね」
「ああ、確かに結構可愛いね。・・・いや、ホントなら君にこんなのプレゼントしてあげたいけど、・・・一万五千円か。今は、ちょっと無理かな?宿代が払えなくなっちゃうからね」
 そう、なんとなく言うと、みつきが急にクスクスと笑い出した。僕はその彼女の反応に思わず目を丸くした。確かに金がないのは認めるが、笑うことはないだろうと思ったのだ。
 ・・・すると、みつきがニヤニヤしながら言った。
「うふふ、大翔くんの気持ちはありがたいけど、欲しがってたわけじゃないから安心して♪・・・だって、あれ、一万五千円じゃなくて、十五万八千円だよ。うふふふふ♪でも、大翔くんがそんなこと思ってくれるだけで、わたし充分嬉しい♪」
「・・・えっ?あんなのがホントに十五万もするの!?」
「だって、これ、プラチナだよ。うふふっ♪」
 みつきは楽しそうだったが、僕は恥ずかしさに死にそうだった。しかし、ジュエリー恐るべし!そんな高価なものとは想像もしなかった。値札を読み違えて当前だ!
 ・・・けれど世の中には、こんなものをそんな大金払って買う奴がいるのかと思うと、それこそ恐ろしくなってきた。やはり、このデパートという場所は、僕などには完全に場違いなようである。

                  (7)
 その後、みつきの先導のまま、僕等はエレベータに乗り直接5階へと向かった。エレベータを降りフロアーを見回すと、この階ではどうやら色々な家庭雑貨などが販売されているようだった。
「ここなら、大翔くんも楽しめそうでしょ?」
「ああ、そうだね」
 そのフロアー内には、本当に多彩な品物が所狭しと並べられていた。ガラス棚には値札を見るのが怖くなるような豪華なヨーロッパ製の陶器が並べられていて、間違って引っ掛けて落っこどしでもしないかと側を通るのさえ気が気でなかった。また家電関係の売り場には、輸入品なのか普段見たこともないような少し変わったデザインのトースターや電気ポットなどが置いてあり、当然ながらその価格も普段目にする物とは全然違った。
 確かに、ここに陳列されているものは、午前中に訪れた博物館よりは全然多彩で、中には興味深い商品もあって、それなりに飽きずに楽しめそうな空間であった。
「ねえ、ねえ、これなんか素敵だね。こんなインテリアに囲まれてたら、きっと毎日が楽しいだろうね♪」
 みつきはあれこれ眺めてはニコニコしながら声をかけてきた。そして僕は相変わらず「ああ、そうだね」と、適当な返事をしていた。
 ・・・いや、だからといって、決して退屈していたわけではない。ただ、何も言葉が思いつかなかっただけである。みつきには悪いが、まあ、僕とはそんな退屈な男なのだ。仕方がない。
 とにかく彼女が楽しんでくれれば、それでいい。そう、僕としては、そんなみつきの楽しそうな姿を見ていられることが、なにより嬉しかったのだ。
                   *
 その後、他の階の売り場へも何気なく寄ってみた。するとやっぱり、みつきは最新のアパレルなんかが気になっていたみたいで、婦人服売り場では色々な洋服やら小物などを手にとって自分の体に合わせるようにして姿見の鏡を眺めては、ふと気に入るものを見つけるたびに「これどうかなあ?似合う?」などと言って、僕のところへ見せに来た。そしてそんな時、僕は差し障りのない適当な感想を少しだけ述べて、とりあえずその場をやり過ごすのみであった。
 とは言っても、みつきは結局ただの冷かしで、あれだけ色々物色していたくせに最後まで何も買おうとしなかった。まあ、女子高生だし、お金なんか全然ないのだろうけど。
 ・・・しかし、まさか女の子の洋服選びに付き合わされることになるとは思わなかった。それに、これでは全く観光ガイドになんてなってなくて、本当に単なるデートみたいな気がしてきた。・・・って、これっていったい、どうなってるんだ?
 ・・・まあ、俺は別にどうでもいいのだけど。
 だが、そんなことをしているうちに自然と時間だけは過ぎていって、そして、さすがに僕もだんだん飽きてきて「そろそろ帰ろうか?」と、そっとみつきに声をかけた。すると、彼女は少し慌てた感じで返答した。
「えっ?ああ、うん。そうだね。・・・でも、まだ少し時間あるよね。・・・そうだ!帰る前にちょっとだけ、ゲームセンター寄っていかない?男の子って、ああいうところ好きでしょ?」
「ああ、別にいいけど」
 僕がそう言って頷くと、みつきはまた、いつもの子供のような笑みを浮かべた。

                  (8)
 そのゲームセンターはデーパートからすぐそばの路地裏にあった。建物は一、二階がゲームセンターになっていて三階は雀荘だった。また両隣はパチンコ屋と、いわゆるキャバクラのような飲み屋だった。そしてその飲み屋の看板には『カラオケありマス』との文字があった。
 また、そのゲーセン自体も外から見る限りあまり明るい感じの店ではなく、どちらかというとアンダーグラウンドなイメージが漂っていて、ふとみつきの顔を見ると、やっぱり少し緊張しているのような感じだった。
「ここ、よく来るの?」
 何げにそう聞くと、みつきは慌てるように首を横に振りながら「入るのは、初めて」とポツリと呟くように答えた。僕には、そんなみつきの態度がなんだか可愛く思え、気づかれないよう声を殺してクスッと笑った。

 中に入ると、どうやら一階は競馬ゲームやビンゴゲーム、スロットマシーンなどのコインゲームが中心のようだった。また店内は薄暗く、当然のようにタバコの煙が漂っていた。
「何かやってみようか?」
 そう、みつきに聞くと「うん」とだけ頷いて、なんだか未だに緊張しているようだった。
「じゃあ、競馬でもやろうよ。あれなら、結構自信あるんだ」
 そう言って、今回ばかりは僕の方がみつきを先導し、自販機でコインを購入して、意気揚々と席に座った。・・・だが、現実は厳しかった。
 どうやら、この筐体は相当意地悪な設定らしい。まあ、僕らの他にほとんど賭ける人がいないようなガラスキの状態だったので、コンピューターが保守的なモードになったのかもしれないが、せっかく投入した千円分のコインは、ほとんど当たりを経験しないまま、あっという間に無くなってしまった。・・・無念!
 けれど、みつきの方は意外と楽しめたようで、どうやら小さなおもちゃの競争馬達が筐体の盤面のコースをギクシャクしながらもチョロチョロと何度も抜きつ抜かれつ競っている様子が楽しかったようで、負けた競争ですらバカに嬉しそうに盛り上がっていた。
「さあ、もうコインはなくなっちゃったし、そろそろ他のゲームに移ろう」
 僕がそう言って席を立つと、みつきは興奮したようにニコニコしながら呟いた。
「凄く面白かったね♪競馬に行く人の気持ちが、今日初めてわかった気がする」
                   *
 そして、今度は二階に上がってみた。すると二階は主に個人で遊ぶタイプのテーブル筐体などがずらりと並んでいて、また壁際には大型の体感型筐体などが幾つか設置してあった。
 そして「何かやる?」と僕が聞くと、みつきは「こういうの、全然触ったことないから」と、まるで乗り気でないようすだった。
 僕にしたら、むしろ一階のコインゲームよりも、こっちの方が普段遊び慣れているのだが多分女の子には縁遠いものなのだろう。ここで僕が一人でシューティングなんかに夢中になってたら、きっとみつきはアウェイな気分になって退屈しそうだ。
 だが、そう考えていたとき、ふと壁際のドライブ筐体に目がいった。そしてあれなら、ジョイステックやボタンではなく、普通の車と同じハンドルやペダルの操作なので、きっと、みつきにも遊べるのでは?っと考えた。
「じゃあ、あれやろう。あれならツイン筐体だし、二人で並んで競争とかできるよ」
「え?・・・あ、うん」
 しかし僕の提案に、みつきは少し首を傾げつつ、仕方なさそうに小さく頷いた。
                   *
 「ハンドルは説明しなくていいよね。それで、足元の右側のがアクセル。真ん中のでかいほうがブレーキ。あと、シフトはスタート時にはLOWにしておいて、スピードが乗ったらHIGHに入れるんだ。わかる?まあ、とにかく動かしているうちに分かると思うから、とにかく一回遊んでみようよ」
 と、お隣の席に座っているみつきに説明したのだが・・・。
「大翔くん、やっぱり、わたしには無理だよ!何が何だか全然わかんない。お金の無駄になるから、やっぱりわたしは見てるだけにするよ。競争なんて、絶対に無理だから」
 そう半鳴き声で否定されて、結局僕は独りで遊ぶことになった。

                  (9)
 コインを入れ、ハンドルとフットペダルでゲームモードを選択し、いざスタートした。
 このゲームには時間制限があって、表示されている残り時間内に決められたポイントを通らなければいけなかったのだが、僕は次々とそうしたチェックポイントを無事に通過することが出来た。そして、なんとか最終ポイントにもギリギリのタイムで間に合って、どうにかこうにか、そのコースを最後まで走り切ることに成功した。
 するとみつきは、目を丸くしながら驚いたように言った。
「すごーい!大翔くんって、凄く運転上手いんだね。わたし、正直ビックリしちゃった」
 その言葉を聞き、また達成感も相まって、僕は少し自慢げにニヤリと笑った。でも、実を言えば、このドライブゲームは既に散々遊び倒していて、特にこの初級モードはコースを完全に覚えており、今までに何度もクリアーしていたのだ。
「俺さあ、車は昔から好きなんだ。いつか免許を取ったら、お気に入りのスポーツカーを買って、日本中を旅したいって、実は中学の頃からの夢なんだ」
 ふと、思わず口に出た。するとみつきは「ふ~ん」と相槌を打ってから、ポツリと言った。
「けど、大翔くん。こんなに運転上手なのに、免許はまだ持ってないんだぁ?」
 その言葉に、僕は思わず苦笑いした。
「やだなあ、ゲームと実際の運転じゃ、全然違うよ。でもね、ホントはすぐにでも免許は取りたいと思ってるんだ。でも、色々あってさ、なかなか取りに行けなくて」
 そこまで言って、僕はみつきの顔をちらりと見た。そして何げなく、ふと浮かんできた気持ちをそのまま言葉にした。
「けど、免許取って車買ったら、きっと一番にここに遊びに来るよ。そして、君をドライブに連れてってあげるよ」
 ・・・だが、その言葉を聞くなり、「え?」と言って、みつきの表情がスーッと冷たく固まった。そして彼女は、こちらに向けられていた視線をゆっくりと逸らせた。
(しまった!思わず変なことを言った。なんて馬鹿だったんだ。これじゃ、まるでナンパじゃないか。下心があるって、気持ち悪がられて当たり前だ)
 ・・・僕は自分を深く後悔した。

 どうせ、どうであれ、みつきと過ごすのは、今日の、この時で全て終わりだ。このゲームセンターを出て、旅館に帰り、明日になれば、俺はこの村を去り、再び、あの独りきりの部屋に戻るんだ。そしてもう、二度とみつきの顔を見ることもないんだ。
 ・・・そう、それが現実だ。 馬鹿な夢は持つな! 迷惑をかけるな!

                   *
 僕はもう、つまらないことを考えるのはやめて、あとはできるだけ楽しく過ごそうと考えた。だから、さっきの失言も無かったことにして、もう馬鹿なことは絶対思わないようにして、とにかく残りの時間を、みつきにとって良い思い出になるように明るく振舞おうと、そう改めて決心した。
 そして、みつきの方も全然気にしていないようで、それまで通りの様子だった。常にニコニコしていて楽しげだった。・・・僕は心の内でホッとしていた。

 とりあえず、二人で一緒に楽しめそうなものを探してみた。そして、的当てやらモグラ叩きやら、エアホッケーなどをして遊んだ。・・・だがそんな最中、ふと腕時計を確認しながら、みつきが突然慌てて叫んだ。
「あーっ、いけない!もう、最後のバス出ちゃった!」
「え、どうしたの?」
 僕が驚いて聞くと、みつきは申し訳なさそうな顔で答えた。
「浜見行きのバスは、午後5時45分のが最後なの。うっかりしてた。もう、5分過ぎちゃったよ」
「えっ、マジで?・・・でも、そうなると歩いて帰るしかないか。でも、歩くと結構距離あるよね」
 すると、みつきは少し考えてから、僕の目を見てやんわりと微笑んで言った。
「ううん、大丈夫。鉄道があるから。駅までは少し歩くけど、多分最終便までは、まだ充分に時間はあるはずだから、安心して」

                  (10)
 また僕は、みつきのあとについて歩いて行った。だが、正直変な気分だった。なにせ鉄道に乗るということなのに、僕等はそれまでいた駅前からどんどん遠ざかっていったのだ。
 どうやら、みつきの言う鉄道は街の中心たる駅からは出ていないらしい。そうなのだ。その鉄道というのは僕が浜見村に来た時に乗ってきたあのオンボロ列車のことであり、あのローカル線は主要路線とは完全に切り離されているらしい。
 ・・・まあ、宿の女将の話じゃ、もうすぐ廃線らしいしね。

 ふと空を見ると、だいぶ日が傾いてきているのがわかった。そして、気づかないうちに随分雲が増えてきていて、青い空を包み隠している白い雲には、徐々に赤い陽光が滲み始めていた。
「あれだよ」
 みつきが指差した先に、小さくみすぼらしい駅が見えた。するとそのホームにはボロボロながらトタンの屋根があって、隅にはベンチも一応設置されていた。要するに、浜見駅よりは少しはマシなようである。
 駅に着きホームに上がると、みつきはキョロキョロしながら辺りを見回した。そして時刻表を見つけると、しばし眺めた後ポソリと呟くように言った。
「やっぱり、電車が来るまで、一時間近く待たなきゃダメだね」
 それを聞いて、ふとため息が出た。だがしかし、多分そんなことだろうとの予感はあった。
「まあ、しょうがないね。・・・でも、それじゃちょっと遅くなっちゃうな。いや、俺は全然問題ないけど、その、君は大丈夫なの?」
 そう言うと、みつきは少し考え込むような仕草をした。そして、
「・・・昨日も少し遅くなっちゃったし、電話ぐらいしとかないとマズイかなぁ?」
 と呟き、また周囲を少し見回してから「ちょっと、電話してくるね」と言って一度駅のホームを降り、通りの向こうにあった電話ボックスの方へと走って行った。

                   *
 僕等はホームのベンチに並んで座ってソーダ水を飲みながら、列車が来るのをぼんやりと待った。さすがに街中にあるだけに浜見駅とは違いこのホームにはちゃんと自販機があって缶ジュースを買うことができたのだ。
 何となく気になって隣に目を向けた。すると、みつきは相変わらずぼんやりと空を眺めていた。きっと、みつきも少し疲れたのだろう。
 思えば、結局今日も一日中歩き通しで結構足が疲れた。実を言えば昨日の疲れも少し残っていて、僕は正直ヘトヘトだった。それにそろそろ腹も減ってきて、こんなところで無駄に時間待ちをするくらいなら、駅前のマックにでも寄ってくればよかったかも?などと、今更に思った。
 だが、そんなことを何気なく考えていた時だった。みつきが突然口を開いた。
「わたし、結局、全然観光ガイドなんて出来てなかったね。なんだか、ただ大翔くんに一緒に遊んでもらっただけみたいになっちゃった。初めはいいアイデアだと思ったんだけどなあ、結局、全然ダメダメだったね」
 そう言うと、みつきは少し斜めに僕の顔をぼんやりと見つめた。だが僕は、何故だか返す言葉が浮かばなくて、ただ黙って彼女を見た。
 するとみつきは、スっと視線を下げてから、静かに言葉を続けた。
「・・・でも、今日は本当にありがとう。大翔くんのおかげで、わたし、今日一日とっても楽しかった。・・・う~んと、こんなこと言うと、少し変な子だって思われるかもしれないけど、・・・いえ、もう、バレてるかな。
 ・・・本当言うと、わたし、こんなふうに男の子と二人でお話をするのも、一緒に映画を見に行ったりお弁当を食べたりするのも、本当は初めてだったんです。
 ・・・と言うか、そもそも、わたし、全然友達少ないし、独りでいること多いし、
 ・・・えっと、・・・その、・・・だから、今日は本当に楽しかったです。
 ・・・その、なんていうか、・・・上手く言えないけど、
 大翔くん、わたしのわがままに付き合ってくれて、本当にありがとう」
「・・・えっ?・・・そんな、やだなあ。いや、お礼を言うのはまるっきり俺の方だよ。マジで俺、メチャメチャ楽しかったよ。・・・ホントだよ」
 思わず頭を掻きつつ慌ててそう答えると、みつきはゆっくりとこちらを向いて、そして少しはにかんだような、穏やかな笑顔を僕に見せた。

                   *
 みつきの言葉を聞いて、なんだかとても不思議な気分だった。僕はどこかで彼女のことを誤解していたような気がした。そして、そう気づいて、少しホッとしていた。

 そうなんだ。もしかしたら、こんな自分でも、今のみつきにとったら、少しは役に立つ存在だったのかもしれない。
 ずっと奇妙に思っていた。あんなに明るくて、可愛くて、素敵な女の子が、こんな根暗で、つまらなくて、まるで無意味なだけの自分なんかに、なんで親切にするのか?何故、あんなふうに、まるで子供みたいな純粋な目で、こんな僕を見て、嬉しそうに笑うのか?それが全然分らなくて、意味が解らなくて、僕はずっと不安だったんだ。

「ねえ、大翔くん。明日のお祭り、もしも出来たら、一緒に行ってくれないかなあ?
 ・・・その、ガイドとか、そういう話は無しにして、・・・その、純粋にお友達として、出来たら明日、もう一日だけ、わたしに付き合っては貰えませんか?」
 ずっと黙っていたみつきが、そっと僕の顔を覗き込むようにして、突然そう言った。僕は少しの間、彼女の顔をぼんやりと眺めた後、何も思わず静かに返答した。
「もちろんいいよ。当たり前だろ」

第五章「白いワンピースの少女」


                  (0)
 日も沈み辺りがすっかり暗くなってきた頃に、ようやく列車がやってきた。車両の姿を確認すると僕はすぐにベンチを離れ、ホームに立って列車が停車しドアが開のを待った。
 見れば車両は、以前に乗ったものと同じなのかは判らないが、やはり酷くオンボロで、分厚く塗られた塗装が所々でめくれるように剥げていて、いたるところ錆だらけであった。また、こんな列車に乗らなきゃいけないのか?と思うと、ため息が出た。
 そして、いざ乗車して車内を見渡せば、やはりそこには一人の乗客の姿もなかった。まあ、こんなんじゃ廃線になっても仕方ないだろう。

「この鉄道、もうすぐ廃線なんだってね」
 シートに座るなりチラリと隣に目を向け、何気なくポツリと言うと、みつきが静かに答えた。
「国鉄の民営化に伴う整理統合だとかって聞いたけど、無くなっちゃうのは、やっぱり残念だよね。まあバスがあるから、正直わたしもあんまり乗らないんだけど、でも、ここの電車って、すごく古い車両が多くて、どうやら今でもこんなに古い車両が現役で走ってるのは珍しいらしくて、たまに鉄道マニアの人とかがわざわざ遠くから見に来るみたい。そう言う意味でも、ちょっともったいないかな?」
「へーっ、そうなんだ」
 ・・・そういえば、宿の女将も同じような話をしていた。僕にしたら、ただのオンボロでも、確かにそうしたマニアには貴重なモノなのかもしれない。
 ・・・けど、今、みつきは『ここの電車』って言わなかったか?だが悪いが、これはどう見てもディーゼルだぞ!架線無いし、パンタグラフ無いし!
 しかし、今回はみつきの天然に一々突っ込むのはやめにしよう。それよりも、別の話をしとかなくちゃいけない。
「そういえば、明日の祭りの事なんだけど」
「え?」
 僕の言葉に反応し、みつきがサッとこちらを見た。
「実は明日さあ、俺、午前中ちょっと用事があるんだ。だから、祭りに行くのは午後からでいいよね。ここの祭りの事は判らないけど、普通お祭りって遅い時間だろ?そういえば、夜に花火も上がるって言ってたし。だから、みつきちゃんも、午後からでいいよね」
 そう言うと、何故かみつきはニヤリとした。そして嬉しそうな笑顔で答えた。
「うんいいよ。じゃあ、明日はお昼過ぎの、そう、1時頃に浜見旅館に迎えに行くね。それでいいかな?」
「ああ、そうしよう」
 ホッとしてそう答えると、みつきは僕の目をちらりと見て、更に言葉を追加した。
「でも、ようやく『みつき』って、名前で呼んでくれたね。ありがと♪」
「えっ!?」
 僕は思わず目を丸くした。自分でも無意識で、全くそんなこと気づかなかったからだ。・・・しかし、まさか、未だにそんなことを気にしていたとは!?
 そして、ふとみつきの方を見ると、僕から顔を隠すように横を向き、何故だかニヤニヤしながら声を殺してクスクスとしばし笑っていた。
 ・・・しまった!完全に遊ばれてる。
                   *
 実は、明日の午前中、僕にはどうしてもやっておきたいことがあったのだ。そう明日、独りでもう一度街に行き、みつきへのお礼の替わりになるようなプレゼントを買っておきたかったのだ。
 みつきという娘は、正直どこか頑固なところがあって、今日一日彼女は僕の行楽に付き添ってくれただけなのにも関わらず、映画のチケット代もバス代も、全て自分の分は自分で払うと言って聞かなかったのだ。そんなんで、結局僕がおごったのは、喫茶店で僕が勝手に注文した苺パフェと、博物館で飲んだ缶ジュース一本くらいだった。
 昨日今日と、みつきには村や街の案内だけでなく、お昼のお弁当まで作ってもらったというのに、これでは完全に釣り合わない。どうしても、このままでは僕の気が収まらないのだ。
 だから明日、何か気持ちだけでも伝わるような贈り物をしたい。そう、思った。
 ・・・そう、きっと、ささやかでも、そんな何かが残せれば、もしかしたら、この村を僕が離れたその後にも、彼女との繋がりを形として、ここに少しでも残せるのではないかと、そう思ったんだ。

                  (1)
「あ、いけない。そういえば、今日は日が暮れてからしばらく大雨が降るんだった。帰りはそんなに遅くなるつもりじゃなかったから傘持ってきてないや。・・・う~ん、駅からどうやって帰ろう?・・・困ったな~ぁ」
 ふと、みつきが独り言のようにそう言った。
「え?でも、雨なんか降ってないよ」
 僕が車窓を覗きながらそう返すと、みつきは相変わらず冴えない顔で首を横に振り、そしてボソリと呟いた。
「ううん。もうすぐ降り出すよ。・・・でも、まあいいかなぁ。駅舎でしばらく待てばそのうち止むから」

 ・・・そして、驚いたことに、そのみつきの予言は見事に的中した。
 列車は一駅またいだだけで、すぐに浜見駅へと到着したのだが、その少し前に突如大粒の雨が降りだしたのだ。
 おかげで、列車が浜見駅に到着し、開いたドアから外を覗くと、屋根のない浜見駅のホームには土砂降りの雨が容赦なく降り注いでいて、僕等は下車すると同時に走り出し、急いでオンボロ駅舎の中へと駆け込んだ。
 ・・・だが、
「あっ!」
 駅舎に入るなり、みつきが何かに気づいて駅舎の外を凝視した。ふと、彼女の視線の先に目を向けると、駅舎前の広場に一台の赤い軽自動車が止まっているのが判った。そしてその軽自動車はヘッドライトを付けていて、エンジンも掛けられたままだった。
 すると、突然ガチャっとその車のドアが開き、車内より人影が現れた。そしてその女性らしき人影はスっと傘を開き、ゆっくりと僕らの方へと近づいてきた。
「あれは、お母さん?」
 僕が何気なくそう聞くと、みつきは静かに「うん」と言って頷いた。
 みつきは、駅舎に入ってきた母親の方へ駆け寄り、しばらく何か話していた。だが、駅舎の屋根を打ち付ける雨音がうるさすぎて、その会話の内容など僕には全く聞こえなかった。
 すると、話が済んだのか、みつきは僕の方へまた戻ってきて、ポツリと言った。
「浜見旅館まで車で送るから、一緒に乗って行って」
「え?」
 僕が首をかしげると、少し離れたところにいるみつきのお母さんがにっこり笑って、軽く会釈をした。僕は無意味に緊張していた自分に気づき、慌てて姿勢を正し、急いで会釈を返した。
 そして、ふと見れば、みつきの母親はとても優しげな目をしていて、きっと暖かく温和な人柄なのだろうという気がした。
                    *
 僕は結局、みつきの母親の車に同乗させてもらった。だが、正直意味もなく緊張してしまい、ほとんど口を開けなかった。
 ただ黙ったまま、独りで後ろの座席に座っていたのだ。そして、助手席に座っているみつきの方は、一言二言母親と何かを話していたが、僕にはその会話の意味すらよく分からなくて、ただラジオでも聞いているような気分で流していた。
 すると、ほとんど時間を待たずに車は浜見旅館の駐車場まで到着した。そして僕は、車が停車するなりそそくさと車を降りた。
「あの、今日はホント、お世話になりました。しかも車で旅館まで送ってもらっちゃって、その、ホントありがとうございました」
 降りがけにペコペコ頭を下げつつ、みつきの母親にそう言うと、彼女はニッコリと微笑んで、優しげな目で僕の顔を見た。
 僕は少しホッとして、多少雨に濡れながらもその場に立ち止まって、Uターンをして駐車場から引き上げていく車をしばらく見送った。そして走り去る車のガラス越しからは、こちらを見つめるみつきの顔が微かに覗き見えていた。

                  (2)
 旅館の玄関をくぐりロビーに入り、ふと目の前にある柱時計を見ると、既に時刻は午後8時を過ぎていた。
 もう、だいぶ夕食の時間をオーバーしてしまって、これはマズイかな?と思ったものの、廊下の奥の広間からは、今も騒がしい会食の賑わいが聞こえてきていて、どうやらまだ食事は続いているようで少しホッとした。
 けれど、この賑わいはちょっと昨日とは違う感じだった。そう、昨夜より随分人が多そうだ。そして、何となく女性や子供の気配もあったのだった。
                   *
 僕はとりあえず一度自分の部屋に戻り、タオルで濡れた髪などを拭き、流しで手や顔をしっかり洗って少し気持ちを落ち着けてから、再び一階の広間へと向かった。

 広間を覗くと、やはり僕の予想は当たっていた。そこには昨夜より倍くらいの人がいて、今が宴もたけなわという感じに賑わっていた。そしてその中には女性の姿も多くあり、また、小さな子供なんかがテーブルの周りを走り回ったりしながら騒いでいた。
「よう、兄ちゃん!やっとお目見えか。さあ、早くこっち来て座れ!」
 僕を呼んでいるらしい声が聞こえて、ふとそちらに目を向ると、あの山崎とかいうオッサンが僕を見ながら大きく前後に手を振って合図していた。・・・ウザい。
 しかしながら、今は腹ペコなので仕方ない。渋々オヤジの言いなりになって、その席へと向かった。そして席に着きテーブルを見ると、そこには、まだ手を付けられていない一人分の食事が綺麗に並べられていた。
「今日もまた遅かったですね。楽しくて時間が経つのを忘れちゃったかしら?うふふふ♪」
 背後で突然声がして慌てて振り向くと、そこには女将がいつの間にかいて、軸の長いマッチをそっと擦って着火し、僕の鍋の固形燃料に火を入れてくれた。
「あ、どうも」
 僕がそう軽く会釈すると、女将はまたクスクスと笑いつつ「今日はちょっと賑やかだけど、ごゆっくりお食事を楽しんでくださいね」と言い残して、そそくさと去っていった。
                   *
「けど、今日は随分賑やかですね」
 ふと何気なく、隣の山崎氏に声をかけた。すると彼は低い声でサラリと答えた。
「明日から、いよいよ祭りの本番だからな。都会に住んでる者も、嫁や子供を連れてきてるんだよ。おかげで今日は、少しはこの宿にも泊り客があるだろうな」
 なるほどと思ったが、少し気になり、ふと聞いた。
「じゃあ、あなたの家族も今日は来てるんですか?」
 するとオッサンは、少し躊躇するように苦笑いをしてから、ポツリと答えた。
「まだ、息子がガキの頃には毎年連れて来てたが、今はもう、十年近く会ってないな。・・・まあ、要するに、随分前に別れたんで、息子とも縁遠くなったってことさ」
「えっ!?」
「だが、去年の春には写真を送ってきたよ、大学生になったとかで。・・・俺に似て、いい男になってたな。・・・まあ、ちょうど、兄ちゃんと同じ年ぐらいかな」
 オッサンはそう言い終わると、おもむろにコップを手に取り、中のビールを一気飲みした。そして大きくゲップを吐いた。・・・うっ、酒臭~っ!
 しかし、何故だか今日は、このオッサンのことを単にウザいとは感じなかった。なんとなくだが、昨晩僕にわけもなく絡んできた理由も、少しだけど分かる気がした。
 確かに今の僕には、離婚だとか、離れ離れの親子だとか、そういう難しい人間関係なんて想像もつかない。・・・だけど、寂しいという感情だけは、何故だか少し分かる気がした。
 ・・・いや、僕自身は、寂しさなんてもの、全然感じたことなどないのだけれど。

                  (3)
 結局、この夜も僕は自分のペースでゆっくりと食事をとることができなかった。確かに昨晩ほどではないが、やはり隣の山崎さんは何かと僕に声をかけてきて、また頼みもしないのにビールを注いできて、そして僕もついつい飲んでしまった。
 けれど、この夜のビールは何故だかとても旨かった。オッサンは何かと僕を皆の会話の中に巻き込んできて、だけど、おかげで不思議なほど打ち解けることができて、知らぬ間に僕は、まるで自分の親戚と話をしているような安堵感に包まれていた。
 そう、本当はまるでよそ者の僕を、いつしか皆が古くからの知り合いのように扱ってくれていた。だから僕も、不思議なほど笑い、そして遠慮も忘れ、ごく自然に語らっていた。
 ・・・だがそんな時、オッサンが意味ありげに小声でこっそりと僕に話しかけてきた。
「なあ、御札のことだが、本来は言っちゃいけないことなんだが、この際だから、お前にだけ特別に教えてやる。いいか、よく聞けよ。
 多分、まだ一枚だけ、神社に届けられていないモノがあるんだ。他のは全部、もう村の連中が見つけちまって、既に届いてる。そして一枚は残念ながら海に落ちてダメになったらしい。でもな、まだ一枚残ってる」
「・・・はあ?」
 僕には、その山崎さんの話が何のことだかよく分からず、ふと首を傾げた。だが、オッサンはそんな僕の態度など気にする様子もなく淡々と話を続けた。
「天狗山を知ってるか?あの頂上付近に落ちたヤツが、実は未だに届けられてないみたいなんだ。俺はあの日、神社で花火の打ち上げを手伝ってて、はっきりと御札が落ちていくのを見てたから、多分間違いないんだ。
 ・・・お前、ずっと探してただろう。だから、特別教えてやったんだ。・・・いいか、明日の日没までに必ず見つけて神社の本殿に届けるんだぞ!」
「え?」
 余りに奇妙なオッサンの態度に、さすがに僕は唖然とした。すると、彼は僕の目を睨みつけるようにして力強く言った。
「いいか、男なら、必ず御札を見つけて、彼女の願いを叶えてやれ!」
 正直何が何だか判らなかったが、僕はそのオッサンの迫力に思わず圧倒されて、もはや何も言い返せなかった。

                   *
 皆の会食が一段落した様子を見て、僕も一緒に食事の席を立った。そして自分の部屋に戻り、窓際の椅子に腰掛け、何気なく暗い窓の外をぼんやりと眺めた。
「・・・なんだったんだろう?」
 ふと、山崎さんの言葉を思い出し、改めて疑問が湧き上がってきた。しかし、僕は彼に一度だって御札の話などしていないのに、何故オッサンはあんなことを言ったのだろう?
 そもそも『彼女の願いを叶えてやれ』って、何のことだ?意味不明だ。
 ・・・彼女って、まさか、みつきのことか?・・・いや、それはありえないな。
 まあ、どうでもいいか。きっと、何か勘違いをしているんだろ。なにせ、メチャメチャ酔っ払ってたし。・・・馬鹿馬鹿しい。

 そして、ふと目を瞑れば、やっぱりみつきの姿がそこにあった。どうやら、僕は本気で彼女のことを好きになってしまったらしい。
 ・・・でも、一緒にいられるのも明日の祭りが最後だ。その後のことは分からない。
 そもそも、みつきが僕をどう思っているのか、正直全然分からない。確かに好感は持ってくれているだろうけれど、とてもそれ以上な気はしない。
 ・・・そうだ。もしも馬鹿なことを言えば、きっと嫌われるだけだ。
 ・・・いや、俺は嫌われても仕方がない。そんなことは、どうでもいい。けれど、せっかく親切に接してくれた彼女を、みつきの心を踏みにじりたくはない。
 みつきにはこの数日を、きっと楽しい思い出としてずっと記憶していて欲しい。楽しいことだけを残して、この僕を記憶の片隅に置いておいて欲しい。
 ・・・馬鹿なことを思っちゃいけない。つまらない欲望なんか持っちゃいけない。
 ・・・所詮、俺など、無意味なだけだ。

                  (4)
「・・・はっ!?」
 ふと目が覚めた。どうやら、椅子に腰掛けたまま寝てしまったらしい。そして、慌ててテレビの上にあった置き時計に目を向けると、既に時刻は午後10時半近かった。
「まずい!風呂の時間が終わっちゃうよ!」

 急いで支度をして、早足に部屋を出た。そして、息を切らせて長い廊下を抜けて別館にある大浴場まで走っていった。
 すると脱衣所も浴室もまだ電気も付いていて少しホッとした。しかしながら、もう入浴時間が過ぎていることに変わりわない。従って、急いで服を脱ぎ、とにかく簡単に汗だけでも洗い落とそうと、慌てて浴室内に飛び込んだ。
「あっ!」
 すると、浴室には先客が一人いた。小学校の高学年くらいの男の子だった。そして、その顔には見覚えがあった。そうだ、昨晩もここで見かけたあの男の子だ。
 ・・・やっぱり、よほどの風呂好きなのだろう。まあ、気持ちは判らないでもないけれどね。
 男の子は僕を見て少し嫌そうな顔をしたが、また何事もなかったようにムスっとした表情のまま浴槽の湯に深く体を沈めた。そしてふと見ると、彼の側には、あの黄色いアヒルのおもちゃがピョッコリと浮かんでいた。
 そして僕も僕で、何も気にしないような素振りをしつつシャワーで手早く身体を洗ってから、おもむろに湯船へと向かい、そっと体を湯に沈めた。
 そしてその後、浴室内に奇妙な静寂がしばらく続いた。・・・のだが、
「カタカタカタカタ」と、妙な機械音が聞こえてきたと思った直後、僕の肩にコツンと何かが当たった。
 ふと見ると、それはあのアヒルのおもちゃだった。そう、あのアヒルは単なる空っぽのビニール人形ではなくて、機械仕掛けで泳ぐ電動おもちゃだったのだ。
 そして、そっと坊やの方に目をやると、少年は僕の顔を横目でチラリと見ながらも、少し顔を隠すようにして緊張していた。・・・だが、そこで僕は、
「やったな!反撃だ~っ、魚雷発射、受けてみろ~っ!」
 そう言ってアヒルを掴むと、今度はその少年の方に向けてアヒルを泳がせた。すると、そのアヒルはどういう訳か少し楕円を描いて進んで行って、結局ぶつかることなく少年の肩の横をあっさり素通りして行った。
「アハハハハッ、外れ~っ!」
 少年は笑いながらそう言った。そして彼は遠ざかるアヒルを急いで追いかけて掴み取り、振り向きざまに僕めがけて泳がせた。さすがに彼はアヒルの泳ぎの軌道を承知しているらしく、アヒルは楕円を描きながらも着実に僕の方に寄ってきて、結局僕の胸にぶつかった。
「うわ~っ、やられたぁ!無念じゃ~っ。・・・ブクブクブク」
 僕がそう言って湯の中に頭まで沈んでいくと、どうやらウケたみたいで少年は腹を抱えて「きゃははははっ!」と大笑いをした。
 そして僕はその後もしばらくの間、その子供と水の掛け合いなどをしながら遊んだ。すると少年は、次第に呆れるほどほどはしゃぎだして、大きな声で笑ってくれて、思えば初めに見かけた時の印象が嘘みたいに、本当に楽しそうな笑顔を僕の前に見せてくれた。
                   *
 僕が「もう遅いし、そろそろ上がるよ」と言うと、その少年も頷いて、一緒に浴室を出た。そして脱衣所で身体を拭いて服を着て、共に髪を乾かし、『ゆ』と描かれたのれんをくぐって廊下に出ると、何故かそこに、女将がポツリと立っていた。
「まぁーちゃん。やっぱりここにいたの」
 女将は少年の顔を見るなり、少し困惑したような口調でそう言った。そして、それからちらりと僕を見て、軽く会釈をした後、また坊やに向かって言葉を追加した。
「大きいお風呂に入るのはいいけど、お客様のお邪魔だけはしちゃダメだって、言ってあるでしょ。ご迷惑かけなかった?」
 すると、少年は悲しそうな表情をして、そっと小さく頷いた。
「そんな、迷惑なんて全然!坊やのおかげで、すごく楽しかったですよ。ホント、旅のいい思い出ができました」
 僕は思わず、女将に向かってそう言った。すると女将は少し驚いたような顔をした後、にっこり笑って「雅彦、今日はお兄ちゃんに相手してもらって、本当に良かったわね♪」と、坊やに優しく囁いた。
 すると少年は少し安心したようにニッコッと微笑んで、パタパタと女将の方に走っていった。そして、女将の着物の端をキュッと掴んで、寄り添うように身体を近づけた。
 僕は、そんな少年の姿を目にして、なんだか自分のことのように嬉しかった。
 そう、この子は、まだ小さな子供なんだ。やっぱりこんな稼業だから、坊やにしてみたら、あんまりお母さんに相手をしてもらえないで、いつも寂しいんだろうな。と、改めて思った。

                  (5)
 部屋に戻り、よく冷えたソーダ水を一気に飲み干すと、もはや立っているのさえ嫌になるほど身体の疲労が溢れ出てきた。
 そこで、サッサと洗面所に行って歯を磨き、トイレを済ませ、電気を消して、すぐに布団の中へと潜り込んだ。すると、もはや余計なことなど何も考えられなくなって、あっという間に僕は眠りについていた。

                   *

 ・

 ・・

 ・・・

 荒れ狂う海。

 打ち付ける波。

 白いワンピースを着た長い髪の少女が、たった一人、荒い波の打ち付ける岩場だらけの海岸に、淋しげに、じっと海を見つめて立っていた。

「どうしたの?」
 ふと声をかけると、少女は僕の顔を不思議そうにチラッと見て、だが、またすぐに海の方に視線を戻し、ただ黙って、何かをじっと見つめていた。
 何となく気になって、僕は彼女の視線の先を追いかけた。すると、そこには何かがあった。波の向こうの、遠い岩場に真っ白い紙切れのようなものが引っかかって、ヒラヒラと揺れているのが見えた。
 ・・・そうか、きっとあれは例のやつだ。
「あれが欲しいの?」
 そう聞くと、少女は少し驚いたような顔をして僕の目をじっと見た。けれど、すぐに困惑したような表情になり、そして静かに目を逸らしうつむいてしまった。
 だが、僕には不思議なほど確信があった。
 ・・・そうだ!きっと、彼女には、あれが必要なんだ。
「俺が、取ってきてやるよ。大丈夫!この俺に、任せてよ」
 そう声をかけると、僕は彼女の返事も聞かず、荒れ狂う波の絶え間なく打ち付ける岩場へと気合を入れて飛びこんだ。

 ・・・だが、いざ岩場に身体を投じると、少し恐怖が湧き上がってきた。
 激しい水しぶきが容赦なく吹き付けてきて、そして何より、岩に打ち付ける波の破裂音が凄まじくて、そしてまた、足元はヌメヌメとしたコケが所々にあって、ツルリと滑って、少しでも油断するれば、渦巻く海中へと簡単に引きずり込まれそうな気配だった。
 だが、諦めようとは思わなかった。そして、後ろを振り返ろうともしなかった。ただ、前だけを見て、岩場を前進することだけに集中した。
 岩場は一固まりではなく、小さな小島のように点々と突き出ていた。僕はそうした岩と岩の境界を慎重に飛び越えた。
 30センチ、50センチ、あるいはもう少し離れた岩もあった。けれど、それらを飛び越えること自体は容易だった。しかし、何より足場が悪い。
 デコボコと尖って触れると手を切りそうなところもあれば、反対にボールのように丸く侵食され酷く滑りやすい場所もあった。そして、うっかり間違って藻の生えたところを踏めば、スルリと靴底が流れてバランスを崩した。
 正直、怖かった。この荒れ狂う海に落ちることを考えると、酷く恐ろしくなった。だが、どうしても諦めることができなかった。
 ・・・なんとかして、あの少女の願いを叶えさせてやりたかった。ただ、その一念だった。もし、今、僕がここで諦めたら、それで全て終わりな気がした。

 知らぬ間に、僕は無心になっていた。とにかく、何も考えず、必死で前進して行った。そして、ようやくその岩までたどり着いた。
 目の前で、あの白い薄紙の落下傘が風に煽られヒラヒラと揺れていた。そっと手を伸ばし落下傘を掴み取ると、その糸の先には『鏡片札』と印の押された白い封筒が結ばれていた。
 僕は達成感を得て、そこで初めて振り返り、岸を見た。すると、そこには彼女の姿が、まだ、あった。・・・嬉しかった。
 僕が御札を持つ手を掲げて大きく振ると、少女も、その白くか細い手を上げ、ゆっくりと振って答えてくれた。
 そう、僕は、もはや彼女は呆れて何処かへ去ってしまったんじゃないかと、ずっと気になっていたのだ。だから、途中で振り返ることを躊躇していたのだ。
 ・・・でも、良かった。これで報われた。そう思った。

 僕は意気揚々と来た道を戻った。一度クリアーしたルートなので、来た時よりもずっと余裕を感じていた。軽快に岩場の隙間を飛び越え、すぐにでも岸までたどり着く、そう思っていた。だが、そんな時だった。
「あっ!」
 ふと、足が滑った。あと一つ岩を超えれば岸だった。だが、その油断がいけなかった。
『バッシャーン!!!』
 気づけば、僕の体は波の荒い海中へと投げ出されていた。もはや息継ぎもままならなくて、だが、もがきながら必死で体制を立て直し、そしてなんとか岸へと這い上がった。
 ・・・だが、
 気がつけば、僕の手にあの封筒はなくなっていた。海水の渦に巻かれ、粉々になって、何処かへ流れていってしまった。
 僕の手には、切り裂かれた糸と、紙の破片が付着していただけだった。
「クソッ!」
 悔し涙が滲んできた。
 ・・・そうだ、俺はいつもこうなんだ!何をやっても失敗ばかりだ!カッコつけて、勝手に飛び出していって、結局俺のしたことは、せっかくの願い札をダメにしただけじゃないかっ!・・・彼女の期待を踏みにじっただけじゃないか!
「大丈夫ですか?お怪我はありませんか?・・・あの、本当に、」
 少女が僕を見てポソリと小さな声でそう言った。だが、僕は彼女の顔を真っ直ぐに見ることなどできなかった。
「ゴメン。ドジった。俺、結局御札をダメにした」
 小声でそう言ってから、僕はようやく、ゆっくりと少女の顔を見た。すると、彼女は今にも泣きそうなほど潤んだ瞳で、そっと僕を見つめていた。
 ・・・ふと、その時、僕の中である言葉が蘇ってきた。そして思わず、少女に向かって言った。
「大丈夫!今のはダメにしちゃったけど、御札は俺がきっと見つけてあげるよ。だって、俺、聞いたんだよ、『願い札は、それを真に求める者の元に宿る』って、だから大丈夫。きっと見つかる!・・・俺が、君のために、絶対に見つけるよ!」
 ・・・ ・・・ ・・・
 ・・・ ・・・
 ・・・
 ・・
 ・

                  (6)
「はっ!」
 突然目が覚めた。・・・何か夢を見ていた気がする。
 ・・・なんだろう?バカにリアルな感触の夢だったような?
 ・・・だが、不思議だ。何も思い出せない。
 今まで眠っていたというのに、えらく心拍数が上がっている。
 ・・・胸が苦しく、・・・奇妙な思いが、・・・苦しいほどの重苦しい感情が、何の理由もなく湧き上がってくる。
 ・・・なんだ? ・・・なんだ? ・・・なんなんだ?
 ・・・わけがわからない!
 ・・・意味もなく深い悲しみに襲われ、・・・理解不能な恐怖が、心の奥底から溢れ出てきて、もはや、身体の震えを抑えることができない。

 ・・・ヤバイ!どうかしている。

 必死で自分を取り戻し、もがきながら立ち上がって、なんとか部屋の電気をつけた。そして、パット明るくなって、ふと時計を見るとまだ深夜の3時だった。
 徐々に意識が回復してきたところで、部屋の隅の冷蔵庫からソーダ水を一本取り出し、窓際へ行って椅子に腰掛けた。そして、冷たい炭酸水を喉の奥へと通すと、次第に気持ちが穏やかに落ち着いてきた。
「・・・けど、なんだか、みつきの夢を見ていたような?・・・けど、はっきりしない。・・・いったい、なんだったんだろう?・・・酷く奇妙な夢を見ていた気がするのだが」
 ・・・きっと、馬鹿なことを思っているから変な夢を見るんだ。もう、余りみつきのことを考えるのはよそう。彼女のことは、この旅の良き思い出として留めよう。
 ・・・馬鹿げた夢なんか持ちゃいけない。・・・間違っても、あんな可愛い娘に愛されたいなんて思っちゃいけない。どうせ、俺なんかとは釣り合わない。
 ・・・そんなこと、自分などには到底無縁だ。夢なんか見るな!
 ・・・諦めろ。
 ・・諦めろ
 ・諦めろ
 諦めろ
 ・
 ・
 ・

                   *
「・・・ルルルルルルルル、ルルルルルルルル、ルルルルルル・ガチャッ!」
「あっ、・・・はい!」
 内線電話の呼び鈴に気がつき飛び起きると、寝ぼけ眼のまま慌てて受話器を掴み取った。すると、やはりそれは女将からの朝食の準備が出来ているとの知らせだった。
 ・・・だが、ふと時計を見て驚いた。既に午前8時を過ぎていたのだ。どうやら、僕は酷く寝坊してしまったらしい。・・・どおりで、女将の話の感じが少し変だったわけだ。
 きっと、あの呼び出しは初めてではなくて、既に今朝は何度も呼び出しをかけていたに違いない。そして、ようやく僕はその電話のベルに気がついて、今頃になって受話器を取ったということなのだろう。
 まあ、昨晩は変な時間に目が覚めてしまい、その後1時間以上眠れなかったのが災いしたのだろう。・・・仕方がない。
 とにかく急いで身支度を済ませ、早足に広間へと向かった。
                   *
 朝食の用意がされている広間を覗くと、7、8人の泊り客が既に食事をしていた。やはり昨晩と同様に幾つかのテーブルを並べ大きなひとつのテーブルを作り、そこに子供連れの家族が二組、少し距離をおいて団欒し、楽しげに食事をしていた。
 そしてその端のスペースに、まだ手つかずの食事が一セットだけ、ちょっと離れて並べられていた。多分、あれが僕の食事だろう。
「・・・あれ?」
 だが?そこには何故か、あの山崎さんの姿が見当たらなかった。・・・まあ、別にどうでもいいんだけどね。
 すると、女将が僕に気づき、そっと近づいて声をかけてきた。
「斉藤さん、おはようございます♪お食事、そこにご用意してあります。でも、ちょっと、隅っこみたくなっちゃってごめんなさいね。ごゆっくりどうぞ♪」
「あの、山崎さんは?」
 やはり気になって、ふと女将に聞いた。
「ああ、今朝はお急ぎだったみたいで、もうお食事を済ませて神社に向かわれましたよ。今日はいよいよ、お祭りの本番ですからね。・・・そう、斉藤さん、今日お帰りになるとおっしゃっていたけれど、今日のお祭りは帰り際にでも、是非少しだけでも覗いていってくださいね。・・・あっ、でも、みつきちゃんと、もう約束してるのかな?うふふ♪」
 女将はいつものように明るい笑顔でそう言った。だがすぐに、ふと思い出したような仕草をして言葉を追加した。
「あ、そうだ。そのことで、ちょっと斉藤さんにお話したいことがあるのだけど、後でちょっとお時間頂けるかしら?・・・いえ、無理にとは言わないのだけれど」
「え?・・・ああ別に。あの、だったら、食事の後に宿代精算したいんで、その時でいいですか?」
 僕がそう答えると、女将は安心したようにやんわりと微笑んで頷いた。

                   *
 朝食を終えると、僕は一度部屋に戻った。そして自分の荷物を整理しナップザックの中に仕舞った。そして、この数日お世話になった部屋の中を簡単に片付け、忘れ物がないかをチェックした。
 ・・・そう、これで、この宿ともお別れなのだ。

                  (7)
 ナップザックを片手に階段を降りてロビーに向かうと、そこで女将が僕が来るのを待っていた。
 そして僕は、受付の隣の応接間らしい洋室へと通された。純和風だと思っていたこの旅館にこんな部屋があることに少し驚いたが、アガサ・クリスティの映画に出てくるようなヨーロッパアンティークふうの落ち着いた内装で、とても雰囲気の良い部屋だった。
 僕がソファーに腰をかけると、女将はアイスティーの入ったグラスを出してくれた。何か話があるとのことだったが、僕は先に宿代の支払いなどの用事を済ませてもらい、それから一旦間があって、そのあと改めて、僕はおもむろに口を開いた。
「その、朝食の時に言っていた、話って、なんですか?・・・もしかして、その、入江さんのことですか?」
「え?、ああ、はい。・・・そう、実は、みつきちゃんのことなの。・・・でも、本当にごめんなさいね。他人が口を挟むようなことじゃないし、せっかくお泊り頂いたお客様に、私の口から話すようなことじゃないのかもしれないのだけれど」
 女将は少し躊躇するような表情をしながらも、そう言って静かに話を始めた。
「・・・う~ん。実はね、昨晩、入江さんの奥さんからお電話を頂いたんですよ。その、なんて言いうか、奥さん、とても心配されているみたいで。
 ・・・いえ、でも決して、あなたのことを疑っているとか、そういう意味じゃないのよ。むしろ、この数日、急にみつきちゃんが明るくなったっていうか、元気になったっていうか、・・・その、それはすごく良いことだから喜んではいらしたんだけど、
 ・・・でも、『どうしたんだろう?』って、気になってたらしんです。そしたらね、昨夜、みつきちゃんが男の人と会ってたことを知って、少し心配になったらしいの・・・」
「え?、・・・ああ、そうなんです。昨日の夜、その、少し遅くなって、雨もひどくって、それで僕は、みつきちゃんのお母さんの車で旅館まで送ってってもらったから、・・・えっと、そのことかな?」
 緊張しつつも、僕は自分の事情を隠さず正直に話した。すると、女将がふと不思議そうな顔をした後、また少し微笑んで、「・・・そうなんだ、みつきちゃん。入江さんのことを、ちゃんとお母さんだって言ってたんだぁ」とポツリと独り言のように呟き、それから、また少し間を置いてから話を続けた。
「・・・う~ん、このことを私が話していいのかは判らないけど、・・・実はね、入江さんはみつきちゃんの実の母親ではないの。本当は伯母なんです。
 実はね、みつきちゃんの産みのお母さんは、彼女がほんの幼い時に亡くなっていて、ずっと父親と二人で東京で暮らしていたの。でも、そのたっった一人のお父様も、5年前に交通事故で突然亡くなっしまって、みつきちゃんは可哀想に、独りきりになっちゃったのよ。それで、子供のいなかった大城さんの妹の入江さんの奥さんが養女として、みつきちゃんを迎え入れたんです」
「えっ・・・?」
 思いもよらない女将の話に、ただ唖然とするしかなかった。そして、どうしてこんな話を僕なんかにするのか、その意味が全然判らなかった。
「入江さん、いつも、どこかで後悔していたのかもしれないわ。『女の子はいつかはお嫁に行くものなのに、わざわざ養女になどする必要なんかなかったんじゃないか?』とか、『都会の子を、こんな何もない田舎に連れてくるべきじゃなかったんじゃないか?』とか、たまに、こぼしてらしたから。
 ・・・でも、そんな時にあなたが現れて、みつきちゃんが嘘みたいに楽しそうに笑ってて、・・・そのね、なんで私が、こんなことを斉藤さんに話したかというと、どうしても、判ってあげてほしいのよ。あの子は、本当に寂しい想いをたくさん抱えてて、それでも独りで頑張っていると思うの。・・・でも、いつも全然平気な顔してて、人前では涙ひとつ見せないで。ただ黙って、静かに笑みを浮かべてて。
 ・・・だからね、みつきちゃんのこと、大事にしてあげて欲しいんです。ほんの数日だけど、私、あなたを見てて、斉藤さんなら大丈夫だと思ったの。信じられるって。
 ・・・斉藤さんは、本当にいい人だと思う。だから、みつきちゃんのこと、くれぐれもお願いします。・・・絶対に彼女を泣かせたりしないでくださいね」

 ・・・結局、僕は女将の言葉に、一言も答えられなかった。返す言葉を、何も考えられなかった。・・・意味が良く判らなかった。

                  (8)
 宿で荷物を預かってもらい僕は手ぶらで街に向かった。午後に浜見旅館でみつきと待ち合わせをしているので、必ず一度戻るからだ。
 海岸沿いの道路まで歩いて行き、停留所で独りバスを待った。すると、少しばかり待ったところで早々にバスはやってきた。
 ゆらゆらと揺れながら走るバスの窓越しから、波の荒い海を眺めた。・・・そしてぼんやりと、みつきのことを考えた。

 正直、女将の話が未だに信じられなかった。・・そう、みつきの姿に寂しさを感じたことなど、まるでなかったからだ。僕の前にいるみつきは、いつも明るくて、はつらつとしていた。キラキラした愛らしい笑顔で、常に輝きに満ちた少女だとしか思わなかった。
 ただただ根暗なだけの僕には、彼女は太陽のように眩しくて、とても近づきがたい存在だった。・・・だが、それは僕が単に無神経なだけだったのかもしれない。
 ・・・そう、もしかしたら、・・・本当は、辛く寂しい想いを胸の奥に抱きながらも、あんなに美しくも純粋な笑顔を、彼女は常に絶やさないように頑張っていたのかもしれない。僕はみつきのことを、何も解っていなかったのだ。

 ・・・だが、そのことに気づいた瞬間、胸が締め付けられるように苦しくなった。
 彼女の、父親との思い出の腕時計を、からかうような言い方で貶してしまった自分が許せなくなった。なんと無神経だったかと深く後悔した。
 けれど同時に、僕にはそんな彼女の気持ちが、少しだけれど分かるような気がした。
 ・・・そう、僕も、子供の頃に母を病気で亡くしていたのだ。
 常に元気が取り柄で、健康診断を受けて、自分は90まで生きるんだと自慢げだった母が、突然死んだ。・・・正直、あの頃の幼かった僕には辛かったのだろうと思う。
 ・・・いや、僕の場合は父もいたし、姉もいたし、・・・それに生きている間、単に口うるさいだけのめんどくさい母親だったから、死んでもそれほど寂しくなどなかったのだが。
 ・・・けれど、みつきの場合は全然違う。・・・きっと彼女は、よほど寂しかったはずだ。
 ・・・そう、独りきりになる寂しさなんて、この僕には想像もつかない!・・・もはや、考えようがない。
 ・・・僕などに、みつきの気持ちが解るわけがない。

                   *
 街に着くと、とりあえず昨日みつきに案内されたデーパートへ向かった。そう、彼女へのお礼のプレゼントを買いに行くためだ。だが、門前に立って、ふとため息が出た。そう、まだ開店の時間になっていなかったのだ。
「10時開店か。まだ30分位あるな」

 とりあえず、昨日寄ったあの喫茶店へと向かった。そして店内に入ると、とりあえずコーヒーを注文した。
 ふと見回すと、店内に客の姿は少なかった。なぜだか意味もなく孤独を感じた。・・・訳もなく、急激に形のない寂しさが込み上げてきた。
 ・・・そう、思えば昨日はみつきが目の前にいて、そこで楽しそうに笑っていた。僕は、その笑顔を見ているだけで幸せだった。・・・ずっと、この先、こんな時間が永遠に過ぎていったら、どんなに幸福だろうと、そう思った。
 だが、今に思えば、そんなことを考えていた自分は、いかに愚かだったかと思う。
 ・・・そんな幸せ、この俺にはありえない。
 この俺が幸せになれるなんて、そんな幻想持っちゃいけない。・・・馬鹿げてる。

                   *
 時間を見て喫茶店を出ると、真っ直ぐにデパートへ向かった。ビルに入り、店内を独りでウロウロと歩き回った。主に装飾品や小物などを眺めながら、みつきの気に入りそうな物はないかと考えた。・・・だが、なかなか良い物が見つからなかった。
 そもそも、予算が少なかったのだ。すでに宿代を払い終え、その残りから帰りの運賃を差し引いて、それに今日の祭りでの雑費の分を考えると、もう、ほとんど資金が残っていなかった。これでは、ウサギのネックレスどころか、銀のチェーンの一つも買えやしない。
 正直、つまらない安物を買ったところで、何の意味もない気がした。そう、そんな物を渡したところで、単に迷惑がられるのがオチである。
 ・・・そして結局、僕は何も買わないままデパートを後にした。

                  (9)
 ふと気づくと、僕は昨日訪れたゲームセンターに来ていた。そして、コインも購入しないまま、独りで競馬ゲームの筐体の椅子に座っていた。
 ただ何も思わず、おもちゃの競走馬がカタカタと盤面のコースを走る姿を、ぼんやりと眺めていた。・・・そして、いつの間にか、また、みつきの笑顔を想像していた。
「・・・なにやってんだろう?」
 ふと思わず、独り言が口に出た。そして、自分は結局、単に昨日の、みつきとの時間を辿っているだけなのだと気づかされた。
「・・・馬鹿じゃないのか?・・・何をやってるんだ、俺は!?」

                   *
 ・・・フラフラと、何の意味もなく街中を歩いた。もはや、何も考えたくなかった。そして僕には、みつきという少女が、全く判らなくなってきていた。
 ・・・そもそも、考えれば考えるほど奇妙に思えた。
 そう、出会いからして変だった。・・・どう考えても、何処かつじつまが合わない。僕に声をかけてきた動機も、その後の態度も、どこかが奇妙だ。
 ・・・はっきりとは判らないけど、やっぱり変なのだ。・・・何処か意味不明だ。やはり何かが間違っている。・・・どこかが、やっぱり変だ!・・・絶対変だ!!!
 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
 ・・・だが、そのことを考えれば考えるほど、・・・僕の身体は、・・・僕の心は、言い知れぬ恐怖に震えだした。
 意味も、理由も、そこにはなかった。ただ、理解不能の恐ろしさが僕を包み込んで離れなかった。・・・今にも、そこにあるドス黒い暗闇に飲み込まれそうな悪寒を感じ、僕は身を縮め、自分を耐えた。
 だが、・・・そんな時だった。ふと急に、昨晩聞いた、あの山崎さんの言葉が、頭の中に蘇ってきた。

 『・・・いいか、男なら、必ず御札を見つけて、彼女の願いを叶えてやれ!』

 その瞬間、ふと思った。
「そうだ、天狗山に行こう。きっとまだ、御札があそこに残っているはずだ。あれを彼女に渡そう。みつきの願いを、きっと叶えてあげよう」

 僕は急いでバス停へと向かって走り出した。

終章「彼女の願い」


                  (0)
 途中コンビニに寄り、山中での休憩を想定して飲み物や軽食を買っておいた。そして、それから急いでバス停へと向かうと、ちょうど出発寸前のバスがあり、運良くそれに乗ることができた。これで、まず一安心だ。

 バスの車中で、僕は天狗山山頂へのルートを思い出していた。それはまだ一昨日の記憶なだけに、なんとなくではあるが辿っていくべき道の景色や目印などを、ある程度イメージすることができた。
「・・・う~ん、きっと大丈夫だ。今からだって、急いで行けばなんとかなる。確かに、みつきとの待ち合わせの時間には少し遅れそうだけど、意味もなく迷ったりしなければ大して時間をロスすることもないだろう。・・・それに、たとえ一時間くらい遅れちゃったって、みつきなら、きっと許してくれるさ」

                   *
 僕はバスを降りると、もはや何も考えずに無心で天狗山を目指した。そう、なんとしても、今度こそ願い札を手に入れたい。なんとかして、みつきの願いを叶えさせてあげたい。ただ、その一念だった。
 浜見村の中央通りを抜け、天狗山ハイキングコースの入口を見つけた。僕は焦る気持ちを押さえながら、その看板の指し示すルートを駆け足で登って行った。
 正直なところ、山道には全然自信がなかった。僕の方向音痴は筋金入りで、子供の頃から度々道に迷った。小学生の頃には、初めて遊びに行った友達の家から帰れなくなったりして、しょっちゅう道端で独り泣きべそをかいたりしていたものだ。
 それにしても、この山道というものは更に厄介だ。とにかく、どこも景色がほとんど同じで区別がつかない。しかも、よく分からない形で突然道が分岐していたり、道の先が低木や草むらに隠れれいて注意しないと簡単に行き先を見失ったり、etc、etc、・・・とにかく苦手だ。
 だが、今回は絶対に失敗は許されない。慎重に進まなくてはいけない!なにせ、みつきを待たせているのだから。・・・あまりにも遅くなったら、さすがに嫌われてしまうからな。

 天狗山の頂上までは、山登りといってもそれほど距離があるわけでもないのだが、山道だけに、張り出した木の根や石ころなどで非常に足場が悪い。しかも、昨夜の雨で少しぬかるんでいるところもあったりして更に足元がおぼつかなかった。そんなんで、正直この道を早足で登り続けることは、考えていた以上に困難だった。
 気づけば、徐々に歩くペースは落ちてゆき、一休みしたい気分も湧いてきた。だが、そんな甘えたことは言ってはいられない。そう、とにかく根性で前進するのみである。
 ・・・時間がないのだ。急がなければ!
                   *
 そして、それなりに苦労はしたものの、なんとか道を間違えることもなく、比較的ハイペースで登って来られ、どうにかこうにか無事に天狗山の山頂へと到着することが出来た。やはり時間がかかったが、僕としては上出来な方だろう。まあ、とりあえず、ここまでは順調である。
 あとはサッサと御札を見つけて引き返すのみだ。・・・だが、その前に少し休憩を取ることにした。そう、さすがに疲れたのだ。やはり山道が苦手だ。僕には好んで登山などする人間の気がしれない。わざわざ無駄に疲労して、いったい何が楽しいのだろうね?
 とりあえず、前回来たときに、みつきと座ったあの倒木のベンチのところへ行き、そっと腰をかけた。そして手にしていたレジ袋から、街で買っておいたサンドイッチとコカ・コーラを取り出した。

                  (1)
「・・・これで、この景色も見納めか」
 サンドイッチを食べながら、ふと呟いた。
 思えば、本当に奇妙な数日だった。多分、この村でみつきに出会わなければ、今の僕は、全然違った自分だったのではないかという思うほどだ。彼女が、いったいどういう理由でこの僕に声をかけてきたのかは、今持ってよく分からない。
 だが、今の僕にとって、もはやみつきの存在は一生忘れられないものになってしまったような気がする。・・・何故かは分からないけれど、本当にそう思う。
「そうさ、べつに、これで永遠の別れってわけじゃない。縁があれば、またいつか友達として再び会える日も来るさ」
 ・・・そう、今は、いつまでもぼんやりしている場合ではなかった。サッサと気持ちを切り替えて、早いところ御札を探し出し、一刻も早く浜見旅館まで戻らなくちゃいけないのだ。あまり、みつきを待たせるわけにはいかない。
                   *
 とりあえず、山頂の開けた場所を中心に、くまなく見て回った。・・・だが、残念なことに、そこには御札など、影も形も見当たらなかった。
 ・・・けれど、まあ、そんなわかり易いところにあったなら、前に来た時に既に気がついてもいいわけで、そう簡単に見つけられなくて、ある意味当然なのかもしれない。
 そういうことで、今度はもう少し捜査範囲を広げてみた。周囲の茂みの中や、木の影など、怪しそうな場所を見つけるたび、積極的にそれらの中に潜り込み、草を掻き分けるようにして、入念に辺り一帯を探し回った。・・・のだが、
 やはり、何も見当たらない。この周辺に、御札など、その痕跡さえ見当たらない。
 ・・・どうなってるんだ?あの、山崎さんの情報はガセだったのか?・・・それとも、既に誰かに先を越されたのか?

                   *
 この山頂で御札探しを始めてから、多分、既に一時間以上が経っていた。正直、もはや発見など絶望的な気もしていた。・・・だが、何故か、どうしても諦めがつかなかった。
 ・・・そう、なんとも言い難いが、どうしてか僕には不思議な確信のようなものがあったのだ。それは、ある意味『デジャブ(既視感)』のような、『確実な手応え』とでもいうような、何故だかそんな感覚があって、どうしても途中で簡単には投げ出すことなど出来なかった。
 そして何より、この『願い札』は、絶対に彼女にとって必要なものであるとの深い思いがあって、どうしても諦めることができなかったのだ!
 ・・・結果的に、どんなにみつきを待たせてしまったとしても、例えその為に、彼女に完全に嫌われてしまったとしても、例え、そうなろうとも、どうしても諦めちゃいけない!絶対に御札を見つけなくちゃいけない!・・・そんな強い思いが、僕の心の奥底から湧き上がっていて、決して立ち戻ることなど考えられなかったのだ。
                   *
「あっ、そっか!そうだったんだ」
 ふと、ひらめいて上を見た。僕は探すべきところを間違えていたのだと、ようやく気づいた。・・・そうだったんだ!
 御札は多分、樹木の枝に引っかかっているんだ。思えば、僕はこれまで、ずっと地面ばかりに気を取られていた。だが、普通に考えてみれば、生い茂る木の枝葉に落ちて引っかかっていると考えるのが当たり前だったのだ。
 そう気がついて、僕は自分の馬鹿さ加減にあきれ果てた。そして、すぐに視点を上部へと集中させ、再び周囲の森の中を歩いて回った。
 ・・・すると、
「あった!・・・あれだ!間違いない」
 程なくして、木の枝に引っかかった白い紙のパラシュートらしき物体を発見した。そして、それは5m以上ある高さの枝先にあって、また、よく見ると、そのパラシュートの糸の先には、確かに願い札を収めた白い封筒がぶら下がっていて、ゆらゆらと静かに風に揺れていた。

                  (2)
 木登りなんてするのは小学生の頃以来だった。だが、その樹は一直線に真っ直ぐに伸びている杉などとは違い、横方向に太い枝をいくつも伸ばしていて、枝を手繰りながら登っていくには好都合なものだった。
 初め、高いところの枝先に引っかかった御札を目にした時には、正直どうしたものか?と不安だったのだが、いざ挑戦してみると、苦戦しつつもなんとかなりそうだった。
 もしも、こんなところで木から落ちて怪我でもしたら、当然助けなど来る訳もなく、野垂れ死にすることは必定なので、慌てず無理せず、慎重に少しずつ前進していった。
 しかしながら、へっぴり腰で怖々と枝に抱きつきながらイモムシのように木登りをしている今の自分の姿は、外から見たらさぞかし間抜けだろう。・・・みつきがここにいなくて、本当に良かった。
 けれど、ようやく彼女の期待に応えることができる。・・・そう、あともう少し、あと1m、・・・よし、あと30センチ、・・・よし、あと、ちょっと!
 今にも滑り落ちそうな不安定な姿勢の体をどうにか支えつつ、必死で手を伸ばした。そして、ついにそれを掴み取った。
 白い薄紙が破れないよう、落下傘を慎重に指先に巻きつけていった。それから、ゆっくりと手繰り寄せるように糸を引っ張ると、引っかかっていた細い枝から、あの御札の封筒がスルリと抜けた。
「よし、・・・やったぞっ!」
                   *
 その白い封筒には浜見神社の名の他に、いかにも古い神社らしい独特の書体で『鏡片札』と、印が押されていた。
 そうだ。これが例の願い札に間違いなくだろう。要するに、あの鏡月姫の伝説に習って、鏡の破片に模した御札をばらまき、それを村人皆で探し回るというわけだ。そして、つまりは、そこに何かのご褒美が必要になって、見つけ出せば何でも願いが叶うなんて話になったということなのだろう。よくある話だ。
 ・・・まあ、よそ者の僕には少々馬鹿馬鹿しいゲームな気がするが、きっと地元民にとっては楽しい行事なのだろうね。
 でもこれで、みつきへのお礼の気持ちを伝えることができるだろう。なにせ、彼女も一応は地元民だし、それにこいつはそれなりにレア物だし、・・・そういや、あの鏡月姫の伝説も、なんだか好きみたいだったしね。
 あとは急いで下山するのみだ。・・・けど、大分時間オーバーだな。マジ、嫌われるかも?・・・いや、まあ、それも仕方がないか?
 だけど、今に思うと、なんだって俺はあんなにもムキになって、こんな御札を探してたんだろう?・・・我ながら意味不明だ。って、まあ、過ぎたことはどうでもいいか。

                   *
 もはや、急ぎ山を下ることにのみ集中した。もはや大遅刻である。みつきとは午後1時に浜見旅館で待ち合わせとしていたが、この調子だと多分午後3時を過ぎるだろう。
 ・・・ヤバイ!だが、今更どうにもならない。・・・とにかく急ぐしかない!
 足元に気を使いながらも、全速力で坂道を降りていった。確かに殆どが下り坂だったのだが、やはりそこは山道だけに足場が悪くて、うっかりするとすぐに足が滑って転びそうになった。だが、一昨日よりも全然疲れが溜まっていない分足取りは軽かった。また、ルートもすっかり見慣れてきていて、迷うことも全くなかった。
 そして、ふと気がつけば、早々に村の通りまでたどり着いていた。やはり、このハイキングコースは、行きよりも帰りの方が断然楽なようである。
 だが、まだここでのんびりとはしていられない。一刻も早く浜見旅館まで行かなくてはいけないのだ!僕は再び気合を入れ直し、早足で道を急いだ。

                  (3)
 あの獣道のような細道を抜け、浜見旅館の門前までやってきた。・・・だが、そこには何故か、みつきの姿が見当たらなかった。
「ヤバイ!やっぱり、怒って帰っちゃったか?・・・しくった」
 ふと、思わず涙が滲んだ。
 だが、こればかりは自業自得だ。待ちきれなくて帰っちゃっても当然だ。もはや、完全に嫌われてしまっただろう。・・・仕方がない。
 ・・・けれど、せっかく御札を見つけてきたというのに、本人に渡せなければ意味がない。かと言って、みつきの家が何処かなんて全く知らない。・・・困った。
「そっか、女将に頼もう」
 ふと、そう気がついた。女将に事情を話し、みつきに渡してもらうなり、電話を借りて、今日のことを謝るなりしよう。そうすれば、きっと少しは許してくれるだろう。
 ・・・そう、きっとこの御札だって受け取ってくれるさ。
 とにかく、一度旅館に入って、女将に挨拶してこなければならない。そもそも僕は、旅館に自分の荷物を預けっぱなしなのだ。
 そう、気を取り直し、僕は旅館の玄関の引き戸を開いた。
「あっ」
 すると、僕が入ってくるなり、ロビーの休憩スペースのソファーに座っていた浴衣姿の女性が、サッと立ち上がった。
「・・・みつきちゃん?」
 そう、それはみつきだった。水色の流れるような色合いの布地の中に赤い金魚のゆらゆら泳いでいる涼しげな柄の浴衣を着て、そして今日ばかりは、いつものツインテールではなくて、長い髪を大きく一つに纏めて結い、可愛らしいピンクの花のかんざしを刺していた。
 だが、彼女の、そのあまりのイメチェンに、一瞬誰だかわからなかった。そして僕が目を丸くして呆然と突っ立っていると、みつきが少し呆れたような、しかし何処か悲しげな感じの声でポソリと言った。
「大翔くん、どこに行ってたの?・・・わたし、すごく待ったんだよ。・・・もう、帰っちゃったのかと、本気で心配したんだから」
「ごめん。ホントに悪かった。・・・その、俺、御札探しに行ってたんだ」
 僕が思わず、そう答えると、みつきは目を大きく見開いて、驚いたようにじっと僕の顔を見つめた。
「大翔くん。・・・やっぱり、そうだったんだ」
「え?」
 みつきの言葉に僕は少し違和感を覚え、ふと首を傾げた。・・・しかし、彼女はそのまましばらく、潤んだ瞳でじっと黙って僕を見つめていた。

                   *
 女将に一言挨拶を済ませ、預けていたナップザックを受け取って、僕はみつきと浜見神社へと向かった。
 そして、みつきはというと、僕の遅刻をそれほど気にはしていないのか、いつもと同様、ニコニコと楽しげに微笑んでいた。しかしながら、女将からは「私が説得してロビーの中に入れるまで、みつきちゃん、この炎天下の中、外でず~っとあなたを待ってたのよ」と厳しい口調でお小言を頂いてしまった。・・・もはや返す言葉もない。反省!
 けれど、今に思えば、なんだって僕はあんなにもムキになって御札など取りに行ったのだろう?・・・自分でも不思議だ。そもそも、みつきがこんなものを喜ぶ保証など何も無かったのだから。
 しかしながら、僕が「これ、みつきちゃんに渡そうと思って探してきたんだ」と言って、御札を差し出すと、みつきは割と嬉しそうに「ありがとう。やっぱり、大翔くんは優しいね」と言って、微笑んでくれたのであった。
 ・・・だから、まあ、成功だったのだろうけど。・・・いや、本心では、少し怒ってるのかもしれないな。・・・トホホ

                  (4)
 海岸沿いの道路際を、街とは反対側に向かって歩いて行った。だが、その歩みは、とてもゆっくりとしたペースであった。というのも、みつきは馴れない浴衣姿で、しかも下駄を履いていて、そんなに早足では歩けなかったのだ。
 だが、こうして潮騒を聴きながら、のんびりと歩むのも悪くない。そして、浴衣姿のみつきは、何処か少し大人びて見えて、僕にはこのゆったりと流れていく時間がとても愛おしく思えた。
「この御札、どんな願いでも叶えてくれるんだってね。だから、どんなことでもいいから、何か考えといてよ。・・・その、せっかく見つけてきたんだし」
 ふと、そう話しかけると、みつきは遠くを見つめながら静かに答えた。
「うん。・・・でも、わたしは、もう叶っちゃってるから」
「え?」
 その返答に驚いて、僕がみつきの顔を凝視すると、彼女は少し慌てて言い直した。
「だから、その、今は特別に願い事って、あんまり思いつかないかな?・・・って、ごめんね。わたしのために、せっかく苦労して見つけてきて貰ったのに」
「アハハ、・・・いや、そんなことは別にいいけど♪」
 ・・・とは答えたが、正直なところ、がっかりだった。
 散々苦労して苦手な山登りして、あちこち探し回って、更に待ち合わせにも遅刻して、・・・って、・・・いったい俺は何をやっているんだろうか?まあ、何をやってもダメダメなのはいつものことだが。
 ・・・しかし、情けない。我ながら呆れ果てる。
「・・・けど、浴衣。似合ってるよ。それと、髪型も、いつもと全然雰囲気違って、・・・その、初め見たとき、一瞬誰だかわかんなかったよ」
 話題を変えて、そう話しかけた。するとみつきは少し照れくさそうに答えた。
「この浴衣、昨日、お母さんが自分のを縫い直したのを、わたしにくれたの。だから、ちょっと地味でしょ?」
「え、そんなことないよ。すごく可愛いよ」
 何気なくそう返すと、みつきはニッコっと微笑んでから、また静かに話を続けた。
「それに、今日はね、髪も結ってくれたんだ。せっかく浴衣だから、髪型もちゃんと合わせた方がいいって」
 ポソリとそう言って、何げに恥ずかしそうな笑みを浮かべるみつきの横顔を見て、僕は何故だかとても嬉しくなった。そして、少し安心した。
 ・・・そう、みつきには義理だとはいえ、彼女を深く思ってくれる優しい母親が、いつも傍にいるんだ。

                   *
 程なくして浜見神社に到着した。思えば、ここに来たのは今日が初めてであった。そして、その神社は僕の想像していたイメージとは少し違っていたのだ。
 僕は、山中で御札の花火を目撃して以来、ずっと神社は岬の高台の上にあるのだとばかり思っていたのだが、浜見神社と文字の掘られた大きな石碑は、すぐ道路沿いに立っていて、更にその向こうには堂々たる風格の大きな石の鳥居が存在していた。
 そして、当のお祭り会場は、その鳥居をくぐった先の参道沿いの広場で行われていたのである。
 けれど、ふとその参道の一番奥の方を見ると、そこには岬の高台の上へと長く続く石段があって、その頂上付近にも、やはり大きく立派な石の鳥居が立っているのが見えた。
 多分、あの鳥居の向こうには、この神社の本殿があるのだろう。そう、みつきと天狗山の山頂から景色を眺めた時、この岬の高台の頂上に立派な社殿が建っているのが見えたのだ。

「とにかく、この御札を早いところ本殿に届けてきちゃおうよ」
 僕は神社の大鳥居をくぐったところで、そうみつきに言った。すると何故だか、彼女はまるで気乗りしないようで、少し首を傾げるようにして答えた。
「まだ、いいよ。先に色々露店とか見て回らない?どうせ、御札は日没までに納めればいいんだから、納札は後にしよ」
「・・・ああ、まあ、いいけど」
 仕方なく、そう答えた。・・・が、それにしても、この御札のプレゼントは完全に失敗だったらしい。みつきは全く御札に興味を示さない感じだ。
 ・・・いや、もしかしたら、むしろ僕が遅刻したことを、本心では未だに怒っているのかもしれない。みつきは全然顔には出さないが、女心は判らない。姉もそうだが経験上、女に恨みを買うと後々が怖いのだ。・・・汗!

                  (5)
 お祭り会場は驚く程大勢の人たちで賑わっていた。すでに駐車場には数十台の車が所狭しと駐車しているし、広場には多くの露店が立ち並び、会場の中央付近には大きな舞台も用意されていて、その前には木製の簡素作りのベンチがズラリと並べられていた。
 そして境内は、多くの人々の話し声や楽しげな歓声が溢れていて、スピーカーからは祭囃子の笛や太鼓の音が軽快に流されていた。
 確かに、東京の有名な神社の祭りなんかと比べれば、全然小規模なものとはいえ、この過疎地としか思えなかった小さな村のお祭りに、よくもまあこれほどの人が集まってきたものだと感心せずにはいられなかった。
 とりあえず、みつきと二人でフラフラと境内を歩いて回った。すると、多くの人が集まってきているだけあって、色々な露店が出ていた。綿飴、りんご飴、焼きそば、たこ焼き、そしてまた、お面や水風船、駒などの玩具、それにお祭りと言ったら定番の金魚すくいやら、的当てや輪投げなどの店もあった。

「せっかくだから、何か遊ぼうよ」
 みつきの顔を覗くようにして、そう言うと、彼女はやんわりとした笑顔で頷いた。
「じゃあ、金魚すくいに挑戦しよう!・・・でも、俺、金魚すくいなんて、今まで一度もやったことないけど」
「・・・ああ、うん。そうだね。やってみよっか」
 ということで、店のおじさんに二人分のお金を払い、薄紙の貼った円形のすくい枠を受け取って、二人で同時にスタートした。
 ・・・が、残念ながら僕は一匹もすくえず早々に撃沈!しかし、みつきは紅白のリュウキン型の綺麗な金魚を一匹すくい上げることに成功した。
「すごいじゃん!」
 僕が驚いてそう言うと、みつきは何んでもない顔で、静かにポソリと答えた。
「たまたまだよ。それに、あんまり大きいの狙ったから、すぐに破れちゃったし」 
                   *
 それからも、空気銃の的当てやら輪投げなどをして遊んだ。そして、少し遊び疲れたところで綿飴を買って、そのふわふわとして甘いだけの砂糖菓子を、二人でフラフラ歩きながらパクついた。
 ・・・だが、なんとなくだが、そんな今日のみつきの姿に、僕は少し違和感を感じ始めていた。ほんの些細なことだが、何処か昨日までの彼女と少し様子が違う気がしたのだ。
 なんとなくだが、彼女の笑顔にぎこちなさを感じた。・・・そして何となく、会話をしていても何処か上の空のよう返答だった。
 だが逆に、今日のみつきは不思議なほど素直でもあった。昨日までは、それが缶ジュース一本であっても頑固にこだわって、絶対に僕にお金を出させなかった彼女が、今日は何も言わずに僕の好意を受け取ってくれたのだ。
 ・・・どういう心境の変化なのだろう?・・・まあ、そんなことはどうでもいいか。どうであれ、この僕に女心など皆目わからない。
 だが、そんなことをぼんやりと考えていたとき、少し離れたところから僕を呼ぶ声が聞こえた。
「ねえ~っ、大翔く~ん!あっちの舞台で面白そうな手品やってるよ。見に行こう♪」
 ふと声のする方に目を向けると、いつの間にか随分遠くにみつきがいて、彼女はこちらに向かって、お得意のいつものおいでおいでをしながらニコニコしていた。
 ・・・いや、やっぱり気のせいだな。みつきは今日もいつものままだ。今朝、女将に変な話をされたせいで、自分の中で妙な思い込みを持ってしまっただけだろう。
『ドスッ!』
「・・・あ、すいません!」
 みつきの方に向かおうと姿勢を変えたとき、いきなり誰かの肩がぶつかって、僕は慌てて声をかけた。・・・のだが、
 そのぶつかってきたオッサンの方は、まるで何もなかったように振り向きもせず、そのまま歩いて行ってしまった。しかし、よく見ると何げにフラフラしている。また残り香が酷く酒臭い。・・・そう、単なる酔っぱらいだ。
 だが、更に驚いたことに、オッサンはその先に停車してあった車のところへ行って、おもむろにドアを開けると、当たり前のような顔をして運転席へと乗り込み、何ら躊躇することなく車を発進させたのだ。・・・呆れる話だ!
 さすがはド田舎。もはや酔っ払い運転なんか、ここでは常識なのだろう。
「・・・えっ!?」
 ・・・が、突然、心臓が一瞬に凍りつくような恐怖が、僕の心の奥底から溢れ出してきた。
 ・・・あれは、・・・あの車は、・・・あの黄色い乗用車だ!
 ・・・・・・・・・・・・・・・!?
「大翔く~ん!何してるの~っ? 早く早く!手品終わっちゃうよ~っ、も~う!」
「あっ、・・・え?・・・ああ、ゴメン!」
 みつきの呼び声を聞き、ふと我に返った。
 ・・・しかし、今俺は何を思っていたのだろう?なんで、あんな車に気を取られたのだろう?・・・自分でも意味がわからない。
 ・・・いや、まあいいか。それより、早いところみつきのところへ行かなくちゃ。

                  (6)
 かき氷を食べながら、僕等は舞台前の椅子に並んで座って、地元住人の有志や他所から招いたらしい芸人たちの歌や芸などを、ぼんやり眺めて過ごした。
 みつきは、そんな演者たちの芸を楽しそうに見つめ、ときたま声を出してケラケラ笑ったり、あるいは目を丸くして驚いたりして、訳もなく喜んでいた。また、度々僕の肩をトントン叩いてきては、あれこれと楽しげに話しかけてきたのだった。
 みつきとは、本当に楽しい女の子だ。彼女が、ただそばにいるだけで、ただそこにいてくれるだけで、僕の心は嘘みたいに癒される。・・・何故だろう?
 ・・・こんなひと時を得るなんて、そう、つい数日前までの自分には、まるで想像もつかなかったことだ。

 ・・・しかし、思えば、この楽しい時間も残ろりわずかだ。僕はもうすぐ、自分の家へと帰らなくてはいけない。せっかく、こんなに素敵な女の子と、みつきと、親しくなれたけど、この先、再び会うことがあるのかは判らない。
 ・・・そう、あるいはこれっきり、永遠にお別れなのかもしれない。

 だが、ふとそう思った途端、隣にいるみつきが、とても遠いい存在に感じた。そして同時に、形のない寂しさと孤独が、激しい大波のように僕の心の中に打ち付けてきた。
 ・・・全身が凍りつきそうなほど苦しくなった。

 ・・・だが、今は、そんなことを考えていたって仕方がない。
 当たり前の話、彼女は全くの赤の他人なんだ。ただ、戯れに、この哀れな男に同情して、この数日ボランティアで相手をしてくれただけの人だ。
 ・・・これ以上、彼女に迷惑はかけられない。
 他人に、己の勝手な願望を求めることほど、馬鹿げたことはない。今はただ、赤の他人でしかないこんな僕に、彼女が与えてくれた好意を、真にありがたく思うべきであって、それ以上を求めることはありえない。
 正直、彼女が、何故このようなつまらぬ男に、何を思って親切心を持ってくれたのか?その理由など僕には全く想像がつかないが、しかしながら思うことは、もしも僕という存在が、少しでも彼女にとって利を与えたとするならば、それを素直に喜び、ありがたく受け止めるのみであって、間違っても、恩をアダで返すような振る舞いは許されない。

 ・・・そう、もしも縁があるのなら、きっと再会することもあるだろう。そして、もしも僕が、その時、少しでも彼女の役に立てることが何かあったなら、きっと、こんな僕でも、そこにある意味を得ることがあるだろう。
 だが、間違っても、自分から他者に願望を押し付けるようなことは、あっちゃいけない。
 ・・・求めてはいけない。・・・欲してはいけない。
 ・・・間違っても、みつきに、迷惑をかけたくない。

                   *
「あっ、そろそろ、御札を納に行かなきゃ、ヤバくないか?」
 ふと、辺りが少し薄暗くなり始めていることに気がつき、僕は慌てて声をあげた。
「え?・・・あっ、そうだね。・・・そっかぁ、もう、行かなきゃいけない時間だね」
 みつきは、僕の声掛けに反応すると、ただ、そっと静かにそう答えた。だが、僕はその時、みつきの様子にふと違和感を覚え、思わず聞いた。
「大丈夫?」
 すると彼女は、「え?」と、少し首を傾げ、それからニッコリと微笑んだ。
 そして僕等は、他の観客の邪魔にならぬよう気を遣いながら、ゆっくりと席を立ち、二人で本殿へと繋がる石段へと向かって行った。

                  (7)
 ゆっくりと、その長く続く石段を一歩一歩登った。どうやら浴衣で階段を上がるのは、なかなか大変なようで、みつきは片手で裾を軽く握り、足元を気にしながら石段を一段ずつ慎重に踏んでいた。
 そして、何故だか彼女は何も話し出さず、ずっと無言で俯き気味に歩いていた。また、その横顔も何処か沈んでいるようで、僕の方を見ようともしない。なんだか、ついさっきまでのみつきとは、まるで別人のようにさえ感じた。
 ・・・なんなのだろう?
「みつきちゃん。何か願い事は浮かんだかなあ?」
 沈黙に耐えられなくなって、ふと聞いてみた。すると、みつきは俯いたまま、静かに「ああ、うん」とだけ答えた。
 ・・・しかし、どうにも空虚な返事である。だが、まあいい。これ以上、また御札のことを言ってもしつこいだけだ。
 ・・・けれどもう、みつきとは、これでお別れなのだ。僕は、この御札を見つけ出すことで、何故だか?きっとみつきとの繋がりを得られるんじゃないかと信じていた。
 だが、現実はこの有様だ。結局、あんな御札、なんにもならなかった。むしろ、彼女の機嫌を損ねただけだ。・・・やっぱり、占い事なんかに頼るんじゃなかった。
 ・・・なにが願い札だ!・・・馬鹿馬鹿しい。
 ・・・でも、本当にいいのか、このままで?・・・このまま何も言わず、このまま気持ちも伝えず、それでお別れで、これでお終いで、本当にそれでいいのか?
 ・・・ ・・・ ・・・

                   *
「あのさあ、俺、またいつか、ここへ遊びに来てもいいかなあ?」
 石段の終わりが見えてきて、高台の上にある石の鳥居が目前に迫ってきたところで、ふとそう言葉をかけた。すると、ずっと黙りだったみつきがスっと僕を見た。
「それで、そしたら・・・、その時も、みつきちゃんに案内頼んでもいい?」
 僕が、更にそう続けると、彼女は僕の顔を見つめたまま、そっと立ち止まった。
「・・・いや、変な意味じゃないんだ。・・・その、君に迷惑をかけるつもりは全然ないんだ。だから、迷惑だったら別にいいんだ。
 ・・・ただ、俺、せっかくこんなに仲良くなれたのに、・・・このまま君と、永遠にお別れなんて、どうしても嫌だから、・・・やっぱ、そんなの無理だから、
 ・・・その、・・・また、いつか、また君の顔が見たいから、会いたいから、
 ・・・俺、やっぱり、みつきちゃんのこと、好きだから、・・・だから、」
 思わず、押さえ込んでいた本心が溢れ出してしまった。言わないでおこうと思っていたことを、つい言ってしまった。
 ・・・だが、案の定、みつきは僕の顔を凝視したまま、何も言わずに黙っていた。そして、ふと気づくと、彼女の瞳は今にも涙が溢れそうなほどに潤んでいた。
 ヤバイ!・・・やっぱり、言うべきじゃなかった。彼女を困らせてしまった。馬鹿なことをした。・・・失言だった!
「・・・いや、その、ゴメン!今、俺、変なこと言ったね。・・・いや、そんなの迷惑だよね。・・・その、ほんと、別にいいんんだ。気にしないで。その、今のはただ、思わず言っちゃっただけで、・・・いや、ゴメン!・・・ホント、ゴメン!」
「・・・大翔くん。どうして謝るの?」
 みつきは少し首を傾げるようにして、ポツリとそう言った。とても静かで、少し悲しげな声だった。そして彼女は、また静かに言葉を重ねた。
「わたし、大翔くんにそんなふうに思ってもらえて、すごく嬉しいよ。ありがとう」
「えっ?」
「だけど、ごめんなさい。きっともう、大翔くんに会うことはないと思う。残念だけど、二度と、ガイドは出来ません。・・・ごめんね」
 そのみつきの言葉に、僕の心は凝固した。一瞬だが、自分の想いがみつきに通じたのかと思った。・・・だが、やはり、そんなことなど有り得ないのだと自覚させられた。
 しかし、また、みつきが口を開いた。寂しそうに、苦しそうに、静かに話し始めた。
「・・・だけど、わかってください。・・・わたし、大翔くんに出会えて、たくさん思い出をもらって、本当に嬉しかった。
 ・・・なんだか、嘘みたい。まさか、大翔くんに好きだなんて言ってもらえるなんて、・・・本当に夢が叶うなんて・・・」
「えっ、・・・どういうこと?・・・いったい、何を言ってんだ!?」
 僕は思わず、そう問うた。・・・訳が判らなくて、今にも気が狂いそうだった。
すると、みつきは足早に石段を数歩上がって、鳥居の真下まで行った。それからサッと振り返り、そこから僕を見下ろすようにして、・・・そして、静かに語り始めた。

                  (8)
「ホントはね、あの日、わたし、ただ何となく散歩に出ただけだったんだぁ・・・、
 それで、海岸沿いの道をフラフラしてたら、『バン、バン、バン』って花火の音がして、それで空をぼんやり眺めてたら、一つだけ、御札の落下傘がこっちの方に風に流されてきたの。そしたら、そのうち、その御札は海の岩場の辺りに、スーっと落っこちていったの。
 でも見ると、御札の落ちた岩場は、ちょっと遠くて、とても取りに行けそうもない場所だった。だから、このまま海に流されちゃうのかなあ?って思って、ちょっと心配で、海岸まで降りて行って、ずっと一人で眺めてたの。
 ・・・そしてたらね。その時、大翔くんが突然現れて、『俺が取ってきてあげるよ』って言ってくれた。
 わたし、ビックリしちゃって何も言えなかった。・・・だのに大翔くんたら、あんなに危ない岩場をどんどん渡って、本当に取りに行ってくれて、拾った御札をわたしに見せて、いっぱい手を振ってくれて、・・・あの時は、わたし、すごく嬉しかった。
 でも、大翔くん、最後に足を滑らせて海に落っこっちゃって、御札はダメになっちゃったけど、でも、それで十分だったのに、・・・それなのに大翔くん、『俺が絶対に見つけてあげるって』そう言ってくれて、
 ・・・でもね、ごめんね。あの言葉、すごく嬉しかったけど、どこか、わたし、ちゃんと信じてなかったんだぁ。・・・ホントにごめんね。
 だけど、大翔くんは、あの後、本当に一人で、御札を探しに行ってくれたんだよね。
 そう、翌日にね、近所の人に、『よそから来たらしい若い男の人が、一人で御札を探してる』って話を聞いて、わたし、ビックリしちゃって、それで急いで城跡公園に走っていったの。そしたら、本当にそこに大翔くんがいて、そして一生懸命御札を探しててくれてた。
 ホントに驚いたよ。何で、こんな見ず知らずの私なんかのために?って、正直信じられなかった。本当に感動しちゃったんだよ。
 ・・・だけど、わたし、あの時も、ちゃんとお礼も言えなかったね。ごめんね。
 でも、その後、初めてちゃんとお話が出来て、ベンチで一緒にファンタグレープ飲んで、それから二人で公園中を、暗くなるまで御札を探して回ったんだよね。
 でも実は、あそこに落ちた御札は、もう他の人に拾われちゃった後だったらしいの。
 ・・・けどね、わたしは、もうあの時には、本当に御札のことはどうでもよかったの。だって、もう、・・・ずっと心の奥で想っていた願いは、・・・もう叶っちゃったって気がしてたから。
 だから、『もう、御札はいいから、出来たら一緒に次の日のお祭りに付き合って』って、そうお願いしたの。そしたら大翔くん、渋々だけど『いいよ』って言ってくれて、
 ・・・だから、約束どおり、翌日の午後一番に浜見旅館に迎えに行ったのに、大翔くんは一人でお月見山に御札を探しに行っちゃったって聞いて、あの時もわたし、何時間も待ったんだから。
 うふふ。・・・でも、本当に御札を見つけてきてくれたんだよね。
 ・・・方向音痴で、山道苦手なのに、無理して、散々迷子になって、クタクタに疲れて、ホント馬鹿なんだから。
 ・・・でも、わたしの浴衣姿見て、可愛いって褒めてくれて、初めて試したツインテールの髪型も、すごく似合うって言ってくれて、・・・わたしを見て、本当に嬉しそうに、微笑んでくれて、・・・だから、わたしも、とっても嬉しくて。
 ・・・ ・・・ ・・・ だけど、結局、あの時は、お祭りを一緒に楽しむことは出来なかったから、
 ・・・本当は、自分の気持ちをちゃんと伝えたかったのに、結局わたし、何も伝えることが出来なかったから、
 ・・・話したいことも、したいことも、いっぱいあったけど、何も出来ないまんまだったから、
 ・・・だから、どうしても、気持ちだけでも伝えたくて、わたしの想いだけでもわかって欲しくて、

 ・・・だから、どうしても、大翔くんと出会ってからの、あの三日間をやり直したかったの。

 ・・・大翔くん、わたしのわがままに付き合わせちゃって、ごめんね。

 ・・・ ・・・ ・・・さようなら。 あなたに出会えて、嬉しかった。 」

 僕には、みつきの言葉の意味が全く判らなかった。
 だが、このまま、みつきがいなくなってしまうような気がして、驚いて、慌てて石段を駆け上がり、みつきの腕を掴んだ。そして、自分の胸の中へ抱きしめた。
 ・・・が、その瞬間、
 パット!彼女のぬくもりがそこからなくなった。まるで星屑となって砕け散ってしまったかのように、みつきの存在が消えた。・・・空になった。
 それと同時に、自分を取り巻く世界も、一瞬のうちに消え失せた。何もかもが、瞬間的に消滅した。・・・無になった。
 そして、本当の世界が、本来の記憶が、真の現実が、僕の中に瞬く間に蘇ってきた。

                  (9)
 ・・・おととい、僕は偶然にあのオンボロ列車に乗って、何も思わずこの浜見駅に降りたった。だが、その後山道に迷い込み、山中でたまたま願札の花火が打ち上がるのを見て、その時出会った爺さんに道案内を頼み、ようやく海岸沿いを通る道路へと出ることができた。
 そして、宿へ向かおうと海岸線の道を歩いていて、そこで、岩だらけの海岸で一人で寂しげに、じっと海を見つめている白いワンピース姿の少女を見かけたのだ。
 ・・・そうあの時、初めて僕は、みつきと出会った。
 そうだ、あの少女こそ、みつきだったんだ!
 僕は自分から勝手に岩場に飛び出して、彼女が見つめていた御札を取りに行った。だが、やはりドジって、結局その御札をダメにしてしまった。
 ・・・だが僕は、どうしても、そのままでは諦められなかった。
 僕はその後、あの山中で見た花火の記憶を頼りに、落下傘の落ちていった方角を推測して、独りで村のあちこちを回って御札を探した。そして、たまたま出くわした住人からも更なる情報を集めた。
 だが、その日は結局、御札を見つけることは出来なかった。・・・だが、それでも諦められなかった。・・・どうしても諦めたくなかったのだ。
 次の日も、僕は朝から御札探しに出かけた。昨日耳にした情報を頼りに城跡公園へと向かった。だが、既にそこには数人の村人がいて、僕と同様に御札を探し回っていた。
 ・・・だから、僕も負けじと必死で探した。
 これまでの人生で、こんな気持ちになったのは初めてだった。僕は元来競争が苦手だった。誰かと争って、他人を蹴落として、自分が勝って、それが楽しいとは思わなかった。
 そう、自分はどうでも良かったのだ。自分が得をして、他の人ががっかりした姿なんて見たくなかった。皆が笑っていてくれたら、僕はそれで幸せだった。
 けれど、今回は事情が違った!・・・僕は、どうしても、彼女の笑顔が見たかったのだ!・・・どうしても、どうしても、あの少女に、本心から何も躊躇うことなく、嬉しそうに微笑んで欲しかったんだ!
 ・・・すると、そんな時、みつきが公園にやってきた。そして、僕等はそれから、今度は二人で、日暮れまで御札を探して回ったんだ。
 けれど、結局見つからなくて、それなのに、みつきは『御札はもういいから、明日のお祭りに一緒に行って欲しい』と言ってくれて、・・・だが、僕は、それでも、どうしても、諦めることができなかった。
 すると、その夜、山崎さんから天狗山に御札がまだ残っているらしいという話を聞いて、僕は翌日、朝から急いで天狗山の山頂を目指した。
 ・・・だが、あの時は、天狗山に行くのは全くの初めてで、方向音痴の僕はマヌケにも道に迷ってしまった。
 そして、ようやく目的の頂上に着いた時には、既に午後になっていて、しかも、そこでもまた、なかなか御札を見つけられなくて、結局僕が御札を発見し、浜見旅館に帰り着いた頃には、既にだいぶ日も傾き始めていたのだった。

 驚いたことに、浜見旅館の玄関をくぐると、そこで、みつきが待っていてくれた。僕は、もはや絶対に腹を立てて帰ってしまっただろうと思っていたのに、彼女は何故か?こんな僕を何時間も待っていてくれたのだ。・・・信じられなかった。
 そして、みつきは何ひとつ文句も言わず、むしろ酷く疲れきっている僕のことを心配してくれた。・・・有り得ないことだった。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 そして僕は、天狗山で探し出してきた御札を、そっと彼女に渡した。すると、みつきは目を丸くした。そして、
「ありがとう。・・・まさか、本当に見つけてきてくれるなんて」
 そう言って、じっとその御札を見つめていた。

                    *
 もう日没までには時間があまりないので、僕等はすぐに神社へと向かって歩き出した。だが、その歩みは、ことの他ゆっくりだった。
 そう、みつきは浴衣姿で、しかも馴れない下駄を履いていたのだ。
 ・・・けれど、今までとまるで違う雰囲気で、とても印象が変わった感じがして、それで思わず、僕はつまらないことを口に出した。
「・・・その浴衣、すごく似合ってるよ。・・・それに、その髪も。・・・その、ツインテール?って云うのかなあ、とっても可愛いよ。・・・その、明るく見えるし、いや、元気そうで、すごく君に似合ってるよ」
 するとみつきは、一瞬驚いたような顔をして、けれどすぐに、とても嬉しそうにニッコリと微笑んだ。
 僕は、その笑顔を見て、何故だかすごく嬉しかった。頑張って御札を見つけた甲斐があったと思った。・・・そう、ようやく思いが叶った気がした。
 ・・・今まで何をやってもドジばかりで、何も成せない自分だった。嫌気がさすほどダメすぎる自分だった。生きているのが恥ずかしいだけの人間だった。
 ・・・でも、ようやく、今度こそ、自分は本当に役に立てたんだって気がした。

                   (10)
 しばらくすると、僕等は浜見神社の本殿のある岬の高台の、すぐ目の前にまで来ていた。あとは、すぐ先のカーブを過ぎれば、そこには浜見神社の鳥居があるはずだった。
 だが、ふと空を見れば随分と日は傾いてきていて、雲が次第に赤く染まりつつあった。そう、うかうかしていると、すぐにでも日が沈んでしまいそうな気配だった。
「早く行かないとまずいね」
 空をぼんやりと見つめていた僕に向かって、みつきがそう言った。そして、スっと身体をひるがえすようにしてから足早に歩みだした。そして、前の道路を横断しようと身体をサッと進めた。
 ・・・が、その時だった!
 突然、道路のカーブの向こうから、黄色い車が姿を現した。みつきはすぐに気がついて、足を止めた。
 ・・・だが!
 その乗用車は、ものすごいスピードを出していて、カーブを大きく膨らんで、中央車線を越え、こちらに向かって迫ってきた。
 『キーッ!』と、激しいブレーキ音がこだました。その車はタイヤをロックさせ、真っ直ぐに、こちらへと滑ってきた。
 一瞬のことだった。何なんだかわからなかった。『ドスーン』と、僕の眼前で、車は道路脇の波除土手に衝突した。そして、同時に、みつきの身体が宙を舞った。

 ・・・気がつくと、投げ捨てられたように、道路上に伏しているみつきの姿がそこにあった。
 僕は、ふと我に返り、慌ててみつきに駆け寄った。
 膝まづき、彼女の身体に手を触れた。・・・だが、みつきはピクリとも反応しない。
「・・・だっ、大丈夫かっ?・・・おいっ!、おいっ!・・・ ・・・ 」
 頭が真っ白になって、何が何だか判らなくて、何が起きたのかも意味不明で、僕は自分の身体の震えを抑えることが出来なかった。
 ・・・だが、ハッと気づき、立ち上がると、神社へと向かって走った。
「誰かーっ!!誰か来てくれーっ!誰か、彼女を早く助けてくれーっ!」

                   *
 神社にいた何人かが、急いで駆けつけてくれた。そして、神社の警備に来ていたらしき消防隊員が、みつきの怪我の簡単な応急手当をしながら、「すぐに救急車が来るから安心しろ」と言った。
 ・・・だが、みつきの顔はすっかりと青ざめていて、全く意識がないようで、その息もとても弱々しく、かすかだった。
 そして僕は、ぐったりと地面に伏している、みつきの傍で、ただ黙って、ただじっと、無意味に座っているだけしかできなかった。
 ・・・すると、次第に遠くから救急車のサイレンが近づいて来るのを感じた。そして間もなく、道路の向こうから赤い回転灯を光らせた救急車がやって来るのが見えた。
 けれど、そんな時だった。
 ふと気配を感じ、みつきの顔を見ると、彼女はうっすらとその目を開いた。そして、力ない瞳で、ゆっくりと僕を見た。
「・・・おねがい、・・・わたしの願い、・・・叶えて、・・・御札を、・・・とどけて」
 かすかな声で、みつきが言った。・・・確かに、そう聞こえた。
「わかった!俺が、必ず御札を届ける。君の願いを叶えてみせる!」

 僕は、御札を手に、走った!

 空は真っ赤に色付いていた。太陽は、今まさに、水平線の奥へと沈もうとしていた。

 ・・・もう、時間がなかった。・・・急がなくてはならなかった。

 全てを忘れ、息をするのも忘れ、懸命に神社の石段を駆け上がった。

 いそがなきゃ!
 いそがなきゃ!

 早くしないと、日が沈んでしまう。

 ・・・うっ、息が持たない。足が、思うように動かない!
 っくそっ!
 息なんてできなくていい!こんな足、どうなろうと構わない!
 急ぐんだ!走るんだ!
 ・・・早く!早く!早く!!!

 俺は死んでも構わない!このまま、息絶えたって構わない!

 ・・・彼女の願いを叶えなきゃ!

 なんとしても、日が沈む前に、この御札を届けなきゃ・・・

                   *

                   *

                   *

                   *

                   *

 ・・・突然、視界がパット開けた。目の前に世界が現れた。

 僕の眼前には、本殿の納札受付所があって、白い着物に赤い袴姿の巫女さんが立っていた。そして、その女性の手には、少し汚れてくしゃくしゃになった、あの願札が握られていた。
「良かったですね。ギリギリだけど、ちゃんと日没前に間に合いましたよ。きっと神様が、あなたの願いを叶えてくださいますよ」
 にこやかに巫女さんは、そう言った。・・・だが、その後、僕の顔を不思議そうにじっと見つめ、そして、その表情を急激に変えた。
「どうしたんですか?・・・大丈夫?」

                   *
 僕は無意識のまま、そこを離れた。ただ、何もなく、フラフラと歩いた。

 ・・・もはや、何も出来なかった。・・・自分が息をしているのさえ、不思議だった。生きている自分が、理解できなかった。

 ・・・だが、到頭、僕の足は身体を支えることを止めてしまった。ぐらりと力が抜けて、石畳に膝をついた。
 その時、背後で『ボン、ボン、ボン、ボボーン』と、花火の打ち上がる爆音が鳴り響き、その後『わーっ』と、人々の歓声が湧き上がった。

 すると、眼前の黒い石畳に、ポタポタと水滴が落ち、そこに花火の閃光が反射して、キラキラと輝いていた。

 そして、僕は、言葉にならない呻きの中で、叫んだ。

「・・・なんでだ。・・・なんで、なんだ!」

 ・・・

 ・・

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                  (11)

 白いレースのカーテン越しに通過してくる明るく透明な日差しが、彼女のベットを静かに照らしていた。その柔らかな光線は彼女の白い肌に反射して、美しく輝いて見えた。

 そして僕は、その病室のベットの傍らで、一心にりんごの皮を剥いていた。

 まず、円いりんごを縦に六つ切りにして芯を取り、それから赤い皮に斜めに切れ込みを二本入れ、そっと残りの皮を剃り落とした。よし、これで完成!
 ・・・いや、そのつもりだった。

「・・・あれ?」
 何故か思い描いていた形になってない。出来上がったそれは酷くいびつで、しかも残した皮の形もヘンテコで、まるで美しくない。そう、そもそも全然ウサギの形になってない。
「ダメだこりゃ!」
 僕が独り言のようにそう言って、またも、その出来損ないのりんごを自分の口に入れると、彼女はコメディーでも見るようにクスクスと笑った。
 ・・・そして、それから呆れたように、
「もおっ、今のは十分上手に出来てたよ。いいから、わたしにも早く食べさせてよ!さっきから自分ばかり食べててズルイよ。・・・もう、やっぱり、わたしが自分で剥くよ。大翔くんは、もういいいから、わたしに貸して」
 そう言って、彼女は手を伸ばしてきたが、僕は断固拒否した。男たるもの、一度口にした以上簡単には引き下がれないのだ!
「ダメダメ!すぐに俺がカッコ良くウサギのりんご作るから、病人は大人しく待ってろよ。それとも、みつきは、この俺のことが信じられないのか?」
「も~う、ホントに頑固なんだから、・・・困った人だね」
 彼女は僕の言葉にそう返し、そのあと独りでクスクスと笑っていた。

 そうなのだ。みつきは車にはねられ、ひどい怪我をして、一時は生死をさまようほどの重症だった。だがその後、奇跡的に回復し、順調に体力を取り戻していったのだ。
 そして今では、このとおり、普通に笑って話が出来るまでになった。医者の話では、もうじき退院できるらしい。
 しかしながら、実はこのことは、みつきを担当した医師自身がとても驚いていたらしい。病院に運ばれてきた時点では、出血もひどく、また頭も強く打っていて、ほぼ絶望的だと思われていたらしいのだ。・・・だがそれが、ほとんど何の後遺症も無く、異例なほど早く回復していったのだ。
 ・・・けれど、僕はその話を耳にして、ふと思った。これは、もしかしたら、あの願い札のおかげだったのではないかと。
 一度目の御札は、みつきの願いを叶え、そして、そのやり直しの日々で僕が手にした、もう一枚の願い札が、今度は僕の願いを叶えてくれたのではないか?と・・・。
 だが、そう考えると、ひとつだけ疑問が湧いてくる。そう、もしそうならば、何故みつきは初めから自分の命の救済を願わないで、あんな奇妙な願いをしたのか?
 ・・・このことは、僕にはまるで判らない。正直、理解不能だ。・・・そう、いつか、機会があったら、みつき本人に聞いてみよう。

 けれど、彼女のことだから、 きっと、何も答えてはくれないだろう。



                 「うさぎの恩返し」 完。

うさぎの恩返し

うさぎの恩返し

半ばひきこもりとなっていた少年は、十代最後の夏に、何の計画も持たずに旅に出た。 そして、そこがどこかも知らず、偶然たどり着いたその海辺の村では、12年に一度の大祭が行われていた。 その村で、少年は、少し風変わりな少女と出会う。そして、彼女の奇妙な頼みを受け、祭りの日までの数日間をともに過ごす。 村に伝わる古い伝説。 願い札の花火。 岩場に打ち付ける荒れ狂う波。 奇妙な夢。 白いワンピースの少女。 お月見山。 ・・・そして、ほのかな恋心。 その、一見なんでもない数日間は、実は、とある隠された意味を持っていた。 少しだけミステリアスな、ちょっとだけ不思議な、そして切ない。純粋な少年と少女の、ほんの数日間の、ささやかで、ピュアなラブストーリーです。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-20

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  1. プロローグ「旅立ち」
  2. 第一章「願い札の花火」
  3. 第二章「出会い」
  4. 第三章「鏡月姫の伝説」
  5. 第四章「デート」
  6. 第五章「白いワンピースの少女」
  7. 終章「彼女の願い」