策士の敗北
肉まんを巡る攻防の裏には秘密が隠されていた。
「コレ、もらい!」チンした四つの肉まんをレンジから取り出したその途端、姿を見せた二本の腕が二つ掴んで逃げ去った。
「ひどぉい!」出来上がったばかりのアツアツだけど、口をつければこっちのものと、かぶり付いた背中をむんずと掴む。「こら! 返せ!」
しかしもぐもぐと忙しい兄の動きは一瞬止まり、すぐに様子がおかしくなった。
口いっぱいに詰め込んだ状態で何を言いたいのか定かでないが、どうやらバチが当たったのは間違いない。
「ハズレだったみたいだね」くすりと笑う裕未を見る目が一層大きく開かれた。
「お前、やりやがったな!」兄はコップに水を注いで一気飲み。それでも強烈な刺激は消えないらしく、鼻を摘まんで必死に耐える。
「毎度毎度、同じ手を食らうと思ったら大間違いよ」
ついさっき、裕未は口が輪ゴムで縛られた袋から肉まんを取り出した。そしてちょいと水に濡らしてラップを巻くと、突き刺すような危険な殺気。狙われてるなとすぐ悟る。
僅かな手間すら面倒臭がるものぐさ者の嗅覚だけは犬並みで、食べ物を嗅ぎ付ける本能に何度泣かされたか知れない。
何しろ相手の動きは俊敏で、気付かれてしまったら最後、阻止するのはほとんど不可能だ。
なら妥協すればいいと思うだろうが、礼も言わない不届き者に用意してやるのは納得いかない。
そこで裕未は考えた。奪われるのは覚悟の上で、日頃の憂さを晴らそうと。
裕未は底に開けた小さな穴からたっぷりワサビを押し込んだ。
「べぇー、だ」涙目のまま悔しがる兄から視線を戻せば皿はカラッポ、肉まんが綺麗さっぱり消えている。
すぐに辺りを窺うと、近くでみしりと軋む音。
「はやとー!」裕未が壁に向かってひと吠えすると、案の定のそりと姿を現した弟はすでにひとつを食べ終えて、最後の半球に齧り付く。
三人兄弟は食べ盛り。こんな食料争奪戦は日常茶飯事ではあるものの、今日という今日は堪忍袋の緒が切れた。「あんた、なんで全部食べちゃうの?」
「だって、残ってたんだもん」
「私がまだ食べてないのよ!」胸ぐらを掴まれて目を白黒させる弟を、裕未は思い切り揺すぶった。
斯くして天罰はここにも下る。
「姉ちゃん、ひどいよ!」
「どっちがよ!」大袈裟な悲鳴は無視してやった。
実は”サビ抜き”なのはひとつだけ。お皿の中央にそれを置き、被せるように残りを乗せた。上から順に手を出せば、自然と罠に嵌るように……。
ただ作戦自体は成功したけど、結局自分の分は残らず仕舞い。
こういうのを勝ったっていうのかな?
「まったく、酷い目に遭った」とは去り際のセリフ。少しは思い知ったかにみえる二人だけれど、どうせすぐにケロリと忘れ、裕未のおやつに手を出すだろう。
まあ、いいか。どうせバトルはなくならない。
それにこの手は使えると証明出来た。
不要になったお皿を水に浸け、裕未はそっと二階を窺った。
***
肉まんを二つも詰め込んで、水もがぶがぶ飲んでいたから、これならしばらく大丈夫。
リビングは残った匂いが充満してるし、優秀な鼻も役には立たない。
二人が部屋に戻ったことを確認すると、スキップ足で戻った裕未はそっと冷蔵庫の扉を開けた。
肉まんはただの目眩まし。裕未にとっての”本命”は、この中に収められている。
二人は昼間、お客があった事実を知らない。知っているのは体調不良で学校を休んだ裕未だけだ。
しかも頂いた手土産はそんじょそこらにあるものじゃなく、かの有名なパニクイッシュのケーキだとママの声が教えてくれた。
何であろうとただ呑み込んで消化する、じっくり味わうってことを知らない男共。そんな輩に渡すのはあまりにもったいない代物だ。
半日休んですっかり回復した裕未は今なら何でも食べられる。
こんなわくわく感は久しぶり。
箱には白地に金の流れるような英字のデザイン。裕未は持ち手を兼ねた上蓋を左右に開いて、ぐいと中を覗き込む。
「ひゃあああ!」眩暈を覚えてふらついた裕未は思わず手を付いた。
ケーキがない。箱の中からパニクイッシュのケーキが消えている。その代わり、さっき見たばかりの肉まんがひとつ寂しく鎮座する。
やけに軽いと思ったら……。
今度こそ裕未はがっくり項垂れた。
ママは買い物に出たまま帰っていない。だから犯人は自ずと絞られた。
二人の底なしの胃袋をこれほど憎んだことはない。
ワサビを使い切らずに残したことを、裕未は心の底から悔やんで泣いた。
策士の敗北