思い出喪失

交通事故をきっかけに、私は奇妙な記憶喪失になってしまった。そして・・・

~ 思い出喪失 ~


                 (0)
 ふと目を開けると、僕を見詰める妻の顔がそこにあった。そして彼女は僕の目覚めに気づくと感嘆の声をあげた。
 「あなた、あなた、・・・ああ、あなた!気が付いたのね、・・・ああ良かった!」
 「・・・・・・」
 僕はいったい何が起こっているのか良く判らなかった。・・・何故、彼女があのように潤んだ眼で、今にも泣き出しそうな声で、そしてこの僕の手をギュッと握り締めながらそこにいるのか?・・・しかし、いったいここは何処だろう?
 「あなた、わかる?わたしのこと判る?」
 「・・・ああ、美紀だろ、・・・どうしたんだ?そんな顔して」
 僕がぼそりとそう答えると、彼女の大きな瞳から大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。僕はそんな妻の様子を不思議な感覚の中でそっと見つめた。そして彼女の憂いに満ちた表情の中に深い心労を感じ取り、僕は彼女のそんな気持ちに答えようと何気なく微笑んでみた。すると、妻は潤んだ瞳のまま、ニッコリと優しい笑顔を返してきた。
 ふと周囲に目をやると、そこはどうやら病院の個室であった。僕の身体は医療用のベットに寝かされていて、腕には点滴用のチューブが繋がっていた。
                  *
 どうやら僕は交通事故に合ったらしい。過労のための居眠り運転だったのかもしれない。自損事故のようである。自分独りで運転していた車を、道路わきの立ち木に激突させてしまったようである。そしてその時、僕は酷く頭を打ったらしい。
 何故なら、僕の身体にはそれ程の外傷はなかったものの、頭部にのみ鈍器で殴られたような打ち傷が残っていたからだ。そしてまた、どうやら僕は、この日まで一週間以上も意識が無かったらしい。
 妻はそんな僕を心配し、その間ずっと病院近くのホテルに泊まり込み、日々側に付き添っていてくれていたそうなのだ。
 ・・・だが、そうした事実に付いて、この僕は無自覚だった。いや、というより何も覚えていない。まるでその事故についての記憶がないのだ。いや、それどころか事故前の出来事についても、何等思い出すことが出来ないのだった。
 そして結局、その後いくら努力しても、やはり無理だった。何も思い出すことなど出来ないままだった。ただ、頭が酷く混乱してきて、ただ、苦痛を感じるのみだった。
 しかし、そうした記憶の喪失は決して珍しいことではないらしい。主治医の話では、強く頭を打ったショックによる一時的な記憶の混乱であろうとのことだった。
 それに別段このまま事故の記憶が戻らなくても、さしたる問題はないらしい。なにしろ僕は、自分の名も生年月日も、己が家族の名前もその構成も、また自分が勤める会社やその業務内容も、その他の自分に関する情報の殆んどを何等滞りなく記憶している。たとえ多少の記憶障害があっても、通常、時間とともに少しずつ回復していくらしい。
 だから、特別気にする必要などなかろうとの診断だった。だから、何の不安も要らない筈だった。
 ・・・だがしかし、実は、それ以外にも、自分はよほど多くの記憶を失っているだろう現実を、この僕は、その後、嫌というほど思い知らされる事となるのである。
                 (1)
 僕は程無くしてその病院を退院した。妻の運転する車で家へと帰ると、まだ幼い二人の子供達は大喜びで僕の帰宅を歓迎した。また僕の実の父母が、また義理の母までも家へ来ていて、この僕の退院を祝ってくれた。僕はそんな愛情の中に身を置いて、自分がいかに幸せな家族の中に存在しているかを知った気がした。
 日常において離れて暮らしている親類が、こうして集まることがあるならば、当然、昔話に花が咲く。そう、この日もまたそうだった。
 「祐ちゃん、覚えてる?あなた、まだ小さい頃にも車で木に体当たりしたことあったわよね。うふふ、ほんと、祐ちゃんは昔っからドジなんだから。まあ、あの時の車は足漕ぎのおもちゃだったから、全然怪我なんかしなかったけれどね・・・」
 実母がケラケラ笑いながら話していた。僕はその話にただ微笑んで誤魔化した。いや、実は全く覚えていないのだ。自分の子供の頃の逸話であろうことは推測できるものの、まるで赤の他人のエピソードを聞いている気分だった。何の実感も湧かなかった。
 その時、妻が僕の顔を覗き込むように見た。そして、やはり心配そうな表情を浮かべた。だが、僕がまるで平気であるようにニッコリと微笑み返すと、彼女は少し安心したように口元を緩ませた。・・・そう、彼女はすでに気付いていたのだ。僕の記憶混乱が実は相当深刻であろうことを!
 その後も当然、多くの過去のエピソードが皆の口から語られた。僕の若き日のことは無論、妻との結婚式の話や、子供達が生まれた日のこと、また彼等の幼稚園や小学校の入学の頃の話・・・などなど、もはや絶え間なく話は沸きあがっていった。まるでいつまでも尽きることが無いほどに話題は事欠かなかった。
 ・・・だが、・・・実は、この僕には、もはやその会話の殆んどが他人事のようであった。ある意味、まるで知らないことばかりだった。いや、そうした出来事の日時など、概要に付いては何となく覚えがあった。無論、結婚記念日も覚えているし、子供達の生年月日も、入園式や入学式の年日もちゃんと覚えている。
 だが、それなのに、僕には肝心のことが判らない。そう、その場において起きただろう些細な出来事や、皆の間で交わされたであろう会話の内容を、僕は全く覚えていないのだ。
 皆がその日、何を思い、何を話したのか?いや、それどころか、自分は何を思い、何を言ったのか?そんな当たり前のことが、全く思い出せない!判らない!記憶がない。
 ・・・そう、僕には人が当たり前に持ちえる、いわば『思い出』というものが完全に欠落していたのである。
                 (2)
 だが、退院後の僕の体調はすこぶる良かった。だからいつまでも病人のように家でゴロゴロしている訳にもいかなかった。僕は一日でも早く仕事に復帰する必要を感じていた。
 それに、妻も僕に会社に出勤することを勧めていた。・・・いや、とはいえ、それは経済的理由からではないと思う。確かに幼い子供が二人もいるし、家計は決して楽では無かったが、しかし彼女はむしろ、僕を心配して言ってくれているのだと感じた。
 僕にとって、妻は全く掛け替えの無い存在であった。彼女は僕の心を常に支えてくれていたのだ。そして彼女もまた、きっとこの僕を深く愛してくれているとの実感を、僕は常に持っていた。
 なぜなら彼女は、思い出を失った僕を、嘗て二人で歩んできたであろう人生を全く語り合えなくなってしまったこの僕を、決して責めようとはしなかった。
 どうやら事故の前とは、人格すらも少し変わってしまった感のある僕を、むしろ、いたわってくれた。優しく包んでくれた。そう、そんな暖かい心の持ち主であったのだ。真に素晴らしい女性であった。僕は彼女との間に、深い愛の結びつきを感じていた。
                 *
 僕が三週間ぶりに出社すると、同僚は皆、一様に歓迎してくれた。詰まらない自損事故を起し迷惑を掛けたであろう僕を責める者など一人もいなかった。
 「関口君、ほんとに無事でよかったよ。君が事故で入院したと聞いた時は肝を冷やしたぞ!」
 直属の上司である坂口部長がそう言って僕の肩を叩いた。
 「御迷惑掛けました!いや、申し訳ありませんでした。遅れた分の仕事、きっと頑張って取り戻します!」
 「あははは、ほんと、関口君は真面目だな。いや、そんなに気を張らなくても大丈夫だ。それより、病み上がりなんだから、あんまり無理はせんでくれよ!折角出社してくれたのに、また倒れられたのでは堪らんからな!あはははははは・・・」
 不思議な気分だった。坂口部長はやはり懐が深く信頼できる上司であるとの実感があった。多分、僕のよく知る人物の一人であろう気がした。だが、やはり、思い出せない。
 いや、顔は覚えている。人柄も記憶している。・・・だが、彼との思い出が沸いてこない。ただ、それだけのことだ。僕の病は一向に良くならない。
 この会社は、いわゆる医療分野を専門とする大企業であった。しかも、その事業規模は並ではない。あらゆる医療機器を扱っているのである。新薬の開発は勿論、CTスキャンやレントゲン装置のようなメカニカル機器、そして人工心臓や人工血管のような人工臓器の開発、またバイオテクノロジーの分野においても最先端を走っていて、正に現代の先端医療を物質的な意味でリードする一大総合企業であった。
 そしてその中で、僕は現在、脳内スキャン装置の開発に係わる研究員という立場であった。
 しかし、思えば不思議な因縁を感じずにはいられない。日々、人の脳内神経の仕組みと向き合い研究を重ねてきた僕が、今こうして自分自身が記憶障害に苦しむことになるなんて。この脳内スキャン装置の開発は、認知症の治療や神経症に苦しむ人々を助けるための研究という名目であったが、もはやこの自分こそが、その患者本人になってしまったのだろう。正にミイラ取りがミイラに成ったという気分である。
 ・・・だが、いやむしろ、このことこそ運命なのかもしれない。考えてみれば、今の僕の脳は、現在進めている研究にはもってこいのサンプルではないだろうか?もしかしたら、この奇妙な歪みを抱えた僕の脳は、人間の記憶に関するメカニズムを解析する為の有用な材料に出来るかもしれないのだ。・・・そうだ、そして、その研究が成果をあげれば、もしかしたら己が病を治す方法に繋がるかもしれない!
 ・・・ふと、自分の中で、かすかな希望のような感情が湧きあがってくるのを感じた。
                 (3)
 事故を起したあの日から、かれこれ三ヶ月が過ぎていた。仕事も順調だったし、妻や子供達とのコミュニケーションも上手いっていた。
 いや、確かに、この僕は嘗ての自分とは少し違ってしまったらしい。そう、妻も息子も娘も、何処かこの僕の雰囲気に違和感を覚えているらしい場面が何度かあった。
 ある日、8歳になる息子に「パパ、なんか変!」と言われ、酷くショックを受けたことがある。だが、そんな時には、すぐに妻が声を掛けてきてくれた。彼女は僕の脳障害を理解し、常に僕の味方をしてくれていたのだった。
 また、会社でも皆が僕に対し寛容であった。自分には記憶障害があることを告げると、皆協力してくれた。だから例え、それまでのミーティング内容を僕が忘れていたとしても、誰にも責められることが無かったのである。だから、僕は自分がいかに幸福の中に在るかを、日々実感せずにはいられなかった。
 ・・・だが、そんな、ささやかだが幸せな日常を送っていたある日のことだった。突如、嘗て無かった異変が、この僕に襲いかかって来た。
                  *
 その日は日曜で、休日だった。僕は昨晩会社の同僚と飲み過ぎていて、中々ベットから起き上がれないでいた。無論、妻はとっくの昔に起きていて、子供たちの世話をしているらしかった。
 だが、ふと時計を見れば、もう10時近い。さすがに起きた方が良い気がした。まだ二日酔いの症状は残っていて、少しばかり頭がズキズキとするが耐えられないほどではない。
 そう、仕事が休みだからといって、いつまでもぐうたらしていてはいけないと改心した。・・・だが、僕が寝室を出て、廊下を通り、パジャマのままでリビングの戸を開いた、その時だった。
 「えっ?パパったら、何やってんのよ!?・・・なんでまた寝巻きになんか?・・・もう、何なの?克を送ってくれるんじゃなかったの?」
 僕の姿を見て、妻がヒステリックにそう叫んだ。
 「は?何のことだよ。・・・送ってくって?これから何処か行くのか?」
 僕は、当然そう答えた。だが、その言葉が返って妻の逆鱗に触れたらしい。
 「さっき、あなたが自分で言ったんでしょ!私が今日のこと話したら『僕が運転してやるよ』って・・・だから頼りにしてたし、そのつもりでいたのに」
 「だから、何のことだよ?克を何処かに送って行けと言うのなら、ちゃんと送るよ。怒らないでくれよ!俺が何したって言うんだよ?」
 僕がそう言い返すと、彼女は益々腹を立てたように僕の目を、ギッと睨みつけた。
 「もういい。時間無いし、私が自分で運転していくから。公民館からは少し離れてるけど、有料の駐車場有るから、そこに停める。・・・もう、疲れているなら、始めからそう言えばいいじゃない。嫌なら、無理強いなんかしないわよ!なにも、来てた服を、また、わざわざ寝巻きに着替えること無いでしょ。・・・馬鹿じゃない!」
 普段温和な彼女が酷く取り乱していた。だが、僕には何がなんだか判らなかった。
 ・・・だが、こうしたトラブルはこの一度だけに留まらなかったのだ。そう、この日を境に、僕の周辺で理解しがたい怪奇現象が次々と起き始めたのである。
                 (4)
 翌日のことだった。今度は会社で同じようなことが起こった。昼休みの少し前だった。
 自分のデスクで、僕が必要書類に眼を通していた時、同僚の溝口が背後から、僕の肩をポンと叩いて言った。
 「よう!今朝頼んでおいたやつ、そろそろ出来たか?いや、急かす訳じゃないけど、あれが無いと夕刻の会議で困るからさあ」
 「・・・えっ、何のこと?」
 僕は驚いて振り返った。すると溝口の表情が、酷く歪んでいるのが判った。
 「何のことだって?・・・おい、勘弁してくれよ!頼りにしてたんだぜ。・・・いや、今のは冗談か?・・・あはは、そうだよな。・・・冗談だよな?」
 「・・・・・・。」
 暫しの沈黙の後、溝口は呆れ顔で首を傾げ、ポツリと呟いた。
 「・・・マジかよ。」
 ・・・いや、僕のその無言の返答に肩を落とす彼の気持ちも判らなくは無いが、本当に僕には、なんのことだか判らなかったのだ。
 どうやら今朝、溝口はこの僕と何かを話し、そしてその中で、とある書類の作成を僕に頼んでいたらしい。改めて聞くところ、確かにその内容は彼よりも僕の専門範囲であり、彼が僕に依頼したその判断は正しかったと思うのだが。・・・いや、だから、そのこと自体は別に良いのだ。・・・しかし、そんな筈は無いのである。
 僕にはそんな約束を交わした記憶など何も無い。それどころか、僕はその日、その時初めて彼の顔を見たのである。彼からの頼みごとなど知るわけもない。実に馬鹿げた話だった。・・・だが、溝口は結局、この僕の言葉を信じようとはしなかった。
 「もう、いいよ!詰まらない言い訳はいらねえから、・・・いや、別になんとも思ってないから、気にするな。お前に頼んだ俺が悪かった」
 彼は、そう吐き捨てるように言い、足早にその場を離れていった。そして、研究室に独り残された僕の心は、ただ孤独に埋もれるしかなかった。・・・酷く虚しかった。
 だがその後、自宅に帰ってからも、僕の身辺には異常があった。それは帰宅直後、自分の書斎へと立ち寄った時だった。そう、その書斎は僕以外には、たとへ妻とて侵入を禁止していた聖域である筈の場所だった。・・・だが、その日、その部屋は荒らされていた。
 部屋のデスクの引き出しにきっちりと年代別に保管されていた筈の書類が、無造作に散らかっていた。床に、そうしたファイルの一部が、ゴミのように投げ出されていたのだった。そして、それらの書類に改めて眼を通すと、やはり、その一部が紛失しているらしいことが確認できた。・・・そう、何者かに盗まれているらしい。
 念のため、僕はその他の物も調べてみた。すると、やはり無くなっている物が幾つかあった。だが、不思議なことにそれらはどれも、たわいの無いものばかりだった。日ごろ愛用していたペンや、日記代わり使っていた手帳、そして家族皆で集まって撮った時の写真などなど。・・・だが、・・・しかし、不思議なことに、現金や貴金属など、普通の泥棒が欲しがるだろう物の被害は皆無であった。
 ・・・どうにも腑に落ちない出来事だった。
                (5)
 僕はこの一連の現象について考えた。そう、僕はそもそも脳科学者である。だから、一般の庶民よりも、真に冷静かつ論理的に現実を判断できる筈である。
 前提として、言うまでもないことだが、この世の中に自分が二人いる訳がない。無論、タイムマシーンで未来の自分がやってきたとか、パラレルワールドの別の自分が迷い込んできたとか、そういう馬鹿げたことは考える必要はないだろう。
 だが、現実として、僕の記憶にないところで、複数の人物がこの僕に会っているらしい。何気なく皆に聞いてみたところ、溝口以外にも僕の知らないタイミングで、この僕に遭遇していると語る社員が他にも数人存在したのだ。
 そしてまた、僕の私物の紛失に付いてだが、このことも少し妙だ。実は、会社の僕のデスクやロッカーでも、幾つかのものが盗まれている痕跡があった。だが、どう考えても普通の泥棒の仕業ではない。その荒らし方が、やはり何処か奇妙である。金目のものには手を付けず、一見どうでもいい物ばかりが無くなっているのだ。
 また、会社で使用している自分専用のパソコンにも不審な点があった。間違いなく、他の誰かが使用した形跡があった。それは使用履歴を見れば明白だった。幾つかの重要機密事項に付いて検索している形跡さえあった。
 だが、この事こそ奇妙である。何故なら僕のパソコンの使用には多くのパスワードが必要なのだ。そして、このパスワードを知っているのは、この僕だけの筈である。誰にも明かしていないし、そう簡単判るような安易なものではないのだ。
 ・・・なんなのだろう?何故だろう?この事はいったい何を意味しているのだろう?
 ・・・いや、・・・これは、もしかしたら?
 ・・・そう、そうして自分自身を追及するうちに、僕は、ふと気付いた。
 そうなんだ!これは多分『解離』を起因とする現象ではないだろうか?
 『解離』とは、いわゆる多重人格のことである。『解離性同一性障害』といわれる精神疾患のことで、一人の人間の肉体の中に複数の人格が発生してしまう現象を言う。
 そして、それらの人格は、その時々により全くの別人であり、各々の自分が行っている行動を、全く別の物としか自覚していない。
 つまりは別人格の時の行動は、その他の人格の者には全く判らないという事だ。要するに、同じ肉体でありながら、自分がしていたことにも係わらず、その時、別人格がしたことである限り、その他の人格の中に置いては全く記憶がないのである。
 そう、無自覚なのだ。・・・総じて言えば、多重人格者は、自分が多重人格であることすら判らないのだ。・・・そうだ!この僕は、きっと、多重人格に陥っているに違いない!・・・考えた末、僕はようやく、そう気付いた。
 そう仮定してみると、殆んどのつじつまが合う。
                 (6)
 その夜、僕は今の自分に起きているだろう事実に付いてを、包み隠さず妻に話した。すると、彼女は僕の目をじっと見て、僕の手をしっかりと握って、そっと呟いた。
 「大丈夫、祐輔さん。あなたには、わたしがついてる。わたしがあなたを守るわ。何があろうと、わたしの気持ちは変わったりしません」
 「・・・ありがとう」
 僕の心は、満たされていた。素晴らしい妻を持てたことに感謝した。そして天なる神に感謝した。嘗て無いほどに幸せだった。
 だが、実は、僕の胸の内は複雑だった。・・・そうなのだ。僕の病はあれから全く改善していなかったのだ。そう、それは『思い出の喪失』の症状のことだ。
 この数ヶ月、毎日事あるごとに考え、思い出そうと努力してきた。だが、やはり、事故以前のことが何も思い出せない。子供たちとの想い出も、妻と出会い共に過ごしてきたこれまでの日々も、それどころか自分が幼少より生きてきた中で経験しただろう全てのことが判らない。
 いや、全てというのは語弊がある。僕は確かに覚えている。そう、自分が育った家の様子も、嘗て通った学校への通学路も、学校の校舎も、また日々学んだ教室の景色も、よく遊んだ公園の場所も、またその様子も、妻との結婚式での風景も、新婚旅行にいった折、立ち寄った場所の景色も・・・、ets、ets、皆今も鮮明に、まるでスチールカメラで捉えた映像のように、はっきりと判るのだ。
 だが、その空間の中で、間違いなく繰り返されたであろう日々の出来事が、会話が、ふれあいが、全く判らない。どうあっても思い出せない。そんな筈ないのに、全然イメージが浮かび上がって来ないのである。もはや何も知らないに等しいのだ!
 せめて、せめて、妻と過ごしてきた、この十数年の記憶だけでも戻ればいいのだが。
 ・・・そう、正直に語るなら、僕は彼女のことを何も知らない。愛してきた記憶も、愛されてきた想い出も、何もない。夫婦としての実感が全く持てなかった。
 ・・・ああ、不安だ。自分とは何なのだ?僕はこのまま彼女と共にいて、本当に良いのか?家族を真の意味で支えられるのか?想い出を持たない僕など、本当の家族といえるのか?このままでは、僕は『夫失格』『父親失格』じゃないだろうか?
 ・・・いや、そんなことは無い!きっと、これでいい。何も不安に思う必要などない。今を、そして明日を考えよう!
 ・・・そうだ。妻は間違いなく、こんな僕を許してくれた。そして、こんな僕を心の底から愛していてくれる。そして、今の僕は、間違いなく彼女を愛している。そして、僕は、誰よりも彼女を必要としているのだから。
                 (7)
 その数日後のこと、僕は妻と二人の子供たちを車に乗せ、妻の実家へと向った。今日、彼女達はそこに泊まってくる予定だ。
 妻の実家は現在、彼女の母親が一人きりで暮らしている。二年ほど前に彼女の父親は病死していたのだ。だから、妻はそんな母親を心配して、必ず月に一度は子供たちを連れて実家に帰り一泊してくる。それが近頃、年中行事のようになっていた。
 そしてまた僕も、これまで何度か一緒に泊まってくることもあったのだが、今回は都合が悪く、それは適わなかった。明日は日曜とはいえ、少しばかり仕事があったのだ。
 「ほんとに独りで大丈夫?何かあったら、きっと電話してね。無理しないでよ」
 ようやく実家に到着し、そして車を降りると、妻は車の窓越しから運転席の僕の顔を覗き込むようにして、そう言った。
 「あはは、馬鹿だなあ、全然平気だよ!この数日、変なことも起きてないし、きっとあれは一時的な脳の混乱だったんだと思う。心配は要らないよ。それより、お母さんをちゃんと看てあげるんだよ」
 「うん。ありがと」
 「じゃあ、明日の夕方迎えに来るから。ああ、仕事の都合で遅くなりそうな時は連絡するから。・・・じゃあ、そういうことで」
 僕はキーを捻り、再び車のエンジンを始動させた。そしてアクセルをゆっくりと踏んだ。ふと、バックミラーに眼を向けると、遠ざかっていく景色の中に、こちらへ手を振る妻の姿が映っていた。
                 *
 僕はその後、真っ直ぐに自宅へと帰った。家の駐車スペースに車を収めると、僕は足早に書斎へと向った。仕事に使う書類をまとめる為である。
 けれど、僕が我が家の玄関の鍵を開け、ドアをくぐり、靴を脱ぎ、スリッパを突っ掛け、廊下を通り、そしてその目的とする書斎へと足を踏み入れた、だが、その時だった。
 ・・・在り得ない現実が僕を襲った!
 僕は、書斎のドアを開け、部屋の中を何も思わず覗いた。
 ・・・が、その時、あろうことか僕の眼前に、彼がいたのだ!
 ・・・そう、そこには既に、僕がいた。
 彼は、その僕と同じ姿の男は、ゆっくりと僕を見た。まるで動じる様子もなく、まるで当然のような顔をしていた。その眼は、僕と完全に同じ外見のその眼は、しかし、恐ろしく冷酷そうに見えた。
 その視線に捉えられた僕の身体は、もはや微塵も動くことが出来なかった。
 ・・・もはや、言葉を吐き出すことすら不可能な程に、凍り付いてしまった。
                (8)
 僕と同一の男は、突如動いた。こちらに向って走ってきた。あっという間だった。もはや逃げる準備もしないうちに、僕は彼に突き飛ばされていた。
 そして、部屋の隅に倒れたところに、彼は追い討ちを喰らわすように圧し掛かり、二、三発拳を僕の顔に向けぶつけてきた。
 僕は必死で、その腕を振り払おうとしたが、無理だった。顔面のあちこちに激痛が走り、口の中では血の味が充満していた。鼻の穴からダラリと血が垂れるのを感じた。
 その後、僕の無気力さに気付いたのか、男は僕を押さえつけるその手の力を少しづつ緩めていった。僕はその様子に少々ホッとして、肩の力を抜いた。
 そしてぼんやりと、彼の眼を覗き込んだ。だが彼はそんな僕を、再び憎悪のこもった目で睨みつけてきた。
 「お前等の計画は全て判っている!全部、この俺が暴いてやる!このまま、何もかも、貴様等の思い通りなんかさせるもんか!・・・くそっ、気味が悪いぜ、こんなクローンなんか作りやがって!貴様ら、この俺をどうするつもりなんだ!?」
 「えっ?・・・いや、なんのことだ?・・・君は誰だ?・・・クローンて、それって、いったいなんだ?あんた、俺にそっくりだけど、君は、なんなんだ?誰なんだ?」
 僕が震える声でそう言い返すと、その男の表情がふと変わった。そしてその後、奇妙な笑いを浮かべながら僕を見つめた。
 「まさか、お前、無自覚なのか?・・・そうか、そうだったのか!だからわざわざ病院になんか入れてたのか。そうか、例の事故も作り事か。そうかそうか、それでつじつまが合う」
 「えっ?君は何の話をしてるんだ?・・・教えてくれ、君はいったい誰なんだ?」
 この僕の質問に、彼は呆れ顔を浮かべた。そして、馬鹿にするように答えた。
 「だから、この俺が本物の関口祐輔だよ。判らないのか?お前は、俺のクローンだよ」
 「えっ?」
 僕は、自分の耳を疑った。余りにも奇妙な答えだった。だが、何故だか、僕は何も言い返すことができなかった。ただただ心が振るえ、心臓が凍りつくような感覚の中に没していた。全く信じられなかったが、何故か嘘ではないとの確信みたいなものがあった。
 「全ては、会社が企んだ陰謀さ。俺は会社にはめられたんだ。いいか、どうやらお前は何も判っていないみたいだから、一応説明してやる。よく聴けよ!
 俺は特別何をした訳でもない。ただ、偶然、会社の機密ファイルを見てしまっただけなんだ。だが、その内容が、余りにも常軌を逸した内容だったものだから、つい、なんとなく、深くまで調べようと思っただけだ。ただ、それだけなんだ。
 だのに、会社はこの俺を許さなかった。いや、秘密を知り、その社会的犯罪行為を止めさせようとしたこの俺に、牙を剥いた。俺は奴等に拉致されて、危なく洗脳されるところだったんだ。きっと、この俺を廃人に変えて、その存在を隠しておいて、その代わりに会社が闇で研究していた最新のクローン技術を使い、お前を作ったんだろうな。
 そう、そうすれば確かに完全犯罪が成立するわけだからな。だってそうだろう。もしも、この俺が行方不明になったり、殺されたりすれば、警察が調べには入ってきて、きっと事が大きくなる。だが、俺そっくりのクローンを作って、そいつに俺の代わりをさせることが出来れば、そこに犯罪があったなんて事は誰にも気付かれない。
 しかも、どうやら奴等は、作り物のお前に俺の記憶を染み込ませ、本当に自分がこの俺だと思わせることに成功したみたいだ。・・・いや、しかしそんなことを完璧に出来るはずはないのだけれどな。
 おい、お前、お前は本当に、自分がクローンだってことに気付いていないのか?自分は何処か変だと、思ったことは無いのか?記憶だってそうだ。絶対に完全な記憶の刷り込みなんか無理な筈だ。どう考えたって、出来っこない。たとえあの装置を使っても、人の心までもコピー出来る訳がないんだ。
 そうだろ?・・・おい、お前、黙ってないで、何か言えよ!」
 「・・・やっ、やめてくれ!あんた、何を言ってるんだ!?僕は、関口祐輔だ!本物の関口祐輔だ!何、馬鹿なことを言ってるんだ?会社の陰謀ってなんだ?なんなんだ?変なこと、言うんじゃない!ふざけるなーっ!」
 とっさに僕は、その男の襟首に掴みかかった。そして思わず、彼の身体を激しく揺さぶっていた。もはや、自分でも自分が何をやっているのか判らなかった。
 だが、男も引き下がらなかった。逆に向こうからも、僕の首元を締め付け返してきた。そして、僕の身体はぐいぐいと後ろへと押し戻されていった。
 「ふざけてるのは、てめえの方だ!この、糞コピー人間が!ここは、俺の家だ!
 妻は、子供たちは、家族は、みんなこの俺のものだ!全ては、この俺の人生だ!想い出だ!夢の結晶だ!
 お前などに、お前などに、何が判る!懸命に人生の試練を乗り越え、必死で家族を支えてきたのは、他の誰でもない、そう、この俺だ!お前なんかじゃない!
 お前は、まさか、この俺の、この掛け替えのない、この俺の家族を奪う気なのか!?」
 その言葉の激しい響きと連動するように、男の腕の力は強まった。僕の首は万力で潰されるかのように、ぎりぎりと締め上げられていった。もはや、息が出来なくなった。
 ・・・駄目だ!このまま僕は殺される。そう、覚悟した。
 だがその時、『パシュッーン!』と、奇妙な破裂音が耳に響いた。
 すると、僕を締め上げていた腕の力が急に弱くなり、そして直後、ずるりと男の身体が僕の眼前を滑り落ちていった。見ると、床に伏した彼の背中からは、真っ赤な血液がぶくぶくと染み出していた。何がなんだか判らなかった。
 朦朧としながら、ふと目線を上げると、そこには別の男が立っていた。黒い服を着て、色の濃いサングラスをはめていた。その手には、サイレンサーらしきものを装着した拳銃が握られていた。・・・何気に、火薬の臭いが鼻をついた。
 「今見たことは忘れろ。無論、この男の言ったこともだ」
 静まり返った室内に、黒服の男の低い声が静かに響いた。だが、僕は何も言えず、ただ、そこに突っ立っているしか出来なかった。
 「奴は、余計なことをしたから死んだ。お前はするな。何もしなければ生かして置いてやる。
 ・・・なあ、判るよな。お前など、いつでも消せる。
 お前の代わりなど、幾らでも作れるんだ。」

 僕はゆっくりと彼の言葉に頷いた。・・・その通りだと思った。
 だが、思う。僕とは、いったいなんだろう?
 ・・・想い出とは、・・・いったいなんだろう?

思い出喪失

思い出喪失

突然の交通事故。運ばれた病院のベットで目覚めると、目の前には妻がいた。・・・そう、それは間違いなく、自分が今日まで連れ添ってきた愛する妻だった。そして、自宅に帰ると、そこには自分が築いてきた家族が、子供たちが、両親が待っていた。 ・・・そう、僕は間違いなく覚えている。皆は、自分の家族だ。皆の顔も、声も、景色も、そして記念日も・・・。だが、僕には、そこにあるはずの思い出が、何もなかった。・・・何も思い出せなかったのだ。 ・・・だが、その奇妙な記憶喪失の影には、思わぬ現実が隠されていた。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-09-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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