ことこと。
【1】
「いくら客がいないからって長居しすぎだっての」
水川さんはぶっきらぼうに言い放ち、丁寧とは言えない手つきで私の目の前にオレンジジュースは置かれた。乱暴に置かれたオレンジジュースが小さな粒になり、私の大学ノートの隅を汚した。が、さほど支障はないので拭き取らずそのままゆっくりノートに染み込んでゆく様を見守っていた。きちんとした制服に身を包み働いていても、薄いブルーのカッターシャツ姿で欠伸をしながら面倒くさそうに講義室でノートをとっていても、水川さんが無愛想であることは変わらない。
「俺の奢りにしとく代わりに、それ飲んだらさっさと帰れよ。」
そう言い残して、水川さんはさっさとカウンターの中に入ってしまった。背もたれにぐい、と寄りかかり、中を観察してみるも、気だるそうに煙草をくわえて本を読んでいる彼の横顔が見えるだけ。
店内には客は私を含めて四人しかいない。入口に一番近い席で一人で座り、コーヒーをすする初老の男性。窓側の席で談笑に夢中で手元の紅茶が一向に減る気配のない中年の女性二人。三席しかないカウンター席のうち二席も陣取って、学校の課題に明け暮れている女子大生である私。「お会計お願いしまーす」後ろのほうで女性の声が聞こえた。その声に反応し、レジまで向かう水川さん。気付かれないように目で追った。
「水川さん、いつバイト終わるの?」
さきほど帰った二人はお喋りに夢中だったようで、せっかく頼んだアイスティーにはほとんど手をつけておらず、グラスの氷はすっかり溶けて茶色と透明の二層に分かれていた。
カウンター越しに下げたグラスを洗う水川さんに話しかけたが、反応は予想通りのものだった。
「お前、俺が終わるまでここに居る気じゃないだろうな」
「だって水川さん、ノート返してくれないんだもの。明日講義あるんだから困るよ」
「あ。あー…」
グラスを洗う手を止めて、水川さんは視線を空に向ける。そしてすぐに私に視線を戻すと、申し訳なさが微塵も感じられない言い方で「悪い」とだけ言い残し、ギンガムチェックの布巾を持ってテーブルを片づけに行ってしまった。その動きと同時にほのかな煙草の香りが鼻に届いた。
「思ってないでしょう」
「思ってるさ」黙々とテーブルを拭きながら水川さんはそう呟く。
「じゃああと三十分だけ待ってて。そうしたら店閉めるだろうし」ちらりの入口付近の客を見るなり水川さんは小さく呟く。私も同じく初老の男性を見る。すっかりカップのコーヒーも空で、いそいそと上着を羽織る姿から、どうやらもうお帰りのようなのは容易に察することができた。
「ご馳走様」優しそうな顔つきの男性は柔らかな口調でそれだけ言い残し、コーヒー代ぴったりの金額の小銭をレジに置いて店を去った。カラン、と心地よい音が店中に広がり、店内には私と水川さんの二人だけになった。
ウエスト・エプロンを外した水川さんを確認し、慌てて私もオレンジジュースを飲み干す。空になったグラスをどうしようかと思っていたところ「洗い場に置いておいて。明日洗っておく。もう閉めるから外出てて」水川さんのその言葉に甘えて、軽く水ですすいだグラスを洗い場に置き、鞄を抱えて店の外へと出た。
しばらくして裏の勝手口から水川さんが出てきた。
「俺がラストまで仕事入ってるって言ったら、お前どうしてたの?」
風は私の右側から吹いてくる。昼間は暖かく汗ばみそうな陽気でも、夜は打って変わって肌寒さを感じる五月。薄手の茶色のストールを首に巻き、縁の黒い眼鏡をかけて水川さんは現れた。お気に入りなのか、やっぱり薄いブルーのカッターシャツを着て、こちらもやはりお気に入りなのか、裾が破けたカーゴパンツを穿いている。彼が細身だからなのか、随分余裕のあるパンツであった。みっともないから違うパンツを履いたら、と助言しても聞く耳を持たずに履き続けている。水川さんは私の返事を待たずにポケットに入れてある携帯音楽プレーヤーを取り出し、ぐるぐるにまかれたイヤホンを解き、きれいに巻きなおすと再びポケットにしまった。
「まあ、いいや。はい、これ。ノート」頭に軽い衝撃が走る。「痛い」反射的に発した言葉は嘘だった。ぽんぽん、とノートで頭を軽く叩かれたくらいで、私の石頭は痛みなど微塵も感じない。
「明日の二限、教室どこだっけ?」
「二三〇二。いい加減覚えて下さい」
にいさんぜろに、ね。私の右側にいた水川さんはそう呟いて煙草に火をつける。そして何も言わず無言で私の左側へと移動した。彼の口から出る煙を目で追う。煙は彼の左側へと飛んで行った。
以前私が、煙草の煙が苦手だ、と話したことを彼は覚えてくれていた。思わず私は彼の顔を凝視する。
「なんだよ」
一重まぶただが決して重たそうでない涼しげなその目元は水川さんの雰囲気にぴったりだった。マッチ棒に手と足が生えているような体型。最後に染めたのはいつなのだろう、毛先五センチ程度だけ茶色に染まっており、あとはほとんど真っ黒の髪。前髪は左半分を覆っているせいで、露出しているのは右目だけだ。「こっち見んな」ふうー、と彼が夜空に煙を吐くと、猫っ毛である髪もふわりと動く。
「いいなあ、水川さん」羨ましそうに私は呟いた。
「なにが」「その髪が」「はあ?」
一瞬の沈黙の後。水川さんは、言っていることが分からないといったような表情で空いた手で自分の髪に触れる。髪の感触を確かめるようにその細い指で髪をいじる。
「どこがよ。こんなぱさぱさの髪」
「全然じゃん。私の髪、硬いし」
水川さんを真似て、胸辺りまで伸びた髪をいじる。先週くらいに美容院に行き毛先とさよならしたばかりだったので、傷みはさほど気にはならないものの、触ると硬い自分の毛質に嘆く。
「別にはげなきゃなんでもいいだろ。髪なんて」
「それを言ったらおしまいじゃないですか」
水川さんは煙草の吸殻をご丁寧に携帯灰皿に捨てる。茶色の革製の携帯灰皿は使い古した感がよく出ていて味のあるものだった。
「お前帰れる?」
「何言ってるんですか。まだ十時過ぎ。帰れるに決まってるじゃないですか」
とんとん、と腕時計の付いていない手首を指さして私は笑った。
「ついてねーよ、時計」
呆れたように水川さんは笑う。今度はちゃんと腕時計の付いた左手首を私に見せて、同じようにとんとん、と指さした。
「それじゃあまた」「おう。また明日」
また明日も顔を合わせる。特に別れを惜しむこともなく、私たちは家路についた。
【2】
翌日、机に突っ伏して眠っている水川さんを見かけた。
始業時間にはまだ早いせいか、教室に座る生徒の数は疎らである。こんな早い時間から教室にいるような人間は、大抵が真面目で学習意欲のある生徒なため、後ろから三番目の一番壁際に座り、机に突っ伏して眠っている彼は余計に目立つ。
眠っている彼を起こさないように、いつものようにそっと隣に座る。腕と髪の間から彼の表情、と言っても目元のみが垣間見える。伏せた睫毛の長さに驚く。ホットビューラーを使う時のように、無意識に自分のまつ毛に人差し指を添えてみた。どうやらまだ起きそうにもない。
しばらくすると、教室内に生徒が増えてざわついてきたせいか、眠りから覚めた水川さんは不機嫌そうに顔を上げた。
「あ、やべえ。ノート忘れた」
目を覚まして早々、カバンの中を漁り始める水川さん。探していた筆記用具が入っていなかったのか、軽く舌打ちしながら床にカバンを置く。「ノートどころか筆記用具すらねえ」くしゃくしゃと頭をかく。何しに大学に来ているんだろうこの人は。
「シャーペン貸しましょうか?」
「いや。ノート取らないからいい」再び机に突っ伏し眠る体制を作り始めたため、いつもよりもくぐもった声で水川さんはそう言った。
良いわけないだろうと思いつつ、水川さんにノートを貸すことであろうと予想し、ノートが汚いと水川さんは文句を言うため、自分勝手だなと呆れつつもいつも以上に丁寧に板書を取るように心がける。そう決意した矢先、突如薄暗くなる教室。
幸運なことに今日はホワイトボードに映し出されたスライドを見ながら教授の話を聞くのがメインだったため、手を痛めずに済みそうだった。教室の電気が消えると同時に眠り始める学生がちらほら。こっそり後ろのドアから出ていく学生も見受けられた。不真面目な学生ばかりだな、と思いながらシャープペンシルから手を離し、微動だにせず眠る水川さんをちらりと見た。彼も不真面目な学生のうちの一人だ。
私はなんで彼と一緒にいるんだろう。今までの私だったら絶対に関わることのないような、傍に寄ることなんてありえない、そんな男なのに。
【3】
黒いスーツだと喪服みたいになっちゃうからグレーにしようか、という姉の提案を鵜呑みにした。インナーのシャツはベビーピンク。いくらなんでも可愛すぎるんじゃないかと姉に訊ねたが、どうせ桜が満開の中での入学式なのだから大して目立たないから大丈夫、とのこと。何が大丈夫なんだろうと疑問を持ちつつも、姉の進めるがままスーツ一式を購入した。
初めてのスーツ。慣れないストッキングとパンプス。染めたばかりの茶色の髪と、空を舞う桜の花びらがシャツにくっついても、きっと分からないベビーピンクのシャツ。
いわゆるサークルの勧誘だろうか。入学式が終わると同時に、講堂の外には在校生がすごい勢いでチラシを渡してくる。テニス、フットサル、バレーボール、映画研究。量が量なだけに、こちらの承諾なしに勝手に腕の上に置いてゆく人もいて、人混みを抜け出したころには両手一杯のチラシ。入学式が終わったら両親と待ち合わせしようかと話していたものの、とてもじゃないけれどこの状態では見つけ出せそうもない。仕方なく鞄から携帯電話を取り出し、リダイヤルを開く。
「おい」
電話をしようと人混みから少し離れたところで誰かに話しかけられた気がした。人混みを離れたといっても、学内には相当な数の人間がいたために、一体誰に話しかけられたのか私には分からず、二、三度周囲を見回してみても、声の主は発見できなかった。仕方なしに足を歩み始めたと同時に、左足首に痛みが走る。
「痛っ」 思わず立ち止まり、その場にしゃがみ込んだ。
左足首に目を向けてみると、アキレス腱のあたりから血が滲んでいるのがわかる。履きなれないパンプスを長時間履いていたせいで靴連れを起こしていた。ストッキングも少し破れてしまっていたためもう使い物にならない。鞄の中を漁り、絆創膏を探す。絶対足が痛くなるから持っていきなさいよ、と姉の助言に素直に従っておいて良かったと思う。
「おいってば」
その瞬間、頭上から声が聞こえた。先ほど耳に届いた声と同じだった。
ただ逆光で顔がよく見えない。返す言葉を探していると、彼はすっと座り込んで、私の左足を見る。次の瞬間には、私がどうしてしゃがみ込んだかのか理解したような口調で話し始めた。
「あー、見事な出血。絆創膏あるの?」
「あ、あります。けど」
鞄から絆創膏を取り出すと、彼はそれを私の手からぱっと奪い、靴を脱ぐように命じ、それに則した。「ストッキング脱ぐわけにもいかないだろうから、応急処置だけど」と言い、ストッキングの上から絆創膏をバツ印に二枚重ねて貼った。どうせゴミ箱行きのストッキングなため、上から絆創膏を貼ってしまっても何ら問題はなかった。寧ろこの痛みが少しでも緩和されるのであればストッキングの一足や二足、どうってことない。
「すみません。ありがとうございます」お礼を言った時には彼はもう人混みの中へ歩き始めていたため、見失わないように慌てて彼を追いかけようと立ち上がる。
「ま、待ってください」
左足に走る痛みを我慢しながら、桜吹雪の中に消えていった彼を小走りで追いかけた。そんな私に気付いたのか、くるりとこちらを振り返った。
「あーあ、せっかく絆創膏貼ったのにそれじゃ意味ねえじゃん」
彼は呆れてそう言い放った。自分の足元を見る。先ほど貼ってもらった絆創膏は見事によれよれだった。
「すみません。でも、お礼言わないとって。先輩何年生ですか?何学部の方ですか?サークルとか入ってますか?」
春の暖かさの中、小走りしたせいか少し汗ばむ。息を切らしつつ勢い任せに色々な質問をぶつけたことを今でも後悔している。そんな訳はない。
「ぶ。そんないっぺんに聞かなくても。それだけ聞いておいて名前聞かねえのかよ」
ああ、そうか、名前。大事なことを聞きそびれていた。それに気付いた瞬間の私の表情を見て、切れ長の目が更に細くなる。口角が上がり、薄い唇の隙間から歯が見えた。
初めて見た彼の笑顔。正直きゅんとするような笑みだった。一瞬だけど、思わず見惚れた。
「水川浩介。留年の危機と常に隣り合わせの文学部二年。カフェサークルの宣伝部長」
ドラマや映画ではあってもおかしくないような、実に在り来たりな出会い。平凡な設定だからこそ、自分がこんな経験するとは微塵も思ってもいなかった。フィクションの世界だけでの出来事とばかり思っていたから。
春風に彼のくせ毛がふわりと靡いた。
【4】
水川さんに連れられて、気が付いたら喫茶店【夕】の前だった。
ツタが巻き付いている壁。毛繕いする黒猫。赤いエナメルの首輪をしている姿からして、どこかの飼い猫であろう。ドアの隣に立てかけている手作り感あふれるボードには「本日臨時休業」の白い文字。
「俺のバイト先のカフェがたまり場なだけで、別に何をするわけでもなくて、たまーに遠出してカフェをはしごするくらい。コーヒーとかの知識なんて皆無だよ」
そう言い放ちながら、店の扉を開く。お馴染みのカランという音が鳴り、人が入ったことを知らせる。恐る恐る中に入り、店内を見渡す。それほど広くはなく、むしろ狭いとも言える店内には四人掛け一つと二人掛け二つのテーブル席が八席、それにカウンター席が三席。大きめのテレビにはわたしが観たことのない字幕付きの洋画が小さなボリュームで流れていた。
ふと一番奥の席でわいわい騒いでいる男女数名が目に入った。
「ほら。うるせーのがいるでしょ。あれ」
くいと顎で奥の席を指す水川さん。彼らがカフェサークルの人たちだということは私にもすぐに分かった。水川さんはすぐに歩みを速めて、彼らの元へと向かった。彼の登場に気付いた彼らは、待ってましたとばかりに揃っておお、と声を上げた。
「おっ、水川ちゃん。やっと帰ってきた」
「どうせ可愛い新入生ナンパして引っ掛けたりしてたんでしょう」
「あれ?」テーブルの前に立ちながら、彼らと談笑する水川さんの背中を見つめている私に気が付いたのか、少し幼さが残る顔立ちの男の子がこちらを見てきた。がた、と音を立てて椅子から立ち上がり、大きな目を見開いてこちらに近づいてくる。彼も黒いスーツに身を包んでいるため、私と同じ新入生であることが容易に想像ついた。
「水川さん、本当に引っ掛けてきちゃったんすか?」
その言葉に、談笑していた水川さんの首から上だけがこちらを向いた。入ってきたばかりの一年生にからかわれたのだから、怒っているのではないかと一瞬ひやりとした。表情を変えることなく、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「そ。絆創膏ナンパ。これからよろしく」 隣に並んだ水川さんはぽん、とわたしの肩を軽く叩くいて笑った。
水川さんとの出会い。これが最初。
ことこと。