おにぎりと花束

おにぎりと花束

お一人でも読んで下さる方がいらっしゃるなら、再生の思いをこめて、人生の哀歓を綴りたい。

九十三歳のスピットが書く移ろふ愛の形

何もかも変わった。目を見張るばかりだ。
 見渡す限り、田んぼは住宅街になり、畦道は、広い道路になっている。
 タクシーから見る、かつて通った中学校も、
三階建ての立派な校舎になっている。
 故郷といっても、肉親は誰もいない。
 両親の墓も、既に、住んでいる地元の寺に移してある。
 帰郷の目的は、特にない。
 しいていえば、気紛れに、物見遊山の足をのばしたといおうか。
 だが、生まれて、育ったところだ。
 思い出はある。懐かしさもある。
 商店街の入口で、タクシーを降りる。
 子供の頃は、肩が触れ合う程、賑わっていた通りも、シャッターをおろしている店舗が多い。大手スーパーの進出で、この地域も活気がない。
 至るところに、市長選挙のポスターが貼ってある。
 先程、逢ったパチンコ店の息子の写真も大きく出ている。
 料亭の玄関先に、紫陽花の植え込みがあった。
 微風に揺れる薄青色の花を眺める。
 気持が落ち着く。
 店のほうは、昼食時のせいか、客の出入りがあるが、離れの座敷は森閑としている。
 ハナが待っていた。
「待たせたね。一回りしてきたんでね。遅くなったんだ」
「いきなり、電話を寄こして来るんですもの。ビックリしたわ」
「ハハ・・・急に、ハナちゃんに逢いたくなってね、予定を変更したんだ」
 仲居が、おしぼりと料理を運んでくる。

「乾杯しょう」
 杯を上げて、目線を合わせる。
「ハナちゃんは、年を取らないね。俺達と同じ年齢に、とても見えないね」
 互いに、還暦が過ぎている。
 きめの細かい色白の、化粧っけのない素顔や、きゃしな小柄な身体は、若々しい。
「お口が上手ね。でも、逢えて嬉しいわ」
 昔の名前でいう。
「ハナちゃんは、幸せに暮らしているかね」
 奈良漬け一切れでも、顔が赤くなるハナは、酒が飲めない。
 並んでいる料理を美味しそうに、食べている。
 自分だけが、杯を重ねる。
 時々、お酌をしてくれる。
「二人の子供は、結婚して別居しているので、もう、心配はないのだけれど・・・」
 といって、一寸、顔を曇らせる。
「主人が、病院通いをするようになってね。少し、心細い心境よ」
「そうか、年を取ると、どうしても身体に故障が出るからね。ハナちゃんは、元気そうで安心したよ」
「有難うね。二人に逢って来たの?」
「うん。忙しそうにしていたよ。二人共すっかり、腰が低くなって、愛想がよくてね。驚いたね」
「明後日に、投票日がせまっているから、必死なのよ。中学の同級生のところにも、何度も挨拶に来たと、皆、いっていたわ」
 ハナは、笑いながらいう。
 食品会社の社長の娘と、結婚していることは、分かっていたが、パチンコ店の息子が市長に立候補していることは、帰郷して初め知った。
 自分達四人は、中学の同級生だ。
 中学を卒業して、半世紀が経っている。
 親しい仲間というよりも、学業を競い合った間柄だ。
「ハナちゃんの他は、誰にも逢うつもりはなかったんだがね。ポスターを見て、急に、彼の顔が見たくなって、選挙事務所に寄ったんだ」
 自分を見て飛んで来た社長の娘は、長い髪を後ろに、キリッと束ね、必勝の鉢巻姿だ。
 痩せていた身体も、細面の顔も肉付き、どっしりしている。
「まあ!何故、来るのを連絡しなかったのよ。今日、明日は、天下分け目の戦場よ。二、三日、滞在出来るんでしょ?選挙が終わったら、ゆっくり、積もる話がしたいわ」
 相変わらず、高飛車にいいながら、キビキビと、支援者やバイト達に指図している。
「長居は出来ないんだ。この分じゃ逢えそうもないね。選挙カーで走り回っているんだろう?」
「一旦、昼食に戻るわ。午後からの打ち合わせもあるからね」
 と、いっているうちに、市長候補者のタスキ姿を先頭に、人々が賑やかに喋りながら入って来た。
「おお!暫くじゃないか、急に、どうしたんだ!」
 懐かしそうに、傍らに寄ってくる。
「ポスターを見て、逢いたくなったんでね」
「ゆっくり出来ないか、お互いに、近況を話したいな」
 と、いって、
「俺もお前も年を取ったが、顔は、昔の面影があるな。ハハ・・・」
「ハハ・・全くだね」
 半白の頭を見合わせて笑う。
 細かった長身は、小太りになり、神経質そうだった顔に、柔軟な表情を浮べて、貫禄が有る。
「残念だが、ハナちゃんに逢ったら、夕方迄には、ここを発つことにしている」
「そうか、名残り惜しいな。だが、又、逢えるさ。今、この有様だ。仕方ない。ハナちゃんによろしくな」
「ああ、頑張れよ!」
 と、握手を交わす。
 彼の妻で社長の娘が駆けて来る。
「ご免ね。折角来てくれたのに、ゆっくりして貰えなくて、本当に済みません。せめて、これだけでも持って行ってよ」
 事務所の片隅に積んであるカツサンドイッチを、二つ取って差し出す。
「縁起をかついでのカツサンドよ。食べてね」

「有難う。昼は、ハナちゃんと食事をすることになっているのでね。気持ちだけ貰うよ」
「そう、分かったわ。かえって荷になるわね。ハナちゃんにくれぐれもよろしくね。あなたからも一票、頼んでね」
 と、いわれたという。
「二人共、人柄が変わっていたでしょ?中学の同級生達も、初めは、不思議がっていたの。だって、あんなに気位が高くて、横柄だった二人が、誰にも愛想がよくなって、優しくなったのですものね」
 それが、彼が県会議員の選挙に立候補して、やっと、態度が豹変した理由が分かったのだという。
 生意気なパチンコ店の息子、意地悪な社長の娘と、級友達から陰口をいわれていた二人は、有名な私立高校に進学する。
 ハナは、公立高校に入学する。
 パチンコ店の息子は、大学を卒業すると、病気で倒れた父親のあとを継ぐ。
 目先の利く彼は、みるみる商才を発揮して、県内に二十数件の店を広げ、今では、県のパチンコ王と迄いわれている。
 食品会社の社長の娘の方は、父親や兄が、時流に乗り、県内はおろか県外迄、スーパーのチェン店を増し、父親は亡くなったが、社長になった兄は、地元の名士だ。二人は、世間の予想通り、商売が軌道に乗り出した頃、結婚する。
 子宝に恵まれなかったが、仲の良いおしどり夫婦として、選挙に有利だった。
 県会議員に当選すると、土地を市に提供して、保育所や老人ホームを増設させて、待機児童や、一人暮らしの高齢者のために尽くした。
 今度、市長選挙に立候補したのも、福祉に熱心に取り組んだ実績があったからだ。
 馬鹿にしていた中学時代のハナや、級友達のところに出向き、飼い猫の頭迄撫でて、
「みんなのために働くから、よろしく頼むよ」
 と、頭を下げ回っていたと、ハナがいった。
「覚えている?中学三年生の期末テストの時、あなたは男子で一番に、私は女子で一番になったでしょ。その時、社長の娘が『貧乏人は、せめて、テスト位、一番にならなくちゃね』と、取り巻きの級友等と大笑いしたのよ」
 傍にいたパチンコ店の息子達のグループも、「貧乏人なんか相手にするな。お前達迄、貧乏人になるぞ!ハハー」
 と、貧乏人を連呼してはやしたてた。
「私は、口惜しかったけれど、家が貧しいのは本当だったから、何もいえずに、下駄箱の傍で泣いていたら、あなたが来たのね」
「当時のことは、今でもハッキリ思い出すよ。丁度、休み時間で、校庭に出るつもりで、下駄箱のところに行ったら、ハナちゃんが、しくしく泣いていたんだ」
 どうしたんだと聞いても、
「ううん、なんでもない」
 という。
 女生徒が二、三人、そろりと寄って来て、
「社長の娘や、パチンコ店の息子達が、貧乏人の癖に、テスト位しか勝てないのかと、皆して笑ったのよ」
 と、口々にいう。
「また、あの二人か!」
 聞くなり、運動場に飛び出した。
 校庭で、二人を中心に、グループ同志が、キャキャと大騒ぎしている。
「おい!お前達、ハナちゃんに貧乏人といって笑ったのか!」
「ああ、いったさ。それがどうした!」
 パチンコ店の息子は、両肩を傲然とそり返す。
「お前も貧乏人だろうが!」
「なんだと!俺が貧乏人?笑わせるな!俺の父親は、市の一番の多額納税者なんだぞ!」
「税金を納めているのは父親だ。お前は、親に養われている扶養家族だ!だから、お前も貧乏人なんだよ」
 パチンコ店の息子は、青白い細面の顔を真っ赤にした。
「じゃ、その意味なら、お前も貧乏人だな」
「ふん、そこがお前と違うところさ。俺の家も金がないが、俺は牛乳配達をして働いている。毎月、収入があるんだ。お前より、ちょっとは金持ちかも知れんなハハ・・・」
 大声で、笑ってやった。
「よくもそんな屁理屈を並べたな」
 パチンコ店の息子は、腕捲りする勢いで、詰め寄る。
「本当のことをいわれて口惜しいか!今度は、取っ組み合いをする気か!」
 制服の上着を脱ぎ捨てたのを、ハナが手早く拾う。
「止めて頂戴。私、なんとも思っていないのよ。お互いに勉強仲間でしょ」
 自分もハナも、頭はいい方だ。努力もする。テストは大抵、どちらかが一番になることが多い。
 それが口惜しいパチンコ店の息子や、社長の娘は、自分やハナを敵視する。
 ハナは、芯はしっかりしているが、おとなしい優しい性分だ。
 級友達から、ハナちゃんと名前を呼ばれて、尊敬されている。
 自分も、バイトで忙しくて、部活はほとんど出来ないが、クラスでは人気のある方だ。
 社長の娘やパチンコ店の息子のグループが、ハナに言い掛かりをつけて、意地悪をしていたことを知っていた。
 折がったら、二人をとっちめてやりたいと、
日頃から思っていた。
「ガリ勉で一番になるのが、そんなに偉いのか!」
 と、尚も寄る。
「残念だが、ガリ勉する程、暇がないんだ。バイトで忙しくてな。お前達こそ、勉強の虫と違うか!二人共、家庭教師に学習塾通いに、大忙しいだろうが!ハハ・・」
 又、大声で笑ってやる。
「何を!」
 と、彼に腕を掴まれる。
「止めなさいよ。こんなひとに勝ったって、誰も褒めないわよ。嫌らしい!」
 顔をしかめて、社長の娘が彼を引き止めた。
「嫌らしいとはなんだ!バックなしの一対一の勝負だ。お前こそ引っこんでいろ!」
 パチンコ店の息子の胸ぐらを突く。
「済まん。口が過ぎた。謝る」
 急に、頭を下げる。掴んだ腕の逞しさに驚いたのだ。
大男でないが、がっしりした体格だ。
 毎朝、牛乳ビンの入った重い木箱を、トラックから下ろして、鍛えた腕だ。
 ひ弱な身体ではとても、勝ち目がないと利口な相手だ。
 仲間の前で恥をかきたくない。
 人一倍、見栄っ張りの息子だ。
「口が過ぎた?何時も口が過ぎて、ハナちゃん達に意地悪をしているんだろう?今日は許さん!皆に代わって勝負してやる。お前が負けたら、絶対、今後、おとなしくすると皆の前で誓えよ」
「誓うよ。勘弁してくれ。ハナちゃんのいう通り、俺達四人は勉強仲間じゃないか。許してくれ!」
「ふん、許したくないね」
 と、ぐいと又、強く胸許を押す。
「止めろ!相手は済まない、許してくれと謝っているんだ。此の辺で手を引け!」
 担任の教師が背後に来ていた。
 生徒の一人が職員室に知らせたのだ。
「それからね、あの二人は、よそよそしいながらも、私達と対等につき合うになったのね」
 ハナは箸を置いていた。
 自分も何時の間にか、杯から手を離している。
 ハナと、中学生の頃の話をしていると、年甲斐もなく心が躍る。
「あの頃のことを思うと懐かしいわ。三年生の春の運動会の時ね、グランドを一周するマラソン競争で、あなたは先頭を走っていた。パチンコ店の息子は、運動神経が駄目な方だけれど、負けたくない一心で、中程を走っていた。社長の娘の方は足は速いが、彼を引っぱるように横を走っていたのよね」
 だが、ハナは、途中で転ぶ。
 もともと、ハナは体操は得意でない。
 倒れたのに気付いて、後ろに下がり、ハナを起こした。
「ハナちゃんは、その時のことを覚えているかね?」
「よく、覚えているわ。あなたは私の手を取って、一緒に走ってくれたのよ」
 二人は、ビリでゴールした。
 見物席の父兄達も、先生方も、級友達も、一せいに拍手した。
 パチンコ店の息子と、社長の娘は、一等と二等になって、飛び上がって喜ぶ。
 だが、拍手が自分達でないと分かると、口惜しがる。
「ビリで一等になったのが、そんなに嬉しいか!」
 と、仲間と笑った。
 後で、担任の教師が
「友達が転んで一番になって喜ぶ人間は、さもしい奴だ!頭がよくても品性のない者は最低だよ。お前達は上等な人間だ!」
 と、自分とハナを褒めた。
 運動会の昼食は、中学生等は、誰も親や知人の傍に寄らない。
 勝手に、バザー券で弁当や、出店でパンやおでんを買って、仲の良い友達同士で食べる。
 葉桜の樹の下で、ハナがひっそりと弁当を開いていた。
 ハナの姿を見付けて、傍に行く。
「ハナちゃんのおにぎりと、俺の弁当と交換しないか」
「このおにぎりでいいの?」
 のり巻すしや、かまぼこや、卵焼きなど、色どりよく並べてある折詰弁当を見ていう。
「伯母さんはケチだからな。量が少ないんだ。弁当は何時も綺麗に作ってあるけれど、お腹いっぱいになったことがないんだハハ・・」
 ハナのおにぎりは、美味かった。
 梅干し入りと、おかかにゴマ塩をふってあるだけだが、二つ共、伯母の作るにぎりめしの、二、三倍もある程大きい。
 あの時は、久し振りに食事をした気がしたというと、
「そんなに、あのおにぎりが美味しかったの?でも、あなたの巻すしも美味しかったわ」
 と、懐かしそうにいう。
 あの頃のハナは、顔も身体付きも、ふっくらとして可愛い感じがした。
 今は、全体が細っそりして、優しい品のいい奥さんになっている。
「三年生の時の担任の先生、どうしていらっしゃるか知ら?」
 ふと、思い出したようにいう。
「ああ、先生はお元気だよ。ハナちゃんは、何も知らなかったんだね。先生は、自分達が卒業してから、他の中学校に転勤になってね。定年後ね、実は、うちの会社の総務課に入社して貰ってね、社員の指導をして貰っていたんだ。お年を取ってからは、先生の代わりに、大学を卒業した息子さんが、、今は、会社の経理を一切仕切っている」
「まあ!そうなの?本当に先生は、何時も私達を庇って下さったわね。もう、おいくつか知ら?」
「ああ、九十歳におなりだ。元気でね、毎朝、近くの公園に、夫婦で散歩なさっているがね」
 我が家の隣に、先生夫婦は息子一家と暮らしている。
 無我夢中で、ハナの手を握って走った運動会のマラソン競争!
 ビリでゴールした時、ハッとして手を離したが、あの手のぬくもりを思い出すと、胸が熱くなる。
「懐かしいわ。初めて男の子に手を握られて、恥ずかしいよりも、走らなくちゃ、戻って手を引っぱってくれたあなたに、済まないという気持ちで、本当は、足が痛かったのだけれど、我慢して走ったの」
 遠い記憶に、ハナの目がうるむ。
 クーラーが利き過ぎているのか、口の中が渇く。
 仲居を呼んで、ビールを注文する。
「何か、食べたいものをいいなさいよ」
「お腹はいっぱいだけれど、冷たいジュースが飲みたい」
 というハナのために、ジュースと果物を頼む。
 運ばれたビールをハナが注ぐ。
 一気に飲む。
 ハナは、オレンジジュースをストローで、チュチュ吸っている。
 ハナの素直な可愛いらしい様子に、思わず笑いが込み上げる。
 パチンコ店夫婦には、苦い思い出がある。中学を卒業して、二十年近く経つた頃、伯母が病死した。
 葬儀のため、帰郷する。
 伯母には、仕送りをしていたが、一度も伯母のところには戻らなかった。
 両親が早く亡くなり、子供のいない伯父夫婦に育てられた。
 会社勤めの伯父が、突然、交通事故死をして、義理の伯母と暮す。
 伯母は、悪い人間ではないが、子供を生んだことがないせいか、しつけは厳しかった。
 実の親だったら、これ位のことは許してくれそうなことでも、決して、甘えさせてくれない。
 伯母のいうことは正しいと思っても、負けん気の強い自分には、居候のような生活が辛かった。
 中学生になると、牛乳配達のバイトをして、学費や生活費を伯母に渡した。
中学を卒業すると、迷わずに就職を選ぶ。
 担任の先生が
「高校だけは出ておけ。市の奨学金の手続きをしてやる。足りないところは、今迄通りアルバイトをしたらいいんだ。困った時は、先生も応援してやる」
 と、何度も高校に行けとすすめた。
 早く、伯母の許を離れたい。
 働きながら、勉強するというと、
「決心は固いな。お前ならどんな困難にも負けないだろう」
 といって、東京の知人の町工場の社長に、紹介状を書いてくれた。
「高校だけは行かせてくれと、頼んであるからな。身体に気を付けて頑張れ!」
 と、励ました。
 上京する時、家を出るのを反対した伯母はこなかったが、JRの駅に、ハナと先生が見送りに来た。
 パチンコ店の息子はこない。
 社長の娘が、電車がくる寸前、車で駆けつける。
「出発の日を忘れていたのよ。見送りが遅くなってゴメン!これ、お祝いよ」
 色どりの美しい花束を渡す。
「お腹がすいたら食べてね」
 ハナがおにぎりの包みをくれたが、花束は、恥ずかしい程、華やかで大きい。
「私のこと、忘れちゃ駄目よ。早く、お金持ちになってね」
 耳許にささやいた。
 工場の寮に入り、先生が手続きしてくれた高校に入学する。
 社長に、人を見る目があったのか、それとも、先生の紹介状を信用したのか、高校から大学迄卒業させてくれた。
 その頃、景気のよかった大企業も、だんだん、不景気風が吹き始めると,下請けの町工場は、ひとたまりもなく、倒産の危機に落ちる。
 大学の工学部に在学中から考えていた、今迄以上に精密な音波装置の医療機器を苦労して開発して、特許を取る。
 これが、町工場から大手メーカーの下請けを離れ、独立した会社に成長させる切っ掛けになる。
 経営が軌道に乗り、社長は会長に退き、二代目社長になる。
 郷里の社長の娘とは文通していた。
 パチンコ店の息子とも、時折、手紙のやりとりをしていたが、互いに、多忙な時期でもあったせいか、何時となく音信が途絶える。
 携帯電話のない頃だ。社長の娘は、恋文めいた手紙を始終寄こす。
 ハナとは上京後、暫く文通していた。
 次第に、会社の経営が難しくなり、工場が閉鎖になる瀬戸際の時期で、ハナへの手紙がおろそかになる。
 ハナの方からも、便りがこなくなっていた。
 多忙な仕事の合間も、ハナのことが気になった。
 ハナちゃんはどうしていると、社長の娘から電話があった時聞いた。
 ハナちゃんは、とっくに結婚して子供も生まれて、幸せに暮らしていると社長の娘がいった。
 ハナが結婚していると知って、呆然とする。
 中学生の頃から、自分とハナは仲良しだった。二人共、内気な性格だ。
 恥ずかしくて、好きだと口に出せなかったが、将来、結婚すると、暗黙の仲だった。
 しかし、社長の娘は、二人がまだ誰とも結婚していないのに、嘘をいって巧妙に仲を引き裂く。
 ハナは結婚して子供迄生まれて、幸せに暮らしていると、彼に知らせ、ハナには彼は好きな女性が出来て結婚したわ。中学時代の友達のことなどは、すっかり忘れてるのよと、告げ口した。
 長い間、看病していた父母が相次いで亡くなると、ハナは身心共疲れ果てていた。
 中学生の頃から思っていた相手から、便りがなく、淋しい。
 社長の娘は、彼は好きな女性と結婚したわよ。社長さんになると、心が変わるのねと冷笑する。
 彼が、結婚したから、手紙がこなくなったのかと、ハナは思う。
 彼も、ハナが結婚したために便りを寄こさなくなったのだと思った。
 互いに、境遇が変わったために、心ならずも音信が途絶えたことが別れの大きな原因になった。
 社長の娘は、最近、電話も手紙も寄こさなくなっている。
 何時も、暇にまかせて、長い熱っぽい手紙がきた。
 自分と一緒になりたいと、切々と長い手紙がくる。
 ハナは、人妻になっているのだ。ハナのことはきっぱり、諦めて社長の娘と結婚しようと考えはじめる。
 自分は、社長の娘がお金持ちになってね。大きな会社の社長さんになってねという、条件を満たしている。
 金のことはどうにもなる。
 会社は超一流ではないが、世間に名の通った機械メーカーだ。
 パチンコ店の息子と相思相愛の仲だと思っていた社長の娘が、自分との結婚を望んでいる。
 自分を見下しているパチンコ店の息子の傲慢さを挫いてりたいという気持が心の底にある。
 社長の娘は、初めは、結婚などは考えてもみなかったが、中学生の頃からハナのことになると、目の色が変わる彼を、ハナから引き離してやりたいという、やっかみから、いろいろと心にもない思わせ振りの手紙や電話を寄こす。
 会社が大きくなり、社長になった彼を男らしいと思うようになり、彼と結婚したい気持ちになる。
 ところが、パチンコ店の息子が景気がよくなり、パチンコ王と迄いわれるようになる。
 もともと、好きな相手だ。相性もいい、パチンコ店の息子に求婚されると、社長の娘はあっさり、承諾して結婚する。
 さすがに良心が咎めて、ラブレターまがいの手紙は出さなくなった。
 パチンコ店の息子は、商才は負けないが、常に自分より上にいる彼が、面白くない。
 社長の娘が、ハナとの仲を引き裂いたことも知っていた。
 さんざん彼やハナの心を掻き乱したあげく、結局、自分との結婚を社長の娘は選んだ。
 少しは、俺の方が優位かと、心の中で笑っていた。
 久し振りに故郷に帰り、伯母の葬儀を済ませて、改めて、パチンコ店の息子と社長の娘に逢った。
 二人は、既に結婚していた。
「あなたから電話や手紙があまりこなくなったでしょ。きっと、恋人が出来て結婚したと思ったのよ」
 と、社長の娘は平然という。
 パチンコ店の息子は、
「結婚式に来て貰おうと思ったけれどな、お前もなかなか忙しそうだったし、俺も忙しくてな、式はごく身内だけで簡単に済ませたんだ。事後報告になったが、互いに、身辺に余裕が出来たし、又、親しく付き合えるよ」
 と、悪びれた様子がない。
 社長の娘はなんだったのだろう?
「あなたの会社が大きくなって、社長さんになったら、私と結婚してね」
 と、書いて寄こした。
 上京の朝、JR駅で、
「私のこと、忘れちゃ駄目よ。早く、お金持ちになってね」
 と、大きな花束をくれて、耳許にささやいたあの言葉は冗談だったのか!
 裏切られた想いよりも、人の心を弄んだ、社長の娘の浅はかさに呆れた。
 うかつだった。
 中学を卒業して、二十年近く経っているのだ。
 男はともかく、常識的にいって、女が三十歳過ぎ迄、独身でいるはずがない。
 まして、社会的地位のある家柄の娘だ。結婚して当然だ。
 ひたすら、恩義のある会社のため、働いていた自分は、そんな世情にうとかったのだ。
 二人に、腹を立てるよりも、世間知らずを思い知らされた。
 その時、二度と故郷に帰るまいと、両親と伯父夫婦の墓を、現在地の寺に移す手配をした。
 ハナに、逢いたかった。
 結婚して、子供も二人生まれて幸せに暮らしていると、パチンコ店の息子夫婦から聞かされた。
「ハナが幸せならいいんだ。俺は本当に、ハナちゃんが好きだったんだけどな」
 逢えば辛くなる。
 郷里に、もう未練はない。
 東京に戻ると、すぐ、会長が望んでいた一人娘と結婚する。
「いろいろあったけれど、皆、落ち着くところに落ち着いたのね」 
 と、ハナがしみじみいう。
「ハナちゃんは、どうして、早く結婚したのかね」
 長い間、気にしていたことだ。
「それが今になれば、笑い話みたいだけれど、今の主人は再婚なの」
 ハナは、はにかむ。
「最初の結婚ね、相手が毎日、毎日、お花を届けてくれるの。それが一年近くも続いたの」
 税務署に勤めていたが、ハナの家の近くに下宿して、知り合ったのだという。
「私のような者に、そんなに迄思ってくれるなら・・・」
 と、優しさに引かされて結婚を承知した。
 ハナの家は、看護師をしている姉が働いて、一家の面倒をみていた。
 両親は、年を取っていたし、早く家を出て、姉の苦労を減らしたいと、結婚に踏み切ったのだという。
 しかし、夫は病弱で、幼い二人の男の子を残して早死にしてしまう。   
ハナは、亡夫の勤めていた税務署に、夫の上司の計らいで、アルバイトの職員に採用される。
 いろいろのいきさつがあったが、その上司が、ハナや子供達に親切にしてくれるので、再婚を決心したのだという。
「今は幸せよ。主人は、私より十歳年上だけれど、優しい人でね。大切にして呉れるの」
「そりゃよかった。ハナちゃんは中学生の頃から、情にもろい、思いやりのある性格だったからね」
 ハナは、心の中で呟く。
「本当は、あなたが好きだったのに、社長の娘から、あなたが結婚していると聞いたから、諦めたの」
 嫌な出来事は沢山あったが、今はもう、パチンコ店夫婦に悪感情はない。
 歳月は、懐かしさを甦らせる。
 反目したことも、口惜しかったことも消え、共に、人間として成長する過程だったと思う。
「ハナちゃんの呉れたおにぎりは美味しかったな。朝早く出発だったからね。上京に反対した伯母は、朝御飯も用意してくれなかったのでね。あの味は忘れられなくて、家内に、おにぎりを作って貰ったのだが、ぜんぜん、味は違っていたね」
 社長の娘がくれた豪華な花束は、花の名さえ分からぬまま、すぐ、枯れてしまったが、ハナのおにぎりの味は、しっかり、今も覚えている。
「そんなに、あの時のおにぎりが美味しかったの?じゃ、おにぎりを作って持ってくればよかったわね」
「いや、もう二度とあの味は味わえないと思うね。互いに境遇が変わり、長い年月が経っ
ているからね」
「そうね、十年一昔というけれど、私達の間に、何十年も過ぎているのですものね」
 ハナは思う。
 あなたも私もハッピーなら、別々に暮していても、生きる日のある限り、大切な思い出は残るのよ・・・
 梅雨が明け、陽が長くなっているといっても、外は、はや、薄暗くなっている。
 庭の若葉の木の近くに、何時の間にか、灯が点っている。
 温泉地に妻が待っている。
 束の間の夫婦の休息の旅だ。
 何故、二度と帰るまいと、心に誓った故郷に、寄ったのだろうか?
 ハナのことが忘れられなかったのだ。
 ハナに逢って、自分の気持ちを整理したかったのだと思う。
 でも
「ハナちゃんが好きだった」
 と、告げたかった。
 ハナは、主人と幸せに暮らしていると、明るい顔だ。
 自分も、妻との間に子供が四人いる。家庭は円満だ。
 今更、何をいう。せめて、せめて・・
「ハナちゃん、別れに手を握らせてくれないかね」
「運動会の時、手をつないで走ったことを思い出すわ」
 両手を強く握り合う。
 胸に込み上げてくる思いに、ハナは涙ぐむ。
「中学生に戻った気分だね。あのおにぎりの味は、決して忘れないからね」
 ハナは頷く。
 掌の温もりが互いに伝わるー
「ハナは、自分が好きだったのだ」
 目頭が熱くなる。
 二人は暫く、手を取り合っていた。
「お車が参りました」
 頼んであったハナへの土産のすしの折詰を持って、仲居がタクシーのきたことを知らせる。
 料亭の門の前で、ハナが手を振る。
 片手を上げて、車に乗る。
「ハナ!グッバイ!ハナちゃん、グッバイ!」
 心は叫ぶ・・
「ハナちゃん、グットラック、ハナ、ハナちゃん!グッバイ!グッバイ!」
 ハナの姿が遠ざかるー
 タクシーは、妻の待つ温泉地にひた走る。
 暮れゆく空に、微かに瞬く星一つー
 ああ!わが心の春は逝く・・



 読んで下さって
    有難うございます。
 何故、作中の人物に名前を付けることが少ないのか、それは、私であり、あなただから・・・
 何故、場所を明記することが少ないのか、それは、私の住んでいるところであり、あなたの住むところだからです。
  善を信じます
  善の中の悪を知る
  悪の中に善は残る
 生きる目的は愛だと思います。  
 愛のために、苦しみ嘆き悲しむ。
 愛によって、勇気が湧き力が出て強く生きられる。
 物語の主人公達に、何時も励まされ、そして、慰められるのです。


 独りを好みますが、書くことで、社会につながる喜びを感じます。
    読んで下さって
       本当に
         有難うございます。
 

おにぎりと花束

おにぎりと花束

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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