彼女の頭の中の雑音。

 会社帰り、帰りの電車に揺られた後、今日は自宅の最寄り駅本屋に寄っていくことにした。店内をぶらりぶらりと当てもなく歩き回り、テキトーに興味のあるジャンルである文芸書及び漫画辺りを巡回していると、ふと1冊が目に止まった。

 それは茶色の本で、どうやら小説の単行本らしい。独特の表紙絵(板チョコレートにナイフが突き刺さり、そこからだらりと血のように、チョコが垂れている)が気になり、俺はついつい手に取ってしまった(ちなみにタイトルは、『チョコレートマニア殺人鬼』だった。ストレートなタイトルだが、この時点では何のことやらという感じだった)。



『私は今日も借りたワンルームの一室で、愛したはずの女性から零れた血を啜るのでした。ああ……なんて美味いのだ! どうしてこんなに美味いのだろうか! やはり、極上の味……チョコレートの味がする!

 何度も確認したから、間違いがない。私が愛を捧げた相手の血はこれまでただ1つの例外もなく、最高級品のチョコレートの味がするのだ。やはり、私はそういった『運命』の中にいるに違いないのだった。

 これまで味わってきた女性の、どんな老舗高級チョコレートブランドにも勝る、彼女たちの人生が形象されたとしか想えない、それぞれに素晴らしい妙味を想い返しながら、私の思考はふと『初体験』へと飛んでいた。



 私はどうも惚れやすい体質のようで、ふと通りすがった女性にも胸を射ち抜かれてしまうことがある。そうなったら大変で、ロクに仕事も手に付かず、上司にも叱られるくらいなのだ。

 しかし、不思議なことにその一目惚れの動揺は日を待たずに落ち着いていくことになる。何故なら、それから私がそんな恋した女性を目にする回数が劇的に増加するからである。私は勿論、ストーカー行為をしている訳でも、その女性を目にする為に仕事をサボっている訳ではない。しかし、にも関わらず1日で5、6回はその女性を目撃するのである。これを『運命』と言わずに何と言おう。『運命』で結ばれた2人は否応なしに惹かれ合い、出会ってしまうものに違いない!

 私は惚れるのも早いが冷めるのも早い。例えば、その女性が私が知りもしない男性と腕を組んで歩いていようものなら、百年の恋も一秒で冷めるという物ではないか。しかしこれは、何も私に限った話ではないだろう。

 凡百のフラレ男と私が一線を画するのは、その女性に裏切られたとも想わないし、その男性に対して深い嫉妬を抱いたりもしないことだった。

 ――何故なら、その2、3日以内くらいには、また私は一目惚れをし、『運命』に刺し貫かれるような恋に落ちるからだ。



(私は悩んでいたどうして私はこんなにも想いを傾けているのに1日をほとんど棒に振ってまでストーカーまでしてやっているのに何故相手の女性はこっちを振り向いてくれないのか?何故他の男とよろしくやっているのか?何故そこまで身体だけが目的の男と私のような本物の愛情を持っている男の見分けが付かないのか?ビッチなのか?何が『運命』だこれは私の『努力』だ『誠意』だ激しく燃え上がる『恋情の賜物』だ私はそんな彼女らを永遠に自分の物として手に入れるにはどうしたらいいか考え計画しそして実行した)



 経緯はまったく記憶していない。私は気が付くと、その薄暗い、都会の隙間みたいな路地で荒い呼吸をしていた。目の前には恐怖で歪んだ顔のまま永遠に固まったままの、今はあまり美しいと言えない女がいた。それは確かに私が2週間ほど前に一目惚れした女だった。私は激しい動揺に襲われたが、同時にひどく冷静でもあった。目の前の醜い女の為に警察を呼んでやる必要があるか? まったくない(そんなことをしたら私が警察に捕まる)。と、そこまで考えたところでやっと気付いたが、私はナイフを手にしていた。女の胸からはまだとろとろの流れ出る血の残滓が見えた。どうやら私がこの女を殺した風になっている。でもまあ仕方ないな。何かの陰謀かもしれない。私が殺したのかもしれないし、殺さなかったかもしれない。もうそれはどうでもいいことだ。

 この女は既に私の興味の対象ではないが、しかし、この血はどうだろうか? この血は、確かにこの女が生きていた時の血であり、美しかった時に彼女を巡っていた血と何の変わりもないように想えた。

 そうなると、この血がひどく美味しそうな物に私には想えてきて、気が付くとナイフにこびりついたそれを舌で掬い取っていた。

 私は驚愕した。

 なんて美味いのだっ!

 想わず叫びそうになるのを私は必死に自重した。その血は私が食べたこともないような耽美なチョコレートの味がした。何を隠そう私が女性への一目惚れ同様、日課のように愛好しているのが世界のありとあらゆるチョコレートを食べることなのだった。同僚からは『チョコレートマン』と呼ばれていた。女々しいと嘲笑われていた(余計なお世話だ)。そして自分でも、これからの血糖値が純粋に心配だった。

 私は気が付くと舌を切りそうになりながらもナイフに付いた血を必死に舐め取り、更には手首に跳ねた血までも夢中で舐めていた。

 そして舐め終わると同時に『天啓』が私に降ってきた。

 頭の中では幼少のみぎり、私に優しくて甘やかしてくれ、チョコレートを会う度にくれた叔母が微笑んでいた。叔母と会えていた頃が私の人生にとって、最良の一時期ではなかったか? と私には想えた。

 私の人生は、優しい女性への憧憬と恋慕、そしてチョコレートに始まったようなものだ。

 だとすれば私の人生は女性とチョコレートに始まり、女性とチョコレートにより経過し、女性とチョコレートにより終わらなければならないのではないか?!

 そして、今、その方法論は提示された……『私が愛した女性の血は最上級チョコレートの味がするんだ』。

 この『展開』に至る為に、これまでの私の女性への惚れっぽさがあったのであり、『チョコレートマン』的な嗜好があったのだった。だとしたら、この『仕事』を続けることは私の『天命』に違いない。



 私は予め用意してあった、黒い薄手のウインドブレーカーで身を包むと、経験則で知っているその路地と繋がる通りの人がまばらになる時間を見計らい、そこから出た。

 こうして私の『チョコレートマニア』として称される、何故か犯行現場に板チョコレートが置き去りにされているとしてお茶の間の話題をかっさらう殺人鬼的な『仕事』が幕を開けることになるのだった』



 ……ちょうど、区切りが付くところまで読んでしまったけれど、良くもまあこんな変態的な小説が書けるものだなあ、と俺は作者に逆に感心した。この犯罪者が『運命』に衝き動かされているように描いておきつつ、その実ちゃっかり自分の意志で動いていたり、保身の為の計算を働かせているギャップが、例えばこの小説の面白さなんだろうか。

 だけど、それでも俺はこの作者の感性はまるで好みとは言えなかったし、主人公にもまったく共感できなかった。特に女性への愛をとっかえひっかえできると考えているところが、俺からすると「コイツはもしかして人間ではないんじゃないのか」というレベルで、完全に理解の外だった。愛というのは深く深く1人だけに注ぐもので、そう簡単に相手を変えるものではない。人生の中で複数人と付き合うことは勿論あるだろうが、その1人1人との出会いと別れは、否応なしに自分の人生に深い深い影響を与えるものではないか、と俺は考えていた。もし、俺が今の恋人と別れることを考えたら……いや、ゾッとしない想像だ。これ以上、深みに嵌るのは避けよう。鈴愛(すずあ)は今、生きているのだから。生きて俺と一緒にいる鈴愛とどうしていくのか。今はそれを考えていよう。

 それにしても、主人公の非人間的な気持ち悪さはさておいて、俺は想うのだけど、例えばこの主人公は『運命』に衝き動かされているということを本当に信じ切っていたのだろうか? それとも全ては腹黒い計算だったのか? 本当に『運命』とか自分の外側のものに衝き動かされて、人まで殺してしまうということはありえるんだろうか? 

 最寄り駅から自宅のマンションの1室までには、大体30分弱掛かる。読書に耽ってしまったので、現在時刻は19時半少し前といったところ。俺は鈴愛の顔を何故か早く見たくなって、家路を急ぐことにした。

 マンションに着き、ドアのノブを回すと何故か鍵が掛かっていたので俺は困惑した。鈴愛は今の時刻、経験則的に出かけていることはないはずだけれど……。しかし、入浴する際に用心の為に鍵を掛けることにした可能性も考えられなくはない。最近、この街では物騒な事件が割と多いらしいというのは、鈴愛の世間話として聞いてはいた。大体の鈴愛の1日の生活リズムを把握していた俺は、それでも今の時間に風呂に入るのは珍しい――とかなり不思議に想いながらも、持っていた鍵で解錠し、ドアノブを回した。

 いつものような陽気な「おかえり!」の声はない。しかし、視界に鈴愛の姿が入ったので、

「何だいるんじゃないか……」

 とそこまで言って、続く「ただいま」が言えなくなった。我が家は玄関の割とすぐ近くに、リビングに通じる扉がある構造をしているのだけれど、その扉を完全に開くのではなく、通り抜けがギリギリできないくらいの間隔で開いて、そこから鈴愛が半分だけ、丁度半分だけ、こちらに顔を覗かせていた。

 いや、俺も「家政婦は見た!」的なノリならネタとして充分笑えるのだけれど、鈴愛の顔は完全な無表情でまじまじとこちらを見ている感じで、誰よりも鈴愛を知っているはずのこの俺が、「お前本当に鈴愛か?」と想わず尋ねたくなるような……そんな雰囲気を身にまとっていた。今の鈴愛が登場する映画のジャンルは確実にホラーだろう。当然、鈴愛は幽霊役である。

 彼女は俺の姿をじっくり確認し、俺が辛うじて、

 「……ただいま」

 と言うと、鈴愛は軽く頷いて、

「うん。先に座ってて」

 と答えて、すっと身を引き、どうやらリビングと繋がったキッチンに向かったようだった。俺もその背中を追うようにして、いつも通りダイニングテーブルの俺の定位置に座る(2人暮らしには少し不釣り合いに大きいこのテーブルは、マンションに元々備え付けられていたものだった)。

 キッチンの配置的に、鈴愛が鍋やフライパンと向き合っている時にはこちらからは背中が見える。楽しそうに料理をしている鈴愛を見るのが俺は好きだったのだが、今はどうやらシンク脇で作業しているようで、彼女はこちらを向いていた。リビングとキッチンを敷居する棚の上には色々な物が置かれていたため、こちらからは鈴愛の顔を完全に窺い知ることが出来ないが、彼女はやはりあの完全な無表情で、何かを手で千切るような作業をしているようだった。……サラダでも作っているんだろうか? 主菜的なおかずは既に完成していて、それに添えつけ的な副菜として? どうも部屋までもが部屋といつもと違う雰囲気に染まっている気がして、俺はその原因が鈴愛なのだと、どうしても認めたくなかった。何かを千切る鈴愛をぼんやりと見ながら、頭の中には記憶の中のこれまでのキッチン内での鈴愛の様子が浮かぶ。

 俺の1日の楽しみは、勤務を終えて帰宅してから見る、鈴愛の料理をしている後ろ姿だった。

 ある時、俺が、

「仕事が終わって帰った後、お前の料理している姿見ると無償に幸せを感じる」

 と素直に告げてみたところ、顔を赤くして、

「ふふっ……そうなんだ。ありがと」

 と応えた鈴愛は、それから20時過ぎくらいに作り終えるように大体計算して料理を作り始めるようになったらしい。可愛らしい奴なのだ。俺は最寄り駅で用事を済ませることもあるが、概ね19時30分~19時50分くらいには帰宅するので、それからしばらくの間は、俺はじっくりと料理を作ってくれる鈴愛の後ろ姿を眺められるという具合だった。俺たちほど、ベッタリなカップルはあまりいないのではないか、と想うが(お互いがお互いの1日の予定を大体把握している)、それで幸せなのだから何1つ問題はなかった。

 彼女が料理をしているのを見ていると、時間が経つのも早い。それが20分だろうが50分だろうが、鈴愛の動きを見ているだけであっという間に料理が完成してしまう。むしろ、もう少し長い間、料理に手間取ってもいいくらいだった。鈴愛のはつらつとした動きは、料理をしている中で抑えられてはいるが、それでもことごとく俺の心のツボを突いてきて、見ているだけで楽しい。鈴愛の性格的な面も好きだが、彼女には更にその動作の1つ1つが俺にとって好ましいというポイントがあった。

 昨日も綺麗な盛り付けのビーフシチューを楽しげに運んでくる彼女に、俺はシチューよりも鈴愛の方がおいしそうに感じた。これは何もいやらしい意味ではなく、鈴愛だからこういったおいしいシチューもあんな魅力的な動作で作れるのだ、つまり、味的な意味だけじゃなくて、鈴愛という人間が作ったからこそ、このビーフシチューもおいしくなるんだ、だからつまり、鈴愛も俺にはおいしいものであると同じことだ、というように、俺の中では鈴愛に対する好みとして1つの流れを作っていたからだ。まあこのように、恋人に対する俺の思考はしばしば蕩けがちで、それが少しばかり日本語として怪しいことにも俺は自覚的だった。

 そんな俺の思考が中断されたのは、視界の中の鈴愛の動きが止まったからで、彼女はキッチンから1つの金属製のボウルと取り皿を運んでくると、俺の向かいの席に座り、自分にだけ用意されたフォークを持ち、小さくぼそっとした声で、

「いただきます」

 と呟き、ボウルの中身をつつき始めた。俺は流石にもう鈴愛の行動をこれ以上看過出来なくなった。取りあえず鈴愛がどういうつもりなのか確認する為に立ち上がり、少しキツめの言葉をぶつけそうになったところで、彼女が食べようとしているボウルの中身に気付き、絶句した。

 俺の中で鈴愛の存在が大きく遠のきつつあった。鈴愛は俺の静止の言葉を聞く前に、『それ』をむぐむぐと口の中で味わい、まるでガムみたいな感覚で取り皿へと吐き捨てていた。その様子は、身を取り終わった貝や蟹の殻を『味わうべき部分はもう味わったから脇によけておく』というような日常的な動作を感じさせるだけに、よりいっそう不気味で、異常な質感があった。俺はどうにか現実感の喪失から立ち直ろうと、自分でもこんなことをしている場合ではないという自覚を持ちながらも、食卓にありながら胸元からスマートフォンを取り出し、ある項目を検索していた。

『ポリエチレン樹脂(PE)とは、エチレンを重合させあ高分子化合物であり、炭素と水素のみから構成される脂肪族炭化水素。高分子鎖の枝分かれのパターンにより、様々な性質を得る』

 俺が調べていたのはポリエチレンについてだった。しかし、こういった科学知識みたいな物は俺には理解しづらいし興味もない。俺はスクロールして、この物質の性質を確認する。

『・プラスチックの中で最も生産量が多い。

 ・無味無臭である。

 ・電気絶縁性と耐水性を合わせ持つ。

 ・軽く加工しやすい』

 そんな項目の中に、

『・食品用としても最も広く使用されている』

 というものがあり、これを俺は『食材として広く親しまれている』という意味か、と受け取りかけたが、何のことはない、写真を見てみればサランラップやポリ袋、ケチャップのチューブとして食品周りの素材として使われているという意味に過ぎなかった。

 俺は少しだけ平静さを取り戻し、そして、ポリエチレンには一般的にはどう考えても食用的な用途はないと確認した。

 もう1度鈴愛を見る。

 彼女がボウルの中から口に運んでいるのは、細かく千切られた、食器等を包む時に使うエアーシートだった。

 素材は勿論――ポリエチレン。



 俺が何故、梱包用素材の名前を知っていたかと言えば、以前、ネットオークションで食器を売る機会があり、その時に用意するついでに、どこかで目に入っただけのことだったのだが……(というか、鈴愛が食べているのもその時用意した残りかもしれない)、いや、そんなことはどうでもいい。今、考えなければいけないのは鈴愛のことだ。

 しかし、誰かに襲われたというのではないのだし、外傷はないのだから、警察や救急車を呼ぶ訳にもいかない。というか、どうにも、今の鈴愛を病院のような場所に連れていくという発想がなかなか出てこなかった。

 俺は現実逃避的な気分に陥っており、鈴愛のことを何とかしようと想う反面、今の鈴愛からは少し遠ざかりたいような気持ちを抱いてしまったのは事実だ。しかし、それは俺が想うに、単純に鈴愛の異様なありさまに気持ちが引いてしまったのではなく、むしろ愛し過ぎていたからこそ、急に変わり果ててしまった鈴愛に対し、どんな風に接すればいいか、見失ってしまったのだと想う――その響きはとても言い訳的である自覚はあるし、ともかくこの晩、単純に俺がやったことを具体的に記すならば、鈴愛を放ったらかしにして、風呂に入って寝ただけだ。

 けれど、勿論、その前に鈴愛がちゃんとエアーシートを吐き出していることは確認したし、飲み込まない限りは特にそれが人体に害がないことを調べてはいた。

 そして、俺はひとことだけ、これまでとはまるで変わってしまった鈴愛に問いかけた。それは我ながら、間の抜けた響きの問いかけだった。

「鈴愛……エアーシートおいしいか?」

「……うん。おいしいよ」

 鈴愛は、小さく、しかし何だか楽しげなぼそっとした声で、そう応えたのだった。



 翌朝、目を覚ましてみると、ちゃんとダブルベッドの隣で鈴愛は寝ていたので少し安心した。寝ている顔はいつも通りにしか見えない。昨夜のことは全部夢だったら良いのに、と願ってしまう自分自身もいたけれど、だとしたら、あんな奇妙な夢を見た俺の頭がおかしくなった、という風に今度はなってしまうのだろうか。

 眠気覚ましの洗顔をしてから、髭に電気剃刀を当て、俺は洗面所からリビングに向かった。

 昨晩は結局、ショックで何も食べていなかった為に、かなりの空腹感を覚えた。しかし、今の鈴愛に朝食は期待しない方がいいだろう――戸棚にあったカップラーメンを取り出すと、普通なら切れにくいであろう賞味期限がもう切れかかったいた。

 それだけ鈴愛は料理を毎日欠かさずしてくれたってことだ……改めて感謝の気持ちが湧くが、鈴愛の現状を想い返すとまた陰惨な気分が立ち上ってきた。

 丁度、カップラーメンにお湯を注いでいるところで、鈴愛がリビングに出てきた。ベッドにいる時点で、もしやとは想っていたが、昨日着た服のまま着の身着のままで彼女は寝てしまったようだった。もしかしたら今晩辺り、一緒に風呂に入ってやらないといけないかもしれない。

 鈴愛は何というか、必要以上にしっかりとした足取り、何か大切な案件を抱えて気を張り詰めながら歩く会社員のような感じで移動して、いつもの定位置の席に着いた。

 そして、カップラーメンの待ち時間、鈴愛の様子を伺っていたのだけれど、またも彼女が異様なふるまいをし始めたので、タイマーをかけなかった俺は完全に3分間を測ることを忘れてしまった。

 鈴愛は席に座り、前方斜め上に手を掲げ、手首だけをだらんと下に垂らした。何か間違った「恨めしや~」のお化けみたいな格好で、同じような斜め上の角度に首を上向け、鈴愛はそこにある空間を茫洋とした感じで見つめていた。

 俺は伸びたカップラーメンを食卓に運び、鈴愛の前の俺の位置に座ってから、ちょっと恐る恐る、

「……鈴愛、おはよう」

 と喋りかけてみたり、カップラーメンを啜って一息吐いた時に、

「鈴愛、今日も君はかわいいぜ」

 と囁いてみたり、カップラーメンを食べ終わってから、

「……俺は……君を、愛してるよ……」

 と頭を撫でたりしてみたのだけれど、そのどれにも鈴愛は無反応なのだった。彼女はずっと同じポーズで上空を眺めている。瞬きすらしていないように見える。

 人間はぼーっとすることはあるが、それでもここまで無反応を保つことは出来ないだろう。やはり、鈴愛の今の状態は、かなり非人間的というか、まるでプログラムを組まれた機械みたいなものに想えた。自動的にプログラム通り作動しているロボットみたいに……。何かが引っかかった。

 俺は唐突に発想する。それは鈴愛という人間の女性相手に連想すべきではないかもしれないが、起動(覚醒)しているにも関わらず、自分の想うように動作しない(反応しない)という意味では、鈴愛は今、俺の使っているノートパソコンのウインドウズアップデートの時みたいだ(ちなみに俺はあまりにも鬱陶しいその時間が耐えられず、自動でアップデートしないようにアプリで制御している)。

 ネットワークに接続された状態での情報更新……そこにパソコン自体の意志はない。ただ情報が上書きされる……。

 もし、鈴愛も同じような状態になっていたとしたら? 通常の鈴愛に、何かが上書きされた……いや、完全に置き換わっているのではないとしても、何かが鈴愛に植え付けられるみたいな状態になってしまっているとしたらどうだろう?

 その発想は、昨日の朝までは完全にいつも通りだった鈴愛が突然に精神病のようになり自分からおかしくなってしまったというよりも、俺には受け入れやすい発想だった。

 鈴愛は何らかの精神的な攻撃を受けて、それで参ってしまっているのだ。それは荒唐無稽かもしれないし、冷静に考えてみれば俺の妄想に近いかもしれない。

 けれど、俺はそういったことを心の拠り所にしなければ耐えられない気持ちだった。

 そして、そういう発想を得たから俺に聞こえるようになったとでも言うのだろうか、何事かを鈴愛がずっと呟き続けているのに気付いた。しかし、それは彼女がはっきりと何かを言おうとして口にしているというよりは、もっと無機質な例えばファックスの受信音のような物のように(先入観込みではあったかもしれないが)、聞こえたのだった。

「みゅんみゅんみゅん、みゅんみゅんみゅんみゅんみゅん……」

 鈴愛は低いぶつぶつとした響きを伴う口調で、盤面が傷付きある箇所で延々とループし続けるCDみたいにそんな言葉を吐き出し続けている。

 その上向きの何かを受け入れるような、受信しているような姿勢に、俺はまた一昔前にネットで流行った『電波』というスラングを発想した。

 それはいかにも今の鈴愛の様子に合致した言葉であるように想えて、俺は鈴愛に影響を与え、彼女をここまで造り替えてしまったものの存在を『電波』と自分の中で呼称することを決めた。

 まだ、確証は何1つ掴めていない、俺の身勝手な空想だけれども、何かに侵されているだけで鈴愛は鈴愛なのだと想うと、また彼女が俺の中で人間的な質感を取り戻していくのを感じた。

「落ち着いたら、ちゃんと風呂に入るんだぞ」

 と彼女に伝えておく。

 でも、冷静を装っても結局この異様な状態に俺は少しも馴染んでいた訳ではなかった。流石に唐突に急な病気や冠婚葬祭以外の都合で、会社を休む訳にも行かないという気持ちはあったけれども、それでも正常とは化前に言えない鈴愛を自宅に残して会社に行ったのは、それをしなければ俺の日常、ありふれていた平穏は全部なかったことになるのではないか、むしろ、これまでの鈴愛との日々の方が夢のように溶けて消え去ってしまうのではないか、という漠然とした恐怖に彩られたものであったとは言える。

 しかし、これも単なる言い訳だろうか? 俺は鈴愛から逃げたのではなくて、彼女を信頼していたのだと言いたくはある。例え、深く侵されてしまっていても彼女があくまで彼女のままなら、俺は鈴愛を信じてやりたいという気がした。それまでの、いつも笑顔で会社へと送り出してくれていた彼女は、自分のせいで俺が日常から大きく乖離していくことを望まないだろうし、そうしたら、それこそ『敵』の想うツボかもしれないではないか? けれど、この『敵』という発想も俺の頭の中の妄想に過ぎないとしたら、結局俺は会社に逃げているだけってことにもなるのか……。

 様々な仮定と想像が入り乱れ、俺は混乱していた。しかし、会社の仕事でそうした私情を挟むことを俺は嫌っていた。目の前の作業に集中すべきだ。淡々と事務作業や言いつけられた雑事をこなして
いくと、次第に自分がこれまで働いてきたリズムの中にいる感覚が生まれ、安定してきた。鈴愛のことを考えることも必要だ。だが、決定打がない今の現状のままでは考えていても思考の袋小路にハマるだけだ……今は、会社にいる間だけは仕事に集中しよう……。俺はそう考え、仕事にいつも以上に熱中して取り組んだ。むしろ、いつもより早く時間が流れ過ぎた体感があり、あっという間に18時の定時になった。ここから1時間電車に揺られ、30分間徒歩で歩くと自宅に到着する。

 最寄り駅からの帰り道、流石に今日は寄り道をせずに急ぎ足で家路を急いでいた俺だったが、ふと違和感を感じた。

 俺の最寄り駅からの帰宅するコースを大体俺なりに感覚的に描写してみるのならば、歩いて7、8分間くらいは駅からの雰囲気を引きずり、賑やか目な道が続き、それも段々落ち着いて、一軒家の多い住宅街が始まる。少し裕福な層が暮らしている感じの外見だ。そこを通り過ぎると……時間にして5分くらいだろうか? あまり建物の多くない、寂れた地点がある。どうしてその辺りの土地が有効に活用されないのか、特に畑という訳でもないし、俺も良く分からないのだけれどもう誰も住んでいそうもない家や、もうシャッターが卸されている個人経営の電器屋や小さな本屋、シャッターに訳が分からないアート性を感じる理髪店、鈴愛によると外れにもう潰れてしまった工場等もあるそうだ。墓地があればいかにも雰囲気が出ただろうが、残念ながらそれはない。そこを通り過ぎると、家の近場5分くらいは俺の住むマンションのような高層住宅や、集合住宅等が密集している。華やかさはないし、駅からは遠いが、庶民性を感じる……まあ心が和むとも言えなくもないような気がするし、暖かみがあるような気がしないでもない。ほら、皆で集まって住んでいる的なところとか。

 俺が違和感を感じたのは、丁度寂れた地点に入った辺りの頃のことだった。

 普段、俺は人の視線そのものを感じるということはあまりないと想っていた。勿論、人間というのは視覚的な生き物だから、相手が視界に入っている場合、こっちを見ている人がいるのを認識すれば意識してしまうだろうし、それが本気の凝視だったら「何あの人……」的な怯えも入ってくることだろう。しかし、漫画のように凝視だけの気配を感じて、相手の存在を察知するというようなことは少なくとも俺には経験がなかった。相手の存在に気付くことはあっても、それは物音とか、その人自身の存在感、気配みたいなものが込みの印象で、純粋に『見られている』と視線だけを取り出して感じることなんてなかったのだ。

 しかし、今、見られているという感じが、した。

 している。

 相手の気配なんか感じないのに、息遣いも物音も感じないのに、純粋に異様な凝視を受けているという実感だけがある。その凝視はもはや、俺の外見的な物を見るだけに留まらず、極端に言えば俺の心の内部や今俺の考えていることまで読み取っているのではないかという気がした――それはねっとりと粘着くような、どんな細かいことを見逃さないというような、こちらの一瞬の隙を伺うような――そんな厭らしい凝視のように俺は想った。

 会社から出て帰宅を始めてから、鈴愛のことを考えずにはおれず、自分の精神が不安定になっているのは自覚していた――もしかしたら、これも強迫観念みたいに自分が創り出してしまった妄想なんだろうか? そう俺はつい発想してしまった。『凝視』の体感が異様過ぎて、それが現実に起きていることだと受け止め切れず、ついつい自分の内側の問題に過ぎないのではないか、と想ってしまったのだ。

 換言するとその外部からの物であるはずの『凝視』を、自分の妄想だと――自分自身から生まれたものかもしれないと、混同してしまった時、『それ』はその隙を狙うかのようにして、俺の中に侵入って(はいって)きた。

 まるで、全てを透過して通り抜ける透明な手が、俺の脳味噌を直接まさぐっている感覚があり、その『凝視』すら大きく上回る不快感に俺は吐くかと想った。しかし、吐くに吐けない。頭では異様なことが起こっているのに、身体はまるで普通の調子なのだ。泥酔よりもひどい『自分が自分でなくなる』ような感覚。あくまで脳味噌に限定された細かく精密な作業により植え付けられる、俺の物ではない、あの『視線』の主のおぞましい考え――そうなのか、と俺は想った。鈴愛、お前もこれをされたのか。脳味噌をいじられて、自分の物ではない誰かの考えを植え付けられてしまったのか。

 抵抗は出来なかった。というよりも、遠隔的に人の脳味噌をいじくるような相手にどんな抵抗が有効なのかすらはっきりしなかったし、その上、いじられている間は不快感でそれどころではなかった。

 俺が我に帰った時には全ては終わり、あの『凝視』も『透明な手』も去っていた。地面に座り込み、額に右掌を当て、荒い呼吸を吐いていた俺は、ただ想った。帰らなきゃ。鈴愛の元に帰らなければ。

 『電波』を身に受けている時にはなかった全身の熱っぽさと気怠さがあり、歩くことも身体を引きずっているような調子だった。何だか、脳味噌に植え付けられた『電波』が、新しい俺の一部として身体にも浸透していっているような気がして、物凄く不安な感情にも襲われたが、その内、俺の中で熱病のような怒りがふつふつと込み上げてきた。

 俺はそれを『電波』の送信者に対する怒りかとも想ったのだが、それはどうも違うらしい。周囲に辺り構わず当たり散らしたい気持ちでいっぱいだった。自分が理不尽な目を受けているような気がした。昨日から『電波』に鈴愛が侵され、今日は俺も侵食を受けたけれど、そういう異様な経験に限らず、世界から俺だけが愛されておらず、不当な扱いを受けているような感覚が自分の中で昂っていて、もう対象は構わないから次に出会った奴がどんな奴でも殴ってやろうと俺は考えていた。……いや、これは本当に俺の考えなんだろうか? 何だか唐突過ぎないだろうか? これが俺に植え付けられた『電波』なのか?

 次に通りかかったのは中年のオッサンだった。スーツを着ていたが赤ら顔で、家で酒を呑んでいたら楽しくなってしまって、居酒屋にでも繰りだそうとしているところなんだろうか? 正直、そのオッサンの状況なんて知りもしないし興味もなかったのだが、流石にこのオッサンも俺に殴りかかられるような言動は犯していないはずだった。これで本当に俺が殴りかかったら、理不尽にも程がある。

 俺は気分が悪いフリをして(実際に悪いのだが)近くの建物の柱に向かい合うように身を預けてやり過ごそうと想ったのだが、そうする直前、俺の頭にとてもリアルな映像が見えた。

 『その』俺は何故かナイフを持っており、オッサンの腹に何度もナイフを突き刺している。即座に何度も抜き差しを繰り返すんじゃなくって、一刺し毎に相手のYシャツの腹を赤く染め上げる血の染みを、相手の理不尽な恐怖に打ちのめされる様子を、じっくりと眺めている。『その』俺は、オッサンを殺すことを愉しんでいた。しかも、その上でこう俺は発想していた。こんなオッサンなんかじゃなくて、年若い女の子とかを殺せた方が愉しかっただろうに、と。

 その映像は完全に現実とは区別が付くものだったが、妙なリアリティがあって、俺は柱に身を預けた後、身を震わせていた。

 オッサンは数秒、俺のことを見ているような気配があったが、やがて行ってくれたようだった。

 俺は認識する。自分に植え付けられた『電波』について。

 しかし、それを察したからといって、事態が好転する訳でも何でもなく、むしろ自覚したことによって絶望感をより増す効果しかなかったとも言えるが。

 俺に植え付けられた『電波』は、怒りの衝動から殺意にまで至る『殺人衝動』であるらしい――勿論、暫定ではあるけれども。

 改めて確認するとそれは目の前が真っ暗になるような事実だったが、俺は呼吸を整えてから、普段なら10分にも満たないはずの、しかし今は延々と長く感じる道を歩き始めた。



 家に帰り着き、ドアのノブを回すと昨日のように鍵が掛かっていた。正直、苛つきが募り怒鳴り散らしそうになった感はあったものの、震える手を抑えて、鍵を鍵穴に差し込み解錠した。

 鈴愛はシャワーを浴びているらしい。さー、という細かい水が降り注ぐあの音がする。

 彼女は今日はちゃんと、風呂に入ってくれたんだな……と俺は想った。鈴愛が俺の言葉を解して行動してくれたと想うと、何故か未来がそこまで絶望的で暗いものではないもののように想えてきた。

 その軽やかな水音に気分が少しだけ和らぐのを感じたが、それでも全体的な身体の怠さからすれば、それはほとんど気休め的な効果の域に留まっていた。でも、どこかで俺は鈴愛が救ってくれたみたいな気分になった。それは実態に即しているかはどうかはともかく、俺の中では確かな実感としてあって、結局、鈴愛は鈴愛なんじゃないか、という気がした。

 そのじんわりとした心の暖かさを伴って、俺はそのままベッドに倒れ込む……そうすることしか出来なかった。



 翌朝、起きるとあの熱病の如き苦しみは嘘のように引いていた。しかし、俺はそれが病気のように快癒したのではなく、いわばパソコンのソフトウェアがインストール完了したような状態のように想えてならなかった。大きなソフトウェアをインストールする時、パソコンのCPUには高い負荷が掛かり、あまりスペックの高いパソコンでない場合は、そのインストール以外何も出来なくなることも多い。あの熱病は俺にとっての高い負荷のような物だったのではないか? それが収まったということは俺の頭に『電波』は完全ではないにせよ、定着してしまったのではないか? しかし、認識は重要だと想った。俺の中に、何者かの思考が紛れ込んでいるという強い自覚。それがこの状況と戦っていく為の『鍵』となるのだろう。

 ――それにしても、と俺は想う。『電波』をパソコンのソフトウェアに喩えたから余計そう感じるのかもしれないが、人の思考を書き換える、上書きする、あるいは余計な発想を追加するという行為はひどく繊細で高度な技術に想える。それこそ、最先端の企業が技術開発をしているみたいな……いや、何かこんな『陰謀論』めいたことを考えてしまうのは、異常な状況に巻き込まれた自分自身の状況を、過分に見積もり過ぎてしまっているからかもしれない。敵が見えないからこそ、その敵の姿が大きな物に見えてしまうのかもしれない。大体、そんな物凄くデカい敵が相手なら、俺と鈴愛なんかよりも狙うべきターゲットになんて事欠かないだろう。敵の姿を探ることも重要だが、むしろこの『電波』がある状態で、どう日常生活を乗り越えていくかに、まず思考を集中しなければならない。

 そうして、鈴愛は昨日と同様に『電波』を受信しているようだった。あの全体的に斜め上方向に意識を投げたようなポーズで、「みゅんみゅんみゅん……」と低音で呪文を呟いている。自分の昨日の経験から言っても、これが何らかの外部からの『思考の植え付け』であることは明らかなように想えた。そう考えるとこのポーズをやめさせるべきかとも想ったが、またもパソコンから俺は連想してしまう。システムアップデートを強制終了させると致命的なエラーが発生して、ひどいケースになるとOS自体が初期化してしまうようなことも起きうるという。異様な状態とはいえ、その在り方で鈴愛は安定している……と言えなくもないかもしれない。『敵』の姿も見えないままで、この『電波受信』を闇雲に邪魔することは、逆に鈴愛の精神にダメージを与える結果になるかもしれない……。

 というか、俺はパソコンからの連想により、ついつい鈴愛の状態を測ってしまうようなところがあるけれども、これは俺には1つの恐怖だった。というのも、パソコンは便利だが、容易にアップデートしたり、中身のソフトウェアを追加・削除出来るような、ある種の道具としての利便性を追求した結果のある種の移ろいやすさはある。人間の脳に、『利便性』なんかを追求してもいいものだろうか? 

 人間の頭はもっとその個人の人生や経験にしっかりと支えられたものではないのだろうか? 仮に教育や刷り込み等で、人の考えが形作られていく面があるとしても、それによって自分の考えが長期に渡り影響されていくような、気付かない故の恐ろしさがあるとしても、とにかく俺は人の考えは良くも悪くもゆっくりと熟成されていくようなものだと想っていた……しかし、その実態はパソコンの中身のように簡単に書き換え可能な代物に過ぎないのだろうか? 

 俺はそうは信じたくない。鈴愛の中にも今もちゃんと鈴愛がしっかりといると信じている。

 『受信』中の鈴愛の頭に手を載せると、彼女は小さく頷いた気がした……俺はそれだけの仕草でひどく驚いた。勇気づけられる気がした……とにかく、鈴愛の動作というのは、俺の中で他の人間のどんな行いよりも力を持っているんだと改めて実感した。

 今日こそ休むべきではないか、とも想われたものの、家に篭っていたからといって具体的な解決案が見えるとも想えなかった。それに家にいて暇を持て余したりしたら(実際はそんなことはないだろうとは想うが)、『電波』に更に影響を受けてしまう可能性がある。仕事に集中していれば、物想いをやり過ごせるということは昨日実感していたことでもあった。鈴愛が電波を受信したのが一昨日の水曜日の夜、昨日の木曜日の帰り道、俺が『殺人衝動』を植え付けられ、そして金曜日の今日を乗り越えればありがたいことに週休2日である我が社に俺は休日を与えられることになる。そうすれば俺も大手を振って、全ての力を『問題解決』に振り向けることが出来るだろう……という俺の考えは、率直に言ってひどく見立ての甘いものだったとしか言い様がない。



 家を出たばかりの時は良かった。

 鈴愛に「行ってきます」と声を掛けてから通勤を始めた俺は改めて、『電波』について考えたりすることが出来ていた。

 単純に俺は鈴愛と俺が植え付けられたものを『電波』と総称しているけれども、しかし、その有り様はかなり違うと言ってもいいと想う。最大のポイントは、『電波受信』というか『再受信による調整』みたいな時間が、鈴愛にはあるが、俺にはないということだろうか。勿論、俺にもこれから『再調整』が起きる可能性もあるが、もっと明瞭な差異もある。それは『電波』の侵食度みたいなものだ……。

 鈴愛は明らかに自分の考えよりも、『電波』に動かされるパーセンテージの方が上回ってしまっているように想える。しかし、俺の方はある程度、自我ははっきりしているし、『電波』の方を異物だと認識出来ている。

 この差異は一体どこから来たのだろう? 勿論、個人の在り方によって違うということもあるんだろうけど、相手側の技術に目を向けた場合、俺への『電波』の施し方は取り急ぎって感じで、鈴愛の方がしっかりとした施術だった可能性が高い。人格にかなり深いレベルで影響を与えるレベルまで侵食する鈴愛の『電波』……。その上、1日1度(俺が知る限りでは)のメンテナンスの機会さえもある……これも最初から盛り込まれていたと考えるのが自然だろう。

 俺はあくまで出先で、急な『敵』の『凝視』を受け、『電波』を受けたが、その時間自体は案外短くて、5分か……あるいは長くても10分くらいだったと想われる。

 鈴愛が『電波』を受けたとしたら、彼女が1人で家事とかをこなす自宅でのことだろう。その場合、彼女はより着実で時間も掛かるような『電波』を丹念に送り込まれた可能性がある……。

 しかし、そんなことを一体誰がしたと言うんだろう? 鈴愛を先に狙い、次に俺にまで『攻撃』を仕掛けてきたその意図はなんだ?

 『敵』の像を明確に絞り込めないまま歩き続けている内に、俺はとうとう駅の近くの繁華街(というほどでもないが)に差し掛かった。視界に入る人の量が増大する。その時、もう今日は家に帰り、布団の中で丸まって震えていた方が良いのではないか、と想ってしまった。

 寝た後は自分の思考能力が高めるという話を聞いたことがある。更に閑静な環境と騒音環境では当然前者の方が自分の思考を保ちやすいだろう。俺はそんなことを改めて確認するように考えてしまう。

 沢山の人が目に入ると同時に、昨日あれだけの異様な経験をした為に過敏になっているだけかもしれないのだが、それぞれの人間がそれぞれの発想をして、それが周囲に微妙に影響を与えている様が俺には感じ取れるような気がした。それは勿論、錯覚かもしれない。だが、凄みがある人に『オーラがある』というようにその人のライフスタイルによる影響力は、周囲にエネルギーとして発散されているように、ネガティブな人は人はなかなか周囲に人が寄り付きにくかったり、ポジティブな人の周りには人が集まりやすいがそういう人を鬱陶しがる人もいるように、人間の発想はその人の周囲の環境にも実際に影響力を働きかけているのではないか? ということを俺は想った。

 ――しかし、しかしそんなことは今、少しも問題ではない!

 それらの多くの人の発想は、俺の思考にも微妙に働きかけてくる。それは人数分だけの雑音となって、まるで騒音環境にいるように俺の思考は乱れていった。

 そして、乱れた思考の代わりに俺の頭を占拠し始めたのが、破壊衝動、暴力衝動から繋がる『殺人衝動』としての『電波』だった。

 俺は必死に頭の中の発想を押し殺すようにしながら、何とか駅まで辿り着き、切符を買った。

 しかし、電車に乗ってから、俺の地獄は更に加速する。

 意図せずとも容赦なく視覚野に叩き込まれる膨大な流れる風景の情報量が過敏な俺の脳髄を圧迫し、もはや自分で物を考えることが難しくなってくる。そんな中、隣にいる薄い半透明の茶色フレームを掛け、なかなか上等そうな青地に白の細かい線が入ったスーツを着た、いかにも『インテリメガネ』な男が俺の目に入り、何だよこっちが苦しい想いしてるのに涼しげな顔しやがって、と想ってしまったところで脳髄が爆発したみたいな勢いで俺の頭の中にリアルな映像がまた挿入されるかのように展開する。

 何故かそこはガランとした電車内だった。外の光景も、電車の中も何故かモノクロで、ひどく現実離れしている感じがあった。

 そこでブランブラン、と何かが揺れているのを俺は心底愉しげに見守っている。
 
 青に白のストライプのスーツの男が、電車の揺れに合わせて、揺れる。

 がたんごとん、がたんごとん、がたん――。

 何故かひどく牧歌的なな空気が流れているような気がしたが、目に入る光景は少しも穏やかさはなく、異様さに満ち溢れていた。

 白いリングのつり革に男の両手が吊り下げられている。しかし、それでは到底、男を安定して吊り下げるのは不可能だったろう。つり革に模して紐が伸び、男の両足、そして首にも白いリングが嵌められているのだ。そのせいで男は不気味な海老反りみたいな姿勢を保ったまま、けれど地面には落ちることはなく、奇妙なその首吊りでの死を遂げている。

 その青ざめた顔や口から零れ落ちる涎を検分して、俺は嗤って愉しんでいる――。

 異様な妄想だった為に現実との混同は起こりにくかったが、しかし、その妄想を経た後、一気に気分が悪くなり、隣の男を(1度妄想の中で殺した『慣れ』でもあるのか?)隙があれば絞殺しかねない自分の昂ぶりを俺は怖れた。

 ある駅に止まると優先座席が1つ空いたので、その人が席を立ち上がりざまにフライング気味に身体を滑り込ませた。優先席の前に立っていた人からは完全に顰蹙の顔を向けられたし、俺も社会的に考えればどうかと想う。しかし、そうでもしなければ人を殺しかねないという冗談みたいな俺の心理状態を考えるとそうせざるを得なかった。俺は優先席に座り、深く身体を折り、頭を抱えているしかなかったのだ。俺のあまりの苦悶を感じさせる様子に気持ちが引いたのか、やがて文句を言うひそひそ声は止んだ。

 俺は会社の最寄り駅に着くまで、じっとそのままの姿勢でおり、自分自身をしっかりと保てるようにただ努めていた。



 会社に辿り着くと『電波』が少しだけ弱まるのを感じた。やはり、いつも勤めている場所というのは、『自分自身』を取り戻させるものなのかもしれない。

 自分が勤務する事務作業の多い部署に入り、上司や同僚に、

「おはようございます」

 と挨拶をしている間に、気分がある程度落ち着いてくるのを感じた。まだ、頭の中がガヤガヤとうるさいような気はしたけれども、例えば普通の人だって殴りたいくらいのストレスを相手に感じたとしても、よっぽどの親しい男友達でもない限りは殴ったりしないだろう。それと同じことで俺はたとえ、周囲の人間に怒りの感情を覚えたとしてもそれを表面に現すことはしないでおくことが出来た。

 というか、見ず知らずの他人を殺すという妄想は案外許容してしまっていた俺も、流石にこの会社に入ってからまだ1年に満たないとはいえ、ある程度関係性も出来てきて親しくもなった上司や同僚をいきなり殺すという妄想を抱くには大きな抵抗感を感じた為、そこら辺がうまくブレーキとして働いているのではないか? と俺は考えた。

 そして、実際に事務作業や雑用を片付け始めると、作業に集中出来る為に、より『殺人衝動』は抑えやすくなった。しかし、あるいはそれが油断に繋がったのかもしれない。仮に、俺に『電波』を送りつけた相手が、俺の脳内を未だに覗けるような、何らかの『接続』を俺に残しているとして、状況に応じて『電波』の強弱みたいなものをコントロールし、俺の致命的な一瞬を狙っていたのかもしれない。しかし、それは全部俺の妄想に過ぎないのかもしれなかった。

 『電波』を受信した後、俺は明らかに物想いが多くなったように感じる。それは『電波』を送った奴の思惑通りなのだろうか? どうなのだろう? やろうと想えば人間は自分の頭の中身を全部疑うこともできる。でも日常生活を送りたい奴は、自分の頭がおかしくなったと信じたくなんてないから、常識とか倫理を疑ったりなんてしない。でも、『電波』は否応なしに俺にとって深読みをさせるものだった。

 とにかく、俺は油断により、ある事態に誘い込まれる。



 仕事柄、パソコンに向き合っている時間も長い俺は、そこまで頻度は多くないならないように気を付けてはいるが、スポット的に昼休み以外にも休憩を取るようにしている。

 長いこと同じ作業にかまけていると、ダレてきて逆に作業効率が落ちてきてしまうことが多い。その流れにちょっと別のことを挟むことで、また気分を1度リセットすることで、仕事にまたスピード感が戻る。俺は人よりも単純に作業をこなす速度が早いのもあって、あまりにも長い休憩を取ったりしなければ、ある程度上司にも黙認してもらっている状態だ。

 そんな訳で、俺は今日も休憩室というか、自動販売機と白いプラスティック製の机と椅子が並べられたスペースにやってきていた。

 『殺人衝動』のことを想えば、今日は余計な休憩等を取らずに仕事に熱中していた方が良かったのかもしれないが、逆に『電波』の為に色々なことを考える余裕がなかったからこそ、普段と同じ行動を取ってしまったとも言えるかもしれない。

 俺は立ったまま缶コーヒーを1缶飲み、それで今日の気分転換は終わりにしようとしたつもりだったが、そこにこうした休憩中や昼休み中に割と話すことのある有里浜(ありはま)さんという女性社員が来たので、そのまま立ち去るには気まずい空気感が出てしまった。



 彼女がいるのに親しく喋る女性社員がいるのはどうか、と想われることを俺も気にしなくはないが、俺は大学生時代から、男の知り合いよりも女の知り合いの方が多い男だった。今は『電波』の影響でその傾向が割と増大しているのはあるけれども、どちらかというと内向的に色々なことを考え詰めやすく、しかも喋るとなるとかなり口の回る俺は、感性としてはうるさいだけで中身があまりない男よりも、色々と話題があり、つまらない愚痴についても延々と話し続けられる女性の方が好みに合っていた。女の子たちも、何となく俺には話しかけやすいようで、よく話をしていたが、男どもがよく噂をする「アイツモテてるしうぜえ」的な言葉は、実は俺にはまったく当てはまらないものだった。

 女の子たちも俺の前では色々と喋りやすいらしく、どっちかというと姉御肌的な人に絡まれることも多かった俺は「アンタは恋愛対象じゃないから」的なことをあけすけに言われることもあったし、お互いの人生について考え合って、その上で深く結び付くことを恋人に求めていた俺は、自覚もあったが端的に言って『重い男』の範疇であり、彼女たちから見れば、あくまで話しやすい存在、実際に話してみると斜め下の方向からの返答が帰ってくる変な男として、絡んでやるかみたいな感じが実情だったと想う。

 鈴愛と大学生時代恋人になってから後は、大学で女子と世間話をすることはあっても、プライベートの時間は完全に鈴愛の為に俺は使うようになった。今もそれは同じで、飲み会はほぼ断っている。「彼女が熱烈に好きですので帰ります」「婚約はしていませんが新婚生活のようなものです。邪魔するのは野暮です」と真顔で言い切る俺は、有能ではあるが確実に変人である新入社員として、周囲には親しまれていた(おそらくだが)。

 有里浜さんもそうした流れの上での関係なので、どっちかというとクールでサバサバしたタイプ、俺が恋人がおり、しかもものすごい熱の上げようであることは周知の事実の為、そこに割り込んでくる感じはさらさらない……というか、有里浜さんも「あなたを恋人になんてする訳ないし……」という雰囲気が言外に滲み出ていた。男女間に友情は成立するか? っていうのは良く聞くテーマだが、俺は実体験的に言うのならば充分、成立するようにも想う。というか、成立しないことになったら、周囲にいる半分の人間とは友達になれないことになるのだが、それは流石にありえない。

 

 コーヒーを飲み終わってすぐに職場に戻れないと分かった時点で、脳内に疼くものを感じたが、有里浜さんがここに来た以上、何も言わずに立ち去るのも不自然だ。

「こんにちは。不良な男子職員さん」

「ああ。こんにちは? スケバンな女子職員さん」

 そこで有里浜さんは吹き出した。ちょっと破れかぶれに繰り出したネタだったがウケてくれたようでよかった。

「スケバンて……!」

 有里浜さんは笑いながら言う。

「だって、男子が不良なら、女子はスケバンじゃないんですか?」

「女子も不良で良いんじゃないですか? っていうかスケバンって何ですか? スケバン刑事的な……? 何か時代がかり過ぎです……。

 相変わらず楽しくやっているようで安心しました」

「うん……まあ……」

 そこで立ちくらみがして、俺は自動販売機脇の柱に手を付いた。頭をもう片方の手で抑える。

「大丈夫ですか? 体調悪いんなら、医務室に行ってみます?」

 疑問形の多い彼女の言葉に、

「大丈夫です……大したことないですし、まだ片付ける仕事がありますんで……」

 と答えている俺の目には有里浜さんの白い首筋が強く焼き付いている。東北地方出身であるという有里浜さんはその影響なのかどうかは分からないが色白だった。そこから安直に雪原を連想した俺は、そっと首に指を掛けると、指で押してみた。有里浜さんの反応は良く聞き取れない。異常に踏み込んだ自覚があるが、自分では抑えが効かない。有里浜さんの首筋に指の赤い痕が見えた。まるで雪原に初めての足跡を付けるような、純粋で子供じみた興奮が襲う。しかし、それからの俺の欲求は一気に膨れ上がり、どちらかと言えば獣じみた欲望の捌け口として有里浜さんを扱った。俺は雪原をざくざくと踏み荒らしたいと、下にある地面とぐちゃぐちゃに掻き混ぜたいと想い、有里浜さんの首に両手の指を絡めた。聞こえるべきはずの悲鳴は聞こえない。まるで、聴覚が閉じてしまったかのように。視野狭窄があり、俺の中の重要事はもはや有里浜さんの首だけだ。夢中になって首を絞めているといつの間にか有里浜さんは死んでいた。あまりにも呆気ない事切れ方だった。その顔はひどく鬱血しており、醜くなった彼女と、黒ずんだ指跡が残されているだけの首に唐突に俺は興味を失った。踏み荒らされた雪原に、もう価値はない。ただ、自分がこれをやったのだと想うと、達成感が込み上げてくる。俺は有里浜さんの死体を見下すようにして嗤った。

 ――白昼夢のようだった。現実と区別は付いてはいたとは想うが自分でそのリアルな妄想を押しとどめることは出来ず、その間にも時間は経過していた。有里浜さんがどこか怯えたような顔で俺を見ていた。

「本当に大丈夫ですか? 何ていうか……不味いことになってません? 指原さん。もはや無理やり医務室に引っ張ってった方がいいでしょうか」

「俺、今どんな感じでした?」

「凄い荒い呼吸で、怖い目で私見ていました……」

「怖かったですか?」

「正直、指原(さしはら)さんを怖がっていたら男性込みの仕事場で仕事は出来ないと想うんですが……」

 それは有里浜さんなりの気遣いなのかもしれなかった。間違いなく俺の状態は異様だったはずだ。しかし、周囲の認識としてはそこまでには見えないのだろうか? 自分の頭の中で起こっていることの比率が多いだけに良く分からない。

「ちょっと疲れちゃってるのかもしれません。すいません、有里浜さんを付き合わせてしまって」

「いやいやそれは全然いいんですけど。でも、本当に大丈夫なんですか?」

「ちょっと1人で休んだらテキトーな塩梅で戻らせていただきます……」

「うーん、逆にちょっと1人にさせた方がいい感じでしょうか?」

「ありていに言えばそんな感じです。……本当に申し訳ない」

「気にしないでください……。いや、ちょっとは気にして欲しいですかね。今度社員食堂でいいのでお昼をごちそうしてください」

 ウチの会社の社員食堂は安い……心配そうにしながらも最後には茶目っ気を覗かせて、有里浜さんは去っていった。

 しかし、そんな彼女を俺は妄想の中とはいえ、『電波』の影響とはいえ、あんな風に愉しむように殺したんだ……。俺は、ある程度親しい人がいる場所で『殺人衝動』に駆られることは、大多数の他人がいる場所とはまったく別のリスクを孕んでいることを否が応でも認識させられた。どうしようもない罪悪感に駆られる上に、一気に自分が信用ならない存在になったような不安感に苛まれる。しかし、それも『電波』の送信者の想うツボかもしれない……。

 何とか自分を取り戻して、職場の自分の席に戻った時には、

「流石に長い休憩過ぎる。もうちょっと仕事に対する意識をしっかりと持て指原」

 と上司に叱られたが、それも当然のことだと想った。

「……はい」
 
 と静かに答えた俺は、それから自分の中から『殺人衝動』を全て弾き飛ばすかのように、ある意味病的に仕事への熱中を続け、結果的に昨日よりも1時間前に全てのタスクを片付けてしまい、報告した際、上司に逆に引かれた。

「あまり想い詰め過ぎるな」

 とまで言われた。何ですかそれ。

 俺はそれからも積極的に仕事や雑用を引き受け続け、定時まで何とか忙しない状態を保つことに成功した。むしろ仕事をくれとお願いして回ったりした。聞こえてくるひそひそ話によると、

「指原はいつもおかしいが、今日は特におかしい」

 とのことだった。放っておいて欲しい。



 とはいえ、この状態で月曜日からも仕事を続けるのは確実に困難を伴うような気が俺にはした。鈴愛を助けないといけないのは勿論のことだが、会社での仕事も当然重要だ。俺は何としても、今週末に『電波』との決着を付けなければならない。

 帰りの電車に乗る際は、行きと同じように座席に頭を抱えて座っていることにした。行きの電車では通勤ラッシュに揉まれることになるが、帰りの電車は電車で退勤ラッシュ的なものが発生してしまう。混雑の中、席に座るのは困難だが、ホームのベンチに座って頭を抱えつつ、アナウンスの度に到来する電車の車内を確認しながら、電車を2、3本やり過ごしていると、3席ほど席の空いた車両が目の前に止まった。俺は電光石火の動きを見せ、まあ朝ほど強引ではないが割とウザいくらいのレベルで留まるような感じで自席を確保すると、右手のひらを目の上に被せ背もたれに体重を預けて大きく息を吐いた。

 忙しなく働いた余韻か、頭には少しばかりの空白というか、心地良い疲労感が残っている為に『電波』は俺に強く働きかけはしなかった。常に囁き続けているかのようだった。

 しかし、どうしても持て余す時間があると余計なことを考えてしまうもので、俺はまた発想してしまうのだが、もし『電波』の送信者が強弱みたいなのを付けられるとして、そいつの目的が俺の社会的な生活の崩壊、あるいは社会的な死なのだとすれば、もう常に『殺人衝動』を送り込まなくても、たった1度俺に行動させてしまえばそれで済んでしまうのだ、と想うとそれはそれで怖気を振るう感じだった。

 勿論、常に『殺人衝動』を送り込まれるのはキツいかもしれないが、それはそれで対処のしようはなくはない。これまでは仕事を休むことを頑なに拒んできてしまったが、いっそ仕事を休んだり、辞めたりして再起を図ることも出来なくはないかもしれない。しかし、これがいきなり『殺人衝動』の強い働きかけがあり、例えば本当に人を殺してしまったりしたら、「『電波』が俺にそうしろと命令したんだ!」と言ったところで完全に気狂いとしか扱われず、そのまま死刑になってしまうだろうし、そこまで行かないとしても、暴力騒ぎを起こしたりしたら、規模にもよるが今の職を辞さなくてはいけない可能性も高いし、その場合、再就職もそういった前科があると厳しくなってくるかもしれない。『電波』を植え付けられるという状態で、自分の社会的な立場を改めて考えるというのは、少々牧歌的というか、とにかくこの『電波』の送信者をぶちのめすのが最優先課題ではあるにしても、今日俺が感じたのはやはり自分も社会的な活動をする一員なのだ、ということだ。

 会社で仕事にのめり込むことによって『電波』が一時的に落ち着いたように、俺はやはり、会社や社会、そしてやる仕事があるということによって案外支えられている部分が大きいところを改めて実感させられたのだった。

 他人に迷惑を掛けるリスクすら含む以上、もう問題は俺と鈴愛だけに留まらない領域に達しているかもしれない。しかし、相変わらず、警察に相談はしにくかった――やはり「人を殺したいという妄想が浮かんできて、それは多分誰かに植え付けられた『電波』なんです」みたいに言ってくる男がいたら、俺が警察だとしてもその男の勾留を考えるに違いないと想えたし――そして精神病院に関しても、問題が内部ではなくて外部にあることが確定している以上、そういった場所に行っても単なる気休めにしかならないだろう。依然、『解決手段』においては私的に送信者を叩くことしか発想出来そうになかった――その場合、俺が帰宅途中感じた『凝視』が鍵になっていくだろう。

 そこまで考えたところで、最寄り駅がアナウンスされたことに気が付いた。危うく乗り過ごすところだったので慌てて俺は降りた。

 問題は俺と鈴愛だけに留まらない、と1度考えたところで、俺が1番世界で大事なのは鈴愛であり、1番心配なのも彼女のことだという優先順位は揺らぐことがなかった。今日はどう過ごしたのか、鈴愛は今何をしているのかが駅を出たところで気になって仕方がなくなり、30分の道程を全速力で走り切る体力のない俺は取りあえず出来る限り足を早めようと努めた。

 鈴愛のことを想う浮かべれば浮かべるほど、彼女の『電波』をどうにかしてやりたくて仕方がなくなるほどに、一種の視野狭窄が生まれるのだろうか、俺への『殺人衝動』の効果は強くなっていくかのようだった。帰り道、足がふらつきそうになることもあったが、今日はあの映像的に挿し込まれる殺人の妄想に囚われることはなかった。しかし、マンションとアパート群辺りに差し掛かった辺りでふと想うのは、昼休みの有里浜さんへの『殺人衝動』だ。もし、『電波』の送信者が俺に殺させる『対象』を絞ってきたとしたらどうする? 俺がいくら『殺人衝動』に脅かされたとしても、まったく赤の他人を殺すという妄想は突飛過ぎて、流石に実行には至らないだろうと想えた。俺がもし、殺してしまうとしたら、それは最も身近な相手、なのか? いやいや、流石にそんなことはないだろう。と俺はその発想を掻き消し、なかったことのように扱った。愛する者を殺す――そんなことはありえないと断定的な否定を自分で加えておきながらも、しかし逆にその否定の強さこそが、ある1人の人間に愛を深く深く捧げ過ぎてしまう、俺の危うさを確かに示してしまっているのかもしれなかった。

 今日は家のドアには鍵が掛かっていなかった。『電波』受信後の鈴愛にはそれが普通なのかとも想ったので、逆に何者かの襲撃でもあったのではないかと心配になったが、それはまったくの杞憂だった。

 居間に通じるドアを開けると――鈴愛が踊っていた。

 丁度、ヴィオラでも似合いそうな美しいなメロディーを口ずさみながら(それはおそらく鈴愛の即興なのだろう)、じたばたと暴れるようなモンキーダンス的な動きではない、しかし既存の踊り・ダンスにもカテゴライズできないような流線を描くような動きを見せている。涼やかな印象だが、しかし動き的にはかなり幅が大きく、ステップを踏むようにし、リビングのテーブルを脇に寄せることによって出来た空間を華麗に飛び回る。それなのに、足音がほとんどしない。まるで水面を跳ねている妖精みたいだった。鈴愛の目は無機質で、どうしても異様な感じは漂っている。しかし、俺は鈴愛の動きの好ましさが凝縮されたみたいな踊りに想わず見惚れた。

 手首を柔らかに垂らしておき、上に腕全体を伸ばすに従って、手首もゆっくりと花が咲くみたいに持ち上げてみせたり、音を立てない跳躍をした先でくるりとターンしてみせたり、足での見た目的に激しい移動的な動作と手のまるで海の波や風に揺れる草木を想わせる表現の巧みさが踊りに緩急を付けており、彼女が口ずさむメロディも踊りに応じて調子が変わっていった。

 そうして俺は、あまりに鈴愛の踊りに集中してしまって気付かなかった、というか気付いていたんだけど俺の中でどうでもいいことになっていた、部屋を薄く覆う白い靄に俺は対処することにした。

 何か変な物でも焚いたのではないかと靄の発生源を探ってみると、何のことはない、水が一杯になった鍋に火が掛けられ、その蒸気が部屋に薄く掛かっていただけのことだった。道理で無臭だったはずだ。勿論、このまま火が付けっぱなしで俺が帰ってなかったと仮定するとゾッとしないが、吹きこぼれや安全の為の装置の作動により消えた可能性もなくはないし、『電波』を受信する際の異様な様や、ポリエチレンのエアーシートを食べては吐き出していた鈴愛と比較すれば、今の靄を演出みたいに使ったのは充分に元の鈴愛らしいというか、勿論突飛ではあるけれど鈴愛らしさがちゃんと込められていた気がする――と想って俺が顔を上げてリビングを覗くと、鈴愛の姿が消えていた。

 俺は焦り、玄関の外に飛び出すが改めて確認すると鈴愛の靴はちゃんと揃えて置いてあった。『電波』を受信してからの彼女は外には出ていないのかもしれない。それは木曜日の夜から変わらぬ揃え方に見えた。そこまで広くもない俺たちの家を巡ってみる。寝室にもトイレにもいない――とそこまで確認して気付くのだけれど、時間的に鈴愛はリビングからそこまで遠くに移動する余裕はなかったはずだ。焦り過ぎたことを俺は反省した。リビングに戻ると、鈴愛の鼻歌が微かに聞こえた。丁度、キッチンからは若干死角になっているのだが、リビングから通じる場所には、キッチン、玄関・寝室・トイレと通じる廊下の他にもう一箇所ある。それは洗面所とそこから通じる浴室である。

 鈴愛の鼻歌はその洗面所へ通じる引き戸の向こうから微かに漏れてきていた。

 視界が曇っていたのもあるだろうし、今日の鈴愛がさっきの踊りに象徴されるように音を立てないが滑らかな動きをするということに凝っていたこともあるだろうが、『電波』に侵されているが鈴愛らしい鈴愛ってことにどうも俺は感慨を受け過ぎていたらしい。現状分析をするのならともかく、現実が見えないくらいに物想いに耽るのは危ないかもしれない。気を付けよう、と想いながら、俺は鈴愛の様子を念の為確認しようと、洗面所への引き戸を開けた。

 洗面所と浴室を仕切る曇りガラス戸は今は開け放たれており、鈴愛は湯を張ってない浴槽に足を抱えない体育座りのような感じですっぽりと収まっていた。彼女は目を閉じて穏やかな寝息を立てている。

 浴槽にはまだ水滴が付いた状態で残っており、鈴愛の服も少し湿ってしまっただろう。

「……風邪引くぞ。ほら。鈴愛」

 呼びかけながら肩を軽く揺さぶってみるが、短時間で結構深く寝入ってしまったのか、彼女は疎ましげに唸るだけだったので、このまま無理やり起こしてしまうのも忍ばれた。

 そこで、気付くのだけれど、水滴が浴槽に付いているということは、鈴愛はちゃんとシャワーを浴びた……つまりは俺との昨日の朝の約束を今日も守ったということだ。

 何だかそれで、心がとても緩んでしまって、俺は鈴愛の頭をゆっくりと撫でた。『電波』の影響下にあるはずの彼女の顔は、それでもほころんだように俺には見えて、幸せを感じた。

 これがつかの間の平穏だなんてことはちゃんと分かっている。本当の解決は問題の根源である『電波』の送信者をぶっ飛ばす以外にはないだろう。

 けれど、少し浸ることを許して欲しかった。俺は30分ほど鈴愛とそのまま一緒にいると、服も乾いてきたようだったのでむずがる彼女をお姫さま抱っこしてベッドまで運んだ。



 翌朝、覚醒の瞬間、何かが頭を覆っていることに気が付いた。俺は柔らかな感触に、俺はいっとき安心を得たものの、すぐにその異様さに気が付く。

 頭痛が――ひどい。

 目を開けると、鈴愛が俺の側頭部を両手でサンドしている様が認識された。その柔らかな手が、俺を撫でて、癒してくれていると想えたのならどんなに良かっただろうか!

 しかし、実際には彼女の口からは、

「みゅんみゅんみゅんみゅんみゅん……」

 という例の低い気の抜けたような囁き声が漏れ続けており、鈴愛の目は瞬きもせず俺に固定されているのだった。

 俺は昨日感じた幸せな気分を、一気に壊されたように想った。そして、実際問題、鈴愛を介して俺の頭の『電波』を更にアップデートしているかもしれない今の状態をそのまま許しておく訳にもいかない。

「鈴愛っ、ごめん!」

 彼女の身体を軽く突き飛ばすようにすると、拘束は強くなかったようで鈴愛の手は簡単に俺の頭から外れた。

 これなら、もっと優しい感じで手を外しても良かったかもしれない。しかし、鈴愛から『電波』が送り込まれていると分かった瞬間、俺は鈴愛にそんなことをさせている送信者がどうしても許せなくなったし、鈴愛にそれ以上その行いをさせておくのも耐えられなかった。そして『殺人衝動』はこれまで以上に昂っており、もしかするとその乱暴な挙動もその『電波』からの影響なのかもしれないと想うと悔しさもあった。

 鈴愛は俺に突き飛ばされた後、いかにも不思議そうな顔で俺を見ているようにも想えて、それは『電波』に侵されていない彼女の素のようにも感じたけれど、しかしその目は、いつの間にか無機質な物に戻ってしまった。

 俺はベッドを転がり出て、頭を抱えてうずくまった。無意識に昨日の鈴愛の姿をなぞったのか、俺は膝に頭を埋めるようにしている。

 鈴愛から離れると、『電波』はむしろ、『殺人衝動』として俺を衝き動かすのではなく、俺の頭の中で焼いた鉄の重りのように存在感を発揮し、俺の考えは千々に乱れた。インフルエンザに罹った時のような高熱と、頭が朦朧とする感じがあり、初回『電波』を身に受けた後よりは感覚的にはマシだが、あれとはまた別種の感もあり、まったく身動きが取れない。取る気がしない。

 幸い、鈴愛を介した追撃はなく、どれくらいそうしていたかは分からない――ようやく動けるようになって時計を確認すると、8時半を少し回ったところだった。休日も出勤時間に合わせて目が覚める俺としては完全に寝坊だ、と日常感を取り戻そうとするようなことを想ってみるけれども、全然笑えなかった。

 もう、終わりにしなきゃいけないよな。鈴愛の中に、これ以上『電波』をのさばらせておくのを許してやるか。

 彼女をまったく見も知らない誰かの人形みたいにさせてはいけない。

 『電波』がある状態の日常に少し馴染んだかに想える昨日の鈴愛の様子に感じた平穏の気持ちは捨て去るべきだ。あんなので喜んでどうするんだ俺。あれは本来の鈴愛なんかじゃ全然ないんだ。

 俺はどのようにして『電波』の送信者を探そうか考えたが、名案みたいなのはまったく浮かばなかった。

 頭痛の余波もあり、リビングの定位置で頭を抱えていると、ごとん、という物音が机越しに伝わってくる。顔を上げると、鈴愛がサラダボウルを目の前に置いていた。エアーシートの再来かとも想ったが、それは普通においしそうなサラダだった。当たり前のことだった。鈴愛だって水を飲んで、食べなければ、今日まで保たなかっただろうし。

 しかし、サラダをしばらく食べたところで、彼女はボウルの中に吐き戻してしまった。その表情には純粋な困惑が見えた。俺は必死に鈴愛に駆け寄り、その背中を撫でながら哀しくなった。

 鈴愛がエアーシートを食べるまでにこんな一幕があったとしたらどうだろう? 何を食べても身体が受け付けなくて、でも何かは食べないといけない。『電波』で変調させられ、恐らく『味覚異常』も与えられていた鈴愛は、エアーシートを噛みしめるまでになるしかなかったんじゃないか? それがその時の彼女には唯一おいしく感じられるものだったのかもしれない――たとえ、そこに栄養がないことを鈴愛自身知っていたとしても。

 俺の中で静かに決意が固まっていく。

 サラダを綺麗に片付けてから、念入りに煮込んだ粥を鈴愛にゆっくり食べさせ、俺はほぼ無策のままで外に出た。とにかく落ち着いていられないのもあった。

 何があろうと、俺は送信者をこの手で捻り潰してみせる。



 街を走りながら俺は考える。送信者がどこまで俺の頭に介入できるのか、それは不明瞭だ。感じてきた『電波』の強弱は送信者によるものなのか、そして、俺の頭の中身を読むことまで可能なのかどうか。

 どちらにせよ、鈴愛を介して俺に『電波』をアップデートしてきた以上、送信者は土日に俺が解決を試みることを読んできていたはずだ。

 しかし、逆説的にこのタイミングを選んできたということは、俺が辿り着ける範囲に送信者の所在はあるということにならないだろうか? 確実にその誰かは焦りを感じているに違いないのだ。

 そして、ここからは俺の感覚から想起した妄想も込みになってくるが、鈴愛の『電波』受信の状況は良く掴めないからひとまず置いておくとして、俺が『電波』を受信する時に確実に感じた『凝視』、至近距離に送信者がいたとは俺も想えないが、しかし、あれは少なくともあちらからは俺が見える位置に送信者がいたことの1つの証明ではないか? 俺は強く確信していた――勿論、それが外れればもうどうしようも手がないのも事実ではあったけれど。

 『電波』の送信者は、この街にいる。



 俺はとにかくこの街をしらみつぶしに駆け回ることにした。本命は俺が『電波』を受信したあの何もなさを感じさせる区画だけれど、そこにすぐに出向くことはせずにまずは駅近くのこの街にしては繁栄していると想われる辺りから捜索を始める。俺の『電波』は逆に送信者を探知するソナー足り得ないだろうか? 送信者の近くに行けば行くほど、『殺人衝動』が強くなったり、または俺が近付くことによる焦燥が、更なる『電波』送信等を招かないだろうか? 送信者は今、俺に対して優位に立っている。ならば、そのカードを適切に切ってくるはずだ……。俺に更に攻撃を与え、致命傷を与えることを狙ってくるだろう。そうなると俺が取った策は諸刃の剣でもあるし、俺の中で蠢く『電波』は過去最悪のものだったので、もはや送信者は籠城を決め込むだけで俺に勝利できるのではないかとすら感じられたが、そういった不確定要素は顧みずに、ただひたすらに足を前に押し出す。

 ――そう、これは送信者の捜索であるが、同時にもう俺にはこれくらいしか打つ手がないくらいに追い詰められていたのも事実だ。これが最善手とは想えないが、それを考え抜く時間もなければ、発想できるという保証もない。だとしたらもうできることは身体を動かすくらいだ。

 他人とすれ違う度に胸の中で不快感のような黒いもやが広がっていくかのような体感を押し殺すように、俺の記憶は過去に飛ぶ。その過去を力に変えたいと俺は願う。



 その頃、俺と鈴愛はまだ大学生で同棲もしていなかった。しかし、その頃から恋人の鈴愛に捧げる俺の愛の深さは少しも変わってないように想える。

 鈴愛は活発な性格で、俺は『どちらかというと』というよりも、『完全に』インドア派だったが、鈴愛に振り回されることは彼女の普段感じていることを体感できる機会とも俺は捉えていたし、彼女と一緒にいられる時間は長い方が純粋に嬉しかった。

 その日は鈴愛の発案&鈴愛の運転で、山を登った先にある神社に来ていた。

 神社の参道はまるで山から切り出したみたいな感じで、確かに人の手で作られた道ではあったのだけれど、自然と一体化しているような感があり、その登りは結構、俺にとってはキツいものだった。

 鈴愛は涼やかに苔むした岩の表面に水が滑り落ちていくみたいな地点で「さあて、休憩タイムだよー」と朗らかに言った。

 俺はその水のせせらぎの近くに設けられた、石で出来た水飲み場を利用し、ちょっとマナー違反かもしれないが、手を洗った後、顔にも水を掛けてタオルで拭った。ちょっと飲んでみるか、と想っていると鈴愛の方は岩の表面に流れる水に近付き、飛沫を受けながらもその流れを手で掬い取ると俺が止める間もなくそのまま口に持っていった。俺はそれを呆然と眺めた後、

「お、おいおい……流石にそれはどうなの? 鈴愛。雑菌とか平気なのか?」

「多分、大丈夫じゃないかなー。だって、飲んでも大丈夫って書いてあるよ」

 言われて見ると、確かにあったけど、何かそれは何だか風景にそぐわない立て看板なのだった(『このせせらぎは直接お飲みになることも可能です』)。

「それが仮に悪戯だったとしたらどうするんだ? 鈴愛お腹壊しちゃうよ……」

「もうっ! 槇人は心配症だなあ……。そんなことを言ってたら人生楽しくないですよっ!」

「楽しさよりも俺はリスク計算を取りたい……」

「もう冷静沈着なんだからっ! 

 ――そういうところ大好きだよ……」

「俺も天真爛漫でバカな鈴愛が好きだよ……」

「バカって言わないでよ……この有能……」

「鈴愛がバカでも愛してるよ……」

「いい加減、前にバカ付けて言うのやめてよ!」

「どんな鈴愛でも、俺は世界で1番好きだよ……」

 とか言いつつ鈴愛を抱きしめてみるんだけど、冷静に俯瞰して見ると謎テンションでイチャつき過ぎだよなあ俺ら、とは想う。2人で鼻歌を歌いながら、その場で抱きしめ合いながらくるくる回ってみた。目が回った。身体を離す。鈴愛といるといつも俺のテンションもハイになりっぱなしだし、更に今日は山登り的参拝の疲労と高揚のせいかいつもより2人の勢いが3割増キャンペーン中。

 少し落ち着いたし気分転換も出来たので、俺たちは何事もなかったかのように平静な顔でまた山を登り始めた。

「まあ、お腹を壊してもそれはそれでまた一興かな、って想うんだよね。それはそれで……」

「大変なことも喉元過ぎ去れば大切な想い出って? でもぶっちゃけ現時点ではそうなったら困るだろ……トイレとかないし」

「いやいや、私はそんなことを言ってるんじゃなくて、もうちょっと深い良い話をしているの!」

「それじゃあ、それはどんな深い良い話なんだよ……」

「うーんそれがどんな深い良い話かっていうとね……。

 …………。

 ……」

「……おいまさか、考えてなかったのか」

「……今、考えてるの!」

「結局、考えてなかったんじゃんそれ……」

「……うーんとね、お腹の中にもいっぱい細菌とか住んでいるじゃない? 共生とかって奴。人間は生きているだけで色々な細菌とか微生物とかと一緒に生きているんだよ……飼っているんだよ。たくさん!」

「飼っているとか言われるとなんかいかにもペット的な感じだけれど……それは置いておいて、鈴愛のお腹を壊すような奴は細菌っていうよりはウイルスだろ? 悪影響を与えるものさえも共生しちゃうのか?」

「う~ん。何とも言えないけど、私は漠然と色々なものと仲良くしたいと想ってるんだよね」

「それが、鈴愛に害を与えるような存在でも?」

「うん。あっちが攻撃してきても、こっちが怒鳴り返す必要はないんじゃないかな。優しく撫でてたら、案外ほだされてくれるかもしれない」

「でも、お前の方があっちに染まっちゃうかもしれないだろ?」

「それでも、私は手を差し伸べてあげたいかなあ……」

「鈴愛って人の相談を受けやすいもんね」

「まあ、積極的に相談を受けに行ってるところすらあるかもしれないよね。苦しみは皆で分かち合って、少しでも楽しく生きていけたらいいなあ、って」

「そうかあ……」

 それは鈴愛の弱さであり、甘えであるかもしれなかったが確実に彼女の優しさでもあるだろう。そして、彼女は時に攻撃的にもなり、時にはナイーブにもなる俺と、問題も孕んだこの俺と、誰よりも深く繋がった上でこういうことを言ってくれる。共に歩むと言ってくれている。彼女に1番話をし、自分の悩みについて話してきたのも間違いなく俺だからだ。他人とはどうしても共有しきれない人間という存在について。どうして女性の友人ばかりで男友達が出来ないのかという素朴な疑問のような悩みについて。彼女には色々な打ち明け話と相談を重ねてきた。彼女はそれに答えながらも、時に自分の人生観について話した。俺は、俺は何だかじーんと来てしまって、「ありがとう……」とかなんかお礼を言ってしまう。

 「んー?」と首を傾げた鈴愛の口元は俺が黙って考えていることが分かったのか、暖かみを感じさせるほころびかたをしている。そんな風にお互いの想っていることが分かってしまうくらい、彼女とはやり取りを重ねてきたんだ。

「また鈴愛のことが更に好きになっちゃったかもな」

「そうなの? 主にどこら辺に対してかなー」

 彼女はとぼけてみせるけれど、

「とにかく、鈴愛は俺に対して1番優しいってところがまあ最高だね」

 俺は率直に答える。

「そうだよ。槇人が1番好きになるくらいな女の子が私だよ。

 何度でも、何度でも私に惚れ直してくださいね」



 そう。鈴愛はそんな女の子だった。そんな彼女こそが俺の恋人だった。俺は取り戻すというその想いを強くすると共に、彼女は根っからの受け入れ気質であったことも俺は改めて考えを深める。

 彼女の許容力の高さは、『電波』という明らかな自分にとっての異物ですらも無意識化に許容してしまったんだろうか? それが彼女に『電波』が定着しやすく、俺よりも異常性の進行が早かったことの理由だろうか。今朝の鈴愛を介した俺への『電波』の送信は、送信者が鈴愛を傀儡的に操ったと仮定して例外扱いすれば、鈴愛の症状は日を経るごとに定着を深めたかもしれないが、その中で鈴愛らしさも強く感じられるようになってきた。昨日の踊りなんてのはその際たるものだ。鈴愛も鈴愛なりにきっと『電波』と向き合って、必死にそれとの共存を目指したのだ。鈴愛なりの戦いがそこにはあったんだ。

 俺は自分だけが戦っている訳じゃないんだと心を強く持とうとするが、走れば走る程、俺の中の『電波』は強まっていく。鈴愛の『電波』は安定していったが俺の『電波』はむしろ強まってきている。自分と他人の境界線を強く引いている俺だからこそ、『電波』が完全に同一化した時に危ういのはむしろこっちの方なのかもしれない。

 時間はいつの間にか過ぎ去っていく。俺の心の中のウエイトは鈴愛の存在が大きく占めるようになってきていて、俺はもはや鈴愛との過去の回想に縋らずにはいられない。俺はとにかく身体だけは止めないようにする。止まったら終わりだ。時計を見るといつの間にか正午を回っている。位置的にはちょっと裕福そうな層が住んでいる住宅街辺りに差し掛かっている。現実がどこか霞んで見え、鈴愛との回想だけが鮮明で、そして、具体的な作戦について頭が回らない。俺はとにかく、街を駆け巡りつつ、とにかくあの何もない区画に徐々に迫っていかなければ、とそれしか考えられなくなっていく。蜘蛛の糸に徐々に絡め取られていくかのように、時間的にも俺の精神的にもリミットが迫ってきているような気がした。決着は付くのだろうか? その行動の根本目的に確信を得られないままに、それでも俺は動き続けるしかない。鈴愛との回想に必死に心を逃がし、『殺人衝動』から必死に目を逸すようにして、俺は街中を走り続ける。



 ようやく神社に辿り着く。鳥居をくぐり抜けて、手水場で手を洗い口に水を含み、参拝を済ませた俺たちだったがそこで鈴愛がおみくじを引きたいという。最近の神社では、おみくじもフォーマルな物の他に色々な種類があるようで、その中の1つに『恋愛みくじ』というものがある。鈴愛は何故か興味津々で、俺は、

「これはどうせ、付き合う前の男女のこれからの関係性とかを占うものだろ、きっと。俺たちが引かなくてもいいんじゃない……?」

 と何だか嫌な予感を感じているのだけれど、鈴愛の興味関心を俺には押し留めることが出来なかった。鈴愛に引こう引こうと言われている間に、俺も一体どんなことが書かれているのか興味が出てきてしまった感もある。

 なので、2人で一緒に引いてみた。

 俺の方のみくじは結構当たっているように見えて、恋愛みくじもなかなか面白いじゃないか、と想う(『今見据えている相手から目を逸らさないように』とか『考え詰めないことが肝要』とか『もう俺は人生を共にする相手ともう出会っている』と読み取れる部分があった。他はちょっと的外れな気もしたのだけれど)。

 ただ、問題は鈴愛のおみくじの方で、何だか読みふけった後、若干沈んでるっぽかったので、手から奪い取ってみたところによると、『たとえ相手が視線を左右させていたとしても、あなたは相手を見つめ続けることです』という一節があり、これは何だか今後、俺が浮気するかもしれないことをかなり直接的に示唆しているように想った。だから嫌だったんだ恋愛みくじ。っていうかこんな現在付き合っている恋人同士が気まずくなるような文言を入れるなよ……空気を読んでくれよ……。

「結構、気分的に落ちちゃったりしてる? 大丈夫、鈴愛」

 んんー! と鈴愛は唐突に背を伸ばして、気分を切り替えたみたいに言う。

「まあ、私たちならこんなおみくじなんて乗り越えていけるでしょ」

「そうだよな……。俺はどっちかって言えば、鈴愛が離れていっちゃうことのが心配だよ」

「こんな槇人に浮気なんて出来るとは想えないしね……私以外じゃないとダメでしょ?」

「そうだね……鈴愛にやみつきだからね」

「それにさ……槇人の気持ちがもし、もしね、揺らいだとしても、私はずっとずっと、槇人のことを愛するよ。そこは迷惑とか考えてあげないよっ! ずっとずっと好きでいるよ。

 世界が終わっても、槇人が死んじゃっても、私が死んじゃっても好きでいるよ」

「鈴愛が死んじゃったらどうやって俺を想い続けるんだ?」

「幽霊になったり、死後の世界に行ったりして想い続けるよ」

「人間が死んだ後に至るのは無なのだった……」

「もうっ! 何か意地悪だね……でもさ、私はもう死後の世界がなかったら自分で創る勢いだよ。死んだ後の槇人の居場所もちゃんと用意しておくよ。だからきっと、槇人は私の元に帰ってきてね。

 どこかに行ってもいいから……私の元に帰ってきてください」

「俺は……俺はさ、もう鈴愛しか考えらんないよ……。お前じゃない誰かにこんなに自分を晒したりしたくないし、ずっとずっと一緒にして欲しい」

「うん……」

 木陰に移動して、俺はしばらく鈴愛の体温や心臓の音を感じ取れるくらい、ひとつであるって錯覚できるくらいに、深く彼女のことを抱きしめていた。

「何かさー。やっぱり常に前向きでいたいよ? それに自分から恋愛みくじも引いたし……。

 でもちょっと正直、不安になった」

「……………………。

 ……大学卒業して、就職した後の楽しみにしとこうと想ったんだけどさ」

「うん?」

「同棲しようか。……実はもうある程度貯金はしてある」

「なるほど……。私を独り占めしておきたいの? 槇人は」

「勿論だよ……」

「あのね、でも槇人は私を専有しとかないと不安なのかもしれないですけどねー」

「ん? なに」

「私は槇人がどんなことをしようとも無垢の信頼を捧げるよ。もう本当に槇人を100%ピュアに信じ続けるよ」

 これまでの展開を覆すように彼女はそう言って、

「だから同棲しちゃおう」

 こう付け加えた。

 だから俺もそれに応じる。

「……そういうことにしてみるか」

 そうして、まあそんな感じで、俺たちは同棲することを約束したのだった。



 まあ、それから色々とゴタゴタめいた物もあって、実際に家が決まるのに2、3ヶ月、同棲が始まるのには半年以上掛かったというのはいかにも現実らしいオチだけれど、その期間のおかげでちゃんと就職以後も一緒にいられるような体制を作れたのも事実だし、鈴愛からこっちに『楽しい喧嘩』を吹っかけるネタがひとつ増えるという意味で、俺たちはなかなか一緒に住む賃貸が決まらないというその状況自体をそれはそれで面白がったりもしていた。

 俺たちは心の明るい部分も暗い部分もなるべく相手に見せてしまおうと心がけていて、歯に衣着せぬ物の言い合いを好む。喧嘩とかも何故か楽しんでしまう。しかもその後、反動のようにいちゃいちゃしだしたりするので、何か、あまり良い相手に恵まれなかったらしい大学の女子の先輩からは、「指原と井野は何か私が知ってる『彼氏彼女』のカテゴリを逸脱してる気がするんだけど……何なの、アンタたち」とか言われたこともある。俺は「結婚を前提としたお付き合いです。っていうかもはやゆりかごから墓場までな関係」、鈴愛は「もう槇人は私にとってソウルメイトっていうよりはソウルフードって感じです!」と応えたので流石に先輩もそれに返す言葉が想い当たらなかったらしく、目を白黒させた後、「やっぱり指原と井野は指原と井野でしかないな……極まってるな……」と若干呆れた風に言ってくるので、「そうです。指原とー」「はい! 井野です!」とかこういうやり取りを延々と想い出していくとキリがないのでやめておく。

 現実で、あの何もない廃墟めいた区画に差し掛かると共に、楽しかった記憶に逃げ込んでいた分、激しい苦しみが俺を襲ったようだった。確かに『電波』はその強弱によってソナー的な役割を果たすかもしれない。焦った送信者は、俺に更なる攻撃を与えるかもしれない。しかし、俺は本当にそれに耐えられるって言い切れるのだろうか?

 痛みが増した気がする。俺の息はひどく乱れ、単純に走り過ぎたことによる喘ぎと、脈拍が乱れるレベルで『電波』の介入により、呼吸をするのさえ難しく感じた。

 この区画に送信者がいるのは間違いないと想う――しかし、案外、この区画も広い。俺は逃げ出したい気持ちでいっぱいになっていた。頭の中に灼熱の鉄が挿入され、それが俺の脳を栄養分にして徐々に大きく大きく成長していくような、焼け焦げる痛み、俺はそれにイライラしてとっても不快で、どうしようもなくて、ここから遠ざかりたいけど、でも鈴愛のことを想うと、足は前に出た。

 俺は精神の限界が近いのを自覚しながらも、思考を放棄して身体を動かし続けるが、それも数分で終わる。

 目の前が暗転したような気がして、自分が戦いから遠ざかっていくようなそういう茫洋とした感覚と共に、俺は何者かに身体を明け渡すような錯覚に囚われる。



 目をパチパチと瞬くと、そこは駅前の繁華街風の区画の外れにある場所だった。何だか、視界に黒い影が普通に掛かっていて、目をちゃんと開けてるのに、何だか覗き穴から現実を見ているようだ。

 ――俺は逃げ出してきたのか?

 でもまあ、そんなことはどうだっていいな。そんなことよりも俺にとっては、今、中華料理屋から出てきた家族の方が大事だ。俺は周りの空気に自分が溶け込むといいんだけど、と想いつつ、あくまで気取らずに鼻歌を歌いながら、彼らを尾行した。後頭部の中央の分け目がキュートな、小さなツインテールの小学生くらいの子供と、年齢の割には綺麗って感じのご婦人、そして黒縁メガネを掛けた堅実そうな亭主の3人組だった。ごくごく普通って感じ。普通はつまらないよなあ。でも、普通が異常にぶっ壊れるとなると、話は別だ。尾行は簡単に成功した。愛すべき日本人の警戒心のなさ。

 翌日、亭主がスーツ姿で通勤するのを確認してから、俺は普通にナイフを抜き身で取り出してから、ピンポーンとチャイムを押して、出てきたご婦人の口を塞ぎ、侵入した。取りあえずデカい声を上げた瞬間殺すからな、と言ってみる。ご婦人はこくこくと頷いた。

「ところで平池ご婦人。今日は日曜日なのにご主人は何で出社したんですか?」

「な、なんでそんなことを聞い……分かりました! 分かりましたから! 娘に手は出さないでください……」

「ああ。娘さんいるんですね?」

 まあもう知ってるけど。

「あと、質問に答えてもらえますか」

「今日は特別に日曜出勤なんです……だ、だけど、あなた、どうしてこんなことをするの……! 何が目的なの?!」

 娘の存在を教えてしまい後悔に震え、そして必死の言葉を吐き出す母親に俺は端的に答えた。

「こうする」

 

 俺がざっくり調べたところによると、平池忠司(ひらいけただし)は52歳の来見(くるみ)銀行生頼(おうらい)支店の中間管理職、ポスト的には経理部の部長で年収は720万円。新卒の俺と比較すれば凄い貰ってんなって感じだけれど、給料が多いか少ないかは個人的な価値観によるだろうし、俺はあまり給与の推移に興味を抱かない人種だった為に、それが一般的に考えて多いかどうかは分からない。まあ物凄く高いって訳でもないからこの銀行は地方銀行の1つみたいな感じなのかな? 聞いたことないし。

 ちなみに娘の一夏(いつか)ちゃんに聞き出したところ、忠司さんはどうやら長男らしい。

「……お、お父さんには……弟が、いるみたいです……」

 って泣きながら答えてくれたし。そういえば、奥さんの方は名前を聞く前にアレしてしまったな。まあどうでもいい。

 取りあえず、一夏ちゃんにお母さんが死んじゃったことを教えてから、その泣き顔を見つつ、俺は色々と楽しむ方が俺には大事なのです。

 さてと。



 平池忠司は、帰社する際に特にこれから起こる悲劇について想いを馳せたりはしない。そんなに突発的な不幸が我が家に起こるだなんて微塵も信じてはいない。今日の続きは明日って信じているし、続き物は大体いつもおんなじ調子だろう、って想っているし、そこは諦めてもいる。刺激的な毎日なんて起こらない……っていうか要らない。平穏無事が1番です。

 そんな忠司さんがさて、今日の奥さんの料理や愛娘の笑顔を楽しみに帰ってくると、リビングの暖かみのある机には何故かその暖かみの真逆みたいな冷たいニヤニヤ笑いを浮かべる不気味な男――つまりは俺ががいて、忠司さんは動揺と共に瞬時に顔を真っ赤にして激昂。

「お前は一体誰なんだっ?!」

「そーんなことよりも、可愛い娘さんと綺麗な奥さんのことを心配する方が先じゃないのかなあ……」

 と俺は言う。忠司さんは顔を青ざめさせて、まず2階にある子供部屋に向かう。

 一夏ちゃんの部屋のドアをノックもせずに開けると、彼の目に入るのはベッドの膨らみだ。忠司さんはちょっとだけ安心して布団をめくるけど、その時彼は、

「うおっ、……うあ、うあぁあああぁぁあああっ!」

 みたいな情けない悲鳴を上げてしまう。一夏ちゃんの身体には当然あるべき顔が付いてない。首が切り離されているのだ。

 忠司さんは半狂乱になって部屋の中に視線を忙しなく巡らせると、とうとうそこに一夏ちゃん(の生首)を彼は発見するのだった。

 可愛らしい勉強机の上には子供の背丈の半分くらいのしっかりしたテディベアが置いてあり(それらはどちらも忠司さんが愛娘にプレゼントしたものだった)、ぬいぐるみのくまの腕の中に一夏ちゃんの首は大事そうに抱えられているのだった。

 そして、くまと一夏ちゃん、どっちが喋っているという趣向なのか、そこには赤いリボンでデコレートされたメッセージカードが添えてあり、そこには子供らしい文字で、

『ずっとずっと一緒だよ♡』

 とか書いてある。

 確かに無生物と永遠に一緒になるには、一夏ちゃんも物になるしかないだろう。

「う、うわあぁああああっ! 何だ、これ、何だコレはっ! こんな、こんなことが許されると……! あああっ!」

 忠司さんはまた意味を為さない悲鳴を上げると、階段を駆け下りた。リビングにいる男を撲殺してやろうかと想うが、それよりも彼には奥さんの安否が気になった。

 リビングの隣にある夫婦の寢室の襖を開けると(この一軒家は和洋折衷だった)、奥さんはどういう技術によってか分からないが、天井の梁から太く赤い紐で吊るされているのだった。その紐は首にも掛かっており、彼女の顔は青黒く変色し、口から涎とも言えない濁った液体を吐き出していた。

 奥さんは服を着せられてはいたけれども、その左右均等なしっかりとした縛り方でありながら、胸を潰すことによって逆に強調してみたり、脚を下品に広げたような赤い紐による拘束は、堅実な忠司さんにすら男の下卑た性的な欲望の趣向を連想させずにはいられない類のものだった。

 ちなみに今回は奥さんの胴辺りに藁半紙風の紙に筆で(しかしまるで達筆ではない調子で)、

「団地妻♡」

 と作品名風に書いたりしてあったんだけど、まるで獣と化したように頭に血が上った忠司さんの目に、それがちゃんと映ったかどうかは定かではない。

 忠司さんはリビングにすぐに取って返してくると、俺に掴みかかろうとしてきた。

 逆上している忠司さんなんて楽勝だろ、と俺は完全にナメきっているのだけれど、彼は俺のナイフを瞬時の決断で奪い取ってみせると、それを俺のお腹に深々と突き刺してみせた。その瞬間から「……うおおおおおおお!」みたいな忠司さんの叫び声も全部他人事ちっくになる。

「……………………あれ?」

 っていうか、ああもうこれ、俺死ぬんじゃね? こんなもんかよ俺の人生……。まあ、人をこんなに簡単に殺める男は簡単にさっくり殺されて然るべきかもしれない。

 まあいいや。

 どうでもいいや。

 お腹が痛い。以前、手術して入院していたことがあったんだけど、その術後の鈍い痛みなんて非じゃない。痛みは鈍いんだけど燃えるみたいで、しかも何か自分から熱量がどんどん奪われていくーって感じになるのはきっと出血多量だからだ。

 俺はそのまま段々と眠くなっていくみたいに死んでいくことなんて許されず、忠司さんにズタボロになるまで、いくつもいくつも穴が開くまで刺され続ける……。やがて、緞帳が下りるような緩慢さではなく、テレビのスイッチを切るみたいな感じで、ぶつりと俺の意識は途切れる。



 ……俺は深い混乱の元、そこにうずくまっている。そこは駅前の繁華街風の区画の外れの中華料理屋の前、俺が今見てきた何かの始まりの地点だ。

 親子3人は、既に背を向けて遠くに遠ざかっており、俺は胃の内容物をすべて路上にぶちまけている。身体が吐瀉物に塗れるけど、それでも俺は立ち上がれない。ここまで歩いてきた記憶がない。どこからが現実で、どこからが『電波』に与えられた妄想なんだ? さっきの映像の挿入だって、自分とは違う第三者の視点が唐突に挿入されたから途中から違和感が強くなったものの、俺は完全に俺として考えているように想えた。自分がああいう風に考える訳はない、と必死に否定しても映像も思考も止まらず、ただ流れ続けていた。俺にもこういう部分があるのかもしれないと、殺人を楽しんで実行して殺されるまでを、自分の頭の中の思考として経験した俺は信じそうになる。だけど、それは『電波』だよな? そうだろう? 俺に外側から入り込んだだけで、俺とはまったく別物の誰かの思考に過ぎないんだろう?

 しかし、俺とは誰だ? どこからどこまでが俺で、どこからどこまでが『電波』だ? これほどまでに『電波』と同化してしまった俺は、どういった思考を自分の考えることと定義することが可能だろうか?

 敗北したといえばしたのだし、諦めたと言えば諦めたのだろう。

 俺は探索を続けることも自分を信じることもできなかった。俺は本当に人を殺してしまうのではないか、という恐怖だけが強くなった。

 無意識に安らぎを求め、俺はゆっくりと家路に着き、その間、嘔吐物を拭うこともしなかった。

 家に帰ると、どこか心配そうに俺を見ているように想える鈴愛にも気を払えずに、来ている服をすべてゴミ箱に詰めて、俺は浴槽に身を入れ、湯を溜めながらじっと顔を覆い、そして泣いた。



 どれくらい浴槽に使っていたかは分からない。身体がふやけるくらいだからひょっとしたら1時間以上、そこで顔を覆ったまま身動きをやめていたのかもしれなかった。俺は風呂を出ると辛うじて下着とシャツだけを身に付け、寢室まで移動し、ダブルベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。リビングにおそらく鈴愛はいただろうが、それを確認する気力もなく、完全に視線は下に落ち、何を考える訳でもないのに、俺は自分の中に閉じ込もっていた。

 ――勝てない。

 そんな風に俺は想った。あれほどの『殺人衝動』を俺の頭の中で構築してしまう送信者にどうやって勝てばいいって言うんだ? そして、俺はもう、『殺人衝動』による映像挿入と自分の現実にもうほとんど区別が付かない……途中で気付いたとしても、その妄想を自分で押し留められない。

 そして、俺は改めて問うのだが、どこまでが俺の本質と繋がる思考で、『殺人衝動』は本当に送信者が送り付けただけの物なんだろうか? 本当にあの異様な殺人の発想を俺がしているとはどうしても想えない。しかし、もう自分に確信が持てなかった。人間には無意識という物もあるし、心のどこかで望んでいたと言われてしまえば、俺は確実に返答に窮するだろう。たとえ、誰かの思考であっても、それが自分の考えとして実際に頭に浮かぶという経験による影響は俺の中で大き過ぎた。殺人者の発想をトレースしてしまった時点で、それは確実に俺に影響を与えるだろうし、自分の思考や感覚という物はコントロールを完全にすることは不可能な気がした。何より、自分の芯を見失ったような今の俺の心の現状自体が、どうしようもなく心細い。立ち上がれそうもない。

 俺はもしかしたら本当に人を殺しちゃうんじゃないか……。

 一言で言えば、それが俺の恐怖だった。もうこのまま自分の中に閉じ込もってしまえば良いんじゃないか……ひたすらに目を塞ぎ、耳に手を当てて、そしてもうこのまま朽ち果ててしまうのが俺の幸せなんじゃないか。

 もう思考するのも億劫になりただ漂うように目を瞑った暗闇に身を漂わせるようにしていると、寢室に誰かが入ってくる気配があった。鈴愛だろう、とは想ったものの、俺は身動きする気が失せていた。

 すると、俺の身体は突然揺り動かされ、身体の左側を下に寝ているような状態に強引に身を起こされると、それをした張本人である鈴愛が俺と対になるような向き合う姿勢で、ベッドに乗り込んできた。

 もう彼女の目は無機質さを伴ってはいなかった。安定していく鈴愛の『電波』と今、最大に膨らんだ俺の『電波』。

 鈴愛は何か俺に声を掛けようとしてくれているようだったが、なかなかその言葉を想い付かないというか、口に出来ない様子だった。ただ、彼女の表情から、こちらを深く心配しているのだけは伝わってきた。

 どうしようもない心の弱さを自覚しながら、俺は鈴愛も『電波』に侵されていることを自覚しながらも、打ち明け話を始めた。ずっとそうしてきたように、俺が想っていることをそのままに伝えてみた。関係性が崩れ去れば、その時々で俺たちは終わってきただろう。でも、それを時に言い争いにもなりながら、ずっと乗り越えてきた。しかし、今の俺の在り方は依存的だ。それは自覚していた。それでも俺の口は馴染んだ癖をなぞるように言葉を吐き出し始めた。

「鈴愛……俺は最近、人を殺す妄想をしているんだ。お前も何か最近おかしいじゃないか。

 俺は俺たちをおかしくしているものを『電波』って呼んでる……。お前は『電波』に侵されながらも、自分らしさを取り戻してきたよな。でも、俺はそういう風にはいかなかった。『電波』に対抗しようとして、自分と懸命に切り離そうとしてた。でも今はその影響力に打ちのめされて、もう自分と区別が付かない……」

 鈴愛はじっと俺の目を見つめている。

「これまで、酔っぱらいのオッサンを刺し殺したり、電車で隣り合った『インテリメガネ』みたいな奴をつり革みたいなもので殺してオブジェみたいにしたり、同僚の有里浜さんを絞め殺したりした。今日は、ある家族の奥さんと娘を、とんでもなくえげつない方法で殺して、それを旦那さんに見せびらかして、俺が逆に殺されたりして……。見える映像がすげえリアルなんだ。どんどんリアルになってきてる。もう俺が考えて俺が殺しているようにしか想えない。妄想とはいえ、その内、俺は誰かを殺しちゃうかもしれない。

 見ず知らずの他人を殺しちゃうのも異常者みたいで怖い。でも有里浜さんを妄想の中で殺した後から、俺はもっと怖くなってきてる」

 彼女のまつげが小さく震えたような気がした。

「有里浜さんのことは、これまでにも話したことがあるけど、俺とも比較的に仲が良いし、休憩時間はたまに喋る。そんな相手を、俺は殺してた……。

 何か殺人がどんどん異様になって、しかも直近で殺したのは女ばかりで……何かさ、俺は……もしかしたら……鈴愛のことを殺しちゃうんじゃないかな……」

 俺の声が涙で曇っていく。

「それが、俺の本当の望みなんじゃないか。

 『電波』は俺に悪影響を与えたのは事実だけど、心のどこかで俺は鈴愛を殺したがっていて、だから段々と『電波』に侵される度に最終的な対象が、お前に導かれるように移り変わっていくんじゃないかって、俺は想えて、ならないんだ……。

 もう何も分からない」

 甘えであることは分かっていた。鈴愛にこんなことを話して、俺はどうして欲しいと言うのだろう。話さずにはいられなかった、それは事実だけれど、でも、俺はこんなことを話してしまった自分を嫌悪した。

 鈴愛の真っ直ぐな瞳から逃げるみたいに、話すだけ話して、子供のように目を閉じた。

 ふわりと、鈴愛は腕で胸で、俺の頭をかき抱くようにした。鈴愛全部が俺を包み込んでくれている気がした。その心地良さの中にただ身を預ける。

 鈴愛はただ言った。それは柔らかく嬉しげな口調で、そのことに確信を持っているかというよりは、そうするのが当たり前みたいな、ありふれたことを口にするような調子だった。

「……私は……槇人にだったら、殺されてもいい」

 発音は舌足らずで、『電波』の影響を否が応でも感じさせるけれど、それでも、混じり気のない彼女の本心が、純真さが、その一言に全部込められてる気がした。

「――はは。どん詰まりだな。俺たち」

 乾いた口調でそう言った後、それまでの鬱々とした思考を全て完全に書き換えるような勢いで胸の奥から熱い物が込み上げてくる。自分で言ったその言葉に反発するように湧き上がる自分への強烈な怒り。それは鈴愛の言葉が少し遅れて心の奥底まで浸透し、俺そのものがぐいっと前に引き出されたみたいだった。

 一体、何を言ってるんだ?! 俺は? 鈴愛にここまで言わせておいて……俺は皮肉屋気取りで世界を拒絶してベッドの中で丸まってるだけなのか? それがこの鈴愛が「殺してもいい」って言ってくれる俺の姿で良いんだろうか? 彼女は俺にすべてを預けてくれているのに、俺が彼女に見せるのはこんな弱々しさだけなのか?

 俺は強烈に自分を嫌悪し、そうしてここまで状態を貶めてくれやがったあのクソ送信者のことも憎悪した。怒りは衝動となり俺の中に込み上げ、一時的な鬱々とした思考への強制的な停止があり、俺は自分の中が作り変えられていくような感覚を得た。

 考え詰めても答えは出ないのに、それでも考え詰めて考え詰めてどうしようもなくなって、その果てに俺は全てを投げ出すかのように新しい自分の状態を獲得してきた。どん詰まりまで落ちたら後は這い上がるしかない、というような典型的なフレーズが頭に浮かび、少し笑いそうにすらなった。

 俺は今、どうするべきだろうか?

 やるべきことはもう決まってるだろ。

 ――あのクソ野郎をぶっ飛ばしに行くしかないだろう。

 それ以外のことは考えてる暇なんてないよ。

 もうブレーキを踏んでる暇はないし、俺の思考が正解かどうかとか鈴愛への『殺人衝動』が本当なのかどうかとかそんなことすらもうどうでもいいんだよ。今の俺を俺は許せないし、ここまで俺に愛を捧げてくる鈴愛に応えられないのはもはや俺の全人生に対する冒涜であり裏切りでしかない。

 生きたように死ぬくらいなら、ゾンビみたいに生き延びるくらいなら、俺は自分を活かす為に死地に赴いた方がマシだ。結果、人を殺そうが何だろうが関係あるか。知ったことか!

 俺には鈴愛がいればそれでいい。

 自分への鬱々とした思考、どうしようもない停滞は、完全に他者と自分への攻撃を含む衝動へと転嫁し、それは自分に犯罪すらも許容するというとても前向きな内容とは言えなかったものの、しかし俺を動かすという意味で、その発想には価値があった。

 目を開けた。鈴愛と目が合った。

「……槇人、いい顔してる。

 行ってらっしゃい」

 鈴愛にはきっと、俺のことをきっと全部分かった上で言ってくれてる。そう想えた。

「行ってきます」

 と力強く応えて、俺はベッドを出た。



 破れかぶれで家を出た俺だが、送信者がどこにいるのかなんてまるで特定出来てはいない。スマートフォンに映し出される時刻は現在午前1時を指しており、鈴愛が『電波』を受信してから5日目、もう今日は日曜日に入ったことを告げている。

 俺は誰もいない通勤路を足早に進みつつ、闇雲にスマートフォンで検索してみる。俺の住んでいる『乃木谷町』(のきやまち)という知名と、『電波』『洗脳』『人格改造』と想い付く限りの組み合わせで検索ワードを叩き込んでいく。

 ちょっと関連性が低いかな、と想った『暗示』との組み合わせの2ページ目にそれはあった。

 『誰でもできる! 暗示の錨の打ち込みからの思想誘導』というタイトルのページだ。



『君は自分の住む世界を偽りの世界と想ったことはないだろうか。他人がどこか全員、汚らしい面の皮を被っていると感じられたことはないだろうか。

 ――おめでとう! そんな諸君らにこそ、この技術の習得には相応しいと私は太鼓判を押す。

 君こそが、偽りの世界の虚妄を暴き、他人から真の自分を引き出す勇者である』



 カルト宗教風のホームページ内の『通信教育』的なページがどうやらここのようで、ぶっちゃけ怪しい匂いしか感じられない。これに仮に応募する人間がいるとしたら、それこそ勇者という名の狂人への第一歩という気がしてしまうし、実際にアクセスカウンターは閑散とした数値を表示していた。

 で、何故、乃木谷町の検索ワードで引っかかったかと言えば、一応申し訳程度に表記された事務所の住所がこの乃木谷町の沖宮製鉄工場跡地に指定されていたからだ。国内で見れば、中規模の工場だろうが、我が地域的に見れば唯一の大きな工場ってイメージだったので、潰れた時は鈴愛との間で話題にもなったし、実際の場所も知っていた。

 俺には1つだけ盲点があった。それは『電波』の送信者の存在をあれだけ異様な技術を持ち合わせている奴なんだから……と高く見積もり過ぎてしまっていたことだ。しかし、冷静になって考えてみれば、奴がしたことは鈴愛に『味覚異常』をもたらし、俺に『殺人衝動』を挿入するという何ら生産性のない、ただの気味の悪く浅ましい良く僕か何かしか感じない浅ましい行いに過ぎない。はっきり言ってクズ野郎だ。人間としての位が低い奴は自己顕示欲も強いだろうからホームページでも運営してるという読みを立てたけど見事、大当たりって奴だ。取りあえず夜襲でも掛けるかと俺は足を急がせた。

 自分の内面の変化に笑いそうになる。しかし、自虐と状況分析に長けた俺のような男が一度攻撃的になればこのようなことになる。自分を責める言葉を他人を追い詰めることに転用し、自己分析能力の高さを身勝手とも言える他人の精神分析に悪用し、無意味に相手の人生を貶める為だけに苛烈な言葉を使う。過去にも数度こういう怒りの発露は見られ、1度今回とはかなり具合は違うものの、鈴愛にそれを向けて泣かせたこともあった。とにかくあの送信者には目に物を見せ、俺が与えられた精神的苦痛の一部分でもいいから返済してやらないことにはもう気が済まない。



 工場は茫とした明かりをまだ灯していた。どうせ引きこもりの根暗オタクか何かだろうからきっと夜型に違いないという俺の発想(という名の決めつけ)はまたしても当たった。俺は躊躇なく容赦なく工場内に踏み込んだが、そこにいたのはうらなりびょうたん的な若手ニートではなくて、同じ人間という種であることを想わず疑ってしまうような厭らしい笑みを顔に貼り付けた中年男だった。しかし、破産した工場に情けなくも1人だけこびり付いている経営者というのは何となく俺の想定していた送信者にしっくり来ないでもなかった。

「――ああ、やっと来たのか。待ちくたびれてしまったよ」

 男はニヤリと笑みを深めた。初対面であるにも関わらず全てを見透かすようなその態度がひたすらに気持ち悪い。『電波』の送信、あるいは俺と鈴愛の思考を読むことで、こちら側を一方的に把握しているであろう中年男は名乗りを上げることすらしなかったが、こんな意味不明な奴と名乗り合いをする趣味は俺にだってない。

「いい加減に俺と鈴愛に『電波』を送り込むのをやめろ」

「私はお前たちの思考に何か特別な物を仕込んでいるのではないよ。ただ単に、君たちの深層心理を引き出しているだけだ」

「寝言は寝て言え薄らハゲ」

「……激昂に身を任せるのは美しくないなあ。どうせ楽しむならば、そんなに燃え滾るような怒りではなくて、愉しい愉しい狂気に身を任せて、人でも殺した方が気持ち良いんじゃないのかい? ねえ」

「それはお前の趣味であって、俺の趣味じゃねえんだよ」

「ふうん。でもねえ、実際問題、君の彼女は嫉妬していたんだよ?」

「……何だと?」

「君の浮気を心のどこかで疑ってたんじゃないのかなあ……。ほら、君が親しい女性職員がいただろう、確か有里浜さんって言ったっけ? 君は無神経に彼女、鈴愛さんにもそのことをペラペラと喋っていたようだが。君が女友達に慣れていたからと言って、男女間の友情を信じていたからといって、同じ感覚を恋人にまで強いるのはどうなのかな。当然、鈴愛さんは不安に想ったのさ。君のことを信じれば信じるほど……君と親しく話しているというその有里浜さんにも、あるいは他の女性職員の友達にも嫉妬してしまう自分を責め、不安定になっていた……。そのことについて、彼女は、自分では深く考えず、君の1番であるということを必死に心の支えにして明るく振舞っていた――健気な話じゃないか」

「お前が鈴愛の名前を呼ぶなよ……それがお前の口から出任せだって俺が信じる必要性がどこに存在するんだ?」

「信じる信じないは当然自由だよ? でも私は事実を話しているんだけどねえ……。そういう心の隙がなければ、君が『電波』と呼ぶ『発想』を受け入れることもなかっただろうし……」

「やはりそうした『発想』の挿入はあったんじゃないか!」

「まあ、そう声を荒げるなって……初めから言ってるように、私はただ切っ掛けを作っただけで――君の表現を借りることにしよう、『味覚異常』も『殺人衝動』も君たちの身から出た錆、君たち自身から生まれたものに過ぎない」

 俺は口をつぐみ、ただ状況を分析する。コイツが俺たちの思考を読んでいたってことだけはどうやら間違いがない。少なくとも俺の思考は確実に読まれているはずだ。

「鈴愛さんのことに話を戻すとすれば、君は『味覚異常』と呼んでいたアレは本来そんなものじゃない。

 彼女の想いが君に分かるかい?」

 そこでにやぁっ、と中年男は口が裂けるんじゃないかというくらい唇の端を横に大きく広げて、心底気持ち悪い笑みを浮かべた。

「君の気を惹きたかったんだよ……突飛な行為でもして、彼女は君の心を一心不乱に引き付けたくて仕方なかったんだ。確かに『電波』による精神の幼稚化・視野狭窄はあった。しかしながら、あの行動をしていたのは確実に鈴愛さんそのものだよ。

 彼女は君にどうしても心配して欲しかったし、君には自分だけを見つめて欲しいと希(こいねが)っていた――しかし、君は彼女が『電波』に侵されている間も、別の会社の同僚、有里浜さんと楽しくお喋りした上で妄想で殺しまでしたんだっけねぇ――?」

 流石に返す言葉が見当たらなかった。ダブルベッドの上で、有里浜さんを妄想の中で殺したことを話した際の鈴愛のまつげの震え、その後の「私を殺してもいい」という言葉の意味の裏側を俺は覗き込んでしまったような気がした。しかし、鈴愛が『電波』に侵されてなかったとしたら、その問題は時を経たとしても顕在化し、本人の口から心情の吐露を受けたはずだ。その機会を奪ったのは間違いなくこいつである。しかし、俺が鈴愛のそんな心情にちゃんと気付けていたかというとそれも嘘だ……。

「そして、君の『殺人衝動』だって、私の『発想』を混ぜた為に、勿論『変色』したのは否めないけど、君が考えた通りで基本的に合ってるよ。君は自分の恋人を本当は殺したくて仕方ない異常者なんだ。鈴愛さんのことを、自分の手で永遠にしたくてたまらないんだろう?

 私はそういう本物の欲望を隠し持ったまま、上辺だけ取り繕って涼しい顔をしてまっとうなことを言う、そういう奴らを心の奥底から愚かしいと想っているんだよ。

 だから――私は教えてあげているんだ。

 そいつらの、君たちの、本当の心のありようを、ちゃんと引き出してやってる訳だ」

「俺が鈴愛を殺したいと想ったことがあるのは否定しない。ただちょっとアンタは読み違えをしている。

 俺は鈴愛を他の男に取られる可能性に怯えて、だから永遠の存在にしたいとかじゃねえよ。

 鈴愛とする行為は何でも楽しくて、口喧嘩でも楽しくて、傷付け合いすらも甘美で、そういったことの行き着く先の究極はセックスなんかじゃなくて、新しい生命を創り出すことなんかじゃなくって――お互いの生命を削り合う、殺し合いなんじゃないかって発想をしたことはある。

 自分の本意かどうか分からないままで、鈴愛を殺してしまうかもしれないことに、俺は怯えたけど、鈴愛はそれすら『許して』くれたしな」

「な、何を言ってるんだ? 愛ゆえに相手を殺すなんて、それこそ極まりきった私以上の異常性じゃないか!」

「お前さ――底が浅えんだよ。俺と鈴愛の数日間の思考を覗き見したくらいで、俺たちの恋人関係を、そこで積み重ねられてきた言葉と心情のやり取りを全部分かりきったつもりになってる方がどうかしてる。

 愛ゆえに愛する人を殺したい、相手を食べてしまいたい、子供を作りたい、相手と自分の人生観をなるべく共有したい――方向性は違えどそれらは全部同化願望で、そんなのとっくのとうに俺と鈴愛はお互いに打ち明け済みだ」

「その関係性は、もはや恋人とすら言えない。お前たちは異様だ」

「お前にだけはそんな言葉は言われたくねえなあ。俺たちは恋人なんてカテゴリに留まるもんじゃないんだよ。

 俺と鈴愛は――俺と鈴愛ってだけだ」

 かつての大学の先輩の言葉を想い出すように俺は付け加え、そして言葉を続ける。

「そして、お前の言葉は全部後付けなんだよ! 後付けも後付けだ!

 愛ゆえに一瞬、異様な発想を持つこともあって、それを話の種にするみたいに、相手に嫌われないか引かれないかと想いながら想い切って話すとかはあっても、それでも実行しないのは、相手を殺したりなんかしないのは、それでもかけがえのない相手と一生を共にするのが――その体温を感じられるくらいに近くにいて、どんなお喋りだってできる相手と一生一緒にいたいって感情が勝るからに決まってるだろうが!

 だから普通の奴だって世間体もあるだろうけど、それ以上に誰かのことを想うが為に『電波』みたいな異様な行動には及んだりしないんだ!

 お前はその前提を突き崩した! 発想にも色々な種類と重さがあって、誰だって魔が差すことはある。けどなあ、それを意図的に膨らませたお前の罪が、本人もそう想ったことがあるからって消せる訳がないだろうが!」

 俺の勢いに呑まれたように中年男は口を噤んでいる。

「お前の名前はなんだ!」

「……あ、有山英夫……」

「有山、お前さ、こんな他人にちょっかいかけて遊んでそれを高みの見物したりとか、全然人気が出そうもない通信教育のページを運営なんかしてないで、ちっとはお前の人生そのものを考えろよ……。

 工場が潰れたし、人生の意味とか希望とかも失ってこういうおかしな所業に手を染め出したのかもしれないけどさあ、他人の人生をダメにしたからって、相対的にお前の人生が良くなるとかは幻想なんだよ。

 むしろそういったクズ的な発想ゆえにお前はクズの底なし沼に現在進行形で深く落ちていっているのがお前というクズだよ」

「……それは」

 俺は有山が何か言おうとするのを遮った。

「いい加減ふざけたふるまいはやめろ。今この瞬間に俺と鈴愛の『電波』も、他の奴に掛けている『電波』も解け」

「け、結局はそうするしかないよなぁ――お前は『電波』をどうしようもないんだから。

 それとも私を殺してみるか? 『殺人衝動』によって」

「お前みたいなクズ、殺してやるのもバカバカしいし、最期に自分の『電波』の影響力を誇って死なれるのも癪だから、今からお前を殴る」

 こういう事態を想定もしてなかったのか、俺がこの期に及んでビビって行動を躊躇するとでも勘違いしていたのか、有山は「……えっ?」みたいな反応をしたまま固まっている。

「痛みを知らないだろ? だからあんな風に好き勝手、誰かの思考を弄くれるんだよ。何だかんだで頭がいいだろ? お前。普段から暴力に晒される経験なんてなかったんじゃないか?

 俺は割とあるよ。父が趣味の柔道が生きがいみたいなおかしなサラリーマンだったから、ちゃんと痛みと共にしつけられたし、お前は知らないだろうが、鈴愛だって結構、衝動に身を任せちゃうタイプなんだぜ?

 あの絶妙な動きの美しさとスナップで飛んでくるビンタとか、もうマジで凄いんだからな。今みたいに俺が怒りに身を任せて鈴愛を理屈でやり込めようとしてたら、それが飛んできてさ。流石に俺も目が覚めたよ。

 だから、俺は痛みも時には必要だと考える人間なんだよな……」

 そこから俺は何の事前動作もなく、有山の頬に一発拳を叩き込んだ。気持良く決まって、パン! という快音が響く。もう若干恐慌してるんじゃねえのコイツっていう感じの有山の腹を俺は更に拳でえぐり込む。体勢を崩した有山を素早く押し倒し馬乗りになり、続く一撃を胸に叩き込み、連打体制に移ろうかと想ったことで、

「……ひゃ、ひゃめてくれぇ」

 というような有山の言葉があった。胸に拳を打ち込まれた後だったから呼吸すらも苦しかったはずだけど、それでも声を上げずにはいられなかっただろう有山に、俺は一応手を止めてあげた。

「じゃあ、即時に『電波』を解除してくれる?」

「は、はい……」

 その一瞬後に、頭が軽くなった。

「……うーん。それにしてもこれ、どういう仕組みなんだ?」

 動揺の中にいる有山は、しばらく喋ることが出来なかったが、呼吸を落ち着けて、たどたどしく説明を始めた。

「相手を1度視界内にいれて、『電波』を送信するアンカーを打ち込む……。だけど、指原さんにはそのアンカーの設置がうまくいかなくて、定着させた『電波』に強弱の波を付けることと、思考を覗くことしか出来なかった……」

「十分犯罪の域だよ。それで、鈴愛は?」

「彼女の場合は、アンカーの打ち込みには完全に成功したから、毎朝、『電波』の調子を整える、指原さんの言う『アップデート』も出来た……。ただ、『アップデート』を続けても逆に井野さんの方が落ち着いてきてしまって、かき乱すことも難しくなってきた……。昨日の朝は、井野さんを通じて、指原さんに『アップデート』を行った……私のやったことは本当に以上だ! 信じてくれ……としか言えないが……」

「『アップデート』や『電波』に強弱の波を付けること、それ自体は自分の視界外でも出来るんだろ?

 っていうことは何か使ってるんじゃないか?」

「そ、それはあのノートパソコンを……。画面を確認したら、井野さんの『電波』も解けていることが確認でき、あっ……」

 俺がウインドウズアップデートやパソコン的な物を鈴愛の『電波』受信に感じていたことはあながち間違いじゃなかった訳だ――と俺はそんなことを考えつつ、有山のノートパソコンを彼の説明が終わる前に床に叩き落としている。液晶には亀裂が入り、完全にブラックアウトした。俺は念の為、2、3度踏み潰しておいた。

「本当に荒っぽいなあ……」

「いやでも、これで逆にすっきりしただろ? これでお前は『電波』の継続的な送信は少なくとも出来なくなったんだし、大きく力を減じた訳だ。

 これは生き直すチャンスじゃないか?」

 俺は自分の中の暴力的な衝動を収め、前向きに爽やかな感じで言った。

「私には、もう何もない……」

「そんな有山に、俺は同情はしねえよ。自業自得だしな、結局。だけどさ……そこまで頭が良いなら、ちょっとは他人の為に使ってみたらどうだ?」

「それは……」

「まあ、これ以上は俺が言葉を掛ける必要も義務もないだろ。

 お前はお前、俺たちは俺たちだ。もう関係性はこれで終わりだ。

 お前はお前の人生を考えればいい」

 そう言い捨てて、俺は去ることにした。1度だけ振り向くと、彼がどうしてそうしたのかは知らない。深く腰を折り、俺に頭を下げているのが見えた。……謝るくらいならやるなよと俺は想った。



 帰り道には、大気の暗闇も徐々に和らぎ始めていた。俺は帰りながら、『勝つこと』の難しさを実感している。有山にもあそこまで暴力的に訴えかけようとは最初考えてなかった。

 しかし、逆に言うと何としてでも、俺は奴の『電波』を止めなければいけなかったという想いもある。

 俺は最終的に『電波』を止められたんだ――とにかくどんな形であれ勝ったんだ。改めてそう想うと、鈴愛への想いが込み上げてきて、俺は家路を急いだ。



 家の扉には、今日は鍵は掛かっていなかった。そして、扉を開けると、今日こそは、

「おかえり!」

 と鈴愛がその元気な姿を見せてくれた。

 何はともあれ……。

「有里浜さんとかと仲良くしててごめん! 今後一切喋らないから!」

 と俺はまず盛大に謝罪しつつ、腰を深く降り、頭を下げた。

「へ? え?」

 戸惑っている鈴愛に俺はもう花束を捧げるようなつもりで――、

「そして、結婚しよう鈴愛。俺たちは今度の『電波』って苦難も乗り越えることが出来た。

 君にも色々と不安な想いをさせて済まなかった。もうこれからは君だけを見るから!

 結婚しよ――」

「展開が早過ぎるよっ!」

 鈴愛に割と本気めのツッコミを頭にガチでいただいた。



「それにしても、何ていうか、私が不安定になって、槇人がもっと強い繋がりを持ち出してくるだなんて、あの神社の時みたいだね」

「そうか……意外性がなかったか? ワンパターンでごめんな……」

「そんなこと言ってないでしょ! でも、こういう『巡り』なのかなーってちょっと想った。

 『電波』みゅんみゅん送ってきた人に何か言われたの?」

「君があそこまでおかしくなったのは君の想いが元で、つまりそれは有里浜さんたち女子の同僚への鈴愛の嫉妬が原因らしいみたいな……」

「そ、そんな話を本当に真に受けてたなら怒るよ?!」

「鈴愛は、俺の気を引きたくて仕方がなくて、あんな異様な行動を続けたって……」

「続けないでよ!」

「いや、実際、結構あり得るかと想っちゃったんだけどな……」

「がーん。そんな風に私は想われていたのかあ……」

「いや、気付けなかったなら悪かったなあ、ってことだよ」

「私はね、別に普段の平常心の心では、槇人がそういう女性と話しててもいいかな、とは想ってるよ。

 ただ、恋人がいるのに、ちょっと槇人フランク過ぎじゃないかな……とは想ってたけどね。

 何ていうかさあ、職場で友達がいないのは可哀想だけど、でも何で女子ばっかりとなっちゃうのかなあ、って。友達に。

 だから、男友達を作る努力をしてよ」

「う、うん……これまでやったことがないから難しく感じるけど、分かったよ」

「あとは、私だけを1番特別に想っていてくれたら何の問題もないよ。

 さっき、結婚するっていう話が出たけど――でもさ、私たちの関係はもう既にもっと深い結び付きなんじゃないかって想うんだ。

 恋人でも、夫婦でも、心が向き合えてないなんて人たち、いくらでもいそう」

「鈴愛はいつから、俺とそういう深い繋がりを感じ始めたんだ?」

 ふと気になって聞いてみた。

「じ、実はね――一目見た時から。あー。恥ずかしい~。これだけは槇人にも言わないでおこうかと想ってた。

 槇人に私、一目惚れしたの。初めて会った時から、『運命』の人だって分かったよ」

「『運命』って言葉も、何となく人を衝き動かす外的要因みたいに今は聞こえちゃうけどな……」

「ひねくれないでよ~。でもね、私はたとえ『運命』のせいだったとしても、槇人と出会えて良かったと想うよ?」

「どうして?」

「だって、槇人の隣にいられるっていう結果だけが重要なんだもん。

 その為だったら、私は『運命』だって『巡り』だって『縁』だって『電波』だって利用してみせるよ」

 いっそ爽やかささえ感じる表情で鈴愛はきっぱりと言った。

「俺は正直、初対面から鈴愛に物凄く惹かれた訳じゃなかった」

「そうなんだ……」

 ちょっと残念そうだ。

「でもさ、会う度に鈴愛は凄いしっくり来るようになった。その1つ1つの挙動が好ましくて、鈴愛をどんどん好きになっていった。

 でもね、それだけじゃないんだよ」

「うん」

「俺は自分の人生とか自分の存在について、これまでも深く考えてきたけれど、それ以上に鈴愛と俺が、一緒に生きていける未来のことをそれ以上に深く考えてきたんだ。

 だから、俺が鈴愛を手放すことは絶対にないよ」

「じゃあ、ずっと一緒にいようね」

「生きている間ずっと?」

「そう。そして死んでからも」

「じゃあ喧嘩して仲が悪くなってお互いがお互いを嫌いになっても、一緒にいよう」

「それ何かの罰ゲームみたいだね」

「鈴愛となら、きっとどんなことでも楽しめると俺は想うよ」

「なんかさ……」

「なに?」

「ちゅーしたい気分」

 唇に柔らかい感触が触れて、なんかとっても新鮮な感じに想えた。

 色々なことが――嫌なことも楽しいこともあって、笑い合うこともあれば、大喧嘩することもあるだろう。

 でもそんなことが未来の自分たちにはきっと全部かけがえのない想い出になっているということを、俺は信じることが出来た。

「世界で1番、あなたのことが好きだよ。槇人」

「鈴愛、俺は君のことだけを永遠に愛するよ」

 俺は鈴愛を抱きしめて、彼女の心臓の鼓動を、聞いた。

彼女の頭の中の雑音。

彼女の頭の中の雑音。

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-19

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