佐乃助の鬼腕 第一章②
第一章
「いてぇなぁ!俺を撃ちやがったのはお誰でぇ」
褐色の肌の少年は、元の色が何色であったのか想像すら困難な、泥色の布にボロ縄を帯にして、獣の皮を脚すねに巻き付け裸足という餓鬼のような出で立ちである。
少年の瞳は異様な光を灯し、信長を見据えその視線を動かそうとしない。
「誰でぇオレに石っころを投げやがったのは!そこの偉そうに馬に乗ってる野郎か!」
左乃助の鬼腕・・第一章・信長編2
「左乃助」
少年の異常さはその眼孔だけではない、信長軍の兵士達の目を奪ったのは彼の右腕だった。
烏羽色の腕は二の腕が火山岩のようにゴツゴツと腫れており、太く脈打つ血管が昆虫の背を思わせる 上腕部に数本繋がっている。
この小僧はいったい何者だ。皆が息を呑み見張った。
「無礼な!ここにおわすは」
籐兵衛は恐怖で喉の奥が一気に乾くのを感じながらも、言葉を少年に投げつけた。
「無礼はどっちじゃ!」
言いながらも少年は大股でこちらへ向かってくる。
「銃を・・・用意せぇ」
籐兵衛はあの少年に放つ次の銃を近くにいた仁九朗に用意させるよう命じた。身体の震えが止まらず、自分の手で素早く弾丸を装填するのは無理だと判断したのだ。
化け物に違いない。
このところ山間の村を襲って村人を一人残らず喰ってしまうという化け物の噂を耳にするが、目の前にいる小僧がその怪物に違いない。
怪物でなけれ ば、あの距離で二発の弾丸をまともに食らって平然と歩けるわけがない。
「用意できました」
仁九朗から手渡された銃を、藤兵衛はただダラリと持っただけで構えることが出来ない。
「まてぇい。角・・・」
信長は藤兵衛のすぐ後ろまで馬を進ませ、馬上から太い声で叫んだ。
その声は震えていた。
そうだ、殿は人一倍怖がりなお人である。恐ろしいに違いない。
だが、国主と言う立場上それは表に出せないのだ。藤兵衛は我が国主を見上げた。
「そこの小僧!お前は何者ぞ」
信長の声が雷鳴のように辺りを響かせた。
「俺か・・・俺はお前が誰なのか知っているぞ」
少年は答えになっていない答えを投げ返し、不適な表情 でズンズンとこちらに歩み寄ってくる。
「オワリのうつけ殿。信長。そう!織田の信長だんべぇ」
「なにぃ!この小僧!それ以上無礼な事を申すと命はないぞ」
籐兵衛が吠えるだけが得意の番犬のようにキャンキャンと言葉のつぶてを投げた。
「ほぉう・・・その棒っきれから飛ばすモノでオレを殺せるってぇのかそりゃおもしれぇ事をいうタヌキがいたもんだなぁ・・なら殺して見せてほしいもんじゃいな」
「何ぃぃ!」
籐兵衛はその四角い顔を一気に上気させ、銃を構え引き金に指をかけた。
「おまさんらぁの合戦。見物させてもったらぞい。侍ってぇのはもっと格好いいもんだと思っていたけんど。あれなら村の小僧同士の喧嘩の方が見 物しがいがあるわ」
左吉は甲高い声で笑った。
その歯も黄ばんでいて獣の歯のようである。
「貴様!もう勘弁ならん!」
藤兵衛は怒りにまかせ引き金を引いた。
パァン!
乾いた音と同時に、左吉は小虫を払うような仕草をして、何事も無かったかのようにニヤリと笑って見せた。
弾丸を腕で払いのけてしまったのだ。
左乃助の足下の乾いた土を、小さなつむじ風が舞いあげた。
「やめぇい!止めいと言っておるのがわからんか!タヌキ!」
信長の声は明らかにうわずっている。
恐怖だ、信長の身体の奥を恐怖が支配し始めていた。が、この男にはそれを包み隠すだけの度量が備わっていた。
「タヌキ。次にワシ の命令に背けばその首、飛ぶと思え・・・」
藤兵衛は奥歯を食いしばって銃を下に向けた。だが、まだ即座に構えられる姿勢は保っている。
そのころには少年は信長軍から四五十歩の所まで接近していた。
「小僧えらい自信だなぁ、弾が当たっても痛くも痒くもないのか」
「ああ、この鬼腕が守ってくれる。オレはなぁ滅多な事では死なんぞ」
少年は不気味に笑って見せた。
「そうか・・・その腕は鬼腕ともうすのか、その腕は生まれつき小僧の腕に付いておったのか」
「ちがう、この腕は俺に付いてきたんじゃ」
「腕などそうそう付け換えのきく物ではないぞ、物の怪に祟られたか」
「祟りなどではないわい、大きな虫に喰われてこう なってしもうたのじゃ」
左吉は歩みを止めた。
「虫に」
信長の表情が一瞬だけ変わった。
「ではその腕は虫が動かしておるのか」
「オレが動かしておる」
左吉は右腕を高らかと挙げてグルグルと振り回して見せ、我が意志で動いていることを見せつけた。
「その腕があれば敵を恐れず進めるのぉ」
この腕をみてこれほどまでに遠慮なく言ってくる者は、左吉の二年余り放浪の中で初めてであった。
信長は少年をくまなく見ると意外なことを口にした。
「小僧、その鬼腕とやらでワシも守ってくれぬか」
「この腕が守るのはオレだけじゃ後は・・・」
「後はなんだ」
「後は友なら守ってやる」
「共・・・そうか共なら守るか」
「殿!何を言っているのです、物の怪の小僧の言うことを真に受けてはなりませんぞ」
「そうか共か、よし小僧。今からお前を第一の共にしてもよいぞ」
「本当か。信長と俺が友か?」
信長は共の者、つまり従者という意味で「共」といい、少年は友達という意味での「友」になってくれるのだと思った。
この行き違いが後に二人の運命を大きく狂わせることとなる。
「小僧名を何という」
信長は柔らかい視線を初めて少年に向けながら言った。
「俺か・・・俺の名前は左吉だぁ」
左吉は泥色の顔を僅かに綻ばせた。
「そうか。左吉か・・・ワシの共には合わん名だな・・・今日からお前は左乃助と名乗れ!それがいい」
「 左乃助か・・・うん・・・左乃助だ。俺は左乃助だぁ!」
左乃助と名を変えた左吉は白い歯を見せてゲラゲラと笑い。新しい我が名を何度も叫んだ。
藤兵衛
握り手から台木。銃口から銃身へと薄くなめした牛革で鉄砲を丁寧に磨きあげ、藤兵衛は「ふっ」と軽く息を吐いた。
磨き上げた銃は牛革の油分を含んで鈍い輝きを増す。
その輝きを眺めると、藤兵衛はおもむろに立ち上がり、火薬入れから一発分の筒に移すと、巣口から注ぎ込む。
火薬を詰めおえると弾丸をこめ、銃に付属されている「かるか」という鉄で細かく突き固める。
火皿に火薬を入れ構える。
ここまでの動作をゆっくりと自分の身体に教え込むように行うと、藤兵衛は、オワリ城の濡れ縁から一町(約109メートル)先の的を睨みつけ、前目当と先目当の突起と的の中心部を一直線に保った。
いかにも神経質そ うなこの男は明らかに何かに苛立っていた。
その感情を抑えようと、その四角い顔を強ばらせては短い息を吐く。
左乃助の鬼腕・第一章 信長編3
「藤兵衛」
「参る」
誰に言うでもなく藤兵衛は弾くように言葉を吐き出すと、引き金を引いた。
パァンと言う破裂音が城の中に反響した。
オワリ城は「城」というより砦に近い。
大きな土地を板塀で囲み四方に見張り台を設け、敷地の中心部に国主の 住む平屋がありそれを囲むように家来たちの住む長屋が点在しているといった形で。この時代の国主は大体、大小の差はあるにせよこのような 「城」に「住んで」いた。
藤兵衛が銃を放ったのは長屋の濡れ縁からで、そこ から一町先の板塀にくくりつけた的に向けて撃った。
弾は的の中心よりやや右寄りに命中した。
目を細め命中した的を確認すると。
「ふぅ」
また息を吐くと籐兵衛は銃を納める体制になり、下唇を少し噛んだ。
心の内にあるささくれは、かすかに蠢いては止まり、藤兵衛の全身を小虫が這うように駆け巡っている。
あの小僧。国主信長に「左乃助」と命名されたあの「化け物」の顔が脳裏から消えないのだ。
「小僧・・・」
あの小僧がこの城に来てから十日、信長様は鹿狩りにも、領地見回りにもあの小僧を連れて行く。
籐兵衛が国主の外出に同行する機会は多いに減った。
「信長様はあのような小僧を何故・・・」
気に入らない 。何もかもが。このままではこの感情が国主信長に向けられるのではないかと、籐兵衛は自分の中にある恐ろしい感情の芽生えに身震いすることもあった。
「やっぱりカドダヌキだったか」
聞き覚えのある子供の声に、籐兵衛は露骨な不快感を表情に表し声のする方向を睨んだ。
やはりあの「小僧」左乃助であった。
濃紺の格子模様の着物に山吹色の紐帯。
信長から与えられた小綺麗な着物は膝が隠れるほどの丈しかなく、いかにも小僧臭く、あの獣の皮で作ったスネあてを付けていた。
よく見ると、右腕の袖は根本から切り取られ、岩石のような黒い腕が露わになっていて、ドクドクと脈打っているのが見える。
何度見ても薄気味が悪い子 供だ。
「なんじゃ小僧」
俺に声をかけるな。その言葉にはそれほどの怒りが隠れていた。
籐兵衛の言葉の刃に気づいていないのか、左乃助はペタペタと濡れ縁を裸足でこちらに向かって歩いてくる。
家来の住む長屋は濡れ縁で繋がっている。
「さっきの銃声はカドダヌキの撃ったものだろ。こんな朝っぱらから銃の稽古か?それとも長屋の連中を起こす合図だべか」
この少年の悪い癖で、言葉尻に言わなくてもいいトゲを付けてしまう。
案の定その言葉の「トゲ」は藤兵衛の怒りに油を注いでしまった。
「化け物め!言葉をわきまえろ。ワシの事は籐兵衛様とよべ、藤兵衛さまとな・・・」
当然である。藤兵衛はオワリ軍鉄砲隊の棟梁であ り、左乃助などは信長の周囲を飛び回るただの蝿にすぎないのだ。
藤兵衛の左乃助に対する思いはそれぐらいでしかない。
「タヌキはその棒っきれがそんなに好きか」
「棒っきれではない!鉄砲だ」
好きも何もあるか。これで生き、これで信長に使えてきたのだ。
鉄砲伝来より数年後、サカイの商人からこの銃を20丁買って、近畿一帯の山賊を打ち破り、名の知れた山賊大将となり、信長に見いだされ、それから鉄砲一筋で信長を支えてきたのだ。
その藤兵衛に「鉄砲は好きか」と純粋に聞かれてもうまく返す言葉もなかった。
いいや、この小僧にうまい言葉を返す必要もあるまい。
「用がないのならうせろ」
藤兵衛はまとわりつ く野犬を追い払うかのような口調で言った。
しかしこの「小僧」はそんなものではめげなかった。二年にもわたる放浪の旅の中、そんな言葉は飽きるほど浴びてきているのだ。
どうという事はない。
吠える大人は吠えさせるほど面白い。
左乃助はそう思っていた。
「俺にもそのテッポウを撃たせてくれねぇか?」
左乃助はからかいついでに鬼腕を籐兵衛の持つ鉄砲へとのばした。
「貴様!その汚れた手でワシの鉄砲にさわるな!」
さすがの左乃助もたじろぐ迫力で籐兵衛は吠え、銃口を左乃助に向け、唸るように太く息を吐いた。
人並み外れた殺気。
この時ばかりは狸ならぬ「人喰い虎」であった。
「貴様のような薄汚い化け 物の、呪われた手で神聖な銃を・・・この銃が祟られるわ」
先ほど撃ったばかりの銃に弾詰まっていない。が、籐兵衛の異常なまでの殺気があればそれだけで相手が吹き飛ぶのではないかと思わせる空気渦を放ってそこにいる。
「その腕があるからと、人を馬鹿にするでないぞ・・・お前などその腕が無ければただの餓鬼じゃ・・・脳天を打ち抜けば哀れな死に様を見せようぞ」
狸から虎に変化した男が笑った。
左乃助はこの小男の内なる執念にすっかり気圧され、呆然と濡れ縁に立ちすくむしかなかった。
豊田康成
一章
籐兵衛は殺気を全身におび、左乃助に銃口を向けていた。
それには、さすがの左乃助も身を堅くして巣口を見る事しかできなかった。
「カシラ、殿がお呼びで御座います」
張りつめた空気の中、突然第三者の声が入り込み、藤兵衛はかすかに頬を痙攣させ、苦い顔で声の主の方を睨んだ。
知らぬ間に部屋の隅に剛六という従者がうずくまっていた。
藤兵衛は剛六が言葉を発するまで気配を察する事がが出来なかった自分に愕然とした。
戦場での気配。僅かな風の揺らぎまで感じることが出来る俺がなんたることだ。
この小僧の挑発的な態度に感情を高ぶらせ、すぐそばで別の動きがあった事にまったく気がつかなかったのだ。
なんたる不覚。
「カシラ、いかがいたした」
剛六の声に正気を取り戻した藤兵衛は、静かに銃を置き、深く息をついた。
左乃助の鬼腕・一章 信長編4
6話・・・「豊田康成」
オワリ城の本丸と言うべき、砦の中心部の大きな館に呼びつけられた籐兵衛は、二時間ほど控えの間で待たされる事となった。
控えの間は狭く、人が三人も入れば身動きがとれないほどで、茶褐色の板張り壁だけの殺風景な部屋で、明かり取りからわずかな日差しが差し込むだけである。
藤兵衛はただうだるような暑さのなか壁を見つめている。
秋の虫が近くで鳴いている。
チッチッチ・・・
虫の音と共に狭い部屋に風が入り込んできた。
控えの間から大広間に通されると、藤兵衛はまた待たされた。
キッと張りつめた空気が戸の向こう側からすると、板戸が乱暴に開かれた。
「殿だ」籐兵衛は素早く平伏して、国主の声が降り懸かるのを待った。
細かな衣擦れの音の後、わずかに床が軋む音がした。信長が胡座をかいて座ったのだろう。
「今川の様子を申せぇ」
信長の声は広間に雷鳴のごとく響きわたった。
信長は簡潔過ぎるほどに短く、その単語から思いをくみ取れる者を信長は優遇した。
籐兵衛はただ平伏し、言葉の威力が減圧されるのを待ち、ゆっくりと枯れた灰色の声を突き出した。
「スルガに放った間者どもによりますると、今川勢と頻繁に接触するものあり」
「簡潔に申せ」
信長が嫌うもの、それは回りくどい言い回しと我が意志に刃向かうもの、その二つだけである。
籐兵衛は胃の府を握り潰されたような心持ちで、染み出す額の脂汗を感じつつ咳払いのように言葉を吐き出すのがやっとだった。
「とっ豊田に御座います」
「豊田・・豊田康成か」
藤兵衛は平伏していた頭を多少上げて答えた。
「ははっいかにも豊田康成に御座います。豊田より今川へきな木箱が届けられたとの知らせもあり、又、周辺の豪族に号令し人員を集めて居るとの話もあります」
「今川めとうとう本気を表しおったか、しかし何故豊田が・・・」
豊田康成とはハリマの国の国主で、あまり良い噂を聞かぬ男だ、何代か前には同族が天下人にまでなったが、康成の祖父成匡(なりまさ)が茶会に集まった親戚一同を茶会の開かれていた寺ごと焼き払い、ハリマに身を隠してしまう。
成匡はオワリに籠もると、天下人の座を奪い取るでもなく、気が触れたようになりその生涯を終えた。
それから代をかさね康成は圧政をしき、国境に城壁を築き国から人を出さず入れず、「謎の国」「鬼の国」と呼ばれるようになっている。
「ハリマの豊田が何故今川と」
ハリマは信長の居るオワリより遙かに西で、スルガまではいくつもの国をまたいだ東に位置するのだ。
「豊田め、今川と組んでこのワシを挟み撃ちにするつもりか」
信長の恐怖心の火種に灯がともった。
「今川の動員はどれほどになると思う」
「少なく見積もっても一万」
「一万か」
信長は苦い顔で下唇を噛んだ。
織田軍の兵員はどうかき集めても七百そこそこ、その内の二割はいつ裏切るか分からない盗賊くずれの足軽を使わなければならない。
この時代の足軽とは傭兵の事であり、一つの合戦ごとに金を支払わなければならず、自分の雇われている側が不利と見れば何の躊躇いもなく逃げる。そんな者に命を預けなければ小国は合戦すら出来ない状況なのだ。
「一万か」
信長はこの男には珍しく同じ言葉を反復した。
殿は怖がっておられる。しかしそれを押さえる情報は籐兵衛の手の内にない。
「高転寺は・・・オオガキは動かんのか」
藤兵衛は身の縮む思いだった。出来ればこの話題に振れずにおきたかったが、そうもいくまい。
「オオガキの高転寺は当主隆柾(たかまさ)殿が逝去し、その後混乱が続いており」
「あの家には孫兵衛と言う切れ者の息子がおったであろう、あれに今川が攻めて来ると伝えれば状況は分かるであろう」
藤兵衛はこの場から逃げ出したい思いで話を続けた。
「現在オオガキの当主は長男隆規が継ぎ兵を出す余裕がないのでありましょう」
冷たい秋の空気が漂う大広間で籐兵衛は一人全身から吹き出す脂汗に身が溶けだすのではないかと、板の間に落ちる汗の滴を睨みながら、報告すべきでないと決めていた事を口にしていた。
「高転寺孫兵衛は、夢のお告げに従う、と言い残しオオガキを去り放浪に身を投じたとのことで御座います」
「夢のお告げだと」
信長は笑うより先に失望した。信長の知る高転寺孫兵衛は聡明で学識が深く、沈着冷静でいて大胆な男であった。
出来ることなら孫兵衛を我が方に迎え首脳にしたい。と信長は常々口にしていた。
その男が「夢のお告げ」で国を家を捨てた。
なんたる愚よ。そう怒鳴ってやりたい気分だった。
が、我が身の前には「今川」という壁が立ちはだかっている。
信長はすぐに正気を取り戻し、籐兵衛に向かい吠えた。
「今川は秋の収穫時期など関係なく攻め入ってくるやもしれん。今後とも監視を怠るな」
藤兵衛は深深と頭を下げ、目の前に出来たドス黒い汗溜まりを見つめていた。
道幻
7話 道幻
時代は少し遡る。
左乃助が武者落としの闇で意識を無くしていたちょうどその時である。
今川義元の参謀に大原勺経(だいげんしゃくけい)という年老いた僧がいる。その男は義元が幼年期から教育係を勤めていたので、義元も勺経には頭が上がらない部分も多く、勺経の持つ役割は自然スルガの中で大きくなり、勺経自らは「軍師」を名乗っているがその役割は総督又は総司令官に近く、スルガの武士は「国主に従えなくとも勺経に従え」と尊敬と畏怖の念をもって囁きあっていた。
その勺経が豊田康成の軍師、堀田道幻と接触し始めたのもこのころからであった。
堀田道幻はこの数ヶ月前、突然勺経の前に現れ奇談めいた話をした。
「鬼の製造に成功した」
そんな話を勺経は疑るよりも驚きを持って受け入れたのは、道幻も勺経も同門の兄弟弟子のような関係であったところが大きい。
「二真教」という宗教はヤマタイの過半数が信じる宗教で、同じ寺に学んだ僧同士の繋がりは深く、二真教の一つの宗派には「鬼伝説」の伝承が信じられていた。
つまり、道幻も勺経も二真教の僧であり、その寺で地学天文学兵学を学び、それぞれ実力を買ってくれた国主に仕官し今があるのである。
「鬼。と申すと、御偽(オンギ)のことか」
僧衣の勺経は額に深く皺を刻みつつ、道幻の方へにじりよった。
「さようで御座います」
「御偽を作る技は遙か昔に途絶えたはず、どこでその技を手に入れた」
道幻は暫く沈黙すると、浅く息を吐き、意を決するように口を開いた。
「実は我々の手で再現できたのは一部であり、あれを完成させるには勺経様のお力添えが必要なのです」
「ワシと御偽がどう関わるというか」
「勺経様も二神の教えを受けた身、「鬼虫」の話はご存じでしょう。あれは伝承に残る古の語りでは御座りませぬ、何代にも渡り山村の村々に相伝され飼育された鬼虫が現代にも存在するのです」
「まさか」
「しかもその村はスルガ、オウミに点在するともうします、鬼虫が手に入れば御偽も完全なる形になりましょう」
「鬼虫捜索の許可をワシに願い出たいと、申すのだな」
「さようで御座います、まずは勺経様に御偽を使った捜索の様子を見ていただければ、御偽の力もわかりましょう」
数ヶ月後、御偽の入った大きな木箱と道幻の手勢100人がスルガの国に入り、勺経の手勢50人あまりと合流すると、そのままあわただしく北上した。
黒沢村、それが鬼虫飼育の疑いがある村の名であった。
左乃助の生まれ故郷である。
道幻は村を見下ろせる高台に陣取ると手早く家臣を三隊に分担し、第一隊は村に押し入り村人から情報を得るように指示し、第二隊は松明を持たせ村の斜面に陣取らせ、第三隊には御偽の入った木箱を村の入り口に運ばせるように言うと、床几に腰を下ろし道幻を見た。
「御偽は腐った死肉を喰わせると狂ったように人を襲います。しかし今の不完全な御偽では行動できる時間はもって一日」
「一日。その後御偽はどうなる」
「今の御偽では時がくれば腐り朽ちましょうな」
「御偽を数日の合戦に使うには鬼虫が必要と言うことか」
「さよう」
勺経は道幻の横顔を見て息を呑んだ、その瞳からは人の生気が消え果て、ただ残忍な獣がいるだけであった。
勺経が言葉を失っているうちに事は進行していった。
第一隊が村襲い、村人を殺し犯す。
村の長と数人の青年にそれを見せつけ、鬼虫の在処を白状させる段取りになっていた。
「確かに私が小童だったころこの村でも鬼虫を飼っておりました。だぎゃもう全て死に果て、ここにはもう鬼虫はおらなんだ」
村の長は震えながらも兵士の一人をまっすぐ見つめた。
「そんなことはあるまい。調べはついておるのだ、正直に申せ!言わねば皆殺しぞ」
「オレらぁは今初めてオニムシなる物の話を聞きました。ほんとうだオレらぁを信じてくれろ」
捕らえられていた青年の一人がすがりつくように叫ぶと、第一隊の隊長は道幻と勺経が見ているであろう丘を見て息を吐いた。
「白旗を振れ」
村人から鬼虫の在処を聞き出せる期待が持てないときは白旗を振れと言われている。村の周辺を捜索しても村人を脅しても聞き出せないのでここは白旗を振るしかあるまい。
村で白い布が振られるのを確認すると、道幻はゆっくりと床几から立ち上がり、沼の底から這いだした怪物のような唸り声をあげた。
「赤旗を振れ・・・御偽を放ち、その後村の穀物小屋に火を打つのじゃ」
「鬼虫が見つからぬのに御偽を使うのか」
勺経は弟弟子である道幻に恐怖すら覚えていた。
「勺経様に御偽の力を見てもらわなければスルガまで来た意味がございませぬ」
勺経の心をなぶるように道幻は口元をゆるませ、旗をふるように右手を挙げた。
木箱の中ではグーグーと寝息とも唸りともつかない声をあげていた。
「赤旗でございます!御偽を御偽を放てとの指示が出ました」
「やかましゅう言わんでもわかるがな、とうとうコイツをうごかす時が来たか・・・小窓を開けぃ!」
木箱には小さな覗き窓が付いていて、ちょうど御偽の口の部分が見えるようになっている。鶏の腐った死肉を竹槍に突き刺し、小窓から御偽の口にそれをねじ込む。
「木箱を立てぃや!御偽が暴れ出すぞ!箱を割ったら箱の前に出たらアカンぞ!御偽に喰われてまうぞ!わかったか」
第三隊の隊長が吼えると、木箱がゆっくりと立てられてゆく。もうすでに中の御偽は興奮状態にあり、箱が割れんばかりに震えている。
「割れぃ」
その号令で箱の全面が斧で割られ、見るにおぞましい鬼を模した恐獣が放たれた。
御偽は猛然と村を目指し、目に入る人や家畜を食い荒らした。
「御偽が放たれたぞ!村人の何人かを連れて行け。次の御偽の芯にするさかい」
第一隊は目に付いた村人数人を縛り付けると、疾風のように村から消えた。
村の敷地に御偽が入ったのを確認すると、第二隊が穀物小屋に火を放った。
穀物小屋に火を放った理由は、一つに火を恐れる御偽が踵を返し撤退する道幻隊を襲わないため、もう一つには村人が運良く残った場合の備蓄食糧を奪うと言う目的であった。
こうして左乃助の故郷は奪われたのだ。
そして時は戻り、左乃助の居るオワリ城。
信長の元には藤兵衛の間者、藤吉郎の間者から多角的な情報がもたらされていた。
間者もその大将に似るのか、同じ今川軍の行動を伝えるにも、藤兵衛の間者は何人の兵が何処に集結し何処まで進行しているかを事細かく伝え、藤吉郎の間者は今川隊が兵糧と同じだけの酒を運んで進軍しているだとか、何処の村で村娘をどれだけたぶらかしたかなどといった事を話の端々の織り込んだ報告をしてきた。
その二方向から、又は二面的な報告を総合し、信長は思考し、脳内で中でふるいにかけられ再構築された意見が発せられたのは九月に入ったばかりのことであった。
「熱田まで軍を動かす」
信長の口から初めて進軍の意向が発せられたとき、傍らに藤兵衛が四角い身体をうずくまらせていた。
「殿。まさかあの小僧を戦に連れて行くおつもりで」
藤兵衛は恐る恐る、それでいて信長の耳にはっきり入るよう言葉を吐き出した。
「いかんか?」
「いや。しかし。アレはまだ小僧でございます」
「小僧を戦に出すは忍びないか?」
信長は藤兵衛をなぶるように笑うと、冷酷なまなざしを中庭に向け、言葉を放った。
「あの小僧を戦に出さんであの小僧の力をいつ使うというのじゃ」
信長が言い放ったのをきっかけにでもしたように、広間に左乃助が入ってきた。
その身体には子供用の当世具足が装着されていた。
胴巻きはの右腕部分は大きく切り取られたようになっていて、そこからは例の鬼腕が甲冑から隆起した物体のように突き出し、左腕には腕当てが装着されていた。
その具足が左乃助が動く度ガチャガチャをやかましく音を立てる。
「のぶながぁ。どうじゃ!どうじゃ!オレも立派なさむれぇにみえるだか」
左乃助がガチャガチャと音をたてて信長の元へ駆け寄って来たときには、信長の目から先ほどの冷酷さは消え去り、可愛い童でも眺めるような目に変わっていた。
「おぉ左乃助、立派じゃ立派じゃ、それで思う存分戦働きが出来ようぞ」
そういいながら信長は、一瞬、藤兵衛に向き直り。
「明朝進軍じゃ。先行隊は今宵出陣するようにいたせ」
こうして桶狭間の幕は開けた。
佐乃助の鬼腕 第一章②