安全誘拐
娘が誘拐された。国見は妻と相談し、急いで身代金を用意しようと話し合う。しかしすべては国見の浮気が招いた出来事だった。
国見が会社から戻って来ると、妻が項垂れた様子でダイニングの椅子に座りこんでいた。チャイムを鳴らしても出て来ないので、近所にでも出ているのかと思ったが、単にぼんやりして気が付かなかったらしい。
「あら……、ごめんなさい。いつ帰って来たの?」
妻は国見の脱いだ上着を受け取りながら、着替える為に寝室へ向かう夫の後を追った。
「体調でも悪いのか?」国見が聴くと、「そんなんじゃないの、ちょっと考え事してただけ」という返事。
しかし国見は何があったんだろうと訝しんでいた。理由もなく夕食の支度をしていなかった事など記憶になかったし、どこか心ここに在らずという彼女の表情を見るのも初めてだった。
食卓に着いても出てきたのはビールだけ。慌ててつまみを拵える妻に、「有り合わせの物でいいよ」と声を掛けた。こんな時に急かせると怪我でもし兼ねないと思ったからだ。
「そういえば優美はいないのか?」
いつもならソファに寝転がってテレビでも見ているのに、珍しく姿が見えない。
「昼間買い物に出掛けったっきり、まだ帰って来ないのよ」妻は手を休めずにそう答えた。
居間の時計を見上げると、そろそろ九時になろうとしている。妻の言い付けを守って、遅くなりそうな時は必ず電話を入れていたのに、今日はまだそれもないという。
高校一年の娘に特に門限は設けていなかった。
今まで遅くなる事はなかったし、親に心配かけないように、その辺はちゃんと考えて行動出来る娘には必要ないかな、と思っていた。
妻は何か言っているのかもしれなかったが、国見は結構娘を信頼していたのだ。
手の空いた妻が優美の携帯に電話を入れている。しかし呼び出し音が続いた後、電話は留守番サービスに切り替わったようだ。
「お母さんです。遅くなるなら電話をしなさいっていつも言ってるでしょ? とにかく…………」
”お小言”が長引いて、途中で録音時間を過ぎてしまったらしい。妻は携帯をひと睨みすると、再びキッチンに向かった。
学校は夏休みに入っている。
「遊ぶのに夢中になって、単に時間を忘れてるんだろう」
「そうでしょうけど、少し釘を刺しておいた方がいいかもしれないわね」
テレビのニュースは、夜中まで繁華街をうろついている少女達の姿を映し出していた。
ふたりで遅目の夕飯を食べながら、国見はもう一度時計に目をやった。すると妻もちらりと目を向けた。
ふたりが考える事は同じようだった。
***
十時になるとさすがに不安になった。
それから三十分おきに優美の携帯に掛けてみたが、呼び出し音すら鳴らなくなっていた。
「どうしたのかしら?」
妻の表情は不吉な予感に強張っていた。
「夜分遅くにすいません。国見ですけど、そちらに娘が伺っているなんて事ありませんか?」
優美と仲のいい友達は二人いて、遊びに行くにしろ、試験勉強なんかをするにしろ、大体その三人でつるんで行動している。国見も家に泊まった事のあるその二人の顔だけは覚えていた。
妻が今電話しているのはその一人だった。もう一人の娘には、「今日は会ってないです」と言われていた。
妻の落胆した表情から、どちらの友達からも優美の行方の手掛かりになりそうな情報は得られなかった事が分かる。
案の定受話器を置いて首を横に振る妻に、「優美はどこに行くと言っていたんだ?」と訊いた。
「たぶん国分辞だと思うんだけど……」
優美が服を買いに行くのは、駅前にファッション関係の店が多く集まる国分辞が多かった。でももしかしたら、足を延ばして新宿辺りまで行ったのかもしれない。
優美の部屋を覗いてみると、机の上にあった雑誌にいくつも赤丸が付けられていたからだ。
「まさか、彼氏かなんかと遊びに行ったんじゃないだろうな?」
「それはないと思うけどね」
いつも仲良し三人組で行動する娘に、そんな様子はなさそうだという。
しかし言った傍から、抽斗の奥に押し込まれていた避妊具が出てきて、ふたりは声を失った。
こういう事をしても不思議じゃない年になったんだな……。
コンドームを手にしたふたりが呆然と佇んでいると、階下で電話が鳴っているのに気が付いた。
「もしもし優美?」
開口一番娘の名を口にした妻は、突然硬直したように黙り込んだ。
不審に思った国見は、慌てて電話に付いているスピーカーに音を流した。
「……もう一度言う。お宅の娘は預かった。身代金はの要求は二千万だ。明日までに用意しな。
言っておくが、警察に通報した時点で取引は中止する。こちらは別にお宅の娘じゃなくてもいいんでね。
一生会えなくなっても構わないっていうんなら止めないけど、それはイヤでしょ?
それと、お宅らずいぶん娘の部屋を散らかしたみたいだけど、ちゃんと片付けておきなよ。
明日また電話する」
それだけ言うと電話は切れた。
***
相手の声は中性的で、声変わりする前の男の子みたいな感じだった。しかも話し方は妙に砕けていて、若い印象を与えていた。
「どうしよう……」
泣き崩れる妻を慰めながら、とにかく椅子に座らせる。向かいに腰を下ろした国見は「警察へ届けるのは様子を見てからにしよう」と言った。
犯人はこの家に盗聴器を仕掛けたと告げたに等しかった。ここへ警察が入ればすぐに犯人にバレてしまう。
男は誰でもいいように言ったが、ウチを標的にしているのは間違いなかった。
「金さえ払えばきっと優美は戻ってくる。とにかく明日までに準備出来そうか確認しよう」
正直妻は自分の意見に猛反対すると思った。
自分達ふたりだけで対応するのは無理に決まっている。いつのも妻ならきっとそう言っただろう。
でも彼女は「そうね」とひと言呟いただけで、「顔を洗ってくる」と言い残して、部屋を出て行った。何か、らしくない感じがしたが、今はそんな事を言っている場合ではなかった。
すでに時間は十二時になろうとしていた。
しばらくして通帳や権利書などの入った箱を持って戻った妻は、テーブルの上にそれらを広げた。金庫から取り出してきたようだった。
預金はともかく、それ以外の株や債券、妻の実家の近くにある土地などの財産は、そのほとんどが妻名義になっている。彼女の実家はその地方では名の知れた資産家だった。
彼女の両親は共に健在だが、国見と結婚する時には、すでにこれだけの物を持っていた。ようするに親が、将来困らないように、または結婚する時に持たせる目的で、彼女名義で”貯金”を
していたのだ。
国見が式を挙げた時には、逆玉だと随分羨ましがられた物だが、それは大きな勘違いだと言ってやりたかった。これはふたりの物じゃない。あくまで妻個人の財産なんだ、と。
しかも実際には彼女の両親の目もあるので、国見には触る事すら出来ないお金だった。
そんな訳で、全部でどれ程の額になるのか、今までに一度も訊いた事がない。それらに掛かる税金もすべて妻が支払っていたので、”多額”以上の数字を国見は本当に知らなかった。
「通帳には一千万くらいある。残りの金額なんとかなりそうかな?」
国見がそう訊くと、パソコンを開いた妻が画面を見せてくれた。画面には名称と保有数、そして時価などの数字が並んでいる。
妻が一覧表を指さしながら口を開いた。
「現金は残しておきましょう。何かあった時に困るし」国見が頷くのを見て、妻は続ける。
「すぐに換金出来るのはやっぱり株でしょう。明日になれば懇意にしている会社の人と連絡が取れるけど、最悪それを担保にしてお金を借りてもいいわ」
一覧は証券会社などから最新のデータを取り込んで、現在の総資産がひと目で分かるようになっていた。
その一番下の覧を見て、国見は驚いて声を上げていた。
「これ。これが総額なのか?」
「そうよ。そういえばこういう話し、あんまりした事なかったものね。ごめんなさい」妻はそう言って目を伏せた。
なんで謝るんだ? それにこんな非常事態でも自分の稼いだ金には手を付けないという妻の想いに、国見は何となく感じる物があった。
彼女がこれを見せないのは、国見の事を信用していないとまでは言わないまでも、自分との間に見えない壁を作って守っているからだと思っていた。
彼女は夫として自分を立ててくれてはいたが、今までずっとその事が不満だった。どこか金持ち特有の、差別的な目で見られているような気がしていたからだ。
でもそれは自分の勝手な思い込みだったのかもしれない。もしかしたら国見が働く意欲を失う事を恐れた妻が、敢えて見せなかったんじゃないか。そう思えてきた。実際家計は国見の給料だけで回っていたし、その生活に妻が不満を言う事は一度としてなかった。
「とにかくお金は大丈夫。だけど……」
「だけど?」
「彼ら現金を欲しがるわよね、きっと」
「そうだろうな。身代金が銀行振り込みっていうのはないだろうし……」
国見には、それがどうした? という感覚しかなかった。
「現金てね、銀行にもそんなに置いてないんだって。いきなり行って二千万下そうとしても、無理かもしれない」
とにかく明日の午前中にお金に変えなくては間に合わない。犯人がいつ連絡を寄越すか分からないからだ。そしてそれは妻に任せるしかなかった。
すべては盗聴器を考慮して筆談で行っていた。こちらの内情をすべて教えてやる必要などないからだ。
換金は明日にならなければ出来ないし、犯人からどんなやりとりを指定されるかも分からない。
まずはインターネットで調べて、盗聴器っぽい形の物を探し出すと、すべて外して金属の缶に詰め込んだ。勝手に取り除いてはマズいかとも思ったが、これではまともに話す事も出来ない。
優美の携帯にも間隔を置いて掛けてみたが、二回目が繋がる事はなかった。
そして一縷の望みを掛けて国見は国分辞に行ってみる事にした。最寄りの駅までの道を辿り、国分辞駅前を少し探してみようと思った。
もう店は閉まっているだろうが、ただ待っているだけなのは落ち着かなった。
本当は最初にそうするべきだったが、お金が揃えられないとなったら、手の打ちようがなくなる。
「誘拐したと言っているのは電話の男だけで、今の時点では証拠は何もない。もしかしたら財布を失くして困っているだけかもしれない」
気休めだとは分かっていたが、国見はそう言って車を発進させた。
バックミラーに映る妻の縋るような視線に見送られながら、国見はアクセルを強く踏み込んでいった。
***
翌日。電話は夕方になって掛かってきた。
結局昨夜は何の手掛かりも見付からず、午前一時過ぎに家に戻った国見を、憔悴し切った妻が出迎えた。
その後は眠る事も出来ず、携帯を囲んでひたらすら電話を待って夜を明かしていた。
「盗聴器は見付かったか?」
前回と同じ声は、その言葉の端に笑いを含んでいた。
「まあ、いい……。金額に変更はない。今夜現金と娘を交換しよう。
そうだな、こういうのはやっぱり男の仕事にだろうな? 運び役は旦那さんにやって貰う事にしよう。
何か質問はあるか?」
どこまでも落ち着いた話し方が忌々しい。
「優美は無事なんでしょうね? 声を聴かせて。電話に出してっ!」妻の声がヒステリックに叫んだ。丸一日眠っていないせいで感情がコントロール出来なくなっているのだ。
妻は午後になってようやく銀行から帰って来た。誘拐の件は伏せなくてはならないので、どうしても無理がきかず、随分交渉に手間取ったらしかった。
相手を刺激しないようにしろ、とマイクを塞いで妻を宥める。
「ま、当然気になる所だろうね」
スピーカーから声がしたと同時に、妻の携帯が鳴った。相手が「開いて」と言う。
携帯に送られてきた写真の優美は髪が濡れていたが、確かに家を出たままの服装で、泣きそうな顔でこちらを見詰めていた。
そして持たされている新聞は今日の朝刊に違いなかった。
これで誘拐がハッタリでない事。とにかく娘は無事でいる事が分かった。
ふたりはほっとすると同時に怒りが込み上げていた。
「満足して貰えたかな?」
「なんで濡れてるの? なんかしたんじゃないでしょうね?」再び妻の声が上がる。「もし手を出したりしたら殺してやるから!」
「それは穏やかじゃないな……」
国見は妻から電話を奪い取っていた。これ以上暴言を吐いたら、収まる物も収まらなくなってしまう。
「大丈夫。彼女は丁重に扱ってるさ。それより金の準備は出来てるんだろうね?」
妻の言葉に相手の声がイラついているのが感じられた。
落ち着いて。落ち着いて……。
「それなんだが、現金を用意するのにあと一日時間をくれないだろうか? 銀行が用意出来るのは明日の朝になるというんだ」
「なるほど……」と声が聞こえると、しばらく沈黙が続いた。何やら考えているらしい。
「あんた旦那さんでしょ? こうやって落ち着いて話しはしたいよね。
取引は明日に変更する。金を確認したら娘のいる場所を教えるから、迎えに行く準備をして待ってな。
そちらが余計な事をしなければちゃんと約束は守るし、かわいい優美ちゃんも無事に帰って来る事になる。
時間と場所はまた連絡する」
***
取引当日。陽は沈み、暗くなった公園に人の姿はまばらだった。
そのベンチのひとつに国見は現金の詰まったバッグ抱えて座っていた。指定された時間にはまだ少し早かったが、しきりに時計を見ては辺りを見回した。
解放された優美を迎えに行く為と、何か不測の事態が起きた場合に備えて、妻は自宅に待機させてある。
あと五分になった。風が吹いて公園の木々の葉が擦れあってさざめいた。
その音に顔を上げた時、ちょうど歩いて来たスーツ姿の男が国見の脇に荷物を置くと、「ああ重い」と赤くなった手を振った。
「すいませんね、ちょっと隣りお借りします」こちらに断りを入れてから男は荷物を広げ出した。
マズいな。もう取引の時間になのに……。
「こっちにバッグを移して、立ち去りなさい。娘さんは三十分後に解放するから……」
囁くような声に国見が驚いて顔を向けると、彼は眼鏡を鼻まで下げてそっと頷いた。
持ってきたバッグを細く開いて、中身が本物の万札の束だと確かめさせると、男がもう一度頷く。
国見は中から黒いセカンドバッグを取り出して、小さく片手を広げると、バッグを男の広げたリュックの中に移し入れた。
「あった、あった。これを探してたんだよ」彼は封筒を取り出すと、それを国見に手渡した。
「すいませんけど、これ捨てておいて貰えませんか? 厚かましくて申し訳ない」
下手な芝居だ。そう思いながらも国見は封筒をポケットに仕舞うと、おもむろに立ち上がった。妻がこっそりついて来た可能性を考えているんだろうが、それは杞憂だった。
「もう会う事はないわ。約束する」小さな声で再び彼は言った。
国見はバッグを残したまま、何も言わずにベンチを後にする。
その後ろ姿を見送りながら、男は、「さよなら」と呟いた。
国見の姿が見えなくなると、リュックの口を閉じて、左の肩に引っ掛ける。
金額の割には軽いし、嵩張らない物なんだな、と美里は思った。
さて急がないと……。もう少し時間に余裕を持たせればよかったな。
美里は国見とは反対方向へ向かって歩き始めた。やがて公園を出たその姿は、急に早足になって、人ごみの中に紛れて消えていった。
三十分後……。
優美は駅前のバスターミナルのベンチにひとりでじっと座っていた。なぜかその手には白い杖を握っている。
車を降りた妻が辺りを見渡しながら足を速め、すぐに優美の姿に気付いたのが分かった。
駆け寄った彼女は人目も気にせずに娘を抱き締め、泣きながら頬を寄せている。
そんな感動の再会を周りの人達が何事かと見詰めては、杖を見て勝手に納得したように頷いていた。大方迷子になった盲目の少女を探し当てた、とでも思っているんだろう。
しかし驚いた事に娘は本当に目が見えないらしい。優美の視線がどこか不自然に彷徨っているからだ。
封筒にあった手紙によれば、あと三十分もすれば元通り見えるようになるという。もちろんそれは妻にも伝えてあったが、本当にそんな事が出来るのか、国見は半信半疑だった。
しかし実際にそんな娘の姿を目にすると、杖は周りの人が気を付けてくれるように、わざわざ持たせたんだなと思い当った。
その手紙には娘の髪が濡れた件に付いても触れていた。
怖い思いをさせないように丁寧に扱ったつもりだったが、それでも優美は緊張して漏らしてしまったのだという。風呂に入れた時に少し濡れてしまい、送った写真はその時の物だと弁解してあった。
美里も妻の剣幕に母親の想いというものを感じ取ったんだろう。
もっとも国見にそんな偉そうな事を言う資格などなかった。
優美には本当に悪い事をしたと思っている。いくら危害を加えられる事はないといっても、それを娘は知らないのだから、当然怖い思いをしただろう。
美里のほとんど脅迫に近い物言いに、思わず彼女の提案に乗ってしまった自分が、今となっては情けないばかりだ。何もかも自分の妻に対する誤解が招いた事だった。
……ともかくこれですべては終わったのだ。
これからは家族の為に時間を使う事にしようと思った。
美里の言った通り自分にもへそくりが出来たが、これを今使うのはさすがに後ろめたい。しばらくはどこかで眠らせておいて、何か有効な使い道を考えるとしよう。
国見は抱き合うふたりの姿を遠くから見詰めながら、コインロッカーに預けてきたセカンドバッグを頭に思い浮かべていた。
さて、そろそろ自分も合流しようか……。
国見は近くにあったゴミ箱に捩じった手紙を投げ込むと、物陰から出て速足に歩き始めた。
***
「大事な話があるの」
そう言って国見を呼び出したのは、いつも使っているホテルの一室だった。
「こんなに急に一体どうしたっていうんだ」
小さな応接セットに腰を下ろしながら、彼は声を荒げて言った。突然の呼び出しにすこぶる機嫌が悪い様子。
「忙しいのにごめんなさいね。でもどうしても今夜話しがしたくって……」
美里は下手に出るように切り出した。
「実はね妊娠したの。子供がね……出来たの」
「え?」
驚いた国見は吸っていた煙草を自分のズボンに落とし、美里の指摘で慌てて拾い上げた。
「本当なのか? 間違いじゃないのか?」
どうしても間違いであって欲しいらしい国見に、美里は貰ったばかりの母子手帳を見せてやった。
ハンカチを取り出した彼は、暑くもないのに忙しなく額の汗を拭き、ちらちらと上目遣いでこちらを見上げてくる。
彼はそのまま沈黙した。何を話したらいいのか分からないようだった。
「あなた、今すぐ堕ろせっていう顔してる」
「いや、そんな事はないさ。ただもう少しよく考えてから改めて、だな……」
しどろもどろの彼の言葉を遮ると、美里は強引に話しを続けた。
「……悪いけど、あなたを呼んだのはそんな話しをする為じゃないの。
子供は産むわ。これは譲れない。
でもあなたにも、あなたの家族にも迷惑は掛けたくないから、認知してくれなくて構わないし、私ひとりで育てるつもり。
だけどこうなってしまったからには二人の関係を清算したいの。それはいいわよね?」
自分にの都合のいい展開に、国見は思わず首を縦に振っていた。
「でね。私も働いてるから少しは貯金もあるけど、出産前後はどうしても収入が途切れてしまう。
それにあなたもお子さんがいるから知ってるでしょうけど、先々この子に掛かるお金はうなぎ上り……」
「つまり……金か……」国見が天を仰いだ。
「あら、察しがいいのね。
養育費の先払いと手切れ金で千五百万。都合してくれないかしら? 資産家の奥さんがいるんですもん。安いもんでしょ?」
なるほど。金さえ払ってくれれば、ごねる事なく立ち去ります、という事か……。国見は腕を組んで目を閉じると、再び考え込むように口を閉じた。
そんな彼の返事を美里は黙って待つ事にする。
彼の額にまた汗の粒が浮き出てきた。
避妊はしっかりしたはずなのに妊娠なんて、とか、資産を握っている奥さんからお金を引き出す算段とか、そんな事が頭の中を駆け巡っているに違いない。
美里は国見の財産のほとんどが奥さん名義である事を知っていた。ただ彼は奥さんにまったく頭が上がらないという感じには見えなかった。だから何かそれらしい理由を付ければ、彼からお金を引き出せるだろうと踏んでいたのだ。
なのに……。
「知ってるだろう? 俺にそんな金はないんだ」期待していた言葉が返ってこないばかりか、国見は美里に泣き付いてきた。
「お金を出してくれないっていうんなら、私にも考えがあるわ」
往生際が悪いなと思いながら、美里はポケットからICレコーダーを取り出して、今の会話がすべて録音されている事を知らせてやった。
「こんな事はしたくないけど、出る所に出ても私は一向に構わないのよ」
「…………」
それでも彼はうんと言わない。
どうして? それくらいのお金どうにかなるでしょう?
目論見が外れたのを面(おもて)には出さず、仕方ないわね、という感じでちょっと笑い、美里は立ち上がろうとする。
奥さんと離婚するような羽目にはなりたくない。子供も大切だ。けれど自由になるお金はほんの僅か。それじゃ、どう解決するのかしら?
「待ってくれ、妻に知られずにそんな大きな金額を動かすのは無理なんだ」
帰ろうとする美里に彼が縋り付いてくる。そんな国見の姿がちょっぴり哀れに見えた。
「払う気はあるって事? ……でも払えない?」
人形のように首を縦に振る国見に、美里は鞄から一枚の紙を取り出した。
色々な状況を考えてこういう物も用意していた。奥さんが暴走するリスクはあるけど、そこは彼になんとかしてもらしましょ。
その紙を彼に手渡すと、美里は再び腰を下ろした。
「あなたの娘さんて高校生なんですってね」
美里は紙の内容を読み耽る国見を見やった。
「奥さんが捨てても惜しくないと、お金を出してくれるその方法。乗ってみる気はないかしら?
しかもあなたにも自由になるお金が手に入るのよ。一石二鳥でしょ?」
***
実は妊娠しているなんて嘘だった。
小さい頃に父親を亡くした美里が好きになるのは、いつも年上の男。それも父親に近いような年齢だ。プラスお金があればもっといい。
その胸に抱かれると美里はとても安心出来た。
友達には救いようのないファザコンだと言われるが、目が行ってしまうのだから仕方がない。
国見と付き合い始めたのももちろん同じ理由からだ。
美里は彼に甘えられればそれでよかったが、実態は国見に都合のいいただの愛人だった。
美里から見れば国見は父親で、それなりに物をねだったり、我儘を言いたかったが、彼は抱きたい時に抱ける自分を求めていたに過ぎなかった。
しかも彼のセックスはどこか投げやりな所があって、その身勝手な行為を美里はどうしても好きになれなかった。
彼は口は上手だったが、自分にお金を注(つ)ぎ込む気はないらしく、美里の心は徐々に彼から離れ始めた。
実は彼は家庭の何かに不満があって、その捌け口として自分を囲っているのだと気付いたのは、最近になってからだった。
そして美里に新しい恋人が出来たのも、その頃だった。
別れが目前に迫った所で、美里は国見の事を調べ始めた。少しは貰う物を貰わないと割に合わないと思ったからだ。
……結果、彼はもっと素直にお金を出すと思ったのに、その目論見は見事に外れた。
そこで美里が考えたのが、彼の娘を誘拐して奥さんが持っているお金を引き出そうという物だった。
一応本当に誘拐しなくてはならない面倒はあるが、夫である国見が協力すればリスクを大きく減らす事が出来る。彼と常に情報をやりとりして、奥さんの様子を窺いながら物事を進められる利点があった。
そして奥さんを宥めて賺して、お金を出させるように思っていくのが彼の腕の見せ所だ。
結果から言えばすべてはうまく運んだ。
割と幅広い音程が出せる美里の声は、電話の応対には打って付けだった。半分遊びのような感覚ですっかりのめり込んだ美里は、余計なアドリブを入れ過ぎてあとで後悔した事もある。
美里は国見の会社の人間を装って優美に近付き、彼女を車に連れ込むと自宅に軟禁していた。さすがに一人で運ぶのはつらいので、国見にも手伝って貰った。
二人は一蓮托生だと美里は思っていたが、彼もそうとは限らない。目的はお金だけ。娘に危害を加えるつもりなどなかったが、信用してもらう為にも娘を囲っておく自宅の場所を教えた。
優美を拘束しなければならなかったが、自分の監視下にあればお客さんのような物だ。
でもさすがに顔を見られるのはよろしくない。そこで彼女には瞳孔を開かせる目薬をさす事にした。これを点眼すると視界は真っ白になり、何も見えなくなる。
国見には嘘をついていたので知らないはずだが、美里は調剤薬局に勤める薬剤師で、劇薬や麻薬系の物でもなければ大抵の薬は手に入れる事が出来た。
優美は美人というより、かわいい、幼い感じの顔立ちをしていた。娘は男親に似るというし、国見の遺伝子から造られた彼女の顔を美里は興味深く眺めて過ごした。
彼女には、「二日で家に帰してあげる」と言ってあった。そして彼女に接するのも女である自分だけ。怖がらせないようにしたつもりだったが、それでも優美は本当に怯えていた。
それだけは今でも悪い事をしたなという思いがある。
ちなみに国見には言わなかったが、彼の奥さんにもちょっとした手を打ってあった。
彼女がクラス会に行った時の事だ。その帰り道、彼女は少し呑み過ぎてふらついていた。
美里はそんな彼女の後を尾行し、タイミングを見計らって男に彼女をラブホテルに連れ込ませたのだ。男が強引に腕を取ると、彼女はそのまま足を縺れさせてビルの中へ消えて行き、美里は狙い通りの瞬間をカメラに収める事が出来た。
そして事前にその写真を国見の自宅に送り付けておいた。もちろん親展として。
写真の裏には”犯人より”と書いた。
誘拐事件が起こるまでは何の事か分からなかっただろうが、自分達に刃向わせない抑止にはなったんじゃないかと思っている。
彼女が何もなかったと言っても、夫が信じるかは分からない。下手に警察に通報しなかったのも、そんな思いがあっての事だろうと思った。
ちなみに男はその為だけに金を掴ませて雇った人間で、その後本当にホテルの部屋まで入ってナニかした訳ではない。
それでも娘を心配した彼女の想いに、後々美里は圧倒される事になる。優美を取り戻す為には、そんなつまらない写真などないに等しいという事だ。
母は強し、か。
斯くして”事件”は終わりを告げた。ひと組の家族と自分以外に誰も知る事なく、ひっそりと幕を閉じたのだ。
お金は受け取った物の、実はすぐに使う宛てなどなかった。
奥さんへの宛て付けのような扱われ方をしなければ、もっと本当の子供のように大事に想って貰えれば、例え別れる事になっても、美里はお金など要求しなかっただろう。
髪を撫でられる幸せ。包まれるようなこの感じ。
新しい彼に抱かれながら、美里はその安らぎに身を任せていた。
安全誘拐