カンパネルラ・エクスプレス

カンパネルラ・エクスプレス#1

 
毎朝、ブレゲ・デピュイ1775/10時10分42秒に世界は死ぬ。だが死は敗北ではない。E.M.H.


 仮定された有機交流電灯に青白く照らされたカンパネルラ・エクスプレスは銀河第三象限の停車場で幽霊複合体旅団の緩慢な乗車を待つあいだも風景電灯をせわしなく明滅させていた。風景電灯の明滅は銀河を貫く因果法則を象徴しているのでもあって、23ヶ月間の過去と現在と未来を光と影によって照らしながら世界のありとあらゆる人々の心象スケッチと風物を映し出した。新世代沖積世の明るく巨大な時間の集積の陰にぼんやり浮かび上がった修羅の10億年は因果の時空的制約のもとに音もなく呼吸をつづけている。彼の不在証明が意味するのは、けだし素敵な化石のように希有な地質学の復権でもあったろう。この地質学が第四次延長の中で主張するのは即ち虚無と無限のあいだに横たわる宇宙塵の硬度の多様さである。
 さて、いましもカンパネルラ・エクスプレスの艶やかな群青色の車体が白鳥座と南十字星の中間点に向けて滑るように動きはじめたのと同時にあちこち擦り切れた飴色の巨大なトランク・ケースを抱えた人物が停車場のホームを全速力で走り抜け、カンパネルラ・エクスプレスの最後尾に飛び乗った。ブルカニロ博士だった。ブルカニロ博士は顔が隠れるほど制服の襟を立てた暗鬱な眼の車掌に青く輝く乗車券を手渡して改札を受けたのち、座席番号42に崩折れるように座り込んだ。ブルカニロ博士が窓外に眼をやると、それまで静寂のただ中にあった街はみるみる遠ざかり、ついには弱々しい光の点の集合になってしまった。カンパネルラ・エクスプレスはさらに速度を増した。銀河第三象限が滲んで、消えた。

 イーハトーヴォの最北端にある天気輪農業研究所で30年間にわたって土壌改良の研究をつづけてきたブルカニロ博士は最後の論文である『腐食質中の有機成分の鉱物に対する効果』を書き上げ、「聖託のタブレット」の修理を終えた夜に辞職を決意した。博士の研究室の黒板には青いチョークで「<strong>馨しく不思議な真理と清らかな白い蓮華の花を探しに行ってまいります。</strong>」とだけ記されていた。天気輪農業研究所の誰ひとりとしてブルカニロ博士失踪の理由はわからなかった。
 ブルカニロ博士の自然との交感力はイーハトーヴォ中につとに知れ渡っていて、田植えの時期、肥料の選択、旱魃や冷害や飢饉に関する相談は無論のこと、神隠しに遭ったこどもの行方やら失せものやら建築物の方位やらについての相談までが持ち込まれた。博士はそれらの相談のひとつひとつに親身に答え、しかも答えのいずれもが的確だった。そのような次第でブルカニロ博士の突然の失踪は天気輪農業研究所のみならず、イーハトーヴォの住人たちにも少なからぬ動揺をもたらした。

 カンパネルラ・エクスプレスの車内はコーエネルギー・システムによって充分に暖められていた。外は絶対零度に近い酷寒だが車内には及ばない。カンパネルラ・エクスプレスの車体はC63形蒸気機関車を思わせる前時代的な容姿とは裏腹に、ナノテクノロジーとバイオテクノロジーの粋を集めて設計建造されていた。車内は汗ばむほど暖かいというのにブルカニロ博士はグレイ・フランネル製の外套の前ボタンをすべてかけ、襟巻きを顔の半分まで引き上げていた。その様はどうみてもお尋ね者だった。博士は自らをかき抱くように両腕をその細い半身に巻きつけ、眠りに落ちた。
 ブルカニロ博士が深い眠りに落ちてちょうど1時間後、オオヤマネコの毛皮でできた大仰なオーヴァー・コートに身を包んだセルジオ・マイラ氏が通路を睥睨しながらやってきて博士の斜め向かいの座席に座った。その顔には傲岸不遜の色がたっぷりと浮かび、口の端には泥棒かささぎの血がこびりついていた。
 エスペラント語とヴォラピュク語の使い手にして山猫亭主人、セルジオ・マイラ氏は愛用のiPodに自作のイヤ・スピーカーをつなぎ、ヴィレム・メンゲルベルク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団『マタイ受難曲』第15曲のコラール、『われを知り給え、わが守り手よ』に耳をそばだてていた。第16曲のレチタティーヴォがペテロの独白にかわったところでイヤ・スピーカーを斜め前の座席で眠りこけるブルカニロ博士の両耳にそっとかけ、音量を最大にした。だが、ブルカニロ博士は眼を覚まさなかった。眼を覚まさないブルカニロ博士に業を煮やしたセルジオ・マイラ氏はオーヴァー・コートの内側からギブソン・ロボットギターを取り出し、一辺が30cmほどもあるヘルコのポリカーボネート・ピックで弦を掻き鳴らした。ギブソン・ロボットギターから出る音は自動調律機能が故障していて耳障りなことこのうえもなかった。

 インテリジェント・デザイナー協会の理事長でもあるセルジオ・マイラ氏の左肩にはいつもアルゲンタビス・マグニフィセンスのヴァセロン・コンスタンタンがとまっている。ふだんはすこぶるおとなしいヴァセロン・コンスタンタンだったがその日はちがった。ブリキ板を擦りあわせたような神経に障る唸り声をあげつづけている。なにごとか不吉なことを嗅ぎつけでもいるのだろうか? 元々、セルジオ・マイラ氏がモナド・ピープルの首領にしてヌメルス・アパートの家主、銀河宇宙一計算高いスルメイカのヌメルスからアルゲンタビス・マグニフィセンスの幼鳥を買い取ったのはみずからの身の安全を確保するためにあらゆる凶事の前兆を事前に把握するためだった。アルゲンタビス・マグニフィセンスはこの世界に起こるすべての凶事を予知する能力を持ち合わせていて、特に飼い主=主人への絶対的な忠誠心はたいへんなものであって、飼い主を守るためであればたとえ相手が巨神兵であっても猛然と闘いを挑む。アルゲンタビス・マグニフィセンスの鋭く強く巨大な嘴は15億年かけて形成された鈎状砂嘴さえも一瞬にして破壊するほどの威力を持っていて、陽子収束弾を発射する巨神兵の頑丈強固な口蓋をひと突きで破壊したほどである。
 見れば、ヴァセロン・コンスタンタンが震えている。このようなことはかつてなかったことだ。アルゲンタビス・マグニフィセンスが怯えてうめき、躯を震わせるなどということは。セルジオ・マイラ氏はしきりにヴァセロン・コンスタンタンの胸のあたりをさすってなだめるがヴァセロン・コンスタンタンの恐怖は収まらない。
「無駄だ。そいつは勘づいているんだ。この世の終りを」
 ブルカニロ博士が突然言い放った。「もう誰にも止められない。アルゲンタビス・マグニフィセンスの恐怖も世界の終りも」
「世界が終わるのは一向にかまわんが、世界が終わったあと、おれたちはいったいどこを目指せばいいんだ?」とセルジオ・マイラ氏がブルカニロ博士にたずねた。
「あんたはよほどの馬鹿者か大物だな。世界が終わればわれわれも消滅するんだ。そのあとのことを心配する必要はない」
「なんとかならんのか?」
「ひとつだけ方法があるが間に合わんだろう」
「なんだ? そのひとつだけある方法というのは」
「青い路地と赤い路地が交差する場所で ”神のグラマティカ”を解読すること。答えはそこにある」
 ブルカニロ博士が言い終えると同時にカンパネルラ・エクスプレス初号機が百舌鳥の鳴き声のような音を発した。
 

カンパネルラ・エクスプレス

カンパネルラ・エクスプレス

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-18

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