淡い夢

 あわい、あわい夢のなかで、ただひとりあなたを思う。


 
水面から入る光が、ゆらゆらと鱗を照らして、それがまた光を照り返してきらきらとガラスのように輝く。海藻は揺蕩う姉さんたちの髪のよう。海は、いろいろな色にあふれている。
珊瑚、ガラス、沈没船、真珠、瑪瑙、魚、沈没船。わたしは綺麗な色を眺めるのがすきだった。上へとのぼっていく泡のひとつひとつだってどれも同じ色ではなくて、美しい。心がやすらぐ。ずっと海の中で生まれて暮らしてきた。何一つ不自由のない、美しいわたしの世界。わたしの住むところ。お腹がすいたら海藻を一房とって口に運んで、それをたべて、お腹がいっぱいになったら眠る。人魚の生活は毎日が自由で、そして簡潔なものだ。    
姉さんたちはお年頃で、結婚の為に自分をいそいそと毎日着飾っている。男の人魚たちが作った装飾品や、綺麗な髪を編んだりとかしたりして。それはそれで素敵だと思うけど、わたしはどう頑張ってみてもそれがいつもと変わらない「姉さんたち」にしか見えないのだった。髪型が変わっても、すこし痩せても、いくら着飾っても。どこが変わったと言われれば首をかしげてしまうくらい。そのことを姉さんたちは「あなたは恋をしたことがないからよ」と笑うのだが、何がいけないんだろうか。恋をすることはそんなに偉いことなのか、よくわからなかった。そんなことをしているのなら魚たちについていって知らない海域を探検したりするほうがまだましだった。
姉さんたちが言うにはそれはまだわたしが幼いからだという。人魚は人よりずっと魚に近いから、幼いころは考える力が弱いのだと、そう茜色の髪をした姉さんが教えてくれた。姉さんはそういって私の髪を編んでくれたけど、わたしにはまだよくわからなかった。
「大人になったら、水面に上がってもいいのよ。そうしたら、すこしはあなたの考えも変わるかもしれないわ」
そういって髪を撫でてくれた姉さんの腕には、金色の華奢な鎖が巻かれていて、それは彼女によく似合った。話を聞くには姉さんは隣の海域の人魚と結婚するらしい。
「わたしだってきれいなものくらいわかるわ。でも、わたしがきれいになったとして、それがどうなるの?」
そう言うと彼女は髪を編んでいた手を止めて、やさしく私の頭をなでる。ゆっくりと、優しく。
「あなたも、恋をすればわかるわ」
そういった姉さんは、遠い昔に見た母さんの横顔にすこしだけ似ている気がした。

それからずっと恋について考えていたけど、はたして答えは出なかった。恋ってなんだろう、好きって、わたしがここを好きな気持ちと一緒じゃないの?それとはどう違うの?そうやって姉さんたちに聞いてみたけど、姉さんたちはみんな困ったように笑って「あなたも大人になればわかるわ」としか答えてくれなかった。そんな内に、私の体はもうずいぶんと大きくなっていた。体つきも前とちがって、膨らんでいる部分とそうでない部分の差が見て取れるようになってきたし、髪も伸びた。鱗は大きくなって宝石のように水面の光を前よりもずっと反射するようになった。まわりの人魚たちの真似をして、髪を伸ばしたり飾りを付けたり、鱗をみがいたりはしていたけれど、やっぱり恋は分からなかったし、頻繁にもらうようになった装飾品も、身に着けてみたものの、送られる意図がわからなかった。
「あなたは美しいのよ、だれか好きなひとはいないの」
ある男の人魚から装飾品をもらったとき、南の海域の人魚がすい、と泳いできてそんなことをわたしに言ったので、びっくりしてしまった。
「まさか、わたし、好きなひとなんていないわ。それに恋って、よくわからない」
そう俯くと、濃紺の鱗が美しいその人魚は目を細めてこういった。
「いろんなものをみて、いろんな人と関わっていけばわかるわよ。あなたももうすぐ水面に上がれる歳でしょう。色々と見ておいた方がいいわ」
そういってその人魚は尾に付けた真珠の飾りを揺らしながらまたどこかへと去って行った。わたしが水面に上がれるまで、あと三日のことだった。

なにもわからないまま、わたしが水面に上がれる日が来た。人魚が初めて水面に上がる日はそれぞれの姉さんたちが来て色々と地上の事を教えてくれるのだ。このぐらいまでなら近づいて安全だとか、ここにいると人間たちの船の近くまで気づかずに近寄れるとか。その日水面に上がる人魚はわたしともう一人だった。その子は美しい薄い桜貝のような鱗をした、可愛らしい女の子だった。こちらを見やると、すこしはにかんだように笑った。隣に、昔見た濃紺の鱗の人魚もいた。もう一人の人魚の姉さんらしい。二人につられるようにしてわたしも笑い返した。
日が傾いてくる頃になるとそれぞれの姉さんたちぞくぞくと集まってきてわたしともう一人を綺麗に着飾った。わたしを特別可愛がってくれた茜色の髪の姉さんは自分の金色の鎖を私に巻いてくれた。そうして準備がおわると、一番上の姉さんたちの合図で、わたしたちは水面にむかって一斉に泳いでいった。
水面に上がって最初に目に入ったのは、濃紺の水底のような夜空だった。そこに砂をちりばめたように光っているのは、たぶん星だろう。ひときわ輝く大きな星が多分月。水面から上がったときに最初に見たこともあって、強烈に見えた。あたらしい世界。あたらしいもの。ひときわ光って見える、美しい世界。目がちかちかする。となりの桜色の鱗の人魚も同じように思っているらしく、大きな瞳をぱちくりさせていた。
そうして目が慣れると、月のほかに光っているものが見えた。たぶん人間の船の明かりだろう。心配になって姉さんたちをみやると、大丈夫、と頷かれた。
しばらく、船の上の人間たちを、わたしともう一人はぼう、っと見ていた。初めて見る人間。わたしたちと同じような顔をした、全く別の生き物たち。
そうしているうちに私は一人の人間が気になった。帆の影に照らされる、よく働く青年。年はわたしとおなじくらいだろうか。ときどき瓶の中身を飲んだり、騒いだりしている。たまにそっと笑う彼の顔から、目が離せなかった。彼が笑うとふしぎとなんだか落ち着かなくなって、一瞬たりとも目を離したくなくなった。なんなのだろう、この気持ちは。
それはもう一人の彼女も同じだったようで、わたしのお気に入りの彼が帆影に隠れたとき、ふと彼女を見やると彼女はずっと船首にいる男を見ていたのだった。こちらの視線に気付くと、はにかんだように笑ったのだけれど、さっきとちがって、すこし困ったような、照れたような顔をしていた。
そうして、ずっとわたしたちは彼らを見ていた。目が乾くくらい、ずっと。いいえ、きっと目が離せなかったんだと思う。後ろで姉さんたちが呆れていたから。あまりにもずっと、しっかりと見ていたものだから目が霞んで視界が黒ずんできた。人魚の角膜は人間のものより脆い。
「もうそろそろ戻りましょう」
うちの一番上の姉さんがふと、ぽつりとそう言った。いつの間にか波は高くなって海全体がざわめき、黒い雲が西から忍び寄ってきている。船は帆を畳んで、明かりもずいぶん少なくなってきている。嵐が来るのだ。
私たちは無言で海にぽとり、ぽとりと潜っていく。嵐の夜の海の怖さは、海に携わるものほどよく知っている。まるで心の底を見透かされたような大きな暗闇に覆われて振り回される夜の嵐の海。わたしたちはよく知っている。けど、さっきまで楽しそうにしていたあの人間たちは、あの人はどうなんだろうか。そう思いながら暗い、くらい海の底へ潜っていく。わたしたちは帰る家が、あたたかい灯りがあるけどあの人はどうなんだろうか。わたしの目の前の海の底のようにまっくらな月明かりも無い夜の嵐の海でひとり、はやく風が止むのを待ちながらきつくきつく目を閉じたりするのだろうか。きっとそれは不安なはずだ。だって夜の海ほど死に似ているものはきっとないから。
わたしよりはやく、桃色の鱗の人魚が踵を返し、水面に戻っていく。わたしもほとんど何も考えずに反射神経で海面へと泳いでいく。ぐんぐんぐんぐん、水面が近づく。

姉さんたちの制止を振り切って水面に出た私が最初にみたのは、ほとんどこわれかけの船だった。
あんなに大きくて丈夫そうな船だったのに、こんなに簡単に揺れるものなのだと思った。まるで子供が石を転がすように、魚が好奇心で海藻をつつくように、いとも簡単に船はゆらゆらと大きく揺れていた。左右に大きく揺れるたびすこしずつ波がかかってしまっている。こんなに波が高いのに、みんな寝ているのかほとんど人の気配がない。しばらく呆然と見ていると二人くらいの人たちがでてきて、なにやら大声で話をしていた。
 そうして二人が大声で話したり帆の向きを変えたりしているうちにもどんどん嵐はひどくなっていった。騒ぎを聞きつけた人がちらほらでてきた。舵をとったりしているけど、この嵐では舵もそんなに意味がないだろう。一番最初に出てきた人は多分あの人。今も一生懸命声をだしてなにやら指示を出したり走りまわったりしている。ひどく小さな点。だめ、と思わず声が出た。そんなに走り回っては、だめ。
ひとが落ちた。船の先のほうでひときわ大きく声をはって一生懸命働いていた、あの人だ。そのひとがまるで小石みたいにふらりと船に揺られて落ちた。わたしはそこに向かってぐんぐん泳いでいく。ある程度近くなったら海の中に向かって泳ぎ始めた。あのまま落ちるとこのくらいの位置にいるかもしれない、というところまで。人間は私たちみたいに速く泳げないし水の中で息もできない。水に落ちた鳥よりもはやく、きっと死んでしまうだろう。今まででいちばん速く、頭がまっしろになるくらいの速さで私は泳いでいった。
そうしているうちに小さな藍色の点を見つけた。わたしはそれに向かってずんずん泳いでいく。近づいていくうちにだんだんとはっきり見えてきたそれはやっぱり人の形で、そして、あの人だった。
とりあえずその人を抱きかかえるようにして水面に上がる。人間は地上じゃないと息が出来ないだろうから。水に上がった途端にかかる重みはずっしりとしていた。人間の男のひとの重さにびっくりしてしまった。抱きかかえた時に、心臓の音がかすかに、でもしっかりと聞こえた。どくん、どくんと脈打つそれを全身で聞きながらわたしは急いで泳ぐ。もうずいぶんと男の人の体は冷たくなっていた。そうしてそのまましっかりと男の人を抱きかかえて、船から見えないくらいのところまで移動する。ひとを抱きかかえて移動するというのは結構疲れるものだ。はじめてのことだから尚更。腕は泳ぎ疲れたように張っているし、尾も痛い。けれど、そんなこと気づかないフリをしてひたすら泳いだ。
浅瀬に近づいてきたので、男の人の心臓に耳をあててみる。確かに脈打つそれが私に元気を与えてくれた。この人が生きている。それだけで十分、いくらでも泳げる。そんな気がした。
男の人を波打ち際の、波がぎりぎり届かないところまで押しやる。そうしてそのまま、わたしもずるずる、と砂浜に上がる。いつの間にか、東から朝日がこぼれてきた。本当は早く海に、家に戻りたかったけど、それは無理な話だった。
ずるずる、そう引きずった私の尾びれは真っ二つに裂けて折れていた。泳いでいる最中、嵐で流れてきた流木や木の破片がわたしを切り裂いたのだ。あんなに磨いて綺麗にした鱗も、ぼろぼろで何枚も剥がれ落ちている。ここから自分の力で帰るのは無理だった。それに、姉さんたちからも、うちからも船からももうずいぶんと遠い所まできてしまった。あの桃色の鱗の子はどうなったんだろうか、疲れた頭と体でぼんやりと考える。
朝が来たら、きっと隣の人は高く、高く昇っていくお日様の光で体があたためられ、しだいに回復していくだろう。きっと大丈夫だ。わたしは。わたしは人魚だから、高く、高く昇っていくお日様の光も、熱も熱すぎる。きっとすこしずつ体温が上がっていって、熱くて、熱くてどうしようもないだろう。少し動けたとしても、人魚にとって昼の浅瀬は地上となんら変わりない。体が乾いて、熱を持って爛れて、干からびる。だからそれまで、すこしでも隣のこの人と一緒にいたかった。せめて目が覚めるまで、自分がはじめて好きになった人の顔をしっかり焼き付けて死にたかった。
夜が明ける。朝日は雲間に黄金の粒を一粒落し、漏れ出す光は空を何ともいいがたい美しい藍色に染めていく。綺麗だ。すごく、きれいだ。
「泣いているの」
ふと、近くで聞こえた低い声にびっくりして隣を向くと、男の人がこちらを見つめていたので驚いてしまった。どうしよう、わたし、こんな姿で。
「きみは…」
そういって男の人はわたしをぼんやりと見つめている。その視線が下に行って私のぼろぼろの脚をみたあたりで、私はなさけなくて、かなしくて涙がぼろぼろでてきた。こんなぼろぼろの鱗を、きちんとした二本の脚ではないわたしを、見られたくなかった。
「けがを、している」
痛いのか。
 そう男の人はわたしに聞いた。びっくりした。てっきり人魚の私に怯えて逃げると思ったその男の人は、私に怪我の具合の心配をしたのだ。そうして辛そうに体をひきずって這うようにしてわたしに近寄ると、そっと私の髪をなでて、おでこに手を当てた。
「昔、かあさんがな、どこか痛い所があるとこうやって頭をなでてくれた。俺はそれが好きでな。痛みがかるくなるきがしたんだ」
 男は辛そうに息を吐きながら、そうやってゆっくり、わたしの目をみながら頭を、髪を撫でてくれた。ゆっくりゆっくりと。
 わたしは、勇気をだしてそっと手を男の人に伸ばす、脆いものを触るようにふれた、はじめての人間の体温はひどく熱く、けれど温かかった。
 「きみはやさしいな」
ひんやりとしてきもちいいからそのままつづけてくれ、と男は言う。
 「あなたのことがすきだから、やさしくするのよ」
そういうと男はびっくりしたように目を真ん丸に見開いて、それからふんわりと笑った。
 「おんなのひとに告白されるのははじめてだ」
とても、とても嬉しかった。一目ぼれした、自分がはじめて恋をした人とこんな風に話せるのが。こんな近くで触れ合えるのが。そして、こんなぼろぼろの、魚だとしたら釣り上げても海に捨ててしまうような見た目のわたしを、おんなのひとと、言ってもらえたことが。たまらなく嬉しかった。
 ふと、男の人が手を止めた。力をうしなったそれに、手をそっと支えるように添える。
 「こんど、デートしようか」
 「デート?」
 「きれいな花が咲く、お気に入りの場所があるんだ」
男の目はまだわたしをみつめている。みつめているけど、きっともう、見えていない。覚えていない。
 「きみは美人さんだから、きっと花が似合う。プレゼントするよ」
 「うれしい、わたし、花をもらったことがないの。だったら私はあなたにわたしのお気に入りの場所を教えるわ。サンゴ礁が綺麗で、魚たちがいっぱいいるの。すこし進むと沈没船があって…」
 「そりゃいいな」
ほとんど遮るようにして男が言う。さっきまで荒かった呼吸は、今はもうかすかになってきた。
 「ぜったいよ、ぜったいいきましょう。約束よ」
そういってしっかりと手を握ると、弱弱しく、だけどしっかりと握り返される。
 「ああ、約束だ」
男はにっこりわらうと、眠るように目を閉じた。わたしもつられるようにして目を閉じる。
 
 どこか遠くの未来で、誰かがわたしに向かって、「きみはずいぶん泣くんだな」そういって笑って、花束をくれる、そんな未来がありますように。わたしは昇る金色の太陽に生まれてはじめて、願い事をした。

淡い夢

淡い夢

人魚の初恋のお話。にんぎょひめでゆうめいなあの子の他に、こんな恋をした子がいたんだという話を書いてみました。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-18

Copyrighted
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