【掌編幻想譚】Memories
三
三
電車に乗っていた。
春先のかすんだ陽の光が、車内を照らしている。
トトン、トトンと走る車窓から、田植えをして間もない田んぼが見える。
そんな景色を、気が付くとぼんやり眺めていた。
分かっているのは、大事なことはもう終わったのだということと、それが何であったかを、自分はもう思い出すことができないのだということ。
その記憶自体が、自分にはもうないのだった。
車内には他に乗客がいた。
くすんだオレンジ色のワンピースを着た女、白い山高帽をおそろいでかぶった老夫婦、そしてシャツ一枚の小太りした男が一人。
私の左隣では、セーラー服の女の子が文庫本を読んでいる。
乗車口の近くに、モンシロチョウの死骸が落ちていた。
この電車は、思い出がなければ降りられない。
そう誰かが言っていた気がした。
この車内の人々も、同じようにしてここにいるのだと。
どこからか小さな女の子がやってくる。
赤い水玉の服を着た、まだ小学校にも上がっていなさそうな。
この子の親はどこにいるのだろうと思ううち、その子はモンシロチョウの死骸をひょいとつかむと、開いた窓へ手を出した。強い風に晒されたモンシロチョウは、小さな掌の中で、パラパラと砕けていった。
思い出のない者はだから、黙って途方に暮れていた。
「なぁ」
と声を掛けられる。
だらしなく服を着崩した、若い男だった。
「協力してくれないか」
差し出す手には、藍色の手拭いが握られていた。
「これを、どうしろって」
男はにっと笑う。
「ここじゃあな、モノから記憶を引き出せるのさ」
そう男は言った。
「がしかし引き出した記憶はそのままじゃ役に立たねぇ。二人以上で共有しないと、思い出にゃならないんだ」
「つまり」
思い出を、捏造するのか。
「やるか?」
是非もない。いつかはここを降りなければならないのだ。
電車を降りると、草の匂いを包んだ風がさわさわと吹いた。
改札にはカーキ色の軍服の男が二人いたが、あっさり通過する。
テカテカとした軍靴ばかり、頭に残る。
駅を出ると、もう土がむき出しの田舎道だった。
草むした丘の道を、ゆっくりと登っていく。
知らない場所だった。
元より知っている場所などないのだから、どこも同じことだろう。
しばらく歩くと開けた場所に出る。
土壁の納屋が並んだ、農家の庭先だった。
丘の見晴らしがいいところに簡素なイスとテーブルが置かれていた。
そこへ老夫婦が腰掛けている。
同じ電車にいた二人だった。
「一緒に、お茶でもしていきませんか」
と夫が言った。
腰掛けた先には、良い景色が見れた。
丘の麓から広がる田んぼの中を、線路が一本走っている。
二人には、ここでの思い出があった。
奥さんの語る思い出話を、茶を飲みながら聞く。
夫がぼろぼろに傷んだトランプを取り出してきて、きり始める。
それは、どこか見覚えがある気がした。
「ここには思い出を忘れるために来たのです」
と夫は言った。
「私達のどちらが先に逝ってもいいようにね」
少し陽の陰った風景を、ぼんやりとながめていた。
一両編成の電車が、田んぼをコトコトと駆けていく――――
【掌編幻想譚】Memories