【掌編幻想譚】Memories


 電車に乗っていた。
 春先のかすんだ陽の光が、車内を照らしている。
 トトン、トトンと走る車窓から、田植えをして間もない田んぼが見える。
 そんな景色を、気が付くとぼんやり眺めていた。
 分かっているのは、大事なことはもう終わったのだということと、それが何であったかを、自分はもう思い出すことができないのだということ。
 その記憶自体が、自分にはもうないのだった。
 車内には他に乗客がいた。
 くすんだオレンジ色のワンピースを着た女、白い山高帽をおそろいでかぶった老夫婦、そしてシャツ一枚の小太りした男が一人。
 私の左隣では、セーラー服の女の子が文庫本を読んでいる。
 乗車口の近くに、モンシロチョウの死骸が落ちていた。
 この電車は、思い出がなければ降りられない。
 そう誰かが言っていた気がした。
 この車内の人々も、同じようにしてここにいるのだと。
 どこからか小さな女の子がやってくる。
 赤い水玉の服を着た、まだ小学校にも上がっていなさそうな。
 この子の親はどこにいるのだろうと思ううち、その子はモンシロチョウの死骸をひょいとつかむと、開いた窓へ手を出した。強い風に晒されたモンシロチョウは、小さな掌の中で、パラパラと砕けていった。
 思い出のない者はだから、黙って途方に暮れていた。


「なぁ」
 と声を掛けられる。
 だらしなく服を着崩した、若い男だった。
「協力してくれないか」
 差し出す手には、藍色の手拭いが握られていた。
「これを、どうしろって」
 男はにっと笑う。
「ここじゃあな、モノから記憶を引き出せるのさ」
 そう男は言った。
「がしかし引き出した記憶はそのままじゃ役に立たねぇ。二人以上で共有しないと、思い出にゃならないんだ」
「つまり」
 思い出を、捏造するのか。
「やるか?」
 是非もない。いつかはここを降りなければならないのだ。


 電車を降りると、草の匂いを包んだ風がさわさわと吹いた。
 改札にはカーキ色の軍服の男が二人いたが、あっさり通過する。
 テカテカとした軍靴ばかり、頭に残る。
 駅を出ると、もう土がむき出しの田舎道だった。
 草むした丘の道を、ゆっくりと登っていく。
 知らない場所だった。
 元より知っている場所などないのだから、どこも同じことだろう。
 しばらく歩くと開けた場所に出る。
 土壁の納屋が並んだ、農家の庭先だった。
 丘の見晴らしがいいところに簡素なイスとテーブルが置かれていた。
 そこへ老夫婦が腰掛けている。
 同じ電車にいた二人だった。
「一緒に、お茶でもしていきませんか」
 と夫が言った。
 腰掛けた先には、良い景色が見れた。
 丘の麓から広がる田んぼの中を、線路が一本走っている。
 二人には、ここでの思い出があった。
 奥さんの語る思い出話を、茶を飲みながら聞く。
 夫がぼろぼろに傷んだトランプを取り出してきて、きり始める。
 それは、どこか見覚えがある気がした。
「ここには思い出を忘れるために来たのです」
 と夫は言った。
「私達のどちらが先に逝ってもいいようにね」
 少し陽の陰った風景を、ぼんやりとながめていた。
 一両編成の電車が、田んぼをコトコトと駆けていく――――

【掌編幻想譚】Memories

【掌編幻想譚】Memories

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-17

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