続・ノビーとアキュとミスターX――ケルベロスの謀略
プロローグ
俺がなぜこんなことをしなくちゃならないんだ。
眩いほどに鮮やかなオレンジ色のワイシャツに黒のスーツ、そして黒の蝶タイという奇抜ないでたちの男は、思わず出かかったその言葉をあわてて胸の奥に収めた。180センチはあろうかと思われる引き締まった体躯には不釣合いなほど、その表情には穏やかなものがあった。しかしひとたび任務が与えられると、その瞳は瞬時に精悍なものへと変わるのである。
目の前の作業台上に置かれた箱状の物体には4桁の数字が液晶表示されていている。液晶が0180、0179、0178…とカウントダウンしていく。その数字が『○○ダム爆破までのタイムリミット』というタイトルまでご丁寧に合成され、男が仕事をしている様子そして巨大なダムの映像と重ねて大型スクリーンに映し出されていた。
体中の汗腺からふつふつといやな汗が湧き出してくるのを黒スーツの男は感じていた。それがこの蒸し暑さのせいなのかそれとも緊張によるものなのか、判断はつかない。というより残された時間が3分を切って、異常なまでの発汗のわけを考えているゆとりなどない。これが本音だった。
ただひとつ、この発汗が恐怖によるものではないことだけは確かだった。デモンストレーションだからである。もし失敗しても爆発が実際に起るわけではない。命まで落とすことはないという安心感が男の瞳から精悍さを奪い去っていた。
伊達針之介は手に持った一辺20センチほどの金属製の箱の上蓋を慎重に外した。上蓋と本体との隙間を覗くと青と赤の二色のリード線が繋がっている。リード線は二色とも必要以上に長いと見え、くしゃくしゃと乱雑に丸めた格好で箱の中に押し込んであった。
伊達針之介は配線が傷つかぬよう注意深く作業台にそれを置いて、大きく深呼吸をした。不用意に切断したり傷つけたりすると、その瞬間ゲームオーバーとなる場合も想定されるからである。
0120、0119、…
照明がすべて伊達針之介と幸円仁が立つステージ上に向けられているため、逆にステージ上から客席のほうを見てもほとんど塗りつぶされたような影にしか見えない。しかし伊達針之介はこの『内閣調査室・危機管理体制についてのシンポジウム』に招待されているのがどのような顔ぶれなのかは事前に知らされていた。
内閣総理大臣・恋占淳一郎(こいじめ じゅんいちろう)を筆頭に、警察庁長官・笹見光彦(ささみ みつひこ)、経済企画庁長官・吉勝太郎(よし かつたろう)、農林水産大臣・米屋儀助(よねや ぎすけ)そして伊達の所属する内閣調査室室長・捨文王(しゃ ぶんおう)。そのほか個人参加の国会議員・玉野幸次郎(たまの こうじろう)等々、思わず身震いしてしまいそうな顔ぶれだった。
「ニッパー」と工具箱を整理している幸円仁に声をかけ手のひらを向けた。
外科手術をする医師に助手がメスを渡すように、幸円仁はニッパーを工具箱から取り出して伊達の手に乗せた。
0060.0059……
「おい。どっちを切りゃいいんだ?」伊達針之介はささやくような声で幸円仁に尋ねた。
幸円仁は起爆装置を覗き込んだ。
「なんじゃ、こりゃ」
長すぎるリード線がいい加減に丸められて押し込んであるため、赤青どちらを切れば良いのか判断できないのだ。引っ張り出して調べる時間もない。
0030、0029……
客席からざわめきが聞こえ始めた。
0015、0014……
「伊達さん。線は切らないで。ただ、スイッチをオフにしてください」
伊達針之介は幸円仁の言葉に素直に従い、上蓋についたON-OFFの切り替えスイッチをOFF側に倒した。
0002,0001『起爆装置は解除されました』
コンピューターの声が聞こえ、スクリーンの映像に『Cleared』文字が重なる。
伊達針之介と幸円仁はほっとしたように息をついた。
観客席から割れんばかりの拍手が沸き起こった。
伊達針之介と幸円仁は並んで客席に向かい深々と頭を下げた。
そのとき……
「ブラボー!」
客席から興奮したひときわ大きな声が上がった。そしてスリムな体躯の男が、おおくのSPたちの制止を振り切ってステージに上ってきた。色こそグレーだがライオンのタテガミを思わせるモジャモジャのヘアスタイルをしたその男は、「いやあ、さすがだ。感動した」と叫んで伊達と幸円に手を差し出し握手を求めた。
握手を求めた恋占総理大臣はふと作業台に目を走らせた。たったいま作動を解除されたばかりの起爆装置があった。恋占総理大臣は無警戒にボックスを持ち上げようとした。半開きになっている上蓋に取り付けられたスイッチがOFFをさしている。OFFになっていればONにしてみたいのが人情である。総理大臣は無意識にそれをやってしまった。
『起爆装置が起動しました』
コンピュータの声に続いてカウントダウンが再開される。
0001、0000『タイムオーバー』
次の瞬間『ドーン』という猛烈な爆発音とともにステージ上は黒煙に包み込まれた。
やがて煙が消えるにしたがってステージ上に光が戻ってくる。幸円仁、伊達針之介そして内閣総理大臣・恋占淳一郎の三人が頭から煤を被ったように真っ黒な姿を晒して呆然と立ち尽くしていた。
第1章 内閣調査室
1
2010年 秋
北海道
丸木を組んで立てただけのような素朴な門柱をくぐると観光農園サニーファームが広がっている。東京ドーム何個分という言い方をよくするけれど、5個分であろうが10個分であろうがイメージとして浮かぶ人間はほぼいないといって構わないと思う。とにかく広大な敷地に遊歩道をめぐらせ、その中に北海道の農産物をバランスよくレイアウトして植え込んだ農園である。観光で訪れた人々は季節によって農作業の体験や収穫を楽しむことができる。土産品コーナーも充実しており、農作物の他にも北海道の銘菓として有名な菓子類や、海産物などまで仕入れてしっかりと並べていた。
サニーファームの門柱をくぐると正面に平屋造りの赤い屋根を乗せた農家が見える。比較するものがないので近く見えるけれど、それでも門柱から500メートルほどはある。
しかしほとんどの観光客は車や観光バスで来園するので、農家に辿り着く前に道路の左側に広く取った駐車場に吸い込まれてしまうのだった。
オートバイや自転車の客がまれに直進してくることもあったが、行く手を遮って細長い池が堀のように農家をガードしている。池には幅の広いコンクリート製の橋が農家の正面に一本だけかけられていてその横に『この先私有地につき許可なく立ち入りを禁止する』という看板が関係者以外を拒絶していた。そして間違えてここまで来てしまった観光客のために『農園はこちら』と記した矢印型の立て札が、橋から分かれて農園へと続く小径を教えていた。
一般人は立ち入ることができないもうひとつの道。すなわち橋を渡って正面の木造平屋建ての人家へと続く道路は、コンクリートの舗装がなされ、自衛隊の戦車さえ進むことができるほど堅固な造りをしていた。
捨文王の私邸として登記されているこの農家は、実際に捨文王夫妻が居住していることにまちがいはなかったが、その地下はある組織の巨大な本部として機能していた。
わが国が危機に直面したとき、または直面する可能性が高いと判断されるとき、内閣総理大臣から直接指示を受け秘密裡に活動する組織がある。
『内閣調査室』と呼ばれている。
農家の下には最新鋭の情報収集機能を備えたその本部オフィスが組み込まれていたのである。
『内閣調査室』は英国における『英国秘密諜報局』、ロシアならば『K.G.B.(国家保安委員会)』、米国で言うと『U.N.C.L.E.』のような組織である。
調査専門員(エージェント)が10名。各エージェントを補佐するサブ・エージェント10名。調達部職員10名。事務職5名。内閣調査室長1名。秘書1名。この37名およびパートのおばさんたちおよそ10名で組織された集団だった。
捨文王宅の下に作られた内閣調査室は5階層の構造で入口はもちろん捨文王宅の玄関ではない。隣接した大きなガレージ風の小屋がエントランスとなっていた。大型耕運機やトラクターなどであれば5台や6台は楽に納まりそうな大きなものだったけれどサニーファームの広さからすれば違和感を覚えることもない。大規模農園の仕事に関するものを入れるための納屋とガレージを兼ねたようなつくりだから、そこが秘密組織への入り口だなどと考える者などいるわけもなかった。
車ごとガレージに乗り入れ管理室の確認チエックを受けた来訪者は、車に乗ったまま地下1階まで移動させられる。ガレージ全体が巨大なエレベーターになっているのである。
エレベーターが停止して時をおかず現れた担当員に車のキーを預ける。
車から降りると目の前にある自動扉が左右にスライドして開いた。地下1階。ホテルで言うならフロントロビーのようなつくりで床にはふかふかした感触の緋色のじゅうたんが敷き詰められていた。
フロントをはさんで左側は捨文王の執務室と応接室そしてエージェントたちの宿泊施設が配されている。エージェントルームはシティホテルのツインルームほどの広さを持った部屋とシングルルームが部屋同士行き来できるように作られている。シングルルームの方は勿論サブ・エージェント用である。
フロントの右側にはスイートルームクラスの部屋が3部屋あった。いわゆる貴賓室のようなものでドアを入ってすぐ左右に二段ベッドとデスクを置いたSPの詰所が備え付けられていて、ゲストのための部屋はその向こうに改めてドアがあった。
地下2階には来客用のシングルルームが20ばかり。そしてカフェテリア方式のレストランが店を開けている。
地下3階は内閣調査室の各部のオフィスである。勿論エージェントたちのデスクもここに並べられている。あとは地下4階から5階が調達部の工場および研究所となっていて、最後にスペースにすると5階の概ね10%の広さをもった実弾射撃練習場があった。当然その詳細や機能については国家機密事項である。写真撮影も厳禁だった。
シンポジウムに出席したことで、それが誰の責任であるにせよ、改めてわが国の治安が他の諸国に比べて脆いということを認識した恋占淳一郎はいささか憂鬱な気分で内閣調査室に入った。
一度解除した起爆装置が再度動き出して暴発したのは確かに自分のミスである。しかし物の弾みという言葉があるように、何がおきるか分からないのがこの世界なのだ。何人ものSPがついていながら、自分が軽率にもステージに上がろうとするのを引き止めることさえできなかったのだ。起爆装置がデモンストレーション用だったからいいようなものの、もし本物だったならば……。総理大臣は思わず身震いをした。
今夜ここに宿泊するのは総理とその頼りないSPだけで、そのほかは東京直帰ということになっている。役人、政治家といえども人の子である。プライベートをどう過ごそうが構わないではないか。しかしその辺はそれぞれで考えればいい。これまで恋占総理大臣はそう思っていた。
「どうやら少し考え直さねばならんらしい」と強く感じて思わず大きなため息をついたときドアをノックする音が聞こえた。
「なんだ?」という恋占の返事を待ってドアを開けたのはSPのひとりだった。
「準備ができたそうです」
SPはそれだけ言うとドアを閉めた。
2
2007年6月―
ドイツ。フランクフルト・アム・マインは一点の雲さえない青空が広がっていた。時刻は6時になろうとしているが、緯度の関係で昼のような明るさである。シュテーデル美術館やフランクフルト証券取引所のような石造りの建物が多いためか、ただ歩いているだけで喉がいがらっぽくなる。ジャケット姿の恰幅の良いその男は渋い顔をした。手荷物は早いうちに東京のホテルに送りつけたので、今は黒革張りのアタッシュケースひとつの気軽な格好である。
国立○○大学で客員教授として教鞭を振るっているウォルフガング・ユルゲンス教授はふと足を止めて腕時計を覗いた。
「もうこんな時刻か。腹も空くわけだ」教授は通りの反対側に目をやった。路面電車が走る通りの向こうにゆったりとした上り勾配のアプローチを見せてシェーネス・メトゥヘン・ホテルが聳えるように建っている。
「今日はこのあとホテルに入って過ごすだけだ。先に飯でも食っておこうか」
ユルゲンス教授は近くに小さなレストランを見つけてドアを開けた。近くにいたウェイターが「近付き「ご予約でしょうか?」
「いや。予約は入れていないんだが、だめかな?」
「結構ですよ。どうぞこちらへ」
ウェイターに案内されて席に着きとりあえずハイネケンとソーセージにチーズそして潰しポテトの塩コショウ炒めを注文した。どれを取っても簡単な料理ばかりだからあっという間にそれらはテーブルの上に並べられた。
ユルゲンス教授は何はともあれジョッキのビールを飲み干した。美味い。人はこの一瞬のために日々を生きているのだとユルゲンスは思った。手を上げてボーイを呼びおかわりをすぐ持ってくるように頼む。
席は店の一番奥まった場所で少し薄暗く感じられたが、じきに外の明るさが夜の闇に変わってしまえば室内の照明が均等にいきわたるはずだ。ちらりと窓際のテーブルに視線を送る。窓の外はまだまだ明るく、その中を路面電車が走り抜けていった。
ボーイが二杯目のビールを目の前に置いた。
「失礼ながらウォルフガング・ユルゲンス先生ではござらぬか?」
二杯目のビールを口に運ぼうとジョッキを持ち上げたとき、すぐ横に立った小柄な老人から声をかけられ、ユルゲンス教授は相手の顔を見上げた。次の瞬間ユルゲンス教授の顔が引きつった。ユルゲンスはその場に立ち上がって直立不動の姿勢をとった。
「フリードリッヒ・シュタイナー先生」
ユルゲンスの前に立った老人は量子力学の世界的権威者、フリードリッヒ・シュタイナー博士その人だった。
「お見受けしたところおひとりのご様子じゃね?ご一緒させていただいてもよろしいかな」
老人はにこりと微笑んだ。
「も、勿論です。光栄です」
ユルゲンスは緊張気味に答えると手を上げてボーイを呼びつけた。
「君。客と一緒になった。もう少し広い席は用意できんかね」
「ではこちらへどうぞ」
二人はボーイに案内されるままカーテンのかけられた特別室へ入った。
シュタイナー博士といえばこの世界ではカリスマであった。ユルゲンス教授自身この世界に飛び込んだのは若い時分シュタイナー博士から授業を受けたことが大きな理由となっている。ユルゲンスは現在60歳だから、40年近く昔の話である。
シュタイナー博士も今はもう相当な高齢になるはずだ。おそらく80歳か、いやもっと上かもしれない。それなのに何と矍鑠としていることか。そればかりか自分のことを覚えていてくれたとは。しかもフルネームまで……
ユルゲンスは目頭が熱くなるのを覚えた
ユルゲンスとシュタイナーはビールで乾杯した。
「ふらりと入ったレストランで君の姿を発見したときは、本当に驚いたよ」シュタイナー博士は言った。
「昨年出版された君の著書『打ち出された量子のコントロール』だが、実に興味深く拝読した。数ヶ所、如何なものかという部分もあるにはあったがね」
「どの部分でしょう」ユルゲンスは少し不安な表情を見せた。
博士はビールをテーブルに戻すと「そのことは、まあ、おいおい話すことにしよう」と笑って注文した料理に舌鼓を打った。
「ところでさっき、向かいのホテルを気にしておられたようじゃが、明日朝一便で東京かな?」
「その通りです。何しろ道路が渋滞するものですから朝一便に乗るときはそこのホテルに泊まることにしています。ここからならばそうはかからない」
ユルゲンスは忌々し気な表情を作って見せた。
「東京では勿論学会に出席するんじゃろうが、君にひとつ頼みがある。」
「なんでしょうか?」
「うむ。実は……」シュタイナー博士は少し言いずらそうに口籠ったが思い切って小さな声で「わしも学会には出席するんじゃが、スポンサー確保の目的もあるんじゃ。誰がみとるかわからんので、もし向こうでわしを見かけても、知らんふりをしておいて欲しいのじゃ」
「お安い御用ですよ」
奇妙な頼みごとだとユルゲンス教授は思ったが拒む必要もない。
「それからもうひとつ。東京にはいつまで?」
「三泊ほどしようかと思っておりますが」
「そうか。君はリューデスハイムという町を知っとるかな?」
「はい。存じております。ライン川の港町ですね」
「こっちに戻ってからでよいのでな、一度同行して欲しいんだが」
「構いませんよ、いつでも。ご都合のよろしい日に。電話でもいただければすぐ参上いたします」
そういってユルゲンス教授は名刺を一枚取り出し博士に手渡した。
「連絡先など名刺に書いてありますので」
ウォルフガング・ユルゲンス教授が笑顔を見せてそういうと、シュタイナー博士はただ黙って頷いた。
それからおよそ二時間ばかり二人は古い思い出話に花を咲かせ、ビールを楽しんだ。
外の明るさもようやく影を落とし始めたころフリードリッヒ・シュタイナー博士は席を立った。ユルゲンス教授が後を追おうとするのをシュタイナー博士は厳しい顔で制した。
「先ほどの約束は今からスタートだ。君はまだ少し飲み足りないように見える。もう少し飲んでから戻ったらよかろう。」
シュタイナー博士に言われユルゲンス教授は緊張してあまり食べていないことに気がついた。ラストオーダーでコーヒーとサンドウィッチを注文し、ぺろりと平らげてから席を立った。料金は博士が総て払って行ったらしい。
外に出るとフランクフルトの町はずれにもようやく夜が訪れようとしていた。
フリードリッヒ・シュタイナーはホテルのチェックインを済ませるとカードキーを受け取り部屋に入った。シュタイナーは洗面所に直行し鏡の前に立った。首を反らして首筋を両手で探る。薄い、コンマ何ミリという程度しかない継ぎ目の感覚があった。シュタイナーは両手の指を巧みに操って首の継ぎ目に滑り込ませると両手のひらに力を入れた。ぱりぱりという音とともに今までフリードリッヒ・シュタイナー博士だった顔が剥されていく。
やがて洗面所から出てきた男は受話器を取り「ルームサービスを。ウイスキーのハーフボトルと軽い食べ物を頼む」
その姿は30の声を聞いたばかりの健康そうな若者の姿であった。
3
2008年12月―
アメリカ合衆国。
遥か地平線に太陽が落ちたとたん、荒れ果てた廃墟だったはずの街はたちどころに息を吹き返す。人生に成功し富や名声を手にした人間たち、あるいはそう思い込んでいるものたちがいる。街はそれを根こそぎ奪い取ろうと獲物たちが群がるのを待ち構えているのである。
思いつく限りの艶やかな色彩と甘い香り、そして嬌声。それらが心地よい黄金比で町全体に充満し、準備が整ったとかんじるや否や、車や観光バスを仕立てて獲物たちが集まり始める。
ホテルフェニックス・ザ・バードはラス・ヴェガスの中心部にその巨大な姿をみせる最大級のカジノ・ホテルである
エントランスをくぐりロビーの向こうにあるフロントデスクでチェックインを済ませてルームキーを受け取る。部屋で休むにしても外出するにしてもまずここまではそう大きく変わることはない。そんなつもりででラス・ヴェガスのカジノ付きホテルに初めて入った客は、大袈裟に言うとその客はカルチャーショックに見舞われるかもしれない。エントランスをくぐり真っ先に目に飛び込むものは巨大なカジノの光景なのである。その規模も内容も超巨大で、客たちは一歩足を踏み入れただけでその雰囲気に飲み込まれてしまう。幾種類ものスロットマシーンが並べられ、あちこちのテーブルではポーカーやブラックジャックといったカードに一喜一憂する者達が集い、またルーレットのテーブルではカラララという心地よく耳に響く音とともにどっと歓声が上がる。
カジノの要所要所にはカウンターバーが遊び疲れた者たちのために飲み物を提供し、負けて懐具合が寂しくなってきた客達には銀行の窓口までが並んでいる。
しかしこのフットボールコートのような規模を持ったカジノで少しばかりの小銭で可愛らしいベットをする多くのツアー客達は勝っても負けても提供される上質なサービスに満足して引き上げていくのだった。
ホテルのフロントロビーはカジノを抜けた先にあった。白地に赤茶色のチェック模様を染めたスーツを着た男が白のエナメルシューズをコツコツと鳴らしながらフロントに近付いた。
「いつもご利用いただき、ありがとうございます。チェックインでございますね? トーマス・グリンフェルド様」
男に気付いたフロントのチーフが、先に挨拶をした。
「ウィリアム・ネスミス先生はもう入っているのかな?」
「はい。二時間ほど前に」フロントマンはグリンフェルドにキーを渡しながら「このたびのご予定は?」
「いや、今回は時間があまり取れない。明日には出発する」
「二時間も前に入ったということは……もう大変なことになっているのかな?」
「はい。グリンフェルド様の丁度真向かいのお部屋でそれはもう大変なことになっているようです」
フロントマンはカウンター下に設置しているモニターを見てニヤニヤした。
「懲りない先生だ。それでは行ってやることにしよう。それから、今晩スカイラウンジで食事をしたい。先生と二人でな。一時間後に予約を入れられるかな?」
「勿論ですとも。了解いたしました」
「ありがとう」
トーマス・グリンフェルドがエレベーターに向かって歩き始めると、若いボーイがトーマスの荷物を持って後ろに従った。
部屋は24階のエレベーターホール近くに用意されていた。というより月に幾度となく訪れる馴染み客にはなるべく同じ部屋を振り当てるようにフロントで調整しているのである。使い慣れた部屋でゆっくりと憩の時間を楽しんでもらおうというホテルの心配りだった。勿論客が変わりたいといえばそれに応じた。
トーマス・グリンフェルドは荷物を運んでくれた若いボーイに10ドル札のチップを渡して下がらせ、ドレッサーの前で身繕いを整えてからルームキーをポケットにいれて部屋を出た。
トーマスは向かいの部屋をノックした。内側でキーが解除される音が聞こえドアが細く開かれた。ドアの隙間から覗いたのは黒スーツに身を包んだ人相のよろしくないスキンヘッドの男だった。トーマスは構わず部屋の中に入った。
トーマスは部屋の中を見渡した。
部屋は10メートル四方はありそうな広い部屋で中央に据えた円卓には四名の男達が席についていた。テーブル状にはカードとポーカーチップがここまでの死闘を物語っている。
どうやらウィリアム・ネスミスがひとりで負けを大きくしているらしい。ひとり勝ちしているのがバーク・ハミルトン、通称グレート・リル・バーグと呼ばれる顔役の一人。残るふたりはI.C.関係の会社役員と、恰幅の良い日本人政治家であった。
トーマス・グリンフェルドの姿を見てグレート・リル・バーグは嬉しそうに笑って立ち上がりトーマスに握手を求めた。立ち上がるとバーグは身長が169センチにも満たない小男だった。
「さてさて、トムが来てくれたから私とネスミス氏の関係だけになった。重役さんと政治家先生の勝ち分を計算してお支払いしますので、受け取られましたらお引取りください」
グレート・リル・バーグはスキンヘッドに目配せをした。
スキンヘッドは手馴れた感じでふたりのポーカーチップを仕分けすると、「ビルさん。はいどうぞ」、「タマノさん。はいどうぞ」と微笑みながらそれぞれに数千ドルの紙幣を渡した。
「さてそれじゃネスミスさんだが……」
グレート・リル・バーグは厳しい視線をウイリアム・ネスミスに向けた。
「残念ながら君の場合、そう簡単にはいかんのだよ」
グレート・リル・バーグは説明するのも面倒だというように舌打ちし、「このヴェガスのプライベートルームでの勝負に十万ドルしか持ち合わせがないってことはないんじゃないの? カジノのほうでスロットでも叩いていりゃあ良かったのになあ」
グレート・リル・バーグは脇につるしたホルスターから銃を抜いた。護身用のベレッタだがここまで近ければ殺傷能力も高い。
「しかし君はラッキーだ。二週間ばかり前にここにいるトムからもし君と会う機会が有ったら知らせて欲しいと頼まれていたことを思い出したからね」
「じゃあバーグ。この男の負け分は俺が肩代わりさせてもらうよ。全部でいくらになるのかな?」
トーマス・グリンフェルドは上着のあわせを指で摘まむようにして武器など入っていないことを示してから胸ポケットに入れた小切手帳を取り出した。
「24万ドル。ジャスト」
「わかった」
「それにしてもネスミス先生はジオ・フロントについての権威だそうだが、いったい何のことなんだ? ジオ・フロントっていうのは」
トーマスが数字を記入する様子をしっかり確認しながらグレート・リル・バーグは尋ねた。
「話が長くなる」
署名を終えたトーマスはそういって小切手を小男に手渡した。
「じゃ確かに貰いうけた」
ネスミスとトーマスは部屋を出た。
「部屋は?」トーマスが尋ねると「6階です」
「今19時25分だ。20時ジャストに一番上の階にあるラウンジで待っている。逃げるなよ。もし逃げようとしたら今度こそお前の命の終わるときだと思え」トーマスが脅すとウイリアム・ネスミスは素直に首を縦に振って見せた。
「食事が済んだら今日はゆっくり休め。明日の朝早く出発だからな」
「出発? いったい何処へ」
「日本だよ。いいか言っておくが、お前の行動には選択肢はない。24万ドルは安くはないんだぞ。よし、それじゃまたあとで」
トーマス・グリンフェルドはポケットからキーを取り出して自分の部屋を開いた。
4
2010年 秋 北海道。
内閣調査室。室長執務室
「この資料にあるように2007年に量子力学のウォルフガング・ユルゲンス教授が失踪したのを皮切りに世界各国の学識者、著名人などが次々に姿を消している」
安楽椅子の柔らかいクッションにゆったりと身体を預けた恋占淳一郎内閣総理大臣は鞄からホッチキス止めの薄っぺらな資料書類を捨文王の前に放った。それは分厚いガラスをはめ込んだテーブルの上を滑りちょうど捨文王の目の前に止まった。
「拝見するべか、どれ。コピーしてもいかったべか?」
捨文王は資料を手にとって尋ねた。
「いや、まだある」
総理大臣は鞄からもう一部抜き出して、捨文王の後ろに背筋を伸ばして立った伊達針之介に直接手渡した。
伊達針之介は無表情で受け取った。
資料は『2007年~2010年・失踪著名人名簿』と題された3~4ページの極めて薄っぺらなものだった。
「今のところ日本人の失踪著名人は出ていないようだし、わが国の対応は静観と言うことよかろうと思っていたのだが」
総理大臣はここで一度言葉を切った。
「それが賢明な選択だべなあ」
捨文王が意見を述べようとするのを制して総理大臣は「ところがそうもしておられなくなった。」
「わが国が絡んどったってか?」捨文王は驚いて恋占総理大臣を睨んだ。」
総理大臣は辛そうに頷いた。
「失踪者番号26番にウイリアム・ネスミスという男がいるだろう。その男の失踪原因なんだが、ポーカーの負けを払いきれなくなったことによるらしいのだ。数日前にジョージア・バッシュ大統領から直接電話が入った。そのとき同じテーブルについてポーカーをしていたメンバーのひとりがわが国の政治家だったというんだ」
「玉野幸次郎……」
伊達針之介が思わず口に出した。
総理大臣は頷いた。
「まあ、今回は法に触れることもなかろう。ただ事実関係はすでに調べてた。タマコウの話によるとだな、ウイリアム・ネスミスの負け分は24万ドル。そのすべてをふらりと入ってきたトーマス・グリンフェルドという男が肩代わりしたというんだ」
「24万ドルもかい?何か魂胆があるんだべさ」
捨文王はぽつりと言った。常識の範囲を超えた大金である。そんな大金を意味もなく支払う人間なんているわけもないのだ。よほどの弱みを握られているかもしくはその男を利用して何かをしようとしているか、その二つに一つしかない。
「たぶんそういうことだろう。見返りもなしに24万ドルも出す人間などいるはずもなかろう。そのあたりを調べてみてほしいというんだ。バッシュ大統領は」
「しかしなぜわれわれが?」
「どうやらトーマス・グリンフェルドはネスミスの身柄を自由にしてから、二人で東京に入ったらしいのだ」
「なんとまあ」
「迷惑な話だよ、まったく持って」
総理大臣はそういって少し笑った。
「しかしその二人組みはそもそもどんな素性なんだべか?」
「プレジデント・バッシュから聞いたところでは、トーマス・グリンフェルドは合衆国内でも割と名の知られた土木関係の会社を経営しているということだ。ウイリアム・ネスミスは大学講師で、地下空間の有効活用について講義しているということだ。今のところそんな情報しかないが、まあやつらが日本に来て何をしているか、その報告だけでもバッシュに返してやれるよう、調査してくれんか」
恋占総理大臣は申し訳なさそうにそういって、鞄の中から1枚のブルーレイディスクを取り出した。
「写真やらなにやらの資料が入っている。着手前に見てくれたまえ」
総理大臣はディスクを捨文王の前に置いた。
ディスクを渡し終えた恋占潤一郎は一仕事終えたというように大きく一度息をついてから、「よいしょ」掛け声を出して立ち上がった。
「内閣調査室。か…」
総理大臣は庭園に面したベランダのようなガラス張りのスペースまで体を運んだ。木立の向こうに高さ数メートルの崖がそびえその」岩肌を数条の滝が水が細い滝となって伝い落ちている。しかし木立の緑もがけのような岩肌もすべてが作り物だった。降り注ぐ日差しにしても人口の光を巧みにコントロールしたものなのだった。
「今回はじめてよらせてもらったよ、私直轄の調査機関だというのになんとも申し訳ない」「いいことでねえか。ここさくる予定がねえっちゅうこたあそれだけ世の中が平和だっちゅうことだべや」
「確かに。これは一本取られましたな」
捨文王と総理大臣はどちらからともなく大きな声で笑った
第2章 ケルベロス
1
2010年 秋
東京 府中市
伊達針之介は東京競馬場のA指定席、二人がけの小型モニターつきシートに腰掛け、双眼鏡を両目に押し当てるようにしながらあちらこちらを落ち着きなくきょろきょろと覗きまわっていた。ウイリアム・ネスミスとトーマス・グリンフェルドは本当にやってくるのだろうか。伊達針之介の心配事はその一点だった
サニーファームで捨文王から指示を受け動き始めたのだが、パートナーの幸円仁との打ち合わせに丸一日ほど要した。何もかも漠然としていて話が煮詰まらない。
「こうなったらもう行き当たりばったりでやりましょうか?」
幸円仁の提案に頷くしかなく、とにかく上京してもう一度打ち合わせようと木曜日になって帯広空港から羽田へ向かった。
ホテルにチェックインした二人は本部で恋占淳一郎総理から受け取ったディスクを部屋備え付けのテレビに挿入した。
トーマス・グリンフェルドの顔写真や性格などが映し出された。
グリンフェルドが代表を務めるウッディ・ストーン土木㈱は日本支社があってアポイントメントを取る必要がある場合はそこが窓口になるのだろう。またグリンフェルドの博打好きは有名で、来日するときも日本の競馬開催日に合わせてスケジュールを組んでいるらしかった。
「ちょっとジャブを送ってみましょうか」
幸円仁は受話器を引き寄せてダイヤルをプッシュした。
数回のコールの後相手が出たらしいことが伊達針之介にもわかった。
「突然電話いたしまして申し訳ありません。私”ジャーナルBET”の幸円仁と申します。実は御社のグリンフェルド代表が来日されていらっしゃるとうかがいました。インタビューのお願いでお電話差し上げた次第なのですが」
「少々お待ちいただけますか」少しの間をおいて、驚いたことにグリンフェルドが直々に電話口に出た。
「何に関してのインタビューですかな?」
流暢な日本語を使いこなしている。
「はい。現在わが国ではギャンブルが禁止されています。しかし世論も少しずつですがその解禁を望む声があがり始めていることはご存知ですね」
「なるほど、私がギャンブル好きだということが相当広がっているようですな」
グリンフェルドは笑って「わかりました。それでは明後日の土曜日に東京競馬場に行きますので、その折にでも。わたしは、何時に入るかは未定ですがA指定席に最終レースが終わるまでは居りますので声をかけてください」と簡単に了承した。
幸円仁はグリンフェルドとのアポについて直ちに本部の捨文王に報告を入れた。
捨文王は「上手くやってくれ」と嬉しそうな声を出した。
「これからすぐわしのほうから”ジャーナルBET”さ連絡ばいれてよ、お前らが”BET”のものにまちげえねえっちゅう経歴を作っとくから。それから明日の夕方までにお前と伊達君の”BET"の名詞をホテル宛に届けるから、グリン何とかと会うときにつかってけれ」
「わかりました」
「ええと、それでだ、”ジャーナルBET”はあの江崎大五郎がやっとる雑誌だよな?」
「はい。そうです。経済企画庁長官に吉勝太郎氏が就任した年ですから二年ほど前でしょうか。フリーの競馬評論家だった江崎大五郎が立ち上げた雑誌です」
「わかった。じゃあすぐ手を打つから心配しねえようにな。頑張ってくれ」
「ありがとうございます」
幸円仁は受話器を置いた。
「あとは会ってからですね」幸円仁は伊達針之介に視線を向けた。
「お前は機転が利く。助かった」伊達針之介は心から自分の部下に礼を言った。
幸円仁は子供のようにはにかんで「とんでもないです」と目を伏せた。
そのとき甲高いピピピという音声が聞こえた。二人して音が聞こえたほうに目を向けると資料を挿入したテレビだった。再生が終わったらしい。
「以上で資料説明を終わる。なおこのディスクは自動的に消滅する。健闘を祈る」
聞いたことがあるナレーションが流れた。
伊達針之介と幸円仁はお互い顔を見合わせた。
次の瞬間ホテル備え付けの大型テレビはディスクを挿入したあたりからビニルが燃えるような嫌な匂とともに白い煙を噴出した。そしてその後何をしようとテレビとしての機能が回復することはなかった。
東京競馬の第1レースは午前10時に出走する。グリンフェルドは土曜日には東京競馬場に行くと言った。最終競走まで競馬場にいるといったけれどどのレースから始めようとしているのかは聞き漏らしてしまった。向こうがどのレースから勝負しようとしているのかは知らない。どちらにしてもこちらから頼み込んでインタビューに応じると約束してもらったのだから、グリンフェルドが現れたときにはいつでも開始できるように準備が整っていなければならない。遅れたり見落としたりすることはタブーである。
伊達針之介は腕時計を覗いた9時45分になっていた。
「どうやら朝一はパスするみたいだなあ」
針之介は双眼鏡をモニターつきデスクの上において幸円仁に視線を移した。
「そのようですね。伊達さん。いいですよ買いたいんでしょう? 第1レース。もし来たら僕が対応してますから」幸円仁は微笑んだ。
トーマス・グリンフェルドに目印になるだろうと伊達針之介は思い切って自分でも派手すぎかと感じる衣装を身に着けていた。純白のパンツに同じく白のシャツ、首にはライトグリーンのシルクのスカーフを軽く巻いみた。そしてショッキングピンクのジャケットといういでたちだった。
その派手な格好に真っ先に気づいたのは、残念ながらトーマス・グリンフェルドが最初ではなかった。
「伊達さん。伊達針之介さんでしょう」
馬券を買い終わって席に戻ろうとする針之介に肩越しに声をかける者がいた。針之介が振り返ると、懐かしい顔があった。
「その節は危ないところをありがとうございました」
「おお、君はミスターX」
「や、やめてくださいよ。ようやく穂刈末人という一般人に戻れたんですから」
「そうかそうか。そうだったな」伊達針之介は笑った。
ミスターXというのはもう二年になるだろうか、穂刈がノビー・オーダという名の謎の男から情報を得て完全的中をする競馬予想家という触れ込みで世に出たときの名前である。あの時はほかの予想屋やすべての予想紙からばかりでなく国からも非難され生命の危機にまでエスカレートしていったのである。伊達針之介はそのときミスターXの殺害を命じられたヒットマン。そしてまた一寸した気転でミスターXを救った男でもあった。
「もうすっかり落ち着いたかね」
「最近ようやく嫌がらせもなくなりました」
「それは何より」と穂刈をねぎらったとき一寸したアイディアが伊達針之介の頭に浮かんだ」
「そうだ、実は君にひとつ頼みがあるんだが……」
「何でしょうか?」
「俺たちは今日アメリカから来た世界的ギャンブラーと会うことになっている。俺たちが聞き出そうとしていることは別にあるんだが、会う場所を考えれば話題はどうしても競馬中心になりそうだ」
「しかしこと馬の話となるとそれほど詳しいわけではない。だからもし何か突っ込まれたときのために、同席して助け舟を出してほしいと思ったわけだ」
突然の依頼にもかかわらず、穂刈末人は快く承諾した。
伊達針之介が席に戻ったとき第1レースのファンファーレが鳴り響いた。穂刈の席は隣の列の五段ほど下だった。ななめすぐ下方という位置である。
第1レースが終了した瞬間、穂刈が振り返り針之介に向かってVサインを見せた。だが、振り返ったとき誰かを見つけたらしく伊達から視線を移し立ち上がった。
「トム!トム・グリンフェルドじゃないか!」穂刈は大きな声で叫ぶように言った。
「おう。しばらくだったね。ポカリ・スエット!」
その外国人も大げさに声を返した。
伊達針之介と幸円仁は思わず顔を見合わせた。
2
思い切り派手な衣装で身を固めたつもりでいた伊達針之介はトーマス・グリンフェルドの姿を見て愕然とした。目にも鮮やかな赤と白の縦縞のジャケットをラフに着こなし、パンツはメタリックのようなシルバーのジーンズ。首にはカリフォルニアオレンジのバンダナ、そして黄金色のテンガロンハットを頭にのせている。奇抜ないでたちの胡散臭い大男が階段状の通路を降りてくるのを見て、近くにいる者はみな興味深そうな視線をグリンフェルドに向けた。
の 伊達針之介と幸円仁はその場に立ち上がった。その二人をすり抜けるように穂刈が前に出て両腕を広げてグリンフェルドを迎え入れる形になった。ハグ……。穂刈の肩を伊達針之介がぽんぽんと叩く。
振り返った穂刈末人はようやく事情を飲み込んだようだった。
伊達針之介と幸円仁の顔を交互に見やって穂刈は「ええっ!伊達さんのゲストって、トムのことだったんですか」と間の抜けた声を出し頭を掻いた。
「ようこそ。はじめまして」
伊達針之介と幸円仁は笑いながらそれぞれグリンフェルドと名刺交換を済ませた。
トーマス・グリンフェルドと伊達針之介、幸円仁、そして穂刈末人を加えた四人は予め捨文王のほうで押さえていた特別観戦室に場所を変えた。
ふかふかの絨毯を敷いた特別観戦室のロビーからドアを開けて観戦室の中に足を踏み入れたとたん「すばらしい!」とグリンフェルドが大声を出した。そこにはまるで別天地のような空間が広がっていた。部屋はもし畳を入れたならば30畳は下るまいと思われるほどの広さだった。ドアから見て正面に全面アルミサッシの引き戸が取り付けられていて、戸を開けるとバルコニー状の迫り出しに出ることができた。勿論そこは東京競馬場の売り物である最後の長い直線に面していて、まるで鳥にでもなったかのような視点から最後のデッドヒートを見ることができるのだった。
室内に目を戻すと本革張りのソファーと安楽椅子2脚でテーブルを挟んだ応接セットが横に並べて二組おかれている。ソファの背中側には、広々としたスペースの中央にオードブルと飲み物をのせたダイニングテーブルがある。部屋の奥に収納と思われる蛇腹のカーテンが下がっており幸円仁が小さく開いてみると、ウォーキングクローゼットのようなスペースで、たくさんのハンガーを吊り下げたレールとそのおくには数脚の折りたたみ型パイプ椅子が立てかけてあった。そしてソファーに背中を預けた格好で正面を見ると壁には数台のモニターテレビが埋め込まれ、開催している各競馬場の様子やオッズなどの情報を映し出していた。
「それにしてもまさか穂刈君がグリンフェルドさんと友達だとは思わなかった」
伊達針之介は本当に驚いていた。
「友人関係ということもないですけれどね。会社員だったころよくコンペになったものです。入札で」
穂刈が簡単に説明し、トーマス・グリンフェルドは愛想笑いを浮かべて頷いた。
「そこにお互い馬鹿がつくほどの競馬好きだった、というわけですな」
伊達針之介が上手くまとめた時、場内放送が流れ第1レースの払い戻しを告げた。
「皆さんも大当りですかな?」グリンフェルドはみなの顔を一人ひとり見渡した。穂刈と針之介は示し合わせたようにVサインを作って見せた。
「ほう。それはすばらしい。君は?」
一人無表情で黙っていた幸円仁にグリンフェルドは聞きなおした。
「私は賭け事はたしなみませんので……」
幸円仁がそう返答するのを聞いて少し残念そうに顔をしかめたグリンフェルドだったが、突然思いついたように「ひとつ提案があるのですが」と悪戯好きな子供のような少し興奮した表情を見せた。
「今日のレースのトータルに関して三人で賭けませんか?一日トータルで一人10万円程度。そうですね……収支でも良いんですがこれはあまりフェアじゃない……。財布の中身もそれぞれ違うだろうしね。だから自分の買ったフォーカスを一点について千円購入したものとして記録しておくわけです。記録係は幸円さんにお願いしましょうか。そして最終レースが終わったときに収支を計算して優勝者を決めるんです。どうかね?ポカリ・スエット」
「OK。俺はいいよ」
「伊達さんはどうですか?」
「受けて立ちましょう」
「よし、それじゃあ決まりですね。じゃあ幸円君。記録係お願いします」
「構いませんが……」
幸円仁は少し口ごもって伊達針之介に救いを求めた。
グリンフェルドは笑った。
「心配しなさんな。インタビューのことならいくらだって時間はあるよ。」
「幸円君、グリンフェルドさんも折角ああいってくれているんだ。インタビューは夜だってできるさ」
トーマス・グリンフェルドは伊達の言葉に満足したらしかった。
「どうやら今日は楽しい一日になりそうですね。そうと決まれば善は急げだ。第2レースもうすぐ締め切りですよ」
どこまでも流暢な日本語で言い置いてトーマス・グリンフェルドは特別観戦室から出て行った。伊達針之介と穂刈末人は顔を見合わせながら後に続いた。
ドアを開くと特別観戦室の絨毯を敷いたロビーがあり、そのすぐ向こうが馬券売り場だった。窓口は3つ。『専用窓口』と書かれた透明なアクリル板で仕切られている。各窓口にはカウンターの部分に馬券や金をやり取りするかまぼこ型の窓が開いていてそれぞれの窓口に係りの女性が着いていた。グリンフェルドは中央の窓口で針之介たちに背中を見せて馬券を買っていた。
伊達針之介と穂刈末人もなんだか少し振り回されているような気持ちを胸の中に感じながら窓口に立った。
3
最終レースが終了して集計してみると、グリンフェルドが12レース中7レースを的中させてトップだった。穂刈と伊達はといえばそれぞれ5レースと4レースの的中である。
それでも収支を計算してみると穂刈も伊達も何とかプラス収支で一日が終ったことになる。伊達針之介にしても穂刈末人にしてもこと競馬に関しては好きなだけで、めったにプラスで終了することなどなかったので、それなりに満足げな表情を見せていた。できたと 穂刈はノビー・オーダの力を借りずに自分の予想だけを頼りに勝負したにしてはまずまずの結果だったと思った。にしてはいう結果に終わった。収支を見ても順位はそのままで、伊達針之介と穂刈末人はそれぞれ最初に取り決めていた10万円をトーマス・グリンフェルドに支払った。グリンフェルドは上機嫌でその中から5万円を「記録係を勉めてくれたお礼ですから」と幸円仁に差し出した。
幸円仁はちょっとためらったが針之介が頷くのを見て素直に受け取った。
四人は新宿に場所を移しグリンフェルドが宿泊する高級ホテルのスカイラウンジで食事とインタビューを終えた。インタビューの中で伊達針之介は著名人失踪の件にもさりげなく触れてみた。
「グリンフェルドさん。どころで今回の来日はお一人でいらっしゃったのですか?」
「えっ?」
予期していなかった質問にグリンフェルドが言葉を捜しているのを見て、針之介が主導権をとった。
「ジャーナルBETの下調べによると、かつて貴方はラス・ヴェガスである男を救ったことがあるそうですね。その男はポーカーで負けが込んで、支払い不能の状態に陥った。しかも相手というのがグレート・リル・バーグというその世界では名の知られた暗黒街の顔役だったと聞いています。相手がそういう筋の人間だったということですから負けた方の男はその身にまで危険が迫っていたはずです。その男を何の見返りも求めず貴方は救った。まさに武勇伝だ。一歩間違えればあなた自身に危険が及ぶことだって考えられるでしょうに……」
針之介が少し興奮気味に続けようとするのをグリンフェルドは制した。
「それは買いかぶりというものでしょう。きっとあなたがおっしゃるのはビル・ネスミスのことだと思いますが?」
「ウイリアムという名前のはずですが」
「ビルはウィリアムの愛称です。私の名前トーマスをポカリがトムというようにね。」
「トムが俺をポカリと呼ぶのは単なる間違いだ」穂刈が口を挟んだ。
グリンフェルドは穂刈を無視した。
「ネスミスは私の下にぜひとも置いておきたい人材だった。これで答えになるだろうか?」
「十分です。雑誌に載せても?」
「このあたりまでなら」
「ありがとうございます。それからもうひとつぜひお伺いしたいのは、グレート・リル・バーグとあなたの関係です。そのときポーカーに参加していたわが国の国会議員の話によると、あなたとバーグの様子は相当親しいものに見えたということですが。……」
「なんだか尋問されているようですね」グリンフェルドは針之介に疑いの目を向け「バークとはジュニアハイスクールから大学卒業までずっと共に過ごしました。同級生ってやつですよ。兄弟以上の仲といえるでしょうな」
「なるほど……。ということはさっきの武勇伝ももしかしたら相当色褪せてくるわけだ」
「そうでしょう」
グリンフェルドはそういって愉快そうに笑った。
「例えばこんなことも考えられるわけですね」
それまで聞き役に回っていた幸円仁が針之介を引き継ぐように口を開いた。
「あなたが勤務するウッディストーン(株)では何らかの理由でウイリアム・ネスミス氏が必要になった。入社するよう誘ったけれど、何らかの理由で断られた。そこでウッディストーンでは強硬手段をとることにした。ネスミスさんの博打好きを利用することです。いかさまで支払い不能になったネスミスを救い出し、命を救ったという恩義で縛り付ける方法です。あなたとバークが親友関係だということなら最初から決めておけばわずかの出費ですむでしょう。25万ドル支払っても、後で24万ドルペイバックさせることができれば会社の損失は1万で住むわけでしょう1万ドルで25万ドル分の恩義というプレッシャーをネスミスはかけられた事になる。会社としてはおいしい話ですよね」
幸円仁はいたずら小僧のような目でグリンフェルドを見つめた。
トーマス・グリンフェルドは驚いたように幸円仁を見つめていたが、やがてその満面に笑みを浮かべ「すばらしい。ブラボー」と叫び拍手を送った。
「すばらしい推理で巣90%まで正解といってよいでしょう」
「10%の間違いとは?」針之介が聞いた
「まず5%はあなたたちが私の今回の来日がネスミスを同伴だと考えていること。あとの5%はネスミスの獲得に会社が金を出したと考えていること。この2点です」
「ウッディストーンは無関係だと」
「さっきも言ったでしょう。ネスミスは私の下にぜひとも置いておきたい人材だった、と」
「では、あなた個人が……」二人は顔を見合わせた。
グリンフェルドは微笑みながら大きく頷いた。
「何のために?」
「詳細は秘密です。ただ簡単に言えばジオ・フロントに関連した計画です。」グリンフェルドはきっぱりと言い切った。
「ジオ・フロント?」
伊達針之介は首をかしげた。ジオ・フロント? 馴染みのない単語だった。
「大深度地下開発計画とでも言いましょうか」
グリンフェルドは子供に教えるように言葉を選んで説明した。
「現在地球上で生活するわれわれ人類は、人口密度的に見るとほぼ飽和状態になりつつあります。しかもまだ相当な勢いで膨らんでいることをご存知ですか?」
「逆じゃないんですか。だってよく少子高齢化時代だと聞きますが……」
幸円仁は不思議そうにグリンフェルドの表情を読もうとした。
「それはこの日本という国家の内政にかかる特殊事情です」トーマス・グリンフェルドは笑った。
「地球的な規模で今日現在の総人口は」およそ70億人。年間の死亡者数が約6千万人。誕生が1億4千万だから、1年で8000万人も増加しているんですよ。このままでは近い将来この地球上にはほっと息をつく場所さえなくなってしまう」
「でしょうね」
「それでにわかに脚光を浴び始めたのが『大深度地下開発』、いわゆるジオフロントという開発計画なのです」
伊達針之介はおぼろげながらジオフロントの概要が見え始めたように感じた。
「私とネスミスは今月中に会社を辞め”ケルベロス”という名前のある組織に合流します」
トーマス・グリンフェルドはそれ以上この件に関しては口を閉ざした。
ケルベロス。神話に出てくる地獄の番犬が確かそのような名前だったような記憶がある。
伊達針之介と幸円仁は背筋に何かゾクッとするような悪寒を覚えた。
4
2011年1月
ケルベロス本部 幹部専用大会議室
ケルベロスの幹部専用大会議室はマンモス大学の講堂さながら演壇を置いたステージを正面中央に置き、半円形の聴講席列がそれを取り巻くように造られていた。20列ばかりの聴講席は擂り鉢の内壁面を階段状にしたようなフロアーにレイアウトされていたので、後方の席ほど少しずつ高さが増しステージと聴講席の最後列とでは5~6メートルの高低差があった。各シートには折りたたみ式のデスクがペアになっており、会議室に入るときに手渡されたピンマイクとイヤホーンのスイッチが指定された席に着いたときにONになる仕掛けになっていた。
フロントロビーに置かれた受付でチェックを受けピンマイクとイヤホンを受け取ったトーマス・グリンフェルドとウイリアム・ネスミスの二人は登録番号が刻印された楕円形の小さなプレートを胸につけて会議室に入った。登録番号USA-JPN0001がグリンフェルド。USA-JPN0002がネスミスの登録番号だった。入室するとコンパニオンが二人を指定されたシートに誘導した。二列目の中央とその隣が両名に割り当てられたシートですでにセットされたデスク上にそれぞれの名前を書いたプレートが置かれている。
席についたまま体を捻って室内の様子を見渡して、グリンフェルドは奇妙なことに気がついた。会議出席者は50名ばかりで、最前列から5列目までの指定された席に座っていたが、照明機器が見当たらないのである。室内が暗いということではなく、演壇から出席者に割り当てられた5列までは穏やかな光によって心地よい明るさに包まれていた。しかしその光源が見当たらないのである。だから全体的には会議出席者が利用している空間だけが明るく照明され、部屋には何の仕切りもないのに6列目から後ろの利用していない空間は前方からこぼれる明かり以外は明かりを落としていた。
どの出席者も緊張していた。
研究予算を一方的に削られ不満を募らせていた所をケルベロスから生涯予算の確約を提示されとびついた科学者がいるかと思えば、自分の社会的立場を不当に低く評価されていると一方的な不満をもっている社会経済の専門家もいた。受け持ちクラスの子供たちに集団催眠をかけることに成功したが、元に戻すために48日間を要した心理学を納めた中学校教師がいると思えば、殴り合いの喧嘩にはまだ一度も負けたことがないとうそぶく荒くれ者までいた。そしてその誰もが極度に緊張しているのだった。
授業の開始を知らせるチャイムのようなメロディーが流れた。
「皆様ご着席ください」
いつの間にかステージの中央に進行役と見受けられる背の高い若い女性が、ハンドマイクを片手に聴講席に向かって話し始めた。
「本日は遠路はるばる第一回ケルベロス幹部職会議にご参集いただきありがとうございます。本日はケルベロスにとって記念すべき第一回目の幹部会議となります。それでは本日のプログラム第一番。ケルベロス初代会長ケルベロス・ブラッディより趣旨説明等がございます」
女性は大きな身振りで上手を差し示し、ステージの片隅に退いた。
会議室全体の照明が少し落とされるのと同時にステージ上手にスポットライトが当たった。ステージ上手より登場したのは、まだ青年と表現しても不自然ではない年恰好のスリムな体躯の細身の男だった。まだ30歳を少し過ぎたばかりに見えた。
男は中央の演壇の後ろに立ち会場すべてを見回してから正面に視線を戻した。
男は演壇上に置かれたマイクを指先でぽんぽんと打ち、スピーカーが正常に機能しているかを確認した。
「皆さん。本日は遠路はるばるご参集いただき感謝します。私はこの組織を立ち上げたケルベロス・ブラッディです。勿論本名ではありません。またこの姿も然り。理由は今後組織が計画を実行しようとするとき、姓名とか年齢や容姿などによってその行動を阻害されないための配慮だと理解してください。ですから私は今後も皆さんと接触する機会は幾度となくあるでしょうがそのたびに違う人間として現れることになるかも知れません。このことは了承してください」ケルベロス・ブラッディは一度言葉を切って演壇上に置いた水差しからコップに注ぎ唇をぬらした。
「本題に入りましょう。世界人口の増加に対し大深度地下有効活用計画というものが各先進諸国では論議され始めました。しかし現在のところまだまだ本格的に計画を打ち出して着手している国家は見られません。ただし国家間の情報網も日に日に結びつきが強くなっているので、いざ本格的に動き出したならば開発の方向性については同じ方向に進み始めることになりそうです」
ケルベロスの話は熱い口調で続いた。
ジオ・フロント開発は現在のところ人的移動を含む物流関係を大深度地下に割り当て、地上に空きスペースを作り出して居住優先の地上社会を構築するという方向に統一されそうだ。しかしこの方針では既に地上にある道路やそれに係る構築物の解体撤去、大深度地下空間の整備、道路や鉄道といった物流手段の設計施工と、幾層にも検討せねばならない要素が重なり、時間も費用も莫大なものになると予測される。それならば地上に関してはそのままに、地下のほうに居住空間を作る方針を固めたほうが有意義ではないか。
ケルベロスは大深度地下開発の主眼点を巨大地下都市の建設に絞り込み、世界中の要所要所に各国に対して先手を打つ格好で地下都市の建設を開始する。地下都市といってもそれほど大規模である必要はない。将来各国で開発計画が実行に移されたときに、その開発区域に必須となるポイントさえはずさなければ、既得権を振りかざして国の計画に待ったをかけることができる。もし国のほうが折れない場合でも、国からの保証金を吊り上げることも可能になる。これが組織の第一番目の目的である。
ブラッディが語った論旨はこのようなものだった。
聴講している幹部たちの間から驚きの声が漏れた。
「簡単なことだ。国が行動を起こそうとすると、その計画区域には既に何かが出来上がっている。行くところ行く所で既得権所有権または先住権を振りかざして国に襲い掛かるという寸法です。計画を貫こうとするなら保証金を支払わねばならない。簡単な図式ですな」
ブラッディは笑った。
「そこで皆さんに各担当地区に戻ってからやっていただきたいことは、各国でのジオ・フロント計画に関しての方針や予定などを、国に気付かれることなく収集してもらいたいのです。何かご質問は?」
最前列の右側に着席していた大柄な男が「ひとつだけいいですか?」といって立ち上がった。
ブラッディは起立した男に目をむけて微笑んだ。
「ウォルフガング・ユルゲンス教授。どのようなご質問でしょう?」
ブラッディは視線をそらさず穏やかに言った。
「先ほど説明の中で、第一の目的という表現をされましたが、それ以外にも何らかの目的があるということでしょうか?」
ユルゲンスの問いにブラッディは少しためらいを見せたが、やがて諦めたように頷いた。
「お答えしましょう。ケルベロスの最終目標は、世界をこの手に握ることです」
ブラッディはきっぱりと言い放った。
第3章 天生沼
1
2008年 冬
競馬専門チャンネル本社
三風亭五九悪は谷口ディレクターと出演者控え室の畳の上に胡坐をかいた格好で、電話が鳴るのをひたすら待っていた。年末の金曜日。師走の、日本国中何もかもが忙しそうに動き回っているときである。谷口ディレクターが『有馬記念』の最終打ち合わせを行いたいという理由で押さえてくれた控え室に、予想番組の収録が終わるとすぐ駆け込んで待機しているのだった。
収録が終わったのが朝五時半。控え室の壁に掛けられた時計を見ると九時になろうとしている。四時間近くが経過してはいるのだけれど、記憶がない。谷口ディレクターと打ち合わせをしたかといえばその記憶もほとんどなかった。そうかといって眠っていたわけでもない。それどころか気持ちが昂ぶって目は冴える一方なのだ。
三風亭五九悪は目を閉じて数日前のことを思い返してみた。暴れ者で有名な国会議員、玉野幸次郎から新宿にある有名ホテルの展望ラウンジに呼び出された時のことである。
「どうも、お待たせして申し訳ない」
玉野幸次郎は精一杯の笑顔を見せて右手を差し出した。
「とんでもない。私もつい先ほど来たばかりですよ」
玉野幸次郎の肉厚の掌は母親のように暖かかった。
初対面ではあったがお互いそれなりの有名人同士だったので、テレビなどを通して幾度も顔を見ている。まるで古くからの知己であるような錯覚に捕われそうだった。
玉野は滝のように流れ落ちる汗をタオル地のハンカチで拭った。
「体重が増えると少々歩いただけで、ご覧の通り。もう汗が止まらんのですわ。この師走の寒さにもかかわらず」
玉野はそういってラウンジ中に響き渡るような大声で笑った。
「今日わざわざご足労いただいたのは」玉野幸次郎は注文したアイスティで喉を潤すと話し始めた。
「ミスターXが何者かに拉致されたことについてなのです。今回の事件については師匠もご存知でしょう」
「勿論知ってますが…」
「実はその件で師匠に折り入ってお願いがありましてな」
「お願い?」五九悪は疑うような視線を玉野に向けた。
玉野は言葉を捜すようにしばらく間を取っていたが、やがて少しずつ話し始めた。
「私は、お恥ずかしい話だが、ミスターXと名乗るあの男に命を救われたことがあるんですわ。そのミスターXが今度は拉致されて、今まさに命の危機を迎えて居るのです。今度は私が助ける順番なのです」
「命の危機ですって!そんな大げさな」
「決して大げさではない。師匠は事件の本質を知らないからそう思うんでしょうがね」玉野はむっとした口調で答え、先を続けた。
「師匠とは初対面だが、テレビで拝見する通り、信用できる方だと信頼してお話申し上げよう。師匠はこの件の黒幕が誰なのかご存知かな?」
「具体的には知りませんよ。でも結局はミスターXの編み出した競馬必勝法を横取りしようとする輩でしょう」
誰でも推測できる事だと言わんばかりに五九悪が答えると、玉野はにやりと笑った。
「いずれはその理由でミスターXを狙う輩も出てくるでしょう。だが現在の状況について言えば残念ながらブブーです。いいですか。良く考えてくださいよ。私が誰かと言うことをです」
玉野は穏やかにそういって五九悪の目を見つめた。
確かに玉野の言うとおりだと五九悪も感じた。犯行の根がそんな単純な所にあるなら、警察を動かせばいいだけの話なのだ。現役の大物政治家が頼みごとがあるといって素性も良く知らない落語家に頭を下げているのだ。よほどの理由があるのだろう。
「先生は犯人をご存知だと?」
五九悪は好奇心たっぷりの瞳を玉野に向けた。玉野は頷いた。
「犯人は国家、目的は社会秩序の回復なのです」
玉野は五九悪の相当大きなリアクションを予測していたが五九悪はそれほど驚いた風もなく、「ああ、やっぱり」とつぶやいただけだった。
「ほう。予測されていたとは」
「で?私に頼みたいこととは?」
「ミスターXの必勝法をテレビで全国に暴露して欲しいのです」
玉野幸次郎はきっぱりと言った。
「何ですって」三風亭五九悪は今度は仰天した。
「詳しくはもうじきゲストが来ますので、彼に説明させましょう。ほら、やってきましたよ」
玉野幸次郎が目で示すほうを見ると、一人の少年が玉野を見つけて走り寄ってきた。
「タマコー先生。こんにちは。この間は本当にありがとうございました」
少年ははきはきと挨拶すると、玉野の横に腰掛けた。
「ミスターXのご子息。穂刈陽介君」五九悪にそう紹介して。「陽介君、こちらは」と逆に陽介に五九悪を紹介しようとすると、「知っています。三風亭五九悪師匠ですよね。いつもテレビで見ていますから」と笑顔を見せた。
「ど、どうぞヨロシク」
物怖じしない陽介の言葉に、五九悪のほうがどぎまぎした。
「さあ、陽介君。お父さんを救うために五九悪師匠の助けが必要なんだろ。お願いしてごらん」
玉野が水を向けると、陽介は大きく頷いて話し始めた。
「パパは競馬必勝法なんて持っていないんです。だから誰が犯人でも、パパから必勝法をゲットすることなんてできないんです。ミスターXの予言は、本当はパパの予想じゃないんです。他の人の予想を使わせてもらっているだけなんです。だから、五九悪師匠がテレビでそのことを発表してくれたら、パパは助かるわけですよね」
「本当の話かい、それは」
「昨日その人から連絡がありました。今週中にパパを助けに来るって」
「誰なんだい。その人は?」
「良く知らないけれど、名前はノビー・オーダって言うらしいです」
「連絡は電話で?」
五九悪のこの質問に、陽介はちょっと困った顔をして、首を横に振った。
「テレパシーです」陽介は小さな声でそう言った。
「テレパシーだって?」
三風亭五九悪はつい大声を出した。
「信じるか信じないかは……」玉野が言いかけるのを五九悪は制した。
「そうか。そうだったのか。あの一日だけ自分の勘が冴えわたったのはそのせいだったのか」
五九悪は長い間の胸のつかえが取れたような気がした。思わず笑いがこみ上げてくるのを覚えた。
「分かりましたその人が来たら、すぐ連絡をください」
三風亭五九悪はそういって笑顔を見せた。
会社に戻った三風亭五九悪はこの話をすぐ谷口ディレクターに話した。
確かに常識的には一笑に付されてしまいそうな、馬鹿げた話に違いなかった。谷口も半信半疑という表情で五九悪の目を見つめた。
「そんな不思議な話が本当にあるんでしょうかねぇ」
谷口ディレクターが言葉にして本音を語ったとき電話が入った。陽介からだった。ノビー・オーダから金曜日の午前中に行くと連絡があったという知らせだった。
三風亭五九悪はゆっくりと目を開いた。
ちょうどそのタイミングを見計らったかのように壁際に置かれた社内用の電話機がコール音を聞かせた。
五九悪が受話器をとった。
「野火さんとおっしゃる方が師匠にお会いしたいと受付にお見えですが」
「すぐこちらにお通しして」
三風亭五九悪はそれだけいって受話器を置いた。
2
2008年12月
内閣調査室 本部
必勝法の本当の持ち主は向こうの世界に住む競馬の神様だ。
ミスターXはその場の空気も読まず正直に暴露した。それはどう考えても信じがたいほら話と解釈されるに決まっている回答だった。
捨文王はミスターXの返答に激怒した。
我慢に我慢を重ねた捨文王老もついに堪忍袋の緒が切れてしまったのである。
「お客様がな、コーン畑の向こう側のなぁ、天正沼さ行ってよぉ、こったら寒いのに水遊びしてえとよ。案内してやったらいいんでないかい」
捨文王はインターホンを使って伊達針之介を呼び、そう命じた。ミスターXにとってそれは死刑の宣告と同じことだった。
針之介は無言で頷き、穂刈に向き直って「来い」と指示した。
「どうも、お邪魔しましたぁ」
穂刈は捨文王に笑顔で挨拶してぺコリと一度頭を下げ、回れ右をすると針之介に従った。
部屋の片隅に備え付けられたエレベーターにふたりは乗り込んだ。それを目で追っていた捨文王はエレベーターのドアが閉まる瞬間、穂刈がもう一度自分に向かってにっこりと微笑むのを目にした。捨文王は首をかしげて、大きくため息をついた。
エレベーターが地上階に停まり、乗り込んだ側と反対側のドアが開く。距離にして10メートルほど直線状に続く廊下の先に明るい光が差し込む小窓のついたドアが見えた。外への出口らしい。
伊達針之介は先に立って歩き始めた。
逃げたいなら好きにしろと言っているのか、逃げようとしたらこの場で撃ち殺すぞと脅しているのか読めなかったので、穂刈末人は言われるまま針之介に従った。
小窓のついた扉は思ったとおり外への出口だった。何の変哲もない普通の自動ドアで、ふたりが近づくと左右に開いた。伊達針之介は先に立って外に出た。穂刈も針之介に続いた。扉を背にして見渡すと終わりがないのではと思われるほど広大な牧草地が広がっている。どうやら穂刈たちが入った農家の裏手にあたるところと思われた。
「ちょっと待っていてくれ」
針之介はそういって右手に置かれた納屋のような小屋の観音開きの扉を開け中に入っていった。時をおかず中からエンジン音が聞こえ、針之介がゴルフ場でよく見かける乗用カートのような乗り物に乗って戻ってきた。
「さあ、乗れ」
針之介は叫ぶように言って手招きをした。
いまさら抵抗しても始まらないと覚悟を決め穂刈はカートに乗りこんだ。
針之介はカートをスタートさせた。
カートは池に沿って造られたアスファルトの簡易舗装路をゆっくりと進んだ。池が途切れたところで農園内に入り今度はスイートコーンの畑に沿った散策路に乗り入れる。数ヶ月前まで勢いよく成長したスイートコーンが甘い実を豊かに実らせて見事な緑の隊列を見せていたのだが、さすがに師走の北海道に緑は無縁だった。
乗用カートはひたすら走り続け、コーン畑の終わりにある雑木林がどんどん迫ってきた。
伊達針之介は雑木林の前にカートを置けるくらいの小さなスペースを見つけ乗用カートを止めた。
「心配するな。殺したりしない」
針之介は思いがけないことを口にした。
「俺は基本的にはミスターX、お前の考えは正義だと思っている。競馬の予想を生業としているなら的中させるのが仕事だ。あんたはそういった。あんたはただやり方を間違えただけだと俺は思う。だからこれからもファンのために働いてほしいんだ」
そういって針之介穏やかな目で穂刈を見つめた。穂刈はなぜか胸を打たれ、目頭が熱くなるのを覚えた。
伊達針之介は雑木林に踏み込んだ。後を追うと林の中には人ひとりが歩けるほどの細い道があった。二人は2~3分で雑木林を抜けた。視界が開けると、日高の山塊を背景にして直径30メートルほどのほぼ円形に近い姿を見せる小さな沼が横たわっていた。
「これが天生沼だよ。観光地じゃないから手摺も何もない。水際に近付くな」
前に出ようとする穂刈にひと言注意して、どろりと澱んだ水面を見せる小さな沼を伊達針之介は指差した。
「こんなに小さな沼なのにな。底なし沼と恐れられているんだ。足をとられたら最期どんどん沈んで誰も引き上げることはできない。死体も上がったためしがない。噂だけれどな」
「何とも恐ろしい沼ですね」
「ああ。心霊スポット級だ」
針之介はわけのわからない比較をした。
ふたりはしばらくの間沼を見つめて物思いに耽っているように押し黙った。ふたりの胸の中に同じ気持ちが膨らんでいた。寂しさだった。
もともとは拉致した側と拉致された側、つまり敵と味方の関係だった。ここまでの旅がふたりの間に友情のようなものを育ませいたのだろうか。
「ところでお前バイクの免許は持っているのか?」
沈黙を破ったのは針之介だった。
穂刈は頷いてジャケットの内ポケットからパス入れを取り出して針之介に見せた。
針之介は一瞥しただけで「沼の向こうに掘っ立て小屋があるだろう」
穂刈は伊達針之介が指差す方向に目をやった。確かに粗末な木造の小屋が沼から立ち上る蒸気に揺らめいている。
「あの小屋の裏手にバイクが置いてある。それを使え」針之介は言ってキーを穂刈に放った。
「ありがとう。それじゃもう行くよ」
穂刈末人は針之介に背を向けて歩き出した。
「当分の間は目立つことはするなよ。お前を狙う輩はいくらでもいるってことを忘れるな。縁があったら、また会おうぜ」
背中に聞こえる伊達針之介の声に穂刈は歩きながら片手を上げて見せた。
3
2008年12月
有馬記念当日
朝9時。普段となんら変わることなく始まるかに見えた競馬実況中継だった。しかしそれは大方の予測を完全に裏切るものだった。メインキャスターの三風亭五九悪が突然野火萌(のび もえる)という名の誰も知らないひとりの男を突然紹介したことが原因だった。
野火萌とは勿論ノビー・オーダのことである。
「おはようございます。きょうはいよいよグランプリ『有馬記念』。今年の競馬も今日で最終日を迎えたわけです」
「おはようございます。伏間紀子です。ほんとに一年なんかあっという間に過ぎちゃいますね、師匠」元気よく五九悪に返事をして、紀子は正面のカメラに笑顔を向ける。
「さて、それでは今日は最初にお客様をご紹介します。野火萌さんです」五九悪が振るとカメラが五九悪と紀子に挟まれて神妙にしているノビー・オーダを大写しにした。なぜかその顔にはモザイクがかけられている。
「さてこの野火さんがどのような素性の方なのかと申しますと、皆さんまだお忘れではないと思いますが、あのミスターXにゆかりの方と申し上げておきましょう」
五九悪がそういうと、ノビーは大きく頷いた。
「ミスターXはご存知のとおり現在行方がわからなくなっており、その安否が気遣われております。ミスターXが自ら身を隠しているのか、それとも何者かに拉致監禁されているのかはわかりません。ある筋からはミスターXが現在重大な生命の危機に瀕しているという情報さえ入っております。これから聞いていただく野火萌さんのお話は、普通の常識に照らし合わせるとまったくばかばかしいヨタ話と思われるでしょう。私たちもそう感じました。そこで私たちは昨日ある実験を試みました。その結果、野火萌さんに直接番組を通してお話していただこうということになったわけです。そうすることがミスターXの一日も早い開放に繋がるならばとかんがえまして、このコーナーを作ったわけでございます」
三風亭五九悪は一度言葉を区切りノビーに目配せした。ノビーは了解したというような視線を五九悪に返した。
「それでは野火さん、時間を五分間さし上げます。メッセージを簡潔にお願いします」
三風亭五九悪はノビーに話し出すきっかけを作った。
三風亭五九悪に促されてノビー・オーダは両腕を八の字形に軽く広げ受け入れのポーズをとった。純白の薄い布を巻きつけ麻紐で腰を結んだだけのノビー・オーダの姿は、『最後の晩餐』に描かれたイエス・キリストを思わせるものであった。
ノビー・オーダは静かに話し始めた。その内容は概ね次のようなものだった。
自分はミスターXに競馬の的中情報を与えている競馬の神である。ミスターXはその情報をそのまま自分の予想として世間に発表していただけである。それはミスターXの優しさがさせたことで決して競馬社会を混乱させようとしたわけではない。かつての彼がそうであったように、負けてばかりの競馬ファンに喜びや楽しみを与えてやろう。そしてでたらめな情報を世に出している予想屋たちに天罰を下そうと始めたことなのだ。
ミスターXは、それによって競馬の運営が、そして最後には社会全体が乱れることになろうなどとはまったく考えてもいなかった。
だからいまミスターXを拉致して彼から競馬必勝法を横取りしようなどと考えても、まったく不可能なのである。神である自分はもうこれ以上彼との関わりを持たないことにした。
ミスターXもひとりの単なる競馬ファンに戻る。ミスターXが予想の公表をやめて利益を独り占めにしようとしているわけではないのだから、どうか無茶なことはしないでほしい。
ゆっくりと諭すように話し終えたノビー・オーダは五九悪にマイクを戻した。
「ありがとうございます」と礼を言ってから三風亭五九悪は大きくため息をついた。穂刈末人を拉致している犯人がこの放送を見て素直に穂刈を解放してくれればよいのだが、逆に馬鹿にするなと逆上することだって考えられるのだ。もし賽の目が悪いほうに出たらどういうことになるのだろうか? いささか憂鬱な気持ちで五九悪は言葉を捜した。
「野火さんが本当に神様なのかどうかは私にはわかりません。そこで昨日土曜日の競馬を利用して、私たちは先ほど申し上げたようにあるテストを行いました。勿論ミスターXと同様、全レース的中できるかどうかのテストです。……結果は100パーセント的中でした」
そういって五九悪はジャケットの内ポケットから名刺ほどの大きさの小箱を取り出した。
蓋を開けると、中には一枚のアクリル製のカードが入っている。
「テレビをご覧の皆様にもその驚きを感じていただきたいと思いまして、本日の第1レースから最終レースまで各レースそれぞれ一点で馬単のフォーカスをこのようなアクリル板に書いていただき、既に1レースごとに小箱に入れまして、さらに封印をしてて別室に保管しています」
カメラが別室に切り替わる。そこは局の小会議室で、中央に据えた会議卓上に五九悪が見せたものと同じような小箱が12箱並べられている。
小箱の蓋には大きく1から12までのレースナンバーが記され、さらに幅10センチくらいの薄紙を縦横に巻きつけて丁寧に封印されていた。しかも保管場所のドア付近に1名。小箱が置かれたデスク付近に1名の警備員が監視してしている。
「なぜここまで厳重にしたのかというとですね」
カメラがスタジオに戻ったことを確認して五九悪は続けた。
「オッズに影響を出さぬための配慮なのです。放送をご覧いただいているファンの皆様にはまことに申し訳ないのですが、ミスターXが予想を公開したときのような混乱が起こらないよう、箱を開くタイミングはそれぞれのレースの発売が締め切られた直後とさせていただきました。このルールが不正なく行われていることが皆様にも確認できるように、ここからは中継画面の左上に保管室の様子を分割画面で重ねて放送いたします」
三風亭五九悪は小画面が左上にカットインするのを見届け「それではいつものメニュに戻しましょうか」とトークを伏間紀子に振った。
「それでは中山競馬第1レースのパドックです」
紀子はにこやかな笑顔を見せてプログラムを進行させた。
「馬鹿じゃねえのか、こいつら」
中山競馬場記者席に陣取った江崎大五郎はテレビから目を離し、呆れてものも言えないという表情で呟いた。
「え?」矢部宗太郎は江崎の声に振り向いた。
「だってそうじゃねえか。結果として野火が今日当たり続けたとしたら、必勝法は野火が持っているってことになっちまうだろうが。それじゃ狙われるのがミスターXから野火に変わるだけのことだろうさ」
「ですよねぇ」
矢部宗太郎は同感だという顔をした。
「それに犯人がどう考えるかだけどさ、野火を信じたってミスターXを開放するとは限らねえだろ。おまえにゃもう用はねえ。ズドンてこともあり得るよな」
「ですよね。ですよね」
「こういうことだってあるじゃねえか。ふたりとも必勝法を知っているってこと」
「ですよねえ。もしかしたら本屋で売ってるのかもしれないしね」
「売ってねえよ。そんなもん」
江崎大五郎はテレビに目を戻した。
4
2008年
天生沼
捨文王は沼の畔に立って無言で水面を見つめていた。やがて落ちようとする太陽が空と水面をオレンジ色に染め上げている。
捨文王は後悔していた。
ミスターXが白状したことは真実だったのかもしれない。競馬中継が終了したとき捨文王はそんな思いが脳裏を掠めるのを感じた。
三風亭五九悪が今日の中継にゲストとして迎えた野火萌という名の男は、本当に競馬の神様だったのだろうか? 確かに第1レースから最終レースまでの12レースを野火は総て一点で的中させた。これはミスターXがホームページで発表したときと同じだった。
しかし捨文王はそれでも神の存在など考えはしなかった。野火というこの男も今流行りのストリートマジシャンの一人だろうという程度の意識だった。しかしもう少し考えればマジックとは異なっていることに気がつくはずだった。
もしレースが終了して結果が出た後で小箱の封印が剥され、中から取り出されたカードに的中フォーカスが書かれていたというなら、マジックであった可能性が高いと疑うこともできよう。しかし小箱が開かれるタイミングは各レースの馬券発売が終了してからファンファーレが流れる前、すなわちレースがスタートする前だったではないか。その結果すべてのレースが野火萌の書いたフォーカに引き寄せられるかのように的中で終わったことを一体どう説明したらよいのだろう。それでもなおマジックだと決め付けるなら、主催者である国が野火がカードに記入したフォーカスに結果を合わせた、つまり簡単に言えば八百長レースを仕組んだということになるではないか。
ミスターXは問い詰められて、真相を正直に打ち明けたのだ。それを自分は無視した。
決して短いとはいえないこれまでの人生の中で培った常識という狭い世界にとどまったまま、いとも簡単に結論を出してしまったのだ。いや、そう結論したのは止むを得なかったのかもしれない。悔やまれるのは相手の言い分にまったく聞く耳を持たなかったことだった。
物事はどんなにばかげていると思われることでも見方によって姿を変える。そんなことは判りきったことだったはずだ。ミスターXは必死で真実を伝えようとした。それなのに自分は話しを聞こうともしなかった。
三風亭五九悪は自分の番組の中でそれを実行した。五九悪にしてももう花の中年である。そんなことがこの世の常識から逸脱しているのは十分承知の上の行動だったに違いない。結果がどう出るかは知らないが、兎に角常識の外側を覗いて見ようとしたのだろう。
ミスターXにはかわいそうなことをした。捨文王はそう思った。
軽はずみな行いだったといってもミスターXの行動はその総てが弱者のためを思ってしたことだった。私利私欲のために行った行為では決してなかった。結果的に見るといろいろなものを混乱させてしまったけれど邪まな気持ちは一点もなかったに違いない。
自分はそんな純粋な人間を仕事とはいえいとも簡単に抹殺してしまったのだ。
捨文王は朱に染まっていく天生沼の水面に向かって両手を合わせ、深々と頭を下げた。
「こんなところで何をなさっているんですか? グランパ」
突然背中から声をかけられた捨文王は、びっくりして飛び上がった。
「ああ、びっくらこいた」
振り向くと伊達針之介がその目に穏やかな光をたたえて立っていた。
「いや、今日おめぇに始末してもらったあのポカリスエットとか言う男だがよ」
「穂刈末人のことですね」
伊達針之介は訂正した。
「おお、その穂刈のことだけんどょ、ちょっと可哀想なことばしちまったような気がしてな」
「そんなに気になさることもないでしょうよ。グランパ」
伊達針之介は捨文王を慰めるように見つめた。
「可哀想だべや。奥さんも子供もいるのによ。わしが殺しちまったんだからな」
「誰も殺しちゃいませんよ。グランパ」
伊達針之介が何を言おうとしているのか分からず、捨文王は伊達針之介の穏やかな瞳を見つめた。
「まさか、おめぇ」
針之介は自愛に満ちた目で捨文王に微笑みかけ、こくりと頷いた。
「逃がしてやりました。だってあの男は何も悪くはないですからねこれからはいろいろと大変でしょうが、ここで死ぬよりはましでしょう」
「おめえってやつは……」
捨文王の目から涙があふれた。
「おめえってやつは」
捨文王のその一言は伊達針之介に対する総ての気持ちを物語っていた。
「ありがとう。わしは取り返しのつかねえ過ちばおかすところだった。よく気づいてくれたなぁ。ありがとう……ありがとう」
捨文王は針之介に肩を抱かれながら、幾度も幾度も繰り返した。
「静かに!」
突然、伊達針之介が緊張した声でささやいた。
「あれを」
針之介は沼の対岸にシルエットのように浮かぶ小屋のほうを指差した。穂刈末人が逃走に使えるようにと一台のバイクを隠しておいた板張りの粗末な小屋である。
捨文王は針之介が指し示す方向を凝視した。
小屋の扉がギイと軋むような音を聞かせて外側に開くのが見えた。
そして、小屋の中から一人の人物が周囲を気にしながらゆっくりと外に出てきた。
男は体全体に薄い布のようなものを巻きつけ、胴の回りに細い紐状のベルトを回して結んでいるように見えた。
男は周囲に誰もいないことを確認するように見渡してから沼の際に向かってゆっくりと歩き出した。そして水際に出るといったん脚を止めたが、再び歩き出すと躊躇なく水の中に足を踏み入れた。
水の中から青白いオーラが男の体全体を包み込むように立ち昇る。その幻想的な光は、たちまちかき消すようになくなった。しかし沼に入った男の姿も同時に消えうせていた。
そして天生沼も漆黒の闇に包まれたのである。
第4章 政治局の男
1
ヨミランド
変革を叫んで力を持ち始めた転生族による民主化運動だった。それを政権には影響のない秩序正しい活動に戻そうと政治局が動いた。きっかけとなったのがグッドラック財団によって完成一歩手前まで漕ぎ着けていたVTS(音声伝達システム)だった。
しかし政治局の創造主族たちが立てた作戦は驚くほど薄っぺらなものだった。
さまざまな宗教宗派のカリスマ教祖候補生たちを転生族の中からピックアップし、彼らにVTSを用いて集中教育を実施する。勿論、内容は創造主族にとって好ましくない方向へ民衆を向かわせないための指導方法である。しかし政治局のそのもくろみは、まったく功を奏さなかった。選ばれた者たちが教育を受けている間にも、民衆は自由で合理的な知識を積み重ねた。そしてようやく創造主による教育課程を終了したカリスマ教祖たちが布教を始めても、それはすでに黴が生えるほど古めかしく魅力のないものでしかなくなっていて、耳を傾ける者など一人もいはしなかったのである。
新しく合理的な知識を身につけた転生族はもはや宗教によってコントロールすることなど不可能なところまで進化していた。
この上なく居心地のよい古きよき時代を取り戻そうとした創造主族の作戦は失敗に終わった。
転生して来る者たちの記憶は、その過程で総てが抹消されるはずだった。ところが向こうでの経験は日々その刺激を強くしていた。その結果転生装置に内蔵された記憶抹消ユニットの能力が、焼き付けられた記憶の容量に追い着かなくなり、転生者の胸の内に少しずつ残留するようになった。転生族たちは少しずつ残った夫々の合理的な自由世界の記憶を寄せ集め、理想社会のヴィジョンを描き始めたのである。そこにはもはや宗教的な色彩やモラルのような、神に対する畏敬の念など入り込む余地はなくなっていた。創造主族もようやくそのことに気が付き、新しい世界を認めざるを得ないと覚悟したのだった。
ノビー・オーダが競馬専門チャンネルの番組に出演し、穂刈末人を救うためのスピーチを行ってから既に二年が流れていた。この二年の間にヨミランドには大きな動きがあった。
創造院と転生院による二院制だった政治体制が民衆院と伝統院の新二院制に改変されたのである。この違いは大きかった。従来は創造院の議員は創造主族の議員だけ、転生院は転生族の議員だけで構成されていたのだが、新しい制度においては種族別ではなく、主義主張を同じくする者たちが政党を組み総選挙によって議員を選出する政党政治に切り替わったのである。これは画期的な変化だった。この機構改革によってこれまでの創造主中心の運営から両民族の合議によるものへと形を変えた。
この改変は勿論転生族による民主化運動がきっかけとなった。そのためはじめは創造主族による抵抗も激しいものになると推測され、両種族とも十分注意して軽挙妄動は厳に慎むよう治安部からの通達があった。特に警視局に対しては民主化運動に携わる転生族の挙動には特に注意を払い、不穏な動きが認められたならば直ちに取り締まるよう政治局から直に通達が出されたほどだった。
ところが創造主族の中にも世界の近代化を進めたいと考えるものは数多く存在し、心配されたほどのトラブルもなく両民族が協力した形で新しい政治システムの構築は進んでいった。
しかし延々と続いてきたヨミランドの支配構造が今まさに変貌を遂げようとするさまを目の当たりにして、腹立たしく思う一握りの創造主族たもいた。
政治局治安部長タカマ・ガハラもそのひとりだった。
タカマ・ガハラは向こう側の表現をすれば1981年春、創造主族への編入試験に合格し政治局に入所する。以来強引とも思える行動力で頭角を現すと2005年に政治局治安部長に就任した。以来タカマ・ガハラは冷酷にも見えるやり方で辣腕を振るった。ファッションモデルを思わせる甘いマスクとスリムな容姿でも人気があり、そう遠くない将来、政治局長の椅子も手に入れることだろうというもっぱらの評判だった。
しかし『政治の場を転生続にも開放しよう』というスローガンを掲げた民主化運動が現実味を見せ始めるにつれて、これまで維持してきた創造主族中心の社会がどうやらそう長くは続くまいとタカマ・ガハラは感じ取った。ガハラはグッドラック財団において『音声伝達システム(VTS)』が完成間際だということを知る。ガハラはVTSの総てを強引に政治局直轄に変更した。ガハラはVTSを使って時空間操作による宗教改革を断行するという賭けに出たのだった。だがタカマ・ガハラによるこの試みは失敗に終わったのである。
タカマ・ガハラは引退を決意した。しかしその決意を思いとどまらせたものがいた。誰あろうガハラのひとり息子サニー・ガハラだった
サニー・ガハラの計画は向こう側の世界に宗教などではなく非合法でもよいから力を持った組織をつくりあげ、その者たちがこちらの世界に来たときに既に創造主族による支配体系が違和感なく備わっているようにしてしまおうというものだった。組織は強力なものを作り上げる必要がある。強いものは死んでも強いという図式を向こうにいるうちに身につけさせる。だから向こう側とこちら側両方に力が及ぶようにする。ただし向こう側の人間が死んでこちらに転生することを知られてはならない。だから組織のボスはこちらにいて指示できる者が最適だ。そういう意味でボスはタカマ・ガハラ部長が適任だと思う。自分は向こう側に生前転生して向こう側での組織作りをする。
「この計画はどうでしょうか?」
料亭『華舞』の座敷で父タカマ・ガハラの前に食膳をはさんで向かい合ったサニーは父の顔をじっと見つめて答えを待った。
「なるほど。面白いかもしれん」
タカマ・ガハラは一瞬だけ鋭い視線を息子に向けたが、すぐ穏やかな笑顔に戻って銚子の酒をサニーの杯に注いだ。
「私も現在の支配形態を乱したくありませんからね。実は既に何度か向こうとこちらを往復して準備しているところなのです。向こうに協力者が居りまして、私が数日間いなくても事を運んでくれています」
サニーは杯の酒をぐいと飲み干してにんまりとした。
「誰だねその男は?」
「アメリカ合衆国に住むトーマス・グリンフェルドという名のやくざ者です」
「ほう」
「主要な国々には支部をつくりエージェントを配置しています。組織名はケルベロスとつけました」
「ケルベロス……地獄の番犬」ガハラ治安部長は頼もしげに息子に目をやって「思うようにやってみなさい。困ったことがあったらいつでも言って来なさい」と激励した。
2
タカマ・ガハラ政治局治安部長はヨミランド各ブロックの首脳と連絡を取り、国際会議の開催を提案した。議題は『転生に係る情報管理の一元化』だった。
向こう側で言う国家のようなものはヨミランドには存在しない。ヨミランドと命名された統一社会なのである。それでも運営を円滑にする目的でブロック制度を採用している。ブロック制度とは簡単に言うとヨミランド全体を五つのブロックに分割し、それぞれの代表をヨミランド政治局長が任命して運営を行うシステムである。
五つのブロックはアジアブロック、ヨーロッパブロック、アフリカブロック、北アメリカブロックそして南アメリカブロックで、オーストラリア地区はヨーロッパブロック、そしてロシアはアジアブロックの管轄になっていた。
転生のプロセスはそれぞれのブロックで代々受け継いできたものだったがどのブロックも似たり寄ったりのものだった。
創造主族でない限りどちら側の世界であろうと人は一生を終えるともう一方の世界に転生する。自らの亡骸(なきがら)から離脱した霊魂は最寄の転生ポイントに引き寄せられ、その中に吸い込まれる。そのポイントに直結した反対側世界の転生ポイントへのトンネルを通り抜け、用意された母体に到達する仕組みだった。
対応する転生ポイント間の移動には重要な意味があった。転生者は生という束の間の旅で身についた知識や記憶を持ったまま反対側の世界へと旅立つ。だがそのトンネルを移動するうちに記憶を消し去る機能が働いて、新しい母体に取り込まれる前に完全に消えてしまうようになっているのである。
かつては転生していく者がその人生で身に着ける記憶は容量的にも僅かだったし、質の面でもレベルが高いとはいえなかった。だから転生に要するほんの短い移動の間に総てを洗い流すことができた。しかし今では向こう側の世界も長い歴史を重ね、それに裏打ちされた知識を吸収したり、経験や科学的な実証で結論を出すようになった。そのために消し去ることが難しい、所謂る記憶の残留が起きるようになってきた。転生して新しい母体から外へ出て新たな成長が始まると、潜在意識のように前世の記憶が復活するのだった。
こうなってくるとどろどろ血が動脈硬化を引き起こすようにこれまで守ってきた創造主族にとっての正しい転生が円滑に行われなくなってくる。ヨミランドではまだまだ創造主族の意見が優先される政治が続いている。この住み心地のよい世界もやがて終わりを告げるのだろう。タカマ・ガハラはそれを直感した。
タカマ・ガハラ治安部長が政治局に入所した当時はその程度の不都合は黙殺することができた。転生してくる者がどこで生まれようが、転生して行くものがどこに行こうが政治局では一切関与しなかった。政治局にとっての最重要事項は、創造主族による世界を如何に住みやすく美しいものとして作り上げ、維持していくかの一点だったのである。
「これからはそうも行くまい」
タカマ・ガハラは治安部長室の一角に置かれた安楽椅子に腰掛けテーブル上のクリスタルのシガレットケースからタバコを取り出して口にくわえた。
ガハラのタバコに身を乗り出すようにしてライターの火をつけ、
「どうなさるおつもりなのですか?」
心配そうに視線を宙に漂わせたのは中央麻酔㈱の社長、セッシュ・ナオカだった。
「瞬く間に時は流れる。時代がそうさせようとしているなら、このアジアブロックが第一番に実行し、範となろうではないか」
タカマ・ガハラは今火をつけたばかりのタバコを灰皿にもみ消した。
「これからの時代において民主化運動がもし成功し、やつらが叫ぶ政治の中に転生族が入り込むようになったとしてもだ、転生族の考えそのものがわれわれ創造主族と大差ないものならば何も心配することはない」
「確かにそのとおりでしょうな」
セッシュ・ナオカは相槌を打った。
「今準備を進め始めたのは転生者の管理なのだ。現在まではどこのブロックにも4~5箇所ある転生ポイントからの出入りは、まあ、成り行きみたいなもので、どこから来たのか、どこへ行くのか、それさえはっきりした記録を残してはいない。だがこれからはそうもいかんだろう。誰がどこから入ってきたのか? 誰がどこに行くのか? この管理をしっかりとやっておかなければならんようになる」
タカマ・ガハラ治安部長が言うように各ブロックにはそれぞれ数箇所の転生ポイントが存在した。
人里離れた森の中などにひっそりと横たわり、送り込む魂を待つ天生沼のような不思議スポットがその役目を負っている場合が多い。しかしそれらの転生ポイントはその多くが大昔から整備点検をされることなく現在に至っている。
タカマ・ガハラが考えるように今後転生者の管理が重要だとするなら、旧い転生ポイントを利用することは不安が伴った。ましてそれぞれのポイント総てを使おうとするなら巨額の予算が必要となる。向こう側からやってくる霊魂が計画された母体に取り込まれたことをピンポイントの精度で把握しなければならない。そのためには大規模なコントロールシステムを建造する必要がある。
このアジアブロックで言うなら、天生沼公園に隣接した謎の民間会社『中央麻酔㈱』のような意味不明の組織を置いてカモフラージュするように大掛かりなものである。同時に定期的メンテナンスなども重要となるに違いない。またアクセスを考えても現在の天生沼では立地条件が悪すぎる。
このように夫々のブロックが持つ総ての転生ポイントを生かして使用するには建造費やメンテナンス経費、維持管理費などでいったいどのくらいの予算が必要になるかわからない。おそらく天文学的数字となるに違いないのだ。
そんなところに予算を割くくらいならばいっそ全部廃止して、都心にアジア地区の総てを包括できる巨大な転生センターを造るほうが得策と思えるのだった。
民主化運動そのものを苦々しく感じていたタカマ・ガハラ治安部長が政治局に働きかけて数年前に強引に建造したのが『中央転生博物館』だった
見かけ上は転生族の意見によって出来上がった政府機関だったが実質的にはこれこそ創造主による転生管理を目的とした『中央転生センター』だったのである。
3
2009年12月
生命の危険まで囁かれた穂刈末人だったが、ノビー・オーダの命がけの行動によってどうにか誤解も解け平穏な日々の生活を取り戻していた。しかし穂刈が軽はずみな決断で仕事をやめたのは事実である。だから家族三人暮らしていくため、仕事を探さなければならなかった。ミスターXを演じていたときにノビー・オーダから情報を受け取り、それを利用して儲けさせてもらった。その蓄えがまだまだあるので今日明日の暮らしに困るわけではなかった。しかし世間体もあるわけだし何もせずにいるわけにもいかない。そうかといってもと勤務していた会社にすがるのも男としてプライドが許さない。そこで穂刈は思い切って妻の恵子にある提案を持ちかけた。それは恵子の実家がある北海道に移って、馬産地に近いところで軽食喫茶店を始めたいというものだった。
飲食店の経営など一度も経験したことのない穂刈である。もとはコンサルタントの営業マンだからといっても接客の方法が同じとは限らない。参考になるものといえばターフのママくらいのもので、その様子を見る限りむしろまったく違うもののようだ。
それでも穂刈には何とかなるという勝算があった。それはミスターXというネームヴァリューと、ノビー・オーダの存在だった。
穂刈もノビーも自重して以前に比べるとほんのわずかな時間しか交信はしていなかったけれど、その奇妙な関係は今も続いている。ノビー・オーダから得られる情報は穂刈にとって強力な武器に違いなかった。
穂刈が胸のうちに描いている夢は、競馬ファンたちが気軽に集い、楽しそうに談笑する明るい喫茶店だった。店名もストレートに『ミスターXの喫茶店』とする。開き直っているわけではない。既に誰もが知っていることなのでその知名度を利用するだけのことだ。
馬産地近くに開店しようと思ったのは競馬ファンが多いだろうという単純な発想からである。つまり馬産地ならば牧場関係者や馬主などの競馬関係者が沢山いる。そして毎日観光バスに乗ってやってくる競馬ファンたちもターゲットになる。穂刈が描く夢を現実にするためには、まさに最適な場所ということができた。
店内には穂刈が元ミスターXとして構え、ノビーからの情報だけをすこしずつ話の中におりまぜて客たちと会話したりして競馬好きのマスターを演じるのである。もちろんノビー・オーダとの関係が続いていることは知られないようにしてである。根気よくやっていればそのうちに口コミで店の名も売れ出すに違いない。
穂刈末人の考えは相変わらず楽観的だった。
穂刈にとってむしろ難関は妻の恵子と息子の陽介だった。穂刈がノビーとめぐり合ってから恵子と陽介には気の休まることがない日々が続いた。総てが穂刈の身勝手な思いつきのためということができる。そこに持ってきてまたしてもというわけだ。波風が立たなければよいと思いながら、穂刈は恵子に打ち明けた。
この提案が恵子の同意をすんなり得られるとは思ってもいなかった。ところが……
恵子は穂刈の提案を喜んで受け入れた。
「もし私が反対したら、中止する?」
恵子はからかうように微笑んで穂刈を見つめた。穂刈は思わず視線を宙に泳がせた。
「ほらごらんなさいな。もう決めているんでしょう」
穂刈は何も斬り返せず、煙草を咥えて火をつけた。確かにこれまでも恵子の言うとおりだった。会社を辞めたとき、競馬専門チャンネルにFaxしたとき、ミスターXを名のったとき、そしてミスターXから手を引いたときも、いつだって誰にも相談すらしたことのない穂刈末人だった。
「いいのいいの、別に皮肉言ってるわけじゃないの。実家に残した両親のこともあるしね。二人とももういい歳だし、本当はもう少し近くにいてあげられたらいいなって思っていたの。陽介のことだってこっちにいるより空気だってきれいだろうしね。ウン。そうね。やってみましょうか。向こうで」
穂刈がどぎまぎしているのを見て恵子は楽しそうにそう続けた。
穂刈は洋子の気が変わらないうち、とばかりに、早速行動を開始した。
マンションのローンの返済について銀行に相談すると、売却した分で十分埋めることができそうだったからすぐ手続きをした。
つぎに穂刈は近所の喫茶店に入りブレンドコーヒーを注文してから、携帯で杉浦努のナンバーをプッシュした。杉浦努は穂刈と同期入社、同じ営業部でしのぎを削りあった仲間だった。住まいもそれほど遠くはなくいつかお互いに親友同士とでも呼べるような関係を築き上げていた。
会社が数年前からの不況のあおりを受けて人員削減の方針を打ち出したとき、穂刈末人は躊躇することなく身を引いて会社を辞めたが杉浦は踏みとどまったのである。そしてこの9月、杉浦努は突然札幌支店勤務の辞令を受けたのだった。
2~3回コール音を聞かせた後杉浦の声が返ってきた。
「杉浦です」
携帯特有のどことなく金属的な音質で杉浦の声が耳に飛び込んできた。穂刈は思わず懐かしさで胸が詰まるのを覚えた。
「どちらさまでしょうか?」
穂刈が声を詰まらせて一瞬沈黙したので、杉浦が不安そうな声で尋ねた。
「おれだよ。穂刈だよ。しばらく。元気そうじゃないか」
「おう。穂刈か。久しぶり。どうした?」
いつもと代わらぬ杉浦の声だった。
「来週あたり一度そっちへ行こうと思っているんだが、夜でも会えないだろうか?お前さんの都合のいい日でかまわんから」
「そうか。それじゃ金曜日の夜ではどうだ?」
「わかった。それじゃ空けとく。近くなったらまた電話をくれ」
「了解。ところでお前にちょっと頼みがあるんだ…」
穂刈は杉浦にもくろみを話し千歳空港からそれほど遠くないところにオープンしたいので時間があればよい物件がないか探ってほしいと依頼した。杉浦は快く引き受けた。
穂刈が競馬喫茶をオープンする場所として千歳市近辺に狙いをつけたのは、集客を考えてのことだった。単に馬産地といえば、まず連想される地名は日高や静内が一般的である。
しかしそこにあるファームは家族だけで営んでいるような、ごく小さなものが大半を占めている。競走馬生産の産業もそのような小さな単位では経営も楽ではないはずだから、 穂刈が思う限りそれほど多くの客を集めることはできそうにもなかった。
これが千歳市ならばその郊外にはSファームというわが国最大の競走馬専門の牧場がある。小規模な牧場で生まれた子馬たちは一才になると親から離され、牧場によっては子馬をSファームに預けて競走馬としての訓練を委託したりするのである。だから競馬関係者たちの動きもむしろ活発なのではないだろうか。
また、北海道の空の入り口といわれる千歳空港があるために、北海道を訪れる観光客のほとんどが千歳に降り立つ。
今はまだ北海道旅行といえば札幌市や小樽市、函館市のような古くから名の知られた観光スポットに目が向けられ、飛行機から降り立った観光客たちはそれぞれの目的地に向かって千歳を素通りしてしまうほうが圧倒的に多い。しかし穂刈がターゲットにしている店に立ち寄ってくれる観光客の数は、千歳空港に降りた客総てではないのだ。その千分の一、万分の一で十分なのである。だから『ミスターXの喫茶店』としてこつこつ努力さえ怠らずに頑張っていれば、いつの日にか名前も売れ出し客もたくさん訪れてくれるようになるだろう。穂刈はそう考えていた。
ブレンドコーヒーを飲み干してカップを置くと穂刈は会計を済ませて外に出た。めっきり冷たくなった風が銀杏並木の黄色い葉を散らしていた。穂刈は思わずコートの襟を立てた。
4
2010年 ノビーズコテージ
空は鉛色の厚い雲に覆われ、打ち寄せる波も明るさを失って寒々とした黄昏時を迎えていた。晴れてさえいれば陽が傾くと、サンルーム造りのこのベランダから見える風景総てが朱に染まり、寄せては返す小波も穏やかな潮騒を聞かせる。ノビー・オーダはロッキングチェアーに揺られてその風景をぼんやりと眺めるのが好きだった。ただそうしているだけで心地よいひと時に身をゆだね、心を遊ばせることができるからだった。
しかしこの日ノビー・オーダの胸の内には、ガラスの戸を閉め切ったサンルームから望むどんよりとしたくもり空に似た重苦しい不快感が鬱積していた。
原因は政治局では創造主族の世を維持するためにまだ何かを計画しているというミッチ・アキュからの情報だった。
「政治局の企みについては、ノビー、森林公園の閉園でけりがついたと思っていた」
ミッチ・アキュは忌々しそうに言って舌打ちをして見せた。
ノビー・オーダは渋い顔で頷いた。
「もう2年になるよ」ノビーは懐かしむような目をして「穂刈だって喫茶店を開く準備を始めたって言うのに……」と続けた。
「ミスターX騒動が政治局の企てと関係しているかどうかはさておき、少なくとも俺たちに政治局の策謀について考えさせるきっかけを作ったことは確かだな」
「しかし失敗することは見えみえだった」
ノビー・オーダはタバコを一本取り出して火をつけた。
「そもそも民衆院と伝統院の新二院制だって民主的な協議の上で最近立ち上げたばかりじゃないか。その成果も見ずに何故だ。まだ何かをおっぱじめようというのか」
ノビーはまくし立てるようにいってアキュにたずねた。
「世の中の切り盛りについてはよほど転生族に介入されたくないんだろう。転生族が大嫌いなんだよ」
ノビーは、アキュがさらりと受け流すのが面白くて少し笑た。ミッチ・アキュに視線を投げた。
アキュは本革張りのふかふかした安楽椅子に気持ちよさそうに体を預けていた。アキュの斜め後ろで、いつも穂刈末人との交信に用いていた大型液晶テレビが今は歌謡曲番組を流している。そしてテレビの横に小型VTSを入れたアタッシュケースが無造作に立てかけられている。
不本意ながらアキュの手から警視局のタクラ・マクラ本部長の手に渡ってしまったはずの小型VTSだった。それが今無事にここにあるのはノビー・オーダが気転を利かせ同じアタッシュケースを用意してアキュに渡していたこと。そしてタクラ・マクラ率いる捜査班が警視局に戻った瞬間を見計らったように、VTS製作チームから遅延の原因だった通信部分の問題が解決したのですぐテストをしたいと至急報が入るという偶然が重なったためだった。
「それにしても、やつら少々学習能力がないようだね。そう思わないか? VTSを使ったって向こうの衆の意識改革なんてできないってことがわかっただろうに」
「そのとおりなんだ」
ミッチ・アキュの眼光に鋭さが増していることにノビー・オーダも気がついた。
「もはやVTSとはまったく無関係に民主化を阻止する作戦に切り替えたらしい」
アキュの言葉にノビーは思わず息を呑んだ。VTSなど何の役にも立たないというのか。そうなると製作者としては若干面白からざるものがあった。
「いいかノビー。向こうで穂刈のように情報を受け取る者の立場に立ってみたらいい。最初めのうちは神様の声に恐れ入って素直にひれ伏すだろう。しかしだ、穂刈のように幾度も交信を続けていると、まるで友人同士みたいな関係になってしまうんじゃないかな。そうなるとかかってくるのが当たり前の携帯電話と大差ない。それならテレパシー通信で十分だろうさ。政治局の連中もそれに気がついたんだろう」
アキュは同意を求めるような視線をノビーに向けた。
「そのとおりだと俺も感じているよ。そもそも俺と穂刈のようなコミュニケーションのとり方は、VTSの構想の中にはないわけだから、やむをえないよ……」
ノビーの言葉は苦しい言い訳のように沈んでいた。開発した本人である。如何に本来の使用方法と異なっているとしても、少なからずプライドを傷つけられた形になってしまった。
「まあそれはもういいよ。責任がなくなる分俺も楽になるからね。」
気持ちが動揺しているのを隠すようにノビーはキッチンへ行き、冷蔵庫からビールを取り出した。
「今夜は泊まっていけるんだろう」
グラスにビールを注ぎながらノビーは尋ねた。
ミッチ・アキュは黙って頷いた。
ノビーとアキュは一度グラスを合わせて、よく冷えた液体を一気にのどの奥に流し込んだ。
「それで今度やつらはいったい何をやらかそうとしているんだ?」
「さて、それが今はまださっぱりわからん」
アキュはビールをノビーのグラスに注いで
「ノビー。お前タカマ・ガハラ治安部長に息子がいるのを知っているだろう?」
「サニーとか言う名前だったと思う。けっこう暴れ者らしいが」
「そうそう、サニー・ガハラだ。タカマ・ガハラは息子のサニーを向こうに送り込んだらしい」
「なんだって! 何をしようとしているんだろう?」
「わからん。ただソニーのアイディアに親父のほうが乗ったという噂もある」
「……」
ノビー・オーダはその脳をフル活動させたが回答は出なかった。いかにも情報量が不足していた。ミッチ・アキュにしても同じことだった。沈黙の時間が数分間続いた。
気まずい沈黙の時間を終わらせたのは来訪者を知らせるチャイムだった。
財団を辞してからというもの、このノビーズ・コテージを訪れるものはといえば今目の前でビールを飲んでいるミッチ・アキュくらいしかいなかったので、怪しむような目をしてアキュを見やった。
アキュが黙ってうなずくのを見てノビーはインターフォンの受話器をとった。
「中央麻酔のセッシュ・ナオカともうします。警視局のミッチ・アキュさんはこちらにいらっしゃいますでしょうか」
インターフォンを通して来訪者の声が聞こえた。
第5章 謀略の船
1
2013年 ドイツ
リューデスハイムはライン川に面した観光都市である。
日本ならばなまこ壁といったところだろうか、土壁を白や薄水色に塗り上げた建物が、石畳の小路の両側に軒を並べている。どの建物も鉄さび色の屋根を乗せているのが如何にもドイツ風の趣がある。ほとんどが観光客を当て込んだ土産物屋やレストラン、そして3階建て4階建てと少し大きめなものはホテルであると考えても間違いではない。
早朝から豪華な内装の大型バスが次から次へと川に面した巨大な駐車場に流れ込み、観光ツアー客たちを吐き出している。
ツアー客のほぼ半数は日本人のようだ。
多くの店の入り口には『日本語わかります』と記した看板が立てられていたり、貼紙が目立つように張られている。
店内に並べられているものは日本の観光地にある土産物屋と同じようにつまらない小物ばかりが目立つのだが、店の造りがいかにもドイツ風の上に、店員も民族衣装を身にまとったりしているものだから興味をそそられるらしい。ダメ押しが日本語が通じると記された立て看板や貼紙で、慣れぬ海外旅行に少し緊張していた客たちに安堵感を与えた。ひとりがどこかの店に入るのを見ると一気に緊張もほぐれ、あとは躊躇することなくあちこちの店に皆吸い込まれるように消えていくのだった。
朝9時30分。
賑わいを見せ始めた通称つぐみ横丁といわれるこの商店街の石畳を、ひとりの恰幅のよい大柄なドイツ人が歩いていく。小路はなだらかな上り坂だったけれど、男の呼吸はまるで山登りをしているように苦しそうだった。
男が観光客ではないことはすぐわかった。
黒ずくめのスーツ姿でシルクハットまでかぶり、その上書類入れのような薄い鞄を抱えている。そんななりをした観光客はどこにもいない。
男はひーヒート呼吸音を聞かせながら、かろうじて坂を上りきった。突き当りが目的地のようだった。
ウォルフガング・ユルゲンスは今登ってきた坂道を振り返った。石畳は商店街の一番下、国道が横切る形で終わり、その向こうにライン川の流れが朝日にきらめいている。
「尾行者はいないな……」
ウォルフガング・ユルゲンス教授は満足気にうなずいて目的地に目を戻した。目の前には幅およそ2メートル程度の入り口があった。隣接する商店の倉庫かガレージかと思われる造りである。しかしまだシャッターを下ろしたままだった。
緑色の塗装に少し錆が浮いているシャッターの支柱にはプラスチック製の小さな押しボタンが取り付けられている。
ユルゲンスがボタンを押すとシャッターがガラガラという不愉快な音を聞かせて開いた。中には何も入っておらず、ただ奥行き5メートルほどの何もない空間が見て取れるばかりだった。
ウォルフガング・ユルゲンス教授は構うことなく中に踏み込んだ。中に入ると教授は後ろでシャッターの閉まる音を聞いた。教授は驚きもしなかった。いつもと同じことだった。
シャッターが閉まりきって部屋の中が暗闇に支配されると、今度は5メートル先の壁面に夜光塗料のようなうす緑色をした光文字が浮かび上がった。
アルファベット26文字と数字が0から9までの合計35文字を上部に置き、その下にENTER DELの文字がそれぞれ四角で囲まれて光っている。どうやらキーボードのようだった。
ユルゲンス教授は光文字にタッチしてパスワードを入力し、最後にエンターキーに触れた。
キーボードの中から「ウォルフガング・ユルゲンス教授。確認終了しました」と機会の声が流れ、同時に左側の壁にいつの間にかエレベーターの扉が出現していた。ドアが音もなく開く。ユルゲンス教授は躊躇なく乗り込んだ。
エレベーターの内部には液晶式ディスプレーが取り付けられていて、上下一直線の棒グラフのような、箱の現在位置を示す赤いポイントが示されていた。ポイントは最上部に点っており、グラフの横に深度の表示が0を表示している。操作すべきものはドアの開閉ボタンのみである。ユルゲンス教授はボタンを押してドアを閉めた。
ドアが閉まるとエレベーターは降下を始めた。相当速い速度で降下しているようで、デジタルの数字が瞬く間にマイナス値を増していく。急激な降下が耳に不快感となって降りかかった。エレベーターはさほど時間も要さずに最深部に到着した。乗り込んだ地点を0とした数字は、マイナス893メートルを表示している。
ドアが開くと地下深く降下したはずなのにそこは真昼のような眩い光に包まれていた。
ジオシティの範囲に20メートルメッシュを被せそれにしたがって直径50センチの竪穴を穿つ。勿論地上とジオシティを貫通させてである。
貫通した穴に補強のための金属パイプを通し、地表側には集光レンズを組み込みジオシティ側はその形状によって計算されたレンズや鏡またはプリズムなどを用いて光を拡散させているのである。
こうしてジオフロントにも地表と変わらぬ光源を確保することができた。ユルゲンス教授は自分の計算結果に満足して地下800メートルの実験空間に足を踏み入れた。
ユルゲンス教授は応接室と書かれたドアを開いた。
「遅くなりました」
一言詫びてユルゲンスは部屋の中央に据えたソファに座っている男に歩み寄った。
「すばらしい成果だ。この光は」ケルベロス・ブラッディはそういってウォルフガング・ユルゲンスが差し出した右手を強く握った。
「お役に立つことができ、光栄です」
ユルゲンス教授はブラッディがソファに腰掛けるのを確認してからテーブルを挟んだ向かい側の安楽椅子に腰を下ろした。
ノック音が聞こえ金髪で背の高い美人がドアを開けた。
「失礼します」
女性はテーブルに淹れたてで湯気の立つコーヒーを置いて一礼し部屋を出て行った。
女性が部屋から出るのを待って、ブラッディは「今日は君にしてもらいたいことがあってやってきた」と子を潜めるようにしていった。
「何をすれば……」
ユルゲンスの質問を制して
「私は君たちの働きに深く敬意を表する者だということをまず知ってもらいたい。そこで第一回目の会議の折に名乗った私の仮名ケルベロス・ブラッディを私の本名と入れ替えることにした。私の傘下で仕事をしてもらうとき、私自身が君たちに隠し事をしているようではいかがなものかと思うからだ。私の本当の名前はサニー・ガハラという」
「サニー…。サニー・ガハラ」
「そうだ。ヨミランドという組織に属している。ヨミランドに関しては君たちにはまったく無関係の組織だからなにもいうまい。これまで通りケルベロスの一員ということで差支えない。そこで君に頼みたいことというのはアジア支部のトーマス・グリンフェルドという男と合流してほしいのだ」
「トーマス・グリンフェルド?」
「そうだ。アジア支局から計画準備が完了したと連絡があった。仕事の内容についてはトーマス・グリンフェルドが把握しているから、その指示に従ってほしい」
「わかりました。それで、どこに向かえば?」
「日本に北海道という地方がある。その中に千歳市という町があるので早速飛んでくれたまえ。そして千歳市の町外れにあるミスターXの喫茶店という長ったらしい名前のカフェに顔を出していさえすれば、向うから接触してくるはずだ」
サニー・ガハラは少し冷めたコーヒーを飲み干して微笑むと、
「当面の必要経費は君の口座に振り込んでおいた」
と一言加えて立ち上がった。
2
2013年
北海道 千歳市郊外
新千歳空港から白樺の林道を早北方面に車を進め、JR室蘭本線をまたいだところで南北に走る国道に出る。いわゆる早来国道である。この国道をJRの線路に沿う形で北に向かい、室蘭本線が石勝線と分岐する少し手前を東方向に曲がるとまもなく穂刈末人が始めた軽食喫茶店があった。
年代を感じさせるログハウス風の建物だった。
3年ばかり前に喫茶店の開業を計画した穂刈は、友人の杉浦努に頼んで適当な物件を探してもらっていた。
半年ほどたって、希望どおりの物件が出そうだと杉浦から連絡があった。すぐ飛んで行って物件を見るとまさしく穂刈が頭に描いていたとおりのものだった。
長い年月老夫婦がふたりだけで営んでいた喫茶店だった。ところが主人のほうが体調を崩してしまい、これを機会に店をたたむことを決めたという。
「まさかあなたのような有名人に店を引き継いでいただけるとは思ってもみませんでした」
チロチロとやわらかい炎を見せる暖炉のすぐそばでロッキングチェアーに揺られながら、老人は嬉しそうに目を細めた。
「正直なところほっとしているんですよ。こんな不便な場所ですからね。いや、ありがたいことです」
老人はブルージーンズのパンツに黒の格子模様を染めた赤の棉シャツを身に着けている。頭の後ろで白髪を束ねたでその姿は80才に手が届きそうな年齢に見えた。
「その代わりといっては何ですが客層は競馬関係者が主体となるでしょう」
穂刈末人はソファに杉浦努と並んで腰を下ろし、甲斐俊介という名の老人がやさしい目をして楽しそうに話す言葉に受け答えしていた。目の前のテーブルには淹れたてのコーヒーが湯気とともに芳醇な香りを立ち上らせている。
「そういうことになりますな。ですからそれほど集客は期待できませんぞ。もともと老人の道楽のような店ですから」
「それが魅力なんですよ、甲斐さん。私にしても競馬以外に趣味のない人間ですからね」
「そういうもんですかねぇ」
「ところで本題に入りますが、この物件おいくらでお譲りいただけるのでしょうか」
「いいえ。まだ売却処分するつもりはありません。賃貸借契約でお願いできませんか」
「結構ですよ。そのほうがこちらもやり易いのでありがたいです。それに、いつでも気兼ねなくお立ち寄りいただいて、いろいろとアドバイスしていただければ思っていたところです。」
このようなやり取りがあって話はとんとん拍子に進み、契約の後内装や駐車場に手を入れ2011年の秋口に開店にこぎつけたのだった。
穂刈は近隣の牧場宛に招待状を送り、開店の挨拶を兼ねたパーティを催すのでぜひ参加をと誘った。
店内は窓際に4人がけのテーブル席を配置。店の中央には大きな一枚板のテーブルを置いてそれを囲んで切株で作った椅子を据えた。大テーブルの先には木製の柵が取り付けられその左右の端に階段があった。柵のところに立って下を見やると正面に暖炉を備え付けた談話室のような造りになっている。暖炉の前にロッキングチェアーが2脚ゆったりと揺れている。柵から覗くとロッキングチェアーまでのスペースにはソファと安楽椅子で小さなテーブルを挟んだ応接セットがひと組、左側に寄せるように配置されていた。右側のスペースはバーカウンターとその奥が厨房になっている。
暖炉の右横には小さなドアがあった。ドアを入ると穂刈個人の住居となる。居間と寝室そして四畳半程度の部屋が2室にバス・トイレ。親子3人が暮らすには十分な広さだった。
競馬喫茶・ミスターXの喫茶店の開店記念パーティーは大成功のうちに終わった。
たかが喫茶店のオープンだからそれほど多くの参加はないだろうと気楽に構えていたところ、予想をはるかに超えて祝客が訪れた。店内に入りきらず、駐車場に特設のテーブルを用意しなければならないほどだった。
きっと招待状の文面に『ご家族、ご友人連れ立って』としたためなのだろう。
牧場関係者も穂刈の思惑通り相当な人数参加してくれた。しかし穂刈を驚かせたのは、これまでに関りあったさまざまな分野の人たちが参加してくれたり、祝いのメッセージを届けてくれたことだった。
親友の杉浦努は当然だが、トーマス・グリンフェルドや伊達針之介と幸円仁、そして捨文王まで実際に出席してくれた。祝いのメッセージと祝儀を送ってくれた人たちも玉野幸次郎、江崎大五郎、三風亭五九悪、伏間紀子、そして内閣総理大臣恋占淳一郎まで名を連ね穂刈末人を恐縮させたのだった。
およそ2年が過ぎミスターXの喫茶店もすっかり地域に溶け込み、そこになくてはならない存在として安定した営業を続けていた。
9月の声を聞くと北海道では突然空気が肌寒さを感じさせ、夏から秋へ季節がと移り変わる。人々はすぐ訪れる厳寒の冬への準備を開始する。
穂刈がそろそろ店でも暖炉用の薪の手配や除雪に使う機材の点検などをしなければと思いながらロッキングチェアーに座っていると、店のドアが開き、取り付けたカウベルが心地よい音を響かせた。腕時計を覗くとまだ朝9時を過ぎたばかりである。この時間に先を急ぐ観光客が訪れるてベーコンとサニーサイドアップにトーストそしてホットコーヒーといったお定まりの朝食を済ませすぐ行ってしまうこともあるにはあったけれども、珍しいことには違いなかった。
穂刈末人はすっかり板についたエプロン姿で階段を上がった。
まだ誰もいない店内のテーブル席に恰幅のよいひとりの外国人が座ろうとしているのを見て穂刈は「いらっしゃいませ」と日本語で挨拶した。
「ここ、よろしいですか」
外国人も流暢な日本語で言った。
穂刈が 愛想笑いを浮かべて「どうぞどうぞ」と勧めると
「ダンケ」と笑って少し小さすぎるように見える椅子に何とかこしかけ、「朝ごはん何か食べられますか?」と外国人は言った。
「おまかせでいいですか?」
問いかけに外国人が頷くのを見て穂刈は席を離れ厨房に入った。
厨房には妻の恵子が一日の仕込みに忙しく動いていた。
「おい。ドイツ人のお客さんだよ。お任せで朝食をというんだけど、何を出したらいいと思う?」
「ドイツ人…ドイツ人ね……。芋とコーンビーフばっかり食べてるって聞いたことがあるわよ。それとアスパラガスが庶民には手が出ないほどの高級食材らしいわ」
「よし。じゃあそれにしよう」穂刈はパン皿にトーストを二枚のせてから別皿を用意し、茹でたてのジャガイモを2個、オリーブオイルで炒めたコーンビーフとアスパラガスのバター炒めを付け合せた。
ホットコーヒーとともに客の前に並べるとドイツ人は「おお。これは美味そうだ」と大喜びした。
「どうぞごゆっくり」と挨拶して引き上げようとする穂刈を、ドイツ人が呼び止めた。
「はい。なんでしょう?」
「私はドイツから来ましたウォルフガング・ユルゲンスといいます。マスターはトーマス・グリンフェルドというアメリカ人を知っていますか?」
ユルゲンス教授はそういって穂刈の目を覗き込んだ。
「はい。よく知っていますよ。そうですか。トムの知り合いなんですね。今こちらに来ているようですので、きっと今日もここに顔を出すんじゃないかな」
「いや、知り合いってわけでもないんですが、ちょっと……」
ユルゲンス教授がそこまで言ったとき、カウベルが威勢のよい音を立てた。
「グッ・モーニング。ポカリスエット」
いつも通りの威勢のよい声が聞こえた。
3
2011年 ノビーズコテージ
セッシュ・ナオカは憤慨していた。
中央麻酔(株)の運営管理を政治局から極秘任務として命令され、官僚のポストを投げ打ってまでそれを切り盛りしてきたセッシュ・ナオカだった。ノビー・オーダに変わってミッチ・アキュがドアを開けるとセッシュ・ナオカは肩をいからせ、ハアハアと荒い呼吸音を聞かせながらずかずかと中に入ってきた。
「ここは私の家じゃあないから…」
アキュが慌てて注意すると、セッシュ・ナオカはようやく我に返ったように歩みを止めた。
「これは、失礼しました」
居間と玄関を仕切るドアから何事かと首だけ覗かせたノビー・オーダに向かって、ナオカ社長は恥ずかしそうに詫びた。
「どうぞ。お入りください」
ノビーはナオカ社長を迎え入れた。
ノビー・オーダは新たな来訪者をソファーに座らせるとグラスにビールを注いで薦めた。
「突然押しかけて申し訳ありません」
セッシュ・ナオカはあらためてノビーに詫びてから「それじゃあ遠慮なく」とひと言前置きしてグラスのビールを一気に流し込んだ。
セッシュ・ナオカの表情から興奮が少しずつ消え、平常心が戻っていく様子がノビーにもよくわかった。
「ノビー。セッシュ・ナオカ社長さんだ。中央麻酔株式会社の……。ナオカ社長VTSを作ったノビー・オーダです」
アキュが中に立ってそれぞれを紹介した。
「その節は大変お世話になりました。おかげさまで向こうの世界にいる友人を救うことができました」
「さて、何のことか私にはさっぱり……」
「ナオカさんもういいですよ」
アキュはとぼけて見せるセッシュ・ナオカの言葉を遮って「私も社長も、このノビー・オーダも転生族。そういう意味で、皆、仲間なんですから」
ノビーは微笑んで右手を差し出し握手を求めた。ナオカも笑顔を返してノビーの手を強く握った。
「それにしても驚きましたよ。先ほどの社長の興奮は尋常じゃなかった。」
ノビーがベランダのテーブルに置き放したグラスを持ってくるのを待って、ミッチ・アキュが口火を切った。
「いやはや、面目ない」セッシュ・ナオカは少し薄くなった頭を手のひらでぴしゃりと叩いた。
ノビーはアキュに並んで安楽椅子に腰を下ろした。
「聞いていただけますか? アキュさん」ナオカ社長の瞳の奥にほんの少しだけ残っていた興奮のかけらに再び小さな炎が上がるのをミッチ・アキュは見た。
「私は元は政治局の職員でタカマ・ガハラ治安部長、当時はまだ治安課長でしたが、彼の下で課長代理を務めておりました。」
「えっ、そうなのですか」
アキュはセッシュ・ナオカのその一言を聞いただけで興味ををそそられた。それほど有名とは言いがたい一企業があれほど巨大な設備投資をしてまで転生行為に一役買っているということに、アキュは疑問を持っていたからである。そもそも生前転生の行為に経済的な色彩は何もないわけだし、第一そのような行為が行われているということ自体公になっているわけでもない。
ノビー・オーダと知り合ってからいろいろと探ってみて、どうやら生前転生は民衆に対するマインドコントロールを目的としているようだというところまでは推測がついた。しかし政治局の動きが中央麻酔㈱という民間企業とどう繋がっているのかに関しては謎というしかなかった。しかし今耳にしたとおりセッシュ・ナオカが元役人だということが真実なら謎解きの糸口が見え始めたということなのかもしれない。
ミッチ・アキュは横に腰掛けているノビー・オーダの様子を伺った。ノビーも目を輝かせて話の続きを待っているように見えた。
「タカマ・ガハラが中央麻酔などという何がなんだかわからない法人をこっそりと作った理由をご存知ですか?」
ナオカ社長の声のトーンが再び上がり始めた。瞳の奥の炎も先ほどより明らかに大きくなっている。ノビーはナオカのグラスにビールを注ぎ足した。
ナオカは小さくうなずいてのどを潤した。炎が落ち着きを取り戻した。
「裏転生の実行と管理でしょう」
アキュは平然と言った。 「あ、ばれてましたか。さすがです。そのとおりなんですよ。そしてあくまでも民間企業が運営していることにしたいので、私に代表となれというんです。政治局を辞してです。もちろん私は抵抗しましたよ。それは局がすべきことじゃあないですか」
「ですよね」
ノビーが囁くような声で相槌を打った。
「政治の民主化運動が活発になりかけている。今はまだ中央が仕切っていることを知られたくはない。中央はまずい。チュウオウマズイ。中央麻酔……。ハハハって笑うんですよ」
ナオカの説明にアキュは思わず「ははは」と笑ってしまったがすぐ「失礼」と謝って先を促した。
「タカマ・ガハラは渋る私にこういうんです。心配しなくても良い。自分はこの民間組織を将来は転生局という中央局に昇格させるつもりだ。そのとき初代の転生局長としてどのような経歴を持った人物が適しているか、君にも察しはつくと思うが……。そこまで言われたらもう引き受けるしか道はないじゃないですか」
アキュとノビーは同時に大きく頷いた。
「ところが3日ばかり前に突然政治局に出向くようタカマ・ガハラからの電話です。顔を出すとひどい話なんです。今後転生行為はすべて中央転生センターで一括管理することになった。天正沼自然公園の閉園式以来何かあるかも知れないからという理由で5年ばかり放置してきたが、治安のことも考慮して然るべき手を打つことにした。中央麻酔㈱も役割を終えたと考えてくれたまえ。君も身の振り方を考えたほうが良い。そんな言い草ないでしょうが」
「ない」アキュは言った。
「ない」ノビーも言った。
「私は詰め寄りましたよ。転生局の初代局長の椅子の件はどうなるんですか? とね」
セッシュ・ナオカは忌々しげに歯軋りした。
「タカマ・ガハラはそれに対してなんと……」
「一言です。無い局に、局長はいらない」
「なんだと!タカマ・ガハラがそんなことを言ったんですか。許せない。あの男、ギッタギッタにしてやる」
ミッチ・アキュはナオカ以上に激昂して真っ赤になっている。
「具体的にどうするつもりなんでしょうね?」
ノビー・オーダはナオカ社長に問いかけた。
「転生を完全に一元化することでこちらに入りこむ人間を厳格に管理するというんですよ。向こう側で政治闘争などに力を入れていた人間などが転生の時期を迎えたときなど、総てをセンターで管理しておけばピックアップしやすいからね。今世界全体では数十点の転生ポイントがあるらしいのです。それらが全部生きているかどうかはわかりませんが」
「危険人物をピックアップしてどうするつもりなんですか?」
「二度とどちらの世界にも生まれてこないように霊魂の抹消を考えているようです。来年度、つまり2012年4月1日から大きな予算をつけて天正沼の水を抜くための設計計算等に一年かけ、翌2013年中で排水埋め戻しの予定らしいんです」
ナオカはアキュの問いに答えた。
「サニー・ガハラの入れ知恵だろう。向こう側のリンクポイントでも同時にことを進めるつもりだろう。対応するポイント同士は空間的には繋がっているからこっちの沼の水を抜いても向こうの水が流れ込むらしい。だから両方同時に実施するための準備もサニー・ガハラによって進められるはずだ。ノビー。穂刈末人にコンタクトを取って阻止させてくれ」
「穂刈個人でできることじゃないだろう」
ノビーはアキュの腹を探るように聞いた。
「いや、あの男はミスターXだよ。政界にも財界にも、マスコミにだって結構太いパイプがあるようだ。」
「わかった。やれるだけやってみる」
「俺はこっちの民主化運動の代表と会って、政治局の中でそういう謀略が行われようとしていることを伝える」
「手はそれしかないだろうね]
「猶予はおよそ1年間。敵の先を越すには大至急こっちの準備を完了させなくてはならない。ナオカ社長、ここまで来たからにはどちらに転んでも職探しは自分でということになりそうですね」
アキュはセッシュ・ナオカに哀れむような視線を向けた。
4
2013年
北海道 札幌市郊外
このたゆたうような満足感はいったいなんだろう。
ウォルフガング・ユルゲンスは今まで経験したことのない幸福な心地よさに体を委ねていた。
トーマス・グリンフェルドに案内されたのは、定山渓温泉というリゾート地だった。
はじめのうちウォルフガング・ユルゲンスには、グリンフェルドが最上級のリゾートだと強調する理由が呑み込めなかった。さして広くもない渓谷の両側に無理やり埋め込んだように高層ホテルが軒を連ねている。見方によっては今にも崩れ落ちそうな岩肌を見せる渓谷のふちに大きなホテルが建ち並ぶさまは壮観といえば言えないこともなかった。しかしなぜ最高級のリゾートなのだ? ユルゲンスの目は明らかにそう語っていた。
ホテルの前に車を横付けすると女将が2名の係員を従えて急ぎ足でやってきた。
「いらっしゃいませ。お待ち申し上げておりました。グリンフェルド様でいらっしゃいますね。早速お部屋にご案内いたします」
女将が挨拶すると仲居が「係りの谷中です。お荷物お預かりいたします」と言って二人の手荷物を持ち、先に立って歩き始めた。トーマスグリンフェルドは車のキーを男の従業員に渡し、仲居の後を追った。
楓という部屋名を記したドアを開け「靴、脱いでくださいね」と通されたのはゆったりとした広さの和室だった。部屋の中央に置かれた座卓の向こう側は障子戸が大きく開かれていて、広縁から望む風景で部屋が渓谷に面していることが知れた。
ひとしきり風呂や食事の段取りを説明して仲居が引き上げるのを見送ってグリンフェルドは床の間を背に座卓の前に胡坐をかいた。
「ユルゲンス教授。あなたは今なぜここが最上級のリゾートなんだ? と訝しく思っておられますね」
ユルゲンスは胡坐をかくことができないので、グリンフェルドの向かい側に足を投げ出すようにして座った。
「実を申せば、いささか」
ユルゲンスは正直に答えた。
「郷に入れば何とやらで、まず気持ちをリラックスさせるんですよ。たとえばこうして」
グリンフェルドは部屋の片隅に重ねて置いてある座布団を3枚、畳の上に並べその上に身を横たえ「やってごらんなさい」と勧めた。
ユルゲンスはグリンフェルドに言われるまま、真似をして座布団ベッドに横になってみた。確かに気持ちがのんびりして癒されるようだった。
「さて、食事までまだ一時間以上ありますから行ってきましょうか」
グリンフェルドは当然のように言って洋服を脱ぎ、備え付けの浴衣に着替えた。
「どこへ行くんです?」
ユルゲンスは不思議そうにグリンフェルドに尋ねた。
「日本の温泉に入ったことはないのですか? それこそが最上級の所以なんですよ」
グリンフェルドは楽しそうに笑って
「さ、あなたもそこにある浴衣に着替えて、後は万事私に任せてください」と続けた。
トーマス・グリンフェルドに案内されて最上階の展望大浴場に入ったウォルフガング・ユルゲンスは驚いて一瞬足を止めた。そこはまだ夕方の残光が十分に射しこむガラス張りの大浴場で、窓に沿ってスイミングプールかと錯覚しそうに巨大な浴槽があった。湯船には3~4名の客がシルエットのように湯船に浸かっていた。湯船のどこからか温泉が流れ込んでいるらしく途切れることなく湯を流しこぼしている。
「さ、入ってごらんなさい」
グリンフェルドはタオルで前を隠した格好で湯船の中央まで進み、顔だけ出すように湯に浸かった。ユルゲンスもそれに倣った。するとたちまちユルゲンスは言いようのない幸福感に包み込まれたのだった。
昨日はなんと多忙な一日だったことだろう。
心地よい温泉に浸かりながらユルゲンスは目を閉じた。
確かに忙しい一日だった・・・
サニー・ガハラから指示されたとおり、フランクフルトから空路17時間ほどかけて成田空港に到着。飛行機の接続が悪ければ羽田国際空港まで電車に揺られなければならないところ、運よく乗り継ぎ便にも恵まれてさらに2時間。ほぼ20時間を費やしたウォルフガング・ユルゲンス教授の空の旅は千歳国際空港でようやく終わった。日本時間で午後9時30分だった。長時間乗り続けた飛行機の揺れが、堅い大地に降り立ってもなお恰幅のよい体を支配し続け、ユルゲンス教授はゆらゆらする足取りのままタクシーで予約したホテルへと直行した。
いつもなら町に出て何かしら胃の腑に収めなければ気がすまない大食漢のユルゲンスもこの日はさすがに疲れ果て、シャワーを浴び終えるとそのままベッドにもぐりこんだのだった。
翌朝ユルゲンスはカーテンの隙間から差し込む明るい日の光によって目を覚ました。時計を見ると朝8時を回っている。
ユルゲンスは身支度を整えると大慌てでチェックアウトを済ませホテルのタクシーブースからタクシーに乗り込んだ。ミスターXの喫茶店と行き先を告げると運転手は車を発進させた。どうやら有名店のようだ。
「ミスターⅩとはどういう人なのですか?」
運転手にそれとなく聞いてみた。
「競馬予想の天才ですよ。百発百中で、今から5年ほど前パニックを引き起こすほど活躍した予想家なんでさぁ。私は賭け事はしないもんであんまり詳しくはわからないんですがね、なんでも全レースを一点賭けで的中させちまうってことでしたよ」と、車を進めながら笑った。
目的地まで40~50分は要するだろうとユルゲンスは考えていたが、路上を走る車も少なくアウトバーンなみのスピードでタクシーは走り続け、およそ15分程度で目的地ミスターⅩの喫茶店に到着した。
タクシーを降り腕時計を覗くと9時を少し回ったばかりだったのでオープンしているだろうかとユルゲンスは心配したが、木製のドアには『OPEN』と書かれたプレートが掛けられていた。そしてウォルフガング・ユルゲンスはさして待つこともなくサニー・ガハラから言われたトーマス・グリンフェルドと会うことができたのである。
ミスターXの喫茶店でグリンフェルドはユルゲンスの姿を認め、躊躇なく話しかけてきた。
「ウォルフガング・ユルゲンスさん…ですね」
「いかにも。と言うことはあなたがトーマス・グリンフェルドさんですかな」
「はい。トーマス・グリンフェルドです。いやあよかったよかった」
グリンフェルドは笑顔で答え、握手を求めた。
ユルゲンスがその手を握るとグリンフェルドは断りもせずユルゲンスの向かいの椅子を引きこしかけ
「俺にもモーニングセット作ってよ。ポカリ・スエット」と注文した。
「ポカリ・スエット?」
ユルゲンスが何のことかよくわからず言葉を濁すのを見て
「穂刈末人です、私の本名」と小さな声で言って「朝食。すぐお持ちします」と階段を下りていった。
穂刈が席をはずしたの見計らってグリンフェルドは口を開いた。
「あなたとお会いするのは二度目なのです」
「えっ」
ユルゲンスにはまったく記憶がない。
「ほら、2年ほど前ケルベロスの会議が開かれましたよね。覚えていますか?」
「もちろん。なるほど。あの会議に出席していなさった。そういうことなら確かに2度目ですな」
「まあそれはどうでもいいことなんですがね。ひとつお聞きしたいんだが?」
「何ですかな」
「ユルゲンスさん。あなたは確か2007年にサニー・ガハラとめぐり合ったと聞いているんですが、拉致監禁されていたのはどのくらいの期間だったんですか?」
「拘束などされてはおらんよ。私は」
ウォルフガング・ユルゲンスは憮然としていった。
ユルゲンスが続けて何か言おうとしたとき階段を上ってくる足音が聞こえた。グリンフェルドはユルゲンスに目配せして話を中断させた。
グリンフェルドは慌しく朝食を済ませ、「さあ。行きましょうか」と席を立った。駐車場に止めた車に近づき助手席のドアを開け、シートを少し後ろに引いて「さあ。乗った乗った」と大柄なユルゲンスに気を配る。
「さっきポカリの店でユルゲンスさんは拘束などされていないと言ってましたよね」
車を走らせながらグリンフェルドはいった。
「そのとおり」
「ではなぜおよそ4年もの間人前から姿を隠したんです? 大学に連絡もせずにね。世界は大騒ぎでしたよ。誰かに拉致監禁されたと言って……」
「スポンサーが現れたと言うところかな。ケルベロスという。やりたい研究が山ほどあって、リューデスハイムの地下850mに作られた実験室からほとんど外に出なかったからね」
ユルゲンスはタバコを取り出して火を点けた。
「なるほどね。と言うことはだ、サニー・ガハラからは完全に信頼されていると言うことだ」
グリンフェルドは納得したようにうんうんと頷いた。
「じゃあ、作戦についてももう聞いているのかな?」
「いや。作戦に関しては君に従えと……」
グリンフェルドはこのユルゲンスのひと言に上機嫌になった。
「了解。謀略の船は既に完成している。先生の設計どおりにね。まあすべては明日だ。今日はユルゲンスさん。あんたを最上級のリゾートにご案内しよう」
グリンフェルドに案内されて近郊の観光スポットなどをめぐり、最後にこの温泉に辿り着いたのだった。
それにしても気持ちがよい。グリンフェルドが言うとおり最上級のリゾートに違いないとユルゲンスは感じていた。至上の幸福感とでも言うのだろうか。あまりの心地よさに気が遠くなるほどだった。気が遠く……
湯あたりだった。
第6章 自由のための闘争
1
2011年 ヨミランド
目指す建物はすぐ見つかった。
そのビルは中央官庁街のはずれ、近代的な高層ビルが建ち並ぶ街区の片隅に、時代から取り残されたようなみすぼらしい5階建ての小さな姿をさらしていた。
正面入り口をくぐると左側の壁に入居している会社や機構の名前を記したプレートが貼り付けられている。
ミッチ・アキュはプレートを目で追った。
目指す団体名は3階にあった。
『ヨミランド・アジアブロック民主化活動推進委員会』
仄暗いコンクリートの壁に掲示された看板は長年掃除もしていないように埃をかぶっていたが、組織名は確かにそう読み取れた。
プレートが貼り付けられた場所と反対側の壁には入居している各テナントの郵便受けが取り付けられている。
正面に階段がある。10段ほど上ると踊り場で右回りに折れ、上へと向かっている。
エレベーターを探す。
階段の後ろにトイレのドアと並んで小さなエレベーターがあった。アキュは階段を使うことにした。板張りの床はアキュが歩を進めるごとにギイギイという音を立てた。
3階まで上がると民主化委員会の事務所はすぐ右側のドアに団体名のプレートを掲げていた。
ミッチ・アキュはドアを軽くノックした。中から女性の声で「はい」と返事があった。アキュはノブを回しドアを開けた。
事務室は小さな部屋で一番奥の窓を背に少し大きめのデスクがおかれ、その前に2メートルほど間を空けて一般的な事務机が4脚で島を作っている。事務机とアキュが入ってきた入り口はカウンターで仕切られていた。島置きにした事務机にはアキュから見て左奥の席に中年の男性が、そのとなりにはアルバイトの少年が、また少年の向かいにはまだ20歳代に見えるやせた女性が事務を取っていた右奥の机には誰もいなかった。
アキュがカウンターのところまで来ると事務をとっていた女性が立ち上がりアキュの前に立った。
「いらっしゃいませ。ご用件は?」
はきはきした口調で女性が言った。
ミッチ・アキュは背広の内ポケットから手帳を取り出し、二つ折りになった手帳を広げて中に取り付けられた警視局員証を提示した。
「こちらの責任者の方はいらっしゃいますか?」
アキュは窓際の大きなデスクで書類に目を通している男性に視線を向けた。男も興味深そうな視線を浴びせてきた。
「あ、君。いいよいいよ。そのままお通しして」
女性職員が自分のところまで来ようとするのを制して、男は民主化運動や自由主義の闘争にかかわる書籍、資料がぎっしりと詰まった書棚にはさまれた所にあるドアを手のひらで示した。ドアの上部についた明り取りの窓に応接室と書かれた文字が見える。
通されたのは6畳ほどの小さな部屋で応接用テーブルを挟んでビニール張りのソファーとひとりがけの椅子が2脚配置されていた。アキュがソファの横に立っていると待たされることもなく男性がひとり部屋に入ってきた。
「突然押しかけまして申し訳ありません。」とアキュは詫び、名刺を渡した。
「委員長を務めるオットー・タイスケンです」男も自分の名刺を一枚アキュに差し出し「さ、どうぞおかけください」
じきに40の声を聞くミッチ・アキュより5歳ほど若く見える委員長は、アキュにソファーに腰掛けるよう手で示した。
「警視局の方が私に何を?」
アキュの正面に腰掛けてタイスケンは不思議そうな表情を見せた。
先ほどアキュを案内した女性職員がテーブルに湯気の立つコーヒーを置いて部屋から出て行くのを待ってアキュは話し出した。
「驚かないでください。今日お邪魔したのは貴方から何かを伺おうとか、委員会を捜査するとか言うことではありません。私がつかんだ情報をあなたに提供する目的でやってきました」
「どうした風の吹き回しでしょうか?普段は私たちの活動を取り締まるする側なのに」
タイスケン委員長は皮肉たっぷりに言った。
「それはあなたたちの行動が法律で定められた範囲を逸脱するからですよ」
「その法律というものを決めたのはあなたたち権力側でしょうが。我々大衆はいつも引きずられているだけなんですよ」
一方的に日を押し付けられた形になってしまったタイスケンはきつい言葉でミッチ・アキュを罵った。
「いつだってそうだ。あんたたちは!」
アキュは言葉を荒げて言い返し、タイスケンを睨みつけた。
タイスケンは一瞬アキュから目をそらした。ミッチ・アキュは長年の刑事生活で身についた経験で、その瞬間が打って出るベストタイミングであることをよく知っていた。
「仮にあんたたちの理想がレベル10の所にあるとしよう。そして今、世の中はようやくレベル5まで来た。あんたたちはそれを一気に10にしようとして戦っているように私には見える。レベル6にする努力、レベル7にする忍耐をあんたたちはしているのか。私にはそうは見えない」
アキュは一息ついた。こういう抽象的な問いかけをすると解釈の仕方の問題になるから、相手は大方こちらのペースにはまってしまうものだ。主導権をとられたほうは自分の意見を何とか正当化しようと必ずと言って良いほどその他大勢のせいにする。他人のせいにするのである。
「大衆が望んでいるから……」
「他人のせいにするな。正当な方向に誘導するのがリーダーの役目だろうが。いいか、警視局に勤務している人間たちもその多くが転生族なんだ。ほかの役所だってそうだろう。その多くが民主化、つまり政治に参加できる時が来ることを願っているはずだ。俺の得た情報では政治局の上のほうでそれを許さないための信じがたい謀略が進行しているらしい。そんな時代に逆行するようなことが許される道理がない。俺は今、仲間たちと政治局にそんな謀略を実行させないための行動をしている。タイスケンさん。あなたがもし聞く耳を持たんと言うならそれもよし。我々に力を貸したいと思うならここへ連絡してください」
アキュは自分の携帯番号をメモ用紙に書いてタイスケンに渡した。
「念のため言っておきますが、これはあなたが率いる組織にではなく、あなた個人に対して申し上げていると言うことをお忘れなく」
ミッチ・アキュは心の中でにやりと笑いながら席を立った。これでオットー・タイスケン委員長は十中八九連絡をしてくるだろうとアキュは確信した。後はこちらの必要なときに必要な動きをしてもらうための教育をしなければならない。ミッチ・アキュはそう思った。
2
2011年 10月 ミスターXの喫茶店
ようやく念願の軽食喫茶を開店させることができた穂刈末人は、恵子、陽介とともに新しい生活をスタートさせた。
昨夕開催した開店記念パーティーのときも穂刈はことさら謙虚に振舞い、大好きな競走馬の産地にこのような店を構えることができた喜びを強調した。
招待を受けた近隣の牧場主たちも、その大多数はあの競馬の存続を危うくしたミスターXが何故ここにという疑念や興味を腹の中に持っての出席だった。だが穂刈たち家族に接しただけで穂刈が決して人を欺くような人間ではないということを理解した。
時間がたつにつれてパーティーは和やかなムードを増していった。
特に出席者たちを驚かせたのは、サニーファームのオーナーである捨文王の様子だった。
捨文王は出席者たちが談笑している中を漕ぐように穂刈のところまで辿り着くと、その両手を握り締め、涙をぽろぽろこぼしながら「わしが悪かった。許してけれ。ゆるしてけれ」と号泣したのである。出席者たちは一瞬言葉を失って立ち尽くしたが、かつてふたりの間に何があったのかは十分予測のつくことだった。だから誰もが見て見ぬふりをした。
ただひしめき合う参加者たちの向こうから、穂刈が捨文王を優しくなだめている様子を穏やかな目で見つめている者がいた。伊達針之介だった。穂刈がその視線を感じて目を向けると、伊達針之介が嬉しそうな笑顔を見せて指でVサインを送ってよこした。
駐車場にまで会場を急遽広げて開店記念パーティーは無事終了した。ゲストのほとんど総てが穂刈の人柄をよく理解し高く評価して、それぞれがその都合に合わせて帰宅していった。穂刈は心の中で記念パーティーが成功だったことを確信した。
後片付けを済ませ恵子と陽介を自宅に帰らせてから穂刈は階下の歓談室に降り、ロッキングチェアーに腰掛けてビールを飲み始めた。ただ和気藹々と歓談していただけのつもりだったが気疲れしないわけがなかった。自分の企画で初めて開いた催しである。招待したのは皆これから先は客として来てもらわなくてはならない人たちばかりなのである。自分では気配りなど何もしてはいないつもりだったが、体のほうも頭のほうもくたくたに疲れていた。
ビールが進むにつれて穂刈末人を睡魔が襲い始めた。
「おーい、穂刈ぃー」
誰かが自分を呼んでいる声が聞こえた……ような気がした。
カターン……。
余韻の残る音を聞かせて暖炉の中でちろちろと炎を見せていた一本の薪が
燃え尽きて崩れた。
まどろみの淵から引き揚げられたように穂刈末人は我に返った。どうやら2時間ばかり座ったまま居眠りをしていたようだった。
穂刈は大きな欠伸をして立ち上がった。
「穂刈。俺だ」
再び声がした。
「ノビー・オーダ。久しぶりですね。どうしたんです?」
穂刈は当たり前のことのようにテレパシーを使って答えた。
「もうすっかり慣れたものだな。テレパシーでもOKになったというわけだ」
「まあ、あなたとの交信のほかにはあまり役には立たないですけれどね」
穂刈は軽口をきいた。
「だろうな。まあ、それはそれとして……」
ノビー・オーダの声が真剣なものに変わったことに穂刈は気付いた。
「実は俺たちの世界の上のほうで、今、許されん謀略が進んでいるらしいんだ」
ノビーは声を潜めるように行った。
「謀略?」
穂刈は思わず聞き返した。
ノビーは政治局で今まさに進んでいる両世界を巻き込んだ計画についてひとしきり語った。
「転生という行為を一元化すること自体、見方を変えれば世を治める方法としては確かに有効なのかもしれない。しかしそのために不良な霊魂を抹消することなど許されるはずがない。抹消されたものは二度と人生に復帰できなくなるのだからな」
「殺人と同じことだよな」
穂刈末人は素直に頷いた。
「イデオロギーの問題も大きい」
「どういうことです?」
「今、俺たちの世界では政治的な民主化運動がようやく盛んになってきているんだ。現在ヨミランドを取り仕切っているグループは、これまで政治参加の権利などなかった転生族にも門戸を開いた」
「結構なことじゃないですか」
「素振りだけさ。実質的には何も変わっちゃいない。向こうにとって都合のよい霊魂しか転生できないようになれば、実質何も変わらないのと同じことだろう」
「そうか。……そうですよね」
穂刈はノビーの言うことに納得した
「そこで穂刈。君にひとつ頼みがあるんだよ」
「私に? いったい何を?」
ノビー・オーダが説明したような政治的な、しかもほかの世界のトラブルに自分の力を発揮できる余地などどこにもありはしない。穂刈はそう思った。
「私にできることなどあります?」
「準備が出来次第、沼の水を抜く計画らしい。こっちの世界と同時に」
「で?」
「阻止してほしいんだ。天正沼から水を抜こうとするのを」
穂刈末人は驚いた。そんな映画みたいなことが自分にできるはずがない。
「ノビー。俺はただの一市民だよ。そんなことできるわけがないじゃないか。007じゃあるまいし」
「やり方は任せる。いいか。君はミスターⅩなんだ。君にはものすごく強い人脈があるじゃあないか」
ノビー・オーダは自分がアキュから言われたと同じ説得を穂刈に対して行った。
穂刈が頼まれればいやといえない性格だということをノビー・オーダはよく知っていた。
「俺の調べでは。来年度が計画準備の年で、次の年に実行と言う段取りらしい。ほぼ2年の猶予があるからよろしく頼む。たぶん決行が近付いて来れば大掛かりな工事になると思うから、動きはじめたことはわかると思う」
ノビーはそういって交信を終えた。
穂刈は大きなため息をひとつついた。
ノビーには大きな恩義があった。金銭的にも大きく儲けさせてくれたし、命の危機からも救い出だしてもらった。だからノビー・オーダの頼みとあれば断ることはできない穂刈末人だった。
穂刈は携帯を取り出して伊達針之介のナンバーをプッシュした。数回のコール音のあとで伊達が出た。
「どうした?ミスターⅩ」
穂刈が用件を話すと伊達針之介は驚きの声を上げた。
「あの沼の水は抜かれちゃ困るんだよ。あそこは捨文王の処刑場のひとつになっているから、水を抜かれるとそのとたんにグランパの手が後ろに回りかねない。人骨とかがワラワラと出てくるだろうからな」
「しかし阻止するなんてことが俺には無理だよ」
「もちろんそんなこと判っているさ。」
伊達針之介は一拍おいて「詳しい話を聞かせてくれ。明日サニーファームまでこられるかい? 朝9時ころ、迎えに行くから」
「判りました。待ってます」
了解して穂刈は携帯を切った。
3
2013年 北海道
トーマス・グリンフェルドの運転する車は、針葉樹の山肌に沿ってくねくねと続く舗装道路をひたすら走っていた。片側は針葉樹を貼り付けたような鬱蒼とした森林で、反対側は薄っぺらな金属製のガードレールが形ばかりの安全対策を主張している。ガードレールの向こうは深い谷なので、その主張はどこにも通らないだろう。
助手席にはウォルフガング・ユルゲンスがその巨体をまるでシートベルトで縛り上げられたようなマゾヒスティックな姿を晒している。
道路は幅員がそう狭いわけでもなく、舗装もしっかりしたものだった。天気もよく・最高のドライブ日和である。だからドライブは快適なはずだった。しかしグリンフェルドがハンドルを操作するたびにユルゲンスの巨体は右に左に弄ばれ、教授は苦しそうに顔をしかめた。
「すまんね。もうじき到着するから、我慢してくれ」
申し訳なさそうに言うグリンフェルドの言葉に、ユルゲンスは渋い顔をしながらもただ黙ってうなずくより術はなかった。
暫く走るとうっかりしていたら見過ごしそうな細い道路が右手に入り口を見せた。針葉樹林の管理のために作られた林道のようにも見える。
トーマス・グリンフェルドはハンドルを巧みに操ってその林道に車を滑り込ませた。車一台がかろうじて通ることが可能なくらいの道路幅で、両側から延びたブッシュが車のボディーをパシパシと打つ音が聞こえる。トーマス・グリンフェルドはかまわず車を森林の奥へと車を進めた。
100メートルほど進むと突然森が開けた場所に出た。そこは針葉樹林をおよそ直径にして10メートルほどの範囲で切り開き整地した広場だった。車の進行方向正面に巨大な岩肌を見せて立ちはだかっている。広場のちょうど中心でトーマス・グリンフェルドは一度車を止めた。
「ここは?」
ウォルフガング・ユルゲンスはシートベルトをはずし、車のドアを開けた。外に出ると森林の汚れのない空気がユルゲンスの体を満たした。
グリンフェルドも車から降りてきてユルゲンスの横に立った。
「ケルベロス・アジア支部の入り口ですよ」
グリンフェルドは岩肌を指でさし示した。
「まさか……」
車が往来する道路からそれほど奥に入ってきたわけでもない。ケルベロスは秘密の組織なのだからそのエントランスがこれほど無防備ではまずいのではないか。ユルゲンスはそう思って林道がこの広場に抜けた所を振り返った。ユルゲンスは息を呑んだ。林道はどこにもなかった。
「完璧でしょう。さっきまでの林道は車がここまで入ってくると、森の木が道路上にせり出してカモフラージュするようになっているのさ。まず気づかれることはない」
グリンフェルドは満足そうな表情を見せた。
「さあ、ユルゲンス先生。行きましょうか」
グリンフェルドはユルゲンスに再度車に乗り込むように指示すると、運転席に戻ってエンジンをかけた。ユルゲンスはしぶしぶ助手席に戻った。
トーマス・グリンフェルドがカーナビのディスプレーに表示されているO・Gと表示されたスイッチにタッチすると岩肌の下部がゆっくりと動き始めトンネル状のエントランスが姿を現した。
グリンフェルドは前照燈を点け、ゆっくりと、しかし躊躇することなく車を進めた。
トンネルはそれほど長く続いているわけではなかった。トンネルと言うより中はむしろ格納庫と例えたほうが適しているかも知れない。内部は大型の車両が5台ほど並べることができそうなスペースがあった。
グリンフェルドとユルゲンスを乗せた乗用車が中に納まると、外側に岩を貼り付けてカモフラージュした金属製のドアが背後で閉じる気配がした。
「ヘッドライトを消してください」と、車が止まっている空間にマイクロフォンを通したような女性の声が流れた。
グリンフェルドは前照燈のスイッチをOFFにした。塗りつぶしたような闇が室内に満ちた。ウォルフガング・ユルゲンス教授は宇宙空間に投げ出され、浮き漂っているような錯覚に陥った。やがて少し左側前方の漆黒の中に直径1メートルはありそうな②のナンバーが白い光文字となって浮かび上がった。
闇の中に車を誘導する女性の声が再び流れる。
「ナンバー②の前にラインに沿って進んでください」
ユルゲンスが少し伸び上がるようにして車の下方に目をやると、薄水色の光が車を誘導するラインとなって点滅している。
グリンフェルドは指示に従って慎重に車を進めた、やがて②を表示していた白色がオレンジ色に変わり「車を停止してください」とアナウンスが入った。
トーマス・グリンフェルドは車を止めた。
「サイドブレーキを引いてエンジンを停止し、車から降りずにそのままお待ちください」
グリンフェルドはそのとおりにした。
「降下します。ご注意ください」
放送が入った。
次の瞬間胃の腑を持ち上げられるような感覚があって、目の前に輝いていた②の文字が跳ね上がるように上方に消えていった。実際にはグリンフェルドとユルゲンスを乗せたままリフトが驚くべき速度で降下しているのだった。
「すごいな」
ユルゲンスは素直に感想を述べた。
「驚くのはこの先だよ」
グリンフェルドはにやりと笑った。
まるで落下するような速度で30秒ほど降下し続けたリフトはようやく速度を減じ始め、
やがてスポンジの上に軟着陸するような感触で停止した。
「よし、到着だ。ユルゲンス先生。ダッシュボードにサングラスが入っている。かけたほうがいい」
グリンフェルドはそういって自分はジャケットのうちポケットから個人のサングラスを出して装着した。
ユルゲンスがサングラスをつけるのを待ってグリンフェルドはエンジンをかけた。
車の前方をふさいでいたシャッターが巻き上げられるように上方に開いていった。
眩い光が一気に流れ込み、暗闇に慣れたユルゲンスはサングラスをかけていてもなお目を開けていられないほどだった。
グリンフェルドは車を進め始めた。ゆっくりと車を走らせ5分ほど行ったところに乗用車なら10台分ほどの駐車場があった。グリンフェルドは車を入れエンジンを停止させると車を降りた。助手席側に回り込んでドアを開け、「さあ、先生。降りて」とユルゲンスに声をかける。ユルゲンスは明るさに慣れたのかサングラスを外してダッシュボードに戻してから車を降りた。
そこは小高い丘の上に造られた小さな公園で、子供のための遊具などを置いたグランドの向こうに展望台があった。
グリンフェルドはユルゲンスを展望台へと案内した。
テラス状の展望台は丸木の柵が回されていた。柵に両手をつくようにして眺めると海辺の町が眼下に広がっている。展望台は5メートルの高さの場所にあって、その真下は住宅地のようだった。区画整理された区割りの中に10軒ばかりの新築住宅が並んでいる。隣の区割りは現在工事中のようだ。
住宅区割りの向こう側には片側2車線の広い舗装道路が左から右へと流れ、現在工事中の住宅区割りを過ぎたところで大きくこう縁側にカーブして、この高台の陰に隠れてしまう。道路の向こうには頑丈そうな堤防が海と陸を隔てていたが、道路と同じようにやがて高台の影に入ってしまう。
道路と堤防が隠れてしまう方向を見ると、ここと同じような展望スペースがあるのが見える。
グリンフェルドはそちらへとユルゲンスを誘導した。もうひとつの展望台から眺めた風景を見てユルゲンスは息を呑んだ。住宅地はおろか道路も堤防もそれどころか海までもがもはやそこにはなかったのである。
住宅地の続きも、道路や堤防もみなコンクリートのステージとして姿を変えてそこにあるだけだった。海はといえばステージの向こうに作られた巨大なプールに化けているのだった。
トーマス・グリンフェルドはウォルフガング・ユルゲンスの呆然と立ち尽くす姿を見て愉快そうに笑った。
「どうです? これがウィリアム・ネスミスが頭の中に描いていたジオフロントタウンの一部分なのですよ」
そのとき巨大プールの一部分が激しく泡立ちはじめたことにグリンフェルドは気付いた。
「おお。ちょうどよいタイミングでした。試験航海から戻ったようです」
グリンフェルドは泡立つ水面を指差してユルゲンスに示した。
やがてそれは姿をあらわにした。
ウォルフガング・ユルゲンスの設計による、ドリル状の掘削破壊装置を頭にとりつけた特殊潜航艇『GO-10号』(ゴーテン)の姿だった。
4
2011年 内閣調査室
迎えに来るというので身支度を整えて待っていると、住宅部分の玄関に人の気配がした。
「おはようございます。ご準備よろしければ」
時刻を見ると朝9時ちょうどだった。穂刈が玄関を出ると黒のベンツが玄関前に横付けされていて、幸円仁が運転席に座っている。見送りに出てきた妻の恵子に「行ってくるよ」と声をかけて車のほうに歩いていくと、待っていたように伊達針之介がその後部座席のドアを開けた。
「助手席でいいよ」
穂刈は前に回り助手席のドアを開けようとした。
しかし伊達針之介はそれを押しとどめた。
「だめ、だめ。助手席に座らせているところをグランパに見られたりしたら、それこそギッタギッタものだからな」
そういわれて穂刈が仕方なく後部座席に乗り込むのを見て、伊達針之介は安心したように穂刈の隣に乗り込んだ。幸円仁は見送っている恵子に、窓を開けて一礼してベンツを発車させた。
サニーファームまではおよそ2時間を要した。右に左に栗毛や黒鹿毛のサラブレッドたちが自由に遊ぶ美しい草原が現れては流れ去って行く。穂刈はただ黙ってその風景を見ているだけで心を癒されるのを感じていた。
以前にもこの道をサニーファームへと向かったことがあった。あのときも同じ顔ぶれだったことを穂刈は思い出した。しかし真夜中のドライブだったので窓の外は塗りつぶしたような暗黒が支配していた。それどころか穂刈は囚われの身で、向かっている場所に何が待ち構えているのかさえ判らない不安に取り巻かれていた。
「この三人だったなあ。あの時も……」
伊達針之介も同じ思い出が浮かんだのだろうか、ひと言呟くようにいった。
穂刈は頷いた。
「それが今はどうだ。皆、同じ目的のためにこうして走っている。不思議なものだな……」
「私にしてみればあまり思い出したくない思い出ですけれどね」
「グランパも後悔しているんだ。許してほしい」
「もうなんとも思っちゃいませんよ、私の考えが至らなかったせいもあるんだし」
そんな話をしているうちに車はサニーファームに到着した。
捨文王は執務室で穂刈を待ち受けていた。広い部屋の片隅にとった歓談スペースに穂刈末人、捨文王、伊達針之介そして幸円仁の4人は、普通の常識を持った大人ならばどう考えてもホラ話にしか聞こえない謎の情報について対策を練ろうとしていた。
「大体のことは伊達針之介から聞いた。それは本当の話なんだべか?」
「昨日、例のノビー・オーダから連絡があって、現在着々と計画が進みつつあると言うことなのです」
「ノビーは嘘などつきません。」
穂刈はノビー・オーダを庇うように言った。
「よし。お前がそういうなら信じることにするべ」
捨文王は伊達針之介と幸円仁に同意を求めるように視線を走らせた。
「私だって信じられなかったんですよノビーが接触してきたときは」
そこまで言って穂刈は言葉をとめた。
穂刈の眼差しが少し虚ろになっていることに捨文王は気がついた。
「どうした? 穂刈君」
捨文王の声で穂刈の瞳は正気を取り戻したが、次に穂刈の口をついて出たのはほかの3人の誰もが予想もしていなかった言葉だった。
「捨文王さん。たった今ノビー・オーダがアクセスしてきました。この会議に参加するためにVTSという装置を立ち上げているそうです。開始を2~3分待ってくださいと言っています」
「わしにはな~んにも聞こえなかったぞ」
捨文王たちは気持ちの悪いものでも見るように穂刈を見つめた。
「私は機械を使わなくてもテレパシーで通信できるんです。皆さんもどういうものなのかじきにわかります。ただしひとつだけ言っておきますが、うそや建て前の話は無駄と言うことを知っておいてください。心の会話ですから……」
「我われにはなんとも難しい会議になりそうですね。」
伊達針之介がそういって大きなため息をひとつついた。
間もなくノビー・オーダの声が聞こえてきた。
内閣調査室のメンバーとして鍛えられているためか、予め知らされていたためかは知らないが、始めてその声を聞く三人には穂刈が始めて体験したときのような動揺はなかった。しかしそろってが緊張しているのが穂刈にもよくわかった。
ノビーは昨夜穂刈末人に話したことを再度話した。
「なんとも不思議な話ですなぁ」
ノビー・オーダの説明がひとしきり終わったところで、幸円仁に取らせていた記録メモを見ながら、捨文王はノビーの言ったことをまとめた。
世界はこちら側の世界とヨミランドの二つの世界で成り立っている。
ヨミランドには創造主族と転生族という二つの民族がいて、政治に関しては創造主族が取り仕切ってきた。
転生族は人生を終えるとヨミランドからこちらの世界に転生し、またはこちら側からヨミランドに転生する。転生が行われるとき個人の持つ記憶は本来は総て抹消されるのだが、こちら側の生命期間のうちに吸収する情報量が加速度的に増え、その総てを消去しきれないままヨミランドに戻る転生者が激増した。その結果ヨミランドにも新しい息吹を吹き込もうとする”民主化運動”が立ち上がり日に日に盛んになっている。
ところが今まで世界を牛耳ってきた創造種族は、腹の中では転生族に政治解放などしたくはないと言う思いが強く、転生の管理を一元化して創造主族にとって危険と考えられる思想を持つ者の霊魂をすべて抹消しようとしている。
転生族でも政治的、社会的に問題のないものだけならば、政治に関わっているという意識を形だけ持たせておいて、その実これまでと何ら変わりない社会の運営ができることになる。創造主族はそこに着眼した。簡単に言えば、反体制的な思想を持つ霊魂の抹消である。
そのような非道な行為を創造主族にさせてはならない。それは殺人行為に等しいではないか。
今アジア・ブロックには4~5点の転生ポイントがあるという。それらが今でも生きているのか否かはよく判らないが、そこに溜まっている転生の水を涸れさせることなど許してはならないのだ。
その水を使って政治活動の民主化に対する妨害を阻止することができるかもしれないのである。
「間違いはありません」
ノビー・オーダの声が聞こえた。
「それで、水を抜くのを阻止せよと言う意味は?」
「かつては転生センターなどありませんでした。それをわざわざ造ってまで一元化を目論んでいると言うことは、やはり奴らにとって都合の悪い霊魂は抹消するつもりなんだと思います。昔から知られている転生スポットをそのまま放置しておけば、自由民主化を目指すグループがそれを利用することだって考えられます。抹殺されそうな霊魂を逃がすとか……」
「で、その大仕事を我われに?」
ノビー・オーダは捨文王の最期の質問に少し戸惑う気配を感じさせた。
「そこまでことが進めば後はもう実力行使しか手はないでしょう。創造主続は既に向こうに入り込んでケルベロスと言う組織を作り上げています。組織のトップはヨミランド政治局治安部長タカマ・ガハラのひとり息子、サニー・ガハラ。そしてその副官として行動しているのがアメリカのコンサルタントの社長を務めていたトーマス・グリンフェルドと言うやくざ者のようです」
ノビーがそういうのを聞いて、穂刈末人は腰を抜かさんばかりに驚いた。
「トムが!」
伊達針之介と幸円仁も穂刈の驚きようを見て思い出した。
「ああ、あの競馬場の男か」
伊達針之介がつぶやいた。
「判りました」捨文王は見えないノビー・オーダに向かってはっきりと言った。「対応してみましょう」
「ありがとう」
ノビーのVTSを用いた交信は終了し、内閣調査室に静寂が広がった。
第7章 戦いの準備
1
2011年 ヨミランド
民主化活動推進委員会
ヨミランド・アジアブロック民主化活動推進委員会委員長のオットー・タイスケンは、ミッチ・アキュが帰った後も暫く応接室の椅子に腰掛けたまま何を見るともなく部屋の中に視線を泳がせていた。ミッチ・アキュの言うとおりヨミランドの構成人種と言う観点から見れば、行政側の役人にしてもおよそその半数は転生族の人間なのだ。
警視局と聞いただけで自由化の敵役(かたきやく)という先入観念が頭を擡げて、正当な判断を横道にそらしてしまうのである。
確かにはるか昔の歴史が物語る時代を読み返すと明確に身分を隔てられ、その血が混じり合うことすら許されない世界だったという。それが長い年月をかけて今お互いに少しずつ慎重に歩み寄ろうとしているのだ。それが大方の解釈だった。
……
本当にそうなのだろうか……
オットー・タイスケンは時々疑問に感じて自らに問いかけることがあった。
ヨミランドの政治を転生族にも解放せよと言う政治の自由民主化運動はもう何十年も前から続いている。
委員会のアジアブロック委員長に押し上げられて5年である。
その5年と言う歳月が果たして長いのか短いのか、それは人それぞれの感じ方なのだろう。しかし運動の中身はと言えばずいぶん変貌を遂げた。
タイスケンがまだ若かった時代は民主化を叫ぶ闘士たちはみな『転生』と書いた黄色のヘルメットを目深にかぶり口から鼻をタオルで覆って、2メートルの長さがある角材を振り回したり、もっと過激な者たちは火炎瓶と呼ばれた手製の爆弾を官憲に向かって投げ込んだりしたものだった。
それがいつの間にか自由化運動に参加する人数は確実に増えているにもかかわらず、その行動自体はいたって穏やかなものに変化しているのである。法律が許す範囲でのデモ行進や、演説会のような否武力的な運動である。だから先ほどやってきたミッチ・アキュという刑事がいう法規を逸脱した行為とは、デモが届出をした方向以外に行き先を突然変えたとか、デモ隊の中で何らかの小競り合いがあったとか言う程度の些細な問題でしかないはずだった。
この民主化運動の変化は評価され、転生族にも参政権が与えられたことや国政会議が民衆院と伝統院の新二院制に変わったこと。もっと古いところではおよそ30年ばかり遡るが、試験による転生族から創造種族への編入が認められたことなど、そのたびに転生族の勝利だなどと騒がれたものだったのである。
しかしオットー・タイスケンはこれはおかしいと感じていた。そもそも超難関と噂される編入試験による転生族から創造種族への編入が認められるなどと言う制度自体、創造主族優位を言っているのと同じことではないか。
とにかく転生族の勝利だなどと騒いでいるにもかかわらず、それによって世の中が本質的に変わったことなどまったくないのだった。このような闘争の中に身をおいたタイスケンはいつの間にか矛先を向けている相手が創造主族なのかそれとも官憲なのかその認識が麻痺してしまったような複雑な思いに苛まれることが多くなっていた。
冷静に考えれば、転生族に本当の意味での政治参入のための門戸を開けさせること。それだけが目的なのだった。そのためにはミッチ・アキュが言ったように警視局職員もその半数は転生族だということを忘れてはならない。今更ながらオットー・タイスケンはアキュから言われたこの一点を改めて自分に言い聞かせた。
オットー・タイスケンは携帯を取り出すと、アキュが書き置いていった番号をプッシュした。
すぐミッチ・アキュの声が聞こえてきた。
「ミッチ・アキュです」
「オットー・タイスケンです。民主化活動推進委員会の。先ほどは申し訳ありませんでした」
タイスケンは素直にアキュに詫びた。
「ぜひ話を聞かせてください。それと、私が何をすればよいのか」
ミッチ・アキュの話に一つひとつ「はい、はい」と肯きながら、タイスケンはその要点をメモしていった。話が進むたびにタイスケンの表情に浮かんだ怒りの色は見る間に強いものになっていった。
「今のお話は本当のことなのですか?」
アキュの話が一通り終わると、タイスケンは、間をおかずに確認した。
「現時点の情報では真実らしいとしかいえない。ただ、情報の出所は信頼できるところだから十中八九真実だと考えてよさそうだ」
「許せません。そんな暴挙は」
「もちろんだ。だからこそ君のところまで押しかけた」
アキュがそういうのを聞いてタイスケンはなぜか自分が興奮していることを自覚した。
「今はまだ具体的には何もわかっていないから、君の役割もまだわからん。ただ私は既に戦いは始まっていると考えている。また連絡する。携帯は常に入れておいてくれ」
「わかりました」
タイスケンが話を終えようとすると、アキュは思いついたように
「そうそう。タイスケン君。君は今俺との話をメモをとりながら確認していたようだね。そのメモはすぐ君の頭の中に移し変えて、メモ自体は焼却してくれ。もし君の事務所に官憲の調査が入ったりしたとき、たった一枚のメモが俺たち総ての命取りになることだってある。それから今日の話は極秘と言うことにする。素振りにも出さないように。これから先この件に関する総ての事柄について極秘と言うことだ」
ミッチ・アキュはそう指示して携帯を切った。
最近では機動隊との衝突もほとんどなくなって、デモ行進の先導ばかりが仕事となっていた。まるで幼稚園の遠足に幼児たちを引率する先生のようなのんびりした仕事が続いているオットー・タイスケンにとって、ミッチ・アキュがもたらしたその仕事の話はタイスケンを心底から興奮させ、タイスケンも胸の中に燃え滾る自分の興奮を抑える術(すべ)がなかった。
タイスケンは立ち上がると応接室から出た。
自分のデスクに向かいながらタイスケンは「何か連絡は?」と確認してみた。
「とくにこれと言った連絡はありません」
デスクに一番近い男性職員がタイスケンのほうを見ることもなく答えた。
「そうか」
タイスケンは自分のデスクにつくと灰皿を引き寄せ、件(くだん)のメモを灰皿に入れてライターで火をつけた。炎が一瞬ふわりと広がり小さなメモ用紙は焼失した。
西に傾きかけた夕日が窓から差し込んでオットー・タイスケンの顔をオレンジ色に染めていた。
2
2013年12月
ジオシティー・ケルベロス
乗組員が総て乗艦すると桟橋と艦に渡されていたブリッジが跳ね橋のように外された。人工の海に浮かべた特殊潜航艇GO-10(ゴーテン)は、その甲板にサニー・ガハラを艦首側にしてその左に10名の上級乗組員を整列させたまま距離を広げ、埠頭に平行に5メートルの距離をとったところで停止した。一列に並んだ11名の幹部たちはサニー・ガハラの隣に立つウォルフガング・ユルゲンス以外はトーマス・グリンフェルドも含めて全員がブルーの制服に身を包んでいる。Go-10号の出発を見届けようと、埠頭は数百名の群集でごった返している。
埠頭はユルゲンスとグリンフェルドが3ヶ月ばかり前に見たときにはまだ未完成だったコンクリートのステージ上に桟橋施設とともに完璧に出来上がり、さらにその向こう側にもジオシティー・ケルベロスは完成した姿を見せている。
埠頭に詰め掛けた群衆はこのジオシティーの建設工事に携わった工事関係者たちでこの日まで1年間をジオシティーに泊り込みで工事を進め完成に導いた者たちだった。
ジオシティーの設計はもちろんグリンフェルドがアメリカからつれてきたウィリアム・ネスミスが持っていたもので、ネスミス自身が現場監督を兼ねた。
建設工事は三交代で昼夜を通して行われ、500メートル四方の地下都市が北海道の某所、大深度地下に完成したのである。
サニー・ガハラはGO-10号の甲板に埠頭の群衆のほうを向いて整列した上級乗組員たちと同様、海から眺めるジオシティーに満足していた。500メートル四方の限られた空間とはいえ、見かけは遠近法や三次元視覚効果などを随所に盛り込んでいるので地上の町の景観と変わらない。ウィリアム・ネスミスが群衆の中にいるのか住宅地区の詰め所にいるのか船から確認するのは無理だが、サニーは学者の頭の構造はすごいものだと改めて思った。
進行係を務めるグリンフェルドが若い乗組員に命じてマイクロフォンを幹部が整列している甲板上のほぼ中央に置かせた。その周囲を少し空けさせ、グリンフェルドが目配せをするとサニー・ガハラは頷いてマイクの前に進み出た。
見送りに出ている群衆が静まった。
その様子を見て。サニー・ガハラは大きく肯いてスピーチを始めた。
「ジオシティー・ケルベロスの建設に携わっていただいた方々。私、サニー・ガハラは今人口が過多となりつつある全世界を代表して深く感謝するものである。聞くところによると、皆、一年の建設期間を通し家に帰ることもなくこの完成を急いでくれたとのこと。心から礼を言う。今日私はこの船の最終試験航海に出発しなければならない。残念だが皆と同席はできないが、竣工の祝いとして酒も食い物も余るほど用意させてもらった。今夜は思い出話でもしながら心行くまで楽しんでくれ。そして明日になったら笑顔でご家族の元に戻ってくれたまえ。ありがとう、諸君」
サニー・ガハラが挨拶し終わると、群集から拍手と歓声が湧き上がる。
GO-10号の甲高い汽笛がひとつ鳴り響いた。幹部乗組員たちが見送りの群衆に向かって一斉に敬礼をした。
もう一度汽笛が鳴ると甲板上の3箇所のハッチが開かれ、整列していた乗組員たちは近くのハッチから艦の中に姿を消した。
三度目の汽笛とともに特殊潜航艇GO-10号の先端に取り付けたられた円錐形のドリル状掘削破壊装置がゆっくりと回転を始めた。
GO-10号操舵室
特殊潜航艇の艦長に任命されたトーマス・グリンフェルドはドリル状掘削破壊装置(Digging & Destruction Drill:略して3D)が順調に動き出したのをモニター画面で確認し満足そうな笑みを見せた。
「微速前進」
グリンフェルドが指示すると操舵係員が「微速前進」と復唱確認する。
停泊していた埠頭から100メートルほど離れたところでグリンフェルドは操舵長を呼び寄せて目的地を指示し、復唱させた。
「いや、よくやってくれた。トム」
操舵室から出たサニー・ガハラは上機嫌だった。
「まだこれからしなければならないことがあるよ。サニー、ちょっと俺の部屋に寄らないか。美味いコーヒーを淹れよう」
サニー・ガハラはグリンフェルドの口調になんとなく不自然なものがあることを感じ取った。サニーは黙ってグリンフェルドの後に従った。
艦長室と表示された分厚い金属製のドアに組み込まれたパネルに暗証番号を入力すると、ドアは横滑りに開いた。
「さあ、どうぞ」とサニーを先に部屋に入れ後に続いて中に入ると、グリンフェルドの背後でドアの閉まる音が聞こえた。
新車のにおいがする出来上がったばかりの艦長室はさすがに広いとは言いがたかったけれども、限られたスペースを有効に使って少しでも快適に時間をすごせるように配慮されている。8畳間ほどの広さの部屋で、左の壁面に押し付ける格好でソファとテーブルその向こう側コーナーにキャビネットと小さな冷蔵庫が置かれている。部屋の右側には執務用デスクが置かれ壁面にはモニターテレビが埋め込まれている。モニターにはジオシティでの竣工祝いのパーティーの様子が映しだされている。洋服や下着などは正面の壁に組み込まれたクローゼットに収納されていた。キッチンや水道の設備は防火や衛生管理のため部屋にはなかった。だから部屋置きのコーヒーメーカーでコーヒーを淹れるときには冷蔵庫に入ったペットボトルの水を使うしかなかった。
トーマス・グリンフェルドが淹れたコーヒーをサニー・ガハラは美味そうに飲んだ。
「何か気がかりでもあるのか?」
サニーはソファーに座ったままグリンフェルドの様子を窺った。
収納からパイプ椅子を持ってきてサニーの正面に腰掛けたグリンフェルドは少し辛そうに顔をしかめた。
「まだまだですね、確かに出来栄えを見る限りジオシティーは完成しています。しかしセールスポイントが薄弱すぎる。世界がジオフロント構想の基盤としている物流関係の大深度地下への移行と比べると、いかにも分が悪い。やはり人間は日のあたるところに集まるものです」
「そんなことは判っている。以前にも言ったと思うが、ケルベロスの目的は世界を我が手に握ることだ。そのためには全世界の人間を洗脳し新世界としての教育をしなければならない。こっちの世界でいう自由とか権利とか言う概念を捨てきれない輩の霊魂は永久に抹消しなければならない。」
サニー・ガハラの説明を聞いてグリンフェルドは大きく肯いた。
「やはりそうか」
「気がついていたと?」
「うすうすはね。サニー、あなたは向こうの世界の人間ですね。ポカリ・スエットが言っていた向こう側の世界が本当にあるということがやっと分かった」
「ポカリ・スエット? 誰だ、その男は」
「私の友人さ」
グリンフェルドはきっぱりと言った。
「どこまで知っているんだ?」
サニー・ガハラはグリンフェルドに詰め寄った。
「ついさっき、自分から話したじゃないか。都合の悪い考えをする者は天国には行かせない……」
グリンフェルドは目を閉じて十字を切った。
「それが分かった以上、協力もここまでだ。俺は天国に行きたいからね……」
サニー・ガハラは少し悲しげに顔をしかめて制服の内側につるしたホルスターから拳銃を出してトーマス・グリンフェルドに向けた。
「もう少し付き合っていたいと思っていたが、残念だよ、トム。どちらにしてもお前が作ってくれたジオシティーはケルベロスのアジトとして有り難く使わせてもらうよ」
サニーはそういって、ポケットからサイレンサーを取り出し、グリンフェルドの目の前で銃に取り付けた。
「無理だね、それは。ジオシティと言うものに興味があったから完成させたが、一通り見せてもらったからもう必要ない。メイン鉄骨のボルトを2ランクほど下げ、その近辺に爆薬を仕掛けさせてもらった。もうそろそろタイムアップだろう」
トーマス・グリンフェルドがそういってニヒルな薄笑いを浮かべたとき、執務用デスクの上方の壁に埋め込まれたモニターの映像がフッと消えた。
「パーティー は終わったようだな」
トリガーにかけたサニー・ガハラの指に力が入った。
3
2013年 秋
ミスターXの喫茶店 談話室
「グリンフェルドに動きはないのか? 穂刈」
伊達針之介は少し苛立っていた。それが穂刈とはまったく関わりのないことなのはもちろん知っていたが、本部に顔を出すたびに捨文王から呼ばる日が続いている。
「あの件はどうなってるべ?まだなんも動いてねえってか 本当か、このぉ」と怒鳴り飛ばされるのだ。
捨文王にしても伊達針之介を怒鳴りつけたからと言ってどうなることでもないのは承知していた。どっしりと構えていれば良いのだけれどそうもいかない。ノビー・オーダとか言う得体の知れない声だけの存在に協力を約束した以上、失敗は絶対に許されないのである。
面子の問題もあった。内閣調査室という総理大臣直轄機関の長である捨文王が、軽はずみにも独断で引き受けた仕事である。事後承諾を総理大臣から取りはしたが失敗することは恋占淳一郎の信頼を裏切ることになりはしないか。総てがプライドの問題になりそうだった。
「したってな、もう2013年度も半分以上が終わったべや。天正沼の水ば抜くって言ったらよ、そろそろ準備にかからなかったらならないんでないかい。千歳川放水路とかいう銭のかかる工事がそれかと思ってたけど、あれ結局中止になったんだべ。どうする気ぃなんだべか?グリンヘルドは」
「……」
そういわれてもなんと返事をしてよいやら分からず、数分間の小言を右から左へ受け流しているより手はないのだった。
「グリンフェルドは最近もここに顔を出してるのか?」
談話室のソファに腰掛けたまま、伊達針之介は空になったコーヒーカップを持ってバーカウンターに入った穂刈にコーヒーのおかわりを頼んだ。
ポットに入れたブレンドコーヒーを持った穂刈末人は、自分のカップも持って伊達針之介の正面に腰を下ろした。それぞれのカップにコーヒーを注ぐと穂刈はポットをテーブルの上に置いた。
「今でも何食わぬ顔できているよ。忙しいのか少し回数が減ったけれどね」
「素振りも見せないのか? 無用の霊魂を抹殺しようとしていることを……」
伊達針之介は少し声を潜めた。平日の午後2時である。ミスターXの喫茶店に他の客は一人もいなかった。
「そんな悪辣な計画が進んでいるなんて様子はどこにも見えないんだ。むしろそんな計画は知らないんじゃないかと思われるほどにね」
「お前の知り合いのノビー・オーダが間違えたと?」
「グリンフェルドとの付き合いも長いけれど、人を殺めるなんてことができる男とも思えないんだ、俺には……」
穂刈がメトロコンサルタント㈱で営業課長だった時代、トーマス・グリンフェルドも同じ業界のウッディ・ストーン㈱日本支社という外資系の会社に勤めていた。ふたりとも競馬好きでライバル会社の職員ではあったが、親しい付き合いをしていた。穂刈の知っているグリンフェルドは少し粗野で乱暴なところは確かにあった。しかしそれは気風がよいという方が的を射ているように穂刈末人には感じられる。
ノビー・オーダから政治局の謀略について情報が入ってから概ね1年。穂刈はそれ以来幾度となく店に顔を出しているトーマス・グリンフェルドにどこか変化がないか、十分に注意して観察してきたつもりだった。変わったところはどこにも見られなかった。しかしあれほどの謀略を腹の中に抱えながら、まったく噯(おくび)にも出さずにいることなどできるものだろうか。
「何かの間違いなのかも知れんな」
ブレンドコーヒーを飲み干して、伊達はポットから3杯目を注いだ。
「一度トーマス・グリンフェルドに会ってみよう」
「そのほうが手っ取り早いかもしれないね」
「そう思うだろ」
伊達針之介は穂刈が同意したので少し強気になった。
もしグリンフェルドの言うことがノビーの言うことと異なるなら、グリンフェルドが伊達や穂刈を騙そうとしているか、またはグリンフェルドがサニー・ガハラに騙されているか、
そのどちらかと言うことになる。もしノビーがいったこととイコールなら伊達の仕事に血なまぐさいことがひとつ増えることになる。どちらにしても決着はつきそうだ。
伊達針之介と穂刈末人は顔を見合わせて頷きあった。
「それじゃ少しそうやって揺さぶってみよう。穂刈。今度やつが店に来たとき、すぐ携帯に連絡をくれ」
「分かった。それじゃ以前のようにジャーナルBETの取材ということにしようか」
「おう。そりゃ良いかも知れないな。」伊達は穂刈のアイディアを一応尊重するように持ち上げてから「向こうが覚えているかどうかは知らんが会うのは二度目だ。忘れていたとしても思い出すだろうからな。二度目ということは話もしやすいだろう。取材って言うのもなんだか芸がないなあ。取材用の話なんかも準備しなくちゃならないし。まあ、セッティングは後で考えることにしよう」
伊達針之介は愉快そうに笑った。
その機会は意外に早くおよそ一週間後に訪れた。
秋晴れと言う言葉がぴったりと当てはまる、雲ひとつない天気に恵まれた日であった。珍しく地元の家族連れが二組と、観光客らしいカップルが三組ランチを楽しんでいた。
一通り配膳を終えた穂刈が、一服しようと思って談話室への階段を降りかけたとき、カウベルを激しく鳴らしてドアが大きく開いた。
「は~い。ポカリ・スエット。暫くだったな~」
トーマス・グリンフェルドが大声を張り上げながら、その巨体を現したのである。
その夜、穂刈はグリンフェルドを誘って札幌随一の繁華街“すすきの”に出た。
行きつけの店に予約を入れてから、穂刈末人は伊達針之介に連絡をとった。ふらりと現れた伊達が、その店で飲んでいた穂刈とグリンフェルドに偶然出くわすと言うイージーなシナリオにした。
クラブ花蓮はすすきののちょうど中央。ユキビルと言う大型雑居ビルの8階にあった。5~6名のボックス席がいくつかと10名ほどが並ぶことのできるカウンター席のある、ありきたりのスナックとでも言うほうが通りのよい店である。
「あらまあ。穂刈さん。お久しぶり」
穂刈がドアを開けて顔を出すと、40がらみの和服姿のママが目ざとく見つけてお愛想を言う。細面にきりっとした目鼻立ちのなかなかの美人である。
「しばらくでした。今日は珍しいお客を連れてきたよ」と、穂刈はママに言ってからトーマス・グリンフェルドを招き入れた。
「あら、外人さん。ようこそいらっしゃいました。さ、こちらへ」
ママに案内されてボックス席に落ち着くと20才代後半くらいに見える女の子が「お邪魔しま~す」といって穂刈とグリンフェルドの間に体を割り込ませた。
キープしていたウイスキーを傾けながらママや女の子を交えて談笑していると、15分ばかり過ぎたころ店のドアが開いた。伊達針之介は気がつかぬふりをしてカウンター席に向かう。
穂刈は、伊達針之介が穂刈のほうできっかけを作ってくれといっているように感じた。
「アレ、伊達さん。伊達さんじゃあないですか」
伊達針之介は驚いた様子を装って振り返えり、嬉しそうにボックス席に近付いた。
「ああ、穂刈さん。それにグリンフェルドさん。その節はどうもお世話になりました」
「おお。ダーティ・ハリー……」
「だて、ダーティじゃなく、だて。しんのすけ。ハリーのすけじゃなく、しんのすけ!」
「ソリー。日本語むずかしいでよ。な、ポカリ・スエット」
呑み進むに連れ三人を隔てていた薄っぺらな壁は完全に消え去った。穂刈、伊達、グリンフェルドの三人は、旧知の友人同士のように打ち解けて語りそして笑いあった。
それでも穂刈と伊達は何とか今夜の目的を忘れずに、タイミングを見計らって切り出した。
「トム。俺は転機だと考えてメトロコンサルを辞めちまったんだが、そっちの景気はどうだい?」
「まだ言っていなかったか。俺も今は完全に身を引いたんだ。現在はケルベロス財団と言う組織にいる」
「ケルベロス?」
「ああ、そうさ。人口過剰に対応する手段として、ジオフロントと言う構想が持ち上がっていることを知っているかい?」
「大深度地下活用…とかいう研究のことだね」
思いがけず伊達針之介が言った。
「そうそう。よく知っているね」一瞬グリンフェルドは驚いたが、伊達が何も言わないので「一般的には物流関係を地下に追いやって、地上の空間を広げようという動きなんだが、我々が考えているのはジオシティー構想なんだよ」
聴きなれない言葉が飛び出し穂刈と伊達は押し黙った。
「大深度地下都市建設のことだ」
トーマス・グリンフェルドは得意気に言ってウィスキーのグラスを空けた。
「さっき言っていたケルベロス財団と言う組織だが、代表を務めるのがもしかしたらサニー・ガハラと言う男じゃないのか?」
今度はグリンフェルドが驚く番だった。
穂刈末人と伊達針之介は思わず顔を見合わせた……
4
2013年2月
ヨミランド 政治局
政治局庁舎は中央官庁街に建ち並ぶ高層ビルの中でもひときわ目を引く,巨大でかつ近代的な姿を誇っていた。竣工して6年ほどになるがメンテナンスが行き届いているのでまだまだ新築のように輝いている。この官庁街の中央にそそり立つ巨大な庁舎ビルには竣工したとき若干の問題が生じた経緯がある。
竣工後その建築費の内訳が公表されるとまず取り沙汰されたのは、税金の無駄遣い以外の何物でもないという世の非難だった。
出来上がったときの形状にも問題があった。
正門を入ると池や花壇を配した広い芝生の庭園が来庁者を迎える。職員や来庁者の気持ちを癒すためと言う構想から取り入れられたものだった。超高層ビルの正面に配置されたその芝生庭園は、あたかも政治局と一体であることを強調するように敷地全体を厚いフェンスで覆い隠されていた。つまり外からは何も見えない構造だったのである。
局の言い分は治安と防犯だった。しかし局側の返答に転生族議員たちがああそれならと納得するはずもなかった。
論議に論議を重ねた挙句、創造主族が譲歩する形で問題は解決した。周囲のフェンスを取り除いて背の低い柵のような囲いをめぐらせるだけにすることで合意に達したのである。
これはヨミランドの歴史に書き残すべき転生族の快挙と持て囃された。
創造主族の中にもこの合意に対して反対する声は確かに多かった。民主化運動が勢いを増すことになりはしないかと言う危惧からだったが、その意見を抑え込んだのも同じ創造主族の治安部長タカマ・ガハラだった。
「何か問題が出たときには自分が全責任をとる」と、治安部長は自信たっぷりに明言した。
この発言によってタカマ・ガハラは創造主族内でのリーダーシップを確固たるものにし、また転生族からも立場を超えた柔軟性を持った人物という高評価を獲得することにまんまと成功したのである。そして転生族の自由民主化活動はタカマ・ガハラの自信を裏付けるように、沈静化を見せ始めたのだった。
種明かしをすればタカマ・ガハラはフェンスを設置することでトラブルが起こることを十分に承知していた。というよりも国政の場で転生族から反対の声を上げさせようと仕組んだと言うほうが当たっている。そして議会を経てその設置を諦め、合意という形で創造主族が一歩引くと言うシナリオを書いていた。すべてが計算ずくの行動だったのである。
結果として民主化運動が勢い付き激しさを増すならタカマ・ガハラの負け。政府が民主化運動を本当に受け入れていると解釈して、より理性的な運動にトーンダウンするようになれば、タカマ・ガハラの勝ち。情勢を把握しようと治安部長は賭けに出たのだった。
タカマ・ガハラは思惑通りの世間の反応に満足し、庁舎ビルの完成から一年を経てアジアブロックの政治形態を転生院・創造院の旧二院制から民衆院・伝統院の新二院制へと改革した。創造主族も同じように自由な世の中を望んでいるのだというポーズを示す最後の布石であった。
このケルベロス作戦がもし失敗したならば、自分は責任を取って引退しても構わない。タカマ・ガハラはそう思っていた。自分はヨミランドを守るためにできることはすべて行った。今、息子サニーの描くシナリオとはいえ、最後の戦いが迫っているのだ。何があっても結果を背負い込む覚悟は必要なのだ。
あと1と月もたてば2013年度に入る。決行は2013年度になるとサニーは話していた。日程はまだ定かではない。いったいいつのことになるのか? タカマ・ガハラにはまだまだ歯軋りするようにじれったい日々が続きそうだった。
タカマ・ガハラの心の中では戦いの準備は既に整っていた。もちろんその戦いは世界をもう一度創造主族の世に戻すための謀略である。転生する霊魂は常に政治の判断によって選別され、淘汰されなければならない。そのためにはアジアブロックの中にいくつもの転生ポイントがあっては不都合である。それらの地点が現在でも使用可能か否かは別問題としても管理が複雑になることには違いないのである。転生管理を一元化するために造ったのが中央転生センターなのである。これはおり良く転生族議員から要望が出されていた転生博物館の建設を決定し、それに便乗して造ったものだった。だからその施設そのものが転生族の実績に加えられることになり、反対意見も出ることがなかったのである。
ここまで根回しをしたからにはこのケルベロス作戦だけは何としても成功させたい。
タカマ・ガハラは進捗状況を知りたいと思い久々にサニー・ガハラとテレパシーによる交信を試みた。最近は年齢のせいなのか交信能力が弱まって、疲れている時などは思うように交信するのが難しいことさえ出始めた。そんなときは苦笑して諦めるか、もしくは完成したVTS通信室まで出向くかの二者択一を強いられた。
この日はしかし条件が良いらしく、サニーとの交信は明瞭だった。
「はい。ケルベロス・ブラッディ…いえ、サニー・ガハラです」息子の声が聞こえた。
はじめに向こうでの通称が口をついたのは、そこでの暮らしが板についている証なのだろう。
「元気か? どうだそっちは」
「ああ。親父か。すべて順調です。ご心配なく」
「そうか、それならいいんだ。で、決行はいつになりそうだ?」
「まだ未定です。たぶん年度一杯くらい準備にかかりそうなので、決行は年度末。来年2月から3月になるでしょうね」
「そうか。やむをえないな」
今はまだこれといって打ち合わせることもなかった。
タカマ・ガハラが知りたかったことは決行の日時が決まったか否か、それ以外はなかった。だからそれ以降の会話は他愛もない世間話になった。それはどこにでもいる父子がお互いに相手を気遣う優しさに溢れる言葉となってそれぞれが存在する異空間を飛び交った。
第8章 ジオフロント・アフェアー
1
2013年12月
ジオシティ・ケルベロス
一度ジオシティと言うものを見てみたいと申し出ると、グリンフェルドは意外にも二つ返事で了解し自ら案内役を買って出たのである。
大きく開いた岩戸の向こう側に現れた洞窟へと車を慎重に進めながら「あれからもうずいぶん日が流れた」と切り出した。
「お主やポカリ・スエットの言うことが本当ならば、もちろんそれは許される話ではない。だが今のところ俺にはまだ君たちが言う話をそのまま信じることができない」
「俺たちが嘘をついていると?」
伊達針之介は少し気色ばんだ。
『ナンバー①の前にラインに沿って進んでください』
アナウンスに従って斜め前方の暗闇に浮かび上がった大きな番号へとグリンフェルドは車を進めた。
「止むをえんだろう。客観的に見てお主が俺の立場ならどう考える? ケルベロスはただジオシティを作ろうとしているだけ。対してお主やポカリが言っていることはどうだ。この世がどうのあの世がどうの。そんな聞いたこともない信じがたい話しだろう」
確かにグリンフェルドの言うことは理にかなっていた。もし穂刈との、いやミスターⅩとの関わりがなかったとしたら、伊達針之介もきっとトーマス・グリンフェルドと完全に同じ考えで行動したことだろう。
「ならば俺とお前はやはり敵同士ということになる。それなのになぜこんなところまで俺を案内してくれる?」
伊達針之介は少し寂しそうな声でグリンフェルドを見た。
「お主は俺と同じ匂いがプンプンするよ、針之介。いやハリーと呼ばせてもらおう。お主の左肩がいつもほんの少しだけ下がって見えるのは、よほど大きな武器(どうぐ)を使っているためと見たが」
『降下します。ご注意ください』
眩い①が一瞬のうちに上方へ飛び去った
「M180」
伊達針之介はぶっきらぼうに言うと作業着のジッパーを外して左の胸に吊るしたホルスターからAMP180を取り出してグリンフェルドに見せた。
「44マグナムか。ハリーの体格なら大丈夫なんだな」
グリンフェルドは心配そうに小首をかしげた。
「おまえは?」
「ダッシュボードに入っている」
伊達針之介は言われるままにダッシュボードを開けてみた。
「ワルサーPPK。いい銃だ」
「サイレンサーの装着が楽だ」
そういってグリンフェルドは嬉しそうに声を出して笑った。
「この業界に長くいると信じて良いやつとそうではないやつがすぐ分かるようになる。勘が働くんだ」
トーマス・グリンフェルドがそういって伊達を見たときリフトが停止した。
『管制階です』
アナウンスが流れた。
二人はそれぞれの銃を身につけ直して車の中で待機した。
「人柄だけを比べさせてもらえば、サニー・ガハラよりお主のほうが信頼できる。もしお主の腹の中に何かあるならば、あんなホラ話で俺を欺こうとは思わんはずだからな。俺はお主と同稼業だと言ったが、フリーの身だ。だから物事を判断するときにあらゆる方向から考える癖がついている。下手をすればひとつの判断が命取りになることもある」
「何が言いたい?」
グリンフェルドはにやりと笑った。
「お主の言うヨタ話が意外にも真実だったとき、そのほかの事柄がどういう見え方をするかってことさ」
「………」
伊達針之介はグリンフェルドが何を言おうとしているのか判断しかねて黙ってその顔を見た。
「サニー・ガハラはジオシティーを人口過剰になりつつある世界への切り札として位置づけるというんだ。しかし諸国のジオフロント構想では大深度地下開発と言うと備蓄や物流の部分をそこに配置する計画のことで、都市を建設することじゃない。サニー・ガハラはここケルベロスをサンプルケースとして認めさせていくと言うんだが、それにしちゃあ安っぽいんだよ。あとでお主にも見せるがね」
突然目の前の闇が左右に分かれるように割れ、その向こうから眩い光が流れ込んだ。二人はそろってサングラスをつけた。
目が慣れてくるとそこが広い駐車場の入り口であることに伊達針之介は気がついた。グリンフェルドは慣れたハンドルさばきで車を乗り入れる。
「俺はサニーが俺に何か隠しているような気がしてきた。サニーの計画がうまくいくわけがないんだ。そこに出てきたのがお主なんだよ。ここでお主のヨタ話を真実と受け止めればすべてがうまく符合するんだ。だから俺がここにお主を連れてきたのは試しにお主を信じてみようということなのさ」
トーマス・グリンフェルドは話し終えると車のエンジンを切って外に出た。
グリンフェルドが先にたってよく磨きこまれた廊下を進み、やがて管制室と表示があるドアの前に出た。グリンフェルドが認識証をチエックボックスにかざすとドアが静かに開いた。室内に入るとモニター画面を見ながら仕事に当たっていた7~8名のケルベロス職員がグリンフェルドに向かって一斉に敬礼した。グリンフェルドは敬礼を返し「ご苦労」とねぎらいの言葉をかけた。
「総督のご予定は?」
グリンフェルドが尋ねると副官らしき男が一歩前に出て「予定通り、明日正午ユルゲンス教授とともに到着。14時丁度にGO-10号艦長任命式。15時丁度よりジオシティ・ケルベロス竣工記念パーティー。16時丁度パーティー途中になりますがGO-10の最終テスト航海に出発。予定は以上です」と、直立不動の姿勢を保って報告をした。
「了解。では私はこれからこちらの伊達ハリーさんにケルベロスの町を少し案内してから外に出る。今夜は戻らない。もちろん明日総督が見える前に戻るのでよろしく頼む」
グリンフェルドは副官に指示を与えてから伊達針之介のほうに向き直って「さ、それではご案内します」針之介を促した。
駐車場から再度車に乗りリフトを使ってジオシティ・ケルベロスへ向かう。
500メートル四方、面積単位を使えば25ヘクタールの人工都市ケルベロスは一応の完成を見せていた。しかしトーマス・グリンフェルドが言うように、住宅、道路、公園などどのひとつをとっても安普請の(やすぶしん)の観があった。世界的に同じ方を向いている大深度地下開発に対抗するにはいかにも物足りないサンプルと言えた。それに建設予算の面でも物流関係に目的を絞るならばデザイン等にはそれほど気を使わずに済むが、居住空間と位置づけるならば莫大な建設費が必要とされるはずだ。
サニー・ガハラはいったい何を考えているのだろう
伊達針之介はふとそう思った。
2
2013年12月
ヨミランド ノビーズコテージ
民主化活動推進委員会委員長のオットー・タイスケンは、目立った動きもない毎日の繰り返しにいささかうんざりしていた。仕事といえば相変わらず合法デモの誘導と監視ばかりで、フラストレーションがたまるばかりだった。
ミッチ・アキュの情報ではケルベロスによる創造主族の謀略は2013年度、つまり2013年4月1日から2014年3月31日に計画されているらしい。それなのに何の動きも見せないのはいったいなぜなのだろうか。2013年度もあと3ヶ月しか残されていないのである。まさか警視局のミッチ・アキュがガセねたを流したわけでもないだろう。
タイスケンがふとそんな風に思ったとき、机上に置いたタイスケンの携帯が鳴った。
ミッチ・アキュからの着信だった。
「はい。オットー・タイスケンです」
「ああ、タイスケン。アキュだ。どうだろう。すぐノビーズコテージまでこられんか?」
ミッチ・アキュの声は珍しく緊張感を漂わせていた。
「伺います。何かあったのですね? 動きが」
「こっちに来てから話す。大至急来てほしい」
ミッチ・アキュの声は少し興奮していた。
車を飛ばして駆けつけるとコテージには既にノビー・オーダ、ミッチ・アキュそしてセッシュ・ナオカの三人が顔をそろえタイスケンを待ち構えていた。皆それぞれに緊張した表情を浮かべている。
オットー・タイスケンは集まった顔ぶれと一通り握手を交わしソファに腰を下ろした。
「何か動きが?」
タイスケンは誰にともなく尋ねた。
ノビー・オーダがタイスケンの質問を受け取った。
「動きと言うより、トラブルなんだ」
「トラブル?」
「向こう側でサニー・ガハラの右腕と目されるトーマス・グリンフェルドを調べていた諜報員が行方知れずになっているらしい」
「ノビー。経緯(いきさつ)をもう一度まとめてみよう。申し訳ないがミスターXからの交信をもう一度ここで説明してくれないか」
ミッチ・アキュがノビー・オーダに頼んだ。
ノビー・オーダは頷いてゆっくりとした口調で話し始めた。
「日本という国が向こう側の世界にある。僕はその国に住む穂刈末人という名の男と友人関係にあるんだ。アキュが今ミスターXといったのは穂刈末人の俗称だ。穂刈が住むその国は、危機管理に対応するために内閣調査室という組織を置いている。今回の創造主族の謀略を阻止するために2011年、僕は穂刈を介してその組織に協力を頼み込んだ」
「丁度俺がタイスケンに協力の申し入れをしたころだ」
アキュが簡単に補足して、ノビーに先を続けるよう促した。
「内閣調査室は伊達針之介という諜報員に調査を命じ、伊達は瞬く間にトーマス・グリンフェルドの存在に辿り付いた」
「腕利きの男なんだな」
オットー・タイスケンは素直な感想を挟んだ。
「そして穂刈末人から3日ほど前に連絡が入った。伊達針之介がケルベロスとか言う謀略組織のアジトをつきとめ、潜入したという知らせだ。しかし穂刈が言うには伊達は疑問を抱いたらしい。どうやらグリンフェルド自身、サニー・ガハラに騙されて動かされているのではと言う疑問だ」
ノビー・オーダは一度息をついた。
「どういうことかよく分からん」
タイスケンが不満そうな声を出した。
「グリンフェルドがサニーから知らされているのは、ジオフロント構想を物流関連のものから居住主体のものに変えていくため、サンプルとして造ったのがジオシティー・ケルベロスだと言うこと一点だけらしい。だがそこに一歩足を踏み入れてみると、あまりにも安普請なのだそうだ。こんなものがサンプルになどなるわけがない。伊達針之介はそういって怒っていたらしいよ。グリンフェルドも同じ思いらしい。それから、大発見がひとつある。どういうわけかジオシティー・ケルベロスには港があって、巨大な特殊潜航艇が繋留されていると言うことなんだ。それがいったい何を意味しているのか?」
「その特殊潜航艇のことだが、通常の潜水艦とはずいぶん異なった形をしているそうだね。簡単に説明してくれ」アキュが促した。
「潜水艦の頭部に円錐形の回転式ドリルと思われる装置がついているらしい」
「ジオシティーを建造しているときにその場で造った物かね?」
セッシュ・ナオカが口を挟んだ。
「ジオシティーそのものもそうだが、膨大な量の材料資材、重機関係、それに人間だって必要だったと思うんだ。それを人知れず動かすなんてことが可能とは思えないよ」
「……」
「きっとこの先は皆が同じことを考えていると思うよ」
「ありがとう。ノビー」
ミッチ・アキュはノビーに礼を言って話を引き継いだ。
「今まで俺は半信半疑だった。サニー・ガハラが本当に悪巧みを決行する気でいるのかどうか……」
「穂刈が言うには、それから間もなく伊達との連絡が取れなくなったということなんだよ。だから……」
「そう。もし事を構える予定がないならば、伊達針之介という諜報員を拉致しなければならない必然性もないことになる。つまり、サニーいや、タカマ・ガハラは本気(まじ)と言うことだ」
5分、6分と沈黙のときが支配した。皆、そこまでは納得したけれども話を先に進めるための、誰かの一言を待っていた。
「コーヒーでも淹れようか」
沈黙に耐えられず、ノビー・オーダがまっ先に口を開いた。
ノビーが淹れた熱いコーヒーを飲み終えて、ミーティングはさらに続いた。
天正沼の水を抜くには大掛かりな下準備が必要だろうから、閉鎖された天正沼自然公園の周辺に何らかの動きが見えるまでは何事もないと高をくくっていたことが悔やまれた。そう反省した現在でもまだ動きが見えたのは向こう側の世界だという逃げの図式が見え隠れしていた。
「それにしても転生ポイントがアジアブロックには5カ所ほど存在しているなんて言う話は鵜呑みにできる情報なのかねぇ」
「少なくともそのうち1箇所は生きている。そのポイントを使って向こう側に行ってきた僕が言うんだから間違いない」
「しかしその他の転生ポイントは各地方の伝承に残るだけのものなんだろう?」
オットー・タイスケンはじれったそうに言うと「敵が果たしてどこまで把握しているか知らんが、順番は確認できているのか? それにサニーは特殊潜航艇まで繰り出して戦闘装備らしい。対するこちらはたった四人で、いったい何ができると言うんだよ」と、続けた。
ミッチ・アキュは頭を振った。
「いや違う。法も秩序もなく仕掛けてきたりはしない。俺はそう思う。ターゲットは皆が知っている天正沼一箇所だろう。
「何故そんなことがいえる?」
「合法化できるからさ」
「え? 何だって」
ノビーとタイスケンは驚いてアキュを見つめた。
セッシュ・ナオカだけが「だろうな」といって頷いた。
「天正沼自然公園は閉鎖になったし指定景勝地としての認定も抹消された。跡地をヨミランドが利用するために水抜きや整地をしたとしても何の不思議もないわけだ」
「そうか。もし僕たちがその工事を妨害したら、僕たちのほうがやばいことになりそうだな」
「そういうことになる。しかしやらなければならない。俺たちの目的は天正沼の水抜きを阻止することじゃないだろ。転生行為の一元化を実施するならしたって構わない。ただ転生者の思想とか主義と言うものを弾圧する目的で一元化するというならば、絶対に許してはならない」
アキュの話は皆の心に響いた。
「それではケルベロスの謀略を叩き潰すためのシナリオを説明する」
ミッチ・アキュはそれぞれの覚悟を確かめるように、強い視線を向けた
オットー・タイスケンはたった4名のミーティングの中に民主化に対する燃えるように熱い情熱があるのを感じていた。
3
2013年 12月
内閣調査室
捨文王は執務室のデスクで渋い表情を浮かべた。
伊達針之介よりケルベロスのアジトと思われるジオシティーに潜入すると連絡が入ってからまる1日以上が過ぎた。これまでにも伊達針之介と数日間にわたって連絡不能になることもたびたびあった。仕事柄やむをえないことと自分に言い聞かせて、いつもならばじっと待っている捨文王だった。
自分の出した指令が伊達針之介の行動によってどういう動きを見せるか予測がついたし、何よりも針之介の手腕を信じていた。そして捨文王の不安はいつも大きく外れることもなく解消したのである。
ところが今回の件は様相が違った。
向こう側の世界だとか、転生族、創造主族だとか、とにかく聞いたこともない言葉が飛び交って捨文王の頭を混乱させた。
そんな中で伊達針之介はグリンフェルドと言うアメリカ人に喰らいついて犯罪組織ケルベロスの懐に飛び込んだのだった。
ケルベロスがいったいどの程度の犯罪組織なのか? そんな単純な疑問さえ情報がなかった。それだけに捨文王の胸の中にいつもとは違う不安が大きく膨らんだのである。
昨日の朝7時に伊達針之介から入った連絡を要領よくまとめたファイルを、幸円仁は捨文王に手渡した。
捨文王は頷いてファイルを受け取った。
「やっぱりその後連絡はねえかい」
「残念ですが……」
幸円仁は唇を噛んだ。
「んだかぁ。(*んだか=そうか)やっぱしひとりでいいって思ったのがだめだったんだべか。伊達のこったから何とか逃げれっと思うけどなぁ」
その言葉は、捨文王が自分自身に言い聞かせているようだった。
「伊達さんはグリンフェルドと行動を共にしていたようです。ジオシティー・ケルベロスと言うところにも、トーマス・グリンフェルドの案内で入ることができるといっていました」
「何でだべ? グリンヘルドっちゃあケルベロスの副官だって言ってねかったっけ?」
「んだ。…いえ、はいそうです。しかし伊達さんの話ではグリンフェルドはサニー・ガハラと言う男に騙されていると言っておりました」
「で、よぉ、いっつも持ち歩いとる発信機でよぉ、居場所、わかんねえのかぃ」
「恵庭岳登山口近辺までは反応があったのですが、突然消えてしまいました。」
「フッとか?」
「フッと」幸円仁は捨文王を見てこくりと頷いた。
「そうかぁ……フッとかぁ」
「そうです……フッと」幸円仁のほほを涙が伝った。
捨文王は幸円仁から目をそらした。そのまま顔を見続けていると幸円仁の思いがそのまま自分にも流れ込んでくるように感じたからだった。
「よし、なら明日行ってみるべや。その場所に」
「えっ?」
「針之介が消えちまったあたりにな。なんか判るかも知れんべ」
捨文王はぽろぽろと涙をこぼす幸円仁の肩を慰めるように叩いた。
今夜一晩待ってみて、もし何も連絡がなければ明日の朝伊達針之介の電波がモニターから消えた地点に行ってみようと、捨文王がいった。
幸円仁は「ありがとうございます」と捨文王の心配りに礼を言った。
一礼して捨文王の執務室を出た幸円仁は、自分のコンパートメントに戻ると恵庭市の法務局に電話を入れた。モニターから伊達針之介のマークが消えた地点の住所を調べその付近の土地の所有者を調べてみようと考えたのである。
本来は局に出向いて閲覧願を提出しなければならないのだが、内閣調査室は極秘調査を総理大臣の命令によって行っていることから中間の手続きは不要である。電話に出た男は幸円仁が依頼した箇所を中心に周囲近辺まで含めた土地の所有者をリストにして、それほど待たせることもなくFaxで送信してくれた。
広大な森林地帯にもかかわらず土地は結構細かく分筆されていて幸円仁が依頼したほんの300m四方の範囲でも地番は12に割れていてそれぞれが異なる所有者名になっていた。リストに記された土地所有者を調べていた幸円仁の目がある一点間で進んだところで釘付けになった。
20名ほど並んだ土地所有者の中に一筆だけ聞いたことのない宗教団体名があった。
“宗教法人・陽だまりの原”これはサニー・ガハラのことではないだろうか。
幸円仁は心臓の鼓動が高鳴るのを覚えた。やはり伊達針之介はこの森まで間違いなくやってきた。何らかの情報を得たのか、トーマス・グリンフェルドというあのバクチ打ちにそそのかされたのかそれは定かではないが、この土地まで足を運んだのは間違いないところだろう。
朝7時幸円仁はランドクルーザーのハンドルを握り、助手席に捨文王を乗せて出発した。昨日発見した宗教団体の名前を捨文王に話すと、捨文王も何らかのつながりはありそうだと認めた。幸円仁は地籍図から道路地図に位置をできるだけ正確に落とし込んだ。
土地の形状はフラスコ型で、口の部分が林道に接した形になっている。
車は支笏湖を過ぎたあたりで林道に入った。左右から迫る葉を落とした木々の枝が運転を圧迫するように感じられる
「多分、この部分が引き込み道路の入り口だべな。細っこい道に違いねぇから見落とさねえようにな」
捨文王はそういって注意を促したがそれでもその付近に期待した道路は見当たらなかった。
「おかしいな。このあたりのはずなんだけどなぁ」
捨文王は口を尖らせた。
幸円仁も首をかしげた。
「ちょっと見てきます」幸円仁はそういって林道の際に車を止めた。
シートベルトを外しドアを開けようとした幸円仁に「おい。あれ見てみれ」と捨文王が声をかけた。
普通車だったならば気付かなかっただろう。車高の高いランドクルーザーを持ち出したのが正解だった。ほとんど葉を落とした木々の隙間から明らかに森を切り開いた広場が見えた。その向こうに山の斜面が急傾斜となって続き、さらにその斜面には大きな一枚岩が侵入を拒む守り神のように行く手を遮っている。捨文王と幸円仁は何も言わず森へ踏み込んだ。
張り出した細い枝に妨げられて傷だらけになりながらも、二人はようやく広場に出た。
畏怖すべき巨人のような一枚岩が二人の前に聳え立っているようだった。そしてふたりが踏みしめている足元には幾台もの車両が通過したことを物語る轍が背にしている林から
目の前の岩戸に向かって伸びていた。
「なんだべな? ここは」
捨文王は周囲を見渡した。
「グランパ……」
幸円仁は轍の中に転がった何かを目ざとく見つけ拾い上げた。
それは落ちたあとで車両に轢かれたと見え、完全に壊れてしまっていたが、伊達針之介がいつも使っていたペン型の通信装置だった。
捨文王は黙って受け取りハンカチに包んでポシェットの中に入れた。
そのとき突然不気味な地鳴りがして、台地が大きく揺れた。周囲の森林がゆさゆさとうねるように動いている。
「グランパ、早く!」
幸円仁は捨文王の手を強く引いて森の中に入った。振り返ると立っていることができないほどの揺れの中で、さっきまで目の前にあった巨大な岩戸が音を立てて崩れ始めるのが見えた。
4
2013年 12月
GO-10号 艦長室
怒りのためサニー・ガハラの顔が醜く歪んだ。引き金にかけた指に力が入る。サニー・ガハラのワルサーPPKはしかし沈黙を守ったままだった。サニー・ガハラはうろたえ、幾度も引き金を引いた。同じことの繰り返しだった。
「サニー。そのPPKは私が君にプレゼントしたものだろ。ほら、俺が使っているものとお揃いの銃だ」
グリンフェルドは自分のPPKを取り出した。
「あまり信用できない人物に銃をプレゼントするときには、弾丸は入れないことにしているんでね。俺のには入っているよ」
「う、撃つな!」冷や汗を流してサニー・ガハラはたじろいだ。
「さあ、どうかな。なにしろ俺はアメリカの殺し屋だからなぁ」
グリンフェルドはニヒルな薄ら笑いを浮かべた。
ノックの音もなくサニー・ガハラの背中でドアが開く音がした。上級乗組員の制服をまとった長身の男が立っているのを見て、サニーは少し安心したように息をついた。しかしすぐサニーは自分の勘違いであることに気付いた。入ってきた男はサニーの知らない男だった。
男はホルスターから44マグナムを取り出すとサニー・ガハラに銃口を向けた。
「う、撃つな!」サニー・ガハラは再び叫んだ。
「さあ、どうかな。なにしろ俺は日本のヒットマンだからなぁ」
トーマス・グリンフェルドが伊達針之介にウィンクして見せ、サニー・ガハラの両手首を麻紐を使って手際よく後ろ手に結わえた。
「さ、操舵室でゆっくり話でもしようか」
伊達針之介は楽しそうにいってサニー・ガハラの背中を44マグナムの銃口で小突いた。
サニー・ガハラは悔しそうに唇を噛み、しぶしぶ針之介とグリンフェルドの誘導に従った。
金属製の床を踏み鳴らしながらグリンフェルドに誘導されて長い通路を3人は進んだ。通路はいくつかのブロックに分割されていて、見るからに重そうな金属製の扉によって隔てられていた。どの扉にも識別キーが取り付けられていて、そのつどグリンフェルドが自分のカードキーを使って開いていった。やがて3人はオペレーション・ルームと表示された扉の前に到着した。
リーダーにグリンフェルドがカードキーを差し込むと、操舵室のドアはシューという排気音を聞かせながら横開きに開いた。操舵室にいたすべての上級乗組員たちは何事が起こったのかという顔をして3人に視線を向けた。
「君は艦長だ」伊達針之介はサニーガハラをソファーに座らせながらいって「君からこの男が考えた謀略を説明してやってくれよ」と、促した。
「オーケイ。相棒」
トーマス・グリンフェルドはサニー・ガハラの計画を乗組員たちの前で暴露し、最後にサニー・ガハラ本人に向かって「俺の言ったことに間違いないな」と、問いただした。
サニー・ガハラは力なくこくりと頷いた。
伊達針之介とトーマス・グリンフェルドは上級乗組員の間に驚きの声が上がるのを期待していた。この世とあの世を股にかけた恐るべき陰謀に違いないのである。それにしては制服組の反応は冷静さを通り越してむしろ鈍いように思われた。
グリンフェルドは針之介が艦長室に入ってきた時の様子を思い出した。
サニー・ガハラはあの時ほんの一瞬だったけれど、少しほっとしたような表情を浮かべたではないか。ということは伊達針之介が入ってきたときの着衣を見て安心したということだろう。
だとすれば……
「展開的にちょっとヤバくね?」
「相当ヤバいっす」
伊達針之介はサニー・ガハラに44マグナムの銃口を向け、首だけ回して乗組員たちを睨みつけた。
「お前たちが総てグルだったとは……おっと、動いちゃいけねえ。武器を持ってる奴がいるんだったら床に置きな。さもなければこの男が血に染まることになるぜ」
伊達針之介がどすの聞いた声を出した。
乗組員たちの後ろから大きな笑い声が響いた。太い横縞のセーラーシャツを身に着けた
大男が前に出てきた。
「よう、トム。なんだいこの昭和モダンみたいなことをいう大男は?」
ウォルフガング・ユルゲンスは笑いながら伊達針之介に視線を向けた。
「俺のマブダチさ。あの有名なダーティー・ハリーを知らんのか?」
「だ、て、し、ん、の、す、け、だ。何度いえば分る!」
針之介は思わずサニー・ガハラから目を離しグリンフェルドを睨んだ。
そのタイミングを逃さずサニー・ガハラは制服組の中に走りこんだ。
制服組をかき分けて前に進み出たユルゲンスは、「お前は大ばか者だよ。せっかく与えられた機会を棒に振った」と、グリンフェルドを蔑んだ。
「ユルゲンス。お前がやってきたときから俺は妙だなと感じてはいた。なぜトップクラスの学者先生を俺の下に置かなければならんのかということをだ」
グリンフェルドは切り返した。
「ならばなぜ俺を信じた?」
「自惚れるなよ。俺が後悔しているのはサニーを疑わなかったことだけだ。間違うなよお前のことは信じていたわけじゃない。シカトしていただけだ」
「そうかい。口の減らんやつだ。いいかトム。この船は俺が作った戦艦だ。サニーはこのGO-10号を完成させてくれた。というより買ってくれたわけだよ。仮にお前が言うようなことに使われるとしても、それはサニーの問題で俺のじゃあない。トム、戦艦なんだよ、この船は」
ウォルフガング・ユルゲンスは額に汗を浮かべながら、この船は戦艦だと強調した。その口調はここまでの人生で始めてすべての主導権をとった肥満体の男の歓喜に満ち溢れていた。
グリンフェルドと針之介は銃を構えなおした。その瞬間並んでいた制服組の全員が一斉にコルト45GMPを抜き二人に狙いを定めた。さすがのふたりも失笑気味に銃を下ろし、そっと床に置いて両手を上げた。
「サニー。どうするこのふたり」
ユルゲンスはふたりから目をそらさずサニーの判断を仰いだ。
「連れては行けまい。途中で下船願おうか」
「………?」
「そうかユルゲンス君はこの船がどこを航行しているのかまだ知らなかったんだね」
サニー・ガハラはスイッチボードの横に立つ制服組のひとりに前面窓開けの指示を出した。
乗組員はスイッチを捻った。GO-10号の前面のシャッターが左右にゆっくりと開いていく。潜水艦にはほとんど見られない広いフロントウインドウだった。一筋のヘッドライトの中に浮かび上がったものは洞窟を連想させるトンネル状の空間だった。時折、小魚が目の前を横切るところをみると船はゆっくりとした速度を保って海底の洞窟のようなところを航行しているらしい。
「ひとつだけ教えてくれないか?」
伊達針之介がユルゲンスに向かって訊ねた。
「なにを?」
「いや、その何とか沼から水を抜くって話だが、別の世界にあるリンク地点からも同じようにしなくちゃならんらしいが。そんなことが可能なのか」
「何かと思えばそんな単純なことか?別の世界だと思うから混乱するんだ空間は異なっていても位地座標はまったく同じということだ。だから両方の空間をまたいで影響を及ぼすことができる機材を使いさえすれば難しいことじゃあない。さてそれじゃおふたりには下船願おうか」
サニー・ガハラは嬉しそうに笑顔を見せて、甲板への通路を銃口で示した。ハッチを空け甲板に出ると「おい、忘れ物だ」と声がしてユルゲンスが紙袋に入れたものを放り投げてよこした。伊達針之介が受け取って中を見ると、入っていたものはふたりの拳銃だった。
第9章 時空の狭間にて
1
2013年12月
ヨミランド
ヨミランドも年の瀬の慌しさに包み込まれていた。
来年はどんな一年になるのだろう。家族にとってどうかよい一年になりますように。誰もがそんな期待をこめて新しい年を迎える支度にいそしむのである。かといって今幕を閉じようとするこの一年を思い返したとき、それが取り立てて悪い一年だったというわけでもない。要するに普段となんら変わることもない平凡な日常なのである。あらためて考えてみなくとも判りきったことだった。
しかし……
すぐ目の前に迫った来年が果たしてこれまでと同じように平凡な日常の積み重ねとなるのかどうか、今回ばかりはオットー・タイスケンにも予測することができなかった。
創造主族か転生族か、また民主化運動家であるか否か、そんなことにはお構いなしに残りわずかとなった師走の一日が始まろうとしていた。
オットー・タイスケンは応接室のソファーで大きな欠伸をした。壁にかけた時計に目をやるともうじき8時になろうとしている。昨晩遅く事務所に戻り、ほとんど眠っていないことにタイスケンは気がついた。ミッチ・アキュに割り振りされたミッションを整理し、まとめなおして、9時には各支部のリーダーに発信しなくてはならなかった。
発信の部分を除いて仕事が終わったのは窓の外が白み始めるころだった。9時にはまだ時間があった。タイスケンは2時間ほど眠ろうと思って応接室に入りソファーに横になったのだった。
タイスケンは寝不足の目をしょぼしょぼさせながら、まとめた書類をもう一度確認した。
ミッチ・アキュから依頼されたタイスケンの仕事は、民主化活動推進委員会という巨大な組織への“未確認情報の伝達と流布”だった。
陰で糸を引いているのは政治局のタカマ・ガハラだということ。
その目的は創造主族による保守社会を守ること。
方法は革新派となりうる霊魂を抹消すること。
この3点を予め噂話として広げておくことができれば、政治局もそう無謀なことはできまい。
ミッチ・アキュはそう踏んだのである。そしてこのシナリオを実行に移すにはオットー・タイスケン率いる民主化活動という大集団は格好の媒体に違いなかった。
そして午前9時丁度、タイスケンは名簿の中からいわゆる行動派と目される人間3名をチョイスしてこの情報を流した。これで遅くとも3日後には「誰かが言っていたけれど」という前置きのついた噂話として、ヨミランド中に広がることになるはずだ。
オットー・タイスケンはなぜかわからないが心の中に満足感が膨らむのを覚えた。
セッシュ・ナオカはかつて自分が代表を務めた中央麻酔㈱に向かった。
ナオカがアキュから頼まれた仕事は、事が起こったとき社屋地下に造られた巨大な転生装置のスイッチをオンの状態にしておくことだった。
セッシュ・ナオカはつい先ほどまで行っていたミーティングの様子を思い返した。
「なぜその必要がある?」
アキュが役割分担を告げたとき、セッシュ・ナオカはその必要性を訊ねた。
「ノビーの推測だ。ノビー、説明してくれないか」
ノビー・オーダは立ち上がった。
「僕たちがサニー・ガハラの企みに気がついてからもう数年になる。サニー・ガハラのターゲットもきっと天正沼に間違いないと思う。だから僕たちは何らかの動きが天正沼にあるだろうと見張っていたわけだよ。そして向こう側の世界の天正沼もリンクポイントとして押さえていたわけだ」
ノビーが確認するように皆を見回すと3人は一斉に頷いてノビーに先を促した。
「ところが何の動きもない。いや、天正沼に何らかの動きがある筈だという先入観が強くて、そう思い込んでいたんだ。実際には大間違いだったんだよ、きっと。準備も何も要らないんだ。その証拠があの特殊潜航艇さ。つまり……判りやすく言うとヨミランドと向こう側と、世界は確かに二つあるけれど、天正沼はひとつだけなんだ。言い方を変えるなら共有しているとでもいえるだろうね。だからシステムが動いてさえいれば何の心配もない。スイッチさえオンになっていればどちらかが攻撃されても転生ポイントは新しいパートナーを探してすぐ回復するだろうからね。だけど逆にオフだったら時空間のつながりは役目を終えることになる……」
翌朝8時。セッシュ・ナオカは在勤中いつも利用していた物産会館の駐車場に車を入れた。物産会館裏手にあるその駐車場は、薄汚れてはいたが車を入れるのに支障はなかった。
しかし中央麻酔㈱のゲートから社屋までの広々として美しかった前庭は見る影もないほど荒れ果て、身の丈を越す雑草が生い茂って木枯らしに揺られていた。
雑草の海をこぎ分けてようやく辿り着いた社屋の正面玄関は、明かりを落としてから2年間風雨にさらされていたことを明らかに物語っていた。
職員をすべて帰宅させ、最後に扉を閉め鍵をかけたのがつい昨日のことのように感じられた。あれから2年が過ぎ去ったのである。いたる所で塗装が剥がれ落ち、ささくれ立った板材が無残な姿をさらしている。
セッシュ・ナオカは扉の鍵を回した。
蝶番(ちょうつがい)にうっすらと錆が浮いている事に気付いていつもより少し強く押すと、ギイという軋みを聞かせてドアは開いた。
一歩足を踏み入れると、屋内は閉ざされた空間だから当時の空気がよどんでいるのだろうか、当時の匂いがナオカの鼻腔を満たした。何名もの職員たちがセッシュ・ナオカに挨拶して通り過ぎていく。そんな日常がセッシュ・ナオカの頭の中に蘇った。
セッシュ・ナオカは事務室に入り、右手奥にあるかつて自分の部屋であった社長室のドアを開けた。2年前の執務室が当時の姿のままでセッシュ・ナオカを迎えた。ナオカはゆっくりとデスクに近付き、人差し指を伸ばしてデスクの表面をぬぐった。机の表面に2年分の埃が一条の筋となった。
感傷に浸っているときではない。セッシュ・ナオカは自分に言い聞かせて部屋の片隅に取り付けた配電盤の蓋を開けた。
配電盤の中にはたくさんのスイッチが並んでいて、最も右下に全体の電源切り替え用キーホールがオフにセットされている。ナオカは応接用のコーナーに置いたサイドボードの引き出しの中に社屋すべてのキーが置かれていることを覚えていた。案の定鍵束はそこに入っていた。
ナオカは配電盤の電源をキーを使ってオンにセットした。鈍い機会音がして社屋内に明かりが戻った。
セッシュ・ナオカは次に配電盤のスイッチのうちシステムと表示されているものを残し、そのほか全てをオフのほうに倒した。これで転生システムだけが稼動していることになる。
もうひとつナオカにはしなくてはならない仕事があった。今セットしたままの状態で天正沼が攻撃されたとすれば問題はない。システムが繋がっているからである。しかし敵もそこはわきまえているだろうから必ず事前確認に来るはずだ。本来ならばその確認が終了してからシステムをオンにすればよいのだけれども果たしてその時間があるかどうか。
だから逆に、今セットした状態のまま敵の検査でオフラインと思わせる方法または検査させない方法を取ろうとナオカは決意したのである。
ミッチ・アキュはその日が迫っているのを感じ取っていた。直行捜査という名目で警視局に戻らぬことさえしばしばあった。上司である操作本部長タクラ・マクラはアキュが社会のためになる動きをしていると信じて好きなようにさせていたが、そろそろ限度を迎えることがアキュにも判った。だから皆に分担を終えた後、自分は政治局の監視をすると決めて局に戻ることにした。
ノビー・オーダは自分の役目を十分認識しており、アキュの意見に賛成した。
「それじゃあ僕は向こう側と連絡を密にとって、何か動きがあったときには君に連絡を入れればいいね」
とミッチ・アキュに確認した。
ミッチ・アキュは黙って頷き右手をノビーのほうに差し出した。
ノビーはその手を強く握った。
2
GO-10号
銃口を背中に感じながら、伊達針之介とトーマス・グリンフェルドは甲板に出た。ふたりとも周囲を見渡して絶句した。そこは直径が100mはありそうな洞窟のような場所だった。GO-10号は洞窟の中央、地底湖のような場所に浮上したのだった。洞窟は全体が自然の物ではなく、何らかの目的で人間の手が加えられていた。
6~7mの高さがある天井の一部分から明るい光が射しこんでいる。その一条の光は洞窟内の壁に複雑に反射して増幅し明るい空間を作り出し、最後に洞窟内のある一点に収束しているのだった。
光が最後に辿り着いた場所。そこには明らかに人工的に造られた桟橋があった。地底湖の一部にテラス状の部分があり、上りやすくするための手摺が取り付けられている。
「ジオシティー・ケルベロスを造った時運び込んだ物資の倉庫として作ったスペースだ。テラスに上がってドアを開くと中に入ることができる」
サニー・ガハラが楽しそうにいった。
「そこで待てというわけか?ありがたい待遇ではないな」
グリンフェルドは渋い顔をした。
「待つことはない。我々はここには戻らない。本当は天正沼破壊のテストを近くの湖を使って行い、ケルベロスに戻って2~3日休息をとった後天正沼に出発しようと考えていた。
君たちがケルベロスを破壊した今となってはケルベロスに戻る意味がない。テストの後、天正沼に直行する。」
サニー・ガハラは乗組員に艦を桟橋につけるよう指示してから続けた。
「倉庫内部には居住スペースもあれば食料も豊富にストックしてある。ないものは外への出口だけだ。お前たちが爆破したジオシティー・ケルベロスまでおよそ200m。素潜りで泳ぐにはちと難しかろう」といってサニーは笑った。
GO-10号はやがて桟橋に接岸した。
「降りろ」
係員がタラップを架け終えるのを見届け、サニー・ガハラが命令した。
伊達針之介とグリンフェルドはしぶしぶタラップを渡った。
「それじゃあ元気で。もう会うこともなかろう……」
サニー・ガハラはグリンフェルドと針之介にわざとらしく敬礼をして艦内に姿を消した。そして特殊潜航艇GO-10号はじれったいほどゆっくりと海面下に消えていった。
GO-10が去ると、針之介とグリンフェルドは息苦しいほどの静寂に包み込まれた。不思議な明かりがあるので何とか平常心を保っていられたけれど、もし闇の中だったとしたら正常でいられるわけがないと感じられるほど完璧な静けさだった。
「せっかくだから見ておこうじゃないか」グリンフェルドが静けさに耐えられなくなったようにいった。
針之介は別段興味もなかったが、さりとてこの場に一人残されるのも気に入らなかったからしぶしぶグリンフェルドの後に従った。
テラスの奥を見ると金属製のドアがあった。横に取り付けられている“OPEN”と記されたタッチパネルに触れると、ドアは左方向にシュンと音を立てて開いた。
二人は躊躇なく中に足を踏み入れた。
サニー・ガハラは倉庫といったが、むしろショールームと呼ぶほうが的を射ていた。
サニー・ガハラが出航前のスピーチで言っていた“余るほど用意したもの”とは、目の前に積み重ねられたさまざまの食品のことだったのか。各種の魚・肉類やその加工品。野菜・果実、などが一日中宴会を続けても一週間は楽に過ごせるのではと思うほど保存されていた。
さらに倉庫の奥には一戸建ての住宅がモデルハウスとして展示されていた。
「ここに泊まれという意味かい。あのバカ野郎」
グリンフェルドが突然いった。
「そうかも知れんな。居住スペースもあるといってた……」
針之介は笑おうとしたがサニー・ガハラが「ないものは出口だけだ」といっていたのを思い出すと笑い声を出すことはできなかった。
「お言葉に甘えよう。腹が減った。美味そうなものを目の前にして何も食わないのは摂理に反する」
グリンフェルドは針之介を励ますようにいって、食材を一抱えをもってモデルハウスへ運び込んだ。
伊達針之介もそれに習って缶ビールをひとケースと干物などつまみを数種持ち込んだ。
ビールが進むにつれ二人はすっかり打ち解けてテンションも上がっていった。そのうち腹も一杯になって眠気が襲ってくる。
「ああ酔っ払ったぁ。おいハリー。2~3時間眠ろうや」
グリンフェルドは ひと言そういって畳の上に座布団を並べ、横になった。
「腹の据わったやつだ」
伊達針之介はたちまち鼾をかき始めたトーマス・グリンフェルドの寝顔を見て微笑んだ。その針之介にもわけへだてなく睡魔は遅いかかり、針之介も座布団を並べ始めた。
GO-10号の操舵室でサニー・ガハラはモニターを見ながら首をかしげた。
「なんという神経の持ち主なんだ」
命がなくなろうかというときに宴会のように騒いで前後不覚に眠ってしまうとは。自分にはできないことだとサニーは感心した。
サニーは海図を確認して「ドリル回転開始。掘削30秒前」と大声で指示し、モニターを倉庫の監視カメラの映像から艦の掘削状況の映像に切り替えた。
トーマス・グリンフェルドは監視カメラのスイッチが切れたのを感じ起き上がった。時計を覗くとじきに午後11時になろうとしている。
グリンフェルドは内ポケットに入れてあった小型通信機を取り出しスイッチをオンにした。
「はい。ネスミス。」
ウイリアム・ネスミスの声が聞こえた。グリンフェルドは胸を撫で下ろした。
「トムだ」
「ああボス。今どこに?」
グリンフェルドは説明した。
「判りました。これからすぐ準備をしてそちらに向かいます朝5時で……」
「OKビル。朝5時だな。頼んだぞ」
確認して通信機をオフにするとグリンフェルドはまた横になった。
「おい。ハリー」
誰かが呼ぶ声がする。ハリー? 誰だ? ハリーってのは……
「いい加減に目を覚ませ。行動開始だ」
何度か声をかけられてようやく意識が戻ってきた。
「ああ、トムか。どうしたんだ? こんなに朝早くから」
腕時計は朝5時を指している。
「いいから急げ。やつらが戻ってきたりしたらもう逃げ切れんからな」
グリンフェルドは針之介の尻を叩いて真新しい競泳用のパンツを手渡した。
「早くそれを着けろ」
針之介はグリンフェルドに言われるままにパンツを履き替えた。
「いくぞ」
「200メートルもノーブレスは無理だよ」
伊達針之介は泣きを入れた。
「ばか。俺だって無理だ」
グリンフェルドは笑いながら出口へと駆け寄ってドアを開くと、室内の明かりを消した。
昨日潜水艇から下ろされたテラスに男がひとり待ち構えていた。
グリンフェルドは針之介にウイリアム・ネスミスを紹介した。
「さあ、急いで」
ネスミスが示す場所を見ると、フィンと小型酸素ボンベ、それに軽量の小型水中スクーターが置かれている。
伊達針之介にも事情が飲み込めた。
拉致されていた二人はネスミスに続いて冷たい海中に飛び込んだ。
「掘削航行テスト5秒前・4・3・2・1・0、発進
号令と共に特殊潜航艇GO-10号は岩盤の方向に頭を向けると、巨大なドリルを全力回転させながら突進した。GO-10号に取り付けられた超硬質掘削装置の前には岩石の硬度など問題にもならなかった。
GO-10号は厚い岩盤層などまるで豆腐でも突き崩すように楽々と粉砕しながら進んでいった。そして号令を発した地点から約6kmの距離にある目的地に計画より1時間早く到着したのだった。
サニー・ガハラは時計を見た。午前6時か。まずは良いペースだ。
サニーは操舵室に全上級乗組員を集合させた。
「ご苦労だった。我々は現在目標地点直下に到達した。これから約3時間の休憩を取り10時より次の段階に進む。総員、適宜休息をとり午前10時ジャストこの場所に集合のこと以上」サニー・ガハラは満足げに指令を出した。
伊達針之介、トーマス・グリンフェルドそしてウイリアム・ネスミスの3人はかろうじてジオシティ・ケルベロスの埠頭まで泳ぎ着いた。工事関係者などであれほどにぎやかだった人工の町は、すでに人っ子一人いない無人の町と化していた。
「指示通りにやってくれたらしいな。ありがとう」と、グリンフェルドが言った。
「関係者皆、ボスによろしくとって引き揚げていきました。それから管制室から艦のほうに送っていた電波も止めましたが」ネスミスが質問した。
「ああ。良いタイミングだったよ。それで、本当の爆破の時間は?」
「はい。10時ジャストにしてあります」
「よし。それじゃあ我々も退避するとしようか。ネスミス君、着替えを」
「えっ?」
「着替えをくれないか」
「………」
12月。年の瀬も押し迫った、真冬の北海道であった。
3
ヨミランド
警視局 捜査本部長室
捜査本部長のタクラ・マクラは両袖の肘掛け椅子に腰掛けてミッチ・アキュに視線を向けていた。それは真実を見極めようとする鋭い視線だった。しかしそこに自らの思想を無理やり押し付けようとする冷たい狡猾さは微塵もなく、むしろ好奇心旺盛な子供のような純粋な輝きが満ち溢れていた。
「2,3日前から巷に奇妙なうわさ話が広がっているらしいんだが知っているか?」
このところほとんど局に顔を出していない。連絡すら入れていなかった。まずそのことに対する叱責があると思っていた。ところがこれがタクラ・マクラ本部長のアキュに対する第一声だった。
「政治局が策しているという謀略のことですか?」
「そう、そのことだが一体何のことなのだ?」
「噂話ですよ。単なる噂話」
アキュは同じことを二度重ねて言われると、何か含みがあるように感じることを知っていた。
「どんな噂なんだ?」
「本部長に質問されて答えたとなれば正式な状況報告となります。書類をまとめて提出しなければなりませんよ。よろしいんですか?」
アキュはからかうように答えてタクラ・マクラに悪戯小僧のような笑顔を見せた。
「それはまずい。政治局がらみらしいからな。しかし君がいう戯言(ざれごと)を聞いたということなら問題なかろう」
「そうですね。でもここじゃあまずいでしょう」
「分った。じゃ今夜一杯やろう。車の手配をしておいてくれ」
そんなやり取りがあって午後7時、ミッチ・アキュは上司であるタクラ・マクラ捜査本部長が料亭“華舞”の離れに設けたふたりだけの酒席についていた。
ミッチ・アキュはこれまでの経緯を包み隠さずタクラ・マクラに話した。
黙って聞き役に回っていたタクラ・マクラは大きなため息をついた。
「事実だとすれば許しがたい行為だ」タクラ・マクラはいった。「ヨミランドにも今ようやく新しい社会が訪れようとしているのに、トップがそれを否定しようとしているとは……」
「しかし今のところ法に犯する行為は何一つ起こしてはいませんからね」
アキュは杯を干し、タクラ・マクラが更に勧めるとアキュは「あ、どうも」といって杯を差し出した。
「未然に食い止めるのも仕事だから……」
「向こうもなかなか利口なようです。5年ほど前に閉演した森林公園の整地工事も予算化されているようですし、うかつに踏み込むのも如何なものかと思いますよ」
アキュは本部長の杯に酒を満たした。
「中央転生センターという器を作ったわけですから、一元化管理というシステムには何の不自然もないわけでしょう。その中に違法な動きは何もない。転生してくる霊魂に対して思想弾圧の事実などが出ているならば切り込む隙も見えるんでしょうが、それはこれからの話で今はまだ何もない。むしろ天正沼を転生の能力を持たせたまま残そうとするほうが不自然でしょう。今下手に動くと逆に我々の方が訴えられるかも知れません」
本部長はアキュの話を聞いて渋い顔をした。
ミッチ・アキュは酒が自分のテンションをあげ始めたことに気付いた。熱を込めて話す自分の声が、どこか遠いところから聞こえてくる別人の声のように感じられる。
「ですからね、本部長。今の段階で向こうと事を構えようとしても無理なんですよ。まだ何も起っちゃいないんだし、奴らが何かをしでかそうとしている舞台は、このヨミランドじゃなく。向こう側なんですからね。」
アキュの自分の胸のうちにこみ上げてくるものを抑えることができなかった。
口惜しさだった。
「だから私は噂としてやつらの謀略をばら撒いたんです。まさか政治局がもっぱらの噂となっていることをそのまま実行するとは思われませんからね」
アキュは杯を干し本部長に同意を求める視線を向けた。
タクラ・マクラは口をへの字に曲げて頷いた。
「それから天正沼のシステムを起動させました。動いてさえいれば破壊はできないらしいんです。でもね、本部長。そんな所までしかできないんですよ。しかも勝ち目はゼロなんときた」
アキュの目から悔し涙がこぼれるのを本部長は見逃さなかった。
「わかった、わかった」
タクラ・マクラ本部長は銚子を持って立つとアキュの横に胡坐をかいて座りなおし、なだめるようミッチ・アキュの肩をぽんと叩いた。
「ほら、もう少し飲まんか」
タクラ・マクラが銚子を向けると、アキュは声を詰まらせて「すみません」といいながらガラスのコップを差し出した。
アキュのコップに酒を注ぎながらタクラ・マクラは笑顔を見せた。
「負け戦ではないさ」
本部長の声が確かにそう聞こえた。
「え? なぜです?」
アキュは耳を疑った。
「だってそうじゃないか。現在のあり様を考えてみろ。まず天正沼だ。現在の天正沼はどういう環境になっている?」
「転生能力を有したままスイッチを切った状態です。ONにするよう指示してありますが」
「それでは奴らが事を起こし成功したと仮定したときにはどうなる?」
「……そうか。同じことなのか」
アキュは本部長が言わんとすることに気がついた。
向こう側の世界とこちらがリンクされている状態の時に、たとえば沼の底を爆破するとかして見事に水を抜いたとしても、お互いにリンクポイントを探して自然に修復を図るということだった。つまり何も変わらないということになるのだ。
「そしてもうひとつの件も、君が噂話として流してくれたおかげで奴らも動きがとれないと思う。つまり謀略は意味がないということだ。犯行を未然に阻止したわけだから、これは間違いなく勝利だろうさ」
ミッチ・アキュはタクラ・マクラ本部長がそういうのを聞いていくらか肩の荷が下りるのを感じた。いずれにしてももう数日のうちにケルベロスの謀略は実施されそうだった。
4
伊達針之介、トーマス・グリンフェルドそしてウイリアム・ネスミスの3人は直行エレベーターを使って管制室に入った。
シティー同様総員退避の命令によって管制室要員たちの姿もなく、そこは無人の管制室になっていた。
管制室に接して職員のロッカールームと休憩室があった。何か身に着けるものがないかと探してみたがどちらの部屋にも何一つ見当たらない。ただ休憩室にはダンボール箱に入ったカップめんが数個残っており、ネスミスの提案で少しでも体が温まればということで湯を沸かした。そして確かに一杯のカップ麺はそれぞれの体をわずかながら暖めてくれたように3人は思った。
3人がカップ麺を食べ終わったとき室内灯が一瞬何の前触れもなく消えた。部屋の中に漆黒の闇が流れ込んだ。
明かりはすぐ戻った。自動的に自家発電に切り替わるように設計されていたのである。管制室に戻るとジオシティーに命を与える大型コンピューターだけが駆動しており、表面に配置された無数とも思われる小さな電球が点滅を続けていた。
「自爆まであと30分です」
コンピューターの声が知らせた。
自爆装置のタイマーを10時丁度にセットさせたことをグリンフェルドは思い出した。
ネスミスはエレベーターのコントロールボックスを確認した。ディスプレー画面を見ると、駐車場から直通のエレベーターが5基並んでいることが判る。
エレベーターには①~⑤のナンバーが付られ、③だけが管制階に停止中とサインが出ていた。ネスミスは即座に③をクリックした。画面が切り替わり“利用するのは車両か人間だけ”か“行き先はジオシティーか地上出口か”など運行のための選択を行い、最後に実行をクリックしセット完了である。
事は急を要した。
エレベーターを動かすための電力もそれほど多くは残ってはいないはずだ。この管制室のある場所から地表までは高さにしておよそ100m。もし脱出途中で自家発電用の燃料が涸れてしまえば闇に閉ざされた地下空間におき去られるのかもしれない。だからエレベーターが動いているうちに脱出する必要があるのだった。
3人は駐車場へと走った。競泳用のパンツ姿は凍えそうに寒かったがそれどころではなかった。駐車場に辿り着き飛び込むように3人は乗り込んだ。グリンフェルドはキーを回した。裸の3人は夢のような暖かい空気に包まれた。
グリンフェルドはドアが開いている③のエレベーターに車を誘導した。車が入ると共に
高速エレベーターは上昇を始めた。
グリンフェルドはほっとして息をついた。
「あと20分。やれやれ助かった」
グリンフェルドがそう思った瞬間、がくんとエレベーターが揺れを感じさせて止まった。
そして、明かりが消えた。
「自爆まであと20分です」コンピューターの声が響く。
「畜生め。ジオシティーの燃料切れだ」
もはや躊躇している時ではなかった。グリンフェルドは車のライトをつけ放したまま外へ出ると「こっちだ」と叫び運転席横のエレベーターの壁についた非常口を蹴りとばした。
蹴り外されたドアが壁にぶつかる大きな音を聞かせながら遥か下方のジオシティー・ケルベロスへと消え去った。
「ボス。これを」
ネスミスがグリンフェルドと針之介にそれぞれの拳銃を紙袋から出して渡した。グリンフェルドはPPKをパンツの前側に入れた。しかし何かが邪魔になって一度取り出すと今度は後ろ側に入れなおした。針之介とネスミスもグリンフェルドに倣ってそれぞれの銃をパンツの中に納めた。
「自爆まであと15分です」と。コンピューター。
「ここからはラダーしかない。下を見るなよ」グリンフェルドはそういって非常口から出た。
目の前に伸びるラダーは凍てつくような冷たさだった。
グリンフェルドに続いてラダーに移った針之介は漆黒の闇を覚悟したエレベーターの外側が思ったより明るいことに驚いて、見上げた。どこからか外光が流れ込み全体像をぼんやりと見せているのだった。
昇らなければならないラダーは高さにしてあと30メートル足らずに見える。
「あそこまで。あそこまで昇れば生還できるんだ」伊達針之介は自分を奮い立たせるように再度見上げた
細く長いラダーに縋り付くようにしてひたすら上を目指す競泳パンツ姿のグリンフェルドが見える。手が塞がるので銃を持って昇るしか方法はない。仕方なくパンツの中に入れた銃がその重さのためパンツの一部分をを引っ張り伸ばしている。針之介に続いてラダーを上るウイリアム・ネスミスも上に顔を向ければ針之介がグリンフェルドと同じように見えていることだろう。そう思うと伊達針之介はなんとなく情けなくなってきた。
「自爆まであと5分です」
3人は必死の思いでラダーを昇り、そしてとうとう出口階に辿り着いた。
「急げ。こっちだ!」
グリンフェルドはネスミスと針之介に道を示した。
「自爆タイムリミットです」
コンピューターの声が聞こえた。
「グランパ、早く!」
幸円仁は捨文王の手を強く引いて森の中に入った。振り返ると立っていることができないほどの揺れの中で、さっきまで目の前にあった巨大な岩戸が音を立てて崩れ始めるのが見えた。
土埃がもうもうと立ち込めた。ジオシティー・ケルベロスへの進入口となっていた岩戸が砕け散った。
捨文王と幸円仁は次第に薄れていく土埃の中になぜか競泳用パンツの中に銃を納めた伊達針之介、トーマス・グリンフェルド、そしてはじめて見る顔の外人ウイリアム・ネスミスが呆然と立ち尽くしているのを見た。
第10章 明るい未来
1
2014年1月 ミスターXの喫茶店
穂刈末人が営むミスターXの喫茶店はいたって平凡で穏やかな新年を迎えた。
新年早々店を開けても始まらないと思いつつ、ついOPENの札を掲げてしまうのは、店が近隣の牧場関係者たちの間に格好のたまり場としてすっかり根付いていたからなのだろう。
1月は新年恒例の中山金杯と京都金杯がともに5日に開催される。年が明けたばかりというのに10名ほどの牧場関係者たちが店内に集い、あれこれと議論を重ねているのである。どうやら「競馬関係者には話題が尽きる暇はない」そう結論付けても良いようだった。
穂刈末人は妻の恵子とふたりで常連客のために作ったお節(おせち)を重箱に体裁よく並べ、客たちが歓談している大テーブルに運んだ。恵子がテーブル上に料理を体裁よく並べている間に、穂刈は階下の厨房から祝い酒の一升瓶を二本運び上げた。取り分け皿とグラスなどの食器は別のテーブルにまとめて置いて準備を終えると、穂刈末人は階段の下で待機している息子に目配せをした。洋介はこくりと頷いてカウンターの裏に置いたオーディオのスイッチを入れた。
店内に東京競馬場のGIレースに使われるファンファーレが高らかに鳴り渡った。
集まっていた客たちは予想もしていなかった音響効果に一瞬話を止めた。
「みなさん、明けましておめでとうございます」
穂刈末人がテーブルの前に立って挨拶をした。
「新年早々ご来店いただきましてありがとうございます。簡単なものばかりですが正月の祝いを用意させていただきましたので召し上がってください。本年もよろしくお願いします。なお、車にて来店された方はお帰りになるとき申し出てください。代行を手配しますので……」
「如才ないねェ。マスター。ありがとう」
ある牧場主が礼を言うと、店内はたちまち暖かな笑い声に満ちた。
「さあ、どうぞ始めてください」
穂刈がそういって一升瓶を開けようとしたとき、カウベルの音がしてドアが開いた。
伊達針之介だった。
少し身を屈めなければ出入り口に頭をぶつけそうなほど長身の針之介の脇の下越しに駐車場が見える。停められた黒のベンツには幸円仁が運転席に、そして後部シートにグリンフェルドともう一名見知らぬ外国人が乗っているのが確認できた。
「ちょっといいか?」針之介は少し難しい顔をして言った。
すぐ戻るので遠慮なく始めてくださいといい置いて穂刈は針之介の後に従った。穂刈が近付くと、車の中にいた3人が降りてきた。
「新年おめでとうござんす。久しぶりだね。ポカリスエット」
グリンフェルドは嬉しそうに大きな手で握手を求めてきた。その手を穂刈は握り締めた。
そのあと紹介されたネスミスとも握手を交わしたあと穂刈は針之介を見た。
「いよいよ始まりそうだ」
神妙な顔をして伊達針之介はいった。勿論サニー・ガハラによる攻撃のことだ。
「いつ?」
穂刈は尋ねた。
「GO-10号という攻撃用特殊潜航艇が出動した」伊達に変わってグリンフェルドが説明役となった。「何のことか見当もつかんが、時空間とか言うところを切り裂いて進むらしい。つまりあの世とこの世を張り合わせた部分を剥しながら進むということらしい」
穂刈はグリンフェルドの説明に曖昧に頷いた。
「分るのかポカリスエット」
グリンフェルドは穂刈が頷くのを見て少し驚いたが、すぐに日本人特有の愛想笑いだと見抜いて先を続けた。「まあそんなことはどうでもいいが、GO-10のスピードから逆算すればどうやら5日が最有力だろう。」
「1月5日か……それでこちら側としてどうすればいい」
「それが、困ったことに……まったく分らんのだ。サニー・ガハラのターゲットが天正沼だってことはほぼ間違いないんだがこっちの天正沼なのか向こうなのか、見えるのか見えないのか……時空間なんてことを言われたらもうお手上げだよ」
「分かった。とにかく向こうと連絡を取ってみよう」
穂刈はそこまで言って自分たちが寒い中で立ち話をしていることに気付いた。
「大勢集まって新年の祝い事をしているよ。顔を出していかないか」
穂刈が誘うとグリンフェルドは少し寂しそうな顔をした。
「そうしたいのは山々なんだが、時間がない。国へ戻ることになった。プレジデント・バッシュの命令だから止むを得ない」
「バッシュ大統領からの命令だって? 君はいったい…」
穂刈に問われてグリンフェルドが口ごもっていると伊達針之介が助け舟を出した。
「俺とおんなじ稼業だよ」
「そうだったのかい。また会えるよな。寂しくなる」
「きっとまた会えるさ。そのときはまた勝負しようぜ。ポカリスエット」
グリンフェルドは大袈裟な仕種で穂刈に敬礼し車に乗り込んだ。
伊達針之介も手の打ちようがないという顔で穂刈に視線を向けた。
「グランパから総理にGO-10に対する攻撃の許可を申し出たんだ、しかし許可は下りなかった。あっちの世界とかこっちの世界とか、そんな馬鹿げた進言を真に受けて自衛隊を向かわせることなどできんと言われたらしい」
「仕方がないさ。それに敵の戦力すら分からない状態なんだからね」
「しかし一応有事に備えて千歳の師団に待機するよう命令が出されたということだ」
伊達針之介は自分の力の限界を悟ったように、少し寂しそうに微笑んだ。
穂刈末人は針之介が車に乗り込み千歳国際空港方面に走り去るのを見届けて店に戻った。
ミスターXの喫茶店は新年の祝賀パーティーでもう盛り上がっていた。
サニー・ガハラの行動が直接何らかの影響を自分たちに、あるいはこの世の中に及ぼすのかどうかそれは穂刈にも予測できないことだった。しかし有難いことにあと4~5日の猶予はあるらしい。今は店で客たちと楽しくやって、夜になって一段落ついてからノビー・オーダと交信しよう。穂刈はそう決心して宴会の中に戻った。
「お酒、足りないわね」
恵子が楽しそうに笑って穂刈を見た。
「悪いな、あと二升、用意してくれるかい?」
穂刈が言うと恵子は指でOKサインを作って見せた。
2
2014年 ヨミランド
旧 中央麻酔株式会社社屋
セッシュ・ナオカはかつて自分の執務室だった部屋で、窓から差し込む日差しが少しずつはかなくなっていくことを黙って受け入れていた。
ノビー・オーダからの連絡でケルベロスの攻撃が3日後に実施されそうだと聞かされたのが昨晩のことだった。システムは既に起動させてある。しかしやり残したもうひとつの仕事があった。それを仕上げるためにセッシュ・ナオカは再びこの元事務所へと足を運んだのである。
セッシュ・ナオカは到着してすぐ仕事の準備を済ませた。そしてこの部屋に入り自分の椅子に腰を下ろした。まだ日の高い時間だった。それが腕時計に目をやるともう午後4時になろうとしている。
ナオカは苦笑した。
ノビー・オーダの説明に納得がいかないということではない。自分の気持ちの中にしっくりこないものがあるだけなのだ。何だろう? そんなことをぼんやりと思っているうちに日も傾き始めたのである。
ノビー・オーダがいったように転生ポイントがリンクさえしていればどちらかの世界から攻撃を受けて沼が破壊されても、破壊されたポイントはすぐに再生する能力を有している。これは正しいのだろう。反対にリンクしていなければ攻撃によって破壊されたとしても、もともと何もないのだから変化が起ころうはずがない。要するに意味がないのだ。そんなことは誰にだって想像のつくことではないか。ならばなぜサニー・ガハラは無駄なことと承知しながら敢えて強行しようとするのだろうか? ナオカは何もない執務室の虚空を睨みながら首をかしげた。
いったいケルベロスなどというわざとらしい名前をつけて動いている組織の目的は何なのだろうか?
創造主族がその理想とする世の中を維持するために、革新派となりうる転生族の霊魂を予め抹消することだ。そうミッチ・アキュは推理している。
セッシュ・ナオカはそこまで考えて愕然とした。
中央転生センターに一元管理される転生行為はあくまで合法なのである。また天正沼の水抜きについても年度計画として予算化されているように後ろ指を差されるべきものでもない。結果として転生族の霊魂が管理者によって削除されるようなことが現実になったときにケルベロスの謀略は始めて違法性を帯びるのであって、現在はまだその事例は一件もない。
思想弾圧の対象となりそうなオットー・タイスケンが率いる民主化運動にしても、今はまだ届出により認められた合法のデモンストレーションに過ぎないのである。
ではケルベロスという組織はいったい何を目的に攻撃を強行しようとしているのだろうか?
民主化運動など今のレベルならば自由自在に操ることができるから、その対象になりはしない。意見は取り入れているという風を装って、その実自分たちの思うままに取り込むことなどいとも簡単にできることだ。
敵が今最も恐れているのはもっと個々のこと。
つまり……
ほぼ正確に謀略を知り、そうはいかないと反旗を翻しているもの……
ミッチ・アキュ、ノビー・オーダ、オットー・タイスケン、セッシュ・ナオカそしてタクラ・マクラ。奴らが現在最も敵視しているのはこの5名、つまり我々のことなのだ。
ノビー・オーダたちとケルベロスの謀略を阻止しようと動いた数年間は確かに充実した時間だった。しかしあまりにも何事もなく過ぎ去ったような気がする。ここにいたるまで自分たちの行動を取り締まられた記憶もまったくない。あまりに自由に何事も運びすぎた。
セッシュ・ナオカは唇を噛んだ。
きっとサニー・ガハラによる攻撃が終了したなら、次は治安部による取締りが始まるのだろう。そして自分たちメンバーは、ブラックリストに記載されている中心人物として一掃されることになるのかもしれないのだ。
攻撃は間違いなく実施される。沼がリンクしていても、そうではなくても同じことなのだ。民主化運動に参加している人間たちに対しても、そのほかの一般的な人間たちに対しても等しく主導権は創造主族にあるというスタンスを見せ付けるためなのだ。負けはないといっても結局淘汰されるのは自分たちなのだ。セッシュ・ナオカは煙草を銜えて火をつけた。
セッシュ・ナオカは椅子から立ち上がり、銜え煙草のまま部屋を出た。無人の事務所を抜けて廊下に出ると、揮発性の異臭がナオカの鼻腔に漂ってきた。起動させたシステムをそのままにしておいては、もし敵が調べに来たりしたときにすぐ発覚してしまう。だからナオカはシステムの上を、今はもう見向きもされなくなったかつて自分のものだった社屋の残骸で覆い隠してしまおうと考えたのである。
それは自虐的思い付きだった。しかしこの年齢になって役所に戻る道もつぶされ、挙句の果てに仲間内からも職探しは自分でするしかないなどと冷たく突き放されたことから、ナオカの精神が鬱の状態になっていたとしても不思議はなかった。
セッシュ・ナオカは銜えていたタバコを肩越しに指ではじいた。火のついたままのタバコは放物線を描いて廊下に火の粉を散らした。
廊下はセッシュ・ナオカが振りまいておいたガソリンをたっぷり含んでいた。古びた社屋が炎を上げるには、タバコ一本の火の粉で十分だった。
セッシュ・ナオカの思惑通り元中央麻酔株式会社の社屋は燃え尽きて、転生システムを覆い隠すようにその上に崩れ落ちた。
しかしここでナオカが考えても見なかったことが起こった。
強いひと吹きの風が炎を森へと運んだのである。
森は風にあおられ火の粉をあちこちに振りまき、たちまち森全体が暮れていく空を赤く染めた。
セッシュ・ナオカは芝生広場を駆け下り天正沼に飛び込んだ。そこなし沼と恐れられる沼はナオカの体を容赦なく引きずり込んでいった。沈みながらセッシュ・ナオカは赤く染まる森を見た。やがて実行されるだろう攻撃のときも、沼はこのような風景を見せるのだろうか?
薄れていく意識の中でセッシュ・ナオカはそんなことを考えていた。
3
GO-10号
掘削運航や量子砲による破壊活動などすべてのテストを終えたGO-10号は、進路を天正沼に向けて進み始めた。サニー・ガハラはウォルフガング・ユルゲンスとともに実行してきたGO-10号の性能試験のデータを分析して満足の笑みを浮かべた。
「計算によれば……」サニー・ガハラは作戦デスク上に海図を広げ「本艇の現在位置はここだ」といって赤ペンで印をつけた。
ユルゲンスは大きく頷いた。
「目標の天正沼はここ」
海図上の目標地点に丸印をつけ、現在地との2点間を定規を使って直線で繋いだサニー・ガハラは、「目標までの距離94コンマ8キロメートル。テスト航行時の平均速度から推定すると約8日間で到着することになるが、間違いないかな?」と問い詰めるような口調で言った。
「到着はそれより少し早まると思う。抵抗値の小さい軟岩盤地域や水脈部分もありそうだからね。サニー」
ユルゲンスの答えを聞いてサニーは嬉しそうな笑顔を見せた。
「ユルゲンス、するってぇと、何かい? 今日は30日だから、31,1,2……」と、指を折って「遅くても7日には実行できるというわけだな」
「この調子なら5日には到着すると思う」
「すばらしい。すばらしい成果になりそうだ。ありがとう!」
サニー・ガハラは心の底からユルゲンスと潜航艇を操舵しているスタッフたちに賛辞を送った。
漕艇をスタッフに任せたサニー・ガハラは、ウォルフガング・ユルゲンスを引き連れて艦長室に戻った。暗証番号を入力してドアを開けユルゲンスを部屋に通したサニーの後でドアの閉まる音が聞こえた。
「遠慮せずどこにでも腰掛けてくれ」
サニーに言われてユルゲンスはソファーに腰を下ろした。フェルトの柔らかそうな生地を貼ったふたりがけのソファーは、ユルゲンスの恰幅の良い体を受け入れるともはやだれひとり並んで腰掛けるゆとりはなかった。
サニーはキャビネットからウィスキーを取り出してグラスとともにテーブルに置いた。
「俺はあまりよく知らんのだが、高級な酒らしい」といいながら無造作に封を切ってサニーはグラスに琥珀色の液体を注いだ。
「氷が必要なら冷蔵庫に入っている」
サニーは冷蔵庫を目で示した。
「いや。ウィスキーはぬるめのストレートに限るんだ」
ユルゲンスはグラスからほんのひとくち口の中で転がして、本当に美味そうに目を細めた。
「なあサニー」
酒が進むと。ユルゲンスは次第に饒舌になってきた。
「俺はケルベロスに入会するまで、まさか夢だったこの潜航艇を実際に作り上げることなどできるはずがないと思っていた。だからサニー。君には心から感謝しているんだ。知っての通りこのGO-10号は強力な戦艦に匹敵する武力を有している。君がこの船をどう使おうが何も言わんし、反対もしない。それを約束するから教えてもらえんかな? 君が腹の中で温めている計画についてを……」
話題を振られたサニー・ガハラにも、酔いが既に自分頭脳を支配し始めていることに気付いていた。
これまで計画の真意を説明したことはない。それをするためにはまず自分の身の上を語る必要があるからだった。今目の前で高級酒をまるで立ち飲み屋のコップ酒のように呷っている巨漢ウォルフガング・ユルゲンスにしても、こちら側で雇い入れた乗組員たちのひとりなのである。それを語ったとしても信じられるはずもなかった。そう決め付けて今まで口を閉ざしていたのである。それがこのときに限って話しておこうと決心がついたのは久しぶりに入ったアルコールのために違いない。
「話してもいいが、信じられん話だと思うぞ」
サニーが前置きするとユルゲンスは「なあに、一向に構わんさ。お父さんが犬だってことさえ数例見せられると当たり前になっちまう世の中だからね」と受け流した。
サニー・ガハラの説明を一通り聞き終えるとユルゲンスは大きなため息をひとつついた。
「確かに不思議な話というほかないな。しかし君がこれだけ熱を入れて話したからには、事実だと信じるほかなかろう」
「本当に信じるというのか?」サニーのほうが少し面食らった。
「信じようが信じまいが、それは俺の問題だよ、サニー」
ユルゲンスは少し笑ってグラスに残ったウィスキーを飲み干した。
包み隠さず話した自分のほうが、守勢に回ってしまったようにサニーは感じた。
「ヨミランドとか言う君の世界を俺は知らない。だから君が理想とする世の中のありようと、革新勢力が掲げるそれとを比べたとき、はたしてどちらが良いか? そんなことは俺には言えない。というより君たちの問題だ。ただ、君のいう技術的な面の部分に、おや? と思う部分がある。転生ポイントとリンクポイント。君がそういっていた部分だよ」
ユルゲンスはサニーを見た。その目は科学者の探究心旺盛な光を宿していた。
「どういうことだ?」サニーはユルゲンスの答えを待った。
「いいかい、きみは説明の中で向こうの世界とこっちの世界の天正沼をリンクさせなければならないのでシステムのスイッチをONにしておかなければならないといったね」
「そのとおりだ」
「可笑しいよ、それは」
「なぜ?」
「じゃあ聞くがね、システムが出来上がる以前は天正沼じゃあなかったのかい?」
ユルゲンスは悪戯小僧のような視線をサニーに投げた。
サニー・ガハラは一瞬口ごもって、口をパクパクさせた。
ユルゲンスは楽しそうに笑って
「そうだと思ったよ。きっとスイッチのオン・オフから先の部分は、転生という行為に人間の意思を反映させようと追加した部分だと俺は聞いていて思った。この人物は1050年に転生させようとか、この女の転生先は沖縄にしようとかいった具合に、コントロールする部分だろうとね。それが長い年月の間にシステムなんていう冠をいただいて、いつの間にかスイッチを入れなければリンクすることもないというようなイメージが構築されてしまったんじゃないかな?」
いわれてみるとそのとおりかも知れなかった。転生という行為は何百年も何千年も前から行われているはずなのだ。だから……どっちにしても天正沼のリンクはなされているのだ。スイッチがONだろうがOFFだろうが気にすることはないことになる。
サニー・ガハラは安堵の笑みをうかべてウォルフガング・ユルゲンスを見た。ユルゲンスはグラスを持ったまま幸せそうな寝息を立てていた。
4
2014年1月5日
「キャプテン・サニー・ガハラ。操舵室までお願いいたします」
スピーカーを通したユルゲンスの声でサニー・ガハラは目を覚ました。室内灯をつけ枕元に置いたインターフォンのスイッチを入れる。
「どうした?」サニーはまだ少し眠そうな声を出した。
「まだお休みでしたか? 申し訳ありません。まもなく目標地点に到着いたします」
サニー・ガハラは時計を見た。液晶の文字盤には1月5日午前9時の表示が読み取れる。
「わかった。すぐ行く」
返事をして、サニーはインターフォンのスイッチを切った。
急いで身支度を済ませ操舵室のドアを開けると、総ての乗組員たちがサニー・ガハラを拍手で迎えた。その中にはウォルフガング・ユルゲンスの姿もあった。
サニー・ガハラは歩み寄り、握手を求めて右手を差し出した。
「おめでとう」
ユルゲンスは椅子から立ち上がってサニーの正面に姿勢を正して立ち、サニーの右手を握った。
「12分前に一般空間からこの異次元空間に入りました。計算どおりで、漕艇に何の差し障りもありませんでした」
スタッフの一人が進み出て報告する。
「了解。皆良くがんばってくれた。さあ、あと一息だ。気を弛めずにな。総員航行配置を維持せよ」
サニー・ガハラの号令に乗組員たちは直ちに持ち場に戻った。
サニー・ガハラとウォルフガング・ユルゲンスはオペレーションホールの中央部後方の壁から半円形にせり出したキャプテンブースに上がった。オペレーションホールから左右についた2段のステップを上った雛壇のような場所である。半円形のステージには周囲に手摺が取り付けられ艦長用と副艦長用の2客の椅子が備え付けになっている。そしてそれぞれの椅子の前にはマイクを乗せた小さな演台が置かれていた
総員が配置につくのを見届けてサニー・ガハラはマイクを持った。
「フロントビュー・オープン!」
サニー・ガハラの指令にオペレーション担当乗組員は速やかに反応を見せた。
「復唱。フロントビュー・オープン」
オペレーターがスイッチ操作すると艇前面の窓を覆ったシャッターが、ゆっくりと左右に開いていった。
「フロントビューだってよ。前は『前面窓開け!』だったのに」
オペレーターは小さな声でサブオペレーターに言った。
「ひとの言い様なんてのは変わるもんだよ」
サブオペレーターは含み笑いのような笑みを見せた。
オペレーションブースは大型旅客機のコックピットを連想させた。無数とも思われるスイッチやボタン、そしてメーターなどの計器類が所狭しと並んでいる。
航行時にはチーフオペレーター、サブオペレーターそしてレーダーサイト担当者の3名が1チームで操舵に携わる。しかし掘削や戦闘のない通常の航行の場合にはひとりでもオペレーションが可能な『簡単モード』を選択することもできた。
オペレーションブースとフロントビューの間にアタッキングブースがあった。
アタッキングブースはオペレーションブースの左右どちらからでも降りることができるステップがついており、フロントビューの下にもぐりこむ形で2メートルスクエアの小さなスペースになっている。一般魚雷、熱追尾ミサイル、量子砲などアタッキングツールの選択ボタンと攻撃方向設定パネル、あとは発射ボタン(単発用と連打用)があるばかりの隠し部屋のような作りである。ユルゲンスの設定ではもし海中で軍事衝突が起きた場合にはフロントビューのように明かりを外に対しても発散させてしまうものは本来なら邪魔になるだけだということだった。GO-10においてもアタッキングブースに戦闘員が入ると、艦のフロントビューはオペレーションブースでロックしない限りクローズする仕組みだった。変わりにアタッキングブースに組み込まれた小さなビューが開くのである。
やがてフロントビューを覆っていたシャッターが動きを止めた。
窓外に広がる光景を目の当たりにした乗組員たちはそろって感嘆の息を漏らした。
特殊潜航艇GO-10号は周囲をオーロラのような幻想的色光に包まれ、誰もまだ見たこともない空間に浮き漂っていた。
「これが時空間?」
サニーがつぶやくのを聞いてユルゲンスは「どうやらそのようだな」としか答えようがなかった。
虹色に揺らめきながら艦を取り巻いた時空の妖光は、潜航艇の乗組員たちに感動を与えていた。時空の揺らめきの要所要所に目を凝らすと、こちら側も向こう側も関係なく各地の風景が光の向こうに見え隠れしている
両方の世界に存在する天正沼の様子も、見知らぬ場所の風景の中で揺らめいていた。
サニー・ガハラは難問をようやく解いた子供のように「これがリンクの意味なんだ」と大声を上げた。今フロントビューの向こうに広がる光の空間は天正沼というリンクの全体像なのだ。天正沼はサニーが知っている2箇所だけではなく、今目の前に揺らめいている見知らぬ天正沼とも確実にリンクしているということだろう。
光の中にに姿を見え隠れさせている複数の天正沼は要するに器のようなもので、転生に必要な沼の水は今サニーが見ている美しい彩光に違いない。ならば古からの言い伝えどおり個々の沼から水を抜いたとしても、他の沼がたちどころに修復してしまうということも分るような気がした。
ヨミランドで転生行為の一元化がスタートすれば、霊魂の選択の件も含めて、創造主族の企てだと言うことはじきに発覚する。自由化運動の活動家たちはそのときどうするだろうか? きっとリンクの意味を突き止め、このリンクを使って反撃に出ることも考えられる。そんなことになったならば明るい未来どころではない。謀略のツケとして混沌の時代が創造主族を襲ってくることになるのかもしれないのだ。敵に強力な兵器となりうるものを残しておいてはならない。
サニー・ガハラはもう一度きらめき流れる空間を見た。
天正沼森林公園の天正沼を湖底から覗き上げた風景があった。空が赤く染まっている。
「ユルゲンス」
サニーは副艦長の椅子に座るウォルフガング・ユルゲンスに声をかけた。
「ヨミランドの天正沼の空が真っ赤になっているのはなんだろう?」
「火災が発生しているようだ。大規模な森林火災だよ」
「山火事?」
「そうだ。全てを焼き尽くすまで燃え続ける」
ユルゲンスの返事を聞いたサニー・ガハラは決心したようにマイクを持って立ち上がった。
「アタッキングブース・スタンバイ!フロントビュー・ロック」
時空間に入った特殊潜航艇GO-10号内にサニー・ガハラの号令が響き渡った。
エピローグ
2014年1月5日
観光農園サニーファーム
ズズズン。ズズズン。
得体の知れない巨獣が断末魔を迎えてのた打ち回るような振動が、雑木林の向こうから捨文王宅にまで伝わってくる。
内閣調査室ではつい先刻まで御用始のセレモニーが執り行われていた。
セレモニーといっても朝9時から捨文王の訓示があるだけで、あとは職員全ての士気を高める宴席が準備されているだけのものだった。その宴席も伊達針之介の万歳三唱で、今解散になったところだった。
「この地響きはいよいよ攻撃が始まったということかもしれません。レースまでまだ間がありますから行って見ませんか?」
伊達針之介にそう誘われて捨文王は腰を上げた。
「んだなぁ。天正沼でなにが起きてっか見届けねばならねえべな。この忙しい時によぉ」
少し機嫌の悪い声を聞かせながら、捨文王は身支度を整えた。
幸円仁が玄関先に遭難者救助用の雪上車を回した。捨文王と伊達針之介はキャタピラーを足場にして吹きさらしの座席に乗り込んだ。
つい今しがたまで降り続いていた雪がうその様に止み穏やかな青空が広がった。
雪上車はどこまでも白一色の平原をひたすら走り続け、やがて雑木林に辿り着いた。
3人は雪上車から降り伊達針之介を先頭に捨文王、幸円仁の順に雑木林の細い獣道に踏み込んだ。ゴム長靴を履いていたけれど、新しく積もった柔らかな雪が足にまといついて、ほんの少しの距離を抜けるだけでぜいぜいと息が切れた。やがて3人は天正沼の畔に出た。
沼の畔には先客がいた。穂刈末人だった。
穂刈は折りたたみ式のパイプ椅子を広げて座っていたが、捨文王老の姿を見てすぐに立ち上がり椅子を譲った。
「おお。これはこれは」捨文王は礼を言った。
だがそんな微笑ましいやり取りがあったことに気がついた者など誰もいなかった。天正沼の光景は、ひとの心配りなどどこかへ消し去ってしまうほど幻想的でかつ凄まじいものだったのである。
いつもならばどんよりと澱んでいるはずの沼水は虹色に輝き、天正沼という器の中でゴーゴーという激しい音を聞かせながら大きな渦を巻いている。そして眩い渦の底からズズズン、ズズズンという不気味な唸りが次第に大きくなりながら水面に向かって近付いてくるように聞き取れるのだった。
何だろう。4人はお互いに顔を見合わせた。
4人は少しでも足場の固そうな場所を探した。そして4人横並びに立ち虹色の波の上に、身を乗り出した。その瞬間、特急列車が急ブレーキをかけた時を連想させるような、けたたましい金属音を聞かせて、大渦の中心から天頂を目指すように飛び出したものがあった。巨大な掘削ドリルをつけた特殊潜航艇GO-10号であった。
虹色に輝く水しぶきを振りまきながらそれは垂直に天頂を目指した。しかし潜航艇は自らの体をほんの半分ほど晒すことしかできなかった。推進力を失ったGO-10号は動きを止め、反対に渦潮の中に沈んでいった。
「あれが……」捨文王が呆けたように逝った。
「はい。GO-10号です」ただひとりGO-10号を知っている伊達針之介が答えた。
4人は再びGO-10号が姿を現すのではと沼を凝視した。
しかしそれきりだった。
虹色も渦巻きも消え、沼は普段と何一つ変わらない雪の天正沼へと戻っていた。
ヨミランド
元・天正沼森林公園
まる二日間燃え続けた森林火災も消防局の懸命な消火活動によって鎮火に向かっていた。
ミッチ・アキュとノビー・オーダはかつては大衆に解放されていた転生沼森林公園の入り口付近で足止めを食っていた。空陸からの消火活動に邪魔になるということで、それより先は立ち入り禁止の措置がとられていたからだった。
天生沼森林公園のゲートをくぐり管理棟の所までは行けたが沼の周囲を巡り芝生広場まで行こうと思ったのだが遊歩道はその入り口のところに既にテープが張られ通行不可の標識が出されていた。
管理棟から見渡すとちょうど対岸に望むことができる芝生広場は、確かに今も燻ぶりを見せており、消火に当たった係官らしき人間たちが忙しそうに走り回っていた。
視察にやってきた警視局捜査本部長タクラ・マクラがアキュを見つけて歩み寄った。
「局の名前を出せば向こうにいけるが、今日はおとなしくしていてくれ」
そう言葉に出してアキュを牽制した。
ミッチ・アキュは了解した。
結局一連のできごとを振り返ってみると、ことさら取り上げて言わねばならないような事件など何もなかった。ケルベロスと命名されたサニー・ガハラが率いるグループが何か騒ぎを起こしたかといえば、今のところ何もない。自由化運動の中からケルベロスの陰謀を噂話として広がるように画策したが今のところ何の問題にもなっていない。
ただひとつ、セッシュ・ナオカだけが法律を犯したのだ。放火である。
きっとセッシュ・ナオカはシステムのリンクが発覚しないようにという思いで放火を考え付いたのだろう。普通ならば思いついても実行などするはずのないことである。しかしナオカは実行に移した……。タカマ・ガハラに裏切られたことがナオカの心に波紋を投げたのだろうか。
「アキュ。ちょっと来てくれ」
自分を呼ぶ声に目を向けると、タクラ・マクラ本部長が管理棟の入り口で手招きしていた。
アキュは「ここで少し待っていてくれないか」とノビー・オーダに言い置いて本部長のところへ向かった。
タクラ・マクラはアキュがすぐそばまで来るのを待ち、周囲に誰もいないことを確認すると、「怖いものだな。自然発火というのは……以上だ」と囁いた。
「了解しました」アキュは敬礼してノビーのところへ戻った。
突然あえぐような機械音が聞こえた。
次の瞬間天正沼の中心からオーロラのような光が炸裂し、沼水全体が虹色に変わって渦を巻き始めた。
呆然と見守るノビー・オーダたちの目の前で虹色に光る水の中から掘削装置をつけた潜航艇が轟音を響かせて天頂へと垂直に飛び出した。しかし潜航艇は水の中にあと3分の1ほど残したところで力尽きた。
そして特殊潜航艇が水中に沈むと、何もなかったように全てが元に戻った。
GO-10号操舵室
サニー・ガハラにもウォルフガング・ユルゲンスにも事態が絶望的であることは察しがついた。
「リンクした時空間の中に入っちゃいけなかったんだよ」
ユルゲンスは呟いた。
「どういうことだ」
サニー・ガハラはユルゲンスを咎めるように語気を強めた。
「仕方がなかろう。もともと私の方には転生なんていう概念はないんだから」
ユルゲンスは噛み付いた。
「時空間の中に入れば取り込まれてしまうんだ。ただその表面にコバンザメのように貼りついていれば良かったんだ」
「今となってはもう遅い」
「表面を移動していろいろな場所にいけるんだよ。こうしてリンクの中に入ってしまっては、出ることさえできないんじゃないか? え、出られるのかここから、」
「初速が不足だ」
「速めろ」
「材料も道具もないだろうが!このばかやろう」
「バカとは何だ!」
ふたりの言い争いは延々と続きそうな気配を見せていた。
ミスターXの喫茶店
サニーとユルゲンスの言い争いなどお構いなしに、ミスターXの喫茶店には捨文王、針之介そして幸円仁のほか数人の牧場関係者たちが集い始めていた。
時間は午後2時を回ったところである。
中山金杯のスタートまであと1時間半。ファンにとって興奮と幸福を感じるひと時だった。
「ねえ、グランパ」窓際に座った牧場主のひとりが捨文王に向かって声をかけた。「金杯、もう買ったんですか」
「おう。買ってねえわけねえべさ。2番が頭でな……」
捨文王が答えると、店内にどっと笑い声が上がった。
客席のひとつにこしかけ笑顔を振りまきながら、ミスターX、いや、穂刈末人はテレパシーを使ってノビー・オーダと交信していた。
「あ、ノビー。明けましておめでとう。今年もよろしく」
了
続・ノビーとアキュとミスターX――ケルベロスの謀略
物語を作っていると登場するキャラクター連中が次第にこしらえた世界の中で息づき始め、物語が終ってしまってもなお自分勝手にその仮想空間で生活を営んでいるようです。キャラクターたちがまともな人種ならば良いのですが、何をしでかすか分らない面々の場合その世界の秩序を護っていかなければならない責任が、筆者にはあるのかもしれません。ところがもともとハチャメチャな連中ですから筆者にも何がどうなっているのか(どうなって行くのか)見当がつかず、ただ彼らの行動を命ぜられるままに書きとめておくしか方法がないのです。そのため結果として何がなにやら判らない奇怪な作品を形だけまとめて完成させ、それで納得しようとするわけです。云ってみればガス抜きみたいなものでしょうね……
そんなわけですからまた暫くしたらミッチ・アキュやノビー・オーダ、ミスターXたちが暴れだすこともあるかも知れません。そのときにはまた優しく、暖かく迎えてやってください。 かがりかずみ