譲れぬもの
何時、いかなるどんな場所にも、活況不況の波はあるもので、
特に波の大きい私の立場に、能を痛めるネガティブな波が押し寄せたのは、
つい最近のことだ。
正直な所、自分の手では大いに余る余談を許さぬ状況下に私は頭を抱えていた。
そんな、未曾有の危機にある、私の元に一人の男がやってきた。
彼は私の業界でもかなり有名で有能なデザイナーである。
手がけるデザインを知らぬものは恐らく居ない。
先日も友人が彼に仕事を任せたお陰ですべてが片付き、これで新規プロジェクトに
取り掛かれると興奮しながら言っていた。
それほどまでに、彼のデザインは革新的で斬新なのだ。
「倒産の危機にあると聞いて飛んできました」
どこでウワサを聞きつけたのだろう、彼は不敵に微笑み、
椅子にかけてやつれた私を睥睨する。その手には、一枚の紙切れ。
「如何です?私を雇えば、貴方の危機を救えるとおもいますよ」
意気揚々と、彼は自作の契約書を私に差し出して両手を組んで微笑む。
私も両手を組み、彼と契約書を交互に見やりながら、
眉間にシワを寄せて軽く睨む。
彼は、私が10割の確率で「応」というのを予想しているのか、
泰然と微笑み、待っている。
『彼の言うとおりにすれば、きっと、とても楽に、そして素敵になるだろう』
友人達の成功と新しい門出を目にしていた私に、
この誘いは非常に魅力的で麻薬的である。
しかし、それが例えフェンサイクリジンが引き起こす天使の幻覚にも似た
陶酔的な煌きで、指を伸ばしてしまいそうになったとしても、私には
譲れぬ挟持というものがあった。
そう、麻薬に手を出さぬと、願と譲らぬ宗教的熱狂者のように。
「君は既存の物で、できうる限りのものを壊さず、崩さずできるかね」
絶対に譲れぬ問いを私は投げた。
すると、彼は目を丸くして、唇を釣り上げてわざとらしく、大きなため息をつく。
「ナンセンスですね」
「ナンセンスでも、譲れない」
そう、譲れないのだ。
いくらどんなに高い代価を支払ったとしても、これだけは。
壊さず崩さず、秩序を保ったままに美しく革新的に出来なければ意味が無い。
そんな私の古い頭を笑うように、彼は皮肉たっぷりに片方の口元を、
これみよがしに吊り上げて、声高に私に言う。
「他の方々は私の発想を買って、そして全て成功した、貴方にはわからないのですか?!」
「もう一度いう。壊さず崩さず、できるのかね」
「創造に破壊は必要です。特にこの業界は!貴方は特にそれが必要だろう!!」
彼は、軽薄なその笑顔を私の顔の傍まで近づけて、小首を傾げて問う。
私がそのまま俯き、その契約書を破り去ると、彼は目を剥いて、そして歯を剥いて唸った。
「……強情ですね。このまま潰れてもよろしいと?」
「……私は既存の物で、できうる限りのものを壊さず、崩さず続けたい」
職人魂、懐古主義。否、それは、古い人種の悪あがき。
きっと友人達はこぞって私にそう言って笑うのは、目に見えていた。
目の前のデザイナーさえ、瞳に不愉快な視線と、口元には蔑笑を湛えている。
これがまさしく、世界の総意というやつだ。
そんな彼等に対して、手のなかで丸めて屑籠に放り入れる作業でもって、返答とした。
「後悔しても知りませんよ」
破り去った契約書を、私が屑籠に捨てたのを見ながら、デザイナーは言い放つ。
「なんとかするさ。うちの者たちで、なんとか」
踵を返し去っていくデザイナーの背中を見つめながら、私は軽くため息を付く。
一部始終を見ていた私の部下たちが、不安そうに私のデスクに歩み寄った。
「本当にこのまま、これを維持するんですか」
部下の一人が、私の机の上に浮かんだ緑と水の星を見つめながら、言う。
私も彼とともに、自分の地球を見つめる。
「なに、今までやってきた。昔通りにすればいい」
「……私達にできるでしょうか」
「何時もよりちょっとだけ大変なだけさ。いずれ道は開ける」
私は微笑んで彼等を見渡して頷くと、彼等も不安半分ではあるが、
納得するように相槌を打ってくる。彼等とて思いは同じであったようだった。
さっき契約を求めてきたデザイナーの彼ばかりではない。
沢山の創造者達が、私に一度この星を破壊して、まっさらになった
星でのデコレートを求めるが、私はこの星の全てに主入れが深かった。
一緒にこれを不安そうに囲む、古き良き仲間たちと共に作り上げたコレを、
このまま存続させて行きたいのだ。
もしも地球を壊さず崩さず、しかしこれをより格調高く美しく創造してくれるのなら、
私は高いデザイン料を払ってでも雇うだろう。
しかしできる限り早く、廃れて仕舞う前に、革新的で破壊の鎚を使わぬ
天才的なデザイナーが現れてほしいものだと、ほんの少し黒く煤けて嫌な匂いを
出しはじめた愛しい地球を眺めながら、私は考えていたりもするのだ。
譲れぬもの