しあわせだ。あえてよかった。だいすきだ。

ちー

「こんなんなら、先輩に会いたくなかったよう」


 半ば諦めたような口ぶりでそう呟いた後、メイはカクテルグラスの中のペールオレンジを煽った。甘いヨーグルト味の芯からアルコールが湧き上がる。咽喉を突く圧は、この侵入をカラダが喜んでなどいないことを知らせていたように思えた。それでもお酒が欲しくなる日は多々あって、彼女自身が決めた「美味しいお酒」を彼女は持っていて、それを呑みほし、身体の中身からやってくる圧力に耐える。不毛だな、と思ったことはなかった。煙草と博打には微塵も興味が湧かなかったこととそれとの違いは、彼女にはわからなかった。

 山内メイは、お酒が好きな、フツーの女子大生だった。



 薄い生地のカーテンで間仕切りされている店内。夜に飲まれかけた夕日のような控えめな照明が、固めのソファに二人分の影を作り、机の上の空いたグラス達に光を移している。
 澤田ハルカとは中学一年生以来の腐れ縁で、同じ市内の中学生が通う学習塾で出会った。無事、県下数番目、上の下の進学校に二人して進学。3年間同じクラスになることは一度たりとも無く、安穏と過ごし、人並みに受験を終え、この海辺の街へ進学してきた。進学先はまた別だったけれど、下宿は目と鼻の先だった。だから、何かあるにしろ無いにしろ、こうしてよくグラスを寄せ合う8年目。

 初めての彼氏にもらった初めての安いペアリングを大泣きしながら海に投げた次の日に、塾の宿題をうつすことに必死になっていた、メイとハルカのあの頃。変わったのは、メイクの濃さと、爪の伸ばし方。髪の色。「初夜に置いとく」的貞操観念の喪失。


「惚れた弱みってやつ?とハルは思います」

「惚れてなんか、ない、とは……言えないのでしょう」

 二人して外国映画に出てくる学者のように、大げさな手振りで意見を交わし、シャボン玉が割れるような小さな笑いを共有する。そうやって、二人による、二人の為の、あられもない言葉の調理が始まるのが常だった。食材はそれこそ周囲の男性陣であったり、バイト先のドロドロ劇場であったり。音楽、ショッピング、授業、就活、何だって良かった。


 そして、今夜こっそりと切り刻まれるは、メイの大事な、大事な「タロちゃん」。


 「タロちゃん」こと田口浩平(たぐちこうへい)はメイと同じ言語学科の、一つ上の先輩。縦にも横にも大きな体躯の割に、面倒見がよく、良く回る口ぶり。講義でいつも手を挙げ、後輩とキャッチボールをし、他の先輩にも可愛がられている人だった。末っ子のメイが彼に懐くのに、時間はかからなかった。

「3ヶ月前までは、私達、1年生だったじゃん?タロちゃんは『後輩を可愛がる俺』が好きなんだよ。だからさ、うちら2年生になって、1年生で入ってきたコにも、甘えるの上手なコが居てさ、それで」

「タロちゃんが1年生を構いにいくの、面白くないんでしょ?」

「…………ですかね?」

それ以外に無いだろーが、というハルカの声が、ばつの悪そうな顔をしたメイに長細いメニューの向こう側から届いた。


「それはね、完全にヤキモチってやつですよ。メイちゃん」


店員が注文を繰り返すのを聞かないハルカが発した言葉に、メイは「山・川」の合言葉を言うようにサラリと答えた。
「タロちゃんは、兄ちゃんみたいなもんだし。好きとかじゃないんだけどさあ」

「あ、出たよ。メイの『好きじゃないんだけどさ』!」

メイの作った困り顔を完全に看破したハルカが大きな声で一笑いしてメイの言葉を的確に捉えてみせた。仕方なしに注文繰り返しの義務を終えた店員が、そそくさとバックヤードに消えていった。


「『けどさ』、何よ? ハルちゃんに言ってごらん、メイ」


 メイは、いつもそうだった。


 田口浩平への愛情を自ら散々語った後で、聞いてもいないのに「好きじゃない」と言った。あくまでも兄貴分である浩平と自分の仲の良さは正当だと主張するように、自分に言い聞かせているようにもハルカには思えた。それは、おそらくメイ自身だって理解っていた。



「―――タロちゃんの、いちばんの後輩で居たいだけだよ。」



 メイは、いつもこうだった。



*****



 間の抜けた電子音と共に画面に表示されるメッセージ。「田口浩平」の文字に、丁度校舎の前に自転車を停めたメイは携帯の画面を片手で操作しながら前髪を直した。


   田口浩平:メイいまがっこ?

   田口浩平:ぱそこん使えん

   田口浩平:メイたすけてー

   田口浩平:たすけてー

   田口浩平:メイー


 ぽろん、ぽろん、ぽろん、ぽろん。
 浩平がメイの名前を呼ぶように、メッセージが次々と現れる。ついには、浩平が意味のわからないスタンプ画像を連打し始める。メイが返事しようとして編集画面を開くたび、新しい浩平の受信がそれを邪魔した。知らない間に頬が緩んでいた。返信は諦め、エレベーターに乗り込み、言語学科の3階を押す。そう多くない荷物を持ち直してエレベーターの中の全身鏡に向かい、メイはまた前髪に触れた。

 携帯が浩平のスタンプを受信したことを、今も躍起になってメイに知らせている。店員が注文を繰り返す声は聞かないくせに、この感情のない受信音の繰り返しを、メイは聞いていないような顔をして聞いていた。
 田口浩平がメイに向ける何かを嫌だと思ったことは、メイにはなかった。



「お疲れ様でーす」

 学部生が自由に使える学生の休憩室にメイが入ると、何人かの先輩と、顔と名前の一致しない一年生がメイに返事をした。授業の空き時間や暇をつぶしたり、荷物を置いたり、漫画と冷蔵庫と電子レンジが常備された、このやや汚くて快適な部屋にはいつも学科の誰かがいる。荷物を適当に置き、自由に使える冷蔵庫へ買ってきたサンドイッチを入れる。キャップの部分に名前を書いてメイが常備している、2リットルのスポーツ飲料をそのまま飲んだ。明らかに昨日よりも減っている。犯人はわかっていた。

「アユミ先輩、浩平さんは?」

「タロ? たぶん隣でレポートやってると思うよ」

 先輩に礼を返してメイは浩平のもとへ向かう。あくまでも、無表情で―――というよりも「タルいなー」という表情を作るのが、メイの得意技だった。

 浩平が、隣にいる浩平の同期や、一年生を呼ばずにメイにメッセージを送ってきたこと。
 浩平が電子機器が苦手で、メイが少し得意で、それを手伝えるということ。

 それだけのことがメイの一日に理由を与えた。

 隣の部屋、実践室の扉をノックもせずに開けると、小難しそうな表情をした浩平がパソコンをにらみつけていた。「待ちくたびれました」と、浩平がメイの方に座った椅子をくるりと回して向き直った。椅子に座った浩平よりも、立ったメイの方が少し背が高い。



「せんぱい、たすけに来たよ」



 にっと口角をあげたメイ。テンポの良い曲の小節間を埋めるようなタイミングで、浩平も笑った。次の拍で、パソコンの前にメイは迷いなく腰をおとした。浩平がリーチの長い腕を伸ばして連れてきた椅子に吸い込まれたメイが矢印を操り始める。

「なんかさ。このページの余白が印刷すると左にズレるわけです、メイさん」
「浩平さんこれ前も言ってたじゃん。この上んとこ、編集ってやつ。おして、いろいろするの」

そーだっけ、と言いながらディスプレイを覗く浩平の隣で、メイはやはり何でもないような顔を作り続けてざっくりと説明した。もっと丁寧な説明は出来るのだろうが、自覚があるのかないのかわざとそうしない。こうして浩平の助けになることが、メイを満たした。
 浩平は小さく息をつくと、椅子の背にもたれきって伸びをした。

「さんきゅ。さすが俺の一番弟子。助かる」

「うん。まぁ、弟子だからね」

確かめるようなやりとりを終え、いつも浩平はメイの頭にぽふと手のひらをのせた。「撫でる」というよりも軽いそれがメイはとても好きだった。



「……できた」

 メイの言葉と共に印刷機が唸り始める。浩平が立ちあがる。椅子に座ったメイよりも、浩平は壁のように高い。浩平のおなかにこつんこつんと頭をぶつけると、返事をするようにメイの頭をまた浩平は撫でた。まるで、食べ始めたお菓子が止まらないかのようだった。「美味しいから欲しくなった」。

 トントンと印刷物をまとめた浩平は、メイからホチキスを受け取ってぱちんと紙の束を留めた。部屋の電気を消して荷物を持ち、少しだけ暗くなった部屋で、最後に浩平は言った。

「――いいこ、いいこ」

 猫が大好きな飼い主に頭を撫でられるように、目をつぶってうつむくメイの頭にまた浩平は手のひらをのせる。浩平は、メイがそれで満たされることをきちんと知っていた。甘えるメイを甘えさせることで満たされる自分のことも少しは知っていた。

  多くの他人たちはおそらく自分を、善良な存在だと見なしていると浩平は思っている。そうありたいと願っていたし、そうあることで自分自身を穏やかにすることができた。「しっかり者」の「頼れる」人間でいられるかどうか。幼い時から俯瞰視点で自分を見てきた浩平は、結果出来上がった人間性と周囲の安定に疑いを持っているわけではない。それでも、一度知ってしまった視点を、浩平は忘れられなかった。常に自分が自分を監視している不安と、「善良な存在」でなくなってしまう瞬間への恐れがあった。

 目の前の体温は、浩平を求めている。浩平という人間で満たされている。そんな実体のない事実を、メイは具現化するのが巧かった。
 メイの愛情は、わかりやすい。それでいて初めから今までずっと揺らがない。だから「愛される自分の存在」を浮き彫りにしてくれる他者として、浩平にとってメイの存在は心地よかった。


 メイはメイで、誰かに必要とされて、誰かを呼べば返事があること。それが、幸福に直結していた。愛されなかったわけではなかった。人並みに恋愛もした。両親と兄からの愛情をいっぱいに受けた、少しだけさみしがり屋の20歳、それがメイだった。


「浩平さん、安心する」

メイはいつものようにそう言った。

「メイ、ありがとーな」

浩平もいつものようにそう言った。


 メイと浩平はお互いに確認しあうことで、自分自身を安らぎあわせていた。

しあわせだ。あえてよかった。だいすきだ。

しあわせだ。あえてよかった。だいすきだ。

仲良しの先輩・タロちゃんには彼女がいる。だから、メイは一番の後輩でいたい。 「もっと早く出会いたかった」と嘆くことで醜い恋を、タロちゃんのそばにいることを正当化する。 タロちゃんとの夜を重ねる。正当化し続ける。未来はない。 それでも、近くにいたい。 純愛と言いたいけれど、ただの浮気のお話です。 少しずつ更新していきます。

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