Stray Sheep
記念すべき投稿作品第一作目です。
これは今から10年ほど前に
自分で書き上げた同タイトルのつたない
創作文がもとになっています。
どうかご一緒に最後までゆっくり
お付き合いください。
2013/09/15
序章
「あら、おかしいわね。昨日買ったはずのお肉がもう駄目になってるわ。」
とある町の閑静な住宅街の一角、白で統一された綺麗なキッチンの端で、主婦がつぶやく。主婦とにらめっこしているのは茶色く干からびた牛肉。自らの能力にそれなりの責任を感じているのか、冷蔵庫が申し訳なさそうに主婦を見ていた。主婦は呆気にとられて扉を閉め忘れていた。こぼれる冷気は床をさらさらなでるだけ。真相を知るのは居間でごおんごおんと知らん顔で低く時間を告げる背の高い振り子時計だけだ。
「俺、居眠りしたの一時間目だったはずなのに、やべぇ」
暮れなずむ校舎の一番日当たりのよい教室で、強烈なオレンジの陽光に照らされる。とうとう男子学生は目が覚めたようだ。
一番後ろの窓際の席で、ガバッと体を起こすと、寝ぼけ眼で誰もいない教室を一望した。
「夢だったのかなあ。おかしいな。こんなことってないでしょ。夢かなあ。」
夢かうつつか判別もつかぬまま右に左に首を交互にかしげる。空っぽの教室に、校庭から野球部のランニングの掛け声が届いた。
「やっべ。」
ひったくるように机のわきにかかったよれよれの鞄をつかんで、男子生徒が校庭へとかけて行く。
この後ダッシュを十本追加されることになるのは、不敵に笑う教室の時計だけが知っている。
大きな橋の下。
目前を雄大に流れて行く大河を二人はぼうっと見つめた。
幼い顔立ちの二人の男女だ。
春の香りがする土手の斜面に少年は座り込み、少女は直立して、ただ太陽の光をきらきら反射する川面を眺めている。
少年が手元に咲いていた鮮やかな黄色のたんぽぽを摘んだ。
「えい。」
威勢のいい短い掛け声と一緒に、空中に放り出されたたんぽぽは、綺麗に放物線を描いて音もなく水面に落ちる。
やがて沈んで見えなくなった。
「俺たちはあの花と同じ運命をたどるのかな。」
話しかけているという風でもなく、独り言にしては大き過ぎる声で、少年が言う。
「逆らうことのできない時間の流れに埋没していくのは、いやよ。」
少女は静かに答えた。
二人が静かに過ごす土手の向かいには大きな山がどっしり胸を張ってそこにいた。
相撲取りのようだった。
黄色みを存分に含んだ若い木々がびっしりと、彼を慕うように寄り添う。
彼の頭の上は赤く、その向こうは紫に染まり、星が一つだけ見えていた。
「暗闇に覆われる前に、俺は、この世界を変えてみせる。」
少女は眉根を寄せて彼に振り向き、隣に座った。
「あたしも手伝う。あたしも、変えたい。こんな世界はリセットしよう。」
やがて来る夜が二人を暗闇に閉じ込めてしまうことに、夜に魅せられてしまったことに、二人は気付けずにいる。
第一章
「ああ、やっと来た!勇(ゆう)!」
汗だくで校舎の中から転がり出るようにやってきた少年に、野球部のマネージャーを務める笹島(ささじま)時雨(しぐれ)が不満そうに大きな声をかけた。
「おっそい!何してたのよ」
「いや悪い、なんか変なんだ。俺朝からずっと居眠りしてたみたいで。」
汗のにじんだ坊主頭をポリポリと掻きながら、勇は本当に申し訳ないと謝った。
訝しげな顔をして、時雨が聞く。
「まだ寝ぼけてるの?お昼に購買で会ったじゃない。」
「え、俺そんな記憶ないよ。」
二人がお互いに眉根を寄せて戸惑っていると、ランニングを終えた集団の中から主将がやってきて二人に声をかけた。
「笹、タオルの用意しておいてくれるか。それと、勇、お前はダッシュを十本追加だから。」
はい、と敬礼して見せる時雨とは対照的に、ええ、とため息をついて勇はがっくり肩を落とした。
初夏。盆地のこの町はすでに真夏のように暑い。風通しが悪く、夏はまだこれから、と言っても、運動部にとって不快な時期はもう始まっていた。甲子園を目指して自分自身と戦っている選手たちのたくましい後ろ姿を見ながら、時雨はタオルを取りに、部室に戻ろうとする。
そこで、視界の端に、赤いもみじが落ちていることに気付いた。
「え?」
立ち止まり、2歩戻る。もう一度目をやるが確かに落ちている。
「なんで、今落ち葉が」
「あなたがいないからじゃないですか」
どこからともなく聞きなれない声がして振り返ると、真っ白な、ふわふわの毛玉のような猫がいた。涼しげな雰囲気を持っている。
そいつは、時期を過ぎてみすぼらしくなった葉桜の枝の上にちょこんと上品に座っている。重力を無視していることは明らかだ。
枝は、しなりもしないし軋みもしない。折れる気配ももちろんない。
今、口をきいたのは、あの浮世離れした猫だろうか。
いや、落ち葉よりもっと、猫が話す方がおかしい。あたしきっと今すごく疲れてるんだ。勇が変なこと言ってたのもきっとあたしが疲れてるからなんだ。
時雨は、ぎゅっと目をつむって、首を左右に振った。
「時雨、一緒に来てくれませんか。」
「急にそんなこと言われても。」
猫の方は、時雨の気持ちにはお構いなしのようだ。
しどろもどろになりながら、時雨はただと困惑した。
何が何だか分からないことがこうも立て続けに起きるなんてことがあっていいのだろうか。
そして、さらに時雨を驚かせる行動を、猫がとる。
うーん、と唸ったかと思うと、やっぱり驚きますよね、ともごもごぼやき、猫はその長い尻尾をぴんと立てた。
「どうしたら自然に、こっそりあなたに近づけるか、私なりに考えたんですが。」
残念そうに猫は呟き、尻尾を振りおろすと後ろ足二本だけで立ちあがった。直立二足歩行の猫は動物園では人気になれないだろうか、なんて非生産的なことを冷静に考えるくらいには、時雨は頭の中が整理できないでいる。
やがて猫はぺこりとお辞儀をして、
「解」
と小さくつぶやいた。すると今まで小さな猫だったものがぐんぐん大きくなり、人の形をとる。それは、真っ白な青年だった。色素が薄く、白髪で瞳の色も薄い。身長は高く、顔立ちは整っており、黒いスーツを着ていた。びしりと決まったその姿は、「執事」を実際に見たことがない時雨の「執事」のイメージをそのまま具現化したようであった。
「猫に化けていました。私の名前はリヤ。あなたをお迎えにあがりました。」
まさに、ぽかんと顔に書いて、時雨はただ、あの、とか、ええっと、とか思いつく言葉もないまま挙動が不審になっている。
リヤは足元に落ちている赤い葉を拾い上げ、時雨に差し出した。
「この季節外れの葉もそうです。さっきの少年もそうです。この世界では少しずつ時間に歪みが出来ています。事態は一刻を争います。お願いだから私を信じて。あなたにしかできないことなのです。」
もみじを受け取って、それを眺める。時雨は混乱を隠せずに、口をパクパクさせてやっと声を発した。
「信じてって言われても、その、なにが、一体。私は。」
ふ、と笑ってリヤがお変わりありませんね、とやわらかい笑みで時雨に一歩近づき、その手を取った。
「詳しいことは後で。あなたに危害は与えません。埒があかないので拉致しますよ。」
「何それ寒いんだけど、って、ちょっ……」
リヤがポケットから鍵を出した。それを、なにもない空中、初夏の湿った風に向かって差し込むようなそぶりを見せ、手首をひねる。
「何してるの。」
「何って、自分の家に帰る時は鍵を開けなくては。」
リヤがふんわり微笑んだ。直後、カチリ、と音がして、待ち構えていたように強風が吹く。時雨は驚いて動けないが、リヤは彼女の手を紳士のようにそっと引いて、強風の風上に向かって歩き始めた。
時雨は、呼吸も苦しく、前も良く見えない。
「大丈夫。あなたは帰るだけです。期は、熟しました。」
意識が遠退く中で、時雨が最後に聞いた言葉はリヤのそれだった。返事をすることもできずに、時雨は風にもまれ、リヤに抱えられて校舎の裏から忽然と姿を消した。
時雨の手を離れた季節外れの赤いもみじも、地面に落ちると同時にふと消えてなくなった。
*
「浪(なみ)白(しろ)。」
男の声が響く。その声は不気味ではあったが、地の底から響くような声ではなく、爽やかな青年の声のようだった。
薄暗い部屋に数本のろうそくが立ち、飴色のぼんやりとした光を危なげに保っている。
燭台は輝きを失った銀色だった。部屋の広さはわからない。部屋の隅には暗闇がのっそりと横柄に居座っている。
「私はここよ。どうしたの?」
「今、空間が揺れなかったか?」
「あら。私にはわからなかったわ。ごめんなさい。」
暗闇から薄明かりの中へ女が一人ゆっくり歩いてやってきた。
緩慢な動作だ。話し方もとてもゆっくりで艶やかな声だった。肩までの茶色い髪をさらりと手で後ろに払って、微笑む。
「気のせいよ。彼らにそんなことができるわけないもの。」
ね、と首を傾げて見せる。
「支配者は私たちよ」
そうか、と、男がくぐもった声を発した。男は仮面をかぶっていて、顔の様子はうかがいしれない。満足そうな声色だった。
「そうさ、ここは俺たちの世界だ。」
暗闇に巣食うものは暗闇を食って生きている。
*
「お帰りなさい、姫。」
凛と澄んだ女の人の声がごうごうと猛る風の中でもはっきり聞こえた。
そして、風が、止む。
ふわっと浮遊感を感じて、その後、地面に足がついた。
エレベータが上昇して目的のフロアにたどり着いた、あの感じにとても似ていた。
時雨が固く瞑っていた目を開けると、そこは、広大な庭園で、目の前には白壁の立派な城がそびえていた。
振り返ればはるか遠くに銀色の門がそびえている。そして、時雨が着地したところは庭の中心のようだ。
さらさらと流れる水音が聞こえて、音のする方へ目を向けると、白いレンガで囲われた丸の中で、透明な水が勢いよく湧き出している。
その、噴水の前に、一人の女性と、男の子が立っていた。
女性は、安心した顔をして、時雨を見つめ、優しく声をかけてきた。
「え、えっと、その、ここは、あなたたちは。」
「彼女はルウ、あの子はサユキ。大丈夫、みんな私たちの味方だよ。」
幼い女の子があわてて隣の女性を見上げた。ルウは目を細めて、いいのよ、と笑う。
「ゆっくり説明するわ。慌てないでサユキ。姫様は無事に帰ってきたのよ。大丈夫。」
優しい顔をしていた。リヤもルウも。
ただ、サユキだけがおろおろと二人の顔を見比べている。
「とりあえず、城へ入りましょう。外は、何かと危ないのです。」
自分をまるで大物の政治家を扱うように、相変わらずリヤは丁寧にゆっくり、はっきりと言葉を発し、時雨に向き合う。
まるで時雨が国家の重要人物で、時雨の機嫌で国が一つ滅びるかのように、丁重に取り扱っているように思えた。
時雨はこくりと小さくうなずいてから、ルウが差し出した手を取った。幼いサユキが歳不相応に恭しくお辞儀をして見せる。
「ここはあなたの家ですよ。ちゃんとお話ししますから、どうかわからないことがあればいくらでも聞いてください。」
時雨はもう一度うなずいた。心地がいい気がした。
それは別に、特別な存在として扱われる優越感ではなく、懐かしいもののようだ。
旧友に出会った安心感のような優しい気持ちが時雨の緊張した気持ちを少しずつほぐしていく。
ルウも言っていた。大丈夫なのだと。
それならば、きっと大丈夫だ、と思えた。
Stray Sheep