転生
気がついたとき、老人は見覚えのない風景の中にいた。先程までは、白い天井と泣き顔の家族たちがぼんやりと、しかし確かに見えていた。いま目にしているのは広い草原と夕暮れの空、そして一本の道だ。
どういうことだろう、と老人は首をかしげた。自分は死んだはずではなかったのか。病室のベッドで横たわり、親族に看取られて静かに生涯を終えた、そうだ、そのはずだ。だが彼の足はしっかりと地面に押し返されている。足元を見る。ぎょっとした。足先は透けていたのだ。
そこではっと思い至った。もしかしてこれは、俗に云う「死後の世界」なのではないか。きっとそうに違いない、と老人はひとりつぶやく。天国やら浄土やら、はたまた地獄やら、考えていたものとは多少違うが、まあこんなものなのだろう。
後ろを振り返ると、何だか霧がかかっていて進めそうにない。とりあえず、前に向き直って歩いていくことにした。凝り固まって曲がった背中が遠くなってゆく。
老人は、石畳の上を歩み続けた。不思議なことに、生きていた頃よく痛んでいた膝には全く問題はない。むしろ進めば進むほど、体中に力がみなぎってくるような気さえしている。ふと気がつくと周りには、自分と似たような者が何人も歩いている。中には若者もいる。彼らは一様に下を向いている。どうやら自らの足元にある何かを眺めているようだ。
彼は真似をして、俯いてみた。するとどうだろう、驚くべきことに、石畳のなかの手近な石の内側が、ゆっくりと渦巻き始めたのだ。
驚きつつもじっと見つめていると、それはやがて静かに何かを映し始めた。きちんと焦点が合うまでに、やや時間がかかる。もう少し待つと、ようやくはっきりとしてくる。
それは、老人が最後に孫と遊んだ時の記憶だった。笑い声を上げながら走り回る三歳児を追いかけている自分が見ていた映像。遺してきた家族を思い出して、目頭が熱くなる。
しかしそれだけでは終わらなかった。石畳は次第にさざめき、波うち、波紋のように揺れて、それぞれに違う映像を映していく。余命宣告されたあの日の診察室、妻と過ごした何気ない一日、還暦祝いのパーティー。この道には、これまで生きてきた中で得てきたすべての思い出が敷きつめられているのだ。
楽しい思い出ばかりではない。しかし、苦しい記憶しかないわけでもない。はじめての子どもの誕生したときの映像を目にしたときには、それが過去の出来事、眠りについたものの外観に過ぎないという事を忘れて思わず手を伸ばしてしまった。そして、「生きていくことに疲れた」とだけ書き残して自殺した親友の葬式の記憶を眺めて、改めて深い哀しみと空しさをありありと感じた。
老人はしばらく黙って見ていたが、まるで自分の消費した時間のすべてに責任を負おうとでもいうように、にわかに背筋を伸ばした。その時、ふと背中から腰にかけて違和感を感じた。曲がったままだった背中が、腰が、まっすぐになっている。いったいどういうことなのか、彼には理解できなかったが、自らの持つ責任感、決意がそうさせるのだろうと勝手に納得した。死後の世界だから、と。
そうして彼は再び歩き出した。足元をじっと見つめ、自分の一生を踏んづけながら、それらを心に留めようとしながら、一歩一歩進んでいった。
孫が生まれた日、数十年ぶりで会った友人との飲み会、そのあと見上げた夜空、見慣れた通勤風景。見るたび、進むたびに、歩みは力強くなる。
息子の高校入学、部長への昇進、妻との喧嘩。だんだんと記憶をさかのぼってゆくうちに。
職場の先輩に無理やり付き合わされたゴルフ、妻との婚約、大学卒業、高校時代部活動で流した汗。まるで、さかのぼった過去の時間に比例して。
受験戦争中の殺伐とした教室、失恋、両親の離婚。若返ってゆくように。
気づいたときには遅すぎた。老人、いや、老人だった少年は、自らの肉体が本当に若返っていることに、酷く狼狽した。そこでようやく気づく。先ほど感じた膝や腰に力がみなぎる感覚や違和感、あれは若返りによるものだったのだ。
焦って周りを見ると、何故か先ほどまで一緒に歩いていたはずの人々は消え失せている。無数に響くのは、どういうわけかあちこちに転がっている赤ん坊の泣き声だ。
と、その時、ひとりの赤ん坊が、這いずって前進を試みた。その子は進むにしたがって段々と透けて小さくなる。そして唐突に、跡形もなく消えた。
つい今しがたの驚きにもまして、あまりにも理解を超えた光景だった。しかし少年はこれだけは悟った。つまり、「どこへいくのか、どうなるかはわからないが、これ以上進めば自分も姿形を失う」ということをだ。
後ろを見た。すでに霧に覆われていて、戻れそうにない。何が待っていようとも、進むほかないようだった。
一歩踏み出すごとに、足は頼りなくなっていった。石畳の中には無邪気にはしゃぐ幼少期の彼の姿があった。だが先ほどまでのように、悠長にそれを楽しむ余裕など、もうどこにもなかった。
立っていられなくなり、両手を地面につけ四つん這いになる。もはや自分も赤ん坊だ。はいはいのまま、来たるべき消失に向けて進んでいった。もう自分では進めなくなったとき、彼の前には、なんとも形容しがたい暖かい色の記憶があった。彼、いや、彼だった胎児は、無意識のうちにそこに滑り込んだ。ゆっくりと沈んでゆく。
次に目が覚めたとき、眼前には淡い赤褐色の壁が広がっていた。どこからか、低く響く音が聞こえる。これは、そう、母の心音だ。
そして、わたしといういのちは、ふたたびうまれおちる。
転生