最悪だ、と思った。
 前線の通過から一夜明けた五月の青空。陽は少し傾いて、街並みを照らしている。ありふれてはいるが美しい風景だ。少年は、そんな空と街とを眺めて、最悪だとひとりごちた。
 彼だって普段は、今日のような空を見れば素直に綺麗だと感じている。でも、今の彼は綺麗なものをそのまま肯定できるほど心穏やかではなかった。むしろ道路に撒き散らされた生ゴミでも見るような、そんな虚ろな憎しみを込めた目を向けたい気分だったのだ。
 どうして僕は落ち込んでいるんだ、少年は考えた。しかしこれといってこれほど憂鬱になる要因は思い浮かばない。試験の結果が振るわなかったり、友達と喧嘩したわけでもない。ごく当たり前の毎日を、起伏なく過ごしていただけだ。
 それなのにどうして?
 
 結局満足いく理由を得られないまま帰り道を歩く。  
 散歩中だろうか、おじいさんが犬とともにやってくる。皺の深い老人とダックスフンドは幸せそうな顔をしている。その微笑ましい様子を眺めていた。しかし口元は不満げに引き結んだままだ。何に不満を感じているのかは、彼自身にもわかっていなかったけれど、そうしなければいけない気がしたから。
 ぼんやりしていた少年は、すぐそこに深く濁った水溜りがあることに気づかなかった。おじいさんがそれを見て、あ、と声を上げたが間に合わない。
 ばしゃり。左足が水の中に沈んだ。飛び散った水滴に驚いて、犬が跳ねる。あさぎ色のスニーカーを突き抜けて、少年のつま先を濡らした。おじいさんが少年のほうに寄っていって、「大丈夫かい」と気遣った。本気で心配して、あまつさえ責任を感じているような声だったが、これ以上迷惑をかけたくなかった彼は、なんともないです、と答える。そして自分の言葉に込められた冷たさにはっとした。そんなつもりは無かったのに、何故か口から出たその台詞には拒絶がしっかりと表れていたのだ。
 それを感じ取ってしまったらしい老人は、困ったように少年の顔とびしょぬれの靴の間で視線を往復させる。一回、二回、三回。
 
 少年は、ばつ悪そうに離れていく後ろ姿を見ながら、ほとほと自分に嫌気が差していた。不注意でお気に入りのスニーカーを濡らしたあげく、意図しなかったとはいっても、彼の好意をはねつけてしまったのだ。苦しくて堪らなかった。
 ずっと立っていてもしょうがない、と再び駅への道を歩き出す。じっとり湿った足は、一歩進むたびにいやな感触を伝えてくる。下を向いていたら立ち止まってしまいそうで、彼は空を見た。相変わらずの清々しさだ。
 いっそのこと、雨が降ってくれればなあ、と少年は思う。どうして今日に限って雲ひとつないような快晴なんだろう。こんな辛い日こそ、ずぶぬれになって惨めな僕になりたかったのに、それすら許されないんだ。
 いつもの倍の時間をかけてたどり着いた交差点で、信号を待つ。道路の向こう側でカップルが手をつないでいるのが見える。とても楽しそうで、幸せそうだ。
 ふと、もし自分に彼女がいたら、と考えた。自分の事をわかってくれたり、今みたいに理由もなく憂鬱なときでも黙ってそばに居てくれたり、こっちからもそばに居てあげたくなるような、そんなかわいい彼女がいたら、もうちょっとマシかなあ。
 半ば投げやりになって、少年はとことん空想する。そうだ、彼女にするならあの子がいい。いつも教室の隅で大人しく座っている女の子。地味で無口だけど、結構友達にも好かれているみたいだ。それにたまに見える優しげな微笑み、あれなんかなかなかかわいいじゃないか。
 そこまで考えたところで、馬鹿らしくなってやめた。こんなクソったれに、彼女なんかできるはずがない。苦笑いしながらなんとなくうつむくと、道路の大きな水たまりに自分の顔が映っていた。あまり格好良くはない。じっくり見て思わず笑ってしまう。
 少年は諦めたような表情の自分を見つめながら願った。なにか劇的な出来事が起こって、僕とあの子が恋に落ちたりなんかすればいいのに。今ならあの子を心の底から大事にできる自信があるのに。
 歩行者用信号は赤のままだ。溜息をひとつついて顔を上げたとき、誰かが反対側の歩道に立っているのが見えた。ちらと顔を見る。そして彼は驚きのあまり固まった。人影は紛れも無く、先ほどまで彼の空想のなかでヒロインを務めていたあの子だったからである。忘れ物でもしたのだろうか、ちょっと焦っているようにも見える。
 なんて偶然だろう。千載一遇のチャンスだ。見当もつかないけれど、なんとかしてこのチャンスをモノにしなければ。そう思って、少年は彼女にかける言葉を探した。でも、考えれば考えるほど何も浮かんでこなくなって、それが彼を余計に焦らせた。完璧に頭の中が真っ白になってしまったのだ。
 信号が黄色に変わった。少年は諦めた。せっかく起きた奇跡だったけど、きっと僕には無理だったんだ。さっさと忘れてしまえ……。

 そのときだった。
 猛スピードで自動車が走ってくる。青いワンボックスカーだ。それは交差点に差し掛かったとき更に加速し、
黄色のランプが点灯している信号の下を駆け抜けた。そのタイヤは、少年と少女のあいだ、白黒の塗装の上にできた大きなおおきな水たまりを裂いた。砕け散った水面から無数の破片が飛ぶ。
 半分ほどが向かい合う二人に突き刺さった。
 そして残りは空中で広がり、淡い七色をつくった。
 ほんの一瞬だったけれど、少年と少女はちゃんと虹を見ていた。少年は、さっきまでの憂鬱な気分も忘れ去っている。しっかりと、刹那の虹を美しいと感じた。そして、その向こうで照れ笑いを浮かべてこっちを見ているその子のことは、虹よりも美しいかもしれないと思った。
彼女のことを愛したいと思っている自分が、やっとまともに戻った気がした。
 最後に僕は、青になった信号を渡ってくるあの子を待ちながら、彼女を愛することを誓った。
 
 
 

2013年5月 さびしい雨上がりのお話です。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-14

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