或ル日ノ夢

「或ル日ノユメ」

 雲ひとつない寒空の下、そこには少年と死体だけがあった。凄惨な光景は延々と続いていて、少年の視界いっぱいに広がっていた。呻き声を上げる屍のやけに白い瞳が、彼をじっと見つめていた。
「タスケテ。」
 屍がそう発したような気がした。しかし唇が多少動いただけで、最後に彼が見たテレビの砂嵐とあまり変わらなかった。少年は視線を果てなく続く廃墟に視線を戻した空は灰色に包まれていて、あちこちから上がる煤煙が、より一層辺りを暗くしている。少年はゆっくりと辺りを見渡した。どこまでも死が広がっていた。どこまでも、どこまでも。
 少年は足下に敷き詰められた死体の上を歩く。一歩進む度に足の裏に感じる厭な感触に顔をしかめた。少年は顔を上げ、立ち上る煙の数は増えていることに気がついた。それから、ふっと幼いころの記憶を連想する。
 実家に戻るときに通過する工場群。窓越しにむき出しになった、無骨な歯車達をみつめていると、奇ッ怪な何かが目についた。オレンジと白に塗られた塔(Tower)の先端から噴き出る白煙は、青空にゆらゆらと消えていく。それは五本あったが、同じ形の煙はどれ一つとしてない。
少年は、煙というのは空に溶けていくものだと理解した。
きっと空に溶けていく煙が黒いから、空も黒いのだ。
 さっさと煙を白くしてしまおう。きっと焼却炉で人を焼いているのだろう。いつまでたっても消えないから。空が醜い色に染まっているのはそのせいだ。死体なんて燃やしてしまうから空が汚れていくのだ。綿あめを放り込めば、きっと白くなるに違いない。少年は笑い、また死体を踏みつけた。ぴぎゃあ、と何かが喚いた。少年は首を傾げながら、構わず進んでいく。辺りは未だ死に包まれたままだ。
 しばらくいくと、人影が見えた。美しい女性であれば、と思いながら少年は進んでいく。果たしてそれは女だった。美しい黒髪に、少し先端の尖った耳。陶磁のような美しい肌に、日本人に似つかわしくない金色の瞳。その口角は妖艶に上がっていて、ちらりと覗いた犬歯は鋭い。アオザイのような民族衣装の胸元を内側から押し上げた胸の曲線に、少年は女性そのものを感じた。服の上からでもハッキリ判る体のラインもそうだ。少年は女性に、辺りに転がる無数の醜悪なモノと対照的な、美しい生を見出した。
 この人を燃やせば、辺りは美しくなるだろうか。
 僕が触れた途端に穢れてしまうのだろうな。少年は思い、知らず伸ばしていた手を引っ込めた。
 しかし、女は歩いてくる。彼女の足が炭化した肉塊を踏みつける度に、ぼろぼろと砕けながら辺りに煤を落とす。けれども、真珠のような真っ白な足には汚れ一つつかない。彼女は素足だった。
 心臓が跳ねる。醜悪な己に、美しいものが近づいてくるだけで少年は緊張した。肩に力が入り、呼吸が荒くなる。女は上唇を舐めた。桃色の唇を押しやって出てきた舌は、唾液に反射した光のためか、ぬらりと輝いた。最早少年はその美に夢中になっていた。
 手がもう一度伸びる。それに、白く細い指が絡まった。爪の先から己を犯すあたたかさはまさに生そのものだ。喧しい拍動が頭のなかで響く。鼓膜を震わす粗い呼吸が自分のものであったことに少年は気づいていなかった。
 ゆっくりと、女に指を付け根まで絡め合わされていく。手のひらがぴったり重なったと思うと、少年の鼻頭に女が己のを当てて動かす。こすれ合う感触と、視界いっぱいに広がった金色に魅了された少年は、きっともう戻れない。首元に、女の暖かい息がかかった。くすぐったさに見をよじろうとしたら、少年は女に抱きしめられた。
 背中に回された腕と、押し付けられた体。少年はそのまま、女と屍の上へと倒れこむ。冷たく、妙に柔らかい死の感触はあまりにも気持ち悪かったが、感じられる暖かさに相殺されていた。少年は、己の首元に顔を埋めた女を、瞳だけを動かして見る。彼は美しく整えられた黒髪の艶に見惚れてしまった。鼻腔を、甘ったるい香りがくすぐる。
 少年の首元に、女の唇が触れた。そして、彼女は息を吐くように囁く。
「堕落してちょうだい。わたしにだけ、見せてちょうだい、あなたの顔。」
 煙が空に溶けるように、脳に声が染み渡っていく。微睡みに、少年の意識が溶けていく。
「僕の体は、キミと違って冷たいなあ」
 それが、地獄の中、堕ちて行く天国に向かって罪人が放った遺言。

 ×

 女は、己の膝の上で冷たくなっていた男の頬を撫でた。すこし硬い頬骨の感触が、彼女の手に伝わる。部屋にはまだ、先ほどまで焚かれていたスパイス(脱法ハーブ)から立ち上った煙や、独特な甘ったるい香りが残っている。彼女は己の白い体に目を落とした。服にハーブの匂いが残らないようにという理由で、女は男と共に裸になることを約束していた。己の胸を彼が掴んでいた感覚の余韻がまだ残っている。男の筋肉質で健康的な肉体は、しかしもう土気色に変わっている。
 彼女は夢から醒めた。
 けれど、彼は醒めなかった。
少年のようなあどけない顔を浮かべた恋人を見つめる。幼いころに目の前で母を殺されてから、死に取り憑かれ、愛に飢えていた彼。彼がいつか語った或る日の夢のことを彼女は思い出す。
「父は工場長だったんだけど、ある日機械に巻き込まれてぺしゃんこになって死んだんだよね。それのせいか、変わったユメを見るんだ。一面に死体が敷き詰められていて、あちこちで煙が上がっているんだ。その中を、俺はずっと歩き続けている。何かを探しているみたいだった。……多分、天国を。」
 クリスチャンだった彼は、しかしいつまでも救済されたと感じなかったらしい。ハーブに逃げても、彼が独りで見る幻影は常に夢で見る世界と同じものだった。変化を求めて、彼は今日、彼女にも付き合うよう頼んだのだ。
膝に伝わる温もりが急速に消えてゆくのを感じながら彼女は、不思議と彼が地獄(トリップ)の中で見出した天国に行ったのだと理解していた。
 ゆらゆら揺れる蝋燭の火に照らされて、畳の上に出来た二つの陰は、もう動かない。

                           平成二五年九月十四日脱稿

或ル日ノ夢

或ル日ノ夢

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-14

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