キャッチボール(2)
二回表
「翼、何をしているんだい」
私が、二階の自分の部屋に入ろうとしたとき、向かいの子ども部屋のドアが開いていた。何気なく、部屋の中を除くと、小学生一年生の一人息子の翼が、床に座りこんで、黙々と、人間の英知の営みに没頭している。つい、その行為が気になって、一歩、二歩と部屋に足を踏み入れた。
翼は、呼びかけた私の顔を見上げようともせず、床の上に置かれた板状の発泡スチロールと格闘していた。手にはナイフを持ち、慣れない手つきで、発泡スチロールを繰り抜いている。
「学校の宿題かい?」
「違うよ」
「じゃあ、芸術作品の制作かい?」
「芸術って何?人を楽しませること?僕、マンザイやコントなんかのお笑いは大好きだよ。でも、今、僕がしていることは違うよ。ただ単に暇だから、遊んでいるだけだよ」
よく見ると、発泡スチロールには、翼と等身大の人間と思われる輪郭が描かれていた。
「へえー、大きな人間だね。それに、頭、手、足、胴体と、うまくバランスよく描けているじゃないか」
「大きくなんかないよ。僕と同じ大きさだよ。それに、これを描くのは簡単だよ。発泡スチロールに寝転んだまま、僕の体の周囲を絵取っただけだよ」
「それは面白い試みだね。前衛芸術というわけだ。それで、もう一人の等身大の自分を作って、何をする気なのかい?」
「もちろん、二人でキャッチボールをするためだよ」
「人形が、動き出すのかい?」
「まさか。もう、僕は小学一年生だよ。サンタクロースが、パパだってことも知っているし、漫画のように、人形の鼻を押したら、自分そっくりのコピーロボットになるとも思っていないよ」
「じゃあ、どうするんだい?」
「暇なとき、いつも、家のブロックの壁に向かって、ボール投げの練習をしているけれど、それだけではつまらないから、壁に人形を立てかけるんだ」
「人形に、ボールを投げつけるのか?」
「そんなことしちゃ、折角の、パパのいう芸術作品がこなごなになってしまうよ。バッターの代わりに、立ってもらうんだ。その方が、ピッチャーとして投げるときに、コントロールが付けやすいし、一人じゃつまんないからね。もちろん、デッドボールは、絶対厳禁。ボールが当たれば、骨折して、一か月の重傷になってしまうから。その時は、人形をおもちゃ病院へ運ぶため、携帯電話でパパの車を呼ぶか、救急車に出動を頼むかのどちらかだよ」
「わかったよ。できるだけ、翼に協力するから、救急車は呼ばないほうがいいよ。それより、今から、パパとキャッチボールをやらないか?人形が重症を負わないよう、パパが身代わりになって、キャッチボールの相手をしてあげるよ」
「ありがとう、パパ。でも、もう、ちょっと待ってね。もうすぐ、翼人形の出来上がり。熱中症にならないように野球帽の絵を描いて、コントロールの悪いボールから避けられるように目を描いて、野球観戦を楽しんでいる観客の応援の声がよく聞こえるように耳を描いて、バックネット裏の売り場から出来立てのポップコーンの甘い匂いを嗅ぐことができるように鼻を描いて、「次はホームランだ」と宣言できるようにひきしまった口を描いて、百六十キロメートルの剛速球が投げられるように僕の二倍もある丸太のような腕を描いて、盗塁王になるためにチーターのようなひきしまった筋肉の足を描いたら、もう、出来上がり。さあ、行こうよ、パパ」
「ユニフォームも描いてあげないと風邪をひいてしまうよ。それに滑り込んだときに、ズボンも履いていないと、体中の皮が擦り剥けてしまうよ。それこそ、病院送りだ」
「パパ、御忠告ありがとう。もう少し、描き足すよ」
私は、翼の絵が完成するのを待つ間、手持ち無沙汰のまま、二階のベランダに出て外を眺めた。朝晩の空気は冷たいものの、暖かい春の陽射しが、冬の寒さにじっと耐え、手足を伸ばす機会をうかがっているすべての生き物に、「こんにちは」の挨拶をしている。早速、外に出たら、「ありがとう」の返事をしよう。部屋の中でじっとしているのは、とてももったいない。ようやく、翼が人形のユニフォームの最後のボタンを描き終わったところで、翼に声を掛けた。
「よし、できたか。早速、外に出て、キャッチボールだ」
「翼二号は、どうしようか?」
「翼二号?そうだな、パパが仕事でいないときに、一緒に遊べばいいよ。今日は、観客として二階のベランダから応援してもらったらいいだろう。いきなりの参加じゃ、誰だってとまどってしまうよ。それに、一人でも、観客が多いほうがいいだろう?翼の言うとおり、二人だけでも寂しいからね」
私は、子どもと共に、二階から一階へと階段を降り、玄関前の道路、二人だけの、甲子園球場に見立てたグランドに立った。
「はい、パパ」
翼が、道具箱からグラブとボールを持ってきた。翼のグラブは、つい最近、誕生祝のプレゼントとして買ったものだ。まだ、ワックスがきいていて、鏡のように輝いている。顔を近づければ、うっすらと目や鼻など顔の一部が写る。革独特の、新品の臭いもする。
それに比べて、私のグラブは、表面の茶色がはげ、ひびのような筋が何本も入っている。子どもの頃は、毎日、舐めるように油をつけて磨いていたのだが、大人になってからは、グラブの存在や、キャッチボールをすることさえ忘れていた。職場の野球大会で、ボールを触ることもあるが、それも年に一回だけのおまつり行事。
野球が、自分から遠い存在になっていた。テレビで、プロ野球の試合を実況中継しているが、私が仕事から帰ってくるときには、既に、ゲームは終了している。ニュースで、本日の試合の結果が放映されるが、どのチームが勝っても、負けても、どうでもよくなくなってしまった。昨晩、確かにニュースを見たはずなのに、翌日の新聞で、改めてスポーツ欄を見て、初めて、試合結果を知ることもある。目や耳から情報が入ってきても、脳の中に留まることはないのだ。ひょっとしたら、頭の中に鏡があって、興味がない情報は反射しているのかもしれない。野球が、私を忘れたのではなく、私が、野球を忘れたのだ。
そのうちに、結婚して、子どもが生まれ、やっとキャッチボールをする相手ができた。子どもと一緒にできる遊びは何だろうか?これまでは、本を読んだり、ビデオを観たり、テレビゲームを一緒にしたりしてきたが、やはり、青空の下、太陽の光と熱の二つのエネルギーを全身に受け、風が運んでくる緑の匂いを嗅ぎながら、体を動かすことのほうがいい。
頭だけでなく、体が覚えることの方が多いはずだ。脳だけでなく、手や足の動き、体全身の皮膚呼吸、その皮膚の下を流れる血も、生きている証拠なのだ。知識は忘れても、体験に基づいた知恵が、人に生きる力を与えてくれる。
「それ、いくぞ」
私の掛け声とともに、指先を離れたボールは、ゆるやかな軌道を描いて、空中に弧を描く。風を切って投げ出されたボールというよりも、空を舞うとんぼやちょうちょうが羽を休めるために止まれるほどのスピードだ。ボールは、翼のグラブの中に収まったと思った瞬間、グラブが閉じられる前に弾け、道路の上に落ちた。二、三回、バウンドを繰り返し、最後は、ゴロとなって私の元に戻ってきた。ボールをグラブで挟むタイミングが少し遅れてしまい、うまく掴めなかったようだ。
「ドンマイ、ドンマイ、もう一球、行くぞ」
私は、今度も、翼のグラブの真ん中目掛けて、ゆっくりと投げる。再び、ボールは、最初のコースと同じ軌跡をたどり、真っ直ぐに進む。ジェット機の空中ショーのように、ボールの後ろから赤や黄の煙が出れば、今投げたボールも、先ほどと全く同じ三次元の世界を移動していることがわかるだろう。
ボールが、再び、翼のグラブに素直に吸い込まれる。バシン。ボールを捕球した音。と同時に、ボールは、グラブにお別れの言葉もないまま、地面に向かって「こんにちは」のあいさつをした。その回数は三度を数えた。その度に、ボールは道路の側溝へと転がった。
「パパ、もう、いいよ。僕には、どうしてもボールが掴めないよ」
成長過程にある小学生には、空間上を動く物体の捕獲は、まだ、難しいようだ。それに、子どもには、自らの手とグラブとの一体感が醸成されていないことも理由の一つだろう。
「グラブがないほうが、掴みやすいよ」
「それなら、グラブをはずして、柔らかいボールで、キャッチボールをしよう」
私は、家の軒下の遊び道具が一杯詰まった箱を開ける。玉手箱中には、バドミントンのシャトルや羽、サッカーボールにドッチボール、奥の底には、色とりどりのスーパーボールなど、おもちゃのちゃちゃちゃで大賑わいだ。
その中へ、私と翼のグラブとボールを片付ける。普通の人には聞こえないだろうが、私には幽かに聞こえる。小さなブーイングが、彼らの体を揺らしている。遊び足りないのは、翼ではなく、グラブとボールたちだ。折角、久しぶりに、陽の目を見たはずなのに、もう、お別れか?俺なんか、二十年ぶりに太陽を拝めたぞと私のグラブがわめき散らしている。
それでも、あなたは、昔、派手に動き回ったのでしょう?私なんか、ようやくお店のショーウィンドウから抜け出せられたと思ったら、今度は、電気もつかない暗闇の箱の中。過去の栄光がない私の方が、不幸ですよ。と言った道具たちの不満の声が聞こえてくる。
いつまでもグラブ同士の会話につきあうわけにはいかない。「また、今度、必ず、一緒に遊ぼう」と出来るはずのない約束を交わす。
その一方で、どこかに隠れているはずのゴム製のボールを隈なく捜す。道具たちからは、次は、オレッチだ、それなら、俺も、ぜひとも私を、あたしはどうなるの?ワイもおりまっせ、何を言っているんだ、俺様に決まっているだろうと、次々と大声を発している。自己主張のオンパレードだ。それには応えず、あれでもない、これでもない、それでもないと、道具箱の中を掻き分ける。
ふと、その時、自分の名前が記されたボールを見つけた。思わず手を伸ばし、握り締める。このボールだ。懐かしさのあまり、もっと強く握り締める。あの頃のことが思い出される。そうだ、私がまだ小学生の頃だ。
二回裏
「パパ、パパ、何をボーっとしているの。早く、キャッチボールをしようよ。お日様が、今日の最後のお仕事だって、あの山のふもとで、沈むのを待っていてくれているよ」
息子の声がきっかけで、私の脳の中のタイムマシンは、私を過去から現代へと連れ戻した。
「悪い、悪い」
私は何事もなかったかのように、懐かしのボールの側に寄り添うゴムボールを掴むと、翼に向かって投げた。
ボールは、きれいな虹の曲線を描き、翼の小さな手に吸い込まれた。先ほどまでは、何度となく、ボールを弾いていた翼だが、今回は、しっかりと両手で掴むことができた。離れようとするボールの意思に、翼の掴もうとする意欲が勝った瞬間だ。いや、翼の手とボールが和解した瞬間かも知れない。
「パパ、ボールを掴めたよ!」
「ナイスキャッチだ、翼。さあ、今度は、翼の番だ。パパに向かって投げてごらん?」
「いくよ、パパ」
翼の体は後ろに大きく反り返った。自分の背中の空気、そして、短いながらもこれまでの人生や、長く控えるこれからの未来など、自らが背負っているもの全てを掴むかのように、腕が回された。
私には、翼の体が何倍にも大きく見え、今から投げ出される翼の全てを受け止めようと強く思った。どんな暴投でも、私の体全体で受け止めてみる。手を伸ばし、足を走らせ、体をジャンプさせてでも。例え、受け止めきれなくても、決して、後ろへ逸らすことはしない。
「さあ来い、翼」
しかしながら、私の意気込みも虚しく、ボールは、私の頭上千フィートも遠くに感じられるほどの距離を通過した。これが、今、現在の、私と翼の隔たりなのだろうか?これから、何十年間かけて、この溝を埋めていくか、何十本かの橋を架けるか、どちらかだ。親子だからと言って、全てが分かり合えるはずがないのだ。私は、五十メートル先の三叉路まで転がり続けるボールを、ひたすら追った。
キャッチボール(2)