コノハナガールズ日常絵巻・行き先は湘南ですか、しょうなんですよ、って寒っ!!(宗教上の理由シリーズ)
この作品は儀間ユミヒロ『宗教上の理由』シリーズの一つです。
この物語の舞台である木花村は、個性的な歴史を持つ。避暑地を求めていた外国人によって見出されたこの村にはやがて多くの西洋人が居を求めるようになる。一方で彼らが来る前から木花村は信仰の村であり、その中心にあったのが文字通り狼を神と崇める天狼神社だった。西洋の習慣と日本の習慣はやがて交じり合い、木村に独特の文化をもたらした。
そしてもうひとつ、この村は奇妙な慣習を持つ。天狼神社の神である真神はその「娘」を地上に遣わすとされ、それは「神使」として天狼神社を代々守る嬬恋家の血を引く者のなかに現れる。普通神使といえば神に遣わされた動物を指し、人間がそれを務めるのは極めて異例といえる。しかも現在天狼神社において神使を務める嬬恋真耶は、どこからどう見ても可憐な少女なのだが、実は…。
(この物語はフィクションです。また作中での行為には危険なものもあるので真似しないで下さい)
主な登場人物
嬬恋真耶…天狼神社に住まう、神様のお遣い=神使。清楚で可憐、おしゃれと料理が大好きな女の子に見えるが、実はその身体には大きな秘密が…。なおフランス人の血が入っているので金髪碧眼。勉強は得意だが運動は大の苦手。現在中二。
御代田苗…真耶の親友で同級生。スポーツが得意でボーイッシュな言動が目立つ。でも部活は家庭科部。クラスも真耶たちと同じ。猫にちなんだあだ名を付けられることが多く、最近は「ミィちゃん」と呼ばれている。
霧積優香…同じく真耶と苗の親友で同級生。ニックネームは「ゆゆちゃん」。ふんわりヘアーのメガネっ娘。農園の娘。部活も真耶や苗と同じ家庭科部。
プファイフェンベルガー・ハンナ…真耶と苗と優香の親友で同級生。教会の娘でドイツ系イギリス人の子孫だが、日本の習慣に合わせて苗字を先に名乗っている。真耶たちの昔からの友人だが布教のため世界を旅していた。大道芸が得意で道化師の格好で宣教していた。部活はフェンシング部。
渡辺史菜…家庭科部の顧問で社会科の教師。今でこそ真耶とは師弟関係だが幼い時天狼神社に居候したことがあり、それ以来の仲(勿論公私のけじめはつけている)。サバサバした性格に見えて熱血な面もあり、自分の教え子が傷つけられることは絶対に許さない。無類の酒好きで何かというと飲みたがるが酒癖は良い。
高原聖…ふりふりファッションを好み、喋りも行動もゆっくりふわふわなのだが、なんと担当科目は体育。渡辺とともに木花中の自由な校風を守りたいと思っている。
1
梅雨が明けたとみられる、そう気象庁が発表するやいなやの全国的な猛暑。百葉箱の中を覗きこんだ生徒たちが口々にこう言う。
「道理で暑いはずだよねぇ。二十五度超えてるもの」
え、三十五度の間違いではないかって? 棒が一本足りないって? いや、間違ってはいない。なぜなら…。
ここは、木花村だから。
下界の猛暑をよそに、今年も木花村は涼しい夏を迎えていた。
溶岩台地の上に開けた木花村はその全域が千メートル以上の標高を持ち、長年この村の気象を記録し続けてきた中学校の百葉箱が気温三十度以上の真夏日を示したことは一度もない。それどころか盛夏でも朝晩外に出ると長袖が欲しくなるほど。昼間の直射日光はそこそこ強烈だが日陰に入るとさっと汗が引く。気温が体温を超えるようなところで水浴びをすれば気持ちいいだろうが、木花村で身体を濡らしたままにしていればたちまちくしゃみが出る。
でもそんな村の小中学校でも、きちんと水泳の授業がある。木花村の短く涼しい夏では屋外でのプール授業もままならず、中止になることもしばしばではないかと思われる。しかしそこはよく考えたもので、普通のプールをビニールハウスで覆い、中の空気と水を日光で暖めるという対策がなされている。このプールは村内すべての小中学校による共同使用で、七月にもなると各校が相談して使用日を振り分け、時間割をいじって半日ないしは一日かけてプールに滞在し授業を受ける。今日は木花中の二年生が授業を受ける番なのだが、いつになく気合が入っている。
木花中では林間学校と臨海学校が隔年で行われ、今年は臨海学校の年。でもそうすると林間学校にしか行けない学年と臨海学校にしか行けない学年ができてしまうのではないか? とも思われるが心配無用。林間学校も臨海学校も二学年一緒に行くので、今年臨海学校に行く今の二年生は去年林間学校に行っているし、今年臨海学校に行く一年生は来年林間学校に行く予定になっているというわけ。
林間学校は例年、関東平野に面した丘陵地で行われるのだが、その蒸し暑さが涼しい村育ちの子どもたちにはこたえる。しかも去年は登山の日を狙いすましたように雨が降り、全員レインウェアを着ての山行。しかもこれまた高原地帯の雨とは勝手が違い、生まれて初めて体験するジメジメムシムシした中を雨具の外は雨、中は汗でびしょ濡れにしながら進むという苦行だった。そう、木花中の子どもたちにとって林間学校は地獄のようにも見える。
しかし臨海学校の舞台は当然、海。暑いことに変わりはないが水に浸かれば暑さも何のその。それに夏の海というのは何かと楽しい物を連想させる。
というわけで、泳ぎの練習にも皆気合が入ろうというもの、なのだが…。
「ねーねー、これどうかな? スカート付きは子どもっぽいかなあ…」
「そんなことない似合ってるよー、それよりあたしの見てよ、ピンクちょっと派手かと思ったけど」
「可愛いからいいじゃん、ってデザイン大胆! オ・ト・ナ、じゃん!」
実は授業において指定の水着を生徒に着させる学校は全国的に見ても減少傾向にある。当然もとより自由な校風の木花中はいち早くそれは実現している。だから色とりどりの水着がプールサイドに溢れているわけだが、生徒たち、特に女子たちがいつにもなく授業に気合を入れているのはひとつにはそれが原因。臨海学校に向けて水着の試着に余念がないというわけ。
ただ、それ以外にも、水泳の授業を真剣に受けなければならない必要が差し迫っていた。それは臨海学校のメインイベントと大きく関わっていた。
2
人口数千人の村なので子供の数もそう多くはない。臨海学校は各小学校でも行われるが日程を中学校と合わせることでバスの手配をいちどきにまとめることができる。村内に三つある小学校にそれぞれ一台のバスを駐車し、小学生はおのおのが通う小学校へ、中学生は自分の家から最寄りの小学校へ行き、バスに乗り込む。バスは道の駅で落ち合うと列を連ねて斜面を駆け降り、高速道路を目指す。
いつもはお寝坊さんの生徒も今日ばかりは太陽よりも先にお出まししテンション全開。高速道路は関東平野へと滑り込み、最初の休憩地はすでに真夏日突入確定の暑さだが、生徒たちはぐったりするかと思いきや、誰一人微塵ほどの不安感も悲壮感も見せない。もちろんそれはこれからの海が楽しみだから。
去年林間学校で行った西埼玉の丘陵地帯を右に見送り、東京都を通過ししばらく走ると、
湘南の海!
到着するやいなや、まれに見る集中力で準備運動を終えたすべての生徒が早速海へ猛ダッシュ。小中混じっての楽しい楽しい海水浴だ。一気にどかどか泳いでいく生徒もいれば、波打ち際で水かけっこをしながらじゃれあっている生徒もいる。
「きゃ、冷たい! 苗ちゃんやったな!」
ラッシュガードのフードから長く伸びた金髪を輝かせながらはしゃいでいる子の名は嬬恋真耶。友達の御代田苗や霧積優香、プファイフェンベルガー・ハンナと一緒に遊んでいる。だが、その時砂浜にのんびりした、それでいて通る肉声が優しく響き渡った。
「そ~れ~で~は~、木花村のみなさんは~、集合してください~」
「こ~れ~よ~り~、お待ちかねの~、ビーチ球技大会を~、はじめます~」
声の主は引率に来ている教師たちの一人、高原聖。日傘を差し、フリルの付いたスイムキャップに始まって、頭から足元までメルヘンムードたっぷりのロリータ風水着に身を包むその姿はとても教師に見えない上、担当教科は体育というその出で立ちにもっとも似合わない科目を担当する、意外性のカタマリのような先生。でもその一声は他のどの教師よりも生徒の気を引き付け、たちまちほとんどの生徒が浜辺に作られたいくつものコートに集結した。
このビーチパークは、ビーチならではの球技がいくつも楽しめる。ビーチバレーは勿論のことビーチラグビーやビーチサッカーといったものまである。生徒たちは思い思いの球技に参加し、汗を流す。身体が火照るとその都度海に飛び込んでクールダウン。みんな楽しんでいたが、その乗りについていけない生徒がいた。
「おいどうした、みんな楽しんでるぜ、ってまぁ、理由は聞くまでもないか」
社会科の教師、渡辺史菜がその生徒の脇にちょこんと体育座りをした。生徒は木陰でぼんやりと皆がエキサイトしているさまを見ている。顔色も良いし、暑さにやられたわけでもなさそう。時折吹いてくる海風に、金色の長い髪がふわふわと波立つ。ピンクを基調にしたラッシュガードとライフベストが可愛らしい。濡れているところを見ると海では楽しく遊んでいたと分かる。
「…はい。運動苦手なんで…」
か細い声で返事をした金髪の少女の名は、先ほど波打ち際で元気に遊んでいた嬬恋真耶。いや、厳密には少女とは言えないのだが…。それはさておき、真耶は運動が大の苦手。特に球技は不得意なものの代表格で、最大の理由はボールを追いかけながら走るというのが出来ないから。ボールに目をやっていると足がもつれて転ぶし、走る方に気を取られているとボールが飛んできたことに気づけず、衝突する。
「なんでみんな、二つのことが同時に出来るんだろ、信じられない」
本来ならさっきまで遊んでいた苗や優香、ハンナの応援に行くところだが、直射日光が激しいので遠慮している。それは、自分が暑いというよりは他人に心配させまいと思っての判断。
村の守り神である真神が祀られる天狼神社。真耶はその神社にあって、神が地上に遣わした存在=神使という役目を務める。だから村の中でも大事にされ、時には尊崇されてきた。本人はそれをあまり望まず、神使としての努めはしっかり果たすが自分への扱いは他の子どもと同じにしてほしいとつねづね願ってきた。その願いはかなり叶い、同年代の他の女子と同じように日々を過ごしているのだが、まだ以前の名残りで過保護にされることがある。それは人に手間をかけることでもあるので、真耶は自ら遠慮して安全な日陰に自主避難している。
もっとも、真耶の身体を同級生や村人が気にかけるのは、本当に身体が弱いということもあるのだが…。
「嬬恋らしいな。ま、飲みなよ」
真耶の気持ちを察した渡辺はそのまま横に座り込んだ。手に持っていたレモンサイダーを真耶に渡すと自分ももう片方を飲む。教師が一人の生徒にえこひいきと取られかねない絵だが、もともと渡辺は真耶の家に居候していたこともある仲なので、周囲もそれは咎めないし、普段の授業ではしっかりけじめをつけている。
ありがとうと言って真耶はサイダーを口にする。安堵の表情が見える。だが本当に渡辺が心配しているのは、翌日のメインイベントだった。それに真耶が耐えられるのか。
競技に燃えた選手たちは、身体が火照るとそのたび海に飛び込んでクールダウンとレクリエーション。それを繰り返しながらもやがて各競技で決勝戦が行われ、太陽がだいぶ傾いた頃ひと通りの決着が付く。ほどなく表彰式があるが全員整列なんてことは当然しない。砂浜の上に設けられた板張りのデッキで皆がくつろぎながら、これまたくつろいだ体制で高原が結果を読み上げると、その都度歓声が上がる。
気がつけば海岸から見える景色がそれまでとはまた違った美しさを見せている。左に三浦半島と江ノ島、右には傾きだした太陽のシルエットになった箱根連山。ロマンチックな光景に、特に女子生徒たちがうっとりしている。
このあとも、みんな揃って楽しい夜になるのかと思いきや、ここで小学校の児童たちが陸地へと歩き始める。
「それでは、中学校のお姉さんお兄さんたちとはお別れでーす。みなさん挨拶しましょー」
という先生の掛け声に促され、小中学生ともに揃って元気にご挨拶。小中合同での臨海学校はここまでで、小学生は別途宿へ移動する。明日からは地引網体験や釜揚げしらす作り、ライフセービング体験など実学系のイベントが目白押しで、山育ちの子どもたちがさまざまな海ならではの体験を出来、かつ楽しくてためになる内容は児童にも保護者にも好評だ。
一方中学生たちはそのほとんどがその楽しくてためになる小学校の臨海学校を経験しており、それを思い出しつつ子どもたちを見送った。
その直後の、自分達が直面する地獄に思いを巡らすこともなく。
3
小学生たちを送り出した教師たちの表情が急に真剣となり、生徒たちははっとさせられる。そう、知っている生徒は知っている。これから何が始まるかを。ただその現実に直面するまでは実感がなかった。しかしこれから起きることの困難さを直感した生徒たちは華やかなスイムウェアを脱ぎ捨て、予め用意していた実用的な水着に着替える。そういう水着を持っていない生徒にもレンタルや家族や近所のお下がりでもれなく行き渡る。
全員の準備が揃ったところで、このイベントに向けたある服を着るよう指示が出る。それは自前の生徒もいるが、レンタルも学校で用意している。
水着などを着たままその服に両足を通す。上下つなぎになっているので両腕を通す。素材はしっかりしているうえに重い。背中のファスナーが上げられると、全身が締め付けられる感じがする。無理やり決まりで着せられているということも有り、生徒の間には緊張感とちょっとの悲壮感が走る。
みんなが着せられているのは、ウェットスーツ。サーフィン用の軽いのではなくダイビング用の厚手の生地のを着用する。持っていない生徒向けに学校から全員に配布されたものを見るとわかるが、重いし、肌の露出があるものは禁止されている。しかもフードタイプで、自前でそれがないものを使う生徒にはフードだけ別付けでかぶらされる。グローブとフィンも必須で、そこにダイビング用のゴーグルと鼻や口を覆うマスク(水中ゴーグルのこともマスクというのでこのへんは少々ややこしいが。これはこの行事のために作られた特殊なものだ)を付けると全身がカバーされる。そして、さらに…。
がちゃん。
背中のチャックに、南京錠が掛けられる。つまり、これでもう自力では脱げないということ。これでは途中から脱走したりズルをしたりも出来ない。
「ううう、暑いよう…」
生徒たちはくちぐちにそう言う。夕方とはいえここは真夏の関東地方。木花村の真っ昼間の気温を軽く超えた状態のまま。
「でも、日焼けしなくていいかも…」
という天然な発言が真耶からなされたが、誰もそれどころではない。高原の、
「で~は~、ようい~、すた~と~」
という号令が終わるか終わらないかのうち、全員が海めがけて猛ダッシュした。
かつてどこの学校でも臨海学校の華形行事といえば「遠泳」だった。大体はるか遠くの無人島や岩場、岬などをめがけてひたすら泳ぐというもので、これによって生徒の忍耐力や団結心を養うという教育的異議が見出されてきた。
しかしその反面、海パン一丁で海に放り出されれば事故のリスクは高まるし、なによりそこにしごきや、時には体育会的上下関係を盛り込んでくることもある。そういうのは木花の人々が最も嫌うところだ。かつては木花中でも遠泳が行われたことがある。だがそれはすぐ、より安全で身体的にも苦しくない形のイベントに取って代わられた。
生身の身体に水着一つで何キロも泳ぐ、これは地獄だ。だから全員に腰の浮き具が義務付けられ、その他不安な生徒はライフベストや腕用の浮き具であるアームバンドを付けることが出来る。夏とはいえ長時間水に浸かれば寒くなる。だからウェットスーツを始め全身を覆う装備により冷えを防ぎ、同時にクラゲなどに刺される害も防ぐ。濃い塩水はかえって喉を乾かす。だから途中スポーツドリンク等を飲むことは自由、カロリーを消費するので軽食も構わない。教師やインストラクターたちが分乗したボートにはそれらが積まれ、同時に生徒の水先案内を果たす。ボートから出されたロープを伝っていくことも可能で、遭難対策にもなる。
こうやって、体育会的忍耐を鍛えましょう的行事はさまざまな策によってソフト化され、より快適にと試みられた。しかしすべての生徒がその現場に直面して初めてあることを悟り、同じツッコミを入れる。
「こっちのほうが全然大変じゃん!」
4
浮き具のお陰で身体は沈むこともなく、カナヅチの生徒でも安心して泳ぐことが出来る。波はあるが、命綱でつながれているので流されることはない。一見普通の遠泳より全然楽だ。しかし実際は、
「ウェットスーツが重い~」
「生地固くて泳ぎにくい~」
てな不満が出ることで分かる。泳いで進むのには通常の遠泳より余計な労力を使うことが。プールでの水泳の授業に気合が入っていたのもむべなるかな。この行事の過酷さの片鱗を兄弟や先輩から聞いていたような生徒たちは率先して泳ぎの上達に取り組んでいたのだが、それはあまり意味がなかった。そこにあるのは水泳とはまるで異次元の行いと言っても良かった。
夕陽はかなり傾いており、海面にも海中にも闇の気配が現れている。そんな中を沖めがけて泳いでいく御一行様。いくら手足をバタつかせても寄せては返す波が陸へと押し返そうとする。これではしばきあげの遠泳と変わりないとも思えたのだが、すぐ全員停止させられた。
「ではここで待機。順番は事前に決められたものを守ること。待つ者は騒がないように。体力が消耗するからな」
渡辺の指示に従い、生徒たちはその場で立ち泳ぎや顔を上にした状態で浮かびながら待機する。開けた海では波が高くてなかなか落ち着かないし、命綱の重要性が発揮されている。ほどなくして小型ボートがやってくる。その後ろから海にロープが下げられている。
「それでは~、つかまってください~」
そう。ここからはボートに曳航されて進む。海の中を身体が浸かった状態でロープに固定されたまま引っ張られるのはなかなか気持ち良いものであるらしく、生徒たちの硬い表情が次第に和らいで行く。待っている生徒も徐々に余裕が出て来たのか、おしゃべりがそこかしこから聞こえ始めた。
すっかり日が暮れる前に何とか、全員を今日の目的地に運ぶことが出来た。暗い中を海水浴するのは安全な行為とは言えないので、これは必要なことだ。
ここは海岸から少しだけ離れた岩場。このあたりはいくつもの岩が海面近くまで盛り上がった浅瀬と岩場になっていて、釣り場や水遊び場にもなっているところ。ただ当然陸からは離れているので、今は木花中の一行以外に人はいない。
岩場に上がって全員夕食を取る。大それた料理はできないので持ち込まれたのはおむすびや唐揚げにポテトフライなどのつまめるおかず、缶詰など。それでも身体を動かしたあとだし、みんなでワイワイ食べるのだからごちそうに思えてしまう。
北の方には陸地の夜景が見え、ロマンチックな風景もいいスパイスとなる。食事が終わってもジュースやデザート代わりのお菓子を食べて盛り上がる。渡辺と高原はビールでプチ宴会を始めてしまっているが、これもお約束。彼女たちも生徒と揃いのウェットスーツ姿で鍵も付いている。教師と識別するためにベストを着ているのだが、これがかえって重そうだけど、そんなことも気にせず湘南の夜を楽しんでいる。
でも楽しんでばかりもいられない。夜はどんどん更けている。遠からずふかふかの布団が恋しくなる頃合いだろう。
だが。
さきほど生徒たちを曳航してきた船は去ってしまった。そしてここは海の中の岩礁。その中でもあえて陸から遠い場所に陣取っている。つまり。
もう陸地には帰れない。
ここからが木花中学校臨海学校のメインイベントの本格的な始まり。ホテルでもなければ旅館でもない、屋根もなければテントすら無い、布団すら用意されていない海の岩場で一夜を明かすのだ。これがハードな中身の第一弾。
そう、これからしばらく、みんな揃って海で暮らすのだ。
でも初めこそ文句を言っていた生徒たちだが、すぐに順応してしまった。夜もなお蒸し暑さが残るので浅瀬に身体を漬けて快適な眠りを確保したりと。だが。
「きゃっ」
どうやらウニのようだ。トゲが鋭いので刺さると痛いが、分厚いウェットスーツに守られた格好。こうして身体を危険から守ってくれるので、過剰なまでの重装備も意味があるし、普通の遠泳より生徒にやさしい仕様となっているってわけ。
なんだかんだで皆、何の支障もなく眠りについた。
5
夜が明ける。ほとんど日の出とともに生徒たちは目を覚ました。こんな過酷な環境でよくもまあ熟睡出来たものだと思う。朝食を摂り食休みすると行動開始。沖合に見える烏帽子のように立ち上がる岩は湘南のシンボルのひとつ。あれを目指して泳いでいく。
とだけ聞くと、なんだ遠泳と変わらないじゃないかと思えるが、実はそうではない。
オープンウォータースイミングという競技がある。海を何キロも泳いでタイムを競うのだが、精神鍛錬の色が濃い遠泳とはまた別のもの。そして木花中の臨海学校メインイベントはオープンウォータースイミングをモデルとしつつ独自の進化を遂げた(そもそも正式な種目としてのオープンウォータースイミングではウェットスーツは禁止されている)。だからウェットスーツの採用は一見楽な方への譲歩ではあるのだが…。
ともかく、重くて動きにくいウェットスーツによって実際は結構な大変さを生徒に与えている状態。でも遠泳との大きな違いは、その安全性にある。
水着一丁だと当然自力で泳ぎ続けなければならない。止まれば沈むかもしれないし潮に流されたりもする。だが浮き具を付け、命綱で繋がれた生徒たちにその心配はなく、何か生き物に刺されることも無い。自分の力で泳がないといけない大変さは確かにある。でもそれは慣れさえすれば大したことではない。だってしゃべることだって出来る。いつの間にか和気あいあいと進むようになっている。
烏帽子岩のたもとに到着。すでに先客として釣り人たちが船で到着し、糸を垂らしている。そのじゃまにならないよう上陸。岩場で遊んだりもできるがそう時間はない。ほどなくして次のイベントが始まる。
いったんは上がった岩場から、また離れさせられる。比較的凪いだところで再集合し、以後陸にあがることは禁じられる。すぐまた泳ぎだすのかと思いきや、そうではない。
「は~い、それでは~、順番に~、はじめま~す」
高原が声高に、それでいて穏やかに、次なるイベントの開始を宣言する。続いて渡辺が泳いで全生徒の前に躍り出る。教師たちも生徒と同じウェットスーツ姿。大変なことは生徒と先生で分かち合うというのがモットーなので、渡辺も一緒に泳いできている。もっとも船の上にいれば楽を出来るように思えるが、ちゃんとウェットスーツを着させられるのは変わりないので、むしろ暑くて大変だ。
「それでは。今日のテーマは…」
いくつもの浮き輪に結び付けられた状態で、海上にホワイトボードがたゆたう。渡辺は耐水性のペンで器用に板書を始める。
「…もとは相模の国と言われたこのあたりを通って京都に通じるのが道が、今向こうに見えている陸地を東西に通っているわけだ。ではその道は何と言う? 霧積」
「はい、東海道です」
始まったのは社会科の授業だった。内容こそこの湘南の地に合わせているが、授業の様子は普段学校でやっているのと何ら変わりない。
全員が首まで海に浸かっていること以外は。
いやもちろん、違いは色々ある。紙のノートや教科書は使えないので生徒も耐水性のボードに板書を写す。これはあとで陸に戻ってから紙のノートにまた写しする。他の科目もある。美術では海中にある耐水性ボードに絵を描いたり水中で粘土細工したり、音楽の授業では湘南にちなんだ曲を歌ったり。
そう、臨海学校とはすなわち海を臨んで開かれる学校。その字義に忠実にとばかり、海を臨んで授業をしてしまおうという発想。
と、言ったところで、やはりお決まりのツッコミが来る。
「臨海じゃなくて、浸海だよ!」
でも生徒たちの表情は明るく、笑顔に満ちている。もともと勉強好きな子が多いのもあるが、なんといっても授業が楽しく作られているのも大きい。おかげで誰もが慣れない海の中での生活を楽しんでいる。
岩場が近いとはいえ、足はつかない深さだし、凪いだところを選んだと言ってもなんだかんだで波は来る。そんな中での授業には誰もが難儀するところだが、昼食もここで食べる。しかもこれがまた学校の給食とまったく同じ形式で、食器が流されないよう紐で結ばれている以外はメニューも同じ。この中で普通に食事するというのはもはやバラエティ番組でしかない。
全身がウェットスーツなど覆われた生徒たちは、顔もほとんど見えないように見えるけれどそこは毎日顔をつき合わせている同士なので、区別はお互いついている。最初水中マスクの違和感に不快感を示したいた子もすっかり慣れた。何せ先ほど岩場に上がったときのような必要なとき以外もつけたままにしているこれは女子にとっては切実な問題で、日焼け防止のためフルフェイス状態を避けたいというのもあるのだが。ただこの水中給食にはさすがに難儀した。海水のせいで食べ物が全部塩味になるのも辛い所。それでも皆完食したのは、さすがと言わざるを得ない。
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ともかく、和気藹々な雰囲気に包まれてきた子どもたちだったが、昼過ぎになって授業は終了、新たな動きが出てくる。
「は~い、それでは~、そろそろ~、出発しますよ~」
高原の合図で、再び全員が泳ぎ出す。この岩場は沖合にあるので陸地まで泳いで戻らなければならない、というのならまだ分かる。しかし先導役の高原は陸地を左に見ながら平行に泳いでいくどころか、少しずつ離れているようにも見える。目指す先には海岸から突き出たように見える陸地。その名は江ノ島。一行はそれの沖合あたりをめがけて泳いでいる。
「うわぁ、全然進まないよぉ」
悪いことに、今日は潮の流れが東から西へ向かっているのでそれに逆らって進む形になる。その大変さと言ったら無く、やってくる波に正面からぶつかる形なので大量の海水を飲む生徒が続出する。この行事用に作られたマスクは鼻への水の流入は多少阻止できるが口へのそれはノーガード。あくまで生物に刺されることの防止用だし、水を止めると空気も入ってきにくくなるからだ。塩水はのどが渇くので普通の水やお茶・ジュースをどんどん飲んで中和する。結果身体を冷やし、しわ寄せはお腹に来る。もともと身体の弱い真耶は早速やられてしまった。
「お腹がピーピーするよぉ…」
と言いながら海面でうずくまる。そのたび苗たちがお腹をさすって介抱する。ポイントはお腹を上にして太陽を当て暖めることだが、波とうねりの中ではこれはこれで辛い体勢。でも真耶が決してギブアップとは言わない子だと誰もが分かっているからリタイアを薦めたりはしないし、他の子達も自らのギブアップを口に出さない。
もっとも、それだけ我慢すればあとの苦労はさほどでも無いかもしれない。別にタイムを競うわけでもなし、早く泳がないと沈むわけでもなし。振りかかる困難はやり過ごしながら、少しずつ進む。そう。逆境を娯楽に変えるたくましさとしたたかさを持っているのも木花っ子の強さ。このイベントは必ずしも速さを競うものではないし、もとより一糸乱れぬ隊列を組んで的な軍隊的発想もゼロ。
だから人一倍進みの遅い真耶もこの点については心配ない。真耶は苗・優香・ハンナと一蓮托生で進む。自分が足を引っ張ることに申し訳ない気持ちを持つ真耶だが、去年の林間学校でも同じ場面が有り、このときに他の全員がそれを否定したことで真耶の心は救われた。だからまずは完泳をと目標を切り替えている。
ある程度進むと先頭の高原が様子を見て止まる。泳ぎの速い生徒も一緒に止まる。遅いグループが追いつくのを待つのだ。こうやって調整を入れつつ進むので心配ない。ただしあまり時間が開きすぎると待っている組の体力をかえって消耗させてしまうので、次第に隊列は長いものとなり、後ろのほうのグループには別途教師が付く。
もっとも、危険がないようにしてある分、普通の遠泳のようにどうしても泳げない生徒がリタイア出来るということもないのだが…。
真耶が属する最後尾のグループには渡辺が付いた。渡辺は決して「頑張れ」とは言わない。ただただ生徒の、特に真耶のペースに合わせて泳ぎ続ける。天狼神社の神使という立場、そして神使は女子でなければいけないという掟を守るため、本当は男子であるのに女子として振舞っている真耶。しかし男子でありながらその運動能力は大きく劣り、下級生にも負ける始末。さらに冷えによる体調不良は進みを更に遅くする。それでも賢明に手足を動かすさまが皆を感動させる。
「真耶ー、疲れてないー?」
スポーツは大の得意な苗が真耶に呼びかける。本来泳ぎの速い者がゆっくり泳ぐのはかえって大変だろうと思うが、苗はそれを苦にもしていない。
「あわわ…大丈夫! ごぼごぼ…ゆっく…り泳いでげぼぼ…いるから…ぶぼぼっ!」
喋った拍子に水をしたたか飲み込んで咳き込む真耶を他の三人がいたわる。平気だからと水中メガネの奥に笑顔を浮かばせる真耶。運動は苦手だが持久力と忍耐力は人一倍だし、何より人を心配させるのはすごく嫌な性格。友達もそれを知っているからあまり詮索はしない。ただただ真耶のペースに合わせて、ゆっくり、でも着実に進む。
重くて暑くて窮屈に見えるウェットスーツたちも海にひとたび入れば浮力で軽くなるし涼しくもなる。そして自由で競争心をかきたてないシステムが、生徒のすべてを穏やかかつ楽しんでやろうという気分にさせている。
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いつの間にか陸地との距離が大きくなっている。進み具合を見ながら少しずつ位置を調整するのも、潮流に逆らっていく方角をあえて選ぶのも伝統のスタイル。今日は潮流がやや沖合よりから海岸に対し斜めに向かっているのでおあつらえ向きだという。でも生徒たちの間に悲壮感はかけらほども無い。普通に考えればこれほど過酷な学校行事も珍しいが、普段の学校生活が自由なぶん制約があると燃えるのだろうか、みんなそれを受け入れ、むしろ逆境を楽しんでいる。そういえば去年の林間学校だって、ジトジト雨の中を行く登山をなんだかんだで皆楽しんでいた。厳しい管理やしごきに耐えた子どもよりもむしろたくましい。村人はそんな木花っ子を自慢にしている。
江ノ島を遠望する沖合で夕方になる。夜の海水浴は危険なので教師たちが終了時間を見極め、いくつかのポイントに生徒を留め置く。そこには飲み物や軽食が準備され、宿題もテキストファイルなどにして置いてあり、それをやって提出することも出来るなど、一晩を明かせるほどの暇つぶしが用意してある。
そう。みんな海の上で一晩を過ごすのだ。
昨夜は岩場に上がることが出来たが、今夜はそれすら無い。真耶たちのグループも海上に留め置かれた。泳げはするもののみんなについていくのが精一杯だった真耶は当然一番疲れており、クタクタになっているのを察した苗達が早速ある準備を始める。そういうのを黙ってみていられない性格の真耶は疲れた身体に鞭打って手伝おうとするが、優香が羽交い絞めにして休憩を促す。
陽が落ちたとはいえ熱帯夜など不慣れな子どもたち。それだけでも大変だがウェットスーツには鍵が掛けられたまま。昨晩は岩場に上がって良いと言いつつも海水に浸かったままの子も多かったし、海にプカプカ浮いたまま眠りに落ちる子も少なくなかった。だから言ってみれば陸地がないからといって問題ではない、とも言える。だが昨晩とは勝手が違い、ここままだとダイレクトにやってくる波に揉まれ、鼻や口に大量の海水が入ってくることで咳き込んで目を覚ます生徒も多数出ると思われる。これではおちおち寝ていられないので、ある準備がなされようとしている。
錨を下ろしたボートが停泊してはいるが、これは緊急用なので周辺の生徒と教師全員が乗ると眠ることも座ることも出来ない。だから居場所を拡張するため、ボート周辺数メートルをぐるっと囲い込むように網を張る。これは言ってみれば海中の蚊帳のようなもの。七月なのでまだクラゲはあまりいないが、それ以外にも人間に危害を与えうる色々な生物や漂着物の脅威を防ぐ。
ただここで新たな問題が起きる。船に積める網の面積には限りがあるし、広げすぎると敵性生物の紛れ込む危険度が増える。だからギリギリの省スペースで設置されるのだが、その結果人と人の間もギリギリまで詰められ、窮屈とまでは行かないが触れ合うくらいにはなる。もとより男女の区分をしていないので混然となった網の中。これでは譲り合っていくしかない。裏を返せばこれによってお互いの親密度は高まる。
「ひどい学校もあるもんだよ。泳げない生徒を無理やり海に放り込んで、死ぬ気になれば泳げるだろう、だなんてな」
真耶達の親友カルテットがプカプカ浮かぶその隣に渡辺がいる。以前赴任していた学校での嫌な思い出を語っていた。
「その生徒は危うく溺れかけてな。無事救出はされたが、そのことが教育委員会に知れて遠泳は中止になった。それはめでたしめでたしなんだけどな。ただその生徒は延々と教師から責められてな。お前が泳げなかったせいでわが校の伝統行事が潰された、と。自分らが溺れさせたのが悪いくせによく言うよ」
共に苦しみを分かちあえば連帯感や助け合いの精神が育まれ、弱い者をいたわる気持ちも高まる。生徒に対し荒業を課す学校の教師たちはそういう言い分で自分達の行為を正当化していた。しかしふたを開けてみればしごきや体罰、生徒間でのいがみ合いやいじめも誘発し、逆に子どもたちの心を歪ませていたのが現実だった。それはそうだろう、みんな一緒にゴールを目指しましょうなんて言えば聞こえばいいが、個々人の体力差を無視しては意味が無いし、タイムは気にするなという言外に、速い者が偉いという価値観が見え隠れする。
「でもそれは、泳ぎの得意な人が勝手に先に行けばいいだけの話じゃないの?」
ハンナが質問する。だがそうも行かないと、渡辺は首を振る。
「大抵の教師ってのは、班とか作らせたがるだろう。遠泳でもバディとかいって二人一組のグループを作らせ、一緒に泳がせる。なぜかこういうとき能力別ってのはしたがらないから、速く泳げる生徒と泳ぎの苦手な生徒が組まされると悲惨だな。泳ぎが得意ってことは運動が得意ってことでもあるだろう。喧嘩になったらそっちが勝つ。泳ぎの苦手なほうがいじめられる。バディ同士でお互い助け合うってのが教師の描いたシナリオだろうが、そううまくは行かんよ」
だって競争させたいという教師の本音は隠しても滲み出る。その空気を読んだ生徒たちは自然と競争心を駆り立てられる。渡辺が体験した臨海学校では、ゴール地点の小島に早く着いた者も全員の到着を待たされるのだが、岩の上とかで何もすることがないというのは結構辛い。それが結果的に泳ぎの遅い生徒へのプレッシャーとなるし、ゴールの遅い生徒は糾弾される。お前のせいでこんなところにずっと待たされるんだ、と。中途半端な平等や「みんな一緒」の精神はかえって弱い生徒を苦しめる。
「でも、そうするともしわたし達がそういう学校にいたら…」
優香の一言によって、その会話に参加していた全員が同じ方向を見た。そこにはフードから少しはみ出した金髪が、月光に輝いていた。
「寝てる…」
皆が異口同音につぶやいた。呑気なものだな真耶は、と全員が思ったことだが、もし彼女らが渡辺が以前いたような中学校に通っているとしたら、今波のまにまで寝息を立てている真耶などは真っ先に標的となってしまうだろう。でも幸いここは木花中の臨海学校。そうやって苦しめられることもなく、真耶も幸せそうな表情を浮かべていられる。
「まあでも、真耶が寝ていてくれて助かるかな。ぶっちゃけた話もできる」
渡辺はそう言うと、表情を柔らかくした。
「まあそんなころもあったから、この学校の臨海学校に初めて参加したときはびっくりしたよ。話を聞いたぶんにはむしろハードだと思ったけど、いざやってみるとそうでもない。でも大変な行事だというカムフラージュをしないと、頭固い人たちを納得させられなかったんだろうな」
泳ぐ距離は長いが、ゆっくりでいい。海の中にいる時間は長いが、楽しみながら過ごせる。だから生徒同士をいがみ合わせる仕組みは何一つ無い。
「君らが木花の子どもで良かったと思うよ。事情を知らない者は子どもに何てひどいことをとか言うのだろう。でも幸い君らはいい子だし、現にこうやって真耶をかばってくれている」
しみじみと渡辺が語ると、真耶以外の三人が照れた顔を見せる。真耶はまだ眠っている。みんなの赤子をいつくしむような視線にはまるで気づかないようだ。
8
朝。真っ暗な海に色が戻ってくる。波に揺られていては熟睡も出来ないかと思われるが、そこは中学生の若さゆえ平気の平左。太陽が昇るとともに波の向こうには江ノ島が姿を表し、そこめがけて泳ぎ始める。残った体力をすべて使い果たしてもいいとばかりにラストスパート。もちろん真耶をはじめとする、泳ぎの遅い子へのケアは誰一人忘れていない。尻を叩くのではなく、あくまで励まし合い、元気を分けあいながら進む。
江ノ島をぐるりと半周し、市街地と島をつなぐ橋の島側のたもとがゴール。早く着いた生徒が遅く着いた生徒を待ち構え、運動が苦手ながら頑張った生徒にはより大きな歓声とねぎらいの言葉がかけられる。そしてついに、真耶達のグループがトリを飾る形でゴールイン。どんどん上がっていたボルテージは最高潮に達した。感極まって泣き出す女子も多数。それは真耶も変わらない。去年の林間学校では登山を途中リタイアした真耶。同じグループだった苗たちの足を自分が引っ張ったという負い目は心の何処かにあった。苗たちがそれを咎めるはずは無いのだが、それはそれとして真耶のけじめの問題。でも今年完泳したことでその借りを少しは返せたかという喜びと、またみんなが力をくれたことへの嬉しさが、真耶の心を揺り動かしていた。
そしてお待ちかね、すべての生徒と教職員を縛ってきた南京錠がはずされる。みんな身体を締め付け束縛してきたウェットスーツを脱ぎ捨て…はしなかった。
すっかりウェットスーツに慣れた子どもたちはそれを腰に巻き、上にはTシャツやラッシュガードを着た状態。着替えるのがもどかしいのかこの格好に愛着が沸いたのか、それは定かではないが、ともかく全員が再び散り散りになる。そう、まだ臨海学校は終わってはいない。今日は湘南から鎌倉の街を闊歩する。その元気さを見ると何キロも泳いできたとはとても思えない。
もちろんこれも学校行事の一環。自由に観光スポットを回りつつもその証拠を持ち帰り、その思い出を報告するのが夏休みの宿題だったりする。なにせ湘南鎌倉といえば生きた学習素材の宝庫。水族館だったり、植物園だったり。まだ体力が有り余っているためレンタルのボードでサーフィンにトライする生徒すらいる。海辺をコトコト走る電車も生徒たちに可愛いと大人気。一日乗車券を全員配布されているので何度も乗っている鉄道好きの生徒も。
江ノ島にそびえる大きな鳥居。古くからの信仰の地であったここに真耶はとどまり、参拝をしようと参道を歩いていた。このあと電車で東に進みながら、全員の最終的な集合場所である鎌倉の八幡様を目指すつもりだ。天狼神社はもともと神仏混淆の神社なので仏様への配慮も忘れず、大仏様やお寺にもできる限り行く予定でいる。
ところが、いつも一緒に行動してきた苗たちがいない。スポーツ大好きの苗は他の友だちとサーフィンをしに行ったし、優香とハンナは漁船に乗り、漁を体験するミニツアーに参加。つまり真耶は単独行動。こうやって個々人が意志を持ち、親友同士でも別行動をするときにはするのも、木花中の子どもに自律心のある証拠。
「嬬恋、あ、やっぱ真耶でいいや。ここに来ると思っていたよ」
石段の端、日陰に渡辺が座っていた。
「あ、先生。やっぱし神社にはいっぱい行っておきたいから…」
真耶は先生という呼び方を崩さないが、リラックスしたことはいつもに増して人懐っこくなった顔でわかる。よく頑張ったじゃないか、と今朝まで無事泳ぎ切ったことへのねぎらいをする渡辺に、ため口混じりで答える。
「ありがとうございます。楽しかった、苗ちゃんに優香ちゃんにハンナちゃんも一緒だったし」
「その三人とは別行動で、寂しくないか?」
悪戯っ子のような笑顔をしながら、渡辺が尋ねる。でもそれは真耶の答えを予想して、安心してのことだ。
「全然。あたし、みんなが行きたいところに行くのがいいと思うから。でもね、海ではみんなあたしのこといっぱい助けてくれて、すごく嬉しかったの」
渡辺はその言葉を聞いて満足そうにうなずき、真耶の頭を優しくなでてやった。
「強くなったな」
頼ることが必要なときには頼る。でも自分の足で立てるときには自分で歩む。そういう強さを真耶が持っていることを再確認した渡辺は、教師として真耶の成長を見ていられることになって良かったと思っていた。
そして昼過ぎ、鎌倉に集結した木花中の面々。誰もが満足そうな顔をしている。でも家に着くまでが臨海学校。さすがに平地の暑さに辟易したのか、誰もが待ちかねたかのようにウェットスーツを脱ぎ、Tシャツに短パンなどの軽装になってバスに乗り込む。
しかし元気を発散し続けた子どもたちもついに力尽きたか、バスの中では皆ぐったりしている。そんな彼らをゆっくりお休みさせるため、バスは家路を急ぐこと無く、下道で時間を稼ぐ。初日に別れた小学生たちもいったんは合流したがこちらは先を急ぐ。そのあと出発したバスに乗る中学生からはそんな配慮のおかげもあって程なくそこかしこから寝息が聞こえ出す。だが…。
「むにゃむにゃ…あれ、あったかい…でも大丈夫…ここって海の中…じゃ、ない!?」
突如目を覚ますやいなや、気を動転させる生徒が続出する。それによって目覚めた生徒がまた悲鳴を上げ、阿鼻叫喚はどんどん伝染していく。
「いやぁー! びしょぬれだよぉ!」
「…中学生なのに…こんなの恥ずかしいよぉ!」
それでもここで目覚める生徒はまだ良い。熟睡して起きない生徒に限って、その熟睡ぶりゆえにより悲惨な結果になることは否めない。
二泊三日にわたって海の中で過ごした子どもたち。そちらでの生活が染み付いてしまったところに、疲れが襲ってきたせいで熟睡する。バスが走行中揺れていることや、走行音が波の音に聞こえなくないこともあいまって、朦朧とした頭はここがまだ海の中であると錯覚してしまう。そして、海の中にはトイレが無い。
結果、多くの生徒があたかも去りゆく海を恋しがるかのように、バスの中のそこかしこに自分オリジナルの海を作ってしまっていた。真耶・苗・優香・ハンナの仲良し四人組もその仲良しぶりを証明するかのように、シートや床からホカホカの湯気を立てていた。
ちなみにこれも行事の一つのようなもので、自宅に戻ってからこの悲劇が繰り広げられるよりはずっと良いという理由から、バスの車内には防水のシートが敷かれている。
9
臨海学校が終わって何日経っただろうか。木花村の涼しい夏は続いていた。
村営プールは小中学生に開放されており、宿題代わりに何度か通う決まり。また実は木花村では川や湖で泳ぐことも盛んで、その場合防寒のために薄手のウェットスーツを着たりする。そういう意味ではもともと山育ちでありながら水に慣れている子どもたちだったのだ。そういう意味ではプールが普及したこんにちでは、臨海学校の意義も変わってきているのかもしれない。
まあ、今回の臨海学校でより水好きになったことだろう。
それにしても、たくましくて、良い子たち。あたしが見込んだ村の子供達だけあるわね。
え、物語を語ってるあたしが誰かって? わかんない? いや、初めてじゃないよ? ほら、エイプリルフールネタの時、出て来たじゃない。
あたしの名前は、
木之花咲耶姫!
なーんてね!
本当はどうかって? ナイショ! またね!
コノハナガールズ日常絵巻・行き先は湘南ですか、しょうなんですよ、って寒っ!!(宗教上の理由シリーズ)
相も変わらず奇妙なことに全力を尽くす木花村の子供達でありまして…。非現実的なほどしょうもないことに情熱を傾ける精神に笑いつつ、感動してくれれば幸いです(?)
今回は、いや今回も色々苦心しました。海の中でお泊まりのシーンは特に苦労しまして、最初は首をいかだのようなものから出して寝るという方法で書いていたんですが、いくらなんでもそれは体勢としてきついだろうと。海にプカプカ浮いたほうが楽だろうってことで。やったこと無い体験をしたらどうなるかを脳内でシミュレーションして書くのって、大変だけど、でも面白いですね。
宗教上の理由シリーズも三シリーズ目、というか、今までのように特定の語り手を設定しない形で一本書いてみようと思った作品です(まあ結局木之花咲耶姫を名乗る謎の語り手が出て来ちゃいましたが)。これからこのパターンで行くかはまだ自分でも揺れていたりしますが、せっかく作り上げた作品世界ではもうちょっと遊びたいですね。木花中に林間学校と臨海学校の両方があることは『教え子は~』第六話で触れていたのでようやく伏線回収といったところです。
今回は夏の話なのに、例によっての遅筆で脱稿が九月に食い込んだのは残念ではありますが、残暑が長引いているので夏の話を今出しても違和感無いのは皮肉なところです。本当に暑かったですね今年は。三十五度という表示を見慣れてしまうとは。