尾行
夫はどこへ、誰に会いに行くのか? 智子は跡をつけ始めた。
サングラスにほっかむり、そしてマスク。しかもシルエットを変える為にわざと着込んでデブになっている。これで銀行に入ったら、間違いなく振り込め詐欺の犯人だと思われる、そんな出で立ちになっていた。
まあ、見た目はどうでもいい。変装したんだから、私だとバレなければそれでいいのだ。
百メートル先を行く夫の背中。休日なのにわざわざスーツを着込んで出掛けたのは、実は今日が初めてじゃなかった。
結婚して十数年。何度かやってきた倦怠期を乗り越えて、今は互いが空気のような存在になっている。なくては困るし、さりとてくっついていても邪魔にもならないといった所か。
こんな表現をすると、まるで夫を疎ましく思っているように聞こえるが、決してそんな事はない。この歳になれば夫とはふたりでひとつ、一緒で普通なんだと思っている。
おっと。マル被が角を曲がったので、智子はすかさず足を早めて跡を追った。見失ってしまっては元も子もない。
それにしても一体どこへ行くつもりなんだろう?
「ちょっと出て来る」いつも出掛けに残していく言葉の中に、決して行先は出てこない。
しかも戻って来ても、何をしていたのか口を濁して教えてくれないのだ。
これまで香水の香りを付けてきたり、趣味でない持ち物が増えた事はない。初めの内こそ女の存在を疑った智子だったが、今ではどうも違うようだと感じていた。
女の勘というヤツにビビっとくる物がまるでないのだ。
それにこうして後ろ姿を眺めていても、特別うきうきしているようには見えなかった。ただ通い慣れた道を淡々と歩いている、どうしてもそんな風にしか思えなかった。
やがて駅に着いた夫は、そのまま脇目も振らずに改札へと進んで行く。
どうやら電車に乗るらしい。
こういう時はわざわざ切符を買わなく済む、カード式の乗車券がとてもありがたかった。
***
三つ目の駅で降りた夫は少しうらぶれた裏通りを進み、やがて古びたビルのひとつへと消えて行った。
急いでエレベータに駆け寄った智子は、ゆっくりと移動する階数表示のランプをじっと見詰めて行先を確認する。
四階か……。誰も使う人がいないらしく、箱は停止したままそれ以上動かなかった。
まさか鉢合わせするとも思えなかったが、慎重を期して、すぐ脇にある階段を使う事にした。
でも僅かこれっぽっち階数なのに、普段の不摂生が自分を苦しめる事になろうとは……。
途中で息が切れて何度か立ち止まった智子は、日頃の運動不足を痛感せずにはいられなかった。しかも重ね着をし過ぎたせいで、四階に着いた時には額にうっすら汗までかいていた。
ようやく辿り着いた踊り場で呼吸を整えながらそっと顔を覗かせると、開け放たれた扉から談笑する複数の人の声が聞こえてくる。
どうやらこのフロアには会社が一つしかないようだ。つまり夫はこの中にいるという事になる。
壁を見ると、金属板に”結城ダンス教室”の文字が刻まれていた。そして隣には、”ご自由に見学頂けます。”と書かれた紙が並んでいる。
ダンス? あの夫がダンスを? 智子には到底信じられない組み合わせだった。
あまりに思い掛けない展開は智子を戸惑わせてやまない。しかしここは冷静に、落ち着いて対処しなければならなかった。
さて、どうしようか?
せっかくこんな所までやって来たのに、のこのこ帰るんじゃ意味がない。そう思う一方で、どこか腰が引けている自分がいる。
智子が進むべきか引くべきか逡巡していると、下から階段を上ってくる足音が聞こえてきた。
まずいな、こんな所に蹲っていたら怪しまれてしまう。さりとて中へ入る勇気も出ない。
そうして智子が判断を下せずに右往左往している間に、足音の主が姿を現してしまった。
目と目が合って気まずい時間が二人を満たす。
しかし初めこそ智子の姿を見て驚きの表情を浮かべた彼女だったが、すぐに笑顔を見せて声を掛けてきた。
「もしかして見学をご希望ですか?」
「え? あの、その……」しどろもどろの答えを聞いて、彼女は何か大きな勘違いをしたらしい。
「見るだけならタダですから、遠慮せずにどうぞ」
突然彼女に肩を抱かれた智子は、抵抗する間もなく中へ足を踏み入れていた。
入り口を潜った智子がまず見た物は、床一面にフローリングが敷き詰められ、仕切りのないだだっ広い空間だった。
そしてその奥で固まっている人達が、それぞれラフな練習着に身を包み、話しに花を咲かせている。
その中には思った通り夫の姿があった。
あれ? そう言えば……。智子の頭の隅で、そう遠くない過去の記憶が蘇った。
あれはいつだったか、普段は大人しい夫が、妙に熱心にダンスを習わないかと誘ってきた事があったっけ。
まったくその気がなかった智子は無下に却下したはずだが、それで諦めたのか、以降夫が同じ話しを蒸し返す事はなかった。
しかしだからと言って、まさかひとりでレッスンに通っていたなんて……。そんなにダンスに興味があったんだろうか?
家に戻っても何も言わなかったのは、きっと恥ずかしかったからに違いない。
智子が走馬灯のように流れる一連の出来事を遡っていると、ぼてぼての服装で立ち竦む怪し気な女に気付いた一人が、驚いたように目を見開いた。
「あららぁ、ついに奥様を説得されたんですか?」
彼女のソプラノが部屋中に響くと、夫を含めた、彼ら全員の視線が集中した。
何で私が奥さんだって分かったんだろう?
もしかして……。
もしかしてこれは嵌められたのかもしれない。智子はその時初めて夫の企みに気が付いた。
なかなか新しい事に挑戦しない性格を見抜きつつ、それでも何とか一度ダンスを見学させようとして、つまらない計画を企てたに違いなかった。
むむむ。もしここにいる全員が事情を知っているのなら、私はまるでピエロじゃないか。
バレているのなら仕方ない。皆の前でサングラスとマスクを外した智子は、諦めて正体を晒す事にした。
上目遣いに夫を睨み付けてやると、インストラクターらしい女性が、「ようこそ、いらっしゃいました」と挨拶しつつ、強引に腕を引っ張ってくる。
戸惑う智子にお構いなしに、これから自分も含めてレッスンを始めようという狙いらしい。
「あの……、私は別に見学に来た訳じゃ……。ですから……、あの、あの……」
「まあまあ、いいじゃないですか、一度一緒にやってみましょうよ」
彼女の声量に掻き消された抵抗の言葉。
そのままロッカー室に引き摺られるように連れて行かれた智子は、否応なしにレッスンを受ける羽目になった。
***
結論から言ってしまうと、身体を動かすのは楽しかった。
何であの時、夫の申し出を断ってしまったのかと後悔するくらいに楽しかった。
そんな訳で、今では夫婦揃って仲よくレッスンに通っている。
実力は……、まあ、言わぬが花というレベルだけど、すっかりその魅力に取り付かれてしまった智子は、夫より熱心に練習に励む毎日だ。
お蔭で重かった身体も、すっかり軽やかなボディに生まれ変わっていた。
夫は、なぜ私をダンスに誘ったのか? それは今でもよく分からない。ただ夫婦で何か始めたかったんじゃないかとは思っている。
きっと内容は何でもよかったんだろう。それとも私が何か口にしたんだろうか?
ともあれ、夫が智子の尾行に気付いていたのは間違いなかった。
自分では怪しげな行動を暴いてやろうと腰を上げたはずなのに、結局は、単に夫の腰に結ばれた糸に引っ張られ、いいように導かれただけだった。
今でもそれだけは癪でならない。
まったく夫婦生活も長いといい事ばかりではないな、とつくづく思う。なぜって、こうして弱点を突かれ、いとも簡単に操られてしまうんだから。
……それとも私が単純なんだろうか?
まあ、いいや。でもいつかこの”借り”は返してやろうと思っている。
いつか夫にも飛び切りの充実感を与えてやろう。
何がいいかな? それが智子のもうひとつの楽しみになっていた。
尾行