それぞれの8月29日

プラスチックの風鈴が、夏独特の音を鳴らす。
庭からはスズムシの声。
襖を隔てた居間からは、24時間マラソンの様子が辛うじて聞こえてくる。
どうして私はテレビを囲むあの輪の中にいないのか、と悔やんでも遅い。
夏の終わりは、私を否応なく急かす。
私はワークを閉じて背伸びをした。
休憩がてら台所に向かうため、居間を横切ってみたけれど、「ちょっとこっちでスイカでも食べていきなさいよ」というお声はかからなかった。
代わりに、つるちゃんが私の背中をど突いた。


「宿題終わってないんだってー?」


つるちゃんは真っ黒に焼けた顔で、ニヤニヤしながら私を見下ろしている。
手には缶ビールを持っていた。


「お酒、駄目じゃん。未成年」
「あたし、もう少しでハタチだってば。前祝い、前祝い」


親戚たちとの会話に飽きたのか、つるちゃんは私にくっついて和室に入ってきた。
まだぬくもりの残る座布団に腰を下ろすと、つるちゃんは向かい側にどっかりと座った。
あからさまに顔をしかめても、つるちゃんはお構いなしでビールに口を付ける。
ごく、ごく。喉が鳴る。


「うぇー、不味い」


至近距離で吐き出された息からは、“お父さんの臭い”がした。


「不味いのに、なんで飲むの」
「練習よ、れ・ん・しゅ・う。コーヒーも紅茶も、最初は不味かったけど段々飲めるようになったのよ」
「未成年の飲酒は、脳に悪いんだよ」
「あんね、あと少しであたしは誕生日を迎えて、二十歳になるの。たった数日早まっただけで、何が変わるのかね?」
「……何が変わるの?」
「合法的に飲酒が許可されんの。それだけだよ」


ニッとつるちゃんは笑った。
私は昔から、つるちゃんのこの笑い方が好きだったなぁとふと思う。


「高一の数学って、何やるんだっけ?」


つるちゃんが、数学のワークをパラパラとめくる。
私は、英語のワークを再開した。
解答冊子の単語を黙々と書き写すだけの、単調な作業。
つるちゃんの視線を感じ、バツが悪くなった私は、反射的に「マニキュア剥がれてるよ」と関係のない事を喋って追及を避けた。けど、無駄だった。


「駄目でしょー、解答写しの奥義をやって良いのは高三からよ!」
「だって、時間ないし」
「それは自分が悪い」


正論すぎて、反駁できない。


「……解答冊子をつけたまま配布する先生も先生だよ」
「うっ、開き直ったな。そりゃあ確かに先生も甘いかもしんないけど……」


つるちゃんは苦い顔で「流石ゆとり」と呟いた。
自分だってゆとり世代の癖に、とは言わないでおく。
眺めているだけではつまらなかったのか、つるちゃんは、数学のワークにとりかかり始めた。

「久々にやると楽しいねぇ、因数分解」
とつるちゃんは笑った。


「そのまま全部やってくれても良いよ」
「おっと、しまった」


軽快に動いていた右手が止まってしまった。残念。


「……これも解答丸写し?」
「うん、時間ないし」
「数学はちゃんとやっとかないと、この先大変だよー?」


他人事のように間延びした声。
訳もなく頭に血が昇って、手に力がこもり、唇が震えた。


「そんな事ない。数学も英語も、勉強したって何の役にも立たないよ。日本から出なければ英語なんていらないし、数学だって……」
「そんな事なくない」


顔を上げると、つるちゃんはじっと私を見つめていた。
静かで冷たい、そんな印象を受ける。

物心ついた頃から一緒で、本当のお姉ちゃんみたいだったつるちゃん。
こんな表情、今まで見た事もなかった。


「役に立つ必要があるの? 勉強したくないから逃げてるだけでしょ」
「だっ、て……」
「ピーマンは嫌いだから食べないって駄々をこねてる幼稚園児と同じだよ。好き嫌いは関係ない。ハッキリ言っておくけど、数学は“役に立たない”学問だよ。そりゃあ必要最低限、四則演算は出来なきゃだけど、因数分解とか一次方程式とか二次関数とか、そんなもの、数学を極めたいという一部のマニア以外の人には、全くもっていらない知識でしょうね。だけど、それが数学という世界なんだよ。ありきたりで確かなものを、分かり辛く不確かに変換したり、その逆だったり、とにかく役に立たない時間の無駄でしかない事柄に、力一杯没頭するんだ。それって、あたしから見ればとても贅沢な事だよ。高校生は、そういう贅沢を出来るんだよ」


つるちゃんは一気にまくし立てると、ビールを飲み干した。
そしてもう一度私の顔を見た時には、いつものつるちゃんに戻っていた。


「以上、数学をサボった先輩からのお説教でした」


テーブルに置かれた缶が、風鈴みたいに軽い音をたてた。


「あたしも、もっと早くにこう思えていたらなぁ。そしたらきっと、人生変わってたよ」


私はつるちゃんの横顔を見つめる。
困惑、驚愕、感心、色んな事が浮かんだ。
少なくともこの“お説教”は、勉強はしなくちゃいけない事なんだとか、大学受験ひいては自分の為なんだとか、詭弁ばかりの大人の言葉よりもずっと納得出来た。

(楽しいねぇ、因数分解)

やらなきゃいけない事に追われるつるちゃんにとって、因数分解は娯楽以外の何物でもないんだ。


「……つるちゃんは大人だね」
「今気付いたんかい」


つるちゃんは白い歯を見せてガハハと笑った。

それぞれの8月29日

2011.9.12

それぞれの8月29日

夏の終わりのお話。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-11

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