蜻蛉(とんぼ)

 蜻蛉が排水溝の蓋の下で羽をばたつかせて、もがいていた。
 うだるような暑さの日々がやっと終わりを迎えて涼しい風が吹き始め、セミの鳴き声も心なしか少なくなってきたようなそんな日の午前中。
 両脇につつじの植え込みがある緑道の四角い升の排水溝。普通ならだれも気に留めないような、そんな場所で蜻蛉が、排水溝の網の目になっている頑丈な鉄の蓋の下でジリジリという音をたてて、羽をばたつかせているのだ。
 蓋の網の目は小さくて、蜻蛉は外に出ることができない。ならば、どうやってこの中に入ったのだろうか? この排水溝の水で孵化して成長したのだろうか? だとすれば、蜻蛉は生まれてから一度も外の世界には出ていないことになる。
 五分ほど、その場に立ち止り蜻蛉の様子をじっと見ていた。状況は変わらない。蜻蛉は外に出ることができずに空しい音をたて続ける。
携帯電話の着信音が鳴り、それをきっかけに僕は歩き出した。百メートルほど歩き、携帯の通話を終えた。その直後、僕はあの場所を振り返った。そんなはずないのだが、一瞬だけ蜻蛉の羽の音が聞こえたような気がした。
次の日、同じ場所を通ったので排水溝の中をのぞいてみた。蜻蛉はやはり外に出ようと必死に羽をばたつかせていた。何とかしてやりたいと思うが、排水溝の鉄の蓋は重くてとても開けることはできない。
 十分ほど、その場に立ち止り蜻蛉の様子をじっとみていた。近くの道路を救急車がけたたましくサイレンを鳴らしながら通り過ぎて行った。それをきっかけに僕は歩き出した。五十メートルほど歩き、僕は振り返った。昨日よりも大きい音で羽の音が聞こえた気がした。
 次の日も、また次の日も蜻蛉はがむしゃらに必死に羽音を響かせていた。物理的な常識など関係ない。ただ自分は外に出るんだと、そんな意志が伝わってくるような音だった。
 一週間、二週間、日を重ねても蜻蛉は諦めなかった。そして一か月後、排水溝に目をやると蜻蛉は外に出ていた。蓋の下には何もいない。間違いなくあの蜻蛉だった。
 僕はその場に立ち止った。その横を通り過ぎた人が僕の顔を不思議そうに一瞥して通り過ぎていく。
 僕の目からは涙があふれていた。「よく頑張ったな……」蜻蛉にだけ聞こえるようにそうつぶやいた。しかしそこからは何の音も聞こえてこなかった。
――息絶えていた。蜻蛉はもう羽をばたつかせることはない。あれから一か月だから寿命が尽きたのかもしない。
 どうやって外に出たのかはわからない。でも、蜻蛉は確かに排水溝の外で最期の時を迎えたのだ。僕はその場に立ち尽くした。どのくらいの時間が経ったのだろう。近くにある学校から、チャイムの音が聞こえてきた。それをきっかけに僕はその場から離れて行った。
 三十歩ほど歩き、振り返ると道路際に並んでいる街路樹から、大きな枯れた葉っぱがひらひらと舞い降りてきた。その葉っぱは風に吹かれて排水溝の方に飛んでいき横たわっている蜻蛉の上に優しくかぶさった。
             
                     終わり

蜻蛉(とんぼ)

蜻蛉(とんぼ)

蜻蛉は力の限り生きた

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-10

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