蛇の路 ~rosa i de la serp~
スペイン。カタルーニャ地方のピレネー山脈を望む湿原を見渡していた。男は名前をジョアン・アストリュ
[蛇の路]01/17/2013
1蛇の墨
2美影
3Boira de l'arba
4黒
1.蛇の墨
スペイン。カタルーニャ地方のピレネー山脈を望む湿原を見渡していた。
男は名前をジョアン・アストリュクと言った。
木が生えた高い岩場を背景にする崖から目を細め見渡す。彼の黒馬が静かに嘶き彼は鞍に手を当てまた見つめた。鷲が広い空をいる。旋回しては風に乗っていた。広大に広がる緑の丘は潅木が随所に立ちその間を野生馬達が駆けていた。
高い位置にある彼の頬を温かな風が掠めて行く。その引き締まる固い頬を。ラテン系のカタルーニャ民族の中でも中東の血が入る彼は魅力的な目元をした男であり、口許は涼しげに閉ざされている。こげ茶色の瞳は太陽の光で静かに光っていた。
黒髪を浚う風は愛するあの子のいる場所までいつかは届くのだろうか。香りや風情を変えてでも行き着いてくれたならいいのだが。彼の薄い口許は象った。
「Sempre m'ha agradat……」
ずっと愛している……。それを陽が輝く光柱を広げる風景を吹く風が、いつか届けて欲しい。俺は元気でやってると。お前はどうしている……。彼の囁いた低い声が、馬の微かな嘶きに消えて行った。
彼は手綱に長い手を掛け一気に跨った。髪を返し一気に坂を駆けさせていく。白いシャツを風が弄び、腰に射した装飾される短剣がガチャリと音を立て、ベルトから下げられた螺旋を描く蛇の首飾りにあたる。銀製のそれが太陽の光に跳ね返った。短剣をしっかり持ち、走らせて行く。一瞬、彼の手の甲に蛇の首飾りが浮び彩る。
「アストリュク」
黒馬から降りたジョアン・アストリュクは颯爽と仲間の前に来て相槌を打った。共に森を歩いていく。石を積み上げ一部漆喰の円柱状建物に来た。それは灰色の石が重ねられた円錐屋根の天辺に鉄蛇が掲げられている。
彼は馬を繋ぎ扉を潜った。椅子が置かれただけの空間は中心に地下に続く階段があり、彼等は降りて行った。
広い場所に出る。壁に掲げられた大きな黒い旗は、銀糸で蛇が縫われ屋根の鉄蛇と同じ。彼等のシンボルである。その横にオールバックに長い白髭の老人が静かに立ち、鋭い目で彼等を見た。団長フェラン・オルタガだ。
ジョアンはシャツを放り上腕に彫られた黒蛇を彼に見せた。シンボルの入墨を。
「アストリュクです。ジョアン・アストリュク」
老人オルタガは頷きジョアンを連れて来た青年を見た。
「お前は外で仲間を待っていなさい」
「はい」
青年は出て行くとオルタガは彼に言った。
「見ない間に随分逞しい目になった。五年前まではフィンランドに潜伏していたらしいな」
「はい。二年ほど亡命していました」
彼等はとある芸術の粋を集めた建造物を護る為に活動している団体だ。名前を " Ulls de serp - 蛇の目 " と言った。ピレネー山脈近くの森の中に作られたその建物は、この今の場所が見張り番である。同じく森の入り口三箇所に建てられその先にある城〔Boira de l'alba-夜明けの霧〕を護っていた。
あの建物は神聖な場だ。古い時代から彼等民族カタルーニャ人の掛け橋になる場所でもあった。結成された"Ulls de serp"はそのカタルーニャ人達で結成されているが、出身こそは様々である。各国のカタルーニャ魂を持つ男たちが集められていた。
八年前、宗教関係の人間が〔Boira de l'alba〕を奪おうとして来てホール上でジョアンの仲間が略奪者ベサラン卿に襲い掛かった。その事で一時彼等は母国スペインを出なければならなくなり建物が占領された。ベサラン卿が目覚めるまで作戦を立てるために方々に散っていたのだが、五年前に彼が突如他の民族の人間、同じく建物を奪われかけた者達に殺害され〔Boira de l'alba〕が無人となった。それを五年間で取り戻してきたのだが、またベサラン卿の下の者達が奪おうと様子を見て来ているのだ。
八年前ベサラン卿を襲った彼等の仲間は捕らえられ刑に処されそれを命令した男、ドルデ・バニへの復讐も彼等は狙っていた。
2.美影
彼女は彼の入墨が好きだった。
あのがっしりする焼けた上腕に刻まれた蛇。蛇の目、その絡みつく視線。どこかエキゾチックな血が入るのか、いつでも遠くを見つめる彼のこげ茶色の瞳は魅惑の太陽に光り彼女の心を惑わせた。だから、いつでも彼の腕に頬を預け安心しきって身を委ねてきた。
彼女は優しく微笑んで、そばにいるだけで全てが順調だった。まだ何も知らなかった時代はどこからか崩れる兆しさえ浮びもせずに、彼を見失う事さえ予想しないまま。もしも、いずれ彼が連れて行かれると知っていればまだ良かったのかも。夢を見る間に強くなる術もなく、独りになっていたのだ。
今は暗がりの占める夜の世界。暗雲が重く空気さえもずっしり背にのしかかってくるみたいだ。それでも彼女は灰色の外套を翻し颯爽と歩いた。長く黒い髪を翻させて吹き荒んだ一陣の風を視線で捉え、目で追う。
「どうせ行き着きやしないさ……」
あの頃よりは低くなった声。掠れることは無く彼女の口から漏れて、消えて行く。声さえも届かない場所に彼はいる。
儚いものだ。今や、彼を想って泣いた日々を閉じ込めた腕の入墨さえも滲むほど古くなった気がする。今は見え無い上腕のそれは、薔薇を蛇が囲って短剣が突き刺さる西洋的なものだった。色が鮮やかで、彼女の白い肌によく映える。入浴の時、着替えで服を放るたび、目にしては触れては想う。彼を。想い出を。突如断ち切られた黄金の太陽の時を。
柔らかな体を包む外套は彼の腕の役割などしない。彼女の髪を返す風は彼の頼りある囁きには適わない。優しく触れたあの心は、寂しさで雁字搦めにされる。
風は吹いていく。もしかしたら彼がいるだろう場所へ。
今に彼の蛇の彫られた腕と、自分の蛇の彫られた腕が繋がれ合う時がくるのだろうか。その腕を差し伸べる。指だし革手袋の手に触れるよそよそしい風。どこまでだって寒い夜は心に居付きはしない風。それでも、今に繋がるかもしれない。この路が彼のいる場所に。この手が、腕が、風と共に。いずれ、蛇の路は開かれる。いつかは。彼が冷たい風を跳ね返したっていい。彼が居る場所はどんなに昔のままかをいくらでも想像できるからだ。冷たい風を引き連れたまま現れた自分をいつかは抱き締めて欲しい……。
だから、待ち望む。再会の時に笑い合えること。
彼女、美影・アンティア・ヤロヴィーナは黒革ズボンの脚をざっと広げ黒馬に飛び乗った。
黒兎セーターのVの襟ぐりから冷たい風が体温を奪おうとして来る。痩身だが柔らかな胸部が覗きその間に首飾りが揺れた。刃のうねるサーベルの首飾りだ。これは厄除けのお守りでもあって、だが寒さはさすがに防がない。それどころか銀製の重いそれは夜気を含んで冷たく彼女の肌に当り、美影の肌を微かに冷やした。
馬はランタンに毛を艶めかせて手綱の影がおり、彼女は腹を蹴って一気に駆けさせた。前足を高く掲げ嘶き馬は走って行く。
ここでは情報がつかめなかった。彼の居場所は五年経った今も分からないままで、既に美影は二十七の年齢になっていた。母のいる日本からフィンランド人の父オスカリ・ヤロヴィーナの居るヨーロッパへ来たのは二十歳の頃だった。彼女は西洋人の父によく似ていた。髪の色は母ににた。そして荒馬を乗りこなす性格も母に似て、それが幸いして彼に出会えたのだ。
七年前、草原で馬を走らせる素敵な青年を見た。彼はどこか不思議な雰囲気があって、魅惑の瞳で彼女に微笑んだ。黒い服から出る蛇は太陽を勝ち取った者に見えた。彼もその通りの性格の青年だった。付き合いが始まったのはすぐの事で、それでもどこかその頃は日本的な照れが生じ父になかなか紹介できずにいたし、父自身も忙しくてその機会も見送られていた。あの時彼をしっかり紹介していれば良かったのだと今なら思う。
時々深い不安に飲まれた。
まさか、彼を知っていたのは自分だけだったのではないのかと。太陽の下で培われてきた愛情は幻で、実は太陽の妖精だ、草原の妖怪と戯れていただけだったのではないのかと。彼が見えたのはまさか自分だけだったのではないか……。そんな事あるはずも無いものを、寂しさは拍車を掛ける。
馬は森を走って行く。村を越えてその先の大きな湖のある村に行くのだ。宿はその村でとればいい。馬を途中で何度か休ませながら。
闇は森と彼女を包む。ランタンさえ弱くさせて思えた。
「どこに……どこに行ったんだろう」
白い息を吐き淡々馬を走らせていたのを歩かせ始め、停まった。
上腕を強く掴んで俯いた。泣いた肩が震える。鞍にぽたぽたまた涙が流れ、ランタンに雫は光った。
「会いたい、会いたい……」
彼女は静かに言って唇を閉ざした。馬は主人を目だけで確かめて顔を戻す。歩いていく。
馬から降り鞍を下ろしてあげ水を上げ藁の金を払うと食べさせた。
彼女は宿に入って行くと肩に担いでいた鞄を台に置いた。
「一晩幾ら?」
その値段を聞くと相槌を打って後払いだと言われて小さく微笑み鞄を持った。部屋に通されて即刻寝台に沈んでいた。白い枕から水色の瞳が覗き、滑らかな黒髪から顔立ちが覗く。誰も居ない壁を見つめる。どこへ行っても、あの頃はどこへ行くにもいた彼の影さえ掠めないから目を綴じて頬を埋めた。
ゆっくり腕を立て外套を放り服を放って行った。ふと視線に掠める色を見た。
「………」
紅の薔薇と、絡みつく緑の蛇と、金の柄の短刀。旗には文字が記されている。
ジョアン・アルバ・アストリュク。彼の名前だ。
彼女は愛しい名前に触れて、微かに綺麗に微笑んだ。
「絶対探し出すよ……」
呟いて睫を閉ざした。
窓からは星が見える。森を進めるときは曇っていたがこの村の天気はよく晴れた星空だった。どこか良い兆しに思えて窓辺で彼女は微笑んだ。首飾りを手にして唇を寄せ、その日もあの水色で透き通った小さな星座に祈りを捧げた。それは名前も知らなかったが美影の好きな星だった。よく澄んだ夜空に静かに光る星。彼、ジョアンと二人でその星の数を数える事が好きだった。澄んだ日ほどはっきり見えて、数もわかる。それがプレイアデスという星なのだと知った時は、遥かな浪漫を感じだものだ。
時々あの十字架の形に見える星の光が彼女のサーベルの首飾りに射す気がすると、その夜は安静に眠れた。
「………」
二階窓から下のにわかの喧騒を見おろした。この村の祭だろうかと思ったが宿屋の女性は何も言わなかった。それよりも乱暴で、そして男達しか居ない。
コンコン
「はい」
扉を振り返ると彼女は颯爽と進んだ。そこでふと馬は大丈夫だろうかと不安になる。
「宿の者よ。部屋の奥に引いていてちょうだい。時々悪ガキ共が手当たり次第酔っ払って酒を飲み干すと暴れるのよ」
美影はこう見えてやわじゃ無いからふんと鼻で息をついたが酔った多勢に女が適うわけも無い。頷いておいた。
「おばさんも大変だね」
「扉潜らなければ風景よ」
「ふふ」
「あなた、国の子じゃないわね」
「あたしの故郷は異国。恋人を追って来たんだけど」
彼女は椅子に置かれた外套から写真を出した。
「彼。ジョアン・アストリュクというんだけど、聴いた事ある?」
「アストリュク……。無いわねえ」
彼女は小さく微笑み相槌を打った。
「でも……」
ガタンッガタガタッ
二人は咄嗟に窓を見た。
「下に馬を預けているんだ」
「それはまずいわね。あの子達のことだから無断で乗り回して湖まで走らせるわ」
美影は鞄を手に掴んで走った。
宿の扉を潜ると人の馬を奪っていった青年達が激しく走らせていく。
「あんたら待ちな!」
この村の訛りで青年達が何かを言い走って行ってしまった。
「もう馬鹿!」
ブーツで土を蹴って、その彼女に宿屋の主人が出て来て馬を奥から出した。
「悪かった。お嬢さん。土曜日に馬を表に出しておいたのがいけなかった。後ろに乗って」
「どうもありがとう」
二人で夜の村を走らせていく。
「とんだ災難だったな。あいつ等には俺が拳骨浴びせ掛けておく」
「ふ、いいよ」
林の先に水の煌きが見え、それは鏡面になり驚くほど美しかった。山々や星を鮮明に映しているのだ。美影は息を飲み宿屋主人の背後から見て、その湖の水面は青年の乗り回す黒馬で激しく割れたみたいに乱れて星の光を百倍にも思わせた。
「しまったな。向うは奴がいて危険だってのに」
「え? 何故?」
「湖の向うに石を積み上げた小屋が見えるだろう。男がいて静寂を乱してくると酷いんだ。だいたい土日は出ているからいいんだが、今日はいるらしい。明りがついてる」
「危険な奴?」
「あいつ等も吹っ飛ばされる」
青年たちは大いにはしゃいで水を弾かせている。こんなに寒いのに水辺に突っ込んで白い肌は水の冷たさで真赤になっていた。
「………」
ズンズンと何かがやってくる。
黒いフードを被って眼帯を嵌めた恐い顔の男だ。一部編まれていて変わった形の長い髭をしていた。何かを持っていて、それは棍棒だったから美影は声を高く言った。
「あんた達逃げな! 湖の番人が来たよ!」
青年たちは何かを言った美人を見て、顔を向けた。
「わあ!」
叫び逃げていき馬まで連れて行ったから流石に彼女は呆れて鬼みたいな男を見た。
「………」
だが、一瞬で口が戦慄いて苦情の言葉が引っ込んだ。
「蛇……、」
吸い寄せられて彼女は男の手の甲を見ていた。棍棒を持つ手だ。大きな手には、あの彼と同じ入墨が彫られていたのだ。
「彼はこの国の言葉は必要最低限しか話せない」
宿屋主人の声も届かなくなっていた。強く蛇を見つめ、そして胸が熱くなってスキンヘッドの男を見上げた。
「路が……」
彼女は言っていた。
蛇の路が、確かに繋がっていたのかもしれない。彼までたどり着く微かな希望はこの蛇の入墨なのではないのかと。
「これはいい女だ」
男の言葉は美影には分かった。それがすんなり耳に入り馴染んだ。あの水色の星座、プレイアデスはやはり綺麗に瞬いている。静かになった水面にも。
「やっぱり予感だったんだ。ジョアンを、ジョアンを知って?」
男は少なからず驚き、自分達の民族の言葉を喋った女を見た。女は綺麗な黒髪と、そして水色の瞳を持った美しい女だった。
「その入墨、ジョアン・アストリュクも持ってるんだ」
「………」
男は静かに女を見て、しばらくしてふっと微笑んだ。口の片端だけをあげる方法で。
「なるほどな。これはまた可愛い特許状だ」
「……え?」
美影は眉を寄せ不可解な言葉に首を傾げ、一瞬あと馬のことに気付いて林を振り返った。
「今は手伝ってもらう。その棍棒を置いて馬を取り返す手伝いをしてほしい」
宿屋主人はさきほどから何を言っているのか分からずにいた。彼女が走っていくので着いて行く。一度ちらりと棍棒を振り上げ背中に背負った大男を驚き見て。
馬を引きながら森を進めていた。
「ミカゲ。変わった名前だな」
「母が日本人。分かるかな。海に浮ぶ亜細亜の小さな島」
「あまり分からないが」
「belles ombres。人生に美しい陰影を残しながら行く……。あんたは」
「俺はホセだ。カタローニャの出はあいつと同じだがバスクの血が入る。あいつからこの民族の言語を習ったのか」
ホセは水色の彼女の目を見た。父は髪の色が淡い。
「七年前に出会ってね。二年間ずっと共に居た。彼は自分の事を話さない人だったから、カタルーニャの言葉だって初めて知った。エキゾチックな感じだったから中東かと思っていたんだ」
「親族はな。あいつは片側がラテン系でカタルーニャさ。"蛇の目"にはその魂がある者ならアルゼンチンから来た者たちもいる。カタルーニャ地方に住む若者もいれば言語を話す者、イスラム系など」
「何の為の団体?」
ホセは遠い目をして言った。
「〔夜明けの霧〕を護る為だ」
「夜明けの霧……。それ、ジョアンも言ってた。彼は母国の森で夜明けの霧に包まれる事が凄い好きだってね。さぞ美しいんだろうって聞いたら目を輝かせていた。あたしはいつかはその夜明けの霧を見てみたいって思ってたんだ。でも、なぜ」
「あの場所は建物だ。朝霧に包まれる時間と太陽が切り裂く瞬間、意匠の天窓から神々しいまでの光が降り注いで俺達の心を清くしてきた。朝の扉は開け放たれ、柱の先から霧煙る森が暗く広がり、同じく段々光柱を降らせ始める。実に美しい情景だ。一気に蒸せた森の香りは俺達を包み込む」
「素敵な場所なんだろうな……」
「ああ。その場所を護る。それが俺達"蛇の目"だ。カタルーニャの者達が時々来たい時に訪れ、心を癒され帰って行く場所を護る為に」
3.Boira de l'arba
「凄い!」
思わず彼女は母国、日本語で声をあげた。ピレネー山脈は身震いするほど美しいのだ。彼女は大自然に抱かれた風の中、心が躍って笑顔が輝いた。
「なんて綺麗な山脈」
そして森や草原、青い空、彼女はフィンランドの美しい草原や大自然にも感じた高揚感に気が逸った。早く彼に会いたい。やはり彼は太陽の下にいたのだ。丘が段差をつけて広がっていて野に咲く花が吹かれる風で、今までの寂しさがまるで吹き飛んだ。美影はホセに抱きついきはしゃいだ。
「ハハ。まるで子供だな」
「行きましょう」
日本語で何を言っているのかホセには分からないがカタルーニャ語を話す時よりどこか穏やかな口調に思えた。この場の空気が和ませるのはわかる。
森を進み、"ulls de serp"の一番大きな見張り塔が見えて来た。ホセは美影の顔つきが一気に変ったのでその先を見た。
美影は馬から降り走って行く。
「ジョアン!」
ジョアンは驚き愛する女を見て、抱きついた彼女は顔をあげ瞳を潤ませた。よく、しっかりと彼の顔を見る。美影は五年前より痩身になり、随分と大人びた。光そのものだった笑顔の彼女から、信じられない程神秘的な女になっている。
「ミカゲ……」
ジョアンは強く抱きしめ、美影は涙を熱く流し彼の熱い背に手を当てた。彼女はジョアンの蛇が彫られる上腕に強く手を当てた。
「会いたかった。いきなり草原に来なくなるなんてひどい」
「悪かった。いざこざに巻き込みたくなかった」
頭と柔らかな髪の流れる狭い背を撫で続ける。
「ずっと、ずっとあたしあなたを探してたんだからね。本当に、胸がはちきれるかと思った。もう、ずっとずっと離れないで。どこかに行っちゃ嫌だ」
ジョアンはまた日本語が分からずにただただ髪にキスを寄せ泣く彼女を慰めつづけた。
蛇の目の塔から団長オルタガが歩いて来ると、美影の首から下がる首飾りを見てジョアンを見た。なる程。これでは契約書のある扉の鍵も隠せていたわけだ。彼の腰に下がる螺旋蛇の首飾りも。
オルタガは美影に微笑み、彼女は彼の視線を追って首飾りを見た。うねる刃のサーベルを模したものだ。
「長旅も疲れただろう。さあ、休むといい」
緑が揺れる森が見えるアーチ状の窓辺。美影はジョアンの胴に背を預け寛いでいた。水色の瞳に優しい光が差している。いつでも草原横の木の上で二人こうして寄り添っていること、好きだった。乗馬にも疲れれば、枝葉の庇の下で影と木漏れ日を受け緑の輝く原をいつまでも二人見つめたのだ。太陽の下では彼はどこまでも遥かなる魅力を引き連れた人であり、鷲の様な人だった。夜の愛情の時には蝋燭の灯火を優しく広げた様な優しさをもった。
彼は彼女のこめかみにキスを寄せ、愛する森に囲まれるしあわせに彼女を抱き寄せる。白い肌を彩る銀の首飾りに視線を落とした。
「その首飾り」
長い指に取り小さなサーベルに光が眩く射す。肌に降りる影は光の玉も雫に似て落ちた。ずっとこうやって独りでいさせてしまった。本当にこの目で今の〔Boila de L'arba〕の現状を見るまでは鍵を見つけられるわけにも、彼女と共にいるわけにもいかなかったが、美しい影を下ろすそれはしなやかな彼女の心に思える。勇ましくなった目元と、引き締まった頬にそっとキスを寄せた。今まで守ってあげられずにいたのだ。彼女には本当に感謝している。
「ジョアンも持ってるんでしょう?」
ジョアンが腰のベルトから下げた螺旋を描く蛇のネックレスを外して鎖を手に巻き掲げた。
「ああ」
「久し振りに収まるんだ」
「今」
「五年ぶりだね」
美影は彼とペアになったその首飾りを大切にしてきた。彼女の見た光すべて首から下げてきたこれは知っている。
ジョアンが渦巻き型に螺旋を描く燻し銀の蛇にそのサーベルを戻した。視野に緑が揺れる。フィンランドも実に美しい国だ。自然豊かで鮮やかな緑が優しく揺れ心を光らせた。あの草原を吹く風。二頭の黒馬を走らせる自分達はいつでも愛を分かち合えた。
「これは俺達にとっても大切なものだったんだ」
「"蛇の目"にも?」
サーベルと蛇の首飾りを見て、彼女は視線を上げ背後の彼を見た。
「おいで」
塔を上がって行くと屋上にホセがいた。腕を組み遠くを見ている。
「あの建物が〔夜明けの霧〕と呼ばれる城?」
山脈を背景にした森に美しい建物があった。石像が随所に凝らされ、やはり異国情緒が強いカタルーニャ特有の精巧な匠が遠くからでも鮮明に見て取れる。それは神経質さのなかにも優雅を生んでいた。
「素敵な場所……」
彼女はうっとりとして遠くに置かれた宝みたいな建物を見た。それはまるで空から溶け込んで森に降って結晶化された贈り物に見える。
「ああ。本当に」
ホセはジョアンの首から下がる蛇とサーベルの首飾りを見て顔を見た。久し振りに見た。
「オルタガ団長が言ってたんだが、カルロス・ファブラが到着したら実行に移すらしい。当然、穏やかな方法だ」
美影は見て来たホセを見て、彼は微笑んだ。
「もしもこのお嬢さんが必死に自分の男を探さなかったら手荒な事になっていたがな。俺達の女神になるかもしれないぞ」
「え?」
まだ彼女は「女神-Deessa」というカタルーニャ語を知らなかったので再び〔Boira de l'arba〕を見た。遥かなるカタルーニャの大自然は悠久の流れを輝きにしていた。
「カタルーニャ……涙が出る程美しい」
美影の頭をジョアンは引き寄せ、いつまでも山脈を、森を、あの〔Boira de l'arba〕を見詰め続けた。
美影は眼前にする光の中の美しい建築物に息を飲んだ。見上げる全てが正に実に現実的な夢の具現化で、緊張感が身を包む。神聖な場所、それが浮んだ。日本でもある神の在るであろう領域。それを称えて建てられた建物なのだ。それはここでは民の魂としての誇りであり、人々が愛情を捧げ続けて来た砦だった。丁寧に創られたその女性的な〔Boira de l'arba〕は森という男性の内側に存在する懐に思える。
「今は雰囲気もどこかよそよそしく張り詰めてるだろう。ずっと人が憩いの場所として使う事は妨害されていた。この一帯に来る者達と一部のカタルーニャ人しか知らない秘められた場所さ」
四人は馬から降り、ザッと進んで行った。
「カルロス」
オルタガが呼び、美影は背後の森や建物を見回した。
「オルタガ団長」
男が進み白い肌に木漏れ日が落ちた。建物や草地にも射していて眩しく揺れている。男は美影を見た。異国人で、北欧系の特徴をしていた。
「彼女は?」
「ミカゲ・アンティア・ヤロヴィーナだ」
「ミカゲでいい。よろしく」
握手を交わしカルロスは微笑んだ。
彼等は〔Boira de l'arba〕の扉を潜り進んで行った。
「譲渡契約書までは奴等も場所が分からず奪えなかっただろうからな。機転を利かせてくれて良かったものだ」
一つの小振りな扉の前に来ると、オルタガとカルロスが振り返った。
「ここは〔Boira de l'arba〕の心臓部にあたる。鍵を」
「はい」
ジョアンが蛇とサーベルの首飾りを首から外し、美影は見ていた。変わった形の差込口にそれは入って行き回転させ、鎖を引き抜いた。
中に入って行き、カルロスが何かを手にした。
羊の皮の巻物で、それを広げる。頷いてからまた石台の上で丁寧に撒いていった。
「これを持ちドルデ・バニの所へ行くぞ」
男たちが頷き一瞬後にいきなりジョアンが倒れた。
「ジョアン」
咄嗟にしゃがんだ美影は手を止め、顔をあげた。
「………」
カルロスがホセに銃口を向けていた。脇に巻物を抱えている。オルタガは腰元の短剣に手を掛けたが美影が首を横に振った。
「下手したら危ないよ」
低く美影が言い、腰を低くした。ガツッと美影が回し蹴りを手に浴びせかけ黒髪が艶めき、鋭い瞳が光った。
「この女!」
ホセが突っ込みカルロスが壁に背を打ちつけた。
「じゃじゃ馬均しもお手の物だからね」
オルタガが巻物を拾いホセが取り押さえるカルロスは肩越しに見た。
「ドン・ドルデはこの〔夜明けの霧〕を渡さない」
「黙れ」
ホセがガッと項を攻撃し気絶させた。
「彼、重要な"蛇の目"だったんでしょう? 何故」
「カルロスは彼等の長、ベサラン卿を攻撃した青年の兄だった。何を積まれても敵に寝返る事は考えられない事だ。八年の月日が流れ様と」
美影にはその意味が分からず、ただただ倒れたカルロスを見た。
美影は薔薇と蛇と短剣の入墨を撫でていた。膝に頬を寄せ腕に唇を寄せる。月光が瞳を光らせ、黒髪を抱き体に巻いた。まだ鈍い頭痛のするジョアンは今になって泣き始めた美影をなぐさめ髪を撫でていた。
「悪かった。情け無い所見せて、心配させたな」
「不意打ちだったのはよく分かってる。信頼してた相手だったんだから」
窓から見えるプレイアデス。美しかった。星は青く、光っている。とても小さな星座だ。
コツコツ
「カルロスが目覚めた」
ホセがやって来て彼等も向かう。
「弟が生きてる事を聞いた……。口伝で刑を伝えられただけで事実は確かに分からなかった。俺は会ったんだ。あいつに」
「なんだと?」
ホセが声を怒らせオルタガがすっと片腕で制御した。
「譲渡契約書を引き換えに解放すると言われた」
「奴等に渡したらどうなるか分かってるのか」
「ホセ。カルロスも弟の命を天秤に掛けられたんだ。二度も同じ気持ちは誰だってご免だ」
ホセが何か美影の分からない単語を吐き捨てオルタガがカルロスの肩に手を置き言った。
「カルロス。"蛇の目"を信じろ。ドルデ・バニが処刑を実行しなかったのなら彼からロベール・ファブラを取り戻す」
ジョアンとホセが頷きオルタガが背を戻し、カルロスが目を見開き見上げた。オルタガがジョアンの腰の短剣を抜き取りザッとカルロスのシャツを裂いたからだ。美影がバッと冷静なままの老人を見て、倒れなかったカルロスを見た。
「………。消したらしいな。弟のために」
カルロスの胸部に彫られた蛇の入墨はケロイド状になっていた。それは鉄の剣を熱し押し当てた痕がありありとある。カルロスは口を閉ざし顔をむけなかった。
「お前は待機していろ。ここには一人団員の青年を置いていくことになっている」
4.黒
ドルデ・バニは黒く縁取られる目を細め開く。協会の窓から"ulls de serp"団のオルタガ達を見た。
「蛇の様な目をして……来たか」
初老の男ドルデ・バニは立ち上がった。あの場所を崇拝と契約の場にするための進行は着々と進んでいたが、五年前のベサラン卿の死は痛手だった。あの譲渡契約書を完全に我が協会の物にすれば奴等も手が出せない。
ドルデ・バニ達はカタルーニャ人では無い。各地から集まった地下協会の集まりであの崇高な場の噂を聞きつけ手に入れる企てをした。"蛇の目"たちもドルデ・バニが邪悪な崇拝の総本山であることは知らなかった。
協会の建物はバロック様式で重い空気が流れている。こういう時の為に怪我から目覚めたベサラン卿にもあの若者は崇拝の生贄に捧げたと偽りを言って置いてよかったものだ。〔Boira de l'arba〕略奪の次で強奪も失敗し、加えて方々に散った"蛇の目"の毒牙も残っていたのだ。
彼は扉を両手で解放し、明るいホールをカツカツとここまで進んで来る彼等を出迎えた。あのカルロスが失敗したのか、変わりに女を一人連れている。手には巻物を持っていた。
ドルデ・バニは女が気に入り、微笑して見つづけた。ここまで来ると思った以上に強い眼差しが真っ直ぐとバニを射抜く。この女の美貌を魔に捧げる血色が浮び、彼は陶酔して、だが視線を走らせた。白い上腕にだ。
「………」
カルロスは崇拝の場であの蛇を焼き所属をといた。明らかな人名がJoan・Alba・Astrucと女の入墨の下には記されていて、冷たく女を見る。誰かの所属品を捧げるわけにはいかない。カルロスの叫びが脳裏に甦り女の高い叫びと白い肉の焼ける想像に目を綴じ静かに開いた。鼻腔を香りが掠める。幻想の中で踊りながら。
ホセは貫く様に片目でドルデ・バニを見おろした。カルロスの弟、ロベールがここに居るとは到底思えない。閉じ込められている筈だ。当初、美影を送り油断させてロベールの居場所を探る事をホセが言ったがジョアンはそれに反対しホセの髭を引きちぎりバラバラにしたくなった瞬間だった。
「その巻物が譲渡契約書だな。これまでどこに隠していたやら、探していたよ」
そにれ答える者は居なかった。
またドルデ・バニは女を見る。
「どうせ聞いた筈だが、ロベール・ファブラは生きている。その女と引き換えにしてもいい。もちろん、その巻物を持って……、こっちに来い」
「………」
美影が進みドルデ・バニが微笑し腕を掴み見おろした。
「来るんだ」
彼女は引いていかれ、肩越しに彼等に一度頷き顔を戻した。扉が閉ざされ、鍵がガチャッと閉ざされる。
美影はいきなり壁の剣で上腕を攻撃されかけて咄嗟に避けた。
「何をする」
上目で睨みドルデ・バニは進んできた。彼の名前の入る薔薇と蛇を手で隠し目の前まで来た男を見た。
「カルロスの弟を返しな。どこに隠してる」
ドルデ・バニは手の甲で髪を撫で顔立ちに視線を巡らせながら微笑み、そして焦げ茶の瞳で彼女の目を見た。
「無駄な殺傷は好きじゃ無い」
美影はゆらゆらと強烈な眼力の在る目を見続けた。そしてふらっと倒れてしまった。腰を支え剣を下げたまま蛇と薔薇を見る。それは吸い寄せられる様に近づき、悪魔の様な目で牙を剥きそれに噛み付いた。歯が食い込み血が流れ、血肉が千切れて噴出した。ドルデ・バニは妖しく笑んでは目玉をぐるりと悦とし回した。
共にホールでオルタガとホセが攻撃に倒れた。協会の男達が引き釣り連れて行く。下手をされて崇拝の邪魔をされても困る。巻物は今や手に入り、これから〔Boira de l'arba〕でこの女の生血で祝杯だ。
闇に閉ざされる〔Boira de l'arba〕は輝きを返しはせずずしんと重々しく横たわる。今にも羽根を広げ鋭い牙を剥き咆哮を上げる悪魔にも思える建物だ。それが夜の顔だった。これをみすみす手放してなるものか。ドルデ・バニと生贄を担ぎ引く二人の信者が影に包まれ歩いて行く。
扉の開けられたホール。夜の森が四方の柱先にどこまでも続く。古い血で描かれた円陣には、女が白く浮き横たわっていた。蝋燭が揺らめき肌の一部を染める他は薄暗い空気が流れる。協会の者達が現れ、そして生贄を見て息を漏らし美を賞賛した。
腕を引かれてロベールが来て、彼は黒い目隠しをされ何も見え無い。彼はまた血の香りだけをかがされる夜に冷や汗を流し、鉄轡と手枷で拘束され動けずにいるままだ。普段動く事も許されず、塔で鉄球に拘束されていた。
ドルデ・バニは剣を掲げた。雲が巨大な天窓を流れていき、そして下弦の月が現れた。剣先に光を宿し、思い切り振りかざされた。
ジョアンは黒馬で柱の間から駈けさせ激しい音がホール中に響き蹄の音が震撼した。ドルデ・バニは鋭くそちらを見て剣を振りかぶり駆けて来る黒馬の男を見て剣が激しく交わった。火花が散り、まだ"蛇"がいたかとあちらからまた旋回しやってくる殺気の男を睨み協会の男達がロベールの手枷をグンッと引き上げた。
青年の首からは特徴的な螺旋蛇とサーベルの首飾りが一度浮き覗く肌に落ち、ドルデ・バニの目先を剣が掠めて避けた。
暗がりの森はどこまでも風を暗澹とさせる。勢いに蝋燭が揺れ乱暴に消えていき月が隠れて行った。白い煙が立ち昇り、ドルデ・バニが剣の柄で叩きつけられ弾き跳んで倒れた。
彼は馬から飛び降りて他の気配を探った。腰に射した松明を持ち火をつけ灯る。
「………」
火影に揺れる愛する美影はいた。
視線をくれると協会の男二人が暗い目で佇み見て来ている。その奥の闇へとその身を足許からずるずる引きずられていく者達に思えた。彼はボッと炎を引き連れ松明を突きつけ、光を嫌がり男達は獣の様にうめくと顔を腕で覆った。ロベールの目隠しを外し鉄の猿轡を口から無理矢理ずらさせた。彼はバッとジョアンを見る。
「また生贄が」
「ああ。どうやら」で既に倒れている所を発見していた。また二年前の通りドルデ・バニ達はこの場を使用するつもりだったのだろうが、邪悪な雰囲気でまさかこの場を汚されていたなどとは思いも寄らなかった。
「ミカゲ」
膝に抱き上げ滑らかな頬を撫でる。腕には包帯が巻かれていた。あの綺麗だった入墨、目に焼きついている……。
早朝の森は昨夜の雰囲気など全て消し去り連れて行ったらしい。あの下弦の月が。心地良く霧は肌をさらりと包み、森の香りが心落ち着かせる。
美影は目を覚まし、うっすらと瞳が覗いた。そこはどこか、見慣れない場所だった。
「………」
目をまたゆっくり綴じる。この体温。この香り。この胸部。分かっていた。夜明けの美しさをそのまま引き連れた人。朝の囁きの様な人。太陽のままの人。肩にこめかみを預けて、微笑んだ。微かに、微笑んだ。
ようやく夜明けの霧を共に迎えたのだ。その先にはある。あの黄金の時が、その日々が。瞼を透かすその太陽の光線は、待ち望んだ高揚感を今ここにして彼女に涙を流させた。
「ね。歌って……」
美影は日本語で言っていた。
だが、その日本語をジョアンは知っていた。毎日彼女の口から聴いて来た。落ち着き払った声になっても覚えている。何度も再びこの耳で聴けることを思い描いたからだ。若いままの声は今の彼女のハスキーな声に綺麗に塗り替えられ、何ともいえないしあわせな心地に包まれ彼は頷き歌い始めた。朝霧の歌を。
共に目を開き見つめる先には、初めてこの場で霧煙る朝日の森を見て涙するドルデ・バニがいた。目覚めて倒れたままの姿で頬まで涙で光らせて。
太陽の光は全てを浄化するのだ。この場所は。ありのままのこの自然が。
蛇の路 ~rosa i de la serp~