ぼくたちの秋色

 プロローグ【夏と秋の狭間に】


 命の重さも、尊さもよく理解出来ていなくて。余りにも子どもだった僕と彼女が出逢ったあの夏の終わり。
 希望の光だとか、絶望の闇だとかそんなものは僕らには無くて。覚えているのは、ただただ空が青かったことと、泣き崩れた彼女の姿だけ。

 それは僕らにとって小さな小さな思い出。
 僕と彼女の三十一日間。




 一、【〇日目】


 夏が終わる、少し前。
 世の学生は遊ぶだけ遊んで、終わっていない宿題に追われ始める夏休み終盤。
 そんな普通の学生とは少し違う俺の夏休みの予定なんて白紙で、宿題なんてものは夏休み始まる前から少しずつやっていたもんだから夏休みが始まって一週間もしない内に終わってしまった。お陰で夏休み中、やることがなくて後々、早くに宿題を終わらせてしまったことを後悔した。
 ベッドに寝転がりながら何度読み返したかわからない漫画を読んでいたが、それもさすがに飽きてきた。漫画を閉じて横に放り投げる。そして、これまた何度目かわからない言葉を小さく呟く。

「退屈だ」

 何故俺がこんなにも暇を持て余しているか。それは至って簡単な理由で、友達がいないからだ。それは小学校の六年間も、中学校の三年間も変わらないことだ。それ故に高校に入学し二年目になってもそれを変えようとは思わない。そんなに長いこと一人だったからか今ではもうすっかり慣れてしまい、友達が欲しいとも思わなくなってしまった。
 しかし、友達がいないとこの一ヶ月以上にも及ぶ長期休暇の予定が埋まるわけもなく。去年までは毎年恒例の家族旅行にでも行っていたのだが、今年はみんなそんな気分ではないのか話題すら出てこなかった。
 ぼんやりと見慣れた天井を見つめながら、小さく溜め息をついた。すると、遠くで母さんが俺を呼ぶ声が聞こえた。あまり良い予感はしないが、返事をしつつ階段を下りてリビングへと顔を出す。

「何?」

 夕飯の準備でもしていたのか、台所でせっせと動いていた母さんが俺を見て困った顔をしながら言った。

「純、悪いんだけどおつかい行ってきてくれない?」
「……別にいいけど。何買うの?」
「メモ渡すから待って」

 そう言うと母さんは手を拭きながら台所からテーブルまで来る。近くにあったメモ帳とペンを取って、文字を書くと二つに折りたたんで俺に渡した。

「よろしくね」
「ん」

 はい、と続けてお金を渡され、俺はリビングを出た。そのまま玄関に向かい外に出る。
 昼過ぎとは言え、まだまだ陽射しが暑い。照り付けるようなそれに俺は手で顔に日陰を作る。

「あっつー……」

 冷房の利いた涼しい部屋とは大違いな外の暑さに、早くにおつかいを終わらせて帰って来ようと心に誓った。


 岡崎純。高校二年生。趣味、特にナシ。特技も特にナシ。至って“普通”の高校生だと主張したい。
 お釣りで買った棒付きアイスを咥えながら家への道を歩いていた。近くの公園へ差し掛かれば無邪気な子ども達の声がする。楽しそうに走りながら俺の横を通り抜けて行った子ども達の後ろ姿をボーッと見送る。楽しそうだ、とか。転ぶんじゃないか、とか思うより先に俺にはあんなふうに友達と遊んだ記憶がないなと思う方が頭を過る。こんなネガティブっぽい考えをするのはきっと、この夏休みを一人で過ごしすぎたのだろう。アイスを一気に食べ切ると止めていた足を再び動かした。
 角を曲がれば直ぐに家に辿り着くという所まで来た時、後ろからいきなり声がした。

「あーもうっ!」

 怒っているようにも聞こえるそれに俺は思わず後ろを振り返ってしまった。
 そこには俺よりも一つか二つ下に見える女の子がいた。その子は少し可笑しいことに、この暑さにも関わらず長袖を着ていた。そこで気付く。この子は“違う”と。
 俺は物心ついた時から所謂“幽霊”と呼ばれるものの類が視えていた。人によっては信用されることのない、酷く曖昧な存在を俺は小さい頃から視てきた。
 最初こそは自分にしか視えないその存在に怯えた。誰にも理解してもらえないことが辛くて、自分からは視えることを言わなくなった。人と関わるのも止めた。しかし、恐怖の対象でしかないそれは、意外にもこちらが無視を決め込んでしまえば危害を加えてくることはなく、中学に上がる頃には平和な日常生活を送れることができた。
 視るな・声を掛けるな・関わるな。それがこの“霊感”というものを持ってしまった俺のモットーとなった。
 この女の子もきっと“幽霊”だろう。身体が透けている、とかではないが何となく長年の勘がそう告げている。
 そうと分かれば関わってはいけないと思い、俺は何事もなかったかのように前を向いて歩きだそうとしたが、それは叶わなかった。

「ねぇ」
「うわっ」

 いつの間にか俺の目の前にさっきの女の子がいて、思わず声を上げてしまった。こういう時は反応してしまうと相手の思うツボだというのに。今からでも誤魔化せるだろうか?なんて若干無理がある気もするが、俺はその女の子を見ずに横を通り抜けようとした。しかし、やっぱりそれも叶わなかった。

「あ!ちょっと無視するつもり?」
「……」
「ねぇてば!私のこと視えてるんでしょ?」

 応えてはダメだと言い聞かせて俺は歩き続けた。それでも女の子は俺に話し掛けてくる。更には付いて来ている。このまま家に来られてもマズいし、だからと言って今相手にしてしまえば面倒事に巻き込まれかねない。しかも普通の人には俺が一人で喋ってるように見られて怪しまれてしまう。
 どうしたらいいのか、解決策も思い浮かばないまま家に着いてしまった。女の子はずっと俺の横で何か言い続けている。この子には悪いが、逃げた者勝ち!と、俺はいきなり走り出して家の中へと逃げた。大きな音を立てて閉まった扉に母さんが驚いた顔でリビングから出てきた。

「大きな音立てて、どうしたの?」
「いや、何でも、ない」

 一瞬の出来事にも関わらず何故か息が切れている俺を見て母さんは「そんなに急がなくても良かったのに」なんて言っている。そう言われて俺は自分がおつかいに行っていたことを思い出す。握り締めていたスーパーの袋を母さんに渡して、俺は自分の部屋へと戻って行った。

「あー、何だったんだよ、あいつ」

 部屋に戻るなりベッドに倒れ込む。さっきの出来事に無駄に疲れた気がしてきて、このまま夕飯まで少し寝てしまおうか、なんて思った時だった。

「なーんだ。やっぱり視えてるんじゃない」

 この場に聴こえる筈じゃない声が聴こえてきて、思いっきり顔を上げた。すると、目の前にはさっきの女の子。

「うわっ」
「さっきと同じ反応だね」
 どこから入って来た、なんて野暮なことは訊かない。それよりも気になることはあるから俺は諦めて目の前でニコニコ笑ってる女の子に問い掛けた。

「何の用?」

 疲れたようにそう訊けば、彼女は驚いた顔で俺を見た後、急に怒り出した。

「さっきの私の話聞いてなかったの!?」
「聞いてない」

 そう言うと、彼女は信じられないとでも言いたげな顔をした。腕を組んで仁王立ちしていた彼女は勢いよく人差し指を俺に向けた。

「しょうがないからもう一回説明してあげる。ちゃんと聞いててよね?」
「はいはい」

 聞かない限りは解放されそうにもないから、俺は仕方なく彼女の話に耳を傾ける為に起き上がってベッドの上に座った。

「私、自分がどうして彷徨ってるのかわからないの。記憶がないみたいで。どこでどんな理由で死んだかもわからない。それ以前に自分が誰だかもわからないの」
「自分が幽霊って自覚はあるんだな」
「それはもちろん。で、早く成仏でもなんでもしたいんだけど、記憶がないから何が未練なのかもわからなくて」

 ここまで聞いて、俺は嫌な予感がした。さすがに本日二度目となるそれに、今日はついてないな、なんて溜め息を吐く。案の定、彼女は両手を組み俺に言ってきた。

「そこでお願いなんだけど、記憶を取り戻すのを手伝ってほしいの!」
「嫌だ」
 
 やっぱり、としか言いようがないそのお願いに俺が即答すると、また彼女は怒り出す。
 ギャーギャー言われても返事を変える気はない。生憎、ここで手伝うなんて言える程俺は優しさを持ち合わせていない。それに、関わったが最後、何があるかわからない。平穏に過ごしたいなら関わらないのが良い。なんて思ったが、既に遅い気もするがそこは置いておこう。兎に角、こいつを撒くのが先決だ。

「大体何で俺なんだよ。他にも視える奴くらいいるだろ」
「いたらあんたに頼んでないわよ」

 そう言われて、さっきの帰り道で彼女を視てしまったことを酷く後悔した。いや、あんな道端で一人で騒いでいる奴がいたら誰でも一瞬は見てしまうんじゃないか?それがただ、幽霊だっただけで。なんて必死に自分の中で言い訳をする。

「兎に角、俺は手伝わないからな」
「記憶が戻ったらすぐに消えるから!お願い!」

 今までとは違って悲痛な声が俺の耳に届く。逸らしていた顔を彼女に向ければ、彼女は今にも泣きそうな顔で俯いていた。それを見て、さすがにしまったと頭を抱える。

「不安なのよ。自分が何者なのかもわからない上に幽霊だなんて。どんな未練があってここに留まり続けているのかもわからなくて、気が付けばこの街にいたわ。誰も私に気付いてくれない中、やっと見つけたの。お願い、協力してほしいの」

 彼女の目からポロポロと涙が流れ出す。流れた涙は地面に落ちる前にスッと消えた。幽霊でも泣くんだな、なんてぼんやりとした頭でそんなことを考える。
 そもそも手伝ってくれなんて言われても、俺に何をしてほしいんだ?自分の事すらわからない奴の事を俺が知ってるわけがない。協力しようにも無理がある。それでも、幽霊だとしても女の子に泣かれるのは良心が痛む。だからと言って、協力するわけにもいかない。心の中でどうすべきか悩んでいると、彼女が口を開いた。

「無理、だよね。ごめんなさい。もう、関わらない」
「え?あ、おい」

 俺が何も言わなかったからか、それとも協力してもらえないと思ったのか、俺が引き止める間もなく、彼女は消えた。
 あれだけ騒いでたのにも関わらず、諦めが早い少女に結局は振り回されただけか、なんて思い、起していた上半身をベッドに倒す。
 何だかあまり後味の良い出来事ではなかった。しかし、これで良いのだ。選択肢を与えられたのだから。自ら面倒事に巻き込まれに行く必要は更々無い。あの少女に関わってしまえば、今までの平穏な日常から遠退いてしまうのが分かり切っている。

「これで、良い……」

 俺は何度も自分にそう言い聞かせた。




 二、【三日目】


 あれから三日が経った。
 俺があまり外に出ない所為もあるが、例の少女には会っていないし、向こうから再び来る気配もない。きっと他の人間を見つけるか、諦めるかしたのだろう。未練なんてわからなくても成仏できる方法だってあるかもしれない。そこまで考えて俺はハッと我に返り、考えを振り切るように頭を横に振る。あれからずっとあの少女の事が、あの最後の涙が頭から離れない。悪い幽霊だとは思えないけど、それでも幽霊は幽霊だ。良いも悪いもない。そう思うのに、何故か気になって仕方が無い。

「……泣くのはずるいだろ」

 俺はそう小さく呟くとベッドから起き上がって部屋を飛び出した。リビングにいた母さんに何処に行くとも告げず、俺はただ走り出した。宛てはないが、うちの近所にいたんだ。きっとまだこの辺にいるだろう、なんて決めつけて、炎天下の中、街中を疾走した。


 ***


 キィ…キィ…と、独特の音を立ててブランコが揺れる。もちろん、揺らしているのは私じゃない。先に座っていたのは私だと言うのに、私に気付きもしない子どもがブランコに座ってきて無邪気に揺らしているのだ。
 太陽が真上から少しずれた頃、公園に子ども達が増えてきた。自分は春物の服を着ているが、どうやら今は夏らしい。夏の暑さは何となくだけど今でも覚えている。考えただけでも嫌になるくらいの暑さ。それなのに、子ども達は元気に走り回っている。

「本当に元気だなぁ」

 その私の呟きは誰にも届かない。私の上に乗って楽しそうにブランコを漕いでいるこの少年にさえも。
 透ける自分の身体を見て、改めて自分は幽霊なのだと自覚する。いつからだっただろうか。少なくとも意識がはっきりとしてきたのは一ヶ月前だった。私は気が付けば宙を漂っていたのだ。覚えているのは自分のものと思しき名前だけ。何処で生まれて、何処で生きて、何処で死んだのかも何もわからなかった。だからと言って、このまま幽霊としてこの世界に生きるのも嫌で、出来ることなら成仏したい。でもどうしたら成仏できるかもわからない上に、自分に未練があるのかもわからない。自分一人では何もできなかった。だから、彼に縋った。今まで私の事が視える人なんていなかったから。最初で最後のチャンスかもしれなかった。しかし、彼は私を拒絶して受け入れてくれることはなかった。

「一生、このままかな」

 幽霊の一生がどれくらいかなんてわからない。でも、チャンスを失った今、それを覚悟するしかなかった。

「それは、嫌だなぁ」

 段々とオレンジ色に染まってくる空を見上げてそう呟くも、やっぱり誰に届くこともなくて。いつの間にかブランコを降りた少年も今はどこにもいなかった。あんなに賑やかだった公園も人が疎らになってきて、誰も乗っていない隣のブランコが風に揺れていた。
 ただぼんやりと、空を眺めていたら大きな足音が公園の中に入って来た。それを気にも留めずにいたら、足音が近くで止まったと同時に私に影がかかった。空から足音の方に視線をずらせば、見覚えのある顔があった。見覚えがあって当たり前。三日前に出会った、名前も知らない彼だった。
 走っていたのか、彼は肩で息をしていて怒ったような顔で私を見ていた。こちらから声を掛けていいのかもわからずに困っていると、呼吸が整ってきたのか彼が口を開いた。

「お前、なぁ!この前と、同じ所にいろよっ!」
「え?」
「捜し回った、だろ!」
 
 彼の言っている意味がわからない。何故、私が怒られているのだろうか。捜し回ったとはどういうことだろうか。いや、それよりも私に話し掛けて平気なのだろうか。人通りが少なくなってきたと言ってもそれでもまだ人はいるのだ。何人かの人は彼の方を見ている。一人で喋っているおかしな人だと思われているのだろう。しかし、彼はそれを気にすることなく私に話し掛け続ける。

「お前、ずっとそうしてるつもりなのか?」
「そうしてる、って?」
「このまま彷徨い続けるのかよ?」

 彼のその言葉に少なからず腹が立つ。私のお願いを拒否したのは彼の方だ。そんな彼にどうこう言われる筋合いは無い。

「彷徨い続けるしかないじゃない」

 嫌味も含めてそう言った。すると、彼は予想外のことを口にした。

「……俺が、協力してやる」
「は?」

 一瞬、何を言われたのかわからなくて、思わず情けない声が出てしまう。確かに協力してほしいと言ったのは私だけど、それを彼が断ったのはまだ記憶に新しい。
 私の反応が不服だったのか、彼の眉間に皺が寄る。正直、眉間に皺を寄せたいのは私の方だ。

「協力してやるって……つい何日か前に断ったのはあなたじゃない」
「気が変わった」
「……本当に手伝ってくれるの?」
「だからそう言ってるだろ」

 からかわれているのだろうか。それとも本当に記憶を取り戻す手伝いをしてくれるのだろうか。彼が何を考えているのかわからない。しかし、幽霊である私と関わりたくなくて一度は断ったのに、彼の方から来てくれたということは信じても良いのだろうか。
 わからないことだけで混乱する。けれど、私は記憶を取り戻したい。いつまでもこの世界に漂っていたくない。そして、記憶捜しに手伝ってくれると言う彼。それに対して頷かないわけがない。再びやってきたチャンスを自ら棒に振ることなんて出来ない。

「ねぇ、あなたの名前は?」
「は?……あぁ、純。岡崎純」
「純、ね」
「お前は?てか、名前覚えてんのか?」

 自分の名前という確証はないけれど、それらしきものは覚えている。本当は自分の名前ではないかもしれない。違う人の名前かもしれない。だけど、私は暫くこの名前を借りようと思う。

「み、らい。未来って言うの」
「ふうん。というか、最初に言っておくけど、俺が出来ることなんて限られてるからな」
「うん。ありがとう」

 彼の言う通りだ。ただの一般人である彼に出来ることは限られているだろう。それに、彼に手伝ってもらうことで記憶を取り戻すことが出来るかなんてわからないけど、それでも何もしないよりはマシだ。取り戻せなかったら、なんて考えたくもない。
 それでも、私はこの少年に全てを賭ける。




 三、【十日目】


「ちょっと、純ってば!どこ行くの?」
「学校だって昨日言っただろ」
「言ってない!」
「言ったって。お前が聞いてないだけだろ」

 朝からそんな会話がとある家の一室で繰り広げられる。部屋の住人である少年、純は大きく溜め息を吐いて少女、未来を見た。呆れ顔の純とは違い、未来は怒ったような顔で純を睨みつけていた。

「今日は違う場所に行ってみる、って言ったじゃない!」
「行ってやるよ。ただし、放課後な。今日は始業式だけだから学校直ぐ終わるし」

 それでも納得していない未来が何か言う前に純は部屋を出た。リビングへ行けばいつも通り、両親が先に朝食を食べて待っていた。

「純、何か上から声が聞こえたけど独り言?」
「うん。独り言」
「最近多いわね」
「気の所為だろ」

 何でもないかのようにそう言うと、純は食卓に着き用意されていた食パンをかじる。
 彼女、幽霊である未来に協力すると言ってから一週間が経った。手懸りも何もない中で取り敢えず純は、未来を連れてこの街を探索することにした。もしかしたら、未来の見覚えがある風景があるかもしれないと考えたのだ。しかし、何も進展がないまま早くも一週間が経ってしまったのだ。純自身、そんな早くに進展があるとも思っていなかったのだが、ここまでないと逆に困ってしまうのだ。
 ここ一週間、純は未来を連れて外に頻繁に出ていた。普段は滅多に外に出ない純の行動に母親が不審がっているのだ。挙句、未来との会話が独り言に聞こえるのだろう。さっきのような会話はもう既に何回かしていて、純は溜め息を吐いた。自分は完全に母親から不安がられているとわかっているからこそ、早くに未来の記憶を取り戻したいのだ。これがずっと続くようであれば、何時か自分は精神科送りにされそうだ、と純は内心思っている。

「行ってきます」

 玄関を出ると、夏の時とは違った陽射しが純を照らした。

「今日はどこら辺に行ってみるかなー……」

 そんな独り言を呟いて純は久しぶりに通学路を歩いた。



 長くて退屈な校長の話をぼんやりと聞き流し、始業式が終わると純は一人鞄を肩に掛け教室を出た。教室では各々が放課後どこに行くかとか話し合っていた。自分には無縁の話だとわかっている純は足早に学校を去った。
 家に帰り、部屋に入ると純のベッドに寝転がっていた未来が飛び起きた。

「おかえり!」
「ただいま。ほら、行くぞ」
「うん」

 純は鞄を机の上に置くと、また直ぐに未来を連れて外に出た。自転車に跨ると、未来は後ろに乗る。幽霊なのだから乗るも何もないのではないか、と純は思い一度だけ未来に訊いたことがあるが、未来は「雰囲気的に」の一言で終わらせてしまった。それからは純ももう何か言うのは止めてしまった。

「今日はどこに行くの?」
「決めてない」

 自転車が走り出して暫くすると、未来は純にそう問い掛けた。しかし、純から返ってきた一言に未来は溜め息を吐いた。自分から協力してほしいと言った身で文句を言うのも何だが、こうも無計画で大丈夫なのかと不安にもなる。しかし、確かにここ数日でこの街のいろんな場所を見てきたのだ。そろそろ行く宛てもなくなってくるだろう、と未来自身もわかっていた。

「なぁ、お前本当にこの街の人間なのか?」
「たぶん」
「頼りない答えだな」
「だってわからないんだもん」

 何を訊かれても未来は「わからない」としか答えようがなかった。自分でもこの街の人間なのかわからないのだ。それなのに、何故か自分はこの街の人間だと思っている。それは、幽霊として目覚めた時にこの街に居たからなのか、何の根拠もない自分の中の確信がそう思わせるのか、兎に角幽霊になってから自分がこの街の人間じゃないということを疑ったことがない。しかし、純にいろんな場所を見せてもらっても何も思い出せないということはこの街の人間じゃないのかもしれないとここ何日かで未来は思い始めていた。

「もう思い当たるとこねーよ。適当に走るから止まってほしい場所あったら言って」
「わかった」

 自転車が風を切る中で未来は流れていく街並みをぼんやりと見ていた。



 どれくらい走っただろうか。そろそろ日が暮れ始めようとした時だった。未来の視界に映った風景が自分の記憶と思しき過去の景色と重なり、未来は急いで声を出す。

「純!ストップ!止まって!」
「え?あぁ……」

 未来の声に純は急いでブレーキをかける。自転車が止まった場所は、公立中学の前だった。

「中学校?」

 そんな純の呟きも聞こえないくらい、未来はその中学校を食い入るように見つめていた。
 この学校も今日が始業式だったのか、生徒は疎らだった。だからと言って、高校生である自分が用もなく校門の前に立っていたら怪しまれてしまうかもしれないと思い、純は未来に声を掛けた。

「おい。取り敢えず、一端ここから離れるぞ」
「ねぇ、純。私、ここ、知ってる……」
「え……?」

 絞り出したような未来の声に、純はその場から離れることも忘れて未だに中学校を見つめている未来をただ呆然と見たのだった。




 四、【十三日目】


 公立岬第一中学校。
 その学校が未来と何らかの関わりがあるとわかってから三日が経った。しかし、わかったのはそれだけだった。あの後、未来は他に何も思い出すことなく結局その場を去ることになった。
 それからというものの、未来はずっと頭を抱えていた。何らかの関わりがある筈なのだから、単純に考えて自分があの中学校の生徒だと考えるのが妥当だ。しかし、その結論にいまいち未来は納得出来ないでいた。

「何か違う気がする」
「兎に角、今日もう一回あの学校に行ってみるから。夕方には俺の学校の前にいろよ」
「はーい」

 未来が何も思い出せないとなると、あの学校に直接行くしかないと二人は考え、放課後に合流してそのまま岬第一中学校へと行くことにしたのだ。普段は徒歩で通学している純だが、放課後に岬第一中学校へ行くとなるとそれなりに距離があるため、今日が自転車で通学することにした。
 純を見送ったあと、未来は純の部屋で再び記憶を探っていた。
 あの学校を見た瞬間に重なった記憶。あれは確かに自分の目で見た記憶だった。しかし、校門から学校を見ただけの風景だけでは自分とどう関わりがあるのか見当もつかなかった。もしかしたら、ただ友達や知り合いが通っていたというだけの学校かもしれない。しかし、手懸りになることは間違いないのだ。ここにきて漸く手に入れることのできた手懸りを無駄にするわけにはいかない、と未来は今日の放課後に賭けていた。



 夕方、純の学校が終わる頃を見計らって教えてもらった純の学校へと未来は行く。校門の前で暫く待っているとすぐに純は来て、手を振ったが純はそれを無視して少し先の人気のない所へ行ってしまった。その後ろ姿を見て未来は小さく溜め息を吐いた。
 純の部屋では当たり前のように会話をするようになったが、やっぱりと言うべきなのか外ではあまり未来と話そうとしなかった。それもそうだろう。未来と話しているのを他の誰かに見られれば、純は一人で喋っている怪しい人だ。未来もそれは理解しているため、先程のように無視されても気にしないことにした。
 純の後を追って人気のない所に行けば、純は自転車を止めて待っていた。

「遅い。早く乗れ」
「うん」

 小声でそう言われ、未来はいつもの通りに純の自転車の後ろに乗る。それを確認すると純はペダルを漕ぎ出した。
 岬第一中学校に辿り着くと、放課後ではあるが部活で残っている生徒だろうか、先日来た時よりは人が多かった。純は学校の近くに自転車を止め、校門を潜り抜けると学校に入る。止められるかとも思ったが、受付けで卒業生と言えば学校側はあっさりと純を入れてくれた。

「あー、入れて良かった」
「そう言う割には結構、堂々としてたよね」
「当たり前だろ。こういうのはびくびくしてたらバレるもんだろ」

 そんな純の悪知恵に未来は呆れるが、すぐに学校の中を見渡す。どこか懐かしいような気分に陥る。

「少し、見て回るか」
「そうだね」

 それから二人は学校中を歩き回った。教室、中庭、校庭、音楽室。それらを見て回っても未来は何も思い出すことができなかった。

「私とは関係ないのかな?」
「本当に何も思い出せないのか?」
「……うん」
「そうか……」

 二人が中庭にあるベンチに座り肩を落としている時だった。

「そこの君。何してるの?」

 突然声を掛けられ純は驚いて顔を上げた。そこには教師なのだろうか、三十代くらいの男がいた。

「他校の生徒かい?」
「あ、えっと、卒業生で……」
「あぁ、なんだ。卒業生か」

 納得したような顔をする男性教師に純は心の中でホッと息を吐く。そのまま去ってくれという純の願いも虚しく、男は再び純に話を振った。

「それで、こんな所でどうしたんだい?」
「いや、あの……少し人を探していて」
「人を?君の担任だった先生かい?」
「いえ、後輩を」

 予想外の質問に純は焦りながらもそう答えた。一見自分より年下に見える未来を後輩と偽ったが、もし未来がこの学校と関係ない場合、嘘だと気付かれてしまう。しかし、逆にこれは未来のことを訊けるチャンスなのではないかと純は思った。

「会いたいんですけど、名前しかわからなくて。先生、知りませんか?」
「生徒にもよるけど……どんな子だい?」
「えっと、未来って名前の女の子で」
「うーん。名前だけじゃわからないなぁ」

 確かにそうである。しかし、純も名前しかわからないのだから説明しようにもなかった。写真があればそれを見せるのだがそれもない。どうしたものかと悩んでいて、純は閃いた。持っていた鞄からルーズリーフとシャーペンを取り出すと、そこに何かを描き始めた。

「え、純って絵なんか描けるの?」

 横で驚いている未来を無視して純は上半身だけの未来の似顔絵を描いた。特別上手いわけではないが、誰だかは特定できるそれに未来は純の意外な才能に感心していた。
 一方、純は未来の似顔絵を描き終えるとそのルーズリーフを男に見せた。

「こんな子なんですけど」
「絵上手だね。んー、未来って名前だっけ?」
「はい」
「僕が担当している生徒の子ではないみたいだな…。でも、どっかで見たことあるような…」
「本当ですか?」

 男の言葉に純も未来も表情を明るくした。しかし、男の方は難しい顔で言葉を続けた。

「でも確かじゃないんだ。悪いね」
「そう、ですか」

 項垂れる純を見て、男は少し考えてからまた口を開いた。

「もし、この子の事が何かわかったらこっちから連絡しようか?」
「え、いいんですか?」
「本当は駄目だけどね。でも何か理由があるみたいだし。力になれるかはわからないけど、少しなら協力するよ」

 思いがけない男の言葉に純と未来は再び表情を明るくする。教師という立場上、一生徒の情報を誰だかもわからない人間に教えるのは良くないことだろう。しかし、漸く未来を知っているであろう人間に出会えたのだ。協力してもらえるなら二人にとって有難いことこの上なかった。

「それじゃあ、何かわかったら連絡するよ」
「はい、お願いします」

 その後、純は自分の携帯電話の番号が書かれたメモをその男に渡し、そのまま二人は別れた。
 横ではすでに未来が喜んでいるが自分はそうもいかないから思いっきり喜びたい感情を抑えて、再び自転車に乗ると来た時とは違うスピードで家に帰る。
 帰宅の挨拶もそこそこに家に入ると勢いよく階段を上がり、自分の部屋へと入った。

「っ……、よっしゃー!」
「これってすごい進展だよね!」
「当たり前だろ。先生に見つかったらヤバいって思ってたけど、寧ろラッキーだったな」

 二人してさっきまでの出来事を思い出して喜び合う。まだあの男性教師が知っているのが未来だと限らないとわかってはいるが、二人は喜ばずにはいられなかった。

「何かわかるといいな」
「うん!」

 その日から純は携帯を片時も手放さなかった。




 五、【十五日目】


まだ、あの男性教師からの連絡は来ない。




 六、【十八日目】


純にしたら珍しく携帯を手離さない生活を送っていた。普段からあまり鳴ることはない携帯だが、ここまで鳴らないと段々嫌気が差してくる。そして鳴る度に反応しては期待していた人物からとは違っていて落胆する。それを繰り返していた。


男性教師からの連絡はまだ来ない。




 七、【二十日目】


 純は教室の机に突っ伏していた。
 岬第一中学校に行き、あの男性教師と会ってから一週間が経った。しかし、あれからあの男からは何の連絡もなかったのだ。
 何もわからなかった、未来は関係なかった。そう考え始めていて、純も未来も再び落ち込んでいた時だった。
 お昼休み、持参していた弁当を食べ終えた純はこれからどうするかを机に突っ伏しながら考えていた。すると、机の上に置いていた携帯が震え出した。机に伝わってきたその振動に顔を上げ携帯を見てみると、知らない番号からの着信だった。一つしかない心当たりに、純は急いで教室を出るとすぐ近くの比較的人が少ない所で通話ボタンを押した。

「もしもし?」
『あ、良かった。繋がった。こんにちは。岬第一中の沢田だけど』
「え?あぁ、はい!」

 沢田と名乗られ、そこで初めて純はこの男の名前を知った。男…沢田の方は岬第一中学校の卒業生ならば自分くらい知っているだろうと思い名乗らなかったのだが、もちろん岬第一中学校の卒業生ではない純が沢田を知るはずもないのだ。そんなことを知る由もない沢田は話し始めた。

『この前、君が訊いてきた子なんだけどね、やっとわかったんだ』
「本当ですか?」
『あぁ。彼女はもうこの学校にはいないよ』
「え?」

 確かに未来は死んでいるのだから「いない」と言われるのは正しいのだろう。それでも自然とそんな声が零れた。

『彼女、今年の三月に卒業してるんだ』
「卒、ぎょう……?」

 てっきり「死んだ」と言われるとばかり思っていた純はその言葉に拍子抜けした。しかし、卒業を見送って死んだことは知らないのかもしれない、純はそう思った。

『そうだ。それとね、彼女の名前違ったよ』
「え?違った?」
『そう。君は未来って書いてミライって教えてくれただろう?あれ、ミライって読むんじゃないらしい』

 沢田のその言葉に純は頭を抱えたくなった。唯一わかっていた名前が違っていたんじゃ話にならない。溜め息を吐きたい気持ちを抑えて純は沢田に問い掛けた。

「じゃあ、本当は何て?」
『ミクだよ。彼女の名前は小林未来』
「こばや、し……みく?」
『今は公立の青岬高校に通っているよ。そういえば、君も青岬の制服を着ていたよね?すぐに会えるんじゃないかな?』

 またしても自分の事のように嬉しそうに話す沢田。しかし、そんな沢田の言葉の半分以上が純の耳をすり抜けていった。
 純の頭の中ではずっと“小林未来”という名前が巡っていた。



 あの後、どうやって沢田との電話を終わらせたのか、どうやって最後の授業まで受けたのか、どうやって家まで帰ってきたのか純にはわからなかった。
 玄関の前で純はただ呆然と突っ立っていた。ドアノブに手を掛けることもなく、ただただ地面だけを見つめていた。足は錘を付けたかのように重く、なかなか進もうとしれくれない。自分だけが緊迫した空気に包まれていた。
 そんな時、目の前の扉が開いた。出てきたのは母親で玄関前に居た純を見て驚いた顔をした。

「あら、こんな所に突っ立ってどうしたの?」
「いや、なんでもない」
「そう?あ、お母さん今から買い物に行って来るから」
「わかった……」
「今日はお姉ちゃんの誕生日だから、みんなでお祝いしましょうね」

 嬉しそうに、だけどどこか悲しそうに小さく微笑むと母親は純の横を通り抜けて行った。
その背中を見送ると、純も漸く足を動かし家の中へと入った。
 いつもよりゆっくり上った階段に何の意味もないとわかってはいるが、未来がいるであろうその部屋にいつも通りに入って行ける程、純の心の中は落ち着いてはいなかった。だからと言って入らないわけにもいかず、純は部屋の前で一度だけ深呼吸をすると、部屋のドアを開けた。

「あ、純。おかえりー!」
「……ただいま」

 いつもと同じような笑顔で純を迎えた未来をいつもなら適当に返事をしてそれで終わらせてしまう。しかし、今日はそれが出来ずに複雑な表情で未来を見てしまう。そんな純を不思議に思ったのか、未来は首を傾げながら訊いてきた。

「どうかした?」 
「いや、何も……」
「あの先生から電話掛ってきた?」
「……掛ってきてない」

 少しだけ間を空けて出てきた嘘を疑うことなく未来は「そっか」と悲しげな表情を浮かべた。

「もう違う方法探した方がいいよね。一週間経っても掛ってこないんだし」
「そう、かもな」
「明日からどうする?」

 未来の問い掛けに純は少し考えてから口を開いた。

「悪い。明日は放課後に少し用事があるから、俺はパスな」
「用事?」 
「あぁ。先生に用事を頼まれてるんだよ」

 本日二回目の嘘。それでも未来は純のその言葉を信じて「わかった。じゃあ明後日からね」なんて無邪気な笑顔を浮かべるのを見て、少しも罪悪感がないわけではない。心の中でモヤモヤとしたものが渦巻いていると、未来が思い出したように口を開いた。

「そういえば、今日って純のお姉さんの誕生日なんだって?」
「え?」
「さっき玄関で話してるの聞こえた。純ってお姉さんいたんだ?」
「……あぁ」
「今まで見たことなかったからびっくりしたよ。普段は家にいないの?」

 未来のその問い掛けにどう純は答えるか悩んだ。しかし、隠していても何れ知られてしまうことだろうと思い、本当の事を告げた。

「……死んだんだよ」
「……え?」

 予想外な純の言葉に未来は一瞬言葉の意味が理解できなかった。真剣な純の顔を見たら「冗談でしょ?」なんて言葉も喉の奥に消えていった。

「姉貴、交通事故で死んだんだ」
「ご、ごめん……」
「別にいいよ。もう半年経つし。未だに引き摺ってんの母さんだけだよ」
「そうなんだ……」

 この日、二人にそれ以上の会話はなかった。




 八、【二十一日目】


 岡崎遥。俺にはニ歳離れた姉貴がいた。元気で明るくて社交的で、俺とは正反対の性格だった。姉貴の周りにはいつだって友達がいた。そして、俺が霊感を持っていると知っていながらも俺に普通に接してくれる唯一の人だった。
 まだ生きている人間と幽霊の違いもわからないくらい小さかった頃、幽霊が怖かったのと友達に馬鹿にされたりしたので兎に角よく泣いていた。そんな俺をずっと守ってくれていたのが姉貴だった。

『ゆうれいなんてこわくないよ。だいじょうぶ。わたしがまもってあげる』

 自分は幽霊なんて視えないくせに、自分だって幽霊が怖いくせに、それでも俺の為に強くあろうとしてくれた姉貴は俺の憧れだった。小学校高学年になる少し手前まではずっと姉貴の後ろにくっついていたくらいだ。
 中学校に上がって幽霊が視える生活にも慣れてきてからは少しずつ姉離れをし始めた。それでも俺の中で姉貴という人間の価値は変わらなかった。
俺にとっては大切な存在だったんだ。
 そんな姉貴が事故に遭ったのは今年の春だった。四月に入り、残り少ない春休みに友達と買い物に出掛けた時だった。
ありきたりな事故だった。車に轢かれそうになっていた女の子を姉貴が突き飛ばして、代わりに姉貴が車に轢かれた。女の子は信号がない道路を横断しようとしていたらしい。     そう、つまり姉貴は轢かれて当たり前の子を助けて死んだのだ。姉貴が突き飛ばして助けた筈だった女の子はガードレールに頭を強打して、打ち所が悪かったのか今も意識不明のままだと母さんから聞いた覚えがある。
 その女の子こそ、小林未来だった。



「小林が入院している病院?」
「はい。お見舞いに行きたいんですけど」
「あー、なるほどな。ちょっと待ってろ」

 沢田先生の言う通り、小林未来は俺と同じ高校に通っていた。すぐにクラスも割り出す事が出来た。放課後、小林未来の担任の先生に彼女が未だに眠っているであろう病院を訊くとあっさりと教えてくれた。
 先生に渡されたメモを頼りに病院へと向かう。
 俺は小林未来という名前しか知らなかった。同じ高校とは言え、赤の他人。更に俺は人と関わらない人間だったから小林未来が同じ学校ということすら知らなかった。
 姉貴の事故当時、既に彼女も病院に運ばれていたし、その後も姉貴の葬式だとかで小林未来を見舞う事なんて考えてもいなかった。それでも姉貴の事故の原因が小林未来だという事は母さんから聞かされていた。しかし、結局、俺は小林未来の顔を見ることなんてなかったんだ。



 岬総合病院。
 そういえば、姉貴も事故当時すぐにこの病院に運ばれていて、俺も母さんと急いで駆け付けた記憶がある。
 面会人の札を首から下げて、メモに書いてある病室に向かう。その足取りは昨日家に帰る時と同じように重かった。
 三〇五号室。小林未来、と名札があるその病室の扉をノックする。すると、中から小さく「どうぞ」と声がした。その返事を聞いて俺は扉を開けて中に入る。

「失礼、します……」

 病室に入ると年配の女の人が驚いたような顔で俺を見ていた。俺はこの女の人を知っている。姉貴の葬式の時に泣きながら俺達家族に謝っていた。小林未来の母親だ。

「あなた……。確か、岡崎さんの」
「ご無沙汰しています」

 彼女の母親は酷く憔悴しきった顔をしていた。それもそうだろう。自分の娘の所為で人が一人死んで、助けてもらった筈の娘も意識不明で半年経つ今でも眠り続けているんだから。

「な、に……?なんの、用なの?」

 今にも泣きそうな顔で訊かれたが、俺は母親の方を見ずにベッドに横たわるその身体に視線を向けた。

「安心してください。すぐに帰ります。俺はただ、確認しに来ただけですから」

 そう、俺は確認しに来ただけだった。今更この母親に何かを言う気なんてない。ただ、自分のこの目で確認したかったんだ。俺の前に現れたあの幽霊の女の子が本当に小林未来という名前で、今目の前で眠っている女の子と同一人物かということを。

「確認……?」
「もう、十分です。突然すみませんでした」

 それだけ言って俺は病室を出た。
 十分だった。何度も見なくても十分にわかった。この病室に眠っている小林未来と幽霊のあの少女が同一人物だということが。



「おかえり!遅かったね!」

 家に帰るといつも通り未来が笑顔で俺を迎える。しかし、今日はそれに応えられる精神は持ち合わせていなかった。病室ではそっと閉ざされていた瞼は開いていてその瞳に俺を映している。
 未来の身体が生きていたという事実よりも、未来が小林未来という人間だった事の方が衝撃的すぎて、俺はこいつにどうやって話を切り出せばいいのかわからなかった。
 いや、こいつは何も知らなくていい。

「未来」
「ん?どうしたの?」
「明日、放課後にまた学校前で待ってろ。行きたい所があるから」
「行きたいところ?」
「あぁ」
「わかった!」

 今はまだ何も知らなくていいんだ。身体に戻ったら全てを知ってしまうかもしれないけど、それまでは知る必要なんかない。もし、今真実を知ってしまったらきっと、未来は身体に戻るのを拒否してしまうんじゃないかって思ったから。それこそ、俺には許せない事だ。姉貴が守った命なのだから。生きてくれないと困る。

「ねぇ、明日どこに行くの?」
「明日のお楽しみ」
「意地悪!」

 だから今はまだ無邪気に笑っていてくれ。




 九、【二十二日目】


 純の学校が終わる頃合いを見計らって校門の前で待っていたら純は直ぐに出てきた。いつもと同じように人気のない所で純の自転車の後ろに乗った。
 純は何も話さなかった。
 最初は外だからかな、なんて思ったけどそんな理由ではないらしい。雰囲気がそう言ってる。そうして無言のまま連れて来られたのが、岬総合病院だった。
 病院に入ると純は受付けへと真っ直ぐ行ってしまった。
 どうして病院に連れて来られたのかはわからない。しかし、胸の奥がざわついていた。嫌な予感とも言えないような、よくわからない感情が私の中を渦巻いていた。

「行くぞ」

 小声でそう言われて我に返る。先を歩き始めていた純に急いでついて行けば、辿り着いたのは一つの病室だった。
 三〇五という部屋番号の下には小林未来という名前が書かれていた。それを見た瞬間、胸のざわめきがより一層強くなった。そんな私を気に掛けることもなく純は病室のドアをノックするとそのまま中に入って行った。慌てて私も中に入ると、病室には誰もいなかった。ただ一人を除いて。
 病室に備え付けられたベッドの上に眠っている女の子。その子を見て目を見開いた。

「嘘、でしょ……?」

 どこからどう見てもその女の子は私だ。今度は頭の中で沢山の疑問がぐるぐると巡っていった。
 どうして私がここに寝ているのか。どうして純はそれを知っているのか。どうして私は幽霊になってしまったのか。頭の中の疑問に答えてくれる人なんてもちろんいない。隣の純はこの病室に入ってから一言も言葉を発していない。空気が重たい。

「ねぇ、これ、どういうこと、なの……?」

 絞り出した言葉は余りにも弱々しくて自分でも驚いた。しかし、今の私にはこれが精一杯だった。
 少しの沈黙の後、純がゆっくりと口を開いた。

「見ての通り、お前だよ。お前は死んでなんかいない」
「じゃあ、どうして……」
「お前はただの生霊だったんだ」

 次に投げかけようとした疑問を全部口にする前に純に遮られた。遮った言葉はまさに私が問い掛けようとした疑問の解答だった。

「生霊?」
「あぁ。よくあるだろ?生きている人間でも魂が抜けるって話。幽体離脱とか。お前の場合もそれだったんだよ」

 淡々と話す純。私はその言葉の一つ一つを理解し、整理するのに時間が掛った。
 私は本当は生きていて、ただの生霊だった?それじゃあ、何故私は何も覚えていないの?何故、こんなにも長い間身体に戻る事が出来ないの?
 整理することは出来ても、理解は出来なかった。

「良かったじゃん。お前、生きてんだよ。だから……早く身体に戻れよ」
「……純?」

 早く身体に戻れよ。純のその言葉にはどこか悲願とも思える感情が籠っていた。
 そうだ、彼は元々は私に非協力的だった。どんな心境の変化があったのかは知らないが、今はこうして協力してくれていたから忘れていた。早く私に消えてほしいのだ。しかし、私にはどうやったらこの身体に戻れるのかわからない。何もしないよりは良いだろうと思い、私は自分の身体に手を伸ばした。

「っ!」

 伸ばした手は身体に触れることなく、静電気みたいなものに弾かれた。

「え、何?」
「何だ今の?」

 純も驚いたように私を見ていた。

「弾かれたみたいな感覚だった」
「どういうことだよ?まさか……」
「身体に戻れないの、かな?」

 純の言葉の続きであろう言葉を私が言うと純は俯いて黙ってしまった。その表情はわからないが、固く握りしめられた手が震えているのに気付いた。 

「純……?」
「……――けんなよ」
「え?」
「ふざけんなよっ!」

 初めて聞いた純の怒鳴り声に私は肩を震わした。顔を上げた純は今にも泣きそうな表情をしていて、私は何も言えなかった。

「元に戻れない?冗談じゃない。それじゃあ、何の為に俺がっ……姉貴がっ!」

 姉貴が、その言葉の続きを言わずに純は病室を出て行った。私はただ呆然と純が出て行った扉を見つめた後、もう一度自分に視線を移す。さっきと同じように手を伸ばせばやっぱりバチッと音を立てて弾かれた。

「どうして……?」

 今日何度目かの疑問は“私”しかいない病室に消えた。


 
 病室の外にも病院の外にも純の姿はなく、私は一人で純の部屋まで戻って来た。しかし、部屋にも純はいなかった。部屋に戻ってきた様子もない。家にはいるのだろうか、そう思い私は純の部屋を出た。純を探すべきなのか迷った。私に対して怒っているのならそっとして置いた方が良いだろう。それでも気になったのだ。純があんなに感情的になった理由を。
 この家を歩き回るのは初めてだった。純の部屋にしかいたことがない。あまりこの家を歩き回るなと言われていたからだ。
 純の部屋を出て、下の階に下りる。この家には誰もいないのだろうか?とても静かだった。すると、リビングの方から小さく鐘のようなものが鳴る音がした。その音の方へ足を進めると、リビングの隅に純のお母さんが座って何かに手を合わせていた。一体何に?と思いかけて思い出した。

『姉貴、交通事故で死んだんだ』

 純のお母さんには私が視えない。それなのに何故かそっと近付いた。そして純のお母さんが手を合わせていたものに目を向けると、やっぱり一人の女の人の写真が飾られていた。写真の中の女の人はとても楽しそうに笑っていて、生前は明るい人だったのが想像出来る。しかし、その写真の人物に私は違和感を覚えた。写真に近付いてじっと女の人を見つめる。どこかで見た事があるその顔に首を傾げる。もしかしたら私が事故に遭う前に関わっていた人だろうか。どれだけ見つめても思い出せない。すると、純のお母さんが写真に向かって話を掛け始めた。

「もう半年も経つなんて信じられないね。未だに何事もなかったかのように帰ってくるんじゃないかって、思うの」

 悲しそうな笑顔で写真をなぞるその姿に渡しの胸が締め付けられるように痛む。

「純もね、元々笑わない子だったのにお姉ちゃんが死んじゃってもっと笑わなくなっちゃったのよ?」

 その言葉を聞いて、お姉さんの死を引き摺っているのは純もだということがわかる。この間言っていたのはただの彼の強がりだったんだ。

「ねぇ、戻ってきてよ、遥……!」

 ハル、カ……。
 その名前を聞いた瞬間に私の頭の中にいろんな映像が飛び込んできた。
 こちらに向かってくる女の人。車のスリップ音。どこか遠くで聞こえる違う女の人の悲鳴。

『きゃあああ!遥あああああ!』


 そうだ。私は死んでなんかない。




 十、【二十四日目】


 あれから未来に会っていない。
 あの病院に行った日、俺は先に病院を出て宛てもなく無我夢中で自転車を走らせていた。
ただただ怒りが込み上げてきて、その怒りの行き場もなくて、どうしていいかわからなくなったんだ。
 彼女に当たるつもりはなかった。けれども、身体に戻れないなんて俺には悪い冗談では済まなかった。未来が身体に戻れなくてあのまま生霊として彷徨い続けて、身体はずっと眠ったままなんて、じゃあ、姉貴は何の為に自分の命を懸けてまで彼女を庇ったのか。姉貴は何の為に死んだのか、わからなくなる。そう思ったら勝手に口走っていた。全部を言う前に病室から逃げたものの、結局は二人共帰る場所は同じなのだ。嫌でも顔を合わせる事になる。俺は少しだけ頭を冷やして日が完全に落ちる頃には家に帰った。
 しかし、未来は居なかった。
 俺の部屋にも何処にも居なかった。あんなふうに怒鳴った後だ。未来も帰り辛いのかもしれない。彼女が帰って来たら直ぐに謝ろう。そう思っていたのに。その日、未来は帰ってこなかった。そして、二日経った今日もまだ未来は姿を現していなかった。
 授業中、上の空で窓の向こうを眺める。
 やっぱり一昨日怒鳴った所為だろう。身体に戻ったとは考え難い。捜した方が良いのだろうか。色々考えてみるが、結局結論には辿り着けないまま授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。


 ***


 あの日、私は急いでいた。
 第一志望校に受かって、入学式を目前に控えた春休みだった。同じ高校に入学する友達に急に遊びに誘われて、急いで支度をして待ち合わせ場所に走っていた。しかし、すぐ先の信号は赤になったばかりだった。
元々その道路は車通りの少ない道路で車が通らなければ赤信号でも渡れてしまうような、そんな道路だ。その時も通る車は疎らで、それに加えて私は一秒ですら赤信号を待てないくらいに急いでいた。
 完璧なる不注意だったんだ。
 少し車が通らなくなったのを良い事に次に車が来るかも確認せずに横断歩道の少し手前の場所から道路を横切ろうとした。その瞬間だった。

『危ないっ!』

 そんな声が聞こえてきて一人の女の人がこちらに走って来た。そして横からは車のスリップ音が聞こえて、そっちに目を向ければ一台の車が急ブレーキを掛けているにも関わらず私と女の人の方へと向かって来ていた。

『え?』

 私には何が起きているのか全くわからなかった。全てがスローモーションに見えて、身体は反応すら出来なくてその場に立ち竦んでしまった。車が私達にぶつかると思ったその瞬間、私の身体は強い力に押されて後ろに飛んだ。それと同時に酷く鈍い音と女の人の悲鳴が聴こえた。

『きゃあああ!遥あああああ!』

 その悲鳴を聴いた後、私は硬い何かに頭を強打し、意識が朦朧としていた。そして、沢山の声を聴きながら意識を手離した。



 私は死んでなんかいない。私が車に轢かれたんじゃない。車に轢かれたのはきっと私を庇ってくれたあの女の人だ。遥という名前。そして、一瞬だけだったけどはっきりと覚えている。あの女の人の顔は純の家に飾られていたあの遺影の人。私を庇ってくれたのは…、純のお姉さんだ。

「私を庇って……」

 死んだ。
 全てを思い出した今なら、私の身体が“私”を拒絶した理由がわかる。私は目覚めたくないんだ。誰かの命を犠牲に生き延びたという事実を受け入れたくないんだ。そして、その犠牲が純のお姉さんなら尚更のこと。
 彼はこの事を知っているのだろうか。いや、知っているからこそあの病院の時、あんなにも感情的になったのだ。しかし、感情的にはなったものの、彼は私を責めたりはしなかった。全部、全部知っていた筈なのに。それが逆に辛くて、私は彼の元へ帰れないでいた。

「これからどうしようかな……」

 身体に戻らなければ私は純のお姉さんの死を無駄にしてしまう。けれども、身体は私を拒絶する。そんな堂々巡りに私は頭を抱えた。
 私はただ成仏したかっただけなのに。私のそんな願いがこんなことになってしまうなんて思ってもいなかった。あの時、純に声を掛けていなければ、何か違っていたのだろうか。今更考えてもどうしようもないことばかり考えてしまう。現実から目を背けたかった。成仏も身体に戻ることも出来ないなら、いっそ消えてしまいたい。
 私は澄んだ秋空を見上げながら静かにそう願った。


 ***


 放課後、一応病院に行ってみたが、未来の身体は変わらず眠ったままだった。布団から出ていた未来の手に触れると微かに体温があって、とても脱け殻とは思えなかった。

「早く起きろよ」

 そう呟いてみたところで未来の魂が身体に戻るわけでもないのだけれど。それでも、そう願わずにはいられなかった。例えそれが、自分の心を救うだけの自分勝手な願いだとしても。



 よくよく考えてみれば、あのくらいで未来は帰って来なくなるような奴だろうか。俺の知っている未来はよく喋って、図々しくて、感情表現が激しい女の子だった。俺に少し怒鳴られたくらいで落ち込むような奴ではない筈だ。そこまで考えて俺は一番避けて通りたい仮定に辿り着いた。しかし、そう考えてしまうともう仮定には思えなくなるくらいその考えだけが頭を巡っていて、俺は家に帰る為に走らせていた自転車を方向転換して思いっきりペダルを漕ぎ始める。
 もしかしたら、未来の記憶が戻っているのかもしれない。



 未来が居そうな場所を片っ端から行ってみたが未来は見つからなかった。この公園になら居ると思ったが、未来の姿はどこにもなかった。
 日が落ちるのが早くなったこの季節のこの時間にはもう子ども達は居なくて、誰も座っていないブランコに腰かけた。少しだけ揺らしてみればブランコ独特の音が響く。
 キィ…キィ…という音を聴きながら俺は考える。未来が事故当時の事をどれだけはっきり認識しているかわからない。それに未来には姉貴が死んだということしか言っていない。記憶を取り戻したとしても、自分が姉貴の死に関わっているなんて知らないかもしれない。でも、それなら俺の家に帰って来る筈だ。それが帰って来ないというのはもしかしたら未来は全部知っている可能性が高い。あの日、俺が病院を出て行ってからどういう経緯で記憶が戻ったのかはわからないけど。
 そうだとしたら未来は俺に会いたくないだろう。会いたくない、というよりは会えないんだと思う。俺は自分の所為で死んだ人の弟なんだから。それでも俺はあいつに言わなくちゃ、伝えなくちゃいけないことがある。
 だから俺は、未来を見つけ出す。




 十一、【二十四日目 夕方】


 純が未来を見つけたのは日が完全に落ちて、辺りが真っ暗になった時だった。未来は一人で立ち竦んでいた。全速力で自転車を漕いでいた所為か純は息を切らしていて、それを整えてからゆっくりと未来の名前を呼んだ。名前を呼ばれ未来はピクリと肩を揺らしたが、背中を向けたままだった。未来は黙って目の前にある物を見つめ続けていた。ガードレールの下に供えられた花束を。
 二人がいるのは遥の事故現場だった。

「なぁ、お前は全部知ってるのか?」

 純のその問い掛けに少し間を空けた後、未来は小さく頷いた。すると、未来は勢いよく振り向くと思いっきり頭を下げた。

「ごめんなさいっ……!私が……私があなたのお姉さんを、殺した……」

 その言葉はとても弱々しく、段々と消えていきそうなくらい小さかった。それでも静かなこの通りでは、純にもしっかりと聞こえていた。

「……そうだな。お前の所為で姉貴は死んだんだ」

 純のその言葉に未来は頭を下げたまま目を強く瞑り、溢れ出しそうな涙を抑える。そんな未来を気にも留めず純は続けた。

「本当に死ぬべきだったのは姉貴じゃなくて、お前なんだ」
「……」
「俺は、お前が憎い」

 純は静かにそう言った。
 そう言われて当然だと思っていた未来だが、想像以上にその言葉が胸に深く突き刺さった。  “憎い”この言葉がこんなにも重い言葉だということを未来はこの時初めて知った。
暫く二人を静寂が包む。そんな中、先に口を開いたのはやはり純だった。

「お前が憎い。……だから、お前は生きろ」
「え……?」

 そこで未来は顔を上げて純の顔を見た。純はいつもと変わらない表情で未来を見つめていた。その真っ直ぐな視線に未来は逸らしたくなったが、逸らさずにそのまま純を見つめ返す。

「お前への報復だ」
「ほう、ふく……?」
「あぁ。お前が生きることが、俺達家族に恨まれながら生きていくことが、お前への報復だ。だから生霊のままで在り続けるなんてことは絶対に許さない」

 未来は耳を疑いたくなった。このまま生霊で在り続けることは許されないと思っていた。だからと言って、岡崎家の人達が恐くて身体にも戻れないというのに、岡崎家の人達に恨まれながら生きなくてはならないなんて未来にとってこれ以上に辛い事はなかった。しかし、報復と言われてしまえば未来には何も言えなかった。抑えていた涙がゆっくりと未来の頬を伝っていく。それを拭うこともせず、未来はただ真っ直ぐに純を見た。

「みら……いや、みく。お前が勝手に死んだりしないように、俺はお前の傍に居るからな。お前は生きろよ…頼むからっ…」

 頼むから、そう言うと同時に純の頬にも一筋の涙が伝った。その光景に未来は目を見開いた。思わず純に手を伸ばす。しかし、伸ばした手は純に触れることなく純の身体を通り抜けていった。それを見て未来は自嘲気味に笑うと手を下げて小さく頷いた。

「わかった。それが純の望みなら……」

 涙を零しながら未来は純に向かって小さく微笑んだ。すると、聞こえるか聞こえないかの声で一言純に告げると未来は純の目の前から消えた。純はとっさに手を伸ばしたが、その手は空を掴んだだけだった。手を下げるのと同時にその場にしゃがみ込んだ。少しの間、頭を抱え込んでいたが、ゆっくりと顔を上げ花束が供えられている所を見て一言呟いた。

「これで良いんだよな?姉貴……」

 当然のように返事はなく、漫画やドラマのようにタイミング良く風が吹くわけでもない。何を期待していたのだろう、と自嘲的に笑うと純は立ち上がってすぐ側に止めていた自転車に跨る。ペダルに足を乗せた時、ふと未来の最後の言葉を思い出し下唇を少しだけ噛むと、純は家に帰る為にペダルを漕ぎ出した。



『ごめんね』




 十二、【三十一日目】


 よく晴れた土曜日だった。
 父親は朝から休日出勤だと慌ただしく家を出て行った。母親は一時間前に買い物に出掛けていた。純はと言うと、相変わらず何処にも出掛けずに部屋に籠っていた。することもなく、寝転がっているベッドにはさっきまで読んでいた漫画が数冊散らばっていた。静かな日常。純が望んでいたものだった。
 あれから未来がどうなったのかは純にもわからなかった。それでも、あれだけ言ったのだ。どんな形である生きている事は確かだ。 それだけで純には十分だった。
 報復なんて、ただの口実に過ぎなかった。純はただ未来に生きてほしかっただけなのだ。大切な姉が守り、救った大切な命なのだから。
 恨まれながら生きろなんて、残酷な事を言ったと純自身理解していた。しかし、ああいうふうに言わないと未来は生きてくれないと思ったのだ。例え、生きる理由が恨まれる為だとしても一人の人間の命を考えたら未来は生きてくれる気が純にはしたのだ。

「あいつはこの先、姉貴の死を背負って生きていくんだ」

 それはどこか他人事のようで、他人事にしては重い言葉だった。
 もう一度読み返そうと漫画に手を伸ばし掛けた時だった。家のインターフォンが鳴った。家には純しかいない。純は仕方なく部屋を出て一階に降りると、玄関と中を繋ぐ受話器を取った。

「どちら様ですか?」

 その問い掛けに返事はなかった。出るのが遅かったから留守だと思われたのか、それとも悪戯だったのか。取り敢えず純は玄関に向かい、扉の小さな穴から外を覗いた。するとそこには見覚えのある女の子が立っていて、純は急いで扉を開けた。

「……み、く?」

 驚きで呼んだ彼女の名前も途切れ途切れだった。
 扉の前にいたのは紛れもなく小林未来だった。生霊のままなのかと思ったがインターフォンを押したのは彼女しかいない。それに病院で配給されるであろう服に薄いカーディガンを羽織っただけの格好は彼女がちゃんとした人間であるがわかる。しかし、そんなことよりもそんな格好で彼女が自分の前に現れた事の方に純は驚いていた。

「お前、なんで……?」

 それしか言葉が出てこなかった純に対して未来はそれに答えるわけでもなく小さく言った。

「お焼香、させて、ください……」

 純は一瞬躊躇ったが、ゆっくり頷くと未来を家に上げた。
 チーン……、と小さな音がリビングに響いた。未来は静かに遥の遺影に手を合わせていた。純はそれを後ろからただ見ているだけだった。
 暫くして未来が顔を上げたが、二人とも黙ったままだった。何かを言える雰囲気ではなかったのだ。しかし、尋ねたいことがあった純は口を開こうとした時だった。玄関から鍵を開ける音が聴こえてきた。そしてすぐにその場の空気には合わない、明るい声がした。

「ただいまー!」

 純の母親が帰って来たのだ。純はこのまま母親と未来を会わせて良いのか悩んだ。しかし、未来は動こうとせず母親が入ってくるであろうリビングの入り口を真っ直ぐ見ていて、純は何も言えなかった。

「純?誰か来てるの?」

 玄関にあった未来の靴を見たのだろう。そう言いながら母親がリビングに入ってきた。母親は純と未来を見て目を見開いた。それと同時に持っていた買い物袋が床に落とされた。

「え、どう、して?何で?どうして貴女がうちにいるの……?」

 その言葉から母親が未来の顔を知っていることを純は初めて知る。どうして、と疑問を口にする前に母親は未来に詰め寄る。

「ねぇ、どうして!?何でいるのよっ!?どうして、起きちゃったの……?」
「母さんっ!」

 純は思わず大きな声を出した。今の言葉は未来に言ってはならないものだ。今まで表情を崩さずにいた未来も母親の言葉に悲痛な表情を浮かべた。

「だって!この子のせいで遥は!この子が遥を殺したのよ!」

 二人を会わせるべきではなかったと純は直ぐに後悔した。二人が会うにはまだ時間が短すぎたのだ。
 母親は今にも未来に掴み掛かろうとしていて、純はそれを止める。

「何で起きたのよ!貴女なんかずっと眠ったままで良かったのに……どうしてっ!」

 母親はついにその場に泣き崩れた。母親のこんな姿を見るのは遥の葬式以来だった。
 すると、今まで黙っていた未来が小さく口を開いた。

「ごめん、なさい……」
「謝って許されることじゃないわ」
「ごめんなさいっ!ごめんなさい……!」

 耳を塞ぎたくなるような謝罪だった。しかし、それでも母親はその謝罪を受け入れなかった。

「謝罪なんていらない。あの子を、遥を返してよ!」

 遥が返ってこないなんて純も母親も百も承知だった。それでもそう言わずにはいられないくらい遥を失った哀しみは大きかった。

「遥さんを返すことは、できません。でも、一生を懸けて、みなさんに償っていきます……」

 嗚咽混じりではあったが、未来ははっきりとそう言った。その言葉に純も母親も未来を見た。涙を流しながらも未来は二人をしっかりと見据えていた。
 一生を懸けて償うなんて絶対に有り得ない、誰もがそう思うだろう。当然のように純も母親もそう思った。「嘘つき」と罵りたかったがそれは出来なかった。自分達を見る未来の目があまりにも真剣過ぎたからだ。反対に、「本当にやりかねない」と思ってしまうくらいに。

「許してほしいなんて、思ってません……」

 未来はそこまで言うとまた涙を溢れさせた。次々と流れていく大粒の涙にしゃくりあげる泣き声。今にも踞ってしまいそうなくらい前屈みになった身体。
 泣き崩れた小さな女の子が口にしたのは小さな願いだった。

「どうか、私を……恨んでください」




 エピローグ・【秋色に染まる】


 外は秋の匂いで満たされていた。
木々は紅や黄に色づき、鮮やかに街を染めていった。
 あれから一ヶ月が経った。
 あの日未来は、目が覚めて直ぐに病院を飛び出し俺の家まで来たらしい。居場所を突き止めた未来の母親によって彼女はまた病院に戻って行った。
 母さんはやっぱり未来を許す気はないみたいだ。彼女の顔を知っていたのは一度だけ見舞いに行ったからだと言っていた。

「岡崎、先輩。こんにちは」

 学校の中庭で紅葉を見ていたら、横から聞き慣れた声がした。声のした方を見ると、この学校の制服に身を包んだ未来がいた。未来はつい一週間前に退院して、学校にも来られるようになっていた。

「こんにちは」

 俺が挨拶を返すと未来は俺の隣に腰掛けた。
 彼女からは生霊の時の明るさは消えていた。そして俺のことを岡崎先輩と呼ぶようになった。

「学校は慣れたか?」
「まだ、全然です。やっぱり浮いちゃって」

 困ったように笑う未来。そんな笑顔とも言えない笑顔を見て俺はその内こんな笑顔すら、この子から消えてしまうのではないかと思った。
 彼女が背負ったものはあまりにも大きかった。姉貴の死を無駄にしたくなくて彼女に生きてほしいという一人善がりな願いを押し付けたのは俺自身だ。そして彼女はそれを受け入れた。しかし、それだけではなかった。
 恨まれながら生きろ、という彼女に生きてほしくて言った口実すらも彼女は受け入れてしまったのだ。
 俺は彼女の未来を奪ったんだ。
 命の重さも、尊さもよく理解出来ていなくて。余りにも子どもだった俺と彼女が過ごしたあの三十一日間は今年の秋を酷く濃く色付けられた。

「ねぇ、岡崎先輩?」
「なんだよ?」
「今年の秋は、長いね」
「……そうだな」

ぼくたちの秋色

人一人の重さのお話。
感想戴けたら幸いです。

ぼくたちの秋色

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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