トロイの木馬の哀しみ

猛将クロムを失ったテルル国は哀しみに沈んだ。そしてその時敵国エルビ国王に待望の男子が産まれた。

 勝ち鬨を上げる兵士達。その中心にはいつもクロムがいた。ようやく戦争に火薬が使われ始めた時代。しかしまだまだ戦いとはすなわち肉弾戦そのものであった。 槍、盾、サーベル。その腕前、力強さこそが、戦いを生き残り、名声を得、国を勝利へと導くすべての源だった。
 決して豊かではないテルル王国がこの戦乱の世で現在まで生き延びられたのは、無理をしない侵攻と、街をすっぽりと覆う城壁、そして猛将クロムの力に寄る所が大きい。そして他国と同様に、それは周辺国との軋轢から自国民を守っていた。

 ***

 隣国のエルビ王国では、昨年即位したばかりの新国王が同時に結婚を発表し、その祝賀ムードが静かに収束しようとしていた。彼が迎え入れた妻は隣国クロムの妹であった。当時はまだ友好的な関係にあった両国が、より関係を深める為に行った政略結婚であり、当時から名の知れた彼の血縁を迎える事で、国家に安泰をもたらす良婚として喜ばれた。
 しかし僅か半年後、その関係は崩れ始める。今となってはきっかけは些細ないざこざに過ぎなかったが、両国に接している最大勢力のニオブ国が傾き、それを手に入れようと画策が始まった事から事態は急変した。

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「しっかりなさって下さい。今、傷を塞ぎますから」
 軍医がクロムを三重に重ねたキルトの上に横たえさせた。傷は深く、止血の為に身体を押さえる看護士の手を赤黒く染めていく。彼の二の腕に刻まれた家の紋章にも血がこびり付いていた。
「今あなたがいなくなったらこの国は危機に瀕してしまう」
 しかし軍の、そして国の英雄であるクロムも、今度ばかりはその命運が尽きようとしていた。
 クロムは言う。
「大丈夫だ。例え我が身が滅ぼうとも、この国を救う為にまた生まれかわった新しい姿でこの地に立つに違いない」
 国では昔から輪廻転生が普通の事として信じられていた。
 この頃、エルビ国との戦いは、もはやニオブ国を巡る争奪戦から血で血を洗う報復戦となっていた。
 敵の城塞は二面が海に面し、裏は切り立った山々が連なる天然の要塞であった。山をくり抜いた秘密のトンネルがあると噂されていたが、どこへ通じているのか、未だ持って調べが付いていない。もちろん軍事的な理由で開示されるはずもなかったが、長く友好国として付き合った為に諜報を怠ったツケが回っていたのだった。
 敵はどこからか突然現れ、不利になれば消え、そしてまた彼らを襲った。
 軍医が傷に消毒を施し、とにかく出血を止めようと縫合を始めた。医学はまだまだ未熟で、人を死から救い出す事は叶わない。当然医師に出来る事も限られていた。
 震えるクロムの手が神を祈った。愛する妻の名を囁きながら、やがて彼の身体からすっと力が抜け落ちた。その両目からは一筋の涙が流れ、祖国から遠いこの地を濡らした。

 悲報は王国中に知れた。国王は部下の報告に動揺し、側近に助けられてなんとか玉座に腰掛ける有様であった。
 クロムの妻、イチカにも伝えられ、急ぎ宮殿に現れた彼女を王妃が抱き締め、突然の死を慰めた。

 数日後。志気を失った兵士の動きは鈍り、戦況は予断を許さないまでに悪化していた。王国に辿り着いたクロムの亡骸が、国民の戦意をも消失させ、多くの人々の涙を誘った。
 その夜、夫の亡骸とふたりきりになったイチカは、棺桶の蓋を開け、彼の顔を眺めて過ごしていた。そしてただひたすらに彼を見詰めていたイチカは、その腕にあった家紋が消えている事に気が付いた。なぜ? 疑問は頭に残ったが、クロムが亡くなった今、そんな事を申し出て何になるだろうか?

 そして翌日。彼の葬儀が大々的に行われ、町中に結ばれた黒いリボンが国を暗く染めた。

 ***

「元気な王子のご誕生です」
 エルビ国王の妻は、大きな声を上げて泣く小さな命を抱きながら、複雑な思いだった。
 もちろん子供は可愛いのだが……。
 故郷との深い亀裂と止まない戦争は彼女の心に影を落とさざるを得ない。しかももはや相手を滅ぼすまで止められない雰囲気が国中に溢れていた。そしてそれは悲しい事に現実になりつつある。
 そんな彼女の心とは裏腹に、国王が部下を引き連れ満面の笑みで現れた。赤ん坊を取り上げ、妻に労いの言葉を掛け、多忙な彼はまたすぐに職務に戻って行った。

 別室に移された彼女が子供と再会しあやしていると、その腕に小さなキズが刻まれているのを見付けた。助産士に声を掛けようとして、その形が見慣れた物である事に気付いた彼女は、驚いて声を上げそうになった。
 あの優しかった兄、クロムが亡くなった事はもちろん知っていた。その腕にあった家紋が、まさに縮小されて子供の腕にあった。

 彼女は国王の許可を得て、自国の密偵を通じ、義姉のイチカに子供が出来た事だけを手紙に書いて送った。国王の罠か、慈悲か、検閲はされたがそれは通り一遍の物で、子供の頃義姉と作った暗号表に基づいて、その短い文章に家紋の件を織り込んだ事には気付かれなかった。
 この事を義姉はどう思うだろうか? 敵国に産まれた新しい命に夫の魂が宿っているかもしれない事を……。

 ***

 彼は産道を通り抜ける自分を認識していた。死んだはずの自分の意識がそこにはあった。まだ見えない目、人の手を借りなければ生きられない身体ではあったが、やがて彼は、エルビ王国の王子として生まれ変わったのだと気付いた。

 しかし母にあやされながら耳に入るテルル国の情報は、悲劇的な物ばかりだった。この自分がトロイの木馬となってこの国の門を開き、愛する妻と故郷を救う事を夢見た。

 その僅か半月後。彼の顔に大粒の涙が止む事なく降り注いでいた。母の涙だった。テルル国は陥落し大勢の犠牲者が出た事を聞かされた。国を治める側の者達が無事である可能性はゼロに等しい。
 彼がトロイの木馬になる為には時間が必要だった。今の自分はあまりにも無力な存在だ。
 母は大きな声を上げて泣き始めた赤ん坊を強く抱き締め、届かなかった思いを嘆いた。

トロイの木馬の哀しみ

トロイの木馬の哀しみ

猛将クロムを失ったテルル国は哀しみに沈んだ。そしてその時敵国エルビ国王に待望の男子が産まれた。

  • 小説
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-09

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