practice(3)





 それで困ったことに集まった,白い紙の悩み事は印刷所に住み込んでいる黒でないヤギがしきりに言わんとする『悪いこと』だった。彼らはどうしてもペラペラと喋る。その上に書かれた対象についてどのようにでも語りうる,というのが彼らが自己を売り込むときに使う常套句になってしまっているのだ。切れるということをとても嫌い,写し取るということを得意とするその心は純白なものとも言えるのに,ぴったりとした紙面の裏は真っ暗なため,平面として素っ気もないと思われている。控え目に光にも当てず,伏せたままにして提出されたらされたで答えは一つな顔をしやがってと憤られ,その枚数は頼りない。一枚でも多く,とするのは信条というより性質というところであるというのが黒でないヤギの見解だ。
 けれど同じ印刷所において,水性のペンキを取り扱う飛べないペンギンはまた違う。ある日の食事を摂るべき休憩時間,印刷所の裏でペンギンは集まった白い紙の企図を量ろうと一枚でも多く集めてみせた。白紙に隠されたことを曇りがちな空の下で白日の下のように晒す,という気はペンギンにはない。大事なのはこの世にある重みだ思っているペンギンは,重みを増すことで生まれる事実が見たかった。その事実に,カッコ書きがつこうがつくまいがそんなことは関係ない。一枚一枚の白い紙と真っ新なところから埋め尽くされた箇所まで,許された休憩時間を使える限りで語れるように語ろうとする。黒でないヤギと違って飛べないペンギンはこうと決めない。まずはそこからとして,それで後から考えるのだ。それでペンギンは台の上に置かれた長編小説一冊分の白い紙に近寄った。そして白い紙は風に吹かれそうな声で言った。
「書き出しには気を付けて下さい。悪いことにインクのノリがイマイチな,ワタシタチのようですから。」
 鳥瞰図的に,ペンギンが集めて何かを書かなきゃいけないようなその状況下で冷静な経理の人は集められた白い紙の向きと不向きを考えた。そうして横が長い方向の,長方形に見えるように紙の向きを変えてから口で咥えていた一本の事務用ボールペンを握って縦書きに書き始める。 これ以降,冷静な経理の人は彼と付き合うことを仕事以下に留めるようにしている。油性のペンと修正テープを事務机の抽斗に仕舞い,軽い気持ちで描いた山登りの猫の話を次の工程に送ることを,もう心に決めて。




 ハードカバーに甘えて,捲った所々の頁を汚したのは午後に訪れるはずだった友人が午前中に来て,よく冷えたアイスティーを気持ちよく飲み干してから席を空けるとともにお土産として置いていった,短編集の一冊だった。『悪いひとの話』,『困らないことに』,『オーケストラに足りない』,『最後の手前』。冒頭を残して読みすすめても何の支障もないそれらの物語が好きで大切にした。だから夢中で読み,よく冷えた牛乳とチョコレートを指先につけていた結果が足跡みたいな指先になって残る。そして暗唱が得意だった彼はその頁数も覚えていた。逐一報告した記憶はないし汚した彼女がそもそも覚えていないことだったから,彼も後から読んでいたのだろう。その姿を,見たことがないことははっきりと彼女が覚えてる。
 『遠く』へ出発する前,友人と同じで約束の午後になる前に彼女の下を訪れた彼は彼女とカワウソの話をした。生態といったその辺りのことから,「僕は可愛いと思う。」といった彼の内心を最後に述べる。何処でしてもありふれそうなそんな会話。途切れた間,よく冷えたアイスティーを今度は彼女も飲んで切り出したのは本の装丁についてだった。彼女は前々から本の装丁はとてもシンプルでいいのでないかと考えていて,最高の出来として他の本との識別が出来れば良いと思っていた。彼が『遠く』へ発つ前に,彼の意見を聞いてみたかった。
 食器の音はして,グラスを一つとして置く彼は言う。
「本は内容,という君の考えが背景にあると思うのだけれど,それには僕も十分に賛成するけどね,手に取ってもらうきっかけは多いに越したことはないよ。本に興味が無いか,あるいはとある本には興味が無いか,そのどちらであってもまずは手に取ってもらえないとその面白さも伝わることは決して無いからね。」
 納得し切れない彼女は端的に言った。
「顔から入る関係のように?」
 彼は笑って答える。
「そうだね。顔から入る関係のようだ。でも,それのすべてが悪いものになるとは限らないんじゃない?」
「悪いものになるのと同じようにね。」
 彼女の答えに彼は苦笑い浮かべて,続ける。
「それも確かだね。確かにそうだ。でも,装丁は『悪くない』と思うんだけどな。」
「良いか悪いかの問題じゃないの。要るか要らないかの問題なの。」
 彼は一つ頷く。彼は言う。
「それもまた確かだね。けれど,要るか要らないかの判断には良いか悪いかという,それ自体幅の広い要素も含まれるよ。それがシンプルな好感といったところから,精神衛生上や発育段階の上でなんて大袈裟になりそうなところまで跨いで見渡したりしてね。」
「ますます不要に思えてきた。」
 聞いて,彼はまた笑う。そうして少し考え,彼は言った。
「読んだ本の愛着ってさ,読んでからがやっぱり強いと思うんだ。読書の時間はやっぱり,一文字ずつ付き合わなきゃ始まらない時間だし,読み終わったらそこでパタッと終わってしまう時間だ。海中から顔を出してしまったというような感覚もあるし寂しさも残る。すぐに潜るには息がまだ整ってないのと同じで,中身をすぐにまた読み返すっていうのも可能だろうけど,僕は息が続かない。けれどそんな時の装丁はいつもとまた違う。集合写真から見つけた旧友のようなんだ。そうそうこんなヤツだったって,指を差しながら彼にまつわるエピソードを語れるようにある。装丁はそうして変わらない。そういう,個人的経験なんだけどね。」
 彼女も思い当たる。だからすぐに言葉を返さなかった。彼女はその時も勿論短編集を読んでいる途中で,何度目かの『悪いひと』を読み終えたところだった。『最後の手前』ではまだあるけど,閉じるとき,そして本棚に収めるときに見てしまうその装丁はこの本そのもので,手触りで感じるハードカバーに彼女はやっぱり甘えるのだ。
「まあ,でも,本は中身だと思うけどね。」
「気を使ってるの?」
 変な不満げを隠さない声で彼女は聞いた。
「使ってないよ。さっき言ったことの,ただの繰り返し。」
「そうなの。」
「そうだよ。」
「じゃあ,装丁も少し見直した方が良い?」
「見直すのも悪くないね。」
「良いかどうかで聞いてるの。」
「じゃあ,良いと思うよ。」
「悪くないって言う貴方のニュアンスに,近いところで?」
「良いか悪いかは,幅広いから。」
 呆れた,という仕草を彼女はとった。唇を尖らせた苦笑いのような表情の彼女は,それでも忘れないように言ったのだ。
「手紙,送ってね。」
 頷く仕草をとった彼は,アイスティーを飲み干して空けたグラスを元の場所にあったように置いた。続けて,確認するように彼は言う。
「うん,手紙を書くよ。」




 そうして早い見送りの途中,彼女の家を出る前に『悪いひとの話』は飛ばして,彼は短編集の内容を確認したがった。細部は貴方より覚えてない,という彼女の断りを受けて彼はそれでも構わないと答えた。それで彼女も彼に応える。 彼は確認を始め,彼女はそれを聞き始める。
暗唱が得意な彼だった。
一段下げて,出だしはきっとこうだったと思うと彼は彼女に言って始めた。
「白ヤギさんはチョコが嫌いだった。だからといって,手紙を食べるわけでもない。」

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-09

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