しあわせのベクトル
人類が恋という感情を初めて抱いたのはいつのことだろう。
全知全能だという神さまは、どうして人間を二つで一つの存在にしてくれなかったのか。
ひとはさみしい思いを埋めるために、他人を求める。恋をする。
「……ねえ、なに考えてんの?」
唇を這う親指の感触に、ふるりと身震いをひとつ。
「…………あのひとのことを」
訊かなければいいものを、うそぶく私の言葉に凍りつく彼。途端に眉間のしわは深まり、今にも奥歯を噛みしめる音が聞こえてきそうだった。
彼とて分かっているのだ。私が見つめる先に、自分がいないことなんて。
「そんなに兄貴がいいの」
「うん」
「あいつ、彼女いるよ」
「知ってる」
「おれはあんたが好き」
「ごめんね、私は」
あのひとが好きなの。いつだって私たちの関係は、何度も交わしたこの問答から。
唇を食まれる。ああ、あのひとの唇も、この彼のように柔らかいのだろうか。
彼の唇から逃れるように顔を背けると、ほおをくすぐるシーツから、あのひとの香水と同じ匂いがした。目を閉じるとまるであのひとに抱かれているような錯覚を抱く。
「……兄貴の香水、拝借してきた。気分はどう?」
私の心中を察したらしい彼は、名残惜しげに再び私の唇をなぞる。彼の目を見ることはできなかった。目を背けたまま、そのむせ返る甘い香りに酔いしれる。
「勝手なことをしないで。私はこんなこと、望んでない」
指先が止まる。
「私は見てるだけでいいの。あのひとのしあわせは、私の」
続くはずの言葉は、言わせはしないとばかりに、彼と私の吐息に溶けて飲み込まれてゆく。吐き気を催すような甘い甘い口づけに、そっと目を閉じた。ぱちりとまぶたが雫を弾いた感触に、気づかないふり。
ゆっくりと唇と唇が離れる。彼の目に灯る炎は、劣情と動揺と、それからほんの少しの躊躇いを孕んでいる。
彼は私の「自己犠牲」の恋慕に弱い。決して同情の色を隠せはしない。
けれども私に言わせれば、これは「自己犠牲」などではない。単なる「横恋慕」である。
こんなものが「自己犠牲」だなんて、おこがましい。これはその言葉が形容するような、淡く儚い、偽善に満ち満ちた感情ではないのだから。
あのひともしあわせ。私もしあわせ。犠牲になったものなぞ、どこにもない。
「ねえ、あなたは、私のしあわせを『しあわせ』だとは思ってくれないの――」
意地の悪い質問を重ねた。彼は下唇を噛む。悲痛な面持ちはひどく哀れみを誘い、うそだ冗談だと笑って言って、その頭を撫でてやりたくなる。こちらの心の動きまでも、計算しているのだろうか。
彼はひとつ首を振り、揺らめく瞳はそのままに、かすれた声で言った。
「そんなに兄貴がいいの」
「うん」
「おれは、あんたが好きだ」
「知ってる」
もうよせばいいものを、ありったけの「好き」をこぼす。あふれるほどのそれを、どうして私に向けてしまうのだろう? もっともっと、彼にはふさわしいひとがいるだろうに。なぜ、なぜ。よりによって、私など。かわいそうでならなかった。
とうとう彼は泣き出した。ぽろぽろと落とされる雫は宝石のようにきらめく。
けれども涙は決してダイヤモンドにはなれない。
「ごめん。好き。好きなの、どうしても。だからあんたを応援なんて、とてもできない……」
優しくない男でごめん、と私のほおに雨を降らせる。ひどくあたたかい、優しい雨だった。
「ごめんね、私は」
私はどうしてこの目の前の優しいひとではなく、あのひとを好きになってしまったのだろう。いつだって世界はうまく回らない。世界に取り残された私たちは、彼と背中合わせに、今日も泣く。
しあわせのベクトル