月の影踏み地を歩く

 ――おそらくはるかなる未来。
 一度は文明と生態系とが共に崩壊してしまった世界で、人はかろうじて生きながらえ、ゆっくりとその繁栄を取り戻していこうとしつつあった。
 そんな世界の片隅――イギシュタール帝国のとある町で。
 ひょんなことから貴族の男と、平民の男とが出会う。それがすべての始まりだった。
 自らの境遇に鬱屈したものを抱えていた貴族の男、ユヴュは、そのやり場のないいらだちを平民の男、アンツにぶつけて鬱憤を晴らそうとするが、その目論見は完全に失敗に終わる。ユヴュは、偶然から手に入れた、アンツのライフワークともいえる論文を徹底的にこきおろし、その不備と欠陥とを指摘していたぶることでアンツにダメージを与えてやろうとする。だが、ある理由から肉親以外からはことごとく冷たい扱いを受け、まともに取り合ってもらったことのないアンツからすれば、ユヴュの行為はいたぶりではなく、初めて自分の言葉をまともに受け止めてくれた人からの、貴重な示唆に他ならなかったのだ。
 まるで予想もしていなかったアンツの反応に戸惑い、苛立つユヴュ。しかし、自分でもはっきりとした理由のわからぬままに、なぜだかアンツのもとに通い続け、友達のようにも見える付き合いを続けてしまう。まわりからは半ば村八分にされているアンツにとって、それは非常に幸福な時間だった。
 いくらへこませてやろう、怒らせてやろう、しょげさせてやろうとしても、いっこうにこたえた様子もなくいつもにこにことしているアンツに、ユヴュは自分の影響力を否定されているように感じ、苛立ちをつのらせていく。
 そんなある日、ユヴュははずみからアンツを抱く。その行為を、ユヴュは強姦だと思ったが、アンツはそうは思わなかった。その行為によっても、ユヴュは自分の求める結果を得ることは出来なかった。
この物語は、それからしばらくたった、ある何の変哲もない日から始まる……。

月の民と地の民と

(ユヴュ)
 頭が痛くなった。
 私の頭は『痛くなった』程度で済むが、こいつの頭は、どこからどこまで、何から何まで、すみからすみまで、絶対的に、徹頭徹尾、おかしい。ありえない。端的に言って、狂っている。そうにちがいない。
 ほんとにまったく、どういうわけで。
 自分が強姦した相手から、こんなにもにこやかな笑顔で出迎えられなければならないのであろうか。

 一応言っておく。
 強姦したのは私のほうだ。だから、悪いのは私のほうだ。さすがにそれくらいはわかっている。なんだったら、代償を払う覚悟くらいはある。口を極めてののしられても弁解の余地はないし、刃物で切りつけられても文句は言えないだろう――などと、他人事のように思う私のこの態度自体腹にすえかねるという者だってきっと大勢いるだろう。それくらいの反応は、私にも予測がつく。
 だが、目の前のこの男は。貧相でしょぼくれてパッとしない、中年男の地の民という身空で私に強姦されてしまった不幸――であるはずのこいつは。
 どこからどう見ても『不幸』という単語からは最も縁遠いとしか言いようのない満面の笑みで、私のことを見つめている。
 頭が痛い。
 いや、おそらく私には『頭が痛い』などとほざく資格などまるきりありはしないのだろうが、それにしたっていったいなんだってこんなわけのわからないことになってしまっているのだろう。もしかしたらこいつは、とんでもない健忘症だったりするのだろうか。
 それともまさか、発狂したか。
「――どうか、しましたか?」
 ようやっと、目の前の男が不安そうな顔をする。
「私、あの――なにか、お気にさわるようなことをしましたでしょうか?」
 卑屈になって、あるいは、私に媚を売って、もしくはいやみやあてこすりでそんなことを言う、というのなら私にもわかる。だがこいつは、ただ純粋に、自分がなにか、私の気にさわるようなことを知らずにしてしまっているのなら、それでは私が気の毒だから、という考えからこんなことを言っているのだ。
 おひとよしにもほどがある。
「――別に、そんなことはありませんが」
 そんなことはないが、頭が痛い。
「――あなたは健忘症ですか?」
「え?」
 これをもっと発音に忠実に書くと「ふぇ?」になる。実にどうも、やたらと気の抜ける声だ。
「あ、あの――わ、私、なにかお借りしたままお返ししていないものとかありましたっけ?」
「いえ――ありませんが」
「あ、そうですか。じゃあよかった」
「……あんまりよくもないと思いますが」
「え?」
 また「ふぇ?」だ。緊迫感も警戒心も恐怖心も、みごとなまでにまるでない。
「――もう忘れたんですか?」
「え? ええと――」
「――私があなたにしたことを」
「――ああ」
 ようやっと、すっとぼけた顔にいくぶん不安の影がさす。
「ええと、その――い――い、いたしてしまったことですか?」
「おそらくそうだと思います」
「――」
 この血の気の薄そうな男の、どこにそんな血があったのか、男の頬が見る間に染まる。
「その――お、おぼえてますよ、ちゃんと」
「だったらどうして怒らないんです?」
「……え?」
 首をひねりたいのはこっちのほうだ。というか、先に質問したのは私だ。
 なのに。
「……どうして私が怒るんです?」
 この馬鹿は、質問に質問で返してくる。
「ど――どうして、って――」
 なんで私がそんなことを説明しなきゃならんのだ。
「私、その――無理やり、したから、その――」
「――ああ」
 と、そこでにっこり笑われてしまったら、私はいったい、どうすればいいんだ?
「そんなことないですよ。私は別に、無理やりされたなんて思ってません。だからそんな、気にすることはないですよ」
「……」
 あれが『無理やり』でないのなら、こいつにとっての『無理やり』とは、いったいどういう状況なのだろうか、と考えると、逆に空恐ろしくなってくる。
「気にして下さっていたんですね」
 やっぱりこいつは、どこか――というかとことん――狂っているのだろう。
「ありがとうございます」
「……馬鹿ですか、あなたは」
「さあ――そうかもしれません」
「――またああいうことをされたいんですか?」
「……したいんですか?」
 だから、どうしてそこで、よりにもよって『きょとんと』するんだ馬鹿。
「はあ……別に、かまいませんが……」
「かまいませんが?」
「はあ」
 きょとん、とした顔のままで。
「……物好きですね」
 ……って、おい。
 いやみや皮肉や、自己卑下や自嘲、ならまだわかるし対応も
できるが、きょとんとした不思議そうな顔のままそんなことを言われてしまった私の身にもなってほしい。言うにことかいて「物好きですね」っておい、自分のことだろうがこら。これからまた押し倒されて好き放題されるかどうかっていう瀬戸際に、なにのほほんとした顔で私を見つめているんだ、馬鹿。
 なんだか無性に、腹が立つ。
「……ええ物好きです」
 一度むきになると、とことんまで意地を張ってしまうのは、どう考えても私の欠点だと思う。
 だが。
「ですからこれから、その物好きにつきあってもらいます」
 欠点を自覚することと、その自覚した欠点を修正することとのあいだには、実に遠大なる隔たりがあるのである。



(アンツ)
 かわいいなあ――と、思う。
 さすがに、そんなことを当人に向かって言ったりしないだけの分別は、私にもどうにかそなわっている。
 でも、かわいいなあ――と、思う。
 今はきっと、ちょっとむきになっているのだろう。ときたま見せてくれるそういう――そういう無防備な、少し子供っぽいところが、私にとってはたまらなくかわいい。彼はまだ、若いのだ、とても。
 それがわかっていて、その若さゆえのゆらぎにつけこんで関係を結んでしまおうというのだから、私もなかなか、いい性格をしているなあ、と思う。もっとも彼は、おそらくそんなふうには思っていないだろう。自分がむきになって言い出したことに、とろくてポーッとした私が流されている――それだって別に、まちがっているわけではない。というか、おおむね正しい。
「――どうしていやがらないんです?」
「その――別にいやじゃありませんから」
「……馬鹿ですか、あなたは」
「……好きな人とこういうことをするのを、いやがる人はあまりいないと思いますが」
「……私は別に、あなたにそれほど好意があるわけでもありませんが」
「――」
 私の口元には笑みが浮かぶ。
 どうしてか、と聞かれると少し困る。別に、彼の言葉を本気にしていないわけではない。どうでもいいわけではなおさらない。ただ――。
 私は今、好きな相手に触れていられるのがうれしくてしかたがないのだ。
「――なぜ笑うんです?」
「いや、その――なんとなく、です」
「……」
 こういうことの最中に、相手に意味もなく笑われたら、それは困惑もするだろう。心中お察し申し上げる。
 あ。
 視界が激動する。
 ああ。
 押し倒されたのか、私。
 寝室に場所を移しておいてよかった。床の上よりベッドの上のほうが体が楽だ。
「……何を考えているんです?」
「え――何を、とは?」
「――」
 彼は、深いため息をついた。



(ユヴュ)
 ……ため息の一つもつきたくなる。
 こいつが何を考えているのかさっぱりわからない。
 別にこいつが、ものすごく複雑な人間だ――というわけでもない、と思う。むしろ、とろくてポーッとしてて馬鹿で、単純――でも、ないのか? なんだかよくわからなくなってきた。
 変なやつであることだけは、まちがいないんだが。
「――きれいですね」
「は?」
「あなたは――きれい、ですね」
「――」
 そう言われたところで、別にうれしくもない。私は貴族としては十人並みだ。容姿においてだけではなく、あらゆる面において。自分でそれが、よくわかっている。
「――私が、きれい?」
「はい」
「――へえ」
 上から押さえつけたまま、何とはなしに顔を見つめていると、頬を染めて目をしばたたいているのが見える。
「――あ、あの」
「はい?」
「ええと、あの――し、しないんですか? や――やめます、やっぱり?」
「やめてほしいんですか?」
「い――いえ」
 おどおどと目をそらすのを見て、少しだけ気分がよくなる。
「や、やめてほしいわけじゃないですけど、で、でもあの、気がのらないなら無理にとは――」
「やっぱりいやなんですか?」
「ち、ちがいます」
 どうしていやじゃないんだか、いまだにさっぱりわからない。
 あ、もしかして。
「経験、あったんですか?」
「え? ――なんの、ですか?」
「同性との経験ですよ、もちろん」
 もともとそういう趣味だったのか、こいつ。
「な――ないです。――なかったです。あなたと、するまで」
「そうですか」
 ふーん、なかったのか。
「あ――あるんですか?」
「え?」
「その――あなたは――」
「私もなかったですね。あなたとするまでは」
「そ、そうですか」
 一応、知識はあったが。

 しかし、と、いうことは――。
「――あの時、痛かったんじゃないですか、あなた?」
 挿入する時かなり抵抗があったし、何の準備もせずにいきなり突っ込んだんだから、どこか裂けるくらいはしているんじゃないだろうか。
「痛いには――痛かった、ですけど」
 そこでこいつがにっこり笑う理由が、やはりさっぱりわからない。
「でも――いやでは、なかったですよ」
「――どうして?」
 こいつもしかして、重度の被虐趣味者(マゾヒスト)だったりするんだろうか。
「あなたが、好きだから」
「――馬鹿ですか、あなたは」
「――すみません。身の程も知らずに」
「――身の程?」
 なにか誤解してるな、こいつ。
「身の程ってなんです? そういうことをするにあたって関係するのは、個人の趣味と好みで、身の程は別に関係ないと思いますが。というか、あなたがたはなにかこう、根本的に誤解をしていますよね。ああ、そうか、おそらく『身分』とか『貴族』とかいう単語についての概念そのものが、私達とあなたがたとでは、まったく異なっているんでしょうね、きっと。私達にとって身分とは――貴族という身分とは、単なる職業です。職業として政治を行い、あなたがたを治め、管理監督しているというだけの話です。単なる職業なんですから、身の程だのなんだの、考えたことはありません。それに、私達とあなたがたのあいだに、身体能力や寿命の差があるのは確かですが、だからといって人格的、人間的に優劣があるとは思っておりませんよ。私達は」
「――ありがとうございます」
 そういう声は、私を見つめる目は、ギョッとするほど真剣で。
 私は少し、息を飲む。
「――なぜ礼を言うんです?」
「――うれしかったから」
「そうですか」
「――いいんですか?」
「何が?」
「――」
 まっすぐに見つめられ、なぜか息がつまる。
「――あなたを好きでいても」
「――ご勝手に」
「――ありがとうございます」
 別に、礼を言うようなことじゃないだろう、そんなこと。おかしなやつだ、まったく。
 ――私は何をやっているんだろう。
 あの時こいつを犯したのは、何とかこいつを動揺させてやりたかったからだ。私が何を言おうとしようと、てんで動じずにこにことうれしそうにしているこいつの顔を、何とか歪めてみたかったからだ。
 それなのに、あの時も今も、動揺しているのは私のほうだ。
「――」
 押さえつけていた手をはなして、やせた体の上からどく。
 なんだかよくわからなくなった。
「――」
 ベッドの上で頭をかかえていると、やけにのどかな声が聞こえる。
「――ますか?」
「え?」
「お茶でも飲みますか?」
「……」
 こいつの頭は、やっぱりおかしい。



(アンツ)
 冷静になれば、それはやる気もうせるだろう。
 そのくらいのことは、私にもわかる。
 というか、相当に気が迷わなければ、私なんぞ抱く気にはならないだろう。
 彼が冷静になってしまったのが、少し残念ではある。
「……なんでこの期におよんでお茶なんぞ飲まなくちゃならないんです?」
「え? ああ、ええ、その――し、しないんなら、その、せっかくですからいっしょにお茶でもどうかなあ、と――」
「誰がしないなんて言いました?」
「あ、つ、続けるんですか?」
「いやですか?」
「い、いえ」
 理由はよくわからないが、舌打ちをされてしまった。何か気にさわることを言うかするかしてしまったようだ。どうも私は、気がきかなくていけない。
「――」
 少しすねたような顔も、きれいだと思う。
 かわいい、とも思う。口に出してそう言うのはさすがにやめておくが。
 私の生徒達の例からかんがみるに、男の子でかわいいといわれて喜ぶ子はあまりいない。
 しかし、その――な、何かしないとまずいんだろうか、私?
「あ、あの――私、何かしたほうがいいですか?」
「……は? ……何を?」
「……えーと……」
 何を、と言われると困る。具体的に説明するのはその……さすがに恥ずかしい。
「あー……さ、さわったり、とか……」
「……?」
「……すみません」
「……よく意味がわからないんですけど」
「……すみません」
「なぜ謝るんです?」
「すみま……え、えーと……」
「……」
「……お茶でも――」
「いりません」
「……そうですか」
「――」
 ――その、瞬間。
 一瞬、何が起きたのか、本当にわからなかった。
 彼の手が、私の頬にふれて。
 彼の体が、それとも顔が、それともその両方が、つと動いて。
 何かがふれた。
 唇に。
「――」
 信じられなかった。
 信じられなかった。
 でも。
 ああ、でも。
「――ああ」
 それは、どうやら現実のようだった。
「そういうことですか。――なるほど」
 声が、ひどく遠くに聞こえた。



(ユヴュ)
 なんでこんなことで今までで一番動揺するんだ。
 たかが口づけくらいで。
 やはり、地の民達と私達とでは、文化的背景がだいぶちがうんだろう、と思う。きっとそのせいなんだろう。
 信じられないものを見たかのような顔で、私のことを見つめている。唇と唇をくっつけただけだぞ、ただ単に。
「――いやだったんですか?」
「い――いえいえいえいえいえっ!」
 首がもげるんじゃないかという勢いでかぶりをふる。大丈夫かこいつ?
「あの――あ、あの――」
「はい?」
「あ――ありがとうございます」
「……」
 大丈夫じゃないな、まちがいなく。
「……どういたしまして」
「あ、あの、あの、わ、私、な、何します? 何すればいいですか? な、なんでもしますよ、なんでも」
「……」
 わからん。こいつの思考形態がさっぱりわからん。
「……何かしたいんですか?」
「え――」
 というか。
 ためしに何かさせてみようか。
 どこまでするかな、こいつ。
「何かしろ、と言ったら、してくれるんですか?」
「あ、はい。物理的に可能なら」
「……」
 なんかとんでもないこと言ってないかこいつ?
「あー……それじゃ、口でしろ、と言ったら?」
「え? えーと――あ、あー! こう、ああ――そうか、なるほど――」
 ……私、そんなに感心されるほど特殊なことを言っただろうか?
 あ、もしかして、地の民達のあいだではかなり特殊なことなのかも――。
「はあー、そういう方法も、ありますねえ。なるほど――」
 いややっぱりただ単にこいつがおかしいだけなんじゃないのか?
「……無理、ですか?」
「いえ、できますよ。その――したことないんで、きっと下手でしょうけど」
「……はあ」
 なんでこうなるんだ。
 なんでいつもいつも、私ばかりが調子を狂わされるんだ。
「……あの」
「はい?」
「……えーと」
「なんですか?」
「あー……えーと、脱ぐ、というか……出す、というか……そうしていただかないと、その……できない、というか……」
「……はあ」
 積極的なんだか消極的なんだかよくわからんやつだ。
「……」
「……あー……その、別に……気が進まないのなら無理にとは……」
「いやそれあなたのセリフじゃないでしょう」
 というか、命令してやらせようとしているのは私のほうだ、私の!
 ……そのはずだ。そのはず――なんだが。
「はあ――どうもすみません」
「……謝られても困るんですが」
「すみま――え、えーと……」
 仮にこの一部始終をのぞき見るか盗み聞くかしている馬鹿がいたとして、そいつは私達がいったい何をしているんだかはたしてわかるだろうか?
 わかってたまるか! 私自身なんだかわけがわからなくなってきたところだ。
「……しますか?」
「……そうですね」
 下だけ全部脱ぐ――というのは、なんだかまぬけな格好のような気がする。
 少しだけずらす。これはこれで、だいぶなさけない格好のような気もするが。
 ベッドに腰かけた私の目の前に、実に貧相な中年男がひざまずく。
 アンツ・ヴァーレンという名の、とんでもない大馬鹿が。



(アンツ)
 困ったような顔をしている。
 それは――困る、かもしれない。
 冷静になってよく見てみたら、くたびれた中年の同性が、自分のその――あー――ナニを、口に含もうとしているのだ。
 ……困るだろうなあ、うん。
 たぶん、私があっさり頷くとは思っていなかったんだろう。おそらく私を、少し困らせてみたかったんだろう――と、思う。生徒とくらべてしまっては悪いかもしれないが、私とてまがりなりにも長年教師を勤めてきた身だ。それくらいはわかる――と、思う。まあ私は、かなり鈍くて気のきかないたちなので、まるきり見当ちがいなことを考えているという可能性もあるが。
 たぶん彼は、一つだけわかっていないのだ。
 私はわかっている。いくらボンクラな私だって、さすがにこれくらいはわかっている。
 彼にとってこれは、単なる気まぐれ、悪趣味、悪乗り、意地悪、気の迷い――。
 きっと、そうなのだろう。
 それくらい、わかっている。
 でも。
 私は別に――それでも、かまわない。
 それを、彼はわかってはいない。
 私はそれでも、かまわないのだということを。
 私はそれでも、かまわないのだ。
 たとえあなたの動機がそれでも。
 あなたのように、私にやさしくしてくれた人はいない。
 私の言葉を、私の思いを、受けとめてくれた人はいない。
 あなたが私に突きつける――私の身の内に突き刺そうとしている言葉――行動――感情――。
 そんなもので、私が傷つくことは出来ない。
 私のみならず、私の両親を、私の家をも突き刺し、引き裂き、切り刻む――そんな言葉を、数え切れないほど聞いた。『ツキのヒルコ』『ヒルコ筋』などは、実におやさしい部類に入る。それはただの――ただの、事実だ。
 私がどんなことを言われようと、どんな目にあっていようと、誰も指一本動かしはしない。誰も私をたすけない。誰も私に関わらない。誰も私を見はしない。――もっとも、これでももう、だいぶん楽に生きられるようになっては来た。たぶん皆、何があっても何をされてもヘラヘラとしているなさけない腰抜けをわざわざかまうのにあきてきたのだろう。
 あなたは私を馬鹿にする。馬鹿だという。
 けれども。
 理由もなしに、そうすることはない。
 あなたが私を馬鹿にするのは、私が馬鹿なことを言ったりしたりするからだ。私が気のきいたことの一つも言えれば、あなたはちゃんと、それに耳を傾けてくれる。
 無理やりした――と、あなたは言った。
 けれどもそこには、少なくとも激情があった。
 そこにあったのは。
 あの――身の内が凍りつく、冷たい嘲笑と底を知らぬ悪意とではない。
 あれは、もっと――。
 熱い、ものだった。
「――目をつぶっていてもいいですよ」
 困った顔の彼を見て、そっとそんなことを言ってみる。
「――え?」
 彼はわずかに、眉をひそめる。
「なんでそんなことを言うんです?」
「その――私がそんなことをしているところなんて、あまりじっくり見ていたくないでしょう? だから、その――」
「馬鹿ですか、あなた」
「はあ――どうもすみません」
「――いいからやりなさい」
「――はい」
 一瞬だけ、その顔を仰ぎ見る。
 とても澄んだ目をしている。
 琥珀色――と、いうのだろうか、これは。明るく透きとおった、美しい両の瞳。
 あなたはまっすぐに私を見る。
 私を見ずにすむように、視線をずらしたり焦点をぼかしたりはしない。
 ――知れば、変わるのだろうか。
 私が――『ツキのヒルコ』だと知れば。
「――」
 そのことを、あまり深く考えたくはなかった。
 それを考えることにくらべれば、行為を開始することなどに、なにほどの抵抗もありはしなかった。
「あまりうまくできないと思いますけど――」
「私もされたことがないのでうまい下手の判断なんて出来ません。いちいちことわらなくてもいいです」
「――はい」
 少しだけ笑った。彼の不機嫌な生真面目さがかわいらしかった。
 私は、そのまま。
 その行為をはじめた。



(ユヴュ)
 妙な声を出してしまうくらいなら、舌を噛み切ったほうがましだ。
 そう思って、奥歯に力を入れていた。
 正直、知識はあっても実際に体験するのは初めてなので、うまいんだか下手なんだかさっぱりわからない。
 まあそれなりに――気持ちよくは、あるが。
「――」
 少なくとも、噛みつかれるかもしれない、という不安はなかった。もっとも、もしここで噛みついてきたりしたら、私はむしろ、感心してやる。
 しかしどうも、そんなことは起こりそうもなかった。
「――何を考えているんですか?」
「――ふえ?」
 返事をするときくらいくわえるのを中断しろ、馬鹿。
「あなたはいったい――何を――」
 考えているんですか、と言いかけたのを飲みこむ。
 ――まずい。
 変な声がでそうだ。
 妙に――気持ちがいい。いや、妙、でも、ないの、か?
「――」
 なんでこんなことを――こんなにいっしょうけんめいになってやってるんだ、こいつは?
 濡れた音が響いている。
 なぜだか――不安に、なる。
 噛みつかれるかも、とか、そんなことじゃない。
 こいつはいったい、何をしているんだ?
 いったい何を考えているんだ?
 その顔は、淫らというわけでもなく。
 かといって、熱がないというわけでもなく。
 なぜこんな時に、赤子が乳にすがるように、などという、わけのわからない言葉が頭に浮かんでしまうのか。
 ――ああ、そうだ。
 そう見えるんなら――そのとおりに、してやる。
「――」
 髪をわしづかみにする。
 逃げられないように。
「――ばーか」
 馬鹿なやつ。
 飲みたいんなら――飲ませて、やるさ。



(アンツ)
 ――気持ちよかったんだろうか。
 それだけが気になった。
「――あの」
「口ゆすいできてもいいですよ」
「は? いえ、それは別に――あの」
「怒りました?」
「は? い、いえ、別に。え、えーと――」
「してほしいですか?」
「は?」
「今度は自分の番だ――とか、思ってたりします?」
「は!? い、い、いえ、ま、まさ、まさか――」
 じ、じ、じぶ、自分のば、番って、え、え、え――えええええーっ!?
「あ、赤くなった」
 おかしそうなクスクス笑い。かわいいな――と、どこかで思っているのに、別のどこかでは、押さえつけられて首筋に歯をあてられているような、のしかかる力を感じている。
 スゥッと首筋から背筋にかけて冷気が走っていくのが、奇妙に心地よかった。
「してほしいですか?」
「え、え――あ、その――」
「どうするんです?」
「え――」
 ドウスルンデス?
 どう――とは?
 ああ――そう。
 受け入れるのか――拒むのか?
 それなら、答えは。
「――はい。し――して、ほしい、です」
 選ぶまでも、なかった。



(ユヴュ)
 ――変なやつ。
 なんでやさしくしてやってるのにそんなにガチガチに緊張してるんだ。
 まあ、私も――われながら、物好きだなあ、とは思う。
 腕の中に、ちょうどすっぽりおさまる、やせた小さな体。
 ――なんでこんなことをしてるんだったっけ。
 腕の中の体は、驚くほど硬く張りつめていて、私はわけがわからない。
 私を嫌っている、憎んでいる、恨んでいる、それでこんなに硬くなっているなら――わかる。別に不思議でもなんでもない。
 けど。
「あ――ありがとう、ございます」
「は? ――なにが?」
「うれしい、です――私――」
「――だから、なにが。なにが、どうして」
「あなたが――やさしいから」
「――別に」
 そういうつもりじゃない。
 そんなんじゃない。
「私は、別に――」
「――」
 ふわり――と。
 腕の中の体が、やわらかくなる。
 なんでだ? なんでそうなるんだ? わからない。わけがわからない。
 顔を見ると――笑って、いた。
「――なにがおかしいんです?」
「おかしいんじゃありません」
「それならどうして笑うんです?」
「うれしいから――です」
「……」
 もしかして私、馬鹿にされているのか?
「――私はあまりうれしくもないんですが」
「あ――す、すみません――」
 悄然、の、見事な見本が目の前に。まあ、少しはこたえたようだ。思いのほか効果的な一撃だったみたいだな。
「――」
 クシャ――と、前髪をつかまえてうつむいた顔をひきずりおこす。
 そのまま。
 あの、呆然とした顔をもう一度見てみたくて。
 唇をあわせて、しばらくじっとしていた。
「――」
 また、体が固まる。
「――よくわからない人だな」
「え?」
「どうしてこんなことに、そんなに動揺するんです?」
「え――」
 オロオロと、視線がさまよう。
「あの――なんというか、その――ええと――な、なんででしょうね、あはっ、は、は――」
「――ふーん」
 間近でまじまじと顔を見つめてやる。面白いようにうろたえる。
「え、と、あ、えー、あ、あの――」
「――ふふっ」
 なんだ。なるほど、こういうからかいかたもあったのか。これはこれで、意外と面白いぞ。
「……へー」
「な、な、な、なんでしょう?」
「別に何でもありませんが、なんだかだんだん、面白くなってきました」
「そ――それはなにより」
「――ふーん」
「え、えーと、ど、どうかしましたか?」
「やっぱりいやなんですか?」
「え!? ま、まさかそんな、ちが――」
「だったらどうしてそんな顔するんです?」
「それは――あ、その――」
 耳まで赤くなる、って、そういうこと、ほんとにあるんだな。
「な、なんか、その――て、照れくさくて、その――」
「どうして?」
「え――ど、どうして、って――」
「さっきからずっと、どもりっぱなしですね、あなた」
「す、すみま――」
「別に謝ってくれなくてもいいです。どうでもいいことですから。ただ、面白いな、と思って」
「面白い――あ、はあ――」
 少し落ちついて来たようだ。つまらない。もっとオタオタさせてやりたい。
「してほしいんでしたっけ?」
「――!?!?」
 今こいつ、口から可聴領域外の声を出さなかったか? まだ服ごしにしかさわってないぞ。
 それでもわかったんだから、その気にはなってるわけか。
「――なるほど」
「――」
 目を白黒。口をパクパク。顔は真っ赤。
 うん。
 こっちのほうが面白い。ただ単純に突っ込むよりもはるかに面白い。こっちのほうが、私に分がある。
 ――分がある?
 ――ふん。
 本当は。
 分がある――程度ではなく。
 徹底的に、決定的に、ねじ伏せ、打ちのめし、完膚なきまでに叩きのめして、やりたい。
 まあ、でも。
 これはこれで、一歩前進ではある。
「脱いでくれますか?」
「は――はあッ!?」
「このままだと、やりにくいんで」
「――」
 もたもたと脱ぐ。うん、思ったとおりだ。下半身だけむき出しというのは、きれいに全裸になるよりむしろまぬけな格好だ。
「――ふーん」
 別に、口でしてやったっていいんだが、そうすると顔がよく見えなくなってしまう。それはつまらない。
 だから手でいじる。
「う――」
 イきそう、というより、泣きそう、な顔。
 顔を見ているほうが面白かったから、手はおざなりに動かしていただけだ。
 だから、かぶりをふるのは、気持ちがよくないからだと思っていた。
「もう――やめて、下さい――」
「――どうして?」
「よ――汚す――汚れる、から――」
「え?」
 よく、意味がわからなかった。
「汚れる、って――なにが?」
「――」
 真っ赤な顔が、大きく歪む。
「あの――もう、出そうで――も、もう――我慢が――」
「別にいいですよ、我慢しなくても」
「――」
 聞こえたのは、たぶん、息を飲む音なんだろう。なんだかもう、まさに必死の形相で我慢している、らしい。きつく歯を食いしばっているのがわかる。
 それじゃあ――こうしてやると?
「――ほら」
 唇に唇を押しあてる。とたん――手が、濡れる。
 あまりにも見事な連動に、ちょっと感心する。
「――すみません――」
「――」
 別に、ちょっとふけばそれですむことだろう、とは思ったが、あまりにも悄然とした様子に、なんだかからかってやりたくなる。
「――きれいにしてくれますか?」
「あ、はい、それはもちろん――」
「口で」
「――」
 さすがに怒るかな――と、ちょっと思った。
 だが。
「――はい」
 静かに、丹念に――舌が私の肌をはう。
「――」
 それがなんだかあまりにも、自然な仕草に見えてしまって、しばし虚をつかれる。
 何を――しているんだ――こいつは?
 それはあまりに丹念な、ひどく生真面目にさえ見える行為で、その顔はいまだに上気したままで、その目はなんだかうるんでいて。
「なにを――お――おいしいんですか、そんなの――?」
 私はひどく、ばかげたことを言ってしまう。
「――いいえ」
 おかしそうな笑いに、少しだけムッとする。
「おいしいわけありませんよ。自分が出したものなんて」
「そのわりには――ずいぶん丁寧に舐めるじゃないですか」
「――だって」
「――だって?」
「あなたの手、だから――」
「――」
 理由を言葉にすることは出来ない。
 ただ。
 ただ――私は。
 言葉に出来ない、恐怖にかられ。
 恐怖ではない、何かに突き飛ばされ。
 脳裏に焼きついた、熱っぽい笑いのせいで。
 それらすべてが、いいわけであるということはわかっているが。
 かといって、他にどうするすべもなく。
 あったのかもしれないが、私にはわからず。
 気がつくと、私は。
 また――あの日と同じ事をしていた。



(アンツ)
 終わったあと、少しだけ抱きしめたままでいてくれた。
 少しだけ、あたたかな腕の中にいられた。
 少しだけ、でも、私はうれしかった。
 ――でも。
 ――あなたは?
「きもち――よかった、ですか?」
「え?」
「き――気持ちよかった、ですか?」
「……」
 沈黙が続き、不安になる。どうも、またしてもまずいことを言ってしまったようだ。
「――まあそれなりに」
 低い声。つづくため息。
「いまさらながら――あなたは、おかしい」
「はあ――どうもすみません」
「――あなたは気持ちよかったんですか?」
「あ――は、はい」
「あなた、被虐趣味者(マゾヒスト)ですか?」
「え? い、いえ、別に、そんなこともない、と、思います、けど――」
「だったらどうして気持ちよかったんです?」
「え――だって、その――」
「ああ、同性愛者(ホモセクシュアル)、ですか?」
「さあ――まあ、そうなのかもしれません、が――」
「――あなたはおかしな人ですね」
「はあ――そうでしょうか?」
「そうですよ」
「はあ――」
「――」
 グ――と、髪をわしづかみにされ、まじまじと顔を見つめられる。
 息が苦しい。
 胸が苦しい。
「――おかしいですよ」
 パッ、と、手がはなれる。
「――なにか着たらどうです?」
「あ、は、はい」
 少しだけ――思う。
 彼の、体を、見たい。
 彼の、肌が見たい。
 彼の――裸が、見たい。
 私はきっと――私はやはり――おかしいの、だろう。
 私は、馬鹿だ。
 とても――とても。
「――」
 怒ったような、困ったような顔を見ている。
 私は――どんな顔をしている?
「――なにが望みですか?」
「え?」
「なぜ怒らないんです?」
「怒る理由がありませんから」
「――あるような気がしますがね、私は」
「いえ――ないですよ、全然」
「――そうですか」
 つと、彼が目をそらす。
「――帰ります」
「え――も、もう少しゆっくりしてらしても――」
「頭が痛いんです。あなたのせいで」
「す――すみません――」
「あなたは痛くないんですか?」
「え? わ、私は別に――」
「頭に限らず」
「あ――ああ――まあ――少し――でもその、別に大丈夫ですんで――」
「――今度、薬でも持ってきましょうか」
「ありがとうございます」
「別に」
 そっぽを向いたまま、彼が立ち上がろうとする。
 私は。
「ユ――」
「え?」
 少しだけ――あなたとの距離を縮める。
「ユヴュさん――」
「――なんでしょう?」
「ま――またいつでも、お好きなときにいらして下さい。お待ちしておりますから、私――」
「――いちいち言われなくても、ずっとそうしてきましたよ、私は」
「では――これからも、ずっと」
「――」
 フワリ――と、空気が流れる。
「――気が向いたらそうします」
「ありがとう、ございます」
「――」
 琥珀色に、輝く両眼。
「――地の民は」
「え?
「地の民は――みんなあなたのようなんですか?」
「――たぶんちがうと思います」
「――そうでしょうね」
 スウッ――と、風が吹く。
「――では」
「あ――おかまいもしませんで」
「――」
 クルリとふりむき。
「――ばーか」
 ひとこと、言って。
 彼は、去った。
 私は。
 取り残された、私は。
 指折り、数える。
 数えたくないことを。
 貴族と、平民――いや、もっと正確に言おう。イギシュタールの真の民と、出来損ないの『ツキのヒルコ』。
 青年と、中年。
 異性ではなく、同性。
 彼にはすべてがあり、私には何もない。
 彼は惜しみなく与えてくれるが、私には、捧げるものが何もない。
 彼は、月の、星の、天の――宇宙(そら)の、民。
 私は――地をはいずる、ヒルコ。
 ああ、やはり。
 どこからどこまで、つりあわない。

ちいさきもの、みなうつくし

(アンツ)
 明け方に、目が覚めた。
 歳のせいだろう。私はもう、あまり長い時間続けて眠ることが出来ない。
 完全に回復できたわけではない。この体の痛みとだるさは、これから長いこと尾をひくことになるのだろう。
 でも、そんなことはどうでもよかった。というか、それくらいのことがないとばちがあたる。
 あたりは薄暗く――それとも薄明るく――あなたの顔が、白々と浮かび上がる。
 若くなめらかなその寝顔。常に炯々たる眼光を放ち、その内で燃えさかる炎の窓となっている琥珀の両眼がまぶたの下に隠されたその顔は、白く、細面でなめらかに整い、やさしげで、ほとんど少女めいていさえする。
 そうだ、あなたはとても――とてもやさしい人なのだ。
 激しくてやさしい。やさしくて激しい。
 あなたが好きだ。
 私はとても――あなたが、好きだ。
 ああ、そうだ。ゆうべ、時よとまれと願ったが、やはりあの時とまらなくてよかったのかもしれない。時が流れてくれたからこそ、こうしてあなたの寝顔が見られる。
 それでも、また。
 時よとまれと、私は願う。



(ユヴュ)
 目が覚めると、私はひとりでベッドに寝ていた。
 どうやらアンツはもう起きたらしい。壊したかも、と心配していたが、案外大丈夫だったようだ。
 とりあえず、これからどうしよう。このまま黙って帰ってしまっては、さすがにまずいだろう、と思う。
 ちょっとアンツを探してみる。すぐに見つかる。
 台所で、なにやらバタバタと、朝食の用意をしているようだ。
「――おはようございます」
「あ、おはようございます」
 ふりかえったその顔を見て、ちょっと前言を撤回したくなった。
 やはり、かなりこたえてはいたようだ。実物を見るのは初めてだが、あれがおそらく、くまとかいうものだろう。目の下が黒ずんでいる。だ、大丈夫か、おい?
「あの、粗末なもので、ほんとにお恥ずかしい限りなんですが、今その、朝ごはんのしたくを――」
「いやそんなことより、大丈夫ですかあなた?」
「え?」
「いやその――目の下――」
「――ああ」
 アンツはペチペチと、目の下をたたいた。
「すみません、お見苦しいものをお見せして」
「別に見苦しいとは思いません。珍しいとは思いますが」
「珍しい?」
「私達、そういうものがあまりできませんので」
「あ、そうなんですか」
 またペチペチとたたく。たたいてどうにかなるんだろうか?
「たたいてどうにかなるんですか?」
「いやその――血行がよくなるかと思って」
「……無駄だと思いますが」
「あー――そうでしょうか、やっぱり?」
「見てると痛そうなんでやめて下さい」
「す、すみません」
「――ええと」
 とりあえず、大丈夫、ということなんだろうか、これは?
「あー――昨日は、その――」
「――」
 カッと顔を赤くするのが、ちょっと面白い。
「ええと――痛くしましたか? ああ、ええと、しましたよね、やっぱり」
「べ、別に、大丈夫ですから」
「――別に、その」
 なんとなく、言い訳がましい気分になって言う。
「痛い目にあわせるつもりはなかったんです」
「――」
 にこっと笑い、コクッと頷く。
 人がいいんだか、馬鹿なんだか。ああ、両方、か。
「――薬、ありますから、あげます」
「ありがとうございます」
「――眠れなかったんですか?」
「その――歳、ですから」
「関係あるんですか、それ?」
「歳をとると、あまり長いあいだ続けて眠れなくなるんです」
「へえ――ほんとに?」
「まあ、そうならない人もいますけど」
「ふうん」
 そういうことは、正直あまりよく知らない。
「だったら何回かに分けて寝たらどうです? 朝ごはん食べてまた寝る、とか」
「いえ、これから生徒達が来ますから」
「あ、そうなんですか」
 そういえばこいつ、私塾の教師だったっけ。
「私、いると邪魔ですかね?」
 何とはなしに聞いてみる。
「あ、見学なさっていかれますか?」
 目を丸くして、アンツが言う。
「見学? ――私が?」
「あ、その、そういう意味じゃなかったんですか?」
「ええと――」
 そういえば、地の民達の教育風景、というのはまだ見たことないな。
「見学していってもいいんですか?」
「どうぞどうぞ。喜んで」
 本当にうれしそうにアンツが言う。まったく馬鹿なおひとよしだ。
「それじゃあ拝見していくことにしましょうか」
 成り行き上、そういうことになった。



(アンツ)
「ほんとにその、粗末なものばかりでもうしわけありません」
「あなたがた、私たちが普段いったい何を食べていると思っているんです?」
 ユヴュは、ちょっと顔をしかめた。
「別にそんな、特別なものを食べてたりしませんよ。まあそりゃ、いささか量は食べるかもしれませんが。あなたがたより必要とするエネルギー量が多いんで、どうしても、ね」
「あ――これも、どうぞ」
 私は自分のパンが乗った皿を、ユヴュの前に押しやった。
「いりません。一食や二食足りなかったからって、別にどうにもなりやしませんから。それに私達、体質的に食いだめと断食がきくんです」
「はあ――便利ですね、それは」
 などと、なんともまぬけなことを私は言ってしまう。
「まあ、便利といえば便利でしょうか。普段はあまり、そんな能力を使う機会もありませんが」
 と、ユヴュは律儀に答えてくれる。
 ユヴュはいつも、とても真面目に私の話につきあってくれる。
 それがとても、とても、うれしい。
「で」
 と、ユヴュがジロリと私をにらむ。
「あなたがたは、体質的に食いだめや断食に向いていないんですから、一食一食きちんと食べる必要がある、と私は思うんですが」
「ああ、はい、そうですねえ」
「ですから」
 と、ユヴュは私が押しやったパンの皿を再び私のほうへと押し戻す。
「あなたはきちんと、自分の分を食べなさい」
「――」
 胸が、つまる。
 ユヴュは、やさしい。
「――ありがとうございます」
「もともとあなたの分です」
「――」
 こんな時、何か気のきいたことが言えればいいのだが。
 私は何の芸もなく、もぐもぐとパンを噛むだけだ。
「――ここに来るんですか?」
「え?」
「生徒さんがた」
「ああ、はい。あ、まだ教室はお見せしてなかったですか?」
「見ていない、と思います」
「まあその、たいしたことはありませんが」
「何を教えているんです?」
「ええと、まあ、読み書きに、計算に、あとはまあ、科学や歴史や、いろんなことの、初歩をちょこちょこと」
「なるほど」
 ユヴュはわずかに考えこんだ。
「で、あなたはどうやって、それとも誰から学んだんですか?」
「私、ですか? 私は、その、両親からと、あとはその、独学で――」
「独学?」
 ユヴュは眉をひそめた。
「独学、って――それでいいんですか、あなたがたの場合?」
「え?」
「独学では、解釈がまちがっていた場合、誰もそれを指摘してくれません。それなのに教える立場に立ってしまって、いいんですか?」
「そうですね――大変耳が痛いです。しかしその、言い訳になりますが、私はその、解釈の余地のほとんどない、本当に、初歩の初歩しか教えてはおりませんので」
「それで生計が立てられるんですか?」
「ええと――まあ、一応」
 私には、覚悟がある。
 いずれ家の財産をすべて食いつぶし、一人で野垂れ死んでいくのだ、という覚悟だ。
 そう――生計なんて、ほんとは立っていやしない。父母に祖父母、先祖達が何代もかけてこつこつと、懸命に築き上げてきてくれた財産を、私一人で食いつぶし、家を滅ぼし、自分も滅ぶ。
 私は何をやっているのか。
 私は――知りたかった。
 異形のこの身が、存在する意味を。
 そうして私は、残したかった。
 私の言葉をひとことでも。私のおもいをかけらでも。
 そうしてあなたが来てくれた。
 ユヴュ。
 あなたが。
 私の言葉を受けとめて、私に会いに来てくれた。
 はじめて、夢がかなった。
 私の言葉が、あなたに届いた。
「――あの」
 不意にユヴュは、ばつの悪そうな顔をした。
「私その、いつもごちそうになってしまっていますけど、考えてみれば、確実に私のほうがお金を持っているんですよね。ですからその、材料費くらい――」
「そ、そんな、とんでもない! お、お客様なんですから、そんなこと気にしなくたっていいんですよ。その、お気持ちだけいただいておきます」
 こういうところが、かわいいなあ、と思う。
 いくら斜にかまえてみせたって、高圧的にでてみせたって、ユヴュは結局、根っこのところでは素直でやさしいお坊ちゃんなのだ。自分の若さをもてあましているようなところはあるが、本当に人を傷つけたがっているわけではない。
 などと、えらそうに論評している私からして、どだいたいしたしろものじゃない。『ツキのヒルコ』の変人学者馬鹿だ。もしかしたら、まるで見当ちがいなことを考えているのかもしれないが。
「はあ、そうですか。まあ、そっちがそういうんなら――」
 ちょっとすねたような様子が、やっぱりかわいい。
「――あなたって」
 と、ユヴュが私を見て言う。
「いつも笑っていますよね」
「え? あ、そうですか?」
 ああ、そうか。それはそうだろうなあ、と思う。
 友人と呼ぶなんておこがましい。恋人などとは思うことすら出来ない。情人ということさえ誇張とうぬぼれが過ぎるだろう。
 いったいどういう関係なのか、実はいまだによくわからない。知人とでも言っておけば、まあ一番まちがいがないのかなあ、と思う。
 でも、とにもかくにも。
 あなたほど私にやさしく、あなたほど私と親しくしてくれた人はいない。
 だから、あなたといっしょにいる私が、いつも笑っていないとしたら、そっちのほうが、よっぽどおかしい。
「ほら、笑ってる」
「あ、ええ、そうみたいですね」
「どうして笑っているんです?」
「その、ええと――なんとなく、幸せで」
「……はあ、なんとなく、ですか」
 ユヴュは、あきれたような顔をした。
「――まあ別に、それならそれでいいですけど」
 本当は。
「なんとなく」ではなくて。
 理由はとても――とても、はっきりしているのだが。
 それを口に出すことは、今の私には難しかった。
 この、やわらかな朝の光の中では。
 だって。
 私はあなたの。
『知人』でしかないのだから。



(ユヴュ)
 あたりまえといえばあたりまえかもしれないが、なんだか来る連中来る連中、みんな私のことをジロジロと見る。別に、見られたところでどうということもない。逆に私も、観察してやる。
 しかし。
 よくもまあ、こんなにとりとめのない連中ばかり集めたものだ。
 子供の年齢がばらけている――のは別にいい。それくらいのことはあるだろう。その程度なら予測できていた。
 しかし。
 どう見ても幼児、どう見ても赤ん坊でしかないチョコチョコしたのがいるというのは、いくらなんでもいきすぎじゃないだろうか。こんなチビどもにいったいなにを教えるというんだ?
 それに。
 私どころか、アンツよりも年上なのであろう、白髪の老人(あれは『老人』でいいんだよな?)、あいつらも生徒か? 一人なら、アンツの助手か何かかと思うところだが、何人かいる。やっぱり生徒か?
 今いる連中の年齢層がここまで幅広いということは、もしかして私も、新入生か何かだとでも思われているのだろうか?
 地の民達の教育現場って、みんなこんなふうなのか? 私達とは、だいぶちがうな。それともここが特別なのか?
「皆さん、おはようございます」
 アンツの声が、奇妙によく通る。
「先生、おはようございます」
 老人連中までもがそろって唱和する。唱和しなかったのは、私や赤ん坊連中だけだ。この教室には今――二十人、そこそこというところか。その半数ほどが、赤ん坊、幼児、老人連中だ。アンツはいったい、どういう基準で生徒を取っているんだ?
「さて、今日は、見学にいらしている方が一人おられます。そちらの、ユヴュさんです」
「――どうも。見学に参りました、ユヴュです」
 いきなり話をふるな。で、これでよかったのか? 子供連中が、なにやらヒソヒソボソボソとささやきをかわす。ま、珍しいんだろうな。その気持ちはわかる。
「はい、皆さんは、見学の方がいらっしゃるからといって、別に何も特別なことをする必要はないんですよ。普段どおりにしていてください。ユヴュさんは、皆さんの、普段の様子をご覧になられたいんですから」
 いやまあ、別に特別なことをしてくれたっていっこうにかまわないんだが。まあこういう際の決まり文句なんだろうな、きっと。
「先生!」
 十歳そこそこという男の子の手が上がる。私達と地の民とは、第二次性徴が終わる、まあ要するに、成人するまではほぼ同じくらいの割合で歳をとる。お互いに、子供の歳の見当ならつけられるのだ。
「その人、誰ですか?」
 うん、もっともな疑問だ。
「ええと――先生の、お友達です」
 と、言ってしまってからアンツは、ややうしろめたげな、ばつの悪そうな顔をする。私としても、一応抗議か訂正でもしておいてやりたいところだが、ここは一つおとなしくしておく。貸し点1、だ。
「――」
 なんだか知らんが、老人連中のほうからザワリとした空気が立ち上ってくる。とりあえず無視。アンツに友人がいるというのがそんなに不思議なのか? ま、別に、私には関係ないが。
「――さて」
 ポン、とアンツが手をたたく。
「それでは授業を始めます」
 さて。
 こんなとりとめのない連中に、いったいどんな授業をするつもりだ?
「せんせー」
 お、またさっきの子供だ。
「また徹夜したのー? クマできてるよー」
「はい、そうなんですよ。本が面白くってついねー」
「だめじゃーん!」
「そうですねー。みなさんはまねしないでくださいねー」
「はーい!」
 おいおい、はーい、じゃないだろ、はーい、じゃ。しかし、本当は何をしていたか、というのは、やっぱり知られちゃまずいだろうなあ。子供もいるし。
「それでは、えーと、今日の当番は――?」
「あ、わしです」
 と、老人の一人が手を上げる。
「じゃ、チビちゃん達おねがいしますねー」
「はい」
 ……もしかして、保育所もかねてるのか、ここ? それはまあ、私達だって乳児や幼児のあつかいを学ぶための実習を受けたりもするが、どうもここに乳児や幼児がいるというのは、特別なことでもなんでもない、単なる日常であるらしい。何に使うのかと思っていた教室の後の小さなじゅうたんがしいてある一角に、子供や老人が乳児や幼児を連れてわらわらと集まる。どうやらあの、手を上げた老人が、今日そのチビ達を世話する当番であるらしい。
「では、ルヴァンさん、お願いしますね」
 老人はどうやら、ルヴァンという名らしい。
「はい」
「では」
 アンツが教室の面々を見まわす。
「皆さんごいっしょにー。九九の斉唱からー! いんいちがいちー」
『いんいちがいちー』
 ……1の段からか。確かに本人――アンツが言っていたとおり、ごくごく初歩的なことしか教えてはいないようだ。に、しても――老人連中までが声をそろえて斉唱している、ってことは、あいつらもやっぱり生徒なんだろうな、きっと。
「んに、んに、んに、んにゃー!」
 後ろで赤ん坊がむずがりはじめる。
 うん、なるぼどなあ。これは、まちがいなく。
 私達――イギシュタール貴族の教育風景とは、だいぶちがうな、うん。



(アンツ)
 後ろの席から教室を見まわすユヴュは、ずっと、面白そうな顔をして目を輝かせている。
 よかった。
 楽しんでくれているようで、よかった。
 うーん、もしできるなら、後でユヴュに何か、講演のようなことをしてもらえるといいんだがなあ。きっと有意義な話をしてくれると思うんだが。さっき頼んでおけばよかったなあ。
「ねーねー」
 あららら、まずいまずい。
 カダル君が席をはなれてまっすぐにユヴュのところに向かっている。カダル君はもともと、集中力がちょっと弱い。つれもどさないと――。
「ねー、おじさーん」
「はい? それは私のことですか?」
 ユヴュが、怒るというより面白そうな顔をする。たぶんユヴュは、今までに一度も「おじさん」なんて言われたことないんだろうなあ。
「うん。ねーおじさん、おじさんさー、どっから来たの?」
「そうですね――街の外から、ですよ」
「よその街から?」
「まあそうですね」
「おじさん、お仕事なに?」
「そうですね、今のところは、まだ見習いです。家の仕事をね、手伝うことになっているんですけどね」
「おうちの仕事って、なにー?」
「管理監督です、もろもろの」
「カントク? 工事する人?」
「まあ、そういう仕事を監督することもありますが」
「カントクさんかー」
 つれもどさないと――と、思っては、いたのだが。
 二人の会話がなんだか楽しくて、つい聞き入ってしまった。
「おじさん、今日はお仕事は?」
「今日はお仕事、お休みです」
「いいなー。おれ今日べんきょーしなきゃいけねーんだー」
「勉強は、大切ですよ」
「んー」
「九九全部いえますか?」
「言えるよー。まいんちやってるもーん」
 継続は力なり。我が意を得たりと一人こぶしを握る私である。
「おじさんはー、九九言える?」
「いくらでも」
「そっかー」
「はいはい、カダル君」
 さすがにそろそろ、課題に戻らせないといかんだろうな。
「君まだ書き取りが終わってないでしょう?」
「だってー、あきたー」
「ちゃんとやらないと覚えられませんよ」
「もう覚えたもーん」
「それでも、最後まできちんとやりましょうね」
「ちぇー。おじさん、またなー」
「はいはい。それでは、また」
 ユヴュがクスクスと笑っている。い――いかん、かわいいなあ、なんて見とれちゃいかんぞ、今は。
「アンツさん」
「は、はい」
 で、でもほら、声をかけられたからには返事をしないといかんよな、うん。
「あなたがたの教育方法、というか教育風景は、私達のとはずいぶんちがいますね」
「え――ええ、はい、そうでしょうねえ、はい」
「どこもこんなふうなんですか?」
「え? ええと――こういうところもあるでしょうし、もっとその、ちゃんとしたところもあるでしょうね」
「ちゃんとした?」
「私はその、しょせん我流ですし」
「なるほど。ところで」
 ユヴュが、ヒョイと後ろをふりかえる。
「あのちっちゃい子達は、いったいなんなんです? あの子らにも、何か教えるんですか?」
「え? いえ、絵本の読み聞かせくらいはすることもありますけど、生徒というのとはちょっとちがいます。その、なんと申しますか、ご両親がお仕事やらなにやらで忙しくて、お兄さんやお姉さんが下の子の面倒を見ている、という場合、上の子だけここに来てしまうと、下の子の面倒を見る人がいなくなってしまいますので――」
「ははあ、なるほど」
 ユヴュは小首を傾げた。
「しかし、託児所なんかはないんですか?」
「いやあ、そういうのって、お金がかかるでしょう?」
「……」
 ユヴュは目をむいた。
「……アンツさん」
「はい」
「あなた、まさか」
「はい?」
「た、ただで、あのチビちゃん達を――?」
「まあ――みんなで手分けして面倒見てるわけですし。その――ねえ?」
「なにが『ねえ?』ですか、なにが」
「私としては、せっかくの学習意欲に水を差すようなことは、したくないですし」
「あなた――」
 と、ユヴュは言いかけ、口をつぐむ。まわりの生徒達に気をつかってくれたようだ。やっぱり、ユヴュはやさしい。
「――あちらのほうも、見学していいですか?」
「え? ああ、チビちゃん達ですか? どうぞどうぞ」
「どうも」
 スイ、と席を立つユヴュを、教室中の目が追いかける。チビちゃん達が、ユヴュを見あげる。
「――こんにちは」
 ユヴュが、ルヴァン氏に一礼する。
「少し、見学させてもらってもよろしいでしょうか?」
「え――ええ、どうぞ」
「ありがとうございます」
 ユヴュは、ヒョイとかがみこみ。
 チビちゃん達を見て、にこっと笑った。
「――だ!」
 興味深げに身を乗り出したのは、ルカちゃんだ。
「はい、こんにちは」
 にこにこにこっ、と、ユヴュが笑う。
「こんちあっ!」
 と、リラちゃん。つづけざまにチビちゃん達が、
「こんちゃ!」
「あーぷ」
「こにちは!」
「んくー」
 と、口々にごあいさつをする。
「これは、ご丁寧にどうも」
 クスクスと楽しげに笑いながら、ユヴュはポケットからハンカチをひっぱり出す。
 何をするつもりだろう。
「さて――お近づきのしるしに、皆さんとお人形さんで遊びましょうか」

「おにんぎょ?」
「おにんぎょ、どこ?」
「おにんぎょ、おにんぎょ!」
「しばしお待ちを――はい、このとおり」
 軽やかに素早く指が踊り、一枚のハンカチから折りあげられたるは、簡素にしてかわいらしい、一体の指人形。
「おにんぎょ!」
「はい、そうです。お人形さんですよ」
 にっこりと、ユヴュが、笑う。
 ズクン――と、私の胸が、うずく。
「あらためまして――みなさん、こんにちは」
 ユヴュと、ユヴュの手に操られた指人形が、ともに優雅に一礼する。
 それを見て。
 やさしく笑うユヴュを見て。キャアキャアとはしゃぐ幼子達を見て。ユヴュの手が操る、ちっぽけな指人形を見て。
 ズクン、ズクンとうずいていた胸が。
 ズキン――と、血を流し。
 私は、その瞬間。
 私が、この、先のない恋に、骨の髄までからめとられてしまっていることに気づいた。

『ツキのヒルコ』とツキの影

(アンツ)
 ――それからずっと、幸せだった。
「次は」と言ってくれたからには、「次」があるということだ。
 約束ともいえないような約束だが、私はうれしかった。
 私は彼が好きなのだ。
 彼が私を、好きでなくとも。
 ――迷惑、だろうと思う。こんな相手に懸想されたところで、別にうれしくもないだろう。
 それでも彼は、私のところに来てくれる。
 うれしくはなくとも、それなりに面白くはある――の、かもしれない。
 正直理由はどうでもいい。
 また会えるなら、それでいい。
 ――私にも何かあればよかったのになあ、と思う。
 何か一つでも――彼に捧げることの出来るようなものが。
 ――しかし、まあ、そんなことをいつまでもくよくよしていてもしかたがない。
 彼が来てくれたら、精一杯もてなそう。
 それしか出来ないのなら、私はそうしよう。



(ユヴュ)
「――ユーリルには、好きな人っています?」
「え、ユヴュにはいるの?」
「いません」
「あそう」
「で?」
「ん?」
「ユーリルには、いるんですか?」
「んー、いない」
「そうですか」
 あたりまえのことだが、私はユーリルのことが好きだし、ユーリルも私のことが好きだ。
 しかし、ここで言う『好きな人』というのは、もちろんそういう意味ではない。
「もし、私に好きな人がいたら」
 私と同じ顔が、きょとんと小首を傾げる。
 私と同じ顔。
 私と同じ血。
 まったく同一のDNA.
 私のかたわれ、私の半身。
 私の、オリジナル。
 ユーリル。
 だが――同じでは、ない。
 彼と私は、ちがっている。
「ユヴュは、どうするの?」
「え? ――いえ、別にどうもしはしませんが」
 別に、私がスペアでユーリルがオリジナルだから、私が敬語を使っているわけではない。私とユーリルとを区別しやすくするために、私は意識して、過剰に敬語を使うのだ。
「ただ、どうなのかなあ、と思って」
「ふうん」
 ユーリルは、面白そうに目をパチクリさせた。
「いるのかと思った」
「何が?」
「ユヴュに、好きな人が」
「ですからいません。聞いてみただけです」
「でも、何かきっかけがあったからそんなこと聞いたんだろ?」
「別にありません。単なる気まぐれです」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「ふーん」
「ほんとですってば」
「ふーん、そう」
 クツクツともれる、のどの奥からの笑い。
 私の声も、こんななんだろうか。
「いないんだ」
「いません」
「あそう」
「もういいでしょう、その話は」
「ユヴュのほうから言ってきたのに」
「それはそうですが」
「好きな人――かあ」
 ユーリルは、フッと目元を和ませた。
「いたらどうだろ。楽しいのかな?」
「そう――なんでしょうかねえ、やっぱり?」
 小首を傾げているユーリルを見て、ふとからかってやりたくなる。
「ユーリルは、セックスってしたことあります?」
「え、ユヴュはあるの!?」
「まあ一応は」
「へー」
 素直に目を丸くするユーリルは、かわいい。自分と同じ顔に向かって『かわいい』というのは、ちょっとあれかもしれないが。
「えーと、どっちと?」
「同性と」
「へー」
 ユーリルは、コクコクと頭を頷かせた。
「で、どうだった?」
「別にそんな、たいしたもんじゃありませんでした」
「えー?」
「気持ちよくはありましたが」
「えー、いいなー」
 ユーリルは、私よりずっと、ずっと素直だ。おっとりしていて人当たりがよくて、必然的に、人に好かれる。
 別にうらやましいわけじゃない。
 ただ、私とはちがうなあ、と思う。
「えーと――どういうふうにやったの?」
「私が抱きました」
「うわ。それって私の知ってる人?」
「いえ、知らないでしょう、きっと」
「あそう」
 ユーリルは、目をパチクリさせた。
「――あのさ」
「はい?」
「してみる?」
「え?」
「私と」
「ああ」
 私達のあいだにも、近親相姦の禁忌(タブー)がないわけではない。ただしそれは、同性間においては無効になる。
 もっと大きく、はっきり言えば、私達の性的禁忌(タブー)の背後には、すべからく遺伝子プールへの影響があるかどうか――すなわち生殖に関係があるか――ということがある。逆に言えば、生殖と関連しない性交は、すべて許されている。というか、誰も気にしない。
 だから、オリジナルとスペア(地の民達の言葉でいうところの、一卵性双生児なのだから、当然すべて同性同士ということになる)とのセックス、というのは、割とよくある話だ。
「そうですね」
 うん。
「――してみましょうか?」
「ためしに、さ」
「ためしに、ね」
 顔を見あわせて、クスクスと笑いあう。
「で、どういうふうにやります?」
「んー、ユヴュはどうしたい?」
「私は別に、どちらでも。というか別に、挿入なしでもかまいませんし」
「えー」
「あ、いれてみたいですか? それとも、いれられたい?」
「どっちも」
「なるほど」
「いやかな?」
「いいえ」
「じゃあ、どっちも」
「いいですよ」
「よし」
 ニィッと笑う、その顔は、きっと私と同じものなのだろう。
 だが。
「じゃ――しよっか」
「ええ、いいですよ」
 遠い昔の、生まれいずる前。
 われらは互いに、分かたれ二人。



(ユーリル)
 ――たぶんユヴュは、わかっていない。
 私の――私の――。
 私の――何をだ?
 そして私も、わかっていない。
 いったい何が、わからないのか。
 すでにそれすら、わからない。
 ずっとずっと――ずっと、昔。
 物心ついてからこのかた。
 ずっと――ずっと。
 私の前には、ユヴュがいた。
 私の半身。私のかたわれ。
 私のスペアと人は言う。
 そして私は、オリジナル。
 そんな言葉に、意味などないのに。
 われらはそれに、縛られる。
「――ユーリル?」
「ん?」
「どうか、しました?」
「んー――あのさ」
「はい?」
「あのさ――ユヴュは、その――本職(プロ)と、したの?」
「いーえ」
 ニマニマッ、と、人の悪い笑み。
「ド素人ですよ、あいつは」
「――あそう」
 ――『あいつ』。
 その、二人称は。
 彼らのあいだの、深い親しみをあらわしている、ような気がする。
 私の一番近くにいるのは、ユヴュだ。
 でも。
 ユヴュの一番、近くにいるのは――?
「ユーリル」
「んん?」
「こういうことをしている最中に、ボーッとしないでください」
「あー、んー、ごめんごめん」
「まったく」
 私の頭をなでる、私と同じ形の手。
「ユーリルは、いっつもおっとりしてるんだから」
「んー、ごめん、とろくて」
「そうは言ってません。ユーリルはいいんですよ、それで」
「んー、ありがと」
 私が一人だったら。
 私達が、二人にならずに。
 もしも私が、一人だったら。
 私はいったい、どんな人間になっていただろう。
 そして、ユヴュは。
 二人であること、そのものが、私とユヴュの、形をつくった。
 私はオリジナル。家を継ぎ、血をつなぐ、未来への糸。
 だから途切れてはならない。私の居場所は、とうとうと流れ続ける、血脈の流れの中。
 ユヴュはスペア。非常時のための存在。オリジナルが存在を続ける限り、その影としてひかえる定め。
 だからわずかに、流れをはずれる。流れの中では影だけど、流れの外では――。
 流れの――外では?
「ユヴュはさあ、その人と――何をしなかった?」
「そうですね――いれられは、しませんでした」
「私が、初めて?」
「そうですよ」
「――んー――」
 先にいる。
 ユヴュは私の、前にいる。
 幼い日から、ずっと、ずっと。
 私はそれに、甘んじる。
 私の半身は、最強の盾。
 私の半身は、最愛の剣(つるぎ)。
 ――本当は、知っている。
 私は――おかしい。
 イギシュタール貴族――イギシュタールの、真の民でありながら。
 私の心は、ずれてきしみつづける。
 私の思いは、私の想いは、いまだ向かう先すら知らない。
 私の半身は、怒りを叫び続ける。
 たとえその言葉が、すべてまちがいだったとしても。
 私の半身は、ただ一人歩き続ける。
 たとえ最初の一歩から、すでにふみあやまっているのだとしても。
 ただ一人――ただ、一人。
 たとえ――たとえ。
 たとえ私が――歩みを共にしなくとも。
 私はいつも、つくられた道を平穏に歩み続ける。
 ついていくのは、いつも、私。
 ユヴュは気づいているのだろうか。
 ユヴュはきっと、気づいてはいない。
 ユヴュが私を引きずりまわしているのではない。
 私がユヴュに、道をひらかせ、つくらせているのだ。
 だから、いつも。だから、ずっと。
 ユヴュは私の、前にいる。



(ユヴュ)
 全然、ちがった。
 ちがうだろうと予想はしていたが、ここまでちがうと、ちょっと驚く。
 地の民達の街を歩いてわかったのだが、どうも我々、イギシュタール貴族の性生活というのは、地の民達にとってはある種の揶揄の対象であるらしい。
 夫婦は互いに愛人を持ちあい、同性愛も近親相姦もやりたい放題、なんの禁忌(タブー)もなく好き勝手に欲望を追求する、奔放極まりない連中――と、思っているらしい。
 ちがう。
 逆だ。
 私達は、やつらよりよほど厳格に、真剣に、禁忌(タブー)を犯さぬよう細心の注意と決意をもって生きている。
 ただ、私達の禁忌(タブー)と、やつらの禁忌(タブー)とが、まるっきりちがう土台の上に築かれている、というだけで。
 地の民達にとっては、生殖に結びつかない性交渉は、多かれ少なかれ後ろめたく、ともすれば禁忌(タブー)にふれがちなもの――らしい、どうやら。
 私達にとって、事情はまるでちがう。真逆といっていい。
 私達にとっては、生殖に結びつかない性交渉こそ、どんな禁忌(タブー)を犯す心配もせずに、心から気楽に、安心して楽しめるものなのだ。
『スコティッシュフォールドのいましめ』。
 私達の祖先は、人により創られた――。
 超人。
 異形。
 人にありて人にあらぬもの。
 細心の注意をもって血をかけあわせつづけなければ、あっというまに泥のように崩れ去る、我らの身体、われらの血脈、我らの――。
 我らの未来。我らの愛しき、子供達。
 どんなに注意をはらっても、『ツキノヒト』が生まれなくなることはない。
 彼らは我ら。我らは彼ら。
 いや――もともと。
 我らは我ら。一つの血。
 イギシュタール貴族。イギシュタールの真の民。イギシュタールの――。
『ツキの民』。『月の民』にして『憑きの民』。『オツキサマ』をいただく我ら。
 我らは異形を受け入れる。我らは彼らの異を崇め、我らは彼らの異を愛す。
 我らは異形として生み出された民。
 彼らこそが、『ツキノヒト』こそが――我らの、真の姿。個にこだわらぬ我らの中で、その個を主張しつづける存在。
 ああ、そう――そんなところも、私たちとあいつらとではまるで逆になる。
 やつらは異形を受け入れない。
 やつらは、こう呼ぶ。
『ツキのヒルコ』――と。
 そうして赤子を、川へと流す。
 ――あれ?
 私は何を、こんなに長々とどうでもいいことを考えつづけているんだ?
 私はただ、ユーリルとのセックスは、淫靡なところなどまるでない、明るくさっぱりとした、終わった後になごやかに、寝物語を楽しめるようなものだったということを言いたかっただけなのに。
 そう、それこそ、うしろめたいことなどまるでない――。
 ――ん?
 うしろめたかったのか――私は? あいつとの、セックスが。
 まあ、その――最初のあれは、多少、なんというか、その――。
 ――って、ああ、なんてこった、ばかばかしい。
 後悔もうしろめたさも罪悪感も、あいつのヘラヘラ顔といけしゃあしゃあとしたセリフのせいで、瞬時にこっぱみじんにされたんだった。
「ユヴュ」
「はい?」
「もっかい、する?」
「あれ、気に入ったんですか?」
「え、気に入らなかったの?」
「いえ、なんか――さっぱりしました」
「え、あそう? さっぱりした? ……ふーん?」
「あれ――私、下手でしたか?」
「いや、別に、そんなんじゃないけど――」
 あれ、意外だ。
 どうも私とユーリルとでは、なんというか、その――微妙に感想がちがっているらしい。
 ――どっちもためしてみたんだけどな、お互い。
「っていうか、上手も下手も、私、比較対照する相手、まだいないし」
「ああ――」
 そうだ、地の民の連中は、これも何か猛烈に思いちがいをしているが、私達が全員徹底的に教師から叩き込まれるのは、性と生殖に対する知識であって、その実践までは教師も親もそれ以外の大人も別段手ほどきもしなければ面倒も見ない! まあ、個人的にはそういうこともあるだろうが、わざわざそんなことを公的行事に組み込んだりするか! だいたいそういう――性的な楽しみは、個にこだわらないとされている私達が、一番個性を出すところだ。公的に当たりさわりのないところをあてがわれてたまるか。冗談じゃない。
 ……えーと、どうもさっきから、我ながら脱線がひどいな。
 だからつまり、私たちはそんなに早くからそんなに経験しているわけではない、という話だ。まあ探せばそういう人もいるんだろうが。
 しかしユーリルはそうではない――の、はずだ。
「――あれ」
 ユーリルが、ふと眉根をよせる。
「もしかして、私、その――ユヴュの相手より――」
「下手じゃないです。それに、タイプがまるでちがいます」
「あそう」
 手をのばして、ユーリルの頭をなでる。髪がふわふわして気持ちいい。
 私の髪も、こんななのか。
「んー……」
 目を細めて機嫌のいい声を出しているユーリルは、かわいい。同じ顔をしてはいるが、私はこんな表情をしたことはない。ない――と思う。自分の目で確かめたわけではないが。
「ユヴュー」
「はい?」
「もっかい、しよー」
「――そうですね」
 ユーリルは、気に入ったらしい。
 私は。
 ユーリルの機嫌がいいのが、共鳴して、うれしかった。



(アンツ)
 ――『ツキのヒルコ』と人は呼ぶ。
『ヒルコ』というのは、出来損ない、生まれ損ない、という意味なのだそうだ。遠い昔の言葉らしいが。
『ツキのヒルコ』と人は呼ぶ。
 私は、死なずにすんだ、『ツキのヒルコ』。
 生まれ損ない、死に損なった。
 生から死から、はじかれた。
 いや、本当は、運よく生き残った――と、言うべきなのだ、私は。
 私の家は『ヒルコ筋(すじ)』。『ヒルコ』ばかりが生まれ来る。
 普通の家に生まれていたら、私は今ごろ、ここにはいない。『乳の川』に流されるか、運がよければサマリナにいるか。
『ヒルコ』ばかりが生まれてくるから。
『ヒルコ』を生かすよりほかなかった。
 私の両親は、私を愛してくれた。
 両親、だけは。
 私が『ヒルコ』であることを、忘れるものは誰もいない。
 知らない者なら、いるにはいるが。
 そう――。
 ユヴュの、ように。
 知られた時に、どうなるか。
 私はそれを、知りたくない。



(ユヴュ)
 ユーリルとして、わかったこと。
 裸でやるほうが気持ちいい。
 やっぱりあれだ、服は、邪魔だ。
 ――それがわかったからといって、あの馬鹿相手にためしてみる必要など、まったくどこにもありはしないのだが。
 ――どこにもありは、しないのだが。
 機会があるのに、ためさないという手もない。
 といって。
 それをするためだけに――ヤるためだけに、とでもいうのか?――来た、と思われるのも、なんというかこう、わけもなくしゃくにさわる。
 ――というか、私は何度も何度もあきもせず、いったい何をしにこんなところまで来ているんだ?
 ……我ながら、ひま人にもほどがある、と思う。
「あ、いらっしゃい」
 こいつもまあ、ひまなんだか社交性が根底から欠けているのか、いつきたところで一人でちんまりと家にいる。さすがに私も仕事の邪魔にならないように昼間の訪問は遠慮してやっているが、それにしても、何の約束もせずにいきなりたずねて行っても絶対に空振りしない、というのは、やはりちょっと――もしかしたらかなり――変わっているのではないだろうか?
「――あなたもひまな人ですね」
「え?」
「どこかへ出かけたりしないんですか?」
「ああ――そんなお金もないですし」
「――なるほど」
 私が見る限りにおいてだが、この家の資産はどうやらすべて本(および、それに類する資料)に思いきりブチこまれてしまっているらしい。
「お邪魔します」
「どうぞどうぞ」
 これもたぶん誤解されている――というか、おそらく知りもしないのだろうが、イギシュタール貴族は欠乏や粗末さや粗食、卑近な言いかたをすれば貧乏ったらしいことにかなりの耐性がある。というか、ある意味鈍感といってもいい。貧乏ったらしいくらいで目くじら立てていて、宇宙に出てやっていけるか、というのが我らの、えー、民族訓とでもいえばいいのか? とにかくそういうことだ。
 とはいえもちろん、貧乏ったらしいのが好きなわけではない。当然。ただ、できるだけ気にせずにいることが出来る、というだけの話だ。
 アンツは貧乏だ、まちがいなく。
 一応家だけは自分のものらしいが、これはまあ、ボロ屋、というものの部類に入るだろう。ただ、掃除はまめにしているらしく、薄汚れた感じはまるでしない。清潔と言ってやっていいだろう。やたらとためこまれている古本の、独特の香りだけはどうしても漂ってしまっているが。
「今お茶いれますね」
「ありがとうございます」
 こいつの入れる茶はうまい。いれかたがうまいのももちろんだろうが、茶葉もけっこういいものをつかっているのだろう。妙な所に金を使うやつだ。
 考えてみれば、こいつに妙じゃないところなんてまるきりない、か。
「――唐突ですみませんが」
「はい、なんでしょう?」
「あなた、ご兄弟は?」
 と、何の気なしにたずねた私の頭には、ユーリルの顔があった。
「――いません」
 ――あ。
 なんとなく、わかった。
 私は何か、かなりまずいことを聞いてしまった。
「――そうですか」
「大げさな言いかたになりますが」
 ――あ。
 泣きだしそうな、笑い顔。
「私が一族、最後の一人です」
「――最後の?」
「おそらくは」
「――」
 結婚――もしくは子づくり――を、考えたりはしないのだろうか。
 まあ、別に――どうでもいいことではあるが。
「――そうですか」
「ええ」
 フニャフニャッ、とした、なさけない笑い顔。
「私は道楽息子なんです」
「は? あ、あなたが、道楽息子?」
「はい」
「あの――どこが、ですか?」
「一族の資産を」
 その目はどこを見ているのか。
 何かをグルリと、見まわしたように見えた。
「私一代で、すべて食いつぶしている最中です」
「なんで――そんなことを?」
「――」
 どうして私は息を飲む。
 どうして私はあとずさる。
「――私は知りたかったんです」
 こんなに静かな笑みなのに。
 どうして私は、気圧される。



(アンツ)
 きれいだなあ――と、思っていた。
 きれいだなあ――と。
 これが憧憬なのか、それとも、おこがましくも恋情なのか、は、よくはわからなかった。
 そもそもその二つが、切り離せるものなのかどうかもわからなかった。
 ただ、私は。
 彼を見つめていたかった。
「――なんでしょうか?」
「え?」
「私に何か、言いたいことでも?」
「え――いえ、別に――」
「だったらどうしてそんなにジロジロ見るんです?」
「す、すみません。その――きれいだなあ、と思って――」
「――言ったこと、ありませんでしたっけ」
 ユヴュは、うんざりしたようにため息をついた。
「私は、貴族としては、どこもかしこも十人並みです。あなたがたはどうだか知りませんが、貴族には私以上の美形なんてざらにいます」
「え――ええと――」
 そうではない。そういうことでは、ない。
 だけど、それをどう言えばいいのか、わからなかった。
「――」
 彼は、眉をひそめたまま、私のほうへ身をのりだした。
「――私が、きれい?」
「え――あ、はい――」
「――あなたはきれいじゃないですね」
「――そうですね」
 腹は立たない。立つはずもない。単なる事実だ。
「――怒らないんですか?」
「単なる事実ですから」
「なるほど」
 ユヴュは、つと手をのばし、私の顔をスイとなでた。
「地の民は――歳をとると、こういう顔になるんですね」
 どこか感心したようでさえある声に、私は思いだす。
 イギシュタール貴族は、青年期が異様に長い。数百年ある生の大半を青年の姿ですごし、老いが始まったとたんいっきに老衰して死んでいく。
 だから、イギシュタール貴族には、子供と青年と老人しかいない。私のような中年など、そもそも存在しないのだ。
 ああ――そうか。
 だから物珍しくて、かまってみもするのかもしれない。
「髪が白くなって、顔にしわがよって――体の力も衰えるんでしょう?」
「ええ、そうですよ」
「不便なものですね」
「そうですね。かも、しれません」
「それを――老い、というんでしょう?」
「ええ――そうですよ」
「――」
 再びその手が顔をかすめ、私の鼓動は早くなる。
「私達とは、ちがいますね」
「ええ――そうですね」
「体も?」
「え?」
「私、あなたの体、あまりじっくり見たことないので」
 ユヴュは、シレッとした顔で言った。
「体も、私達とはちがいますか?」
「あ――ええと――わ、私も、あなたの体、じっくり見たことは――」
 本当のことを言うと、当然、見るまでもない。ちがうに決まっている。それなのにこんなことを言う、というのはつまり、あさましくもみみっちくも、あわよくばこれがきっかけで彼の体が見られたらいいな、などと思っているからだ。私ときたらまったく、本当に、どうしようもない。
「なるほど」
 ユヴュはおかしそうに、クツクツと笑った。
「言われてみればそうでした。――ねえ」
「は、はい」
「見たい、ですか?」
「――」
 頬に血がのぼる。目がくらむ。鼓動がうるさい。
「どうして赤くなるんです?」
「す、すみません」
「見たいんですか?」
「そ、その――ええと――」
「ああ、そういえば、この前言いましたっけ」
 私は。
 からかわれているのだ。
 遊ばれているのだ。
 馬鹿にされているのだ。
 でも、別に。
 それでも、よかった。
「――お互いに、全部脱いでやってみますか?」
「――」
 頷くよりほかに。
 私はすべを知らなかった。



(ユヴュ)
 確かに地の民というものは、私達にくらべて格段にきれいではない。もちろん個体差というものがあるので、地の民の中にも目を見張るような美形がいたりもするのだろう。だが平均すれば、やはりかなりおちる。私達土地の民とのあいだに、人間の容姿に対する美意識の差はあまりない。言っちゃなんだが、私達のほうがきれいだ。地の民は――醜いとまでは言わない。ただ、きれいではない。
「――」
 目の前の男も、きれいではない。上を脱いだだけだが、私は、思春期前の子供以外であばらのういた胸というのを初めて見た。
「歳を、とると――やせるんですか?」
「やせる、というより――衰えるんでしょうね、やっぱり」
 手をのばしてさわると、くすぐったそうな顔をする。私の手に、あばら骨の感触が伝わる。
 ピクッ――と、アンツの手が動くのが見える。
「――さわりたいんですか?」
「え?」
「私の、体に」
「――いいんですか?」
「別にかまいません」
「――ありがとうございます」
 おどおどと、手がさまよう。一瞬引っ込められかけた手が、意を決したように私の胸のまんなかにあてられる。
「――冷たいですね」
「え?」
「あなたの、手」
「す、すみません」
「別に引っ込めなくてもいいです」
「で、でもあの――」
 アンツのやっている事を見て、私はあやうく吹きだしそうになった。骨ばった両手を、必死にこすりあわせ、あたためようとしている。
「何をやっているんですか、あなたは」
「その――冷たくないように、と」
「別に私は気にしません」
「あ、ありがとうございます」
 どうもさっきから、私は「別に」ばかり言っているし、こいつは「ありがとうございます」ばかり言っているような気がする。いや――今に限ったことじゃないな。こいつはいつも、いつもいつも、私に礼を言ってばかりいる。
「――」
 ふと。
 気まぐれで。
 やせた体を、抱き寄せてみる。
「――体温そのものが低いんですね、あなた」
「――」
 抱き寄せたり、口づけたり。そういうことをすると、こいつはひどく動揺する。そう、それこそ、犯されるより、もっと、ずっと。
「歳をとった、からですか?」
「そう――かも、しれません」
 本当のところ、私達だって当然歳はとる。
 ただ、衰えはしない。
 老いが始まってからは、衰える、というより、壊れる、とでもいったほうがいいほどの勢いで老衰し、死ぬ。そもそも、老いが始まる歳になる前に死ぬものも多い。
 こいつらは――地の民は――老いて、衰え、百年と持たずに死んでいく。
「――」
 だからどうした。
 それがどうした。
 そんなことは、別に。
 どうでも、いい。
「――アンツ」
「――はい」
 名を呼ぶと、腕の中の体が小さくはねる。
 食いついたというわけでもないのに、と、少しおかしくなる。
「下も――脱いで」
「――はい」
 腕の力をゆるめると、おずおずと身をはなし、もたもたと下を脱ぐ。
 私も脱ぐ。
 ――あれ?
 なんで、こいつ――。
 靴下はいたままなんだ?



(アンツ)
「お願いです――お願いですから」
 自分がひどく、みじめったらしくなさけない声をあげているということはわかっていた。
 ああ、やっぱり――と、頭のどこかで声がする。
 ああ、やっぱり。
 いつかは、ばれるんだ。
 でも、まだ。
 もしかしたら、まだ――。
「それだけは――勘弁して下さい。ほかは、その――な、なんでも、しますから――」
「――」
 ユヴュは、きょとんとした顔で私を見た。それはそうだろう。靴下に手をかけただけで悲鳴をあげられては、彼とてわけがわかるまい。
「――どうして?」
 ああ。
 ユヴュは面白がっている。
 ああ、もうすぐ。
 その顔は、嫌悪に歪むのだろうか。
「いえあのほんと、見て気持ちのいいものじゃないですし――」
 キモチワルイ。
 バケモノ。
 ウマレゾコナイ。
 ハキケガスル。
 ナンテミニクイ。
 ヨルナ。
 サワルナ。
 ひるこガウツル――。
「傷跡でもあるんですか? それとも、皮膚病?」
 ユヴュはたずねる。
 いとも無邪気に。
 そんなものより、もっと――。
 もっと、おぞましいものだ。
「ええあのああはいまあそんなようなもので、ああでもうつるわけじゃないんでそれは大丈夫――」
 どこがだ。
 何がだ。
 私は、ずっと。
 こんなもの、切り落としてしまいたかった。
「ならかまわないじゃないですか」
 い――。
 いやだ。
 イヤダ。
 イヤダ。
 イヤ――。
「ああでもほんと、ほんとに見て楽しいもんじゃないんで、ですからなにもそんなわざわざ」
 ヤメテ。
 ヤメテ。
 オネガイ、ヤメテ――。
「――あああああッ!?」
 目の前が――暗くなる。
 時が、凍る。
 ああ、やっぱり――。
 ヒルコは、ヒルコ。
 夢なんて、見ちゃいけない。
 終わった。
 終わった。
 これで――終わった。
 ああ――。
 涙も出てこないんだな。
 何も見えない。
 何も聞こえない。
 琥珀のまなざしの下にさらけ出されたのは。
 私の――異形の、両足。
 人間の足の形ではない。指はすべて一つに融合してひれか何かのようになり、形も歪み、狂っている。
 私は――『ツキのヒルコ』。
 ほんとは死ぬはずだったのに。
 死なずにすんだ、異形の子。
「――」
 ああ――静かだなあ。
 ゆっくりと、視力が戻ってくる。
 ユヴュは。
 少し困ったような――少し、当惑したような顔をしていた。
「わ――わた――私の、家は――」
 ああ――私は。
 馬鹿だなあ。
 みじめだなあ。
 みっともないなあ。
 まだ――なんとかなると思っているのだろうか、私は。
 ああ――私の口が動いて。
 声が、言葉が流れ出す。
「な、なぜか、その――『ツキのヒルコ』が出やすくて――わ――私も、ふ――普通だったら、『ツキの船』に乗せられるか、『乳の川』のほとりに捨てられるかしていたのかもしれませんが――わ、私が、一番――こ、これでも、症状の軽いほうだったんで――」
「――あなたは何を言い訳しているんです?」
 穏やかでさえある声が、私をうちのめす。
「す――すみませ――」
「貴族はこんなもの、見たことがないとでも思いました?」
 とても静かなその声が、うたれた心にしみとおる。
「貴族に『ツキのヒルコ』は生まれないとでも? とんでもない。ただ、みんな――『ツキノヒト』にしてしまうだけのことですよ。」
 その声は、静かに。
 そのまなざしは、やわらかく。
 私のことを、包むから。
 私は信じてしまいそうになる。
 まだ――終わってはいないのかもしれない、などと。
「あなただって――いや、あなたでは、『ツキノヒト』にもなれないな。こんなの――この程度、私たちのあいだだったら、子供のうちに、手術できれいになおしてしまいます。――こんなの、なおせるんですよ、なおそうと思えば」
「え――」
 ああ――どうしよう。
 私はとても、馬鹿だから。
 つい――夢見てしまう。
 まだ終わってはいない――と。
「でも――別にこのままでもいいんじゃありませんか?」
「え?」
 な――なに――。
 なにを。
 ナニヲ。
 アナタハ、ナニヲイッテイルノ?
 アナタハ、ナントイッテクレタノ?
「あなたは本当に、チビで、地味で、パッとしない人ですからね」
 ぶっきらぼうな、その声は。
「せめてこの程度の特徴があってくれないと、いざというとき、探しようがなくて困ります。手がかりが皆無になってしまうじゃないですか、どこもかしこも普通になってしまったら」
 私にとっては――天上の音楽だった。
「――」
 ああ。
 涙が――流れる。
 悲しいんじゃない。
 苦しいんじゃない。
 くやしいんじゃない。
 私は、今――。
 うれしくて、うれしすぎて、泣いている。涙を流している。
「――」
 ぼやけた視界の中で、ユヴュはやっぱり、少し困ったような、少し当惑したような顔をしている。
 それはそうだろうなあ。私に泣かれたって困るだろうし、私の泣き顔なんて、ただみっともないだけだろう。
 だから。
 私は――笑った。涙はとまらなかったけど、それでも笑った。
 伝えたくて。
 うれしいんだと伝えたくて。幸せなんだと伝えたくて。ありがとうと言いたくて、でも言葉にならなかったから。
 だから――笑った。伝わるかどうかわからなかったけど、それでも、笑った。
「――」
 とても静かに手がのびて、私の体を抱き寄せる。
 もしかしたら、私は――夢を、見ているのかもしれない。
 どうしてこんな、私にとって都合のいい事ばかり起こるんだろう。
「ユ――ユヴュ、さん?」
「――なんですか?」
「わ、私――私、あの――」
「なんですか?」
「ど――どうして?」
「は? ――なにが?」
「わ――私、あの――『ツキのヒルコ』――」
「だから?」
「――」
 また――涙が、あふれた。
「――まったく」
 ユヴュは眉をひそめ。
「あなたという人ときたら、まったく――」
 噛みつくように、私に口づけた。
「――」
 胸が痛い。
 胸が痛い。
 もしも願いがかなうなら。
 時よとまれ、いかにもおまえは美しい。
 いや、もう、とっくに――。
 願いは、かなっていた。
 引き裂くように抱かれようと、老い衰えた体がきしみ、壊れかけて悲鳴をあげようとも。
 いったいそれがなんだというのだろう?
 噛みつくように口づけられ、老いた体を捩じ曲げられ、引き裂くようにあなたに抱かれ。
 体は悲鳴をあげていて、私は逆に、ほっとする。
 それでも覚めないものならば、それではきっと、夢ではない。
 これは、夢ではない。

 私はあなたに抱かれている。
 私は『ツキのヒルコ』なのに。
 あなたはそれを知っているのに。
 私は老いて、衰えて、美しくはなく、美しかったことなど一度もなく、あなたは若く、美しく、私が死んでも老いず、衰えず――。
 胸が痛い。
 胸が痛い。
 幸せなのに、胸が痛い。
「あ、あ、あ、あ――」
 口からよだれがたれている――などという、どうでもいいことが妙に気になる。涙もとまらないし、鼻もたれてきているし、ひどい顔だろうなあ――と、他人事のように思う。
「ヒ――」
 動きが激しくなり、息がとまる。
「――ンツ」
 ――え?
 まさか、今のは――。
 私の――名前!?
「――」
 唇を動かす。
 声にする、勇気はなく。
 ただ唇を動かして。
 あなたの、名をつづる。
「――馬鹿ですね、あなたは」
 楽しげな笑いを含んだ声には、たぶん、残酷という色も共に含まれているのだろう。
「まだ――終わりじゃ、ありませんよ?」
「――」
 私は――笑った。
 もしかしたら。
 私は――ずっと、笑っていたのかもしれない。
「――」
 あ。
 あなたは眉をひそめる。
 ああ――ごめんなさい。
 変ですよね。
 おかしいですよね。
 こんなときに笑われたって困りますよね。
 でも、それでも。
「――馬鹿ですね、あなたは」
 あなたは、また――私を、抱いてくれた。



(ユヴュ)
「――」
 壊してしまったかな――と、思った。
 さすがにやりすぎたかな、とも。
 ――ええと。
 なんでこんなことになったんだ?
 涙を見ると興奮する性癖、というのははたして存在するのだろうか、と、しばし頭をかかえる。
 この馬鹿はまちがいなく極度の被虐趣味者(マゾヒスト)だと思う。
 では私は加虐趣味者(サディスト)か?
 ――その傾向は、ある、かもな。
 ええと――どうしよう。
 血が出ているのはまずいだろうし、これだけいろいろふいたりいじくったり薬を塗ったりしてもぐったりしたまま、というのもやっぱりまずいだろう。
 ……ようやっと、実感したような気がする。
 地の民は、私達より――ずっと、脆い。
 それとも。
 それともこいつが老いているから?
 だからこんなに、脆いのか?
 ――もしかしたら、それは、同じことなのかもしれない。
 私達は――老いを知らぬ民。
 知るひまもなく、死んでいく民。
「――」
 ギクリ、とした。
 いつのまにか。
 アンツの目が、開いていた。
「あ――目が覚めました、か?」
 わずかに声がうわずり、ひどくいらいらする。
 私は、こんなやつ相手に、動揺などしたくない。
「――はい」
 かすれた声。まだどこか、焦点のあわぬまなざし。
「――大丈夫、ですか?」
「――はい」
 ……大丈夫に見えないんだが。
「――あれ?」
 アンツが、パチパチと目をしばたたく。
「あ、れ――? 私、あの――体、あれ――きれ、い――?」
「――あなたは汚れるのが嫌いなようなので」
「え――? え!? ま、まさか、まさか、あのッ!?」
 ――私、何かそんな変なこと言ったか?
「ま、ま、まさか――ユ、ユヴュさんが、あ、あの、その、後の始末を――」
「いけませんでしたか?」
「――!?」
 こいつ、あごがはずれたんじゃないか?
「いや――だって」
 つられて私もうろたえる。
「あなた、汚れるの嫌いでしょう?」
「――私が汚れるのは、どうでもいいんです」
 アンツの目は――奇妙に、うるんでいた。
「あなたが汚れるのがいやなんです」
「――?」
 なんだかよくわからない。私が汚れるのがいや、って――なんなんだ、まったく?
「――私は別に、汚れてはいませんし――汚れたら、きれいにすればいいだけの話でしょう?」
「――」
 ――ちがうんだろうか。
「――ありがとう、ございます」
「は?」
 いきなり礼を言われたって困る。
「――なんのことか、よくわかりません」
「――うれしかったんです」
「なにが?」
「――」
 なに赤くなってるんだ、おい?
「――うれしかったんです」
「――はあ、そうですか」
 こいつはやっぱり、おかしなやつだ。
「――あの」
「はい?」
「今、あの――私、どのくらい寝てました?」
 あれは、寝るというより気絶だと思うが。
「さあ――そんなにたいした時間じゃないですよ」
「すみません、ご面倒おかけして」
「別にそれほどでも」
「――あの」
「はい?」
「ええと――お茶でも――」
「――」
 軽くめまいがした。あれか、なにか、こいつらの文化では、客にどれだけ茶を飲ませるかがもてなしの基準になっていたりするわけか!?
「いりません」
「あ――そうですか。その――すみません」
「――」
 ふと。
 なぜだか。
 なぜだか――ふと。
 奇妙なことを思う。
 もしかしたら。
 もしかしたら、こいつは――知らないんじゃないか?
 茶を出すよりほか、客のもてなしかたを知らないんじゃないか?
「――」
 なぜだか私は手をのばし。
 私はアンツの頭をなでる。
 ユーリルにするように――とは、少しちがう。
 もう少し――もう少しだけ、ゆっくりと。
「――」
 アンツは、泣きそうな顔で私を見た。
「――これから帰るのも面倒なので」
 私はなぜだか、奇妙なことを言っている。
「泊まっていっても、いいですか?」
「――」
 あれ、まずかったのか?
「はい――はい、もちろん」
「――どうも」
「あ、じゃあ私、今どきますから」
「は? ――なんで?」
「いや、あの――狭いでしょう、二人じゃ?」
「で、あなたはどこで寝るんです?」
「はあ、床で」
「……やめて下さい。私がいじめてるみたいじゃないですか」
「え、いえ、そんなことは――」
「私の気にさわりますんでやめて下さい」
「す、すみません」
「――まったく」
 私は深々とため息をつく。
「馬鹿ですね、あなたは」
「――」
 まただ。
 また――こいつは、笑う。
 うれしそうに。
 楽しそうに。
 幸せそうに。
 ――なんでだ?
 なんで?
 私は、こいつの喜ぶようなことなど何もしていない。
 私は、こいつに。
 やさしくなんか、していない。

スコティッシュフォールドのいましめ

(アンツ)
「私達には『スコティッシュフォールドのいましめ』というものがあります」
「すこてぃっしゅ――?」
「ご存知ありませんか?」
「ええと――地名か何かですか?」
「いえ、昔いたという、猫の種類の名です。今もいるかどうかは知りませんが」
「猫――ですか?」
「ええ。まあ、珍種の部類に入るでしょうね。突然変異によって、その何割かがこう――耳がペタンと寝た状態で生まれてくるんです。たれ耳、とでもいうんですか? そういった猫は普通の猫とはちがい、頭のシルエットはまんまるになる。その珍しさと姿の愛らしさから、珍重されたそうですよ」
「なるほど――」
 いつものことながら、私は深く感心する。貴族のかたがたは、なんと詳しく昔のことを覚えているのだろう。
 そして、なぜわれわれは、何もかもを忘れ去ってしまったのだろう。
「ただ――その突然変異には、大きな陥穽がありました」
「え――?」
「耳はなぜたれたんだと思います?」
「え? さ、さあ――」
「軟骨の形成不全がその原因です。つまり――一種の遺伝病の結果に他ならない。まあ、珍種などというものは、多かれ少なかれ、奇形の固定でしかないんでしょうが、ね」
「――」
 胸が――痛い。
 私のことを言っているんじゃない。
 でも――痛い。
「まあもっとも、すべてのたれ耳に病の害が出るわけじゃない。それじゃあんまりひどすぎます。あるいましめさえ守れば、たれ耳でも病に苦しまなくてすむ」
「そのいましめとは――?」
「実に簡単なことですよ」
「どんなことでしょう?」
 いつものように、私は話に引き込まれる。
「誰が聞いても誤解のしようのないいましめです。すなわち――『たれ耳の猫同士を、けっしてかけあわせてはならない』たれ耳とたれ耳だけは、絶対につがわせてはならない。それさえ守れば、病に苦しむ子猫など、生まれてはきません」
「ま――守らないと、どうなるんです?」
「生まれてくる子猫のおよそ3分の1ほどに――ひどい症状が現れる。骨瘤――といいましてね、年をおうごとに、体中の骨が――いびつに変形していく。もちろん動きも不自由になるし、何しろ骨が歪むんです。激しい痛みに泣き叫ぶ」
「そんな――ひどい――あ、で、でも、どうすればそうならないか、は、もうわかっているんですもんね。だったら――」
「ところが」
 ユヴュの声が冷える。
「普通の耳とたれ耳、という組み合わせでは――あまりたれ耳が生まれてこない」
「え――?」
「たれ耳は珍重される、と言ったでしょう? 逆に言えば――普通の耳では意味がない。たれ耳でないスコティッシュフォールドは、普通の猫と大差ありません。だから高くは売れない。大してたれ耳は――実にいい値段がつく」
「まさか――」
「たれ耳とたれ耳をつがわせれば、9割以上の子猫がたれ耳になる。もちろんその3分の1は病に苦しむわけですが、生まれたてや子猫の時では、パッと見ただけでそんなことはわかりはしない。だから、悪意からにせよ、単なる無知からにせよ――いましめは、破られつづけた」
「――それは――」
「私達も、スコティッシュフォールドと同じです」
「え――?」
「私達は、人の手により創られた種族。――人の手による、異形です。そのせい、だけでもないんでしょうが、私たちの血筋にも――致命的な組み合わせ、というものがある。――私達は、猫とはちがいますからね」
 口元をかすめた、あれは、笑み――だろうか?
「自らの手で、血をつなぎ、危険を回避することが出来る。でも――危険を避けることは出来ても、危険となる、その原因を取り除くことは、出来ない。障害を避けることは出来ても、取り除くことは出来ないんです。――だから」
 ユヴュが大きく、息をつく。
「私達は――恋愛と生殖を切り離す」
「え――?」
「あたりまえでしょう? 自分達がなにをすれば子供が病に苦しむことになるか、が、すでにわかっているんですよ? その重荷を、どうして未来に押し付けられます? だから、私達のあいだでは、愛しているからこそ子供をつくらない、なんていうことはざらにある」
「な――なるほど――」
「だからといって、生殖をしないわけにもいきませんからね。そこはそれ――それぞれまったく別のものとして、なんとかやりくりしています。しかしまあ、たいていはそれなりにうまくいきますよ。あなたがたには――」
 ユヴュは不敵に、ニヤリと笑った。
「奇妙に見えているようですがね」
「は――はあ――」
「まあ、私のようなスペアは、そちら方面でもわりあいと気楽なものですがね」
 ユヴュの笑みに、わずかに自嘲の色が混ざったようだった。
「――『スコティッシュフォールドのいましめ』は、略して『スコのいましめ』とも言われています」
 わずかな沈黙ののち、ユヴュはとってつけたように言った。
「すこ――?」
 なんだかこう、言葉の響きがかわいい。
「――やっぱり、略すと重みがなくなりますよね」
 ユヴュはぶつぶつと言った。
「しかし『スコティッシュフォールド』というのは、いかにも長ったらしい」
「はあ――まったく」
 口元が、自然とゆるんでしまう。
 ああ――かわいいなあ、本当に。
「――いましめを守っても『ツキノヒト』は生まれてきますがね」
 ユヴュの目が、一瞬鋭くなる。
「しかし私達は、彼らのことを『ヒルコ』と呼んだり、川に流してしまったりはしませんよ」
「――」
 何も言えなかった。
 そのとおりだからだ。
 私はぼんやりと。
『ツキノヒト』達は、幸せなんだろうか――と、思った。



(ユヴュ)
 いったいどうして、あんな話になったのか。
 きっかけは忘れたが。
 気がついたら、いつものように、私の眼前で、アンツがメモをとっていた。
 ずいぶん長いことメモの上にかがみこんでいたから、さすがに何を書いているのか気になりだしたとたん、アンツがヒョイと顔をあげた。
「ええと――こんな感じですかね?」
「え?」
 メモ帳には、へたくそな、耳のないまるまっちい猫の絵が。
 絵の下に一行『スコティッシュフォールド想像図』。
 私は思わず、フンと鼻を鳴らす。
「まあ、写真ではだいたいそんな感じでしたよ」
「なるほど。確かに珍しい猫ですね、うん」
「実物を見た事はありませんが」
「なるほど――」
 しきりと感心する顔を、何とはなしに見つめていたら、なぜだか不意に、アンツが息を飲む。
「――どうかしましたか?」
「あ、その――なにか御用ですか?」
「いえ、別に」
「あ――そうですか――」
「――」
「――」
 わずかに頬を染めて目を伏せるのを見て、ようやっと、どういうことになっているんだかなんとなくわかる。
 ああ――馬鹿馬鹿しい。
 犯そうが痛めつけようが、こたえるどころかにこにこしながら礼を言いかねないような相手を、いったいどうしてやればいいっていうんだ?
「――耳がたれていないスコティッシュフォールドもいます」
「ああ、はい、うかがいました」
「こんなです」
 単なる場つなぎで、適当にメモ帳に描いてやる。
「――もともとまるっこい猫なんですよ、スコティッシュフォールドっていうのは」
「かわいいですねえ」
「猫、好きなんですか?」
「ええまあ、わりと」
「――人の手が加わると、様々な変異が短期間で固定されます」
 あたふたとアンツがメモをとる。別にたいして重要なことを言っているわけでもないんだが。
「人為操作は、進化を加速させる」
 なんとなく、私は話をつづける。
「非常に乱暴な言い方ですが、そう言ってしまってもいいでしょう」
「はい」
「スコティッシュフォールドの例でもわかるとおり――」
 サリサリと、ペンが紙をひっかく音。
「進化とは別段、改良でも改善でも前進でもありません」
「え――?」
「わかりませんか? スコティッシュフォールドというのは、明らかに生存には不利な突然変異が、たまたま人間に気に入られたからこそ生きながらえることのできた種族です」
「ええ、でもそれは、人間の介入があったからこそで、やはり自然界では――」
「どこがちがうんです?」
「え?」
「たまたま人間に気に入られるのと、たまたま自然環境に適応するのとでは、いったいどこがどうちがうんです?」
「え、それは――意思の有無、とか――」
「なるほど、では、その『意思』とはいったい、何をするんです?」
「それはもちろん、生存に不利な変異種が、ながらえることのできるように保護するんですよ」
「では重要なのは『保護する』ということ、言い換えれば『不利を有利に変える』ということでよろしいでしょうか?」
「ええと――はい、それでいいと思います。そうですね。遺伝病を併発する変異というのは、野生で生きるためには不利な要因です。でも、その変異から来る特殊な姿かたちを珍重して、人間が保護してくれるようになるのは、生きるのに有利ということになる。なるほど――」
「わかりませんか?」
「え?」
「わかりませんか?」
 私は、少しだけじらす。
「環境の変化――大変動――は、有利と不利をひっくりかえしてしまうことが往々にしてあります。水中の王者は、水がなければ生きることは出来ませんし、温暖な気候に適応して繁栄した種は、寒波にあったらなすすべもなく死に絶えたりもします。そうしてかつての王者が死に絶えた後に、今までは見向きもされなかった弱小種族が新たに繁栄する」
「え――あ! な、なるほど――」
「だから、結局」
 そう、結局。
「有利も不利も、前進も後退も――誰にも判断できないんですよ。今現在有利か不利か、なら、なんとか判断できるかもしれない。しかし、将来どうなるか、は――誰にも決して、わからない。進化とは、本当は、絶え間のない変化に他ならない」
「進化は――変化――」
「それくらい、わかっていると思っていましたがね」
 私は肩をすくめる。
「あの本で、あれだけ大きな事を書いているんですから」
「い、いや、それは、その――」
 赤い顔で、アンツが照れ笑いをする。
「どうも、お恥ずかしい限りです。いや、その――あれは結局、私個人の勝手な憶測にすぎませんので、やはり他の人からのそういう意見は格別、といいましょうか――」
「そのわりには、ずいぶんと自信ありげな書きぶりでしたが」
「いやその――私、文章だと、どうしてもその、必要以上につっぱらかってしまう、といいましょうか――もう少し謙虚に書けばよかったですね、はい」
「――」
 そう――なんとなく、不思議な気がする。普段のこいつは、とろくてすっとぼけててすっとんきょうで、威厳も何もあったもんじゃないが、論文の中のこいつは、信念と情熱とに満ちあふれた、いっぱしの学究に他ならない。
「――いいんじゃないですか、あれで。あなたの普段の調子で書かれた日には、どう見たって手の込んだ冗談としか思えませんからね」
「あはは――そうですねえ、確かに」
 それは、なんというか、本当にフニャリとした、のどかとしか言いようのない笑いで。
 なんだかいらいらする。
 どうして怒らないんだ、こいつは?
「――あなたはおかしな人ですね」
「そうですねえ」
 だから。
 どうしてそこで、受け入れるんだ、おまえは?
 どうして反論しないんだ?
 反論されれば、反論で返せるのに。
 受け入れられてしまったら。
 どう返せばいいというのだ、私は?
 何かをぶつければ、壁から跳ね返ってくる。
 いつだって、そんなやり取りになると思っているのに。
 実際には。
 何かをぶつけると――底の見えない水の中に飲み込まれる。
「――また、何か書くんですか?」
「え?」
「あの本のようなものを――また、つくるんですか?」
「ええ、できれば」
 はにかんだような、笑み。
 時々、こいつの歳がわからなくなる。
 私より年上ではある――と、思う。いくら地の民が早く老けるといったって、私だってまだ、成長期を終えて安定期に入ったばかりだ。年上だろう、さすがに。
 こいつも、私のことを年下、と思っているようだ。私たちの年齢は、成長期の子供以外では、外見からは非常にわかりにくいはずなのだが、なぜだろう。私、こいつに年齢を教えたりしただろうか? 態度やらなにやらからそう判断されているのだとしたら、かなりしゃくにさわる。それとも、こんな酔狂なことをするのは余程の馬鹿か変人か、何もわかっていない若造しかいないということからそう判断されているのだろうか。それはそれでむかつく。きっと私、覚えていないがいつか年を教えたことがあるのだ。そういうことにしておこう。
 それはさておき。
 仮にも私より年上であるはずのこいつが。
 こんなにも無邪気な顔をしても、いいのだろうか、いったい?
「――どうか、しましたか?」
「別に何も。――そうですか。書きますか、また」
「ええ、でも」
「でも?」
「次の論文は、私一人のものではないですけど」
「は?」
「だって、次の論文は、ユヴュさんのご協力のおかげで書くことの出来たところが、半分以上になるでしょうから」
「――」
 馬鹿だ、こいつは。
「――そんなこともないでしょう、別に」
「そんなことも、ありますよ」
 おやおや、反論とはまた珍しい。
「私一人では、あの本しか書けませんでしたよ」
「もう次回作を書きはじめているんですか?」
「え、いえ、その、あの」
 いちいち照れるな、気色悪い。
「ま、まだ、下書きにもなっていない段階ですが」
「そうですか」
 別に興味もないが、一応聞いてみる。
「テーマは、なんです?」
「そうですねえ――」
 その時、なぜだか。
 鼓動一拍分だけ、時が飛んだ気がした。
 今のは――なんだ?
 私は――何を感じた?
 見つめていたのは――アンツの、両目。
 その目の中に――何が、あった?
「記憶と記録について――でしょうか」
「記憶と――記録?」
「まだ、うまく表現できるような形にまでまとまっていないんですが」
「それではまとまってからおうかがいすることにしましょう」
「はい」
 アンツはにこりと笑い、ポツリと言う。
「ただ――私は、思うんですよ」
「――何を、ですか?」
「私達――地の民達は、なぜ何もかもを忘れ去ってしまったのだろうか――と」
「――おかしなものですね、まったく」
 なぜともなく――腹が、立った。
「あなたがたのほうが、あなたがたのほうこそ、記憶も記録も、ずっと多く持っていてしかるべきなのに。私達、イギシュタール貴族は――新しい、民だ。私達の先祖を創ったのは、あなた達の先祖――でしょう?」
「ええ――そう、聞いています」
「私達は、あなたたちから何も奪ったりはしていませんよ。記憶も、記録も」
「ええ。――わかっています」
「あなた達も、奪ってはいませんが――ただ」
 私はなぜ――こんなことを話しているのだろう?
「――いろいろと押しつけてはくれましたけどね」
「――わかっています。――申しわけありません」
「――あなたに謝られたところで、なんにもなりはしませんよ」
「――そうですね」
 珍しいことが続くな。
 こいつの顔が、暗い。
「――大丈夫ですよ」
 あれ。
 私はなぜ――こんなことを言うのだろう。
「私のようなひねくれ者くらいですよ、そんな、押しつけられただのなんだのとやかく言うのは。皆は――私達、イギシュタール貴族にとっては、おのれの義務を果たすことこそが生きがいで、生きる理由なんです。あなたがたが生産面を支えてくれる限り、私達だって課せられた務めを果たし続ける。――お互いさまです。それだけのことです」
 そう――それだけの、ことだ。
 それだけの。
「それでも――ありがとう、ございます」
「――」
 どうこたえればいいのだろう、私は。
「――別に」
 そっけなく返す。正しくはないかもしれないが、まちがってもいないだろう、たぶん。
「――」
 どうしたというのだろう。
 なぜ、そんな目で私を見つめ続けるんだ、こいつは。
 そんな――熱にうかされたような目で。
「――どうか、しましたか?」
「あなた――あなた達は」
 胸を何かが刺す。
 痛くはない。
 ただ――衝撃は、感じた。
「私達より――先に進んでいくんですね」
「そう創ったのは、あなた達――じゃなくて、あなた達の、先祖達、でしたか」
 さらにつけ加えれば、先祖全員に責任があるというわけでもないのだろう。それとも、あるのか?
「――そうですね。――そうでした」
 私達は。
 若き民。
 創られし民。
 人にありて人にはあらず。
 今はまだ、貴族と平民、すなわち地の民達との混血は可能だ。
 だが――ちがう。
 血が、ちがう。
 こいつは――アンツは、百年ともたずに死ぬだろう。
 だが、私はきっと、百年をいくつか重ねる生を生きるのだろう。
 私は、なぜ、こんなことを思うのか。
「――」
「――」
 なぜだか見つめあっている。
 なぜだか私は席を立つ。
 なぜだかわからないままに。
 私の片手はのびている。
 肩をつかんで、のぞきこむ。
 なぜだかアンツは、目を閉じる。
 なぜだかわからないままに。
 体の一部が、混ざりあう。



(アンツ)
「――邪魔ですね」
 と言われ、眼鏡をはずされた。
 そして、また、深々と口づけられた。
 舌は、やわらかくて気持ちがよかった。
 そのまま押し倒されそうになり、少しあわてる。
「あ、あの――ここでは、ちょっと――」
「いやですか?」
「床の上だと、その――体が痛いので――」
「――痛いのが好きなんじゃないんですか?」
「いや、痛いのは好きじゃないです」
 何かとんでもない誤解をされているような気がする。
「……ふーん」
 いぶかしげに見つめられる。
 私のほうから口づけてみたい。
 でも、そんなこと、してもいいんだろうか。
「眼鏡なしでも私の顔わかりますか?」
「え? ああ、ええ。別に、はずしたら何も見えなくなるほど悪いわけじゃないです」
「そうですか」
 それはまあ、ぼやけはするが。しかし別段その――眼鏡なしではこういうことをするにあたって支障が出るというほど悪いわけではない。
「さて、ここがいやだというなら、場所を変えましょうか」
「え? あ、ああ、はい」
 スタスタと歩き出す背中を追いかける。
 クルリとユヴュがふりむく。
「――ついてくるんですね」
「は? ええ、それはもちろん」
「――おかしな人だ」
「場所を変えて欲しい、と言ったのは、そもそも私のほうですし」
「そうですね。そうでした」
 あっさり言ってまた歩き出す。と、いっても、私の家はもともとそう広いわけでもない。ほどもなく、寝室につく。
 入口で、少しためらう。いまさらながら、やはり、照れる。

「――どうかしましたか?」
「い、いえ、別に、何も」
「――?」
 いぶかしげに首を傾げる姿が好きだ。
 澄んだ琥珀の目が好きだ。
 言葉を紡ぎ、私に触れる唇が好きだ。
 ユヴュはベッドに腰かけて、つと私を見上げる。
 彼のほうが、私より頭一つ――まではいかないにしろ、確実に頭半分以上は背が高い。
 だから私は、いつも彼を見上げるばかりで、だからこんなふうに不意に見上げられたりすると、胸が騒ぐ。
 金茶のくせっ毛にさわってみたい。ふわふわとやわらかそうな髪を、両手の指で梳きながらクシャクシャにしてみたい。
 ――そんなだいそれたことを望んではいけないのだろうな、きっと。
「――痛いのは、嫌いなんでしたっけ?」
「あ、はあ――それは、まあ――」
「じゃ」
 ユヴュはニヤリと、ポケットに手を突っ込む。
「これ、使ってみます?」
 手の平の上には、小さな平たい缶。
「傷薬、ですけどね。そういうことにも、使えると思いますよ」
「あ――はい。ありがとうございます」
「――」
 笑われてしまった。
 でも、まあ――いいか、別に。
 彼には笑っていて欲しい。
 彼の笑顔が、私は好きだ。
「それじゃあ塗ってあげますから」
「あ、どうも――えええええッ!?」
「どうかしましたか?」
「あ、いや、その、じ、自分でやります、自分で!」
「自分で?」
 まずい。
 鈍感な私でさえわかる、面白そうなことを見つけた、と言っているも同然の、その目の輝き。
「自分じゃやりにくいでしょう?」
「い、いや、できます、できますから!」
「別にそんなに遠慮なさらなくても」
「あ――で、でもその、でもあの――そんなことさせちゃ悪いですし――」
「どうして?」
「いや――だって、その――」
「痛いの嫌いなんでしょう? それともやっぱり、ほんとは痛いのが好きなんですか?」
「それは――痛いのは、嫌いですが――」
「でしょう?」
 軽やかな笑い声。軽やかな身のこなし。私はなすすべなく、ベッドに放りこまれる。
「だったらどうしていやがるんです?」
「それは、その――」
「おかしな人だ」
 楽しげな笑い声。私にじゃれつく体。私の髪をかきまわす形のよい指。
 ああ、まるで――。
 本当に好きあっているものどうしの睦言のようだ。
「ほんとはしたくないんですか?」
「い、いえ、ちがいます」
「どうちがうんです?」
「それは――」
 顔が近い。
 息がかかる。
「し――したい、です、私――」
「何を?」
「え――」
「ねえ――何を?」
 笑い声が、耳をうつ。
 少しだけ、泣きたくなる。
 悲しいんじゃない。
 けれども――切ない。
 あなたは私に、とてもやさしい。
 でも。
 ああ、でも――。
「あ、の――ぬ――塗って、くれます、か――?」
「そうですね」
 わずかに漏れる、のどの奥からの笑い声を聞いている。
「いいですよ」
「――ありがとう、ございます」
「それじゃあ、脱いで下さい」
「――」
 なんだかのどがつまってしまって、ただ頷いた。
 彼は楽しそうなので、それはよかったと思う。
 私は――楽しいというわけではない、が。
 しかし、やめるつもりはないし、いやだというわけでも、ないのだ。
 ひどく、恥ずかしくはあるのだが。
「――足」
「え?」
「ちゃんと開いてくれないと」
「――はい」
 顔が熱い。
 体が熱い。
「ちょっとやりにくい――足、持っててくれます、自分で?」
「え?」
「ほら」
 足をつかまれ、体を折られる。
「この格好のまんま、自分の手で支えていて下さい」
「――」
 少しめまいがした。
 初めて逃げ出したくなった。
 状況に突き飛ばされ、流されているのは別に苦にもならなかったが、自分の手で、自分の意思でこんなあられもない格好をしているのかと思うと、息がとまりそうだった。
「――痛くはしませんよ。――しないつもりです、できるだけ」
「――はい」
 つぅっ――と、指がふちをなぞる。
「――なんでこんなことをしているんでしょうね、私――私達」
「そ――ですね。どして――でしょう?」
 私はあなたにつけこんでいる。
 気の迷いを、最大限に利用している。
 不思議そうな瞳で見つめられても、私は答えられない。
 ずっととまどっていてほしい。
 迷いが消えたら、何かが終わる。
「――痛くないですか?」
「――はい」
 入れられているのは、たぶん、指一本。あまりよくは見えない。わざわざ見えるように努力するつもりもない。
「あの――もう、いい、ですよ?」
「――本当に?」
「た――たぶん」
 塗るには塗れただろう、一応。
「――」
 おそらく、私がこういう時、何を、どう、どこまですればいいのかまるでわかっていないのと同様に、彼も基準と加減がよくわからないのだろう。
「――痛くは、ない?」
「――はい」
 痛くはないぶん、恥ずかしい。
 でも、うれしい。
 やっぱり――あなたはやさしい人だ。
「――ここ」
「え――ッ!?」
 問い返そうとした声が、悲鳴になった。
 痛くはない――が、声をとめられなかった。
「――ほかと感触がちがうんですよね」
 その声は、確かに、笑いを含んでいたようだった。



(ユヴュ)
「――痛くはないですよね」
「あ――はい」
「じゃあ、大丈夫ですよね」
「――」
 ひどく困ったような、焦りさえをも含んだ顔で、じっと見つめられる。
 とても、楽しかった。
「――いやなんですか?」
「――」
 何かをふりはらうかのように、かぶりがふられる。
 ああ。
 初めての時、ただやみくもにねじ伏せて突っ込んだ時よりも。
 今のほうがずっと――犯している、気がする。
「――あれ」
 半ば本気で意外だった。
「――たってきた」
「あ――あのっ!」
「はい?」
「う――す、すみません――」
「別に謝ることはないです」
 私はとても、楽しいから。
「そういうふうになるようなことをしているんですから」
「――あ、あの――」
「はい?」
「もう、あの――塗らなくて、いいですから――」
「――」
 ああ。
 そういえば、膏薬を塗っていたんだっけ。
 ちょっと、おしい気がする。
 せっかく楽しいのに。
「――どうしてほしいんですか?」
「――」
 大きく見開かれた両目を見て、なんだか奇妙な気分になる。
 きつく抱きしめてみたい。
 思い切り口を吸ってみたい。
 また、突っ込んでやりたい。
 どれも簡単にできることで、だから、答えを待たずにそうした。
 首に腕がまわされるのを、初めて感じた。今までも、そういうふうにされていたのかもしれないが、気にしていなかったのでわからなかった。今までこういうことをした時は、いらいらして頭に血がのぼって、余裕がなかったからというせいもある。
 今は――ちょっと、楽しかった。
「――上も脱いだほうがよかったですかね?」
「ん――」
 せっかくからかってやったのに、よく聞こえていないらしい。つまらん。
 気持ちがいい――の、だろうか? 痛がっているわけでは、ないようだが。
 私は気持ちがいい。
 私達イギシュタール貴族に、同性愛の禁忌(タブー)はない。何をどうやっても子供が出来ないのだ。遺伝子プールへの影響は皆無。個人の好きにすればいい。地の民達がどうなのかはよく知らない。こいつの反応を見るに、禁忌(タブー)はあるにせよ、生きるの死ぬのというほど深刻なものではない――というところか?
「――ッ」
 急に、腕の中の体がこわばる。
 そして、逃げ出そうとする。
「え? い、痛いんで――」
「よ――汚す――汚すから――ッ!」
「え――」
 一瞬わからず、急に思い当たる。
 ああ、イきそうなのか。
「――うるさい」
「え――」
「私ももうすぐなんだから、邪魔しないで下さい」
「だ――だめッ! だって、ふ、服――!」
「うるさい」
 どうもこいつのこだわりはよくわからない。なんでそんなことがそんなに気になるんだか。やっぱり今度は、全部脱いでやることにしようか。なんだか服が邪魔なような気もするし。服がなくなったら、こいつ、次はどういうんだろう?
「服はどうでもいい」
 言い捨てて、思いきり動く。
 やっぱり服が邪魔だった。



(アンツ)
 もう――泣きたかった。
 まさかこの歳で、その――ろくにさわられもせずに、あんなことになるとは思わなかった。
 ――たぶん、慣れていないから、過剰に反応してしまうのだろう。
 私はおそらく――女性に対しては、半ば不能だ。若いころ、ほんの数えるほどだが、そういう場所に行ってみたことがある。
 わかりたくもないことがわかった。
 私は、女性の体内で射精をすることが出来ない。
 それ以外の方法なら――なんとかなる。だが、いわゆる――本番、は、無理だ。
 ――怖いのだ。
 子供が、できるのが。
 新しい『ツキのヒルコ』が生まれてくるのが。
 といって、それ以上――つまり男を、同性を、ためしてみるという気にもなれなかった。幸いにして、というか、性欲はあまり強いほうではない――と、思う。出来ないなら出来ないで、それなりになんとかなってきた。
 けれどもやはり、私は誰かとふれあいたかったのだろう。
「あの――汚しましたか、やっぱり?」
「――なんでそんなどうでもいいことを、そんなに気にするんです?」
「え――え、と――」
 あらためてそう問われると、なぜそんなことにこだわっているのかよくわからない。とりあえず、彼は、まるで気にしていないらしい。
「痛くはなかったようですね」
「――」
 照れてしまって、ただ頷く。もう一度だけ、口づけてほしい――と思ったが、もちろん口には出さなかった。
「――」
「――あの」
 照れ隠しもかねて、声をかける。
「はい?」
「お茶でも、飲みます?」
「……」
 ヒクッ、と片頬がひきつる。う、まずかったのか、今の発言?
「……あなたはどうしてそんなに私にお茶を飲ませたがるんです?」
「あ――お茶、お嫌いですか?」
「いえ、好きですが」
「あ、はあ――」
「――いただきます」
「え?」
「お茶」
「あ、は、はい。今いれてきます」
 とにもかくにも。
 私にも何か、出来ることがあるというのがうれしかった。



(ユヴュ)
 ……なんでこうなるんだ。
 ついさっきまで、私の下で泣きそうな顔をしていたくせに、今は馬鹿みたいににこにこと、私の前でアップルパイを切り分けている。
 みたい、じゃなくて、本物の馬鹿、か。
「……なんで私のパイのほうが大きいんです?」
「え? だってユヴュさんのほうが若いんですし、からだも大きいんですから、たくさん召し上がらないと」
「……」
「――アップルパイ、嫌いですか?」
「いえ、好きですが」
「では、はい、どうぞ」
「……どうも」
 アップルパイは嫌いではないが、なんでだかしゃくにさわる。
 なんでこいつはこうなんだ。
 なんだってもう、ヘラヘラ笑い出すんだ。
 もう少しぐらい――もう少しぐらい――。
 おろおろしていたっていいだろうに。
「――生徒がおすそわけしてくれたんです」
「え?」
「この、アップルパイ」
「――はあ、そうですか」
 私にどう反応しろというんだ。
「では、いただきます」
「――いただきます」
 こいつが食べているのを見ると、なんだかこのパイ、ものすごくおいしいもののような感じに見えてくる。
 ……別にまずくはないが、ごく普通のパイだ。
「……あなたそんなにアップルパイ好きなんですか?」
「え? ――ああ」
 アンツの笑いの色が、少しだけ変わる。
「一人で食べるより、ずっとおいしいです」
「は――?」
 まったく、なんなんだこいつは。
「……ところで」
「はい」
「あなた、気持ちよかったですか?」
 いやがらせをこめて聞いてみる。少しは動揺しろ。
「え――」
 真っ赤になった。予想以上に動揺した。どうもいまだに、こいつの価値判断基準がさっぱりわからない。
「あ――ええ――その――はい」
「そうですか」
 こいつの反応は、わけがわからないし予測もしがたい。
「よかったですね」

「――ありがとうございます」
 ひどく真面目な顔をしている。なんだって今真面目になる必要があるんだか、どうもよくわからない。
「さて――これをいただいたら、私は帰ります」
「え」
 別に驚くことはないと思うんだが。
「も、もう、遅いですよ?」
「ええ、ですから、食べたら帰ります」
「え、危なくないですか?」
「貴族に勝てる平民はいません」
 これはうぬぼれでも傲慢でもない、単なる事実だ。身体能力が土台から、根底からちがう。よほど念の入った武装でもしていれば別だが、そんな武装のできる者は、そもそもケチな追いはぎなんぞしやしないだろう。
「あの――泊まっていかれませんか? 私は床で寝ればいいですし――」
「は? なんであなたがそんなことをする必要があるんです?」
「いやその、うちベッドが一つしかありませんし――」
「私が帰ればすむことです」
「いやその――ええと、その――お、お疲れでしょうし――」
「いえ、別に」
「あ――そうですか――」
「……」
 なんだかよくわからない。どうしてそんなに私をひきとめたがるんだ?
「――あの」
「はい?」
「あの――今日はどうもありがとうございました」
「……はあ」
 なんだかこいつは、二言目には私に礼を言っているような気がする。しかも本気で。
「私は別に、特に何もしていませんが」
「いえ――楽しかったです、私」
「はあ――それはどうも」
 楽しかった――ねえ。
 なんとなく間をもたすために、目の前のアップルパイをもぐもぐと食べる。
 黙って食べていたら、すぐになくなる。
「ごちそうさまでした」
「どうも、おそまつさまでした」
「それでは失礼します」
「――なんのおかまいもしませんで」
 もうその言葉が単なる慣用句にすぎないことを知ってはいるが、これ以上なにをどうおかまいするんだ、と、ちょっと聞いてやりたくなる。
「どうかこれにこりず、ぜひまた遊びにいらして下さい」
「あなたはどうしてこりないんですか?」
「――え?」
「――別に、なんでも」
「――」
「それでは失礼します」
「――はい。お気をつけて」
 一瞬だけ目を伏せて、にっこりと顔をあげる。
 それを見て、なぜか落ちつかない気分になる。
 私だけがそんな気分になるというのはまっぴらなので。
「――今度」
「え?」
「次はおたがい、全部脱いでやる事にしましょうか?」
「は? ――え、えええええッ!?」
 道づれにしてやることにした。
 よしよし、動揺しているな。
 これでよし。
 ざまあみろ。

生きる姿は様々なれど

(ユーリル)
 私はユーリル。
 私はユーリル。
 私は――ユーリル。
 ――なんだか、ちがうような気がする。
 本当は、こう言ったほうがいいのかもしれない。
 私は、ユヴュではない。
 私の一番古い記憶――一番、幼かった時の記憶は。
 目の前で、わんわんと力一杯泣きじゃくっているユヴュをきょとんと、それとも、呆然と見つめていた、というものだ。
 どうしてユヴュは泣いていたのか。
 私がけがをしたからだ。
 転んだかどうかしたんだろう。原因は、よく覚えていない。とにかく私がけがをして、とたんにユヴュが泣きだした。別に珍しいことではない。地の民の子供どうしでだって起こる現象だ。確か、『感応的同調』と言われている現象――もしくは能力――で、要するに、仲の良いものどうしが、感情を共有してしまうのだ。地の民にさえ起こる現象なのだから、ましてや同族間における共鳴、共感能力の高いわれらイギシュタール貴族においておや、だ。
 ただ。
 ただ――あの時。
 あの時結局、私は泣きはしなかった。
 ユヴュが泣きじゃくるのを、きょとんとただ見つめていた。
 もう少し大きくなってからその時のことを思い出し、私は奇妙なことを考えた。
 私の感情は、私を素通りし、ユヴュに流れ込んでユヴュを、ただユヴュだけを動かすのではないか――と。
 もし、仮にそうなのだとしたら。
 私の体はぬけがらとなり、ユヴュの意志は押しのけられて、そして――そして――。
 そして――なんだ?
 もちろんそれは、事実ではない。
 私が自分の感情のおもむくままに体を動かす事などいくらでもあるし、ユヴュの意志が非常に強固なことだってよく知っている。私はぬけがらではないし、ユヴュは操り人形ではない。
 それでもやっぱり、なぜだかやはり。
 私は自分を、こう定義する。
 私は、ユヴュではない。



(ユヴュ)
 私達イギシュタール貴族は、青年期――私達は『安定期』と言っている――に入るまでは、平民、すなわち地の民達とほぼ同じくらいの割合で年をとり、それから長い安定期に入り、その時が来ると激烈な勢いで老化をはじめ、老衰して死ぬ。もっとも、老化が始まる前に死ぬものもかなり多い。事故や病気が原因、というだけではなく、本当に突然、ぽっくりと死んでしまう者達がかなりいるのだ。といっても、ぽっくりと死ぬその前に、すでに数百年の齢は重ねているわけだが。
 まあとにかく、私達の社会には、子供と青年と老人しかいない。もっと詳しく言うと、少しの子供と大勢の青年とほんのわずかな老人だ。
 だから、私にとっては。
 小さな子供、というのは、ただそれだけで珍しい存在だ。なにしろ私達イギシュタール貴族には、定期的に子供とふれあう研修会というものがある。そうでもしないと、子供とまったくふれあうことなく何十年も過ごしてしまったりするものが出るからだ。
 だから私は、小さな子供が珍しい。
 なんだかこう、やたらとプニャプニャポニャポニャとしていて、あきれるほど動きがぎこちなくて唐突で、キャアキャアと甲高い声で、キョトキョトとあたりを見まわしている。
 面白い。
「あっこ!」
 人見知りしないたちの子が、だっこしてくれと手をさしのべてくる。
 抱き上げて、たかいたかいをしてやる。
 やわらかくて。
 ぐにゃぐにゃとして。
 あたたかい――と、いうより、熱くて。
 薄い皮膚と、やわらかい肉と、細い骨の感触が手に伝わってくる。
 奇妙に、胸が騒ぐ。
 こんなにも脆い、こんなにも小さな生き物を、この手の中に抱いていてもいいのだろうか。
 私も昔は、こんなだったんだろうか。
 こんなにも小さく。
 こんなにも脆く。
 こんなにも――こんなにも愛らしく、あったのだろうか――?
「――」
 視線を感じる
 老人の――ルヴァンとかいう、老人の視線を。
 私は――老人に、なるのだろうか?
 仮になるのだとしても、私が老人の姿でいるのは、どんなに長くてもせいぜい2、3年――5年をこす事は絶対にないと断言できる。数百年を数える寿命の内、老人の姿になるのは(老化という現象を知らずに死んでいく者達も大勢いる)せいぜい数年。たったそれだけ。
 私達は、老いを知らぬ民。
 知るひまもなく、死んでいく民。
「――」
 あたりまえだ。
 あたりまえのことだ。
 知っている。
 知っている。
 そんなことは、知っている。
 昔からよく、知っている。
 私達のあいだでは。
 子供は希少で、老人はごくまれ。
 ――だからどうした。
 それが、どうした。
 私達は、違う。
 地の民達とは、違う。
 こいつらのあいだでは。
 子供も老人も、別に珍しくもなんともない。
 そう、そして。
『中年』とかいう、中途半端極まりない年齢の者も。
「――あの」
 ――こいつは。
 アンツは。
『中年』――なんだっけか。
 百年に満たない人生の半ばをすでに過ぎ。
 体は衰え、容貌も衰え。
 私達は、知らない。
 老いを深めていく、その道程を知らない。
 私達にとっての老いとは。
 激烈なる、変貌。
「あのう、もしよろしければ――」
「なんでしょう?」
「ええと――」
 パチクリと目をしばたたいているその顔は、いかにも気弱げで頼りない。
 私はいったいなんだって、こんな男にいつもいつも、調子を狂わせられなければならないのだろうか?
「あのですね、も、もしよろしければ――」
「さっさと用件を言ってくれませんか?」
「す、すみません。あの」
 キョクン、と、やせたのどが息だかつばだかを飲み込む。
「なにかその、お話を聞かせていただけませんか?」
「――は?」
 お話、だと?
「お話――ですか? ええと――いったいぜんたい、何を話せというんです?」
「あの、ええと、その――」
 アンツの馬鹿は、目を白黒させながら。
「えー、ご、ご先祖様のこととか、あとその、昔のお話とか、宇宙の話とか――」
「はあ、なるほど、今現在の私達の暮らしぶりには、まるっきり興味がない、と」
「そ、そんなことはありません!」
 と、アンツは、こちらがびっくりするくらい力一杯かぶりをふる。
「も、もちろん興味あります! あるに決まってます!」
「はあ、そうですか」
 いつものことながら。
 アンツというのはまったく、妙ちきりんな男だ。
「――昔のことを、話せばいいんですか?」
「――私達は、覚えておりませんので」
「――」
 あ。
 また――だ。
 どうして――だろう。
 こいつと――アンツといると、時々。
 胸が、奇妙にはねる。
「――私達は、覚えていますよ」
 胸がはねると、私はなぜだか。
「ですから――お話、しましょうか」
 後先も方角も考えず、けいれん的に、動き出してしまう。



(アンツ)
 ――知りたかった。
 私は、知りたかった。
 ――何を?
 何を――だろう。
 きっと。
 きっと、なんでもよかったのだ。
 私の身の内に巣食う、冷たいうつろを埋めてくれるものなら、きっと、なんでも。
 でも。
 でも、今は――。
「私達は、かつて人の――あなたがたの祖先の手により、人工的に創り出された種族の末裔です」
 ああ――ユヴュが、語っている。
 私はただ、ただひたすら。
「私達は、この星をこえ、宇宙のかなたへと進んでいくために生み出された民達の末裔です」
 私は今では、ただひたすらに。
 ユヴュ。
 あなたのことが、知りたい。
 ただひたすらに、あなたのことを。あなたのことだけ。
 私は知りたい。
 私は知らない。
 あなたのことを。
 あなたがたのことを。
「だから私達は、いまでもいつか、いつの日か、宇宙へかえるために、宇宙の果てを極めるために、生まれ、生き、死んでいきます。――さて、ところで」
 あ。
 ああ。
 それは刃。
 あなたの笑みは。
 あなたのすべては。
 「あなたがたは、いったいなんのために、生まれ、生き、そして死んでいくんでしょうねえ――?」
 あなたの笑みは、あなたのすべては。
 私を切り裂き、焼き焦がす。
 私は血を流し、醜く焼けただれる。
 ――でも。
 その時。
 切り裂かれ、焼き焦がされる瞬間は。
 私のうつろも切り裂かれ、凍えた身の内のしこりが焼け焦げ、とける。
「――」
 誰も自分の問いには答えないのを見て、ユヴュの笑みが深くなる。
 なんのために生きているのか?
 私はいったい、なんのために生きているのか?
 ああ、やはり。
 私は、知りたいのだ。
 どうしても、私は問うてしまう。問い続けてしまう。
 なぜ?
 どうして?
 なんのために?
 答えがあろうとなかろうと。
 私は問いを、投げかける。



(ユヴュ)
 わかっているんだろうか、こいつら。
 どうもわかっていない気がする。
 だったらどう説明すれば「わかる」ようになるのか。
 いや、そもそも。
 私はこいつらに、いったい何をわからせたいのか。
 私は何を延々と、私達ならだれもが共有している知識を、何も知らない、知ろうともしない、膨大な記憶と記録とをただ空しく消え去るにまかせてきた民達に、懸命に語り続けている――。
 ――懸命?
 ――懸命に?
 懸命に――なっているのか、私は?
 なぜ?
 いったい、どうして?
 いったいどうして、こんな連中を相手にむきにならなければならないんだ、私は?
「私達は――」
 一瞬の空白に。
「んにゃーん!」
 赤ん坊の泣き声が割り込む。
「――」
 フッ――と、私から、何かが抜ける。
 そして、気づく。
 アンツの視線、アンツの目、アンツの瞳に。
 私を見つめている。
 うるんで、ゆれている。
 恐ろしいほど強烈な光を放っている。
 私は息を飲む。
 私が息を飲んだとたん。
 ガクン――と、アンツからも、何かが抜ける。
「ああ――すみません」
 そこにいるのは、そこですまなさそうに頭を下げているのは。
 ちっぽけでしょぼくれたつまらない、ただの、地の民の男。
 なのに、なぜ。
 私は息を飲んだのか。
「あー、ターニャちゃん、ミルクかな、それともおむつかな?」
「どーれどーれ、どうしたどうした」
 ルヴァンとかいう老人が、ちっぽけでプニャプニャしたまるまっちい赤ん坊を、ひざの上であやす。
「――手伝いましょうか?」
 と、私が言うと。
「「「「「え!?」」」」」
 アンツ、のみならず、老人連中、そのうえ年かさの子供達までもが、ギョッとしたように私を見た。おい――私ってそんなに信用ないのか?
「その――私にはまだ子供はいませんが、やりかたを習ったことくらいはありますよ」
 私達イギシュタール貴族のあいだでは、保育の授業は全員必修だ。
「――いやいやいや、いやいやどうも――」
 ブツブツ言いながら、ルヴァン老人は赤ん坊を部屋の外に連れていってしまった。つまらん。久しぶりに赤ん坊の世話が出来るかと思ったのに。
「――ええと」
 興がそがれた、というか、水を入れられた、というか。
「ではまあ――私の話は、とりあえずここで終わりとさせていただきます」
 パタパタパタ――と、子供達が、ついで老人達が、拍手をする。
 まあ、悪い気はしない。
 悪い気はしない、が。
 どうせこいつら、なんにもわかっていやしないんだ、とも、心のどこかで思っている。
 ――だからどうした。
 それが、どうした。
 この連中が、わかっていようといるまいと、どうだっていいじゃないか、そんなこと。
 だったら、なぜ。
 私は懸命に、語り続けていたのだろう。
 だったら、どうして。
 私の胸の内を、奇妙な炎が焦がしていくのか。
「――」
 一礼して、壇を下りる。
「――」
 おい。
 アンツ、おまえが壇上に戻らなきゃ、話が続かないじゃないか。
「――せんせー?」
 当惑げな子供の声に、アンツはあわてて前にでる。
「はい、ユヴュさん、どうもありがとうございました。大変興味深いお話でしたね。みなさん――」
「せんせー」
 再び、子供の声。
「この人、何言ってんの? 全然わかんなかった」
 ザワ――と、年かさの連中の周りの空気が揺れる。私は苦笑する。こいつらまさか、私がこの程度のことで怒るとでも思っているのか?
「私の話は、わけがわかりませんでしたか?」
「うん、わっかんなかった」
「そうですか。まあ、しかたないですね」
 しかたのないこと。
 どうでもいいこと。
「だってあなたがたは、昔のことをみんなみんな、忘れ去ってしまったんですから。わからなくても、しかたがありません」
 だから、腹も立たない。
 こいつらは、別に。
 そんなこと知らなくたって、生きていける。
「――」
 奇妙なものが、見えた。
 とても、奇妙なものが。
 アンツが小さく、だが、妙にきっぱりと。
 かぶりをふったのが、見えた。



(アンツ)
 しかたなくない。
 しかたなくなんか、ない。
 私達にだって、出来たはずだ。
 過去を覚えておくことが。
 私達にだって、出来るはずだ。
 過去とつながって、生きていくことが。
 あきらめない。
 あきらめたくない。
 私達にだって――私にだって――。
 そうすることは、出来るはずだ。
 出来るはずだ。
 過去を捨てずに、生きていくことが。
 ――出来る、はずだ。
 捨てずに生きていくことが。




(ユーリル)
 ――つながっている。
 私達はみな、互いにつながりあっている。
 とけあっている――と、いってもいいのかもしれない。
 イギシュタールの真の民達は、互いに互いを重ね合わせる。
 誰もが同じ、みな同じ。
 イギシュタールの、真の民。
 ――でも、思う。それでも、思う。
 私は――ユヴュでは、ない。
 ユヴュは私ではない。
 ユヴュはユーリルではない。
 ユーリルはユヴュではない。
 ユヴュは、こんな事を考えたりするのだろうか。
 それとも、こんなことはあまりにあたりまえすぎて、いちいち考えてみることもしないのだろうか。
 私は――考える。考えている。
 私ではないけれど、私に一番近しかったものが、私の半身が、私の片割れが――。
 私から、離れていく。
 ――もしかしたら、当然のことなのかもしれない。
 私はユヴュではなく、ユヴュは私ではないのだから。
 でも――それでも。
 私はユヴュではなく、ユヴュは私ではないけれど。
 それでも私達は、互いの半身どうしなのだ。
 ――そのはず、だ。
 それとも。
 それとも――ちがうのだろうか――。



(アンツ)
「あなたがたは、よっぽど私を信用していないんですか?」
 と、ユヴュがすねたように言う。
「え、ど、どうしてまたそんな――」
「だって」
 と、ユヴュがむくれる。
「私が手伝うって言ったのに、赤ちゃん連れて行っちゃったじゃないですか」
「ああ――」
 頷きながら、言葉を探す。
「だってその、悪いと思ったんですよ」
「は? 何が?」
「いやそのだから、あの時もしかしたらその、おむつが濡れたせいで泣いていたのかもしれませんでしたし――」
「出来ますよ、私」
 ユヴュは口をとがらせた。
「ちゃんと実習で習いましたから」
「はあ――実習、ですか? そ、そういうその、授業か何かがあるんですか?」
「ありますよ、もちろん。私達のあいだでは、子供は貴重で希少ですからね。そういう実習は、必修です」
「ははあ――」
 ため息とともに、私は感嘆する。
「そうなんですか。知りませんでした」
「――それなら、しかたがないのかもしれませんね」
 不承不承、というふうに、ユヴュは頷く。
「確かに、経験があるのかないのかわからない者に、赤ちゃんの世話を任せるのは不安でしょうし」
「え? ええと――」
 私は困惑する。どうも互いの意図するところが、いささかずれてしまっているようだ。
「というかその――貴族のかたに赤ちゃんのおむつをかえさせるなんてその、恐れ多いと思ったんですよ、みんな」
「――は?」
 ユヴュは、完全に困惑していた。
 胸が苦しくなる。
 かわいいあなた。きれいなあなた。きれいなきれいな――あなた。
「恐れ多い? ――何が?」
「いやだって――汚いでしょう?」
「でも、誰かがやらなければいけないことでしょう?」
「は、はあ、それはまあ、確かに――」
「――」
 ユヴュの当惑。イギシュタール貴族の当惑。
 私は――私達、地の民達は、そんなふうに当惑することなど出来はしない。
「――赤ちゃん、かわいいですから」
 未だわずかに当惑を残し、ユヴュは言う。
「面倒見るの、楽しいですよ」
「ああ――そうですねえ――」
 なんてかわいい人なんだろう。
 なんてきれいな人なんだろう。
 なんて無邪気な人なんだろう。
 なんてかわいい人達なんだろう。
 なんてきれいな人達なんだろう。
 なんて無邪気な人達なんだろう。
 私達――いや。
 私――私は。
 あなたのようでは、あれない。
 あなたがたのようには、なれない。
「――たくさんいるんですね」
 ユヴュが、ポツリと言う。
「え?」
「たくさん、いるんですね。子供も、老人も」
「そうですね」
「私達とは、違いますね」
「そう、ですね。ええ――」
「――」
 まっすぐな、琥珀の瞳に貫かれる。
 私は見つめている。
 私を見つめる瞳を。
 あなたが好きだとあなたに告げても、世界もあなたも、何一つ変わることはない。
 ただ私だけが自覚していく。
 あなたに恋して、動けぬ私を。



(ユヴュ)
 自分から見つめてくるくせに、私が見つめ返すと目を伏せる。
 おかしなやつだ、本当に。
「――なにか言いたいことでも?」
「え? ――いえ、別に――」
 とろい、とか、頭が悪いというのともすこしちがう――の、だろうか?
 こいつと話をしていると、時々――時々――。
 アンツのやつが、一人で勝手に立ち止まってしまう、ような気がする。
 いやもちろん、立ち止まるも何も、私達はずっと座ったまんまで話を続けているのだが。
 どうしてだろう。
 いらいらする。
 勝手な事をするな。私を勝手に――。
 ――え? 私は今――何を考えていた?
 ――とにかく。
 私の目の前で、勝手な事をするな。
 見つめる。
 見つめる。
 見つめ、続ける。
「――」
 とても、奇妙な瞳。
 とても、奇妙な表情。
 とても――とても――。
 ――なぜだろう。
 私も立ち止まっている。
 ――え? い、いや、違う――。
 私は。
 立ち止まらない!
「――あなたを見ているといらいらします」
「――すみません」
 本当にすまないと思っているのだろうか。
 ひどく、真剣な顔をしている。それは間違いない。が――。
 なぜだ。
 なぜ。
 なぜ、いつの間に、私はこいつといっしょに足を止め――。
 ――ちがう。
 なぜ、いつの間に。
 どうして私は、おかしなことを考えてしまうのだ?
 私は少し、混乱する。
「――あなたはおかしな人ですね」
「――そうですね」
 そうだ、私は。
 調子が狂っているのだ。
 こいつはおかしなやつで、だから、私は。
 調子が、狂う。
 奇妙な瞳。
 奇妙な表情。
 見つめていると、どんどん調子が狂っていく。
「――」
 体に、触れる。
 アンツの、体に。
 体はただの、やせた体で。
 どこにも妙なところはない。



(アンツ)
 触れられた。
 触れて、もらえた。
 いつの間にか。
 目を、閉じていた。
 触れられた場所が、熱かった。
「――なんで目をつぶるんです?」
「え」
 そう聞かれて、急に恥ずかしくなる。
「そ、その――びっくりしてしまって」
「そうですか」
 ククッ――と、のどをならすような笑い声が聞こえた。
「あなたがたの文化では、あまり互いに触れあったりはしないようですね」
「そう――ですね」
 そうなのかもしれない。
 実際、そういうところもあるのかもしれない。
 でも、知っている。
 私は、知っている。
 私が、触れられることに慣れていないのは。
 私が、他人から触れられたことがないのは。
 誰も私に触れようなどとはしないのは。
 それは。
 それは。
 その、理由は。
 ソレハワタシガ『つきノひるこ』ダカラ――。
「さわられるの、嫌いなんですか?」
「い、いえ、別にそういうわけでは――」
 ただ、私は、信じられないだけ。
 信じきれずにいるだけ。
 私が『ツキのヒルコ』と知っても。
 ためらいもせずに私に触れてくれ、私のとまどいをおかしそうに笑いとばしてくれる人がいる、ということを。
 信じきれずに、いるだけ。
「――別に」
 やはりおかしそうに、ユヴュは笑う。
「ひどい目にあわせたりしませんよ」
「――」
 答えに困り、私は目をしばたたく。
 ユヴュは笑っている。
 おかしそうに。
 私も、つられて笑う。
 たぶん、照れたように、私は笑っているのだろう。
「今日は楽しかったですよ」
「そうですか。それならよかったです」
 心の底から、私は言う。
 それなら、よかった。
 あなたが楽しんでくれたのなら、本当によかった。
「でも」
「はい」
「あなた達は」
 ああ。
 燃え上がる、琥珀の両眼。
「本当に、なんにも知らないんですね。覚えていないんですね、何も。すべてを――すべてを忘れ去ってしまったんですね」
「――」
 時の大河をただ押し流され、ただ今のみに生きる者達は。
 過去を守り、過去をとどめようとするものとも、未来を見はるかし、そこへとたどりつこうとする者とも、いつかは遠く隔たっていく。
 私は。
 私は――。
 ワタシハアナタノソバニイタイ――。
「教えないんですか?」
「え?」
「あなたはいろいろと、人生の大半を費やして、役にも立たない研究を続けてきたのに」
 ユヴュは笑っている。
 笑われているのは、私。
 でも、別に。
 それでも、いい。
「その研究の成果を、あなたの生徒さん達には教えてあげたりしないんですか?」
「え――」
 虚をつかれた。
 あまりにも意外な言葉だった。
「私の――研究の、成果を?」
「どうせだれも知りたがりやしないでしょうけど」
 おそらくユヴュのこの笑みは『意地の悪い笑み』と呼ばれるようなものなのだろうけど。
 意地の悪い事を、言っているのだろうけど。
 私はユヴュを見つめていたい。
 語る言葉を、聞いていたい。
「教えてみたりはしなかったんですか? 生徒さん達、あきらかに、私達イギシュタール貴族のことも昔のことも、何一つ知らないみたいでしたけど? どうして教えないんですか? 誰かに教えたくて、伝えたくて、それであんな本を書いたんでしょう? なのに自分の生徒さん達には、何も教えずにおくんですか?」
「――」
 ああ。
 あなたは、正しい。
 私はまだ、『ツキのヒルコ』の私に、守るべきものなど何もないと思っていながらまだ。
 自分自身と、自分の生活とを守ろうとしていたのだ。
「みんなが私に望んでいるのは――私から、役に立つことを教えてもらう、ということだけですから――」
「役に立つこと? ――なるほど。なるほどねえ」
 役に立つこと。
 役に立つもの。
 役に立つ人。
 あなたにとって、この私は。
 役に立つ何ものかで、あるのだろうか――。



(アンツ)
「――今日は、楽しかったです」
 刃のように、きらめく笑顔。
 たとえ傷つき血を流しても。
 私はきれいなものに触れたい。
 私はきれいではない。きれいであったことなど一度もない。これからきれいになることもない。地をはいずるヒルコが光り輝くことなど決してない。
 だから、ユヴュ。
 あなたは、いくら私を切り裂いてもいい。引き裂いてもいい。踏みにじってもいい。
 あなただけが、私に触れてくれる。あなただけが、私の言葉を、本当に言いたかった言葉を聞いてくれる。あなただけが、まっすぐに私を見つめてくれる。
 ――迷惑だろう、きっと。私のようなものに、こんな懸想をされてしまっては。
 それでも。
 ソレデモアナタトイッショニイタイ――。
「今日は楽しかったですから」
 クスクスと、ユヴュが笑う。
「何か一つ、お返しをしてあげますよ」
「え? い、いえ、そんな――」
「そうですね、何か一つ」
 軽やかな、無邪気な笑い。
「して欲しいことがあるなら、してあげますよ」
「え――」
 して欲しいこと。
 それより。
 したい、こと。
 決してかないはしない願い。
 夢見ることさえ、愚かで無謀。
 私は一生、口には出さない。表に出さない。
 ただ一瞬だけ、チラリと思う。
 ユヴュ。
 私はあなたを、抱いてみたい。
 あなたがもしも、少しもあまさず私の心を読める力を手に入れたなら、あなたはきっと、激怒するより先に笑い転げてしまうだろう。
 私の願いはかなわない。
 わかっているけど、私の胸は言葉を紡ぐ。
 一度でいいから、一瞬でいいから。
 あなたを私のものにしたい。
 それは、無理。
 わかっている。
 だから、私は。
 気弱に、笑う。
「あの――また、来て下さい」
「え?」
 ユヴュは、きょとんとした顔をした。
「別に言われなくても、また来るつもりですが?」
「――」
 私が今、どんなにうれしいか、きっとあなたにはわからないだろう。
 きっとわからない。
 わからなくてもいい。
 ただ、ひたすらに。
 私は、うれしい。
「だから、今のは無効です」
 と、ユヴュは言う。
「他に何かないんですか?」
「え――」
 して欲しいこと。
 したいこと。
 言っても、いいのだろうか。
 言って、しまおうか。
「――て、くれますか?」
「え? もっとはっきり言って下さい」
「――」
 言ったら、どうなる?
 ――。
 たぶん、どうにもならない。
 ユヴュは別に何とも思わず、いささかも動じはしないだろう。
 ――だったら。
 言って、みるか。
「――キ――キス、してくれますか――?」
「――」
 とまどったような、若い顔。
「――あなたはおかしな人ですね」
「あ――」
 唇は、まっすぐに。
 私を、射抜く。



(ユヴュ)
 なんだかさっぱりわからない。
 いったいどうして、なんだってこいつは。
 私のことが、好きなのか。
 好かれるようなことなどしていない。ただの一度も、していない。
 いつだって、叩きのめしてやろう、うち負かしてやろう、足元に這いつくばらせてやろうとしているだけなのに。
 こいつは勝手に、一人勝手に、ヘラヘラと幸せになっていってしまう。
 言われた通りにキスしてやれば、息をつめて苦しげな顔になる。
 なんだかさっぱりわからない。
「――これでいいんですか?」
「――ありがとうございます」
 一瞬目を伏せ、また上げたその顔は、いつもと同じ、気の抜ける笑顔で。
 私もなんだか気が抜ける。
「それではこれで失礼します」
「え。そ、そうですか、も、もうですか?」
「もうってことはないでしょう。昨日一泊したんですから」
「あ、ええ、まあ、それはまあ、そうなんですが――」
「また来ます」
「――ありがとう、ございます」
 なんだって、このタイミングで礼など言うんだこいつは。
 もしかして――私が来るのがうれしいのか?
 なんでうれしいんだ?
 何がうれしいんだ?
 私は別に、うれしくもなんともないのに。
 ――ダッタラナゼナンドモココニクルノ――?
 ――え?
 私は今、なにかおかしなことを考えなかったか?
 ――。
 ――気のせい、か。
「――私が来るのがうれしいですか?」
「はい、とても」
「なんで?」
「――」
 目の前の笑みが、ふと揺らぐ。
 そして。
「あなたといっしょに――いろんなことについてお話したりできるのが、とても楽しいんです、私は」
 返ってきたのは、特にどうということもない答えだった。



(アンツ)
 ――ああ。
 行ってしまった。
 体から力が抜ける。それはもう、驚くほど速やかに抜けていく。
 気がつくと座りこんでいる。
 私はいったい、何をやっているんだろう。
 これは恋。
 私にとっては。
 では、ユヴュにとっては?
 恋――ではない、だろう。それではいったいなんなのか、は、よくはわからないが、ともかく恋ではないだろう。
 片恋。
 別に。
 それでいい。私が片恋以外の何を望めようか。
 恋してる。
 愛してる。
 一方的に、身勝手に。
 それでも。
 キスしてくれた。
「――出来たんだなあ」
 ぼんやりと、一人つぶやいている。
「私――好きな人と体を重ねることも、好きな人にキスしてもらうことも――できたんだなあ、ちゃんと――」
 しかもその人は、私のことを『ツキのヒルコ』だと知っていて、それでも私にそうしてくれた。
「――無理だと思ってたけどなあ――」
 でも、出来た。無理だと思っていたけど出来た。とてもとても、幸せな気持ちになれた。
 ――なのに。
 なのに、なぜ。
 私の胸はキリキリとしめつけられ、ジクジクとうずくのか。
「――ない、ない、ない――」
 私は何をつぶやいている?
 いったいぜんたい、何が「ない」?
 ああそうだ、そうだとも。
 私には「ない」。
 ユヴュには「ある」。
 ないないない、なんにもない。
 わかりきってることなんだから、無駄にあがいて何になる。
 ないないない。なんにもない。ないないない。一つもない。
 恋しても、愛しても、それでも何も変わらない。
 ああ、でも。
 一つだけ、ある。
 私の手にも、一つだけ。
 あなたが私に、会いに来てくれたという。
 私の持てる、たった一つの奇跡が。

翼ある者、翼なき者

(ユーリル)
 ユヴュが、何か考えている。
 見ていると、面白い。
 顔の形――容貌そのものは、私とほぼ同じ。
 でも。
 ユヴュの顔は、見ているうちにくるくると変わる。
 口をとがらせたり、眉をひそめたり、ほっぺたを口の中から舌であちこち押してみたり。
 私は――基本的に、自分はいつも、ポォッとした顔をしているんだろうな、と思う。ユヴュみたいに、クルクル顔が変わったりしない――と、思う。自分でも知らないうちに顔が勝手に動いてたりしたら、ちょっと怖いけど。
 クルン、とユヴュが私の方を向く。
「ユーリル」
「ん?」
「ユーリルは――」
 ユヴュがちょっと考えこむ。
 私はちょっと、首を傾げる。
「ユーリルは」
「うん」
「子供、好きですか?」
「え?」
 ユヴュは時々、唐突に突拍子もないことを言う。
「そりゃ――好き、だよ? かわいいよねえ、子供って。ちっちゃくて、まるっこくって、元気がよくて」
「そうですか」
「ユヴュは子供、好きじゃないの?」
「そういうわけではありませんよ」
「あそう」
「――」
 なぜ――わからないんだろう。
 なぜ私には、ユヴュの考えていることがわからないんだろう。
 私達――イギシュタール貴族の同族間における共鳴・共感能力は、とてもとても、強い、はずなのに――。
「――覚えていますか?」
「え?」
「子供のころ、私達――『おばあさん』に、会いましたよね?」
「ああ――覚えてるよ」
「あの人――きっともう、亡くなられてしまったんでしょうね」
「うん――そうだね」
「――」
 何を考えているんだろう。
 聞けば教えてくれるだろう。
 でも。
 それでわかることは、ほんの少し。
 だって、私だって。
 考えていることのほんの一部をしか、口に出していない。
 出せない――の、かもしれない。
 言葉で伝えられることは、いつだってほんの少しだけ。
 なぜだろう。
 なぜみんな、平気なんだろう。
 なぜみんな、『われらは同じ、皆同じ』などと、疑いもせずに信じていられるんだろう。
 ちがうのに。
 こんなにも、ちがうのに。
 ちがうのに――。
「ユーリル」
「なに?」
「私達は――『おじいさん』に、なると思いますか?」
「――どうだろうね」
 私達の『老い』は、素早く、激しく、致命的だ。
 だが、そんな刹那の老いも、全員に来るわけではない。
 老いもせず――突然、本当に突然、死んでいってしまう者達も多いのだ。と、いっても、それは地の民達の数倍は生きてからの話なので、もしかしたらその突然死も、老衰の一種であるのかもしれない。
「ユーリルはきっと似あいますよ」
「え? な、何が?」
「『おじいさん』が」
「……へ?」
 あっけにとられた私を見て、ユヴュはケラケラと笑った。
「似あうと思いますけどねえ」
「そ、そういうのって、似あうとか似あわないとかあるの?」
「――」
 ユヴュは一瞬だけ、ひどく真面目な顔になって。
「あると思いますけどねえ、私は」
 と、また、ケラケラと笑った。


「ユーリル」
「ん?」
「ユーリルは――」
 琥珀の瞳。
 私と同じ色の瞳。
 でもちがう。
 どこがちがう?
 どこが?
 いったい、どこが――。
「役にも立たないことに、一生を費やす事が出来ますか?」
「え――」
 私は、いつもこうだ。
 問われれば、考えることが出来る。問われるままに、考えをめぐらす。
 逆に言えば。
 問われるまでは――何も、考えつかない。
 では私は、私の頭は、私の脳は、いったい普段は何をしているんだろう?
 何かを考えてはいる――の、だろう、おそらく。
 だが。
 私の考えは、私自身にとってすら、あまりにあいまいで茫洋としている。
 ただ、ユヴュが何かを問うてくれると、問いかけてくれると、話しかけてくれると。
 私の内に、焦点が生まれる。
 私はユーリル。
 ユヴュではない、ユーリル。
 私がオリジナルで、ユヴュはスペア、という事になってはいるけれど。
 私自身の目で見ても、私の輪郭はゆらゆらと揺らぎ続け、いっこうに定まろうとはしない。
 それとも。
 他人には、見えているのだろうか。
 私以外の人々には、もしかしたら見えているのだろうか。
『ユーリル』という名の、くっきりと揺らがぬ輪郭が。
「出来ない――と、思うよ。だって――」
 だって。
「私達には――責任があるから。そんな、役にも立たないことに一生を費やすだなんて――出来ないよ――」
「――」
 納得と失望とを、等分にとかしこんだ、ユヴュの瞳。
 ユヴュ。
 ちがう。
 ちがうんだよ。
 私はほんとは、そんなことを言いたいんじゃないんだよ。
 なのに。
 私の口からは、そんな言葉しか出ない。
 互いに半ば心を読みあっているとすら言われているイギシュタール貴族なのに。同じ血と肉と骨とを分けあった双子なのに。誰より近しい半身なのに。そのはずなのに。
 どうしてこんなに、伝わらない。
「――そうですね」
「ユヴュ――」
 何を言えばいい。
 何を言えば伝わる。
 どうすれば、わかりあえる。
「ユヴュは――」
「はい?」
「何か、したいことがあるの?」
「え?」
 ユヴュはきょとんと目を見開く。
 ああ――私はまた、的を外した。
「別に――特には」
「ふうん――そう」
「ユーリルは」
「ん?」
「何か、したいことがありますか?」
「――」
 のぞきこむ。
 私の内を。
 探してみる。
 問いへの答えを。
「――」
 なぜだか私は納得する。
 ああ、やはり。
 私の内に、答えはなかった。


 私達――私とユヴュは、成長期を終えて安定期に入っている、という意味においては成人だ。
 だが、いまだ当主ではなく『家』に対する責任を何も負ってはいない、という意味においては、完全な成人であるとは言いがたい。
 今は、そう、猶予期間――モラトリアムな状態にあると言えばいいのか。
「――」
 ユヴュが時々、外泊をするようになった。
 別にそれは、禁じられていることでもなんでもない。ただ私達イギシュタール貴族の中に、そういう事に興味を持つものがめったにいないからユヴュの行為がひどく珍しく見えてしまうだけで、特に問題のある行動でもなんでもない。
 ただ。
 私は、不安になる。
 ユヴュはいったい、何をしているのか。
 私には見えない、見たことのない、どんなものを見つめているのか。
 私は、不安になる。
 ユヴュはいったい、どこへ行くのか。
 聞けば教えてくれると思う。
 だったらなぜ、私は聞かないのか。
 ――なぜ、聞くことが出来ないのか。
「ユーリル」
「え?」
「どうしたんですか、ボーッとして」
「んー……」
 どうしたんだろう。
 私はいったい、どうしてしまったんだろう。
 足元はふわふわと宙に浮いているかのようで、周りの空気と自分との間に、半透明の膜があるかのようで。
 とまどう私を、私が見てる。
「ユヴュは――」
「はい?」
「ええと――なんだか、ふわふわした気分になったりしない?」
「え? ふわふわ?」
「うん、まあ――なんかそんな感じ」
「さあ――そういうのは、ないような気がしますけど」
「あそう」
 ふわふわ、ゆらゆら、くらくら、もやもや。
 私はどこにも行きつけない。動いていないし止まってもいない。
 なんなんだろう、この気持ち。
「ユヴュは――しっかりしてるよね、いつも」
「まあなんというか、短気でがさつなだけです」
「短気っていうか――」
 そうだ。
 ユヴュは、動くのだ。とにかく何かをして、とにかくどこかに行くのだ。
 私は、たゆたっている。
 いつもいつも。ずっとずっと。



(ユヴュ)
 こいつは本当に、馬鹿だと思う。
 今ではもう、私にもわかっている。こいつが地の民だからおかしいんじゃない。こいつが地の民だから馬鹿なんじゃない。地の民達の中でも、こいつはとことんずれてて、ぼけてて、調子が狂ってて、ひどくおかしなやつなんだ、ということを。
 まあ、珍しいと言えば珍しいんだろう。少なくとも、平凡すぎてつまらない、ということだけはない。それだけがまあ、取り柄と言えば取り柄か。
 とにかく変なやつなんだ。
 たとえば今だって、私にこんな事を聞く。
「あのですね、仮に、仮に、の話なんですが」
「はあ、仮に。で、なんです、いったい?」
「もしもあの、宇宙に行く船が、ですよ、もしも完成したとして」
「はあ、したとして」
「私達――私達地の民も、いっしょに行ってはいけないでしょうか?」
「――え?」
「あ、その、ええと」
 私はよっぽど唖然とした顔をしたのだろう。アンツはあたふたと、意味もなく両手をはためかせた。
「も、もちろん、その、ひ、一人か二人か、と、ともかくその、そ、そんな大勢でなくてもいいんです。それでも、その――」
「――行きたいんですか?」
 その言葉は、私の口から勝手にすべり出ていた。
「――え?」
 呆然と目を丸くするアンツを見て、私の口から次の言葉がすべりでる。
「あなた――宇宙に、行きたいんですか?」
「え――」
 アンツも驚いたようだが、私のほうだって驚いた。
 だって、思ってもみなかったのだ。そんなことがあるだなんて、誰も教えてくれなかったし、想像してみたことすらなかった。
 宇宙に行きたがる地の民がいる――だなんて。
「――そう、ですね」
 アンツの頬が、赤く染まる。
「もしも行けるものならば――」
「行けるものならとっくに行っていますよ。私達イギシュタール貴族がね」
 なぜだか、いらいらした。
 行けるものなら行っている。とっくの昔に行っている。
 私達は、宇宙の民。宇宙で生きよと生みだされた民。
 なのにわれらは今地の上に。宇宙を駆け行く翼はもはやない。
「昔、昔――遠い遠い昔には」
 アンツの声は低いのに、私の耳にははっきり聞こえる。
「私達――地の民達のご先祖様達も――宇宙に行ったと――宇宙を旅していたと――」
 どこのどいつだ、この馬鹿にそんなことをふきこんだのは。
 ん? それってもしかして――私がやったこと、だったっけか――?
「――昔、昔の話です」
 そう、昔。昔、昔の、昔の話。
「昔、昔の――『大厄災』の、前の世界の――」
「――」
 コクン、と、アンツが頷く。
 この仕草はたぶん、地の民達のあいだでも、子供っぽいとされているのだろう、と思う。
「――あなたが行ってどうするんです」
 なんだろう、この奇妙な――奇妙な――。
 不安? 苛立ち? 当惑? 困惑?
 どうして?
 どうしておまえは望むんだ?
 宇宙へ行きたい、だなんて。
 どうして――?」
「いったい何をするんです」
 どうして?
 どうして?
 だって、おまえ達――いや。
 おまえ達の先祖は、創っただろう?
 自分で行きたくないから、だから。
 だから、創ったんだろう?
 そうなんだろう?
 だから私達の先祖を創り出したんだろう?
 それとも。
 ちがう――の、か――?
「いったいあなたがなんの役に立つんです。いったいあなたに何が出来るんです。いったい――」
 いったい。
「いったいなんだって――そんなことを望んだりするんです――」
「――」
 悲しげな、瞳。
 でも、その口元には。
 静かな、笑みが。
「――私でなくてもいいんです」
「え?」
「私でなくてもいいんです」
 笑みは消えずに、瞳が輝く。
「私達は――地の民です。宇宙で生きるようには、宇宙を駆けるようには、生まれついてはおりません。でも――それでも――」
「――それでも?」
「それでも」
 ああ。
 その笑みまでもが、光り輝く。
「そんな私達でも、宇宙の美しさを感じる心は、ここに確かに、確かに持っているんです」
「――」
 こいつは馬鹿だ。馬鹿で、ずれてて、ぼけてて、とろくて、そしてたぶん、いや絶対、絶対に、狂ってる。
 ――でも。
 なのに。
 私は、沈黙する。
 私は何を言えばいいのか。
 どうしてこいつは笑うのか。
「――宇宙はそんなに、きれいでしょうか?」
 ――え?
 あ――れ?
 今のは――なに?
 今のは――私?
 私の――言葉?
「あなたがそんなに、うっとり言うほど、そんなに宇宙は、きれいでしょうか?」
 ど――どうし、て?
 どうして私は――こんなことを――!?
「私だって――それはもちろん、私だって、宇宙の美しさはわかります。美しくないなんて言いません。でも――だけど――」
 どうして? どうして?
 私は何を言っている――!?
「だけど、ここだって――ここだって、この、イギシュタールだって――きれいなのに――こんなにきれいなのに――私の――私達の、生まれ育った場所なのに――私の――」
 私の。
「私の――故郷なのに――」
「――」
 どうして?
 どうしておまえは、そんな顔をするんだ?
 どうして?
 おまえは何を考えている?
 どうして私に、手をのばす?
 どうして?
 どうして?
 どうして私は、その手をとって――。



(アンツ)
 なんて愛しい人なんだろう。
 ああ、知らなかった。
 あなたがそんなことを考えていたなんて。天駆ける翼を持つあなたが、この地の上を、愛しい故郷と、美しい場所だと、そんなにも深くおもっていてくれただなんて。
 何も言えない。
 言葉が出ない。
 ただひたすらに、あなたが愛しい。
「――どうして黙ってしまうんです」
 耳に注ぎこまれる声には、いまだとまどいの色が濃く。
 ああ、そうだ。
 あなたは、若いのだ、とても。
「私はなにか、そんなにおかしなことを言いましたか?」
「――おかしなことでは、ありませんが」
 ああ。
 私の唇からは、地をはうヒルコの声しか出ない。
「少し――驚いてしまって」
「驚いた? ――どうして?」
「――あなたはここが好きなんですね」
「――」
 恋してる。
 私は。
 愛してる。
 私は。
 あなたは――そうで、なくてもいい。
 だけど。
 ああ。
 あなたはここが、好きなのだ。
 ここが。この地上が。この地の上が。私達が生まれ、暮らし、生きていき、死んでいく、ここが、この国が、この地上が、この星が。
 あなたはここが、好きなのだ。
 そして。
 私もここが、好きなのだ。
 いやなことは、あきあきするほどあった。泣いたことも、ずいぶんあった。苦しかった。つらかった。どこかちがうところへ行きたかった。
 それでもやっぱり、それでもなぜか。
 私はここが、好きなのだ。
 ここが、この国が、この地上が、この星が。
 私とあなたは、同じものを愛しているのだ。
 ――うれしかった。
「――あなたは嫌いなんですか?」
 すねたような声。
 抱きしめたい。いやだめだ。そこまで厚かましいことを望んじゃいけない。
「――私もここが、好きですよ」
「だったらどうして驚くんです?」
「――」
 本当に。
 どうして、だろう。
 ああ――そうか。そういうことか。
 私は。私達は。私達、地の民達は。
 翼を持たぬ者達は。
 なんて多くのものを、ことを、翼を持つあなたに、翼を持つあなたがたに、押しつけ続けてきたのだろう。
 翼があるのだから、私達がどんなに望んでも手に入れられないものを、すでにその手に持っているのだから。
 だから。
 だから必ず空を飛べ。
 だから必ず旅に出ろ。
 だからこの地に降りてくるな。
 ああ――なんて。
 なんて、残酷な。
 翼を持った者たちにだって、羽を休める場所は必要だろうに。地上の美しさに心ひかれることだってあるだろうに。この地の上を、この場所を、愛することさえあるのだろうに。
 それなのに――。
「――どうして黙ってしまうんです」
 あなたが好き。
 あなたが好き。
 私はほんとに、あなたが好き。
「――うれしいです」
「え?」
「私は――うれしいです、とても」
「――何が?」
「あなたがここを、好きだと言ってくれたのが」
「――」
 いぶかしげなその顔は、どこかあどけなくさえ見えて。
 かわいくて、かわいくて、胸がふくらみ、熱くなる。
「――あなたはおかしな人ですね」
「――ええ」
「どうして笑うんです?」
「――うれしくて」
「――わけがわからない」
 あなたにはわからないだろう。
 あなたはいつも、あまりに無邪気で。
 私があなたを好きすぎて、まったくもってとち狂ってしまっているのだ、などということは、何度見ても、聞いても、説明されてもわからないだろう。だからずっと、これからもずっと、困って怒ってとまどって、少しすねたように、私のことを見るのだろう。
 あなたが好き。
 あなたが好き。
 私は狂う。
 静かに狂う。
 もとから狂っていたのかも。
 これからもっと狂うかも。
 狂っても、狂っても、どんなにどんなに狂っても。
 忘れはしない。私はヒルコ。
「――」
 私をつかまえて、きつく抱きしめて、唇を奪って、肌に舌をはわせて。
 それでも私が笑っていると、あなたはひどく不思議がる。
 不思議なことなど、何もないのに。
 私はただ、あなたのことが、好きで好きでたまらないだけなのに。
「――抵抗しないんですね、いつも」
「するはずありませんよ。いやじゃありませんから。――むしろうれしいんですから」
「――ふうん」
 私が抵抗したほうが、あなたは喜ぶのかもしれないけど。
 でも、それは――無理だなあ。
 そんな難しい演技、私には無理だ。
「――」
 すねたような顔で、私のことを見つめてくる。
 見つめられると、苦しくなる。
 それでも見つめていて欲しい。
 息が苦しくなるけれど。
「――なんで私は、こんなことをしているんでしょうか?」
 それは正直、私も不思議だ。
 どうしてあなたは、私に触れてくれるのか。
 ――漠然と、思う。根拠もなく、思う。
 もしかしたら。
 ユヴュ。
 あなたも孤独なのだろうか。
 あなたも、また。
 周りとは、どこか、ずれて軋んで、噛みあわないのだろうか。
 貴族としては十人並みだとあなたは言う。何度も言う。
 でも。
 だけど。
 十人並みの――普通の貴族は、こんなところまで来たりしやしない。私の本を読んだって、私に会いに来たりしない。
 あなたは知らない。気づいていない。
 自分がどれほど特別な存在なのか。
 私はいつも、伝えているつもりなのだけど。いつも、いつも、いつだって、あなたがどれほど特別か、あなたに伝えているつもりなのだけど。
 私なんぞの言葉では、やっぱりあんまり、重みがない。
「――まあ、いいか」
 言葉とともに、抱きよせられる。
「どうせはじめてしまったんだし」
 なんでもいい。なんでもかまわない。
 あなたの動機が、なんであっても。
 私の好きな人が、私に触れてくれる。
 それだけで。
 私は、幸せ。



(ユビュ)
 別に、こいつを肉体的に痛めつけたいわけじゃないんだ。そんなことはいつでも出来る。体格と筋力と、身体能力の差がありすぎる。簡単すぎてあほらしい。
 だから別に、痛めつけるために抱いている、というわけでもないんだ。
 だったらどうして、私はこいつを抱くのか。
 好きでもないのに。
 どうして。
 どうして。
 面白いから――かも、しれない。
 こいつはいやがりはしないけど、時々ひどくうろたえることがある。
 それがなんだか面白い。
「――あ」
 たとえばこいつは自分の素足――指と指とが融合し、ひれか何かのようになっている異形の足を、見られる時もさわられる時も、真っ赤になってひどくうろたえる。つかまえて、水かきのようになっているところをなでまわしてやると、そのまま気を失ってしまうんじゃないかという顔をする。
 私は意地が悪いんだろう。それくらいのことは、自分でわかる。
 だが、なんだってこいつは、こんなどうでもいいことで、こんなに動揺するんだろう?
 異形の呼び名は、私達のあいだでは『ツキノヒト』。こいつら――地の民達のあいだでは『ツキのヒルコ』。
『ヒルコ』とは、いにしえのある国の言葉で、生まれ損ないの子、という意味なのだという。
 だからこいつは、こんなにうろたえるんだろうか。自分のことを、いつも生まれ損ないだと思っているから、だから――。
「そこ、は――あの、そこ、は――」
 アンツが、消え入りそうな声で切れ切れに言う。
「足、ですね。それが何か?」
「そこ――あの――だって――」
「くすぐったいですか?」
「え? い、いえ――」
「それとも、痛い?」
「いえ、そんなことは――」
「足、ちっちゃいですね」
 まあ、私より一回りかそれ以上体が小さいんだから当然と言えば当然だが、それにしても小さい。子供の足みたいだ。
「あ――は、はあ――」
「まああなたは、どこもかしこもちっちゃいんですけど」
「――」
 にこ、と、恥ずかしそうにアンツが笑う。
 変なやつだ、まったく。
「――あなたちゃんと、おなかいっぱい食べてます?」
 なぜだか私は、そんなことを聞いている。
「え?」
「なんでこんなに細いんです。私達だってまあ、別にそんなにがっちりした体形ってわけじゃありませんが、それにしたってあなたみたいに貧相な体のものなんていはしませんよ」
「はあ、まあ、その、もとからの体質もあると思いますし、年のせいで体の肉が落ちたというのもあるでしょうし――」
「年をとると、やせるんですか?」
「というか――衰えるんです」
「ふうん」
 ほんとにまったく頼りない体で、ユーリルを抱きしめている時なんかとはまるで違っていて、アンツを腕に抱くたびに、こんなに薄っぺたくて細っこい体なのかと、毎回軽くギョッとする。
「――つぶしてしまいそうですよ。あなたがあんまり、貧相すぎて」
「――大丈夫、です」
「そうですか」
 いちいち笑うな、いらいらする。
 なんとなく。
 ちょっといたずらっけを出して、アンツのつま先を口に含んでやる。
「――!!?」
 そのままアンツが卒倒するかと思った。真っ赤になって、完全に硬直してしまっている。
「――ほんとにちっちゃな足ですね」
「――」
 アンツが泣きだすかと思った。
 結局泣かなかったけど。
 泣きそうな顔で、私を見つめて。
「――どうすれば――」
「え?」
「私は――どうすれば――」
「別にどうもしなくていいです」
 私は何で、こんなことをしているんだろう。
 それでも妙に、楽しくなくもなかった。
「私の好きに、させて下さい」
「――」
 コクンと頷くその顔は、びっくりするくらい赤かった。



(アンツ)
 どうして。
 どうして。
 どうしてこんなことが、この私の身の上に起こるのだろう。
 こんな――こんな素晴らしい、夢にも思ったことのないようなことが。
 あなたはいつも、与えてくれる。
 なんの惜しげもなく、あびせるように、ほとばしる輝きを私に与えてくれる。
 私は何も持っていないのに。私には何もないのに。私には、あなたにあげることの出来るものなど、何一つありはしないのに。
 だから。
 だから、私は。
 私はあなたに、何をされてもいい。
 などと私が言ったところで、たいていの者――いや、あなた以外のすべての者は、おぞけをふるってまっぴらごめんだと言うだろう。
 だけど、あなたは――。
「なんで――こんなふうになるんです?」
「え?」
「年をとると――なんで、こんなふうになるんです?」
 浮き出たあばらをなぞられ、油気のない髪を指で梳かれ、その指で頬をなでられる。
 私は答えたいのだけれど、問いの答えを私も知らない。
「どうして――でしょう、ね――」
「――生きているものは、みんないつかは死ななきゃいけないんです」
 ひどくきっぱりとした、まっすぐな声だった。
「新しいものが生まれてくるためには、生きているものは、死んでいかなきゃいけないんです。でも――」
 静かに動く、指は優しい。
「どうして――どうして、でしょう。私達――イギシュタール貴族の、生は長く、老いは短い。あなたがたの――地の民の、生は短く、老いは長い」
「どうしてでしょう、ね――」
「――」
 私は何も知らない。
 考えてみたことすらない。
 なぜ『老い』があるのか、など。
 死の意味だったら少しはわかる、ような気がする。死んでいく者達がいなくなれば、地上はたちまち生き物たちであふれかえる。
 だが、老いは、
 いったい、なんのために?
「――あなたはきれいじゃないですね」
 そう言われても、かまわない。
 だってほんとのことだから。
 そう言われても、かまわない。
 あなたの声が、好きだから。
「あなたはとても、きれい、ですね」
 私は、精一杯のささやきを返す。
 あなたはきれい。とっても、きれい。
「――ばかばかしい」
 ああ、そうだ。
 私は、馬鹿だ。
「――」
 どうしてこんな事をしてくれるのか、何回経験しても不思議な気持ちになる。
 どうして私なんぞをかまい、あまつさえ抱いたりなどしてくれるのか。
「――なんでこんなふうになるんです?」
 下腹部のそれを指摘され、一気に赤面する。
「いや――その――あの――ええと――」
「別になんにもしてないのに、まだ」
「――」
 あれだけいろいろしてくれたのに、あなたは何もしていないと言う。
 あなたが好き。
 胸が痛い。
 息が苦しい。
 まるで病気だ。
 死にいたる病。
「――濡らして下さい」
 そう言われたらどうすればいいか、幸いな事に知っている。
 のどの奥をえぐられるのも、快感とまではさすがに言えないが、いやだと思ったことはない。もっと奥まで迎え入れたいくらいだが、いかんせん、肉体的な限界というものがある。
「――このままいれちゃおうかな」
 少しだけ、熱っぽい声。
 私は、頷く。――頷いている、つもりだ。そう見えるだろうか。口に陰茎を頬張ったまま頭を動かしたのでいささか自信がない。
「――うそですよ。別に、痛い思いをさせたいわけじゃない」
「――」
 別に、いくら痛くしてくれたってかまわないのに。
 ――あ。
 口の中に味がにじみ、そろそろなんだということがわかる。
「――飲んで」
「――」
 喜んで、などと言ったら、気味悪がられてしまうだろうか。
 飲むのも好き。――というか、あなたのすることなら、してくれる事ならなんでも好き。
 トクトクと口の中で脈動するのが好き。口の中にあたたかいものがあふれるのが好き。口から引き抜かれる瞬間も好き。
「少し――体勢、変えて」
「あ、はい、ええと、どう――」
「こう――ちがいます。こうして――また、なめてて下さい」
「――」
 なんでユヴュはこんなことを、こんな体勢を知っているのだろう? それともただ単に、私が極端にこういう事に無知なだけで、これくらいのことは普通だったらみんな自然と身につけるものなのだろうか。
 脇腹を下にして、互いが互いの足のあいだに顔を埋めるようにして、はたから見るとどんな事になっているのか、チラリと思うとめまいがするが、幸いここには誰もいない。
 私達、二人しか。
「――!」
 指を入れられて、反射的に口に力を入れてしまいそうなのをあわててこらえる。一瞬息がとまり、少しだけ気が遠くなる。
「――痛い?」
 痛いわけではないが、自分がその、口にアレをくわえている時にいじられるのは、ちょっとつらい。というか、困る。どっちに注意を向ければいいのかわからなくなる。私はとろい上にまるで慣れていないものだから、よけいどうすればいいのかわからなくなってしまう。
 とにかくするほうに集中しようと思ってはみたのだが、いじられていると声が出そうになるし、でも口はふさがっているし、まさか噛むわけにはいかないしそんなことをしてしまってはかわいそうだし、でも指はどんどん奥に入ってくるし、ほんとは前も苦しくてどうにかしてほしいんだけどでも今さわられたらそのままイッてしまうだろうし、そうしたらその――私は年で、その、続けてというのは無理だし、でも考えてみれば抱くのは無理でも抱かれるのはなんの問題もなく出来るわけで――。
「――なんでやめちゃうんです」
 ペチ、とふとももを叩かれる。知らぬ間に私は、口をはなしてしまい、無意味にただただ、あえぎ続けていたらしい。
「もういいんですか、いれちゃっても?」
「はい――どうぞ――」
「――ふん」
 グ――と、足が割られる。
「途中でやめたりしませんからね」
「はい――どうぞ――存分に――」
「――ばーか」
 そうだなあ。
 私は、馬鹿だ。
 でも、いいや。
 馬鹿でも、別に――。
「――あ――」
 入って、くる。
 痛くても、痛くなくても、なんでもいい、どうでもいい。
 ただ、くっついていたい。
 今なら、今ならば少しだけ。
 しがみついても、いいだろうか?
「――大丈夫、ですか?」
 ああ――心配してくれているんだ。
 うれしいなあ。
 あなたは、優しいなあ。
「――大丈夫、ですよ」
 私はたぶん、笑っている。
 あたたかくって、ぼうっとする。
「――」
 もっと、などと口走りそうになり、必死で唇を引き結ぶ。
 私がそんなことを口走ったりしてしまっては、さすがに気味が悪いだろう。
「――」
 あなたはとまどったような顔で、ただひたすらにあなたを感じている、ただひたすらにあなたを感じていたいだけの私を見つめる。
 あなたは私のものじゃなくても、私はとっくに、あなたのもの。
「――なんで?」
 あなたの口から、とまどいがこぼれる。
「なんであなたは――笑うんですか?」
「――」
 答えは一つ。何度でもいおう。
「あなたのことが――好きだから」
「――わからない」
 わからなくていい。いや――わからない、ままでいて。
 わかってしまえば、そこにはただ。
 先のない恋に身を焦がす、馬鹿な男が一人いるだけ。
 私の内に謎ある限り、あなたは私をかまってくれる。
 解けないパズルは苛立たしいもの。どうにか解こうといじりまわすもの。
 あなたは私を壊してもいい。
 だから、だから、ああ――だから。
「――ねがい――」
 私のそばに――いて下さい。



(ユヴュ)
 ――気がむくと、泊まっていくのがくせになった。
 役にも立たないことをしているという自覚はある。
「――窮屈じゃないですか?」
「二人で寝るのには慣れてますんで」
「…………」
 こいつまさか、発作か何か起こしたんじゃないか?
「――どうしました?」
「あ、あの――そ、そう、そういうかたが、い、いら、いらっしゃるんですか――?」
「は?」
 何言ってるんだこいつ?
「なんの話です?」
「あ、あの――その――い、いっしょにその――床を共にするような、その――」
「私がいっしょに寝ている相手を知りたいんですか? 私のオリジナルですが」
「――へ?」
「あなたがたの言葉で言うと、私の双子の兄、ですか。子供のころほど頻繁にじゃないですけど、今でもよく、いっしょに寝ますよ」
「――あ、そうなんですか」
 なんだこいつ、急に気の抜けた顔になって。
「いいですね、兄弟って」
「あなたがたは、たいてい一人だけで生まれてくるんですよね」
「え? ああ、はい、たいていは」
「私達は、基本二人で生まれてきます。一人っきりで生まれてくるほうが珍しい」
「はい、そう、うかがっています」
「あなたは兄弟が欲しかったんですか?」
「え? そうですね――ええと、欲しいには欲しいですけど、できれば一卵性の双子ではないほうがいいですね。私みたいなのがもう一人いても、どうもその――なんというか――」
「――私とユーリルは、顔の形はほとんど同じですが、それでもまるっきり違いますよ」
 なぜだか私は、必要以上に強い口調で言った。
「あなたはユーリルと知りあったほうがよかったでしょうにね。ユーリルは私と違って、おっとりしてて、素直で優しいですから、きっとあなたにも優しくしてくれますよ。私みたいに、つっかかったり皮肉ったりこきおろしたり小馬鹿にしたりせずにね。あなたは私を好きだというけど、ユーリルが相手だったらきっと、もっと好きになれたでしょうにね」
「そんなことはありませんよ」
「――」
 いやになるほどきっぱりと言われ、私は腹がたつのに、ムッとするのに、なぜだか何も言い返せない。
「あなたのお兄さんがどんなに優しくても、どんなにいい人でも、姿形があなたに生きうつしでも、私はあなたのほうがいい」
「――ユーリルに会ったこともないのに、よくそんなことが言えますね」
「たとえ会っても同じです。私はあなたのほうがいい。――私はあなたのほうがいい」
「――なんで?」
「――あなたは私に、会いに来てくれたから。私に会いに来てくれるから」
「――ばかばかしい」
「私はあなたのほうが――」
 口づけると、真っ赤になって黙りこむのを知っている。
 だから、そうする。
「――」
「――黙って寝なさい」
「――はい」
 なんでこいつは、私のほうがいいなんて言うんだ。
 比べようがないだろう。ユーリルに会ったこともないのに。
 ――ばかばかしい。
 まともに考える気にもなれない。
 だから。
 私も、寝よう。



(アンツ)
 一人じゃない。
 今、私は――一人じゃ、ない。
 一番好きな人、一番愛しい人、一番大切な人が、私のかたわらにいる。
 ――わかっている。
 こんなことは、いつまでも続かない。
 続く、わけがない。
 わかっている。
 これは夢。一刻の夢。いつか覚める夢。いつか、また。
 私は、一人になる。
 わかっている。――わかっているんだ。
 でも。
 それでも。
 すべてわかっていてもなお、私はこの夢に溺れる。
 いつかは溺れ死ぬことが、どんなにはっきりわかっていても。
「――ユヴュ」
 そっと、ささやくと。
「――ん?」
 寝ぼけているのだろう。きょとんとあどけない顔で私を見つめ。
「なに?」
 と、眠たげにつぶやく。
「ごめんね、起こした?」
「ん――」
 と、ユヴュは目をしばたたき。
「――なんだ、あなたか」
 と、眉をひそめる。
「ユーリルかと思った」
「すみません、起こしてしまって」
 そう――今ユヴュが、私のことを彼のお兄さんと勘違いしたのは、私があまりにもくだけた、なれなれしい口をきいてしまったからだろう。そう――きっと、ユヴュのお兄さんは、くだけた、気楽な、この上なく親しげな口調で、ユヴュに話しかけているのだろう。
 そんなこと――私なんぞが、しちゃいけないんだ。
「――もう、朝ですか?」
「ええと、一応、夜が明けはじめてるみたいですが――」
「あなたいつも、こんなに早く起きてるんですか?」
「ええと――まあ、そういう日もあります」
「――私よりずっと弱っちいくせに、なんで睡眠時間が短くて平気なんです?」
「さあ――どうしてでしょう?」
 本当は。
 平気なわけでは、ない。
 でも私は、あなたの前では、あなたの前でだけは、ずっと平気な顔をしていよう。
 私は何も持っていない。
 あなたになにもあげられない。
 私の言葉も伝わらない。
 どんなにあなたに好きだと告げても、なんにも変わることはない。
 私の恋には意味がない。
 私の愛にも意味がない。
 それでも。
 それでも、せめて。
 私は、笑っていよう。
 あなたの前では、笑っていよう。
 そう、もちろん、私の笑顔にだって何も意味などありはしない。私の笑顔はあなたを喜ばせるどころか、逆に苛立たせ、そして当惑させてしまう。
 それでも。
 それでも私は、笑ってしまう。
 だって、幸せだから。
 あなたがいると、幸せだから。
「――なにがそんなにうれしいんだか」
 ああ、私はやっぱり、笑っていたのか。
「――一人じゃないのが、うれしいんですよ」
「――」
 あなたは不思議そうな顔をする。
 イギシュタール貴族は、同族間での共鳴、共感能力が異常なまでに強く、個ではなく群で行動するのが基本だという。
 それならば。
 あなたがたは――孤独というものを知らないのだろうか。
 でも――それなら。
 なぜあなたは群れを離れ、私のところへやってくる――?
「――あなたがたは、たった一人で生まれてくるんですね」
「ええ、たいていは」
「――一人は嫌い、ですか?」
「――もう、慣れました」
「――だったら」
 あたたかな手が、私の頬に触れる。
「どうしてそんな顔をするんです?」
「――」
 あ。
 ああ――。
 わかって――くれた――。
「ユヴュ――さん」
「はい?」
「私といっしょにいてくれて――本当に、ありがとう」
「――なんで私は、こんなことをしているんだか」
「――ありがとう、ございます」
「一度聞けばわかります」
「――はい」
「――また」
 薄明かりの中で輝く、琥珀の瞳。
「あなたの授業を見学してもいいですか?」
「ええ、どうぞ。喜んで」
「今度はちゃんと、先に皆さんに言っておいて下さいね」
「え? 何を、ですか?」
「私」
 かわいらしく、とがらせた唇。
「ちゃんと赤ちゃんのお世話、出来るんですからね」
「――はい」
 ああ。
 あなたは私の宝物。たった一つの、生ける宝石。
 ――でも。
 ――私は?
 私はあなたにとって――何?
 ――別に、どう思われていたところでしかたがないし、私がどうこう出来るものでもないが。
 ――考えるな。
 考えてもしかたのないことを、考えるな。
 ――と、思っても、どだい無理なことだという事はわかっている。
 私はずっと――今までずっと、考えてもしかたのないことばかりを考え続けてきた。
 ――考えても、しかたのないことだけど。
 ユヴュ。
 もしもあなたが、ほんの少しでも。
 私を好きでいてくれたなら、私はとても――とても、とても――とてもうれしいんだけど――。

月と私と、あなたと私と

月と私と、あなたと私と



(ユーリル)
 わかってしまう。
 私達は、わかってしまう。
 私達イギシュタール貴族は、互いのことを、互いの思いを、想いを、気持ちを、気分を、心を、感情を、口にせずともなんとなく、かなり深い部分でわかってしまう。わかりあえてしまう。
 ――はず、なのだが。
 その前提に、異議を申し立てたいわけではないが。
 それでも私は、こう思う。
 すべてがわかるわけではない。
 すべてが伝わるわけではない。
 たとえば。
 私達。
 私とユヴュ。
 ユーリルとユヴュ。
 わからない。
 伝わらない。
 いや――もちろん、まるきりわからない、まったく伝わらない、というわけではない。たいていのことは、わかるし伝わる。
 けど。
 けど。
 けど――。
 私達――私も、ユヴュも、他のイギシュタール貴族達とは、どうもいささか、ちがう、ような気がする。
 ずれている。
 軋んでいる。
 あるべき形が、少し狂って。
 どうもしっくり噛みあわない。
 それでも私は黙ったまんま、どこへも行かずにここにいる。
 ユヴュは問いかける。私に問いかける。様々なことを問いかける。
 そして――出かけていく。
 ――どこへ?
 ねえ、ユヴュ。
 いったいどこへ? どこへ行くの?
 知りたいのなら、聞けばいい。いっしょについていけばいい。
 そこで私は、不安になる。
 もしも聞いてもわからなかったら? その次何をすればいい?
 いっしょに行っても一人なら?
 いっしょに行って、ついていって、たとえ体はそばにあっても、心が重ならなかったら――?


 ――ユヴュはなぜ、地の民達の街へ行くのか。
 そこで何を見ているのか。
 そこで誰と会っているのか。
 私――私は。
 それを知って、どうするのか。
 私も同じことをするのか。
 ――同じ、こと?
 ユヴュはいったい――何をしている?
 それは――私にも出来ることなのか?
 ――おかしな、疑問だ。
 ユヴュと私とは、まったく同じ遺伝子を、まったく同じ肉体を持っている。だから、ユヴュに出来ることはもちろん私にも出来るに決まっている――。
 ――本当に、そうなのか?
 ――本当に?
 ――怖い。
 ――怖い?
 私はいったい――何が、怖い?
 私だけか?
 私だけなのか?
 こんなふうに、不安を抱え、とまどい続け、体の半分がじわじわと失われていくように感じているのは――私だけ、なのか?
 ――私だけ、なのかもしれない。
 だって。
 あんなにしょっちゅう、地の民達の街に遊びに行くのは、私の知る限りでは、ユヴュよりほかにはいないのだから。
 あんな半身を持っているのは、きっと私だけなのだから。
 ――どうして?
 どうしてユヴュと私とは、こんなにも違っているんだ?
 誰も疑問に思わないのか?
 私とユヴュとは、こんなに違う。
 それに悩むのは、そのことを悩むのは――私だけ、なのか?
 ――ユヴュ。
 ユヴュは。
 悩んだり、しないのだろうか。不安になったりしないのだろうか。
 もとは一つであったはずなのに。
 私とあなたは、こんなに違う――。


「私は、ユヴュ!」
 ああ、そうだ。――思いだした。
「私は、ユヴュです!」
 ユヴュはずっと――ずっと、ずっと昔から、物心ついたその時から、ずっとずっと、繰り返し繰り返し、そう主張し続けてきた。
「私は、ユヴュです! ユヴュなの! ユヴュって呼んで!」
 そう――たとえば、こんな時。
「スペアのほうの子、前へ出て」などと言われた時。私達二人が、幼い子供だった時。
 ユヴュは怒って、こう言った。
「私は、ユヴュ!」――と。
 ――では、私は?
 私は、言ったか?
「私は、ユーリル!」――と。
 ――言わなかった。
 私は、言わなかった。
 かわりにユヴュがこう言ったのだ。
「じゃあ、オリジナルのほうの子――」と言われた時。
 ユヴュは真っ赤になって怒りながらこう言った。
「ユーリルは、ユーリルなの! ちゃんとユーリルって呼んで下さい! 私はユヴュで、ユーリルはユーリルなの!」
 ――そう。
 私は何も、言わなかった。
 そして、思っていた。
 私は――ユヴュではない。――と。



(ユヴュ)
 ――なんだかよくわからない。
 なんで自分がこんなことをしているのか、どうにもこうにもよくわからない。
 時間の無駄で、馬鹿馬鹿しくて、なんの役にも立ちはしない。
 やはり私のほうがスペアでよかったのだろう。といって別に、オリジナルとスペアとを決めるのに、特に何か適性検査をするというわけでもない。単なる確率なのだから、要するに運がよかったという事か。
 ユーリルは――私のように、馬鹿げた、つまらない、不毛な事をしやしない。
 私はユーリルのことが――うらやましい、の、だろうか?
 うらやましい、だろうか。
 私よりもはるかに『イギシュタール貴族』らしい、おっとりと優しい、私の半身のことが。
 ――わからない。
 私にわかること。
 ユーリルのことが好き。これは間違いない。
 ユーリルはオリジナル。私はスペア。
 だから、うらやましい――か?
 子供のころ――ずいぶんと、子供のころは、それがうらやましかったような覚えがある。
 だが今は――なんとなく、わかっている。
 オリジナルでもスペアでも、結局のところ同じこと。
 ――本当に?
 本当に、わかっているのか、私は?
 本当に、同じことなのか?
 ――私は、なぜ、こんなことを考えてしまうのだろう?
 他のイギシュタール貴族達は、こんなことを考えたりはしない、ようだ。
 そう――『ツキノヒト』達でさえ。
 ――では。
 ――ユーリルは?
 私の、半身は?
 私のように、こんなわけのわからないことを、つらつらと考えあぐねてみたり、するのか?
 ――いや。
 そんなことは、ないだろうな。
 だって。
 だってユーリルは、アンツを知らないから。
 ――あれ?
 私は今――なにかとても――とても、とても――おかしなことを、考えやしなかったか――?



(アンツ)
「何が楽しいんですか?」と、聞かれた。
「あなたはいったい、何がそんなに楽しいんですか?」と。
 私は答えようとして、でも、理由があまりに多すぎて、言葉が出なくなってしまった。
「――まったく」
 と、ユヴュは口をへの字に曲げた。
「あなたときたらいつだって、馬鹿みたいにヘラヘラヘラヘラと」
「あ、ええと、その、す、すみません」
「なんで笑うんです?」
「楽しいからです」
 本当は「楽しいから」というより「幸せだから」なのだが、それを言ってしまっては、あきれるを通りこして気味悪がられてしまうかもしれない。
「だから、何が楽しいんです。なんで楽しいんです」
「ええと――」
 そこでまた、私は口ごもる。
「――わけがわからない」
 すねたように、ユヴュが言う。
 そんなあなたを見られることさえも、私にとってはこの上ない喜びなのだけど。
「ユヴュさんは――楽しく、ないんですか?」
「――」
 私の問いに、ユヴュは眉をひそめる。
 そして。
 ポツリと――言う。
「子供のころは、ユーリルと――兄と二人で遊んでいるだけで、楽しかった、ですけど」
「――」
 何か言ったら何かを壊してしまいそうで、私はただ、黙って頷く。
「いまは――」
 ユヴュは言いかけ、大きく目を見開く。
 そして、つぶやく。
「今――ここには――ユーリルが、いない――」
 そして。
 ユヴュは、息を飲んで言う。
 とても、小さな声で。
「私は――一人だ――」
「――」
 ああ、そうだ。
 そうなのだ。
 私がここにいるけれど。
 あなたと二人でいるけれど。
 あなたは一人、私も一人。
 一人と、一人。
 私はなにか言いたくて、だけどなんにも言えなくて。
「――なんだ」
 私を見て、ユヴュが――笑う。
「ようやっと、笑うのをやめたんですか」
「――」
「――なんで?」
「――わかりません」
「馬鹿ですか、あなたは」
「馬鹿なんだと――思います」
「――ばーか」
 その言葉はいつも、睦言のように私の耳をうつ。
 子供っぽい、からかうような、それでいてなまめかしい、そのささやき。
「――馬鹿なんでしょう、私は」
「ええ、間違いなく馬鹿ですね」
「いいです、馬鹿でも」
「どうしようもない人だな」
「その――どうもすみません」
「謝られたところで、なんの役にも立ちません」
「え――ええと、その――」
「――なんの役にも立ちません」
 ああ。
 あなたはいつも、なんて真摯なんだろう。
「なんで私は、なんの役にも立たないとわかっていることを、いつもいつも、してしまうんでしょうねえ――?」
「――」
 それはあなたが若いから。
 そうしてとても、真摯、だから。
 わからぬことを考えず、ふたをしたっていいはずなのに、通りすぎてもいいはずなのに。
 あなたはそうせず考える。わからないことをわからないと、素直に認めて考える。
「なんで?」――と。
「私は――うれしい、ですけど」
 などと私は、つぶやいてしまう。もちろんあなたはいぶかしげに顔をしかめて私を見つめる。
「――何をわけのわからないことを言っているんですか、あなたは」
「す、すみません」
「――まったく」
「――」
 私はあなたの役に立たない。
 なのにあなたのそばにいる。
 どうか、どうか、ああ――どうか。
 私という存在が、あなたの妨げにだけはなったりしませんように。お願いです、お願いです、お願いです――。



(ユヴュ)
 奇妙な気分になる。
 とても、奇妙な。
 ぐったりと横たわり、荒い息をついているアンツを見おろして、なんだってこいつはこんなに弱っちいんだろう――などとぼんやり考えていると、なんだか奇妙な気分になってくる。
 ちょっと抱いただけで、いちいち体力を使い果たすなってんだ、まったく。
 ――なんでこんなに弱いんだろう。
 私とは違う。私達とは、違う。
「――大丈夫、ですか?」
 などと、意味もなく声をかけている。どうせ返事は「はい」か「大丈夫です」に決まっているというのに。
「――はい」
「あんまりそうは見えませんがね」
「大丈夫――です」
「――」
 なぜだか私は手をのばし、アンツの髪をかきまわす。アンツはひどく驚いて、大きく目を見開く。
「髪――さわられるの、嫌いなんですか?」
「え、ち、ちがいます」
「なんでそんな顔をするんです?」
「あ――びっくりしてしまって――」
「私、そんなに変なことしましたか?」
「――」
 アンツは目をそらし、唇を噛む。
 そして乾いた声で言う。
「私にさわろうとする人なんて――今までいませんでしたので――」
「――」
 それはきっと、こいつが『ツキのヒルコ』だからだろう、ぐらいのことは、なんとなくわかるようになってきた。
 なんとなくわかるので、いちいち確認はしなかった。
「――」
 髪をかきまわしていると、大きく見開かれていた目が、ゆっくりと閉じられていく。
 私達――イギシュタール貴族は、こいつら地の民よりは夜目がきく。だから私には、アンツの顔がはっきりと見えているけれど。
 アンツには私の顔が、どれくらい見えているのだろう。
 まぶたが完全に閉ざされ、疑問は消える。これで何かが見えるはずはない。
 これは――今のこの、アンツの顔はきっと、やすらかな顔、というものなのだろう、きっと。
「――優しいほうが、いいですか?」
 いったい私はなんだって、こんなわけのわからないことを口走ったりしているんだろう。
「私は――私が――優しいほうが、いいですか? ――ああ、そりゃ当然、そのほうがいいに決まっていますよね。つまらない事を聞きました。――ばかみたいだ、まったく」
 それがわかっているのに、ばかなことだとわかっているのに。
 なぜだか言葉はとまらない。
「優しくして――欲しいですか? 欲しい、です、よね――」
「――」
 ゆるりと。
 アンツは――笑う。
「もう――十分すぎます」
「――え?」
「もう十分に――私の手からはあふれるほどに、優しくしていただいています。ですから――そんなことは、望みません」
「――」
 それでは何を望むのか。
 疑問はあるのに、口に出せない。
 なぜ、口に出せない。
 わからない。
 ただ、なぜだか、やけに息苦しい事だけがわかる。
「――窓を開けますよ」
 返事を待たず、窓を開け放つ。
 ああ。
 そこには、月が。
 満月――ではない。わずかに欠けた。
 でも――なんて明るい。
「――」
 見とれていた。
 月に、見とれていた。
 なぜだろう、月光から、涼やかな香りを感じた。
「――」
 かすかな衣擦れ。薄い上掛けを体に巻きつけたアンツが傍らに立つ。それはかなり間の抜けた格好であるのに、なぜだか腹も立たず、笑う気にもなれない。
「――月が――」
 ポツリとつぶやくと、アンツがこくりと頷く。
 アンツは笑っていない。私も笑っていない。
 ただ、二人で、月を見つめている。
「――月が生命を生みだしたのだ、という説をご存知ですか?」
 答えはたやすく予想できる。どうせ知りやしないのだ。
「え――いえ――」
 ほら、やっぱり。
「――あとで教えてあげますよ。ゆっくりと、ね」
「――ありがとう」
 苦しげなその声に、私はハッとアンツを見る。
 アンツは笑っていない。
 泣いてるわけでもないけれど。
 ただ、私は。
 声を、かけられなかった。
「――」
 ――ふ、と。
 月を見つめているアンツの口元が、緩む。
 そして。
「うーさぎうさぎ、なーにみーてはーねーる」
 え?
 ――歌?
「何を見て跳ねたんですか?」
「じゅーうごーや、おーつきさーま、みーてはーねーるー」
「どうして満月を見た兎が、飛び跳ねなくっちゃいけないんです?」
 まったくわけがわからない。
「それは、やっぱり」
 あ。
 ああ。
 笑っている。
 いつものように。
 月光の下で、アンツが笑う。
「お月さまが、あんまり綺麗だったからじゃないですか?」
「――なんなんですか、それは、まったく」
「――」
 アンツは口を開き――かけたが、くしゃみの連発で、何を言おうとしていたのかは、結局わからずじまいになった。
「寒いんですか?」
「あ、いえ、その、大丈夫です、大丈夫」
「――」
 私は涼しくて気持ちがいいくらいなのだが、アンツにさわって驚いた。
 冷たい。
 人間の体って、こんなに冷たくなったりするのか。
 ユーリルの体は、いつだってあたたかいのに。
「――冷たい」
「す、すみません」
「あなた、自分の意志で体を冷たくしているんですか?」
「は? え? い、いえ、そ、そういうわけではありませんが」
「だったら自分がやったわけでもないことで、謝ることはないでしょう。自分のせいでもないことで、なんでいちいち謝るんです」
「――」
 なんでこいつは、泣きそうな顔をするんだろう。
「ありがとう――ございます」
「寒いんなら、窓、閉めますよ。換気も出来たみたいですし」
「あ、あの――」
「はい?」
「もう少しだけ――月を見ていてもいいですか?」
「――どうぞ」
「ありがとうございます」
「――」
 私も月を見ていたかった。
 だから窓辺で、月を見ていた。
 二人並んで、月を見ていた。
 二人並んでいたけれど、肌と肌とが触れあっていたけど。
 私は、ただ、月を眺めていたかっただけ。
 ただ、それだけのこと。



(ユーリル)
 月を見ていた。
 たった一人で。
 私は一人で、月を見ていた。
 なぜ。
 なぜ。
 私は一人。
 なぜ、いつの間に。
 私は、一人。
 二人で共に、生まれてきたのに。
 私は一人で、月を見ている。
 月は一人。
 月も一人。
 ああ――そうだ。
 だから『ツキノヒト』なのだ。
 同じ形の半身がいないから。
 たった一人で空にいる、孤高の月と同じだから。
 だから『ツキノヒト』。
 私は――私達は。
 同じ形を、分け持っているのに。
 なぜ。
 なぜ。
 私は、一人。
「――あ――」
 あ。
 ああ。
 だめだ。
 来てしまう。
 こぼれてしまう。
 おもいが言葉になってしまう。
「ああ――」
 これは。
 そんな。
 こんなおもいは。こんな言葉は。
 私達には、似あわないのに。
 それなのに。
 生まれ出ようとする。
 この世にあらわれようとする。
 私の――うめき。
「ああ――ああ――」
 産声が、あがり。
「ああ――さびしい――」
 そうしてこの世に生れ出る。
 私の心が、生まれ出る。
「さびしい――さびしい――さびしいよぉ――ユヴュ――なんで――なんで――ねえ――なんで――?」
 生まれたからとて、行くあてもない。
 私の心は、堂々巡り。
「私は――一人は――さびしいよぉ――ユヴュ――ねえ――ねえ――」
 ユヴュは――さびしくないの?
 ユヴュは、一人でも、さびしくはないの?
 それとも。
 ねえ。
 ユヴュは、今――一人じゃ、ないの――?



(アンツ)
 とけた。
 とろけた。
 何も考えたくなかった。
 ただぬくもりにひたっていたかった。
 気まぐれでいい。ひまつぶしでいい。残酷な手慰みでかまわない。
 あなたは、あたたかい。
 何も言わない。
 何も言えない。
 あるのは、ただ。
 やさしい、愛撫。
 もしも願いがかなうなら。
 時よとまれ。
 とどまれ、いかにもおまえは美しい。
 ――ああ、そうだ。
 知っている。
 私は、知っている。
 私の願いなど、かなおうはずもない。これほどの幸せを手にして、その上願いをかなえてもらおうなどと、ずうずうしいにもほどがある。
 ――もし。
 もしも。
 代償が、必要なら。
 この幸せに、この願いに、もし代償が必要なのなら。
 いっそこの場で止めてくれ。
 私の、息の根を。



(ユヴュ)
「あ」
 思わず声が出た。
 少し、驚いたのだ。
 ――ん?
 どうして私は驚いたんだ?
 ――ああ。
 アンツが、まだ寝ているからだ。
 こいつはいつも、朝がやたらと早い。いつだって私より先に起きて、ちょこまかちょこまか、何かをしている。
 でも、今朝はよく寝ているな。まあ、こういう日もある――。
 ――ん?
 なんだ――この違和感は。
 ――。
 ――あ。
 ――え?
 こいつ――こんなに険しい顔だったっけ?
 アンツはいつも、いつだってヘラヘラと笑っていて、でも、さすがに寝ている今は笑ってなくて。――え? だから、か? だからこんな――こんな険しい顔に見えるのか?
 笑っていないと――こんな顔、なのか。
 いつの間にか手をのばし、そっと頬に触れていた。
 当然アンツは目を覚まし、そして。
 笑った。
「あ――おはようございます」
「――おはようございます」
「ええと――朝ごはん、つくりましょうか?」
「――」
「――ユヴュさん?」
「ちょっと、笑うのをやめてみてくれますか?」
「は? え?」
「いいから」
「あ――はあ――」
 きょとんとした、困ったようなアンツの顔は、さっきのあの、険しい、どこか苦しげにさえ見えた寝顔とは似ても似つかず。
 あれは――錯覚か? いったいなんで、あんなふうに見えたりしたんだ?
「――あの」
 アンツが、きょときょとと目をしばたたく。
「ええと――どうか、しましたか?」
「どうもしません」
 気のせい――か?
「はあ、そうですか。あの――朝ごはん――」
「いただきます」
「あ、じゃあ、すぐ仕度しちゃいますね」
「ありがとうございます」
 アンツはいつものように、ヘラヘラとのんきに笑っていて。
 あれは――さっきのあの顔は――。
 いったい、なんだったんだろう――?



(ユーリル)
 教えて。
 教えて。
 誰か、教えて。
 教えて。
 教えて。
 私に、教えて。
 だけど、わからない。
 私は、わからない。
 いったい何が知りたいのか。
 何を教えて欲しいのか。
 でも――だけど。
 教えて欲しい、何かを。
 なぜ。
 なぜ。
 私は、一人。
 ――それを教えて欲しいのか?
 私はなぜ――一人、なのか。
 誰がそれを教えられる?
 誰が私に教えられる?
 私は一人。
 いつから、一人。
 一人って――なに?
 同族達の中にいて、多くの人にかこまれて。
 それでも一人と感じるのは、なぜ?
 一人。
 一人。
 一人って――なに?
 それとも、もしかしたら、こう言ったほうが正しいのだろうか。
 私って――ユーリルって――いったい、なに――?



(アンツ)
 これは絶望ではなく。
 しかしおそらく、希望でもなく。
 いささか恐怖に似ているかもしれず。
 といってどう対処のしようもなく。
 あなたを愛しているけれど、あなたといると苦しくて。
 あなたが持っているものを、もしかしたら欲しがっているのかもしれず。
 いや。
 ホントハアナタガホシインダ。
 私にわかっていることは、今がおそらく、私の頂点。
 あとは下りが待っているだけ。
 それとも。
 待っているのは、下りどころか墜落か。
 私の胸は締めつけられる。
 あなたには手が届かない。
 それでも、やはり。
 今が、きっと、私の頂点。
 終焉を目前にした楽園。
 あなたの翼を愛している。
 だけど翼が、あなたを奪う。
 私に翼が、あるわけがない。
 骨もなく、手も足もなく、地をはいずり、水に流される異形の肉塊。
 それが――ヒルコ。
 でも、もしかしたら。
 私がヒルコではなくても、やはり失う運命なのかもしれない。
 ――どうして私は、想像できないんだろう。
 この恋が、続くと。
 この恋が、かなうと。
 あきらめるのは、慣れている。
 だったらどうして、こんなに惑う?
 認めている。
 あなたは私の、先へ行く。
 踏みつけ、追い越し、羽ばたいていく。
 私は――ついて、いけない。
 私は何が悲しいんだ?
 愛する人が、自分より優れていることを、どうして嘆く必要がある?
 ――そう。
 一つだけ、ただ一つだけ、私の心を責め苛むのは。
 私はあなたに、ついていけない。
 ――いや。
 あなたは望みはしないだろう。ついてこいなどとは、決して望みはしないだろう。
 ――そばにいて下さい。
 そばにいたいんです。
 あなたのそばに、いたいんです。
 ――と、そう私が告げたところで、それはあなたにとっては、単なる迷惑でしかないのだろう。
 あなたの笑顔を、見ていたいから。
 私は望みに、ふたをする。
 ――けど。
 望みにふたをするけれど。それは苦しいことだけど。
 ユヴュ。
 私はやっぱり、あなたが好きで。
 伝える言葉を、選べるものなら。
「愛している」と「ありがとう」
 私をおいて、飛んでいっても。
 あなたの翼は、やっぱりきれい。



(ユヴュ)
「こ、困りました」
 と、真顔で言われた。
「い、今うちに、食べるものが何もありません」
「……買いに行けばいいんじゃないですか? それともお金もないんですか?」
「あ、ええと、その、お金はあるにはありますが」
 アンツはひどく、困ったような顔をした。
「買いに行くとなると、その――だいぶお待たせすることになってしまうかも――」
「別に多少待つくらい私はかまいませんよ。なんだったら一食や二食、抜いたところでどうということもありません」
「いや、それはいけません」
 と、アンツはまた真顔で言った。
「あなたのようなお若いかたは、三食きちんと食べるべきです」
「はあ、そうですか」
「ええと、それでは、その、がんばって、なるべく売ってもらえるようにします」
「は? ――ちょっと待って下さい」
「はい?」
「あなた今、何か変な事言いませんでしたか?」
「は? ええと――私何か、変な事言いましたっけ?」
「お店で物を買うのって、努力でどうにか――ああ、値切る、とかなんとか、そういうことをがんばるってことですか?」
「――」
 アンツの顔が、一瞬歪んだ。
「ええと、その――え、ええとですね、え、ええと、私の場合、あくまで私の場合の話ですが――」
「はあ」
「私の場合」
 アンツの顔が、再び歪んだ。
「お店の人は、機嫌がよくないと、お店のものを売ってくれないんです」
「――は?」
 私はあっけにとられた。
「な、なんですか、それは? い、いったいどういうわけです、機嫌のよしあしによって、売るか売らないか決めるだなんて?」
「――」
 アンツは、ひどく。
 ひどく、悲しげな笑みを浮かべた。
「――売ってくれるときがあるだけ、まだ親切なほうですよ」
「――なんなんですか、それは、いったい」
「私のことをよく知らない、遠くの店まで行けばその、普通に売ってもらえるでしょうが、そうするとその、今度は往復に時間がかかるでしょうし――」
「だから、さっきからあなたは、いったい何の話をしているんです?」
「――『ツキのヒルコ』は嫌われる、という話です」
「――」
 初めて聞く話だった。
 初めて聞く、声だった。
「あ」
 アンツは、ハッとしたような顔をした。
「す、すみません、その――」
「別に謝る必要はありません」
「あ、あのその、あの――」
「私が買いに行きましょうか?」
「は、あの、え!?」
「私が相手なら、さすがに売ってくれるでしょう」
「あ、はあ、でもその、いやその――」
「いつもごちそうになっていますしね。今日は私が、材料を買って来ますよ」
「――」
 アンツが、目をパチクリさせている。パチクリ白黒させている。時々こいつは、よくわからんことで動揺する。
「あ、で、でも、お、お店、わかりますか?」
「私が何回この街に来たと思ってるんです。だいたいのことはわかりますよ」
「はあ、すごいですねえ」
「いや別に、すごくもなんともないと思いますが」
「そうですか? あ、えーと、じゃあその、お金――」
「私が出します」
「え、いえ、でも――」
「いいから」
 まったくもって、人をいらいらさせるやつだ。
「行って来ます」
「あ――ありがとうございます」
「――ところで、あなた」
 私は、ふと疑問に思う。
「家に食べるものが何もない、って、それじゃああなた、私が来なかったら、今日はいったいどうするつもりだったんです?」
「あ、はあ」
 アンツは、ヘラリと笑う。
「私一人なら、お茶だけ飲んで寝ちゃうつもりでした」
「はあ!? ――あのですね」
「はい」
「私には三食きちんと食べろとかなんとか言っておいて、自分はどうなんですか、自分は」
「はあ、あの――私、もう、そんなに若くありませんし――正直あんまりおなかもすかない――」
「まったく」
 アンツをつかまえ、ちょっと揺さぶる。
「それだからあなた、こんなに頼りない体なんですよ。――ちゃんと食べなさい。もともとがそんなに弱っちいんだから」
「――はい」
 なぜだかアンツは、うれしそうに笑う。
「そうします」
「そうしなさい」
「はい」
「すぐに食べられるものを買ってくればいいんですか?」
「ええと、あの、お待ちいただけるなら私が何かつくりますが?」
「そうですか。では適当に、みつくろって買って来ます」
「ありがとうございます」
 そう言って、にこにこと笑うアンツは、ひどくうれしそうで。
 私は、なぜだか。
 本当に、なぜだかまったくわからないのだが。
 ひどく――悲しいような、気持ちになった。



(アンツ)
 ――私の上には何人か、兄や、姉や――兄とも姉ともわからないようなもの達がいた――らしい。
 私のあとに両親は、もう、子供をつくろうとはしなかった。
 両親は、私を愛してくれた。
 両親、だけは。
 今――これが愛なのかどうかはわからない。
 でも、今。
 ユヴュは私に触れてくれる。
 ユヴュは私を抱いてくれる。
「――ぁう――」
 たて続けに貫かれ、わずかにもがく。
「――」
 口づけてくれるのは、私のことを、その――少しは好き、だからだろうか?
 舌を舌で翻弄されながら、どこかで祈るようにそんなことを思っている。
 欲が深いと、自分で思う。
 せめて一つでも、一つでいいから自分の創ったものをこの世に残したいと思って、本を創って、創ったら誰かに読んで欲しくて、その感想がききたくて、そしたらユヴュが来てくれて、うれしくて、とてもうれしくて、また会いたくて、信じられないことにその願いはかなって、また会いに来てくれて、何度も会いに来てくれて、うれしくて、触れたくて、触れて欲しくて、そうしたら――抱いて、もらえて、好きで、好きで、ほんとに好きで、どうしても――。
 好きになって、欲しくて。
 欲が深いと、自分で思う。
「――あ――」
 口づけが終わってしまったのが、少し寂しい。
「――力、抜けちゃった?」
 時々――私を抱いている時、ユヴュは少しだけ、子供っぽい口調になる。
 それが、かわいくて好きだ。こんな口調を聞けるのは私だけかな、などと、勝手に思って勝手にうれしい。
 子供に抱かれて喜ぶ私は、たぶん狂っているのだろう。
「支えててあげるから」
 言葉のとおりに、腕に抱かれ。
「力抜いてていいですよ」
 ひざの上で、揺さぶられる。
 終わって欲しくない。
 このまま壊れたい。
「――」
 唇を動かす。
 あなたの、名前の形に。
 私には、わからない。
 こういう時に、あなたの名前を呼んでもいいのかどうか。
 だから、ただ、唇だけ動かす。
「――苦しい、ですか?」
「――」
 かぶりをふる。
「――き、もち、い――」
 カクン――と、頭が後ろに落ちかけるのを、ユヴュの腕が支えてくれる。
「気持ち、いい?」
「あい――きもち、いの――」
「――」
 抱きしめられて、息がとまる。
 いつも優しいけれど、なんだか今日は、特に優しいような気がする。
 私にも、なにか出来ればいいんだけど。
 あなたの喜ぶようなことを、なにか出来ればいいんだけれど。
「――」
 私が抱きついたって、あなたはうれしくないだろう。
 でも、そうしたかった。
「――」
 動きが、とまる。
 やはり、いけなかっただろうか――。
「――アンツ」
 強く、抱きしめられる。
 ほんとに、強く。
「――あ――」
 息を絞り出され、それでも体の奥に残った最後の息で。
「ユ――ヴュ――」
 私はあなたの名を紡ぐ。



(ユヴュ)
「――なんで怒らないんです?」
「――」
「――起きてます?」
「――あ、はい」
 普段より、5拍くらい遅れて返事が来る。やりすぎたかな、と少し思う。
「ええと――なんでしょう?」
「なんで怒らないんです?」
「は? ――あの、私が誰に怒るんですか?」
「…………」
 少し頭が痛い。
「……たとえば私とか、近所の店の連中とか」
「え? ど、どうしてあなたに怒るんです?」
「……私、わがままですから」
「――どこが、ですか?」
 クスリと笑われた。ちょっとむかつく。
「そんなことを、いちいち説明したくはありません」
「あ、す、すみません」
「――どうして怒らないんですか?」
「え――お店の人に、ですか?」
「ええ、まあ」
「――怒ってどうにかなることなら、とっくにどうにかなっていますから」
「――」
 そう――なのか? そう――なの、だろうか。
「それで納得できるんですか、あなたは?」
「――」
 アンツは、しばらく視線をさまよわせ。
「ずっと怒っていると――ひどく疲れるんです、私は」
 と、わかるような、わからないようなことを言った。
「――だから怒らないんですか?」
「ええ、その、ええ、まあ」
「――よくわからない人だな、ほんとに」
「その――どうもすみません」
「別に謝る必要はないです」
「あ、はあ――」
 しばらく黙っていると、アンツがうとうとしはじめるのがわかる。
 ここで起こして無理やりつっこんだりしたら、さすがに怒るだろうか。
「――」
 なんだかそんな気になれない。
 とりとめもなく、アンツの髪をいじる。
「――」
 アンツはチラリと目を開けて、少し笑って、また目を閉じた。
 私はしばらくアンツを見つめ。
 つられるように、目を閉じた。

ただ知りたくて、知りたくて

(ユーリル)
「――楽しそうだね」
 と、言ってみた。
「ユヴュは最近、楽しそうだね」
 と。
「そう見えますか?」
 と、ユヴュは心外そうな顔で言う。
「うん、そう見える」
 見えるよ。
 そう、見えるんだよ、ユヴュ。
 とても、楽しそうに。
 とても、生き生きとして。
 そして、その目は。
 私を、見ていない。
「まあ私は、ユーリルとはちがって、いたって気楽な身の上ですから」
 肩をすくめて、ユヴュが言う。
 そうなの?
 本当に――そう、なの?
「んー――かわる?」
 ねえ、ユヴュ。
 私は――私は、別に。
 私がスペアになったって、いいんだ。
 どっちだって、おんなじことなんだ。
 でも――きっと。
 ユヴュがオリジナルになったって。
 ユヴュはやっぱり、街に行く。
 街へ。
 地の民達の、ところへ。
「そう言うことを言わないで下さい。そっちがオリジナルなんですから」
 ああ、そうだね。
 確かに、そうだ。
 でも――。
「でも、ユヴュのほうがうまく出来るんじゃないかなあ? 私、ほら、わりとポーッとしてるし」
「いいんですよ。器はそっちの方が大きいんですから」
 ああ。
 ユヴュは本当に、そう思っている。
 無邪気に、純粋に、私のことを信頼している。
 ちがう。
 ちがうんだよ。
 器が大きいんじゃない。
 私は。
 うつろなんだ。
 私の中には――何も、ないんだ――。
「……日替わりで交代するというのはどうだろう……」
 などと、言ってみる。
 本当のことは何も言わずに。
 それでも何かは伝わったのか。
「そっちが病気になりでもしたら、ちゃんとかわりをつとめてあげます。ですからそれまで頑張って下さい」
 うん。
 ありがと。
 私が荷物を持ちきれなくなったら、かわってくれるんだよね。
 でも――でも――。
 ねえ、ユヴュ。
 私には――そもそもないような気がするんだよ。
 私はね、ずっと、ずっと――。
 荷物なんて――何にも持ってないような気がするんだよ――。
「うう……病気になるまで頑張れってこと?」
「いえ、そもそも病気などで倒れることのないように、しっかり自己管理して下さいね」
 うん。
 出来るよ。
 それなら、出来るんだよ。
 あのね。
 私はね。
 どうやって無理をしたり、羽目をはずしたりすればいいのか、さっぱりわからないんだよ。
「うー、つまり、かわる気はないってこと?」
「そうなりますかね」
 あのね。
 本当はね。
 かわって欲しいんじゃ、ないんだ。
 私――私は、ただ――。
 ――欲しいんだ。
 ユヴュ。
 君の、炎が。
 ――寒い。
 寒いよ。
 私の中には、何もないから。
 欲しい。
 欲しい。
 私の内から、あふれ出るものが。
 無理なら、せめて。
 私の中に入れるものが――つめこむことが出来るものが、欲しい――。
 なにか――なにか――。
 ナンデモイイカラ――。


「――『ツキのヒルコ』って知ってます?」
「え? ああ――地の民達が『ツキノヒト』を呼ぶときの――」
「ちがいますよ」
「あれ、ちがうの?」
「彼らにとっては『ツキノヒト』は『ツキノヒト』なんですよ。異形であっても、貴族は貴族。『ツキのヒルコ』じゃありません。――まあ、本当はどう思っているか、なんてことまではわかりませんがね。しかしそういうことになっています」
「――へえ」
「詳しいね」と言いかけやめる。ユヴュは最近、一人だけで出かけることが多い。たいていは、地の民達の街へと行っているのだという。きっと、誰か親しくなった相手でもいるのだろう。
 ああ。
 私の半身が――私から、離れていく。
「それじゃあ――『ツキのヒルコ』って、いったいなに?」
「死すべき者達です」
「え――?」
「『ツキの船』や『乳の川』は知っていますか?」
「え――それは、何――?」
「『ツキのヒルコ』は『ツキの船』に乗せられて、『乳の川』へと流されます」
「え、ちょ、ちょっとまって! つ、つまり、あ、赤ちゃんを川に――!?」
「もう少し運がよければ『乳の川』のほとりに捨てられるだけですみます。全員死ぬとは限らない――と、いうことになっている、らしいですよ。実際、サマリナの連中が、時々『ヒルコ拾い』に来るそうなんで」
「どうして――そんなことをするの?」
「――どうして、でしょうね」
 ああ、そうか。
 ユヴュもまた、困惑しているからこそ、私に問いを投げかけたのだ。
「一種の安楽死――と、いうわけでも、ないらしい、ですよ。それはね――生き残ること自体難しいような子達だっているでしょうが、そうでない子達だって、たくさんいるはずなのに――」
「それは、その――一人残らず――?」
「いえ――程度がそれなりに軽ければ、捨てられずにすむこともある、ようですが」
「捨てられてしまう――こともある?」
「というか――捨てられることのほうが多い、らしいですよ」
「――どうして?」
「――どうして、でしょう?」
「だって――生きられるのに――なんで――」
「そうですよね――そう、思いますよね――?」
 私達は、共に困惑する。
 同じ感情を共有する。
 今はまだ。まだ今は。
 私達は、互いの半身でいる。
「――でもさ」
「はい?」
「サマリナの人達は、その――『ツキのヒルコ』だっけ? その子たちを拾っていって――どうするの?」
「――育てるんだそうですよ」
「へえ。親切――」
「っていうだけじゃないですよ、当然。『ツキのヒルコ』の中には――いろんな、特殊能力を発現させるようなのも、いるそうですから」
「へえ――」
「――なのにどうして捨てるんでしょう?」
 ユヴュは、ブツブツとつぶやいた。
「ちゃんと育てれば、役に立つようになるのかもしれないのに、どうして――」
「――」
 なぜ、ユヴュは――そんなことに、興味を持つのだろう?
「なぜ、彼らは――そんなにもそれを嫌うのか――?」
「――怖いんじゃないかな?」
「え?」
「いや――なんとなく、だけど。なんていうかさ――捨てる、っていうより、一刻も早く自分達のそばから離したがってる、みたいに聞こえるよ、なんか。だってさ――なんでわざわざ、川に流すの? その――言い方は悪いけどさ、ただ始末したいんだったら、その、なんていうか――船に乗せて川に流す、なんて手間は、いらないよ、ね? なんか――川に流して、一刻も早く――遠い所に流れ去ってもらいたい、って――そんな、感じがする――」
「――」
「川のほとりに捨てた子達は――サマリナの人達が拾いにくるんだろ? それって、つまり――サマリナの人達に押しつけて、その――」
「――なるほど」
 ああ。
 ユヴュの両目に、炎がともる。
「どちらの場合も、直接には自分達の手を汚さずに、厄介者を始末しよう、と、そういうことですか。川に流された子達だって――ひどく低い確率ではありますが、助かる、かもしれませんものねえ、もしかしたら。ふん、なるほど。あいつら、そんなことまで、他人に――他者に、押しつけるのか――」
「――」
 その怒りは、どこから来るのか。
 ――いや。
 その怒りは――誰のためのものなのか。
 ユヴュ。
 誰のために――そんなに本気で怒っているの?
 私のため、ではないことだけは確かだ。
 ああ。
 もとはひとつであったはずなのに。
 どうして私達は、こんなにもちがうのか。
「――ユヴュ」
「はい?」
「どうしてそんなことが気になるの?」
「――」
 私と同じ、琥珀の瞳。
 だけど。
 私の瞳の中に――あんなものは、ない。
 あんな、鮮烈な炎は。
「――腹が立ちませんか?」
「え?」
「あの連中は、いつだって――何もかも人に押しつける――」
「――」
 持ちつ持たれつだろう――とも思ったが、それを口には出さなかった。
 多分、ユヴュは――そういうことを、言っているんじゃない。
 ユヴュ。
 地の民達と、何があったの?
 そんなにも、腹を立てているのに、どうして――。
 どうして彼らの所に行くの?
 遠い。
 遠いよ。
 ユヴュ。
 遠いよ――。
「――ユーリル」
「ん、何?」
「ツキって、いったい――なんでしょう――?」
「――」
 答えたかった。
 その問いに、答えたかった。
 なのに。
 私の内に――その答えは、なかった。
「――イギシュタールは、ツキに従う」
 ちがう。
 ちがう。
 それは私の答えじゃない。
 私の内から出た答えじゃない。
 なのに。
 なのに。
 私の口からは、そんな言葉しか出なくて――。
「――そうですね。そうでした」
 ちがう。
 ちがう。
 その笑いは――そんな笑いは、ちがう――。
「――やっぱりあなたがオリジナルですよ、ユーリル」
「――」
 ちがう。
 ちがう。
 ちがう――。
 ちがうのに。ちがうのだということだけは、こんなにもはっきりとわかっているのに。
 私の内には、何もない。
 炎も。
 翼も。
 ツキさえも。
 私の内に、あるのは、ただ――。
 果てしない、渇仰だけ。
 私は何を求めているのか。
 せめて知りたい、それだけは――。



(ユヴュ)
 こいつはいったい、何を考えているんだろう?
 と、初めて会った時思ったし、しばらくつきあってみてもやっぱりそう思ったし、もちろん今だってそう思っている。
 こいつはいったい、何を考えているんだろう?
 私達――イギシュタール貴族どうしでそんなふうに思う事はめったにない。もちろん、相手の考えていることが完全にわかるなどという事はないのだが、何を考えているのかさっぱりわからない、ということもまずない。
「――あなたはいったい、何を考えているんですか?」
「え?」
 アンツはきょとんと首を傾げる。
「何を――とは?」
「質問しているのは私です」
「あ、その、どうもすみません」
「――あなたが何を考えているのか、私にはさっぱりわからない」
「――」
「――なんで笑うんです」
「あ、すみません。その、ええ、その――」
「その?」
「――うれしかったんです」
「は? ――何が?」
「私なんかが考えていることを、あなたが気にして下さったから」
「――」
 まったく、どうしてこうこいつは、私をいらいらさせるんだ。
「別に、気にしたくてしているわけではありません。ただ――」
 ただ――なんだというのだろうか。
「――あなたがたの考えていることは、私にはよくわからない」
 私は嘘はついていない。
 私達貴族と、こいつら地の民達とはちがう。
 ただ。
 アンツという男は、地の民達のあいだでも、どう見てもかなりの変人と見られるであろう男だ。
 だからよけいにわからない――の、だと、思う。
「――私達は、地で生きる民ですから」
「それを言うなら私達だって、今は地の上でしか生きられない身の上ですが?」
「それでも記憶があるでしょう?」
 そう言われ、まっすぐに見つめられ、一瞬息がとまった。
「――あったらどうだというんです。それに、あなたの言っていることは、おかしい。いかに我々の寿命が長いからといって、『大厄災』以前から生き残っているものなんて、一人もいるはずないじゃないですか。私達にあるのは、記憶じゃなくて記録です。言葉は正確に使って下さい」
「はい。――すみません」
 記憶。
 記録。
 奇妙なことに、こいつの言っていることのほうが正しいんじゃないか、などと、心のどこかで思っている。
「――私達は」
 ひとりごとのように、アンツが小声でつぶやく。
「記憶も記録も――捨てて、しまいました」
「それは私達には関わりのないことですね。まあ、あなたがたにも関わりないと言えばないでしょうが。生まれる前からすでに失われているものを、あらためて捨てたりなんかできやしませんからねえ」
「だから、教えて下さい」
 いきなりそう言われ、噛みつくように、食らいつくようにそう言われ、私は――私は、もしかしたら――。
 私は、もしかしたら――怯えた、のかもしれない――。
「え――」
「教えて下さい。私に、教えて下さい。私は――私達は、持っていないんです。生まれる前から失ってしまっているんです。私はなんにも知らないんです。だから、だから教えて下さい。昔のことを――あなたがたの、ことを――」
「――いったい知ってどうするんです」
 ああ、そう――そうだ。
 教えろというなら教えてやったっていいが。
 それを知ってこいつは――いったい何を、どうするんだ?
「――ただ、知りたいんです」
 アンツは、ほんの少しだけ、弱々しい声で言った。
「私はただ――ただ、知りたいんです」
「――」
 理由も目的もない情熱。
 そんなものが私に――いや。
 私達に、あるだろうか。
 私達――イギシュタール貴族に。
 情熱はある。私達にだって、情熱ならある。
 理由も目的もたいそうしっかりとした情熱なら。
 しかしこいつの身の内にある熱は――。
「――私が教えない、と言ったら、あなたはどうするんですか?」
「――」
 アンツは一瞬、息を飲み。
「――そしたら自分で調べます」
 ――と、言った。
「――」
 なぜだろう。
 私は、なぜ。
「――そう、ですか」
 私は――なぜ。
 目もくらむようなすさまじい怒りを覚えたりしたのだろうか――。



(アンツ)
 どうするのか。
 どうなるのか。
 私はいったい――どう、したいのか。
 ただ知りたくて。ただ会いたくて。ただ――。
 この時が、続いて欲しくて。
 先のことなど、まるで考えていない。
 だが――そうだ。
 彼はいつでも、拒めるのだ。
 その気になれば、いつだって拒める。
 もし拒まれたら、私はどうする――いや。
 私は、どうなる?
 どうなってしまうのか、なんとなくわかるような気がする。
 どんな想像よりもはるかに、見苦しい姿をさらしてしまうのではないか、とも思う。
 だがとりあえず、今現在。
 ユヴュは私の目の前にいる。
「――アンツさん」
「は、はい」
「私に教えてくれますか?」
「は、はい、なんでしょう?」
「あなたがたは」
 私達は。
「過去を、忌まわしいものだと思っているんですか――?」
「え――」
 過去を――忌まわしい、ものだと?
「ど――どうしてそんな――」
「だから捨て去り、忘れ去ってしまったのか、と、思ったんですが、私は」
「――」
 忌まわしいもの、だから。
 捨て去り――忘れる――。
「おっと、捨ててしまったのは、あなたがたのご先祖様達でしたっけ? それだったらあなたがたには、関係のないことですねえ」
「いえ――関係、は――ある、と思います――」
「そうですか」
 そう、きっと――関係は、ある。
「だったらどうして捨てるんです?」
「え――それ、は――」
 どうして捨てる?
 どうして、忘れる?
 どうして――?
「捨てると何か、いいことでもあるんですか?」
「え――いいこと――? それは――」
 捨てて、忘れて、得をすること。
 いったい誰が、得をする?
「それ、は――」
 その答えを、私はきっと知っている。
 それなのに、言葉に出来ない。
「あの――ええと――その――」
「別にいいですよ、そんなに無理して答えてくれなくても」
「その――どうもすみません」
「謝らなくてもいいですよ。あなたのせいではないでしょう?」
「――」
 私のせいではない。
 本当に、そう、なのだろうか。
「――あなたはおかしな人ですね」
 ユヴュの瞳が、私をとらえる。
 その、琥珀の両眼が。
「誰も気にしやしないものに、いつもそんなにこだわって」
「――」
 あなたもおかしな人ですね。
 私なんかに、会いに来て。
「私はただ――ただ、知りたいんです――」
 そう、いつだって。
 私のすることに、意味などない。
 私という存在に、意味などない。
 意味などないが、私は誓う。
 私は決して、忘れない。



(ユーリル)
 行ってみよう。
 そう、思った。
 地の民達の、街に。
 行ってみよう。
 そこに、何があるのか。
 そこで、何を見るのか。
 それを知れば、私は。
 少しは楽に――なれる、だろうか?
 行ってみよう。
 そうだ。行って、みよう。
 行ってみよう。
 私、一人で。
 ユヴュのように。
 一人、だけで。


 わからない。
 わからない。
 私には、わからない。
 ユヴュは、ここでいったい、何を見出したというのだろうか。
 わからない。
 わからない。
 私には、何も見えない。
 私の目には、ただの景色が映っているだけ。
 心を揺さぶる、ものが見えない。
 これが――地の民達の、街。それは――わかる。
 わかるが心は動かない。
 なぜ?
 なぜ?
 私とユヴュとは、もとは一つのものなのに。
 同じであった、はずなのに。
 なぜ私には、見つからない?
 ――けど。
 ああ。
 私にも、わかることがある。
 心もわずかに動き出す。
 ああ、そうだ。これは、この光景は、地の民達の街でないと目にすることは出来ないな。
 きっと、これは、彼らにとっては普通の光景。
 でも私には、珍しい。
 なんてたくさんいるんだろう。なんてたくさん、無造作に。
 ああ、なんてたくさんの。
 子供達が。老人達が。
 われらの子供時代は短く、老年はさらに、すさまじく短い。
 ああ、そうか、もともとは。
 人とはこういうものだったのか。
 生まれ出でて、成長し、子を成し、老いて、死ぬ。
 われらの若い時――青年期は、異常に長い。
 なるほど、地の民達から見れば、私達は異形に見えることだろう。
 ――だが、しかし。
 だから――なんだ?
 珍しい、とは思う。私達とは違う、とも思う。
 だが、だからといって、ユヴュのように繰り返し繰り返し、地の民達の街に通うほど、そんなことに――そんなちょっとした珍しさにひきつけられるか? 心を奪われるか?
 ――いや。少なくとも私は、それほど心を揺らされたわけではない。
 ただ。
 彼らとわれらが、違うのはわかった。


――川のほとりに立っていた。
『乳の川』のほとりに立っていた。
 わからなかった。
 やはり、わからなかった。
 地の民達が、私達とはちがうということはわかった。――というか、そんなことははじめから知っていた。
 だが、わからなかった。
 ユヴュが――私の半身が――彼らの内に、いったいなにを見たのかは。
 川のほとりに、立っていた。
 ユヴュは、ここに来たことがあるのだろうか? ――多分ないだろう。彼がここに来ていたら、きっとここで見た事柄を、私に話さずにはいられなかったはずだ。
 それとも。
 ちがうのだろうか。
 私達は、そんなにも、遠く離れてしまったのだろうか――?
 夜風がざわめきを運んでくる。
 その中には――赤ん坊の断末魔も、まぎれこんでいるのだろうか――?
 川を何かが流れてくる。
 それがなんなのか、を、知りたくはない。いや――とっくに知ってはいるのだが、それでもやはり、知りたくない。
 ねっとりと生臭い吐息を吹きかけられたように感じて、思わず身震いする。
 何も知らなければ、それは――ただの川風にすぎないのに。
 川のほとりに、立っていた。
 ひとつの影を、見つめていた。
 いくつかの影を見た。小さな包みを川へと流す影を見た。私は見ていた。ただ、見ていた。
 私は何もしなかった。
 イギシュタール貴族――イギシュタールの真の民は、地の民達が内輪で処理していることに、手出しをしてはならないのだ。
 もし誰かが、川のほとりに包みを置いたら。
 私はどうしていただろう。
 ――きっと、何もしなかっただろう。
 ユヴュならどうしていただろう。
――きっと、何かをしただろう。
 ひとつの影を、見つめていた。
 私と同じ――川のほとりにたたずんで、流れる水をただ眺めている影を。
 影はきっと、私に気付いていないのだろう。いや――気付いていても、特に不審には思わなかったのかもしれない。
 包みを手放したものが、そのままたたずんでいる。――そういうふうに、見えたのかもしれない。
 影の腕の中には――小さな、包みが。
 それをいったいどうするのだろう――と、私は思った。いや――どうするも何もない。それをどうするのか、私はとっくに知っているのだ。
 それでもやはり、私は思った。
 それをいったいどうするのだろう――と。
 影は。
 包みを胸に抱いたまま――きびすを返し。
 川に背を向け、歩きはじめた。
「――え?」
 思わず、声が出た。
 ギクリ――と、影が立ちすくむ。
「あ――待って! だ、大丈夫! 私――私は、地の民じゃない! だからあなたが何をしようと、私は一切手出しをしない!」
「――」
 影の震えが、伝わってくるような気がした。
「何も――何も、しないよ――大丈夫――大丈夫だから――」
 精一杯、やさしい声をかけながら。
 私は影に近づいた。
 少女か――と、一瞬思ったが、そうではなく、それは、ひどく小柄で、ひどくやつれた――老女? いや、老女、というわけでもないようだが――。
 彼女のことを形容する言葉を、私は持っていなかった。
 私達は、持っていなかった。
 老人すらも存在がまれな、ひどく幼い民達は。
「貴族――さま?」
「ああ、うん――まあ、一応、そういうことになるのかな、うん――」
「貴族さま――」
 彼女の目が、一瞬燃え上がり。
「いえ――無理ですね、きっと――」
 再び影に閉ざされる。
「無理? 無理って――」
「――」
「もしかして――その子のこと?」
「――」
 ビクリ――と、すくみあがる小さな体。
「その子は――その――」
「――生きてるんです」
「え?」
「この子は、まだ――生きているんです」
 その両目は、涙に濡れながら、強く激しく、燃えていた。
「何人も、何人も――死んで生まれて、生まれて死んで――死んで生まれて、産声をあげられずに死んで、初めての夜を越せなくて――でも、この子は生きているの! まだ生きているの! 生きているの! 生きてるの! あたしのおっぱいを飲めるの! 泣き声をあげられるの! まあるいおめめで――あたしを、見るの――」
「――」
 胸に、刺さった。何かが、刺さった。深々と、刺さった。
 ああ――。
 平気なわけ、ないじゃないか。
 自分のお腹を痛めた子を、自分のその手で捨てに来て。
 平気なわけ――ないじゃ、ないか――。
「その子は――」
「――貴族さま」
「――なにかな?」
「貴族さま達は――『ツキノヒト』を生かす方法を――ご存知、ですよね――?」
「――」
 あっさりと頷くことは出来なかった。確かに私達には、地の民達よりも高度な医療技術がある。しかしそれにだって当然限界があり、しかも地の民達へ対する過度の干渉は好ましいことではなく――。
「――見て下さい」
 女性は、そっと――包みをほどいた。
「この子の、心臓――胸の中に、戻せますか――?」
「――!?」
 無理だ――ということは一目でわかった。
 その赤ん坊の心臓は、むき出しだった。
 いや――薄皮一枚は、かろうじてかぶさってはいる。だが――本来なら、肉と骨とで守られていてしかるべき心臓が、胸の薄皮のすぐ下で、悲しいほど元気よく脈打っているのだ。
「それは――私達には、無理だ。――できないよ。そんな技術は――私達にだってない――」
 昔はきっと、あったのだろうに。
 いや――昔はきっと、地の民達自身だって、その程度の技術は、きっと持っていたのだろうに――。
 今はもう――われらの手には、何もない。
「――そうですか」
 息を飲むほどあっさりと、その女性は頷いた。
 そして。
 きびすを返し――。
「――待って!」
「――はい?」
「その――どこへ、行くの?」
 聞いてどうする。
 どうにも、ならない。
 私は彼女に――彼女達に――何一つしてやることが出来ない。
 なのに。
 それなのに。
 聞いて――しまった。
「――神の御許に」
「――え?」
 それは、聞きなれぬ単語だった。
「か――かみ――? かみって――いったい――?」
「――アタラクシアには、まことの神がおわすと聞きます」
「――」
 私は思わず後ずさった。
 彼女は狂っているのだろうか。
 本気で――そう、思った。
「そこでなら、『ツキのヒルコ』も――全き姿に、立ち戻れる――と」
「そんな馬鹿な」
 言うべきでは、なかったのかもしれない。
 言ってもどうにもならないだろうに。
 なのに私は、言ってしまった。
「アタラクシアに、そんな技術力は――」
「人の技ではありません」
 彼女のまなざしは――どこまでも、まっすぐだった。
「神の御力に、限りなどありません」
「――そんなでたらめをどこで――」
「聞く耳があれば、聞けますよ」
 彼女は、笑った。
 ――ああ。
 それは。
 その、笑いは。
 私のことを――憐れんで、いた。
「――あたしはこの子を生かします」
「それは――待ってくれ、それは――」
「――アタラクシア」
「あ――」
 ――そうして彼女は立ち去った。
 私は何も、しなかった。
「あ――ア――」
 赤子が流れる、川のほとりで。
 私は一人、立ちつくす。
「ア――アタ――アタラクシア――?」
 彼女はいったい、いったいどこで。
 あんな希望を、見出したのか。
 あんな――狂おしい、希望を。
(――も――けば――った――)
「――ちがう」
 体中の毛が、逆立つ。
(わた――つい――よか――)
「――ちがう」
 そんな声は、聞こえない。
(私もいっ――ていけば――かった――)
「――ちがう」
 どうして、どうして、どうして!?
(私も一緒に――ついてい――)
「ば――馬鹿馬鹿しい」
 なんて馬鹿げたことだろう。
 なんてひどい幻聴だろう。
 ちがう、ちがう、断じて、ちがう。
(私も一緒に――)
(ワタシモイッショニツイテイケバヨカッタ――)
「ち――ちがうちがうちがうちがう!! そんな――そ、そんな、ば、馬鹿な、こと――」
(――アタラクシア)
(アタラクシアには、まことの神がおわすと聞きます)
「は――はは――まさか――そんな、馬鹿な――」
(――あたしはこの子を生かします)
「な――なにを――なにを、ばかな――」
 ああ――帰ろう。
 もう――帰ろう。
 私の、家に。
 私の――家、に――。

そして私は、悟ってしまった

(アンツ)
「何か、あるんですか?」
「え?」
「街がなんだか――ザワザワしています」
「ああ『鎮守祭(ちんじゅさい)』ですよ」
「鎮守? いったい何をまつるんですか?」
「ええと、確か、『大厄災』で亡くなられた方々の御霊を鎮め、お慰めするため、だったと思いますけど」
「へえ」
 と、ユヴュは目をパチクリさせる。
「あなたがたは、妙なところで、妙に律義ですね」
「え、そ、そうですか?」
「いろんなことを忘れたくせに、そういうことはやるんだから」
「ああ――そう言われれば、そうかもしれませんね」
「あなたはお祭りに参加するんですか?」
「え――」
 ズキリと、胸がうずいた。
「いえ――私は、その――そういう晴れやかな場には、その――」
「参加しないんですか?」
「ええ、その――まあ、その――」
「ふうん」
 ユヴュは小首を傾げた。
「だったら私も、参加できないのかな?」
「え、ど、どうしてですか? ユヴュさんだったら、なんの問題もなく参加できるに決まってますよ」
「そうなんですか?」
「ええ、もちろん」
「だったらどうして、あなたは参加できないんですか?」
「――」
 ズキリ。
 うずく。
「――私は『ツキのヒルコ』ですから」
「――」
 ユヴュは眉をひそめた。
「――そんな理由で? そんな理由で、参加できないんですか?」
「はい。――そんな理由で、です」
「――」
 ユヴュは、じっと私を見つめた。
「――どうしてです?」
「え?」
「どうしてあなたがたは、異形を拒むんです?」
「え――」
 そんなことはあたりまえすぎて、とっさに言葉に出来なかった。
「それは――だって――出来損ない――」
「もう一度『出来損ない』といったら、本気でひっぱたきますよ」
 ユヴュは、キッと私をにらみつけた。
「あの人達――『ツキノヒト』達は、出来損ないなんかじゃない。新たなる道です。確かに今は歩きにくい道かもしれません。それでも、今までとは違う、今までは行けなかったところへ行ける、新しい道なんです。私達の、希望なんです」
「――」
 希望。
 涙が、出そうになった。
 希望。ああ――希望。
 異形であっても許される、どころか。
 それは希望と、言ってもらえる。
 わかっている。今のは、私に向けた言葉じゃない。
 それでもいい。それでも――泣きそうだ、私は。
「新しい――道?」
「あなただって、そう書いていたじゃないですか。『進化の最先端、すなわち新たなる種の萌芽は、既存の種からの視点においては、ほぼ確実といっていいほど、異形、鬼子、もしくは周辺に追いやられた弱者』でしかない、と、自分で書いておいてもう忘れたんですか?」
「――」
 ああ。
 胸が、はじけそうだ。
「よく――覚えていらっしゃいますね。その――私なんかが、書いたことを」
「記憶力はいいんです、私達」
 と、ユヴュはあっさり言う。
「それにしても、なんとまあ、出来損ない、ですか。そんなふうにしか見られないんですか? やれやれ、あなたがたときたら、まったく」
「でも――その――たとえば、ですね」
 内心ひどく怯えながら、私はそろりそろりと言葉を紡ぐ。
「ええと、その――たとえばその、私のこの――この、へんてこな足が、ですね、何かの役に、たったりしますか?」
「あのですね、あなたがたとはずいぶんと違うところもありますが、それでも私は、人間です」
 ユヴュは大きく、肩をすくめる。
「ある種の奇形が今後役に立つか経たないのか、を正確に判断しろ、なんてことは、完全に私の能力の限界をこえています。私に予測できないだけで、もしかしたらあなたのその足が、この上なく役に立つ状況、というのが、どこかの時代のどこかの場所に、存在しているのかもしれません」
「そ――そう――ですか。そう――ですね――」
「――別にそれ、特に不自由というわけでもないでしょうにね」
 ユヴュの瞳が、チラリと揺れる。
「周りの連中が、とやかく言ったりしなければ」
「――でも、立場が逆なら、私も同じことをしていたんじゃないかと思います」
「そうですか?」
「ええ、たぶん」
「そうですか」
 ユヴュは、ちょっと顔をしかめた。
「文化の違い、というやつですかね、これは?」
「かも、しれません」
「――」
 ユヴュはしばらく、小首を傾げて私を見つめ。
「ところで――私はお祭りに行けるんですよね?」
「ええ、もちろん。あ、今はその、まだ準備中ですよ。行くなら明日がいいですよ」
「そうですか。で、あなたはお祭りに――」
「あ――行くのは遠慮しておきます」
「周りの連中がゴチャゴチャうるさいからでしょう? ――ちょっと思ったんですが」
 ニヤリ、とユヴュは、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「私とあなたがいっしょにお祭りに行ったとしたら、周りの連中は、いったいどんな反応をするんですかね?」
「え――」
 考えたこともなかった。
 後が怖い、というのももちろんある。
 だが、しかし。
 それより、なにより。
「ええと――わ、わかりませんねえ。みなさんいったい、どんな顔をするでしょうねえ、私達を見て――」
 なんだか面白そうだった。



(ユヴュ)
 一度帰ってからまた出直すのも面倒なので、泊っていくことにした。
「貴族のみなさんも、その、お祭りとかしたりするんですか?」
「そうですね、『カミオロシ』が一番それに近いでしょうか」
「かみおろし?」
「あなたがたには、説明してもわかっていただけるかどうか。私達は『カミオロシ』で、みんなの心を一つにするんです」
「それは――」
「あなたがたも、みんなの心を一つにすることはある、と言いたいんでしょう? 失礼ながら、レベルが違う。私達は――とけあってしまう。まあ、私は、まだ正式に――最も中核を担うメンバーとして参加したことはありませんがね。『カミオロシ』の主役は、当主とそのスペアですから」
「なるほど――」
 神妙な顔で、アンツが頷く。
「あの、ええと、その、どんなふうにして心を一つにするんですか?」
「そうですね――たぶん、あなたがたには、歌って踊る、というのが一番わかりやすい説明だと思いますが」
「あ、その、歌って踊るというのは、私達もやります」
「そうですか」
 レベルが違う、と言いかけなぜか。
「私達と、あなたがたとは、遠い遠い昔には、同じ一つの種族でしたからね。根っこのところに、同じものが残っているのかもしれません」
 などと言いかえる。
「そうですねえ」
 と、アンツは笑う。
「それじゃ、あの、夜店とか出ます?」
「よみせ? さあ――宴会はしますし、基本的に貴族はみんな『ツキの宮』に集まりますが。そうですね、子供達は、いつもは会えない友達と、みんなでキャアキャアはしゃぎまわって――」
 ふと、思いだす。
 子供のころ。『カミオロシ』の前夜祭。『ツキの宮』のかたすみで。
 私とユーリルは、初めて『老人』に出会った。
「じゃあ、お店とかは出ないんですか?」
 と、アンツが首を傾げる。
「そうですね、基本的に私達は、ええと、なんて言えばいいのかな――あのですね、貴族は貴族を相手には、商売をしないものなんですよ。欲しいものがあれば、そう言えばもらえますし、必要なものは互いに融通しあいますし、その――どう言えばあなたがたにわかってもらえるかな――」
「私達が、家族を相手には商売をしないようなものですか?」
「そう言えばいいのかな? そうですね、私達イギシュタール貴族は、大きな一つの家族のようなものなのかもしれませんね」
「家族――ですか」
 アンツがふと、寂しげな顔をする。そういえばこいつ、家族がいないんだっけか。
「あなたがたの家族とは、少し形が違うかもしれませんがね」
 私はそれに、アンツの寂しげな顔に、気づかぬふりで言葉をつなぐ。
「私達はみな、同じ血をひく同胞ですから」
「――」
 目を伏せ、アンツがかすかに頷く。
「――あなたがたは、私達とは違う」
 なぜだか私は、そんなことをつぶやく。
「どれくらい――違うんでしょうね――」
「私達は――地の民です」
 アンツがそっと――そっと、ささやく。
「あなたがたは――月の民――ツキの民――宇宙の民――」
「――なのにあなたの目は、空ばかり、宇宙ばかり見ている」
 なぜだか私は、そうささやいている。
「――」
 アンツがじっと、私を見つめる。
 アンツは何も言わない。
 なのに何かを、言われた気がした。
「――『大厄災』がなかったら」
 ようやくアンツが口を開く。
「私達はどうなって――どんな世界に、いたんでしょうね――」
「――」
『大厄災』がなかったら。
 私達は――私は――。
「私はここには――この星の上にはいなかったでしょうね。私達は、星の世界で生きるために生み出された民ですから。――あなたがどうしているかは知りませんが」
「――その世界でも、私はヒルコなんでしょうか――?」
 ほとんど聞き取れないような声で、アンツがつぶやく。イギシュタール貴族たる私の耳でさえ聞き逃しそうになったんだから相当なものだ。
「さあ、どうなんでしょうね。『大厄災』以前にはそもそも、『ツキのヒルコ』なんて言葉そのものが、存在していなかったようですがね」
 なぜだか私は、奇妙に苛立つ。
「――」
 少しだけ、アンツの目が輝く。
 妙なやつだ、まったく。
「――この世界は『大厄災』から生まれたんですね」
「――」
 アンツの言葉に、私は少し驚く。
 そういう考えかたもあるのか。
「――そういう考えかたもありますね。そうですね――『大厄災』がなければ、私達はいつか――いつか、最後の一人もこの星を離れ――あなたがたとは道を分かち、二度と交わることなく二つの道を進んでいくことになっていたのかもしれませんね。私達がここに――この地にとどまり続けているのは、星への翼を失ってしまったからなのだから――」
 でも。
 不意に私は、強く思う。
 でも、私は、ここが好きだ。ここが、この星が、この地が、この国が、この――私達の、イギシュタールが。
「『大厄災』がなかったら――」
 そういうなりアンツは、なぜかいきなり真っ赤になった。
「どうしたんですか、いったい?」
「い、いえ、ベ、別に、何も」
「顔真っ赤ですけど?」
「い、いえその、いえあの、な、なんでもないです、はい」
「そうですか?」
 そうは見えないんだが。
「――で?」
「え?」
「何か言いかけていたでしょう? 『大厄災』がなかったら、その続きは?」
「あ、その――ええ、その――」
 アンツはルロルロと視線をさまよわせた。
「あ、ええ、その――だ、『大厄災』がなかったらその、わ、私達は、出会っていなかったのかもと、その――」
「ああ、そういうこともあるかもしれませんね。『北京の蝶の羽ばたきが、ニューヨークの大旋風になる』という言葉があったといいますから、ましてや『大厄災』ではいわずもがなです」
「ぺき――?」
「昔の地名ですよ、北京もニューヨークも。小さな出来事が巡り巡って大きな結果を引き起こす、というような意味です。
「あ、そうなんですか」
 アンツが目をパチクリさせている。目をパチクリさせているうちに、アンツの顔色が落ちついていく。
「なんだか面白い言葉ですね」
「そうですか」
 ふと、奇妙なことを思う。
 蝶の羽ばたきが、大旋風を生むのなら。
 大旋風は、何を生む?
 そして『大厄災』は――?



(アンツ)
 ――なんだかおかしなことばかり口ばしってしまったような気がする。どうも私はこういう時、年甲斐もなく舞い上がってしまう。なさけない。
「――ところで話は変わりますが、よみせ、ってなんです? 店の一種、ですか?」
「え? ああ、はい、そうです。夜店というのは――」
 説明しながら、私はいつもながら不思議な気持ちになる。
 ユヴュはなんでも知っているのに、時々本当に基本的な、子供でも知っているようなことを知らない。
 ああ、そうだ。
 彼らとわれらは、ちがうのだ。
「あなたの生徒さん達も、お祭りに来ますか?」
「え? あ、それは――来る、でしょうね――」
 ぬくもりと冷たさが、同時に胸にあふれる。
『先生』でいる時、教室の中にいる時、私は少しだけ、ヒルコの自分から離れられる。
 では、教室の外の私は?
『先生』? それとも『ツキのヒルコ』――?
「どうしたんですか?」
「え、い、いえ、別に、何も」
「ふうん」
 と、ユヴュが私の顔をのぞきこむ。
「そういう割には、今何か、変な顔をしてましたけどね」
「え――」
 胸が苦しくなる。
 ユヴュが、私のことを気にかけてくれている。
 きっと、おかしなやつだと思っているのだろう。
 それでもいい。
 それでも、幸せ。
「ほら、また」
「え?」
「顔」
「え?」
「真っ赤ですよ」
「す、すみません」
 少しなさけなくなる。子供か私は。何もかもを顔にだだもれにしてどうする。少しは慎め。大人なんだから。
「別に、謝ってくれなくてもいいですけど」
 ユヴュは、ヒョイと手をのばし。
 私の頬に触れる。
「あなた、よく赤くなりますよね」
「あ、その――いやその、あの、その――」
「地の民って、そうなんですか?」
「え?」
「顔の色が、変わりやすいんですか?」
「え? え、えーと、ど、どうなんでしょう? あがり症、とか、赤面症、とかいうのは、聞いたことがありますけど――」
「あなたもそれですか?」
「ええと――」
 ちがう。
 私は。
 あなたに恋しているだけ。
「ど、どうなんでしょう?」
「ふうん」
 ユヴュは小首を傾げる。
「変なの?」
「――」
 子供っぽい口調がかわいらしくて、私は少し笑う。
「――」
 私が笑うのを見て、ユヴュがちょっと口をとがらせる。
「あなたはおかしな人ですね」
「――そうですね」
 ああ、そうか。
 ユヴュにとっては、きっといつでも。
 私は『おかしな人』なのだろう、きっと。



(ユヴュ)
 まったくこの馬鹿ときたら、いったいなんだって、いつもヘラヘラ笑ってるんだか。
 他人が笑っているのを見るとイライラする、というのは、性格が悪い、ということになるのだろう、おそらく。
 でもこいつだって悪いと思う。意味もないのにヘラヘラ笑うな。
「なんで笑うんですか?」
「楽しいから、ですよ」
「何が楽しいんですか?」
「あなたといっしょにいられるのが、楽しいんですよ」
「――」
 チラリと、思いだす。
 前にも確か、これと似たような会話をして、そして。
 そして――押し倒したんだった。
「――なんで楽しいんです。何が楽しいんです」
「――」
 アンツは笑みを、深くした。
「――好きな人といっしょにいると、ただそれだけで、楽しいんです」
「――」
 私は好きじゃない。
 私はおまえなんか、ちっとも好きじゃない。
「私は――別に――」
「いいんです」
「え?」
「いいんです、それでも」
 アンツは、きっぱりと言った。
「――」
 おいこら。
 私はまだ、最後まで言ってないぞ。
 なんなんだ、こいつは。
 いったいなんなんだ、こいつは。
「――お祭り」
「え?」
「お祭りなら私も――少しは楽しみですけど、ね」
 そして――私も私で、いったい何を言っているんだ。
 なんでここで、祭りの話なんかが出てくるんだ。
「ああ」
 アンツは、にこにこと笑う。
 私は少し、頭が痛い。
 胸まで少し、痛い気がする。
 なんだろう。
 いったい何が、起こっているんだろう。
「楽しみですねえ、ほんとに」
「――そうですね」
 あいまいに頷き、視線をそらす。
 なぜか、ほっと息がつける。
「――あの」
「はい?」
「お疲れですか?」
「――別に」
「お茶でも、飲みます?」
「――そうですね」
「じゃあ、いれてきますね」
「ありがとうございます」
 ――変だ。
 とても。
 とても、変だ。
 アンツがいないと、息をするのが楽になる。
 私はそんなに、こいつのことが嫌いだったか?
 別に好きでもないけれど。
 それほど嫌いというわけでもない――と、思う。
 私は――体の調子が悪いのだろうか。
 そういうわけでもない――ような、気がするのだが。
 わからない。
 わからない。
 いったい私に、何が起こっているんだ――?



(アンツ)
 ――抱いて欲しい、などと、言えるわけがない。
 だから、ただ、そばにいる。
 それ以上のことを望めようはずがないのだ。普通なら。
 でも、普通ではないことが、過去に何度も起こったから。
 私は、なんとなく期待している。
「――私はあなたがわからない」
 ユヴュはつぶやくように言う。
「私は――」
 と言いかけ、私は言葉を失う。
 私だってユヴュのことが、しっかりわかっているわけではない。
 だが、ユヴュの「わからない」と、私の「わからない」は、意味合いが違う。たぶん、違う。
 どこがどう違うのか、言葉にすることは出来ないけど。
「私は――わかりたい」
 私は、つぶやく。
 意味もなく。
「――」
 琥珀の瞳が、じっと私を見つめる。
 胸が苦しい。
 息が苦しい。
 あなたが好き。
 あなたが好き。
 だから知りたい。
 あなたを、知りたい。
「――何を?」
 ユヴュが、ポツリと言う。
「え?」
「あなたは何を、わかるようになりたいんですか?」
「――」
 私はまた、言葉を失う。
 私は知りたい、あなたのことを。
 でも、それだけ? あなたのことさえわかれば、他にはなんにもわからなくていい?
 ――ああ、わかってる。
 そんなことはない。そんなはずがない。
 私は、知りたい。
 あれもこれも、それもこれも、どれもこれも、なんでもかんでも、何もかも。
「――その、あの、い、いろんなことを」
 私はひどく、凡庸な答えを返してしまう。
「――」
 ユヴュの瞳は、美しい。光を受けて、澄みわたり輝く。
 見つめられると、悲しくなる。
 悲しくなるけど、見つめて欲しい。
「――私はあなたがわからない」
 再び言われ、私の頭は勝手に回転をはじめる。
「わからない」というのは。
「わからない」とは、もしかしたら。
「わかりたい」――と、いうことではないだろうか。
「私はあなたがわからない」とは。
「私はあなたをわかりたい」――と、いうことなのでは?
 ――やめろ。
 やめなければ。
 そんなことを考えては。
 希望で胸を一杯にしたら。
 ――はじけて、しまう。
「――私も何も知りません」
 ああ、また。
 私は言葉を紡いでしまう。
「あ――あなたのことも――何も、かも」
「――」
 琥珀の瞳。
「――それはそうでしょうね」
 月光のような、冷たく冴え冴えとした、声。
「――わ――」
 あ。
 なんだ、そうか。
 私は、言葉を紡いでいるんじゃない。
 言葉が口から、あふれだしてくるんだ。
「私は――知りたい、です、とても――とても――」
「――あなたはそればっかりだ」
 そっけなく、ユヴュは言う。
「知りたい、知りたい、知りたいと――いつもいつでも、そればっかりだ」
「あ、その――」
「では、聞きましょう」
「え――!?」
 またたく間に、距離をつめられ。
 目の前には、琥珀の瞳。
「あなたは、今――何を、知りたいですか?」
「あ――」
 あなたの。
「あなたの、ことを――」
 あなたの、ことを。
「――私のこと?」
 いぶかしげな、顔。
「私の、何を?」
「――なんでも――」
「――あなたはおかしな人ですね」
 そう。
 おかしいんだ、私は。
 そして。
 苦しいんだ、私は。
「どうして私のことなんかをそんなに知りたいんですか?」
「――好きだから――です」
 たとえ私が好きといっても、何も、一つも変わらない。
「――好きだから、です、か」
「――はい」
「――だとしたら」
「――」
「あなたは世界が好きなんですね」
「――え?」
 ――え?
 今、何を?
 ユヴュは、今、なんと――?
「え、あ、あの――そ、それは、どういう――?」
「好きだから知りたい、と言ったのは、あなたでしょう?」
 ユヴュは小首を傾げる。
「あなたはいつもいつも、なんでもかんでも知りたがる。この世界のことを、なんでもかんでも。だから私は、あなたはこの世界のことが好きなんだろうな、と、そう思っただけですが?」
「――」
 ああ。
 私の言葉に、意味はないけど。
 あなたの言葉は、世界を変える。
 私の、世界を。
「ええ――ええ」
 私は、頷く。
 涙を、飲みこむ。
「私は――好きです。ここが――この、世界が――」
「――私も、好きです」
 ユヴュは、うっすらと微笑む。
「私もここが、好きなんです。私は――」
 ユヴュの瞳が、揺らぎ、かぎろう。
「私は、ここに、いたいんです――」
「――」
「ここ」とは、私の家のことなんかじゃないだろう、もちろん。
 でも、うれしかった。
 とても、うれしかった。
「――いて下さい」
 私は、ささやく。
 そっと――そっと。
「ずっと、ずっと――いつまでもここにいて下さい」
「――うそつき」
 不意に。
 ユヴュの瞳が、燃え上がる。
「あなたがたは、私達が、自分達と違うものであることを――私達が『ツキの民』であることを望んでいるのに。地上になんか、おりてくるなと思っているのに。――わかるんですよ。私にだって、わかるんですよ、それくらい――」
「――」
 そう。
 私にも、わかる。
 よるな、さわるな、消えちまえ。
 私はここに、いちゃいけない。
 死に損ないの『ツキのヒルコ』。
 ――『ツキのヒルコ』。
『ツキのヒルコ』と『ツキの民』。
 居場所がない。居場所がない。この地上には、居場所がない。
 だけどここが好き。だけどここにいたい。だけど、だけど、だけど――!
「――私は――」
 かすかな声で、私は叫ぶ。
 私の願いを。心の底からの、私の望みを。
「あなたに、ここに、いて欲しい――」
「――」
 澄んだ瞳は、ひどく真摯で。
 私のすべてを、見つめている。
「――私は――」
 ユヴュの唇が、わずかに開く。
 ユヴュはひどく――とまどっている、ように見えた。
「私は――」
 ユヴュの手が、私の頬に触れ。
 その瞳が、私の瞳の最奥を貫く。
「ここに、います、よ――」
「――」
 頷いたとたん、抱きしめられた。
 そして、悟った。
 ああ、もう、これで。
 これで、終わりだ。
 彼を失ったら、私は死ぬ。
 それが、ひどく、はっきりとわかった。



(ユーリル)
 感じない。
 感じない。
 私は恐怖を、感じない。
 地の民達は、闇に恐怖を感じるのだという。
 だけど私達イギシュタール貴族は。イギシュタールのツキの民は。
 闇に恐怖を、感じない。
 だから。
 真夜中の街を歩いていても、特になんとも思わない。治安がどうのこうの、というのも、貴族に勝てる平民など、ほぼ確実にいるはずがないので、気にしたりするはずもない。
 それに。
 今夜の街には、闇がない。ざわざわと絶えずうごめき続けている。
 きっと何かがあるのだろう。何があるのか知らないが。
 私達は、地の民達のことをあまり知らない。そもそもたいして興味がない。やることをやってくれればそれでいい。
 でも。
 ねえ、ユヴュ。
 君は、何を知りたいの?
 地の民達の、いったい何を?
 わからない。
 わからない。
 私には、わからない。
 もしも私に、それがわかれば。
 ねえ、ユヴュ。
 君はまた、私の半身になってくれる?
 私の隣に、いてくれる?
 ――え?
 私は。
 ふと、気づく。
 体の奥が、シィンと冷える。
 私がそれを、望むということは。
 今はそうでは、ないということ。
 つまり。
 つまり。
 ユヴュは今、私の半身ではなく、そして――。
 そして私の、隣にいない。

いつか覚めるとわかっていても

(ユーリル)
 昔から、わかっていたのだ。
 昔から、わかっていた。
 知っていた。
 ユヴュと私は、違うのだ。
 違う。
 同じものを、二つに分けただけなのに。
 もとは一つの、はずなのに。
 違う。
 違う。
 いつも。
 いつでも。
 いつまでたっても。
 どうしても。
 私とユヴュとは、違うのだ。



(ユヴュ)
 笑っている。
 笑っている。
 こいつはいつでも、笑っている。
 いつも。
 いつでも。
 何があっても。
「花火がね、あがりますからね、もうすぐ」
 にこにこと、アンツが言う。
「それがお祭り開始の合図なんですよ」
「そうですか」
 ふと、考える。
 私達の祭り――『カミオロシ』には、そういう合図はない。
 必要ない。
 みんな自然とわかるのだ。みんな互いに通じ合う。
 いつ、だれが、どのように動けばよいのか。
 合図なしでも、みなわかる。
「――私、初めてなんですよ」
 やはりにこにこと、アンツが言う。
「誰かといっしょに、お祭りに行くの」
「――そうですか」
 としか、答えようがない。それがどうした、と答えないだけありがたく思えってんだ、まったく。
「――あの」
 不意にアンツが、ひどく真面目な顔で言う。
「ええと、あの、もし――もし万一、私といっしょにいることで、ユヴュさんにその、なにかご迷惑がかかるようなことになったとしたら、その――私にかまわず行っちゃってください。どうせその、私が原因でしょうから」
「――」
 一瞬、虚をつかれ。
「――ばかですか、あなたは」
 奇妙に、腹がたった。
「どうして私がそんなことをしなくちゃいけないんです?」
「え、だって、あの、その、ユ、ユビュさんには、別に誰も文句なんかつけない――」
「私は連れを一人残して勝手にどこかへ行ったりしません」
「――」
 アンツの目が、奇妙な具合に光るのが見えた。
「あ――ありがとう、ございます」
「まったく」
 ああまったく、なんて人をいらつかせるやつだ。
「あなたはどうしてそういつも、ばかなことばっかり言うんです?」
「あ、その――どうもすみません」
「――ばーか」
「――」
 ――変なやつ。
 いったいなんだって、ばかと言われてにこにこ笑うんだか。
「もうすぐ花火が――」
 と、アンツが言いかけたとたん。
 花火が、あがった。



(アンツ)
 もしも願いがかなうなら。
 今日が永遠に続きますように。
 もしも願いがかなうなら。
 今日はずっと、あなたといっしょにいられますように。
 もしも願いがかなうなら。
 今日は――今日だけは。
 お願いです、みなさん。
 今日だけでいいんです。
 私のことを、忘れて下さい。
 私がヒルコであることを、ここにいてはいけないということを。
 どうか今日だけ、忘れて下さい。
 もしも忘れられないのなら。
 ええ――忘れることなんて出来ませんよね。
 それなら、せめて。
 私達の邪魔をしないで下さい。
 私のことをどんな目で見てもいい。でも。
 手を出して、こないで下さい。
 明日になれば、私に何をしてもかまいませんが。
 今日だけは、ほうっておいて下さい。
 どうか、どうか、どうか。
 今日は。
 今日だけは。
 私をほうっておいて下さい。
 一度だけでいい。今日が最初で最後でいい。
 一度だけ。
 お願いです、一度だけ。
 私の願いを、聞いて下さい。
 たった、一度だけ。
 私も――生まれ損ない、死に損ないの『ツキのヒルコ』も。
 いっしょに。
 好きな人と、いっしょに。
 お祭りに、行きたいんです。



(ユーリル)
 ――結局ゆうべは、寝なかった。
 一晩街を、歩き続けた。
 だから、だろう。
 私達――イギシュタール貴族は、地の民達よりもずいぶんとそういうことには耐性があるはずだが。
 なんだか少し、ふわふわしている。
 楽しいか、と聞かれれば、別に楽しいわけではない。
 それでもなんだか、ふわふわしている。
 お祭り――なんだろうな、これは、きっと。
 どんな祭りか、なんの祭りか知らないが。
 とにかくお祭りなんだろう。
 ああ――ざわざわしている。
 私。
 私は。
 どこへ行くとも決められず。
 どこにいようと落ちつけず。
 私は、ただ。
 街を、さまよい続ける。
 私は、漂っている。
 祭りの、喧騒の中を。



(ユヴュ)
「いまさら怖がらないで下さい」
 ああもうまったく、ほんとにこいつは。
「行くんでしょう? 行きたいんでしょう、お祭りに」
「ええ、あの、はい、はあ、それは、あの、はい、そうなんですけど――」
「だったらとっとと行きましょう」
「あ、ええ、あの、でも、も、もう少し暗くなってからのほうが――」
「暗くなると、どんないいことがあるっていうんです?」
「――」
 おどおどと、アンツは目を伏せる。
「暗くなれば、私、あの――少しは目立たなく――」
「もともとあなたは極端に地味です。これ以上どう、目立たなくなろうっていうんです?」
「――」
 アンツはひどく――悲しげな、顔をする。
「――たとえ私が、世界で一番地味で、目立たない人間であるとしても」
 小さな声で、アンツは言う。
「誰も――忘れてはくれません。見逃しては――くれま、せん」
「――何を、ですか?」
「――私が『ツキのヒルコ』であることを」
「――」
 ――ああ、そうだったっけ。
 私はそんなこと、しょっちゅう忘れる、というか――。
「私はそんなこと、あなたに言われなければいちいち思い出したりなんかしませんがね」
「――」
 アンツの唇が、わずかに震える。
「――ありがとう、ございます」
「なんで礼なんか言うんですか。ほんとにまったく」
「――」
 にこ――と、アンツが笑うのを見て。
 どうして胸が痛くなるんだ?
 私の体が、なんだか変だ。
 なんだかおかしい、調子が狂う――。
「――ユヴュさん」
「はい?」
「えと――行きましょうか、お祭りに」
「はじめっからそうしてくれれば、話も早かったんですよ」
「そうですね」
 アンツは笑う、にこにこと。
 変なやつ。
 変な――やつ。
 なのに、なんで。なんで、どうして。
 どうして私は、こんなおかしなやつといっしょに、お祭りに行くことにしたんだろう――?



(アンツ)
 ――正直、ろくな記憶がない。
 お祭りの日に関しては、正直ろくな記憶がない。
 というか、記憶そのものがない。
 お祭りの日は、たいてい――。
 家に閉じこもって、一歩も外に出なかったから。
 冒険心など、私にはない。
 だからいつもおとなしく、家で両親と遊んでいた。
 両親がなくなってからは、確か一度くらいは――。
 ――。
 ――ああ、そうだ。
 これは、思い出したくない記憶だ。
 だから、思い出さずにおこう。
 私はたぶん――そういうことが、やたらとうまいのだろう。
 思い出したくないことは、思い出さずにおく。
 私は怠惰な臆病者だ。
「行きましょう」
 あまりにもあっけなく、ユヴュは私を誘う。
 そして、私も。
「――はい」
 あまりにもあっけなく、さしのべられた手にすがる。



(ユヴュ)
 私がちょっとにらみつけてやると、誰もかれもがあわてて目をそらす。
 こういうふうに思うのは、きっとひどく不謹慎なことなのだろうが――。
 なんだかやたらと、面白い。
「――知っているんですかね、みなさん」
「え?」
「私が貴族だということを」
「それは――ええ、はい、知っていると思います」
「おかしなものですね」
 なんでそんなことになるんだか。
「私は別に何も、教えたりなどしていないのに」
「それは、でも――その、なんとなくわかってしまうんですよ、そういうことは」
「不思議なものですね」
「ええと、ええ、あの、ええ、ああ、はい」
「そんなにあわてることはないですよ。私は別に、機嫌を悪くしたわけではありません」
「あ――はい」
 トトトッ、と、アンツが小走りになる。
 おっと、そうか、こいつ、私よりも背が小さくて足も短いんだっけ。
 もう少しゆっくり歩いてやるか。
「急がなくていいです。私がゆっくり歩くようにしますから」
「あ――ありがとう、ございます」
 変なやつ。なんで真っ赤になるんだか。
「こういうのは――初めて見ます」
 と、言いながら、私はあたりを見まわす。
 人混みの中、私とアンツの周りにだけ、ポカリと小さな空白がある。
「――鎮まりたまえ  鎮まりたまえ
 御霊よどうか  鎮まりたまえ――」
 小さな声で、アンツがつぶやく。
「御霊って――なんなんですか、いったい?」
「あ、ええと、それは、昔亡くなった――」
「それくらいは知っています。昔亡くなった人の、精神エネルギーのみが残留して、この世界、私達の世界に影響を及ぼしている、という、あなた達が考えだした架空の存在のことでしょう? 私が聞きたいのは、今あなたが、鎮まりたまえ、と呼びかけた御霊は、亡くなる前はいったい誰だったのか、ということです」
「ああ――」
 アンツは目をまるくして、少し考えこむ。
「それは、ええと――『大厄災』でなくなったかたがたですね」
「ふうん――」
 ああ、そういえば昨日も、そんなことを言っていたっけ。
 でも――。
「でも、どうして『大厄災』で亡くなった人に限るんでしょう?」
「え?」
「いつだって、どこだって、どんな時代だって、どんな場所だって、人は死にます。ああ、この場合、場所はあんまり関係ないかな。でも――『大厄災』の前も、後も、それまでと何も変わらずに、人は死に続けています。確かに『大厄災』では非常に多くの――空前絶後と言っていいほどの数の人々が亡くなりました。でも――死は、どんな死も等しく、死です。今までなくなった人々すべてに、鎮まりたまえと願うなら、私もわからないではない。しかし――どうして『大厄災』で亡くなった人達だけを、特別扱いするんです? 昨日は聞き流しましたが、改めて考えてみるとなんだか不思議な気がします」
「え――」
 アンツは息を飲む。
 そして、考えこむ。
「ええと――え、どうして、って――考えたこともありませんでした、そんなこと」
「そうですか」
 この変人が考えてみたこともないっていうんだから、他の連中なんかなおさらだろう。
「なぜ『大厄災』における死者だけが特別なのか――」
 アンツが考えこんでしまったので、ひまつぶしにあたりを見まわす。
 張りぼての丸い飾りの下に、ピラピラとしたテープがくっついたものがあちこちにあるが――。
「あれは――軌道エレベータのつもりなんでしょうか、もしかして?」
「え?」
 アンツがきょとんと目を丸くする。
「きど――それはええと、なんですか、いったい?」
「軌道エレベータとは――ひとことで説明するのは難しいですね。しいてあなたがたにもわかる言葉にするとするなら、そう――星々の世界へと通ずる、高い高い、塔のことです」
「え――」
 よほど驚いたのか、アンツが歩みをとめる。
「星々の世界に通ずる、塔――」
「『大厄災』の際に、すべて失われてしまいましたがね。一本でも残っていれば、私達――というか、私達の祖先はみんな、宇宙へかえれたはずなんですが」
「――」
 アンツがまじまじと、私の顔を見つめた。
「――どうかしましたか?」
「え、い、いえ、ベ、別に、な、何も」
「そうですか」
 変なやつ。
「あれが軌道エレベータだとすると、あれは――ソーラーセイル?」
「そ、そうら、え?」
「ソーラーセイル。太陽の光を帆に受けて、星の海をかける帆船です」
「そ、そんなものが――」
「あったんですよ、昔――『大厄災』の前には」
「わ――私達はあの飾りのことを『おちょぼ傘』と呼んでいます」
 幾分呆然とした顔で、アンツが言う。
「おちょぼ傘? あなたがた、いったいなんだって壊れた傘なんかをお祭りの飾りにしたりするんです?」
「り、理由はわかりません。で、でも、ち、鎮守祭の時には、そうするものだから、って――」
「なるほど、意味が失われて、形だけが残ったということですか。ふん――これはちょっとした、民俗学の実地研修ですね」
「意味が失われて、形だけが――」
 呆然と、アンツがつぶやく。
「じ、じゃああの『角出し鍋(つのだしなべ)』は――」
「パラボラアンテナじゃないですか。星の世界からの通信を、受けとめるための機械ですよ」
「あ、あれは、あの『化蜘蛛の巣(ばけぐものす)』は――」
「へえ、ずいぶんと古いものをひっぱりだしてきましたね。『大厄災』の前に、フラクタル・ネットにとってかわられたと聞いていますが、あの『WWW』の紋章がついているからには間違いありません。あれは『ワールド・ワイド・ウェブ』。直訳すると『世界規模の蜘蛛の巣』です。世界中を結ぶ通信網にしてデータベース――あなたがたにもわかるように説明するなら、それを使えば世界中の人と話が出来たし、その中には世界中のありとあらゆる種類の知識がつまっていたんですよ」
「世界中の、ありとあらゆる種類の――」
「大丈夫ですか、アンツさん?」
「え、あ、はい、はい、だ、大丈夫です、もちろん。え、あの、え、じゃあ――」
 それからしばらく、アンツはかたっぱしから祭りの飾りを指さしては、あれは本当はいったい何なのかとたずね、私は答えられる限りそれに答えた。なんなんだかさっぱりわからない飾りもいくらかあったが、この、鎮守祭の飾りはかなりの割合で、『大厄災』で失われた技術やら機械やらの形だけを残したものだった。もっともその『形』も、私が見たところでは、かなり歪んだり奇妙なものと置き換えられたりしてはいたが。
「――てた――」
 震えながら、アンツがつぶやく。
「え?」
「――てた。残ってた。残ってたんだ――」
「え――」
 私は、息を飲む。
 アンツの両の瞳の、あまりに強い輝きを見て。
「残ってた――」
 アンツは気がついているのか。
 たぶんアンツは、気がついていない。
 アンツは。
 笑って、いた。
「私達の中には――ちゃんと、過去が残っていたんだ――」
「――」
 私――私は。
 私は、なぜ――何も言えないんだろう――。



(アンツ)
 夢だ。
 夢。
 これは、夢。
 一夜で覚める、これは、夢。
 それでもいい。かまわない。
 ああ、そうだ、わかっている。
 この夢が覚める時、私は、この人生で最大の、激しい苦痛を受けるだろう。
 そして、その苦痛を癒すものはもはやない。
 でも。
 今までに味わったことのない幸せも、喜びも、みんなあなたが与えてくれたのだから。
 あなたは私を、壊していい。
 地獄につき落してかまわない。
「――」
 じっと見つめられていたことに気づいて、胸がはねる。
「あ、ええと、あの――」
「――行きましょうか」
「あ――ええ、はい」
 ユヴュは、ゆっくりと歩いて。
 私の歩幅に、あわせてくれる。
 どうしてこんなに、私に優しくしてくれるんだろう。
 私は厚かましいことに、手をつなぎたいなどと思っている。
 こんなに優しくしてもらっておいて、それより上を望んでいる。
 まったくもってどうしようもない。
「鎮まりたまえ――か」
 ポツリと、ユヴュがつぶやく。
「祈っているんですか、あなたがたは?」
「え――はい、そうですね。御霊鎮まりたまえ。どうか鎮まりたまえ。われらもう二度と、御身らの眠りさまたげませぬほどに――」
「――もう、二度と?」
 ユヴュが、眉をひそめる。
「もう二度と、ということは――一度はその眠りをさまたげたのだということですか?」
「え――」
 虚をつかれた。
 そんなことは、考えてみたこともなかった。
「それは、ええと――『大厄災』の時に――」
「おかしいですよ、それは」
 ああ。
 ユヴュの、目が光る。
「だってこの祭りは『大厄災』で亡くなった人々の、ええと――魂、でいいんですか? 魂を慰めるためのものなんでしょう? 鎮めるための、ものなんでしょう? 『大厄災』が彼らの眠りをさまたげることなんでできっこありませんよ。だって、彼らが眠りについたのは『大厄災』の『あと』なんですから」
「そ――そうですね。それは、はい――そのとおりです――」
 そうだ、確かに。
「われら決して」と唱えるならば、いい。何もおかしなことなどない。
 だが。
「われらもう二度と」と唱えるならば、それはつまり。
 少なくとも一度は、その眠りをさまたげてしまったことがあるということだ。
 と、いうことはつまり――。
「どこかで何か――まちがったのか、混乱したのか」
 と、ユヴュが小首を傾げる。
「しかし――どうせあなたがたは、そんなことなど覚えちゃいないんでしょうね」
「――」
 胸が痛い。
 胸が痛い。
 われらは――私達はなぜ――すべてを忘れ去ってしまったのだろう――。
「――別に私は、怒ったわけじゃないんです」
 ユヴュがちょっと、すねたように言う。
「いちいちそんな顔しないでください」
「あ、す、すみません」
 言いながら、胸の中が、おなかの中があったかくなる。
 あなたが私を、気にかけてくれる。
 それだけで、私は幸せ。とっても、幸せ。
 あなたが好き。あなたが好き。
 誰より何より、あなたが好き。
「――いつもごちそうになっていますので」
 唐突に、ユヴュが言う。
「今日は私が、ええと――おごる、って言えばいいんですか、こういう時?」
「え、そ、そんな、わ、悪いですよ、そんな」
「別に悪くはありません。それが悪いなら、今まで私があなたにごちそうになっていたのも全部、悪かった、ということになります」
「え、そ、そんなことはありませんよ、全然」
「だったらこれも、何も悪くなんかありません。今日は私がおごります」
「あ――ありがとう、ございます」
 ありがとう。
 ありがとう。
 本当に、ありがとう。
 私なんかを、こんなに優しく扱ってくれてありがとう。
「さてと」
 キョロキョロと、ユヴュがあたりを見まわす。
「じゃあ、ええと、あなた何か、欲しいものってあります?」
「え? ええと――」
 私は――。
 アナタガホシイ。
 ――馬鹿だな、私は。
 どだいそんなの、無理なのに。
「私は、今特には――ユヴュさんは何か、欲しいものってあります?」
「私ですか? 私は――」
 ふと、ユヴュの目が、一つの屋台にとまる。
「――あれ、面白いですね」
「あ――発掘屋、ですか」
「並べられているもの自体はたいしたことはないですが――」
 クククッ――と、ユヴュが意地悪く笑う。
「ずいぶんとまあ、無茶苦茶な口上を書き並べるは、言いちらすは。まったくもって、面白い」
「――」
 私は、微笑む。
 苦く、甘く。
「――何か、買われますか?」
「そうですね。記念にいいかもしれません」
「――」
 記念――か。
 ああ、そうだ。
 私も何か――買ってもらおう。
 どんなにちっぽけな、どんなにつまらないものでもいいから。
 他人にとってどう見えようと、私にとってそれは。
 あなたのかけらという名の宝石。



(ユヴュ)
「――あなたにはこれがいいでしょう」
 小さなビンのなかに、ジャラジャラとつめこまれた――。
「これは記憶媒体、つまり、ええと――この中には、あなたの家にある本の内容すべてを書きこむことが出来る、と言ったら、あなた驚きますか?」
「お、驚きます」
 と、いつものようにアンツは、目をまん丸くして私を見た。
「こ、これって、そういうものだったんですか?」
「もちろん今は使えませんがね。書きこまれたことを読むための機械がないし、媒体そのものも、もう壊れてしまっているでしょう」
「お客さん、詳しいねえ」
 と、店主が私に笑いかける。きっとこういうのを『愛想笑い』というんだろう。
「ええ、まあ、それなりに」
 言いながら私は、何か記念になりそうなものを探す。
 そして。
 私は思わず、つぶやいた。
「――プラスチックは永遠なり」
「え?」
「私はこれをいただきましょう」
 それは、とてもとても原始的な、とてもとても古い――。
 プラスチックでできた、宇宙船のおもちゃだった。
「やれやれ、まったく、よくまあ残っていたものです。
「それはね、ええ、形がいいでしょう? なかなかないですよ、こんなにちゃんと形が残っているのは」
「――」
 こいつ――この店主は、これがいったいなんなのか、はたして知っているのだろうか?
 まあ――そんなことをいちいち問いつめてみたところで、なんの得にもなりはしないな。
「はい、毎度」
「ありがとうございます」
「――あの」
 アンツが、私を見あげてにっこり笑う。
 私が買ってやった、小ビンを握りしめて。
「ありがとう、ございます。本当に、本当に――ありがとう、ございます」
「別に――今日はおごると約束しましたから」
「――」
 本当にうれしそうに笑うんだな、こいつは――アンツは――。
「――うれしいですか?」
「はい、とても――とても、うれしいです」
「そうですか」
 ああ、なんだ、いったいなんだ、この気持ち、いや――。
 私の体が、なんだか変だ。
 変だ、変だ、最近ずっと、ずっと、変だ――。
 胸が苦しくて。
 息が苦しくて。
 なんだかボォッっとして。
 なんだかクラクラして。
 変だ、変だ、変だ――。
 私は――病気、なのか?
 熱はない――いや、あるのか?
 わからない、わからない――。
「うれしい、です。私は、とても――」
「――そうですか」
 ――たい――。
 ――え?
 私は今――何を考えていた?
 いったい、今、何を――。
 ――たい――めたい――。
 抱き――。
 抱きしめた――。
「――行きましょうか」
「はい」
 ちがう。
 ちがう。
 こんなの、ちがう。
 考えていない。考えていない。私はそんなこと、ちっとも考えてやしない。
 そんな――そんな――。
 ダキシメタイ、ダナンテ――。



(アンツ)
 私の隣を歩くユヴュは、むっつりと、何かを考えているようで。
 邪魔をしたくないので、私も黙って隣を歩く。
「――人が、たくさんいますね」
 ポツン、と、ユヴュがつぶやく。
「ええ。たくさんいますね」
「それなのに『ツキノヒト』はいないんですね」
「そ――そうですね、ええ――」
『ツキノヒト』とは、『ツキのヒルコ』のこと。
 いるはずがない。いるはずがない。『ツキのヒルコ』がいるはずがない。
 こんな晴れがましい場所に。
 それじゃあ――私は?
 私は――そう。
 あなたが隣にいる。あなたの隣にいる。
 月から来た、天人のかたわらに――。
「あなたがたときたら、ほんとにまったく」
 ユヴュはちょっと、顔をしかめた。
「すべてが均質になってしまうことこそが、大いなる破滅の先触れなのに」
「大いなる破滅の――」
 ドキリ――と、息がとまる。
 すべてが均質になることこそが、大いなる破滅の先触れ。
 それなら――ああ、それなら――。
 私は、ここに――いても、いいのだろうか――。
「あなたに言ったところでしかたがありませんね」
 ヒョイ、とユヴュは肩をすくめる。
「さて、と。何か食べますか? それとも、何か飲みます?」
「あ、ええと――」
 私は、今。
 祭りの、街にいる。好きな人といっしょに、大好きな人といっしょに、世界で一番、愛している人といっしょに。
 苦しい。
 苦しい。
 胸が苦しい。息が苦しい。
 時よとどまれ。いかにもおまえは美しい。
「――」
 私は思わず、苦笑する。
 時よとどまれと願うごとに、一つずつ魂を失っていくとすれば、私の魂など、いくつあっても足りはしない。
「何を笑っているんです?」
「え、あ、えーと、な、なんとなくです。すみません」
「おかしな人だな、あなたはまったく」
「――」
 私はまた――そっと、微笑む。
「――あなたが決めないんなら、私が勝手に決めますよ」
 と、ユヴュがちょっと、口をとがらせて言う。
「あ、どうも、あの、それじゃあの、お願いします」
「やれやれ」
 ユヴュが、フン、と鼻をならす。
「じゃあ、行きますよ」
「はい」
 ああ――そうか。
 初めてわかる。私にわかる。私にもわかる。やっと、わかった。
 ああ、そうか。
 お祭りって、楽しいこと、だったんだ――。



(ユヴュ)
 私とアンツの周りにだけ、ポカリと丸い空白がある。
 と、指摘すると。
「あ――私のせい、ですね。あの――すみません、ほんとに」
 などとこいつは、いつものとおり見当はずれなことを言う。
「別に謝る必要はありません。楽でいいです」
「え、あ――ら、楽――」
 アンツはきょとんとし、ついで、プッとふきだした。
「……私、そんなに変なこと言いましたか?」
「あ、す、すみません、笑ったりなんかして。あの――でも、あの――」
「なんです?」
「ありがとう、ございます」
「何が?」
「――うれしかったんです」
「なんで?」
「――」
 アンツは黙って、にこりと笑った。
 私はなんだか、それ以上、何も言う気になれなくて。
 黙ってしばらく、ただ歩いていた。
 よく、思う。
 こいつはいったい、何がうれしいんだろう?
 変なやつだと、いつでも思う。
「――あなたはおかしな人ですね」
「そうですね」
「――」
 私はいったい、何をしているのだろう。
 いまだにさっぱりわからない。
 なんだか――のどが渇いた、ような気がする。
 何か、飲むとしようか。
 何を飲んだところで、どうせ。
 何の解決にもなりはしないのだろうけど。



(アンツ)
 ユヴュが買ってくれた酒のカップに、おそるおそる口をつける。
 カップは素焼きの、飲んだ後そのまま捨ててしまってもよいもので、なんだか妙にホッとする。
 ヒルコが使った、使ってしまったものなど、たいてい後で叩き壊されてしまうのが常なのだ。
 ユヴュの瞳に何となく似た、琥珀色の酒を少しだけすする。
 うわ――強いな、こりゃ。
「ユヴュさん、これ、かなりつよ――」
 と、みなまで言う間もなく、ユヴュは一気にカップの中身を飲みほしてしまった。
「うわ!? だ、大丈夫ですか!?」
「は? 何が?」
「い、いや、その、このお酒、かなり強い――」
「強い?」
「え、いや、その、強いお酒、っていうのは、ちょっと飲んだだけですぐに酔っぱらってしまうお酒、ということで――」
「ああ」
 ユヴュはペロリと唇をなめた。
「大丈夫です。私達、あなたがたの言葉で言えば、酒に酔わない体質ですので」
「え、あ――そ、そうなんですか?」
「はい。それはまあ、極端に大量に摂取したりすれば多少は影響が出るでしょうが、この程度の量ならばどうということはありません」
「あ――そうなんですか、はあ――」
「もちろん、私達だって、お酒の味や風味はわかりますよ。だからそれなりに酒をたしなみもします。ただ、酔っ払いはしませんね」
「なるほど――」
 私がチビチビと酒をすすっているあいだに、ユヴュは二杯目を注文して、これまた平然と飲みほしてしまった。
「――口にあいませんか?」
 カップの中身をいささかもてあまし気味の私を見て、ユヴュが小首を傾げる。
「いや、というか――私にはこれ、ちょっと強くて――」
「強い――ああ、飲むと酔っぱらってしまうということでしたっけ?」
「あ、はい」
「ふうん」
 ユヴュは、パチクリと目をしばたたいた。
「それじゃあそれ、私がもらってもいいですか?」
「え?」
「あなたには、別のを買ってあげますから」
 といってユヴュは、私の手からヒョイとカップを取り上げ。
 クイ――と、飲みほしてしまった。
「――」
「――あれ」
 目をまるくしている私を見て、ユヴュはちょっと、気まり悪げな顔をした。
「飲んじゃ、いけませんでしたか? だったらまた、新しいのを買ってあげますから――」
「あ、いえ――私にはそれ――強い、ですから――」
「そうですか」
 わからないだろう。
 あなたにはきっと、わからない。
 私が今――どれほど感動しているか。
 あなたは私を本当に――本当に――。
 本当に――いったいなんだというのだろう?
「――アンツさん?」
「あ、はい、はい」
「どうしたんですか、ボーッとして?」
「え、あ――いや、その――」
「もう酔っぱらったんですか?」
「あ――はい――そう、かも――しれません――」
 あ――ああ、そうか。
 ユヴュ。
 あなたにとって、私はいつも。
『ツキのヒルコ』ではなくて。
 いつでもおかしなことばかり言う、馬鹿でズレてて調子の狂った変人の――。
『アンツ・ヴァーレン』なのだ、いつでも。



(ユヴュ)
 酔っぱらう――というのは、いったいどういう感じがするものなのか。
 気持ちがいいのか、悪いのか。
 文学作品、および医学書などを参考にすると、適量なら快、過度なら不快、というのが定説のようだが。
 私達はそもそも、酔っぱらったりしないからなあ、代謝の関係上。
 アンツの顔が赤いのは、酔っぱらっているせいなのだろうか。しかしこいつはしょっちゅう赤くなるからなあ、意味もなく。
「――酔ったんですか?」
「――かも、しれません」
「そうですか」
 私達は酔いはしないが、アルコールに関する知識ならある。アルコールに弱い体質の者に、無理に飲ませてはいけないことくらい知っている。
「アルコールに弱いなら、あまり飲まないほうがいいですよ」
「あ、はい」
「――酔っぱらうって、どんな気分なんですか?」
「え? ええと――私もあまり、酔っぱらったことはないので――」
「今は?」
「今――」
 なぜ――だろう。
 なぜだか、一瞬。
 音が、消えた気がした。
「今、ですか――今、は――」
 目がうるんで。
 奇妙に光って。
 ああ、こいつは――。
 酔って、いるのかな――。
「頭が――ボォッとして――足元が――フワフワして――胸が――ドキドキして――」
「ああ、やっぱり酔っているんですね」
「そう、ですね――ええ――」
「――すみませんでした」
「え?」
「お酒、飲ませたりして。そんなに弱かったんですね。知りませんでしたから、私」
「え、そ、そんな、い、いいんですよ、そんなこと」
 ワタワタワタ、と、なぜだかアンツがあわてふためく。なんであわてるんだこいつ? さっぱりわからん。
「酔っぱらうって――気持ちがいいんですか?」
 私はなぜだか、そんなことを聞いている。
「――」
 アンツはにこりと――奇妙な、笑みを浮かべ。
「苦しいけど――とても気持ちがいいですよ――」
 と――ひどく奇妙な、答えを返す。

鏡は横にひび割れて

(ユーリル)
 ――鏡は横にひび割れて。
 ああ、わが命運つきたりと。
 シャロット姫は叫べり――。
 どこで――読んだのだろう。
 どこで――読んだのだったか、この詩を。この文句を。
『鏡は横にひび割れて。
 ああ、わが命運つきたりと。
 シャロット姫は叫べり』
 ――わが命運――。
『鏡は横にひび割れて』
 ――わが半身は、去りゆきぬ。
『ああ、わが命運つきたりと』
 ああ、わが心の奥、砕け散る。
『シャロット姫は叫べり』
 私は――叫ぶことさえできぬ。
 鏡は横に――鏡は横に――。
 どうして――思い出せないんだろう。
 私の――私達の記憶力は、とても、とても――いい、はずなのに――。
 私はどこで読んだのか。
 どうしてそれを、知ったのか。
 鏡は横にひび割れて。
 鏡にうつる、影は一つで。
 ああ、わが命運つきたりと。
 ああ、われらが道、分かたれぬ。
 シャロット姫は叫べり。
 私は叫ぶことさえできぬ。
 ああ――ああ――ユヴュ――ユヴュ――。
 それは――誰?
 地の民、だね、彼は。一目でわかるよ。だって――だって――。
 私達は、そんな姿にはならない。
 私達には、子供と青年と老人しかいない。『成長期』と『安定期』と『衰退期』しかない。
 それは――誰?
 私は知らない。
 私は、知らない。
 私は何も――何も、知らない。
 ユヴュ――ユヴュ――。
 ねえ、君は――どこへ、行くの? いや――。
 どこへ行ってしまったの?
 私――私は――。
 私は――一人――。
 鏡は横にひび割れて。
 鏡にうつる、影は一つで。
 なんで――なんで――なんで――?
 私の前には、ひび割れた鏡。
 鏡にうつる、影は一つ。
 ユヴュ――。
 私は、知らない。
 君の前にはどんな鏡があるのか、私はそれを、まるで知らない。
 でも――でもね。
 一つだけ、わかるよ。わかってるよ。
 君が、もし、君の目の前の鏡をのぞきこんだら。
 ねえ、ユヴュ、そこには。
 二つの影が、うつっているよ。
 いつ――ねえ、いつ――いつのまに――。
 私の隣には、いつも君がいたのに。
 君はいつも、私の前を走っていたのに。
 ユヴュ、ねえ、どうして――。
 ドウシテワタシハヒトリナノ?
 ドウシテワタシハ、ヒトリニナッタノ?
 ユヴュ、ねえ――それは――誰?
 ああ、でも。
 誰であっても、同じこと。
 誰であっても、何も変わらない。
 鏡は横にひび割れて。
 鏡の中には、ただ私だけ。
 ああ、わが命運つきたり――。


 ――歌が聞こえる。
 切れ切れに。途切れ途切れに。
 歌が聞こえる。
 私はぼんやりと、知らない歌を聞いている。
 ただぼんやりと聞くだけで、歌はだんだん、形になる。
「――え――たまえ――」
「――ずま――しずま――」
「鎮まりたまえ――」
 鎮まりたまえ――か。
 なぜそんなことを願うのだろう。
 だって、今、いや、もうずいぶんと長いこと。
 何も起きてはいないのに。
「――まよ――うか――」
「みたま――」
「御霊よどうか  鎮まりたまえ――」
 ――御霊?
 ええと――ああ、そうだ。
 地の民達が信じる、架空の存在のことか。
 とすると、これは――ええと、なんだっけ――。
 ――ああ、そうだ。
 もしかして、これは。
『祈り』――なのか?
 私達には、神がいない。
 イギシュタール貴族は、神を持たない。
 ああ、そう、もちろん『カミオロシ』はする。でも。
『カミオロシ』は、私達が生み出すもの。
『カミ』はこの手で、創り出すもの。
 私達は。
 架空の存在に、祈ったりなどしない。すがったりなどしない。何かを託したりなどしない。
 ああ――でも。
 でも――私は。
 私は――。
 気がついた。
 今、気がついた。
 私――私は。
 私は何かにすがりたい。
 ユヴュ――ユヴュ――ねえ、ユヴュ――。
 君がここにいれば、私の隣にいれば、いてくれれば、私はそんなこと、ちっとも思いやしないのに――。


 ――なんだか変なものがいろいろと飾ってある。
 私は一人で、祭りの街を歩いている。
 奇妙な張りぼての――いやまて、あれはもしかしたら――。
 ――軌道エレベータ? ――ソーラーセイル? ――パラボラアンテナ? そう――それにあれは――。
 ああ――なんとなくわかる――わかってきた、ような気がする――。
 この街に、祭りの街に、飾ってあるものはみな。
 はるかな過去の、かけらたち。
『大厄災』の前の世界の、おぼろな影。かすかなこだま。
 ああ、そう、ここは今――。
 過去のかけらの、万華鏡の中。
 覚えて――いるのか? あれが、あれらが、もとはいったい何だったのか、それを知ってて飾ってるのか?
 わからない。
 わからない。
 私には、わからない。
 道の両脇には、小さな店がずらずらと並んでいる。
 いろんなものを、売っている。
 そういえば、何か飲みたいような、食べたいような――。
「あ!」
 ――え?
 10歳ぐらい、だろうか、地の民の男の子が、私を見て目を丸くした。
「おじさん、こんちは!」
「え? ええと――ああ、うん、こんにちは」
 私はめんくらった。ずいぶん人なつっこい子だな。
「おじさんも、お祭りに来たの?」
「ええと――まあ、そういうことになるのかな?
「あれ? 今日は先生といっしょじゃねーの?」
「え? せ、先生?」
「いっしょじゃねーんだ。そっか」
 男の子は、何やら勝手に納得している。
「んじゃな、おじさん。またな」
「えーと、ああ、うん、さよなら」
 ……えーと。
 なんだったんだ、あの子は?
 あれはまるで――まるで、私と誰かを――。
「!? き、君、君、ちょっと待って――!」
 私の呼びかけは、むなしく空にかき消える。
 私が誰かと勘違いされたとするなら、その『誰か』とは、いうまでもなく。
 ユヴュである可能性が最も高いに決まっているのだ。
 ああ――だが。
 私は少し、遅すぎた。
 男の子はあっという間に、祭りの人波の中に飲み込まれてしまった。
「待って――」
 ああ、だめだ、もう遅い。
「――え?」
 そして私は、再び気づく。
(今日は先生といっしょじゃねーの?)
 今日――今日は――『今日は』とわざわざ言う、ということは――。
「――ユヴュ――」
 ユヴュはいつも、誰かといっしょにいる、ということで――。
 ――。
 ――ユヴュ――ねえ、ユヴュ――。
 ユヴュはいつも――誰といっしょにいるの?
 ねえ、ユヴュ――。
 私じゃない、誰といっしょに――。


 鎮まりたまえ  鎮まりたまえ
 御霊よどうか  鎮まりたまえ
 御霊鎮まりたまえ  どうか鎮まりたまえ
 われらもう二度と、御身らの眠りさまたげませぬほどに――。

 逆だ――と、思った。
 ああ、逆だ――と。
 私達の――イギシュタール貴族の祭り『カミオロシ』は、昂ぶることを目的としている。
 彼らの――地の民達の祭りはどうやら、鎮めることを目的としているようだ。
 鎮まりたまえ――か。
 鎮まらないと、いったい何が起こるというのだろう。
 ふと――不安に、なる。
 最も近い片割れ、私の半身、ユヴュのことさえ理解できない私が『カミオロシ』に参加したとして、はたして役にたてるのだろうか?
 ――あ。
 それをいうなら、ユヴュだって――。
 一般的なイギシュタール貴族の基準からは、だいぶはずれているんじゃ――。
「――鎮まりたまえ」
 ――あれ?
 私は今――いったい何をつぶやいた?
「鎮まりたまえ  鎮まりたまえ――」
 そして私は、絶句する。
「鎮まりたまえ」とつぶやきながら、それではいったい何に、もしくは誰に、鎮まって欲しいのか、さっぱりわかっていないということに、遅まきながら、気がついて。



(アンツ)
 ああ――酔っているのだ。
 あなたに出会った時からずっと、私はあなたに酔っている。
 こんなにもにぎやかな祭りの街の中で、私の目にうつるのは、ただあなただけ。意味を成すのは、ただあなたの言葉だけ。
 酔っているのだ、私は。
 ユヴュは、私が本当に酒に酔ってしまったのだと思いこんだらしく、さっきからずいぶんと気を使ってくれる。
 本当に優しいなあ、と、いつものように思う。
「――気分は、大丈夫ですか?」
「はい、ありがとうございます」
「もし酔いがひどいのなら、いったんあなたの家に――」
「あ、大丈夫です。平気ですから、本当に」
「――私達も、勉強はするんですが、一応」
「え?」
「私達とあなたがたとの違いを、私達も一応、勉強してはいるんですが」
 ユヴュは少し困ったような顔で、少しぶっきらぼうに言う。
「それでもやはり完全には、理解しきれていないんです。――あなたがたが、私達と比べると極端にお酒に酔いやすい、ということも、知識としては知ってはいてもついつい忘れてしまいます」
「いいんですよ、そんなこと。私達には――知識さえ、ありませんから――」
 チリチリと、胸が痛む。
 私は知らない。何も知らない。
 私は知りたい、あなたのことを。
「――」
 不意に。
 手がのびて。
 ギュッと、強く。
 私の手を、握って。
「――あなたときたら、まったく」
「え、あ――」
「ちゃんと前を見てまっすぐ歩いて下さい。危なっかしいったらありゃしない」
「あ――は、はい――」
 私は、強く。
 あなたの手を、握り返した。



(ユヴュ)
 アンツにとってはどうだか知らないが。
 この状況は、私にとってはまったく、馬鹿馬鹿しくも面白いもので。
 私達の周りの空白が、私がアンツの手を握ってやるとさらに広がる。
 ここまであからさまにわかりやすいと、私なんかは笑えてきてしまうというものだ、まったく。
「――馬鹿馬鹿しい」
「え、あ――え、何が――」
「周りの連中が、ですよ、もちろん」
 アンツは少し、困ったような顔をして。
 ほんの少しだけ、笑った。
 私は別に、何も困りはしなかったが。
 それでもなぜか、アンツと似た顔で笑ったんじゃないかという気がする。
「――」
 ん――。
 あれ――?
 今、何か――。
 今、誰か――。
 私を見つめていたような――?



(ユーリル)
 ――誰?
 ねえ、ユヴュ――。
 それは――誰?
 そして。
 これは――何?
 私の内からわきあがる、ふくれあがる、私を押し流す、これ――この――。
 この――感情は――?
 これは、何――いったい、なんなんだろう――?
 ただ一つだけ、わかること。
 わかりたくもないのにわかること。 
 私は一人――ただ、一人――。
 なんで――なんで――なんで――?
 私は一人で――たった、一人で――。
 鏡は横にひび割れて。
 ああ、わが命運つきたりと。
 シャロット姫は叫べり。
 鏡は横にひび割れて。
 鏡の中には、ただ私だけ。
 ああ、わが命運つきたり――。



(アンツ)
 酔った。
 酔った。
 ひどく――酔った。
 酒に、ではない。
 祭りに――いや。
 あなたに。
 あなたはきっと、私が酒に酔ってしまったのだと思っている。
 だから私も、そのふりをする。あなたに気づかわれ、いたわられ、優しい言葉をかけてもらえるという天上の美酒を、少しでも多くかすめ取ろうとあさましい努力を続ける。
 酔っている。
 酔っている。
 あなたに酔う。ただひたすらに。
「なんで無理をするんです」
 ちがう。
 ちがうよ、ユヴュ。
 私は、無理をしているんじゃない。
 私は、今。
 本当に、生きているんだ。
「大丈夫――です。休めば、なおりますから――」
「あなたの家に行きましょう」
 きっぱりとユヴュは言い、私の手をとり歩きだす。
「あなたはここでは休めないでしょう」
「あ――」
 にじんだ涙で、目がかすむ。
 あなたはそんなにも、私のことをわかってくれているのか。
 そして。
 そして――今。
 私は――ベッドの上、で。
「こういう場合は、ええと、衣服を緩めて――」
 小さな声でつぶやきながら、生真面目な顔で私を見おろし、私の襟元を緩めるユヴュが、かわいくて、かわいくて、うっとりと、私は微笑む。
「――」
 ああ、ユヴュ。
 なんという顔をするんだ、あなたは。
 ガラス細工の妖精のような。
 月から地上に堕とされたという姫君のような。
 陸に上がった人魚のような。
 ああ、ユヴュ。
 あなたは。
 あなた達は。
 ここを愛してくれるけど、地上を愛してくれるけど。
 わからない。
 わからない。
 あなた達には、わからない。
 私達は。私達、地上の民達は。
 翼を持たず。
 星の声を聞けず。
 瞳は曇り。
 理性はかよわく。
 体は脆く。
 心はよどんで。
 はかなく死にゆく。
 私達には、何もない。
 圧倒的な力も。
 情では曇らぬ理性も。
 透明でけがれを知らぬ心も。
 神々のごとき長寿も。
 私達は持っていない。何一つ、持ってはいない。
 だから。
 だからこそ。
 あなたを手にするためならば、私はすべてを捨てられる。
 ――あはは。
 馬鹿だな、私は。
 私はもともと、何も持ってはいないのに。
「どうして――笑うんです?」
 問いかける声は、細く、どこかあどけなく。
 私は何もこたえられない。
「――どうして――」
 一瞬動きをとめた手が、しなやかに、また動き出す。
 服を、脱がされていく。
 どうして私なんかを抱いてくれるのかな――と、いつものように思う。
「――あの」
 ふと手がとまり、ユヴュが、困ったような、当惑したような顔をする。
「酔いすぎると――気分、悪くなるんですよね? 知ってる――知ってるんです、私。なのに、なんで私――具合悪い相手に、なんで――」
「――」
 胸がしめつけられる。
 わからない。
 わからない。
 あなたには、わからない。
 あなた達には、わからない。
 その澄みきった心には、歪んだ望みはうつらない。
 今この時に死ねるなら。
 あなたが殺してくれるなら。
 私はきっと『幸せ』を感じてしまうだろう。
「――抱いて――」
 私は、ささやく。
 それはきっと、ひどくおぞましい光景だろう。老い衰えた男の身で、抱いてくれとささやく『ツキのヒルコ』。
 誰もがきっと言うだろう。
 バケモノ――と。
 でも、あなたは。
 そうは、言わなかった。
 何も言わず、ただ。
 ただ。
 私に、口づけてくれた。



(ユヴュ)
 わからない。
 わからない。
 私はなぜ、こんなことをしているのか。
 なんでこんなことをはじめたんだっけ。
 私――私は――。
 私は――そう。
 こいつを泣かせてやりたかったんだ。
 ――なんで?
 なんで私は、そんなことを思ったりしたんだ?
 はじまりは、あの本、あの、アンツが書いた――。
『イギシュタール――ツキのしろしめす国』
 あれを読んで、なんで私は、あんなに心を揺さぶられ――。
 ――え?
 ――あ。
 ああ。
 ああ――そうか。
 だから――だ。
 この本を書いたやつは私の心を揺さぶったのに、そいつは私の存在すら知らない。
 だから、私は――。
 あ――ああ――。
 頭、が――息が――胸が――。
 なぜだか私は、アンツの胸に顔を埋める。
 ふわっ――と、頭が軽くなったような気がして、ふと気がつくと、アンツが私の頭をなでている。
 おかしい、な――頭に手をおかれているんなら、頭は重くなるはずなのに――。
「なんで――なんで――なんで――」
 意味もなく、私はつぶやき続けている。
 問いかけ続けている。
 こたえはかえらない。ただ。
 私のものではない手が、静かに頭をなで続ける。
 トットットットットッ――と響いているのが胸の鼓動だと気づき、ふっと驚く。
 身を起こし、私の下のものを見る。
 なんなんだろう――これはいったい。
 私の下にいる小さなものが、じっと私を見つめ返す。
 ――苦しい。
 苦しい。
 どうして?
 どうして私は、こんなにも苦しいんだ?
 目を閉じる。なぜか楽になる。
 私――私は――。
 私はいったい何をしているんだろう?
 なんで私は――こいつを抱くんだ?
「――」
 どれくらい、目を閉じていたのか。
 ふと、目を開けると。
 アンツが私を見つめていて。
 それはいつものことだけど、なぜか――なぜか。
 笑みの色が、変わっているのが見えて。
 アンツは笑っている。笑っているのに――。
 なんで――悲しそうに見えるんだ?
 なんで――なんで――なんで――?
 どうして私は、こいつに口づける?
 どうして私の口づけで、悲しい色が消えていく?
 わからない、わからない、わからない――。
 何もわからないまま、ただ肌と肌をすりあわせていると、なぜだかそれが、正しいことのような気がしてくる。
 こんな私は、私じゃない。
 なのに、なぜ。
 やめることが出来ないのか。
 私は何かを感じている。
 もしかしたらそれは――恐怖――だろうか?
 私は何をおそれているのか。
 私――私は――。
 私は私が――ワタシデナクナルノガコワイ――。



(ユーリル)
「鎮まりたまえ  鎮まりたまえ――」
 私はつぶやく、意味もなく。
「鎮まりたまえ  鎮まりたまえ――」
 私はつぶやく。相手も知らず。
「鎮まりたまえ  鎮まりたまえ――」
 私はつぶやき、歩き続ける。
「鎮まりたまえ――」
 ツン――と何かがこみあげる。
 グッと飲みくだすと、ズキンとのどが痛む。
 痛い――痛いよ――。
 でも、私は。
 その痛みを、誰にも伝えられない。
「痛い――痛いよ――」
 小さな私のつぶやきは、誰にも聞かれず、街へととける。



(アンツ)
 酔っている。
 酔っている。
 そうだ、私は酔っている。
 狂う。
 狂って。
 狂っている。
 そうさ、私は狂っている。
 酔って狂った、生まれ損ない。出来そこないの『ツキのヒルコ』。
 まごうかたなき、バケモノ。
 ああ、そうだ。私はそんなしろものだ。
 なのに私は夢を見る。
 あなたに抱かれて、夢を見る。
 もしかしたら、あなたは、この世でただ、あなただけが。
 私を必要としてくれているのではないか――と。
 そうでなくてもいい。
 ただの気まぐれでかまわない。
 あなたが私をどう思っていても。
 あなたは私の、最初で最後の恋人。
 わが最愛の人。
 ――死にたいと思ったことはない。
『ツキのヒルコ』でなくなりたいと思ったことなら、数えきれないほどある。ここではないどこかへ行きたいと思ったこともある。結局どこへも行きはしなかったわけだが。
 それでも、死にたいと思ったことはない。いや、もしかしたら、チラリと思ったことなら幾度もあるのかもしれないが、心から望んだことはない。
 そんなことをしていたら、とっくに私は死んでいた。
 だが、今。
 今、は――。
 ――本当は。
 死にたいんじゃなくて。
 私は、ただ。
 あなたを失いたくないだけ。
 でも。
 ――でも。
 それは、無理だろうとわかっているから。いかな私でも、そんなことを夢見たりすることは――。
 ――いや。
 本当は。
 夢見ているんだ、私は。彼がずっと、あなたがずっと、ユヴュがずっと、私のそばに――ああ、それは無理だから、いくらなんでも無理だから、だから、だから、時々でいいから、たまにでいいから、一年に一度、五年に一度、十年に一度でいいから、私に会いに来てくれれば――。
 ――。
 本当は。
 わかっている。
 それも――無理、なのでは――ないだろう、か――。
 私――私は、きっと――。
 いつか、あなたを失う――。
 ――だから。ああ、そう、だから、だ――。
 その激痛を知る前に。あなたを失い引き裂かれ、ヒルコですらない肉片へと成り果てる前に。
 幸せなまま死んでしまいたい、なんぞと願う。願ってしまう。
 ああ――そうだ。私は何も持ってはいなかった。失って苦しむようなものを、何一つ持ってはいなかった。だから平気で生きていることが出来た。
 今、私は。
 失うのが、怖い。
 失ってしまった時の苦痛が、たまらなくおそろしい。
 そうだ、本当は、死にたいのではなく、ただひたすらに、恐怖から逃れたいだけだ。ただそれだけの話なんだ。
 ああ、私は――なんてちっぽけなんだろう。
「――酔っているんですか」
 一瞬で、貫かれる。
 あなたの、瞳に。
 あなたはとても、とても真摯で。
 私はとても、不誠実。
 本当のことは口に出せない。
 ほんとの私を、あなたは知らない。
 私はヒルコ。醜いバケモノ。
 それでもあなたの瞳には。あなたの瞳にうつるのは。
 馬鹿でとろくて調子っぱずれで、笑ってばかりの変なやつ。
 あなたの瞳にうつるのは、そう――とんでもない、変人。
 変人。
 変であっても、それは、人。
 あなたはいつでも、いつだって、私のことを、一人の人間として扱ってくれる。
「――酔っているようです」
 私はうそをついてはいない。
 しかし真実を語るわけでもない。
 言わないこと。
 言えないこと。
 あなた達は偽りを知らない。
 自分をだますことも知らない。
 だから私は、あなたにとって。
 いつまでも謎であり続ける。
「――なんで抵抗しないんですか?」
「抱いて欲しいから――ですよ」
「――ばーか」
 そうだよ、ユヴュ。
 私は、馬鹿だ。
 いいよ、言って。いくらでも言って。私をばかだと何度でも。
「そうですね。私は――ばか、です」
「――ばーか」
 唇は甘く、私を焼き焦がす。
 あなたになら引き裂かれてもいいのに、息の根をとめられてもいいのに、あなたは優しく私で遊ぶ。私はあられもない声をあげ、つつしみもなく身をよじる。
「――気持ち、いいんですか、あなたは?」
「――はい――」
「――なんで――」
 なんでって、それは。
 あなたのことが、好きだから。
 それは本当。だけどうそ。
 心の奥の、私の望み。
 あなたを私のものにしたい。
 ああ、ユヴュ――食べちゃいたいくらいかわいいよ、あなたは。
 でも。
 でもね。
 あなたを食べたら、なくなってしまうから。それはあんまりつらすぎるから。
 だから、私は。
 あなたに、食べられたい。
 引き裂かれたい。
 いっそ殺してもらいたい。
「これ、でも――気持ち、いい――?」
 どうしてそれが苦痛となろう。あなたをこの身の内に迎え入れるこの行為が、どうして苦痛となりえよう。
「――いい――」
「――なんでだよ――ッ!」
 たぶん体は、痛みを感じているのだろうけど。
 それをどうして苦にしよう。
 ああ、ユヴュ、一つだけ、たった一つだけ、あなたにわかってもらいたい。
 あなたはスペアじゃなくて。誰かのかわりじゃなくて。とりかえのきく存在じゃなくて。
 たった一人の、かけがえのない存在。私の宝。この世の至宝。
 あなたは誰にもかえられない。誰もあなたのかわりは出来ない。
 かけがえのない、たった一人のあなた。
 わが最愛の人。
 愛している――と、告げたら、どうなる?
 どうにもならないだろうと思う。実際、好きだと告げてもそれで何かが変わったわけでもなかった。
 それでも私は――告げられない。
 本当のことは口に出せない。
 好きだと告げることなら出来る。でも――それでも――。
「――ぁッ――ん――」
 もっとして欲しい。もっと、もっと、もっと――。
 私が私でなくなるまで。



(ユヴュ)
 泣かせてやりたい、とは思う。
 でも。
 痛めつけたいわけじゃない――と、思う。
 そうだ、私はこいつを、負かしてやりたいんだ。
 でもなぜか、どうしても。何をやってもどうがんばっても。
 これで勝ったという気がしない。
 肉体的に叩きのめすことなら出来る。いくらだって出来る。簡単に出来る。でも、私がしたいのはそんなことじゃない。
 私はこいつを、泣かせてやりたい。
 ――そうだ。
 一度だけ、あった。
 私がこいつを、泣かせたこと。
 でも。
 あの時、こいつは、涙を流しながら笑っていた。
 ――あれは、ちがう、な。私がしたかったのはあんなことじゃない。
 ――では、今は?
 これも私のしたかったことじゃない――と、思う。
 そっとアンツをのぞきこむ。
 私が抱いたあと、こいつはいつも、しばらくボォッとしている。そのまま眠ってしまったり、している途中で気を失ってしまったりすることもある。
 私はそんなふうにはならない。こいつとしても、ユーリルとしても、挿入してもされても、別にボォッとなったりしない。
 われを忘れてしまうことならあるが。アンツとしている時に――。
 ――え?
 ユーリルとしている時、私はわれを忘れたことがあったか?
 ――え――ない――ないぞ――なんでだ――?
 どうして私はユーリルとしている時には、われを忘れずにいられるんだ――?
「――」
 焦点のあわなかった目が、私を見つけて、フッと笑う。
 私は。
 笑えない。
 どうすればいいのかわからない。
 ただ、じっと見つめ返す。
「――ごめんなさいね」
 アンツが奇妙なことを言う。
「は? 何がです?」
「私のせいで、お祭り少ししか楽しめませんでしたね。あの――お祭り、まだやってますよ。行ってきて下さってかまいませんよ」
「――いいです、別に。一応、見るだけのものは見ましたし。――私のほうこそ、すみませんでした」
「え? 何が、ですか?」
「――あんまり休めなかったでしょう?」
「――」
 なんでだろう。なんでこいつは、こんなにうれしそうに笑うんだ――?
「私がそうして欲しかったんです。私が頼んだことですから」
「――なんであんなことをしたがるんです」
「あなたが好きだから――です」
「――ばかばかしい」
「――」
 アンツは黙って、にっこり笑う。
 私は。
 笑えない。
 何を言えばいいのかわからない。
「――ちがいますね」
 なぜだか私は、そんなことを言っている。
「え?」
「あなた達のお祭りは、私達のお祭り――『カミオロシ』とは、ちがいますね」
「そうなんですか? ああ――それはそうですよね、当然」
「どうして当然なんです?」
「え?」
 アンツは一瞬、きょとんとし。
「それは――私達とあなたがたとは、ちがうからです。どこも、かしこも」
 と、ひどくあたりまえな答えを返す。
「――そうですね。――そうでした」
 私だって、そんなことは知っているのに。とてもよく、知っているのに。
 どうしてこんなに、もどかしい。
「――あなたは私とはちがう」
 私はじっと、アンツの目を見つめる。
「――はい。私とあなたは、全然ちがう」
「ええ、そうですね。わかっています。――わかっているんです、それは」
 そんなことは知っている。とっくの昔にわかってる。
「――ちがう」
「ええ」
「あなたは――ちがう」
 ――え?
 私は、今――いったいなんと言った?
「え――」
 アンツの瞳が、グラグラ揺れる。
 私――私は。
 アンツに何も言わせたくなくて。
 これ以上何も言いたくなくて。言ってしまいたくなくて。
 唇に、唇を重ねて。
 やせた体を、また抱きしめた。



(アンツ)
 愛しても、愛しても、あなたには手が届かない。
 あなたには翼があり、私には翼がない。
 愛しても、愛しても、あなたを私のものには出来ない。
 きっと――それでいいのだろう。翼持つ天人を地上に縛りつけるという大罪を犯さずにすむのだから、それはむしろ、ある種の恩寵でさえあるのかもしれない。
 でも、ああ、ユヴュ。
 空を飛ぶのに疲れたら。地上が恋しくなったなら。
 羽を休めて、いいんだよ。
 ああ、今、あなたは私の腕の中。
 私はあなたの腕の中。
 愛しても、愛しても、私とあなたは一つになれぬ。
 あなたはちがう。私とちがう。
 でも――ねえ、ユヴュ。
 私はそれで、いいと思うんだ。
 私があなたとちがうからこそ、あなたは私に会いに来てくれた。
 あなたが私とちがうからこそ、私はあなたに恋い焦がれ、この身をさいなむ愛を知った。
 ああ、そうだ、知っている。
 私の愛は、歪んでいる。
 それでもあなたに恋をする。
 それでもあなたを、愛してやまぬ。
 だから、私は。
「ユヴュ――ユヴュ――ああ、ユヴュ――」
 愛を告げるかわりに、あなたの名を呼び続ける。

瞳の中の星を見つめて

(ユーリル)
「――え?」
 私の耳を、うったのは。
 異質なつぶやき。ひどく異質な、なぜこの場にあるのかまったくわからない、ここにあるのはおかしなつぶやき。
「え――なんで――?」
 空耳――か?
 だが、空耳だとすると、それならそれでやはり不思議だ。
「――鎮まりたまえ、鎮まりたまえ――」
 ちがう、これではない。この言葉ではない。
 やはり、空耳――?
 だが、あれが空耳だとしたら、私はなぜ、私の心はなぜ、あんな言葉をつくり出す?
「――ア――」
 ああ――そうだ。
 この、言葉だ。
「アタラクシア――」
 どうして私の耳に、こんな異質な言葉が響く――?


「鎮まりたまえ、鎮まりたまえ――」
 私はつぶやく、意味もなく。
 私は歩く。あてもなく。
「――アタラクシア――」
『アタラクシア』。その意味は。
『魂の平穏』
 ああ、今の私には、一かけらだってないものだ。
 鎮まりたまえと祈る相手も、アタラクシアと呼びかける相手も、私は何も持っていない。
 私には、誰もいない。
 ――え?
 不意にゾォッと、総毛立つ。
 生まれおちた、その瞬間から。
 私には、ユヴュがいた。
 ユヴュには、私がいた。
 なのに、今、私の隣にもはやユヴュはおらず、ユヴュの隣――隣には――。
 ――ねえ。
 ユヴュ。
 うん、わかってる。わかってるよ、私だって。
 ――君が悪いんじゃない。
 私だって、何も悪いことなどしていない――と、思う。
 ああ、そうだ。私達の中にだって、イギシュタール貴族の中にだって、片割れを失ってしまった者もはじめから片割れを持たぬ者もたくさんいる。いくらでもいる。
 でも。でも。ああ――でも。
 私のような者が他にいるだろうか? 同じ血と肉と骨とを分かちあった半身が、同じ一人の人間として生まれてくることも出来たであろうその相手が。わが同胞が。兄弟が。
 悲鳴をあげたくなるほどに私とは違う、泣きだしたくなるほどに私からは遠い、手をのばしても届かず、追いすがってもつかまえられず、声をからして呼び続けても決してその歩みをとめることのない、そんな存在だと、私とは全く違う、もうどうあっても一つになることなどかなわぬ相手だと、こんなにもはっきりと目の前につきつけられたものが他にいるだろうか。ただ一人でも、いるのだろうか?
 もしもいるなら、私は会いたい。会ってみたい。私と同じ苦しみを味わった人に、会って話をしてみたい。
 ――でも、きっといないだろう。私達イギシュタール貴族の中に、私と同じ苦しみを味わった、それとも味わっている者などいはしないだろう、おそらく。
 だって、私達は。
 互いによく、とてもよく、似かよっているのだから。そういう民族なのだから。そういう存在なのだから。
 では、いったい――なんなんだろう、私と、ユヴュは。私――いや、私とユヴュとは、どうしてこんな存在なんだろう――?
『ツキノヒト』ならまだわかる。だが私達は『ツキノヒト』でさえない。
 それとも、ほんとは『ツキノヒト』なのだろうか。私達は二人とも、他のみんなとは、他のイギシュタール貴族とは、心の形が異なっている、そういう異形であるのだろうか。
 ――え?
 私はハッと、強く息を飲む。
 私達の心の形が、他のみなとは違うなら。イギシュタール貴族のそれとは、異なっているのだとしたら。
 では――地の民達のそれとはどうなんだ? 地の民達の、心とは?
 あ――ああ――ああ――。
 ああ、ユヴュ――だから君は、地の民達の街を訪れたの? そして何かを見つけたの? そして君は、地の民と――今、君の隣には――。
「――ユヴュ――」
 ずるい。
 ずるいよ。
 どうして私が、私だけが、一人ぼっちにならなくちゃいけないんだ?
 わかってる。わかってる。
 君が悪いわけじゃない。
 だけど私も、悪くない。
 なのに私は、一人ぼっち。
 ねえ――ねえ――どうすればいいの、私は――?
「――アタラクシア――」
 ――ははは。あはは。あっはははは!
 ああ、馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい。
 どうしてここで「アタラクシア」なんだ? いったい何の意味がある? アタラクシア教団の信徒ならまだしも、イギシュタール貴族たるこの私に、そんな言葉がいったい何の意味を持つ?
「アタラクシア――アタラクシア――」
 だから。
 どうして私は、意味のない言葉をつぶやき続けているんだ? 何がアタラクシアだ。馬鹿馬鹿しい。
(――アタラクシアには、まことの神がおわすと聞きます)
 ああ――そうだ。あの小さな母親は、そんなことを言っていたっけ。
(神の御力に、限りなどありません)
 馬鹿馬鹿しい。
 そんなことがあるもんか。だったらその『神』とやらは、私のこの苦しみを消してくれるのか? この寂しさを、身を切るような孤独を、どうにか癒してくれるというのか? その神――神とやらは――。
 私を救ってくれるのか?
「――アタラクシア――」
 私は神など信じていない。
 祈りに意味があるとも思えない。
 なのになぜ、私はつぶやくのか。
 アタラクシア――と。
 そして。
「――鎮まりたまえ――」
 私はつぶやく。意味もなく。
 私は歩く。あてもなく。
 この街に私の居場所はなく、私の声は誰にも届かず、私のおもいはその向かう先を知らない。
「――ユヴュ――」
 私は、泣きたい。
 だけど、泣けない。
「――行かないで――」
 ああ、もう遅い。もう遅い。
 ユヴュは、もう――行って、しまった――。



(ユヴュ)
 なんなんだあいつは――と、思う。思っている。いつものように、答えも出ないのになぜだか考えている。
 いったいなんなんだ、あの、アンツ・ヴァーレンという、みょうちきりんなしろものは。
 あれはとんでもない馬鹿だと思う。そのうえおひとよしで、とんでもない変人で、いったい何を考えているのかいつもさっぱりわからない。
 私はなぜ、あいつといっしょにいると苦しいんだろう。苦しくなってしまうんだろう。いったいいつからなんだろう。会ったばかりのころは、別に何ともなかったんだが――。
 会うと苦しいのなら、もう会わなければいい。
 この論理に矛盾はない。実に単純でわかりやすい。苦しみの原因がわかっているなら、それを取り除いてしまえばいい。ただそれだけの話なのだ。
 どうして私は――アンツに会いに行ってしまうのか? 自分で自分がわからない。さっぱりわからない。
 ふと、思う。
 アンツはどうなんだ? アンツも、私と会うと苦しかったりする――。
 馬鹿馬鹿しい。
 そんなはずがない。
 だって。
 あいつはいつも笑っている。いつもにこにこ、うれしそうに笑っている。私が見るたび笑っている。
 あいつが苦しんでいるはずがない。
 ――ああ、いらいらする。
 どうして私が、私だけが、苦しいおもいをしなければならないんだ?
 どうして私は、苦しいおもいをするとわかっているのに、こんなところへ来てしまうんだ?
「――おや」
 棚に、大切そうに飾られた小ビンを見て、ちょっとあきれる。
 あの祭りの日、私が買ってやった記憶媒体だ。
「こんなもの飾っているんですか?」
「はい。だって、記念ですから」
「はあ、そうですか」
 こんなもの飾っておいて楽しいんだろうか、と思ったが、考えてみれば地の民達は過去の遺産を私達のように研究したりはしないのだから、飾っておくより他に特に使い道などありはしないのだ。
「きれいですよね、これ?」
「はあ――そうですか?」
 本格的に、私はあきれる。こいつの美的センスはどうも、一般のそれからはいささかズレているらしい。
「まあ、あなたの家ですからね。あなたがいいならいいんでしょうが」
「あ、ええと――お、おかしいでしょうかね、こういうふうに飾っておくのって?」
「別にいいんじゃないですか? 他には特に、使い道もないようですし」
「ええ――中身が読めればいいんですけどな」
「読めたら歴史が変わるかもしれませんね。でもまあ、まず無理でしょう」
「――くやしいですね」
 アンツがそんなことを言うのはめったにないことなので、私は少し驚いた。
「くやしい――ですか」
「はい。私は――知識が、記憶が、記録が、失われていくのが、とても、とても、とてもくやしいです」
「――」
 そういうものか――と、思う。
 くやしい――か。
 私達イギシュタール貴族は、いにしえの記録と記憶とを保ち、可能な限り完全な形で守り続けることを民族的な使命としている。だがそこに、こんな感情の昂ぶりなどない。そう――失うべきではない、失われるべきではない、と思う。だが。
 くやしいなどと、思いはしない。
「あなたがたは――感情で、動くんですね」
 私はなぜか、小さな声でつぶやく。
「え――あ、はい。そうですね。私達地の民は、感情で動きます、はい」
「私達は――イギシュタール貴族は、理性に従い、動きます」
「はい。そううかがっています」
 不意に、思う。
 では、私は? 私は理性に従って――。
 ――従って、いない。
 私は理性で動いていない。
 では私は、感情で動いているのか?
 そうなのか?
 私――私は――。
 私はいったい――なんなんだ?
「――あなたは、昔のことを知りたがる」
 私はつぶやく。脈絡もなく。
「わが同胞は、昔の記憶を守り続け、いつかは宇宙へかえろうと、たえず未来を夢見続ける」
 私はつぶやく。意味もなく。
「私は――今のことを、知りたい。私がいる、生きている、今ここにいる世界のことを、もっともっと――もっと、知りたい」
 ああ、そうだ。われらの知識は、かぎられている。
 子供のころから、不思議だった。
 子供のころから、私――いや、私とユーリルは、他のみんなとちがっていた。そのちがいが、小さいのか大きいのかは、実はよくわからないのだが。
 他のみんな――他のイギシュタール貴族はみな、この世界に、私達が今まさに生きて暮らしているこの土地に、ほとんど興味を示さないのだ。
「――私は――」
 私は。
「ここに、いたい――」
 ああ――思い出す。
(ねえ、ユーリル)
(なあに、ユヴュ?)
(ユーリルは――宇宙に、行きたいですか?)
(え、え、えっと、えっと――えっと、ユヴュは?)
(私は――)
「私は――」
(あのね、ユーリル、私はね――)
「――行きたくない――」
 ああ――そうだ。
 ああ――そうか。
 私は――デキソコナイだ。
 私はみんなの役には立たない。みんなのことは好きだけど、それでも私はみんなとちがう。
 だってみんなは――あんなに行きたがっているんだから。行きたくて、行きたくて、心が裂かれて血を流し、それでもなおも求め続けるほど、それほどに行きたがっているんだから。それを私は知っているから。ずっとこの目で見続けてきたから。
 それでも私は――ああ、そうだ、私は――。
「行きたくない――ここにいたい――どうしてあなたは、過去ばかり見ているんです? どうしてみんなは、宇宙になんか行きたがるんです? 私はいやだ。優しい風も、みずみずしい緑も、晴れわたる青い空も、あったかい土も、流れる小川も、何一つないところへなんか行きたくない。ええ――わかっています。みんなはきっと、私の欲しがっている、求め続けているものすべてを、船の中へと積みこむのでしょう。それを星の海のかなたへともたらすために飛び続けるのでしょう。でもそれは、ちがう。それは――ちがうんです――」
 私は、おかしい。自分でわかる。
 こういうのをきっと、熱でうかされたような、というのだろう。
 だってほら――おかしいじゃないか。なんでアンツが私に抱きついている? なんでこいつ、こんなにギュウギュウ私にしがみついてくるんだ?
「――いったいなんなんですか、あなたは?」
「あっ、あっ、あの、えとっ、あのっ――す、す、すっ、すみません」
「――あなたは何がしたいんです?」
「――あなたを抱きしめたかったんです」
「――どうして?」
「――私がそうして欲しかったから」
「――いったい何を言っているんです?」
「――」
 どうしてアンツは、泣きだしそうな顔で私のことを見つめているのだろう。
「――ユヴュさん」
「はい?
「私も、また――あなたにとって、負担の一つなのでしょうか――?」
「――負担?」
 よくわからないことを言っている。だが、わかる。
 馬鹿だ、こいつは。
「なんであなたが、私の負担になるんです? それに――」
 そうだ、それに。
「『私も、また』って、どういう意味です? 私がいったい、何を負担に思っているというんです?」
「――」
 アンツは、息を飲んだ。
 私は意味がわからない。
「――私は『ツキのヒルコ』です」
「それは存じておりますよ」
 唐突に、何を言い出すんだこいつは。
「あなたは、イギシュタール貴族です」
「ええ、そうですね、はい」
「私が『ツキのヒルコ』として生まれてきたのは、私が選んだことではありません。でも」
「――でも?」
「私がここでこうしていること、私がサマリナにもアタラクシアにも行かず、イギシュタールで『ツキのヒルコ』として、憎まれ疎まれ蔑まれ、それでもこの街で生きていること。これは――私自身が、選んだことです」
「……だからなんだというんです」
「だから!」
 と、アンツは珍しく声を荒げ、だが、次の瞬間。
「あ、その――す、すみません――」
 おどおどとうつむいた。
「――なんの話をしていたんでしたっけ」
 奇妙なことに、今気づく。
 私が他のみんな――他のイギシュタール貴族と話している時は、話が脱線することなどほとんどない。
 だがこいつ――アンツとの会話は、いつも脱線につぐ脱線を繰り返す。
 ――だからなんだ。
 どうでもいい、ことだ。
「――なんの話でしたっけ」
 ひどくかすかに、アンツは微笑む。
 かすかな笑み。私の知らない笑い。
「――」
 本当に。
 なんの話をしていたんだ、私達は。
「――お茶でもいれて来ましょうか」
 ふわりと、風が流れる。
「――」
 私は黙って、頷いた。



(アンツ)
 いとおしい――と、思う。
 いとおしい。
 ユヴュ。
 あなたが、いとしい。
 ――と、そう告げても、私が告げても、あなたはきっと、ただ困惑するだけだろう。
 それでも、やはり。
 あなたが、いとしい。
「――よかったんでしょうね、きっと」
 ポツリ、と、ユヴュがつぶやく。
「え?」
「よかったんですよ、きっと」
 ユヴュはふと、ため息をつく。
「私がスペアで、ユーリルがオリジナル。それでよかったんですよ、きっと」
「え――どうして、ですか?」
「ユーリルのほうが、私よりはましだから」
「――」
 それはどうだろう――と、失礼ながら思う。兄弟の、それも、双子の兄弟の内の片割れだけが、悩みを持たずにいられるものだろうか。一方の片割れが、もう一方の片割れよりもうまくやれるという保証が、いったいどこにあるというのか。
 だが、私は――何も、言えない。黙って目をしばたたいている。なんの役にも立ちはしない。
「――あなたと私が、逆、だったら」
 ユヴュは薄く、苦く、笑った。
「もしかしたら、うまくいくんでしょうか?」
「――つらいんですね」
「え? ――いいえ」
 ユヴュは、いぶかしげな顔で私を見つめた。
「私はつらくなどありませんよ。おかしなことを言うんですね、あなたは」
「だったらどうして、あなたと私が逆ならいい、なんて言うんです?」
「だって」
 ユヴュはきょとんと、小首を傾げた。
「あなたは宇宙に行きたいんでしょう?」
「――ッ!」
 涙があふれそうになった。
 覚えていてくれる。あなたは覚えていてくれる。私の言葉を、私のおもいを、私の望みを。
 ああ、私は。
 あなたのために死ねる。
「あれ」
 ユヴュは眉をひそめた。
「ちがったんですか?」
「ちがい――ません。覚えていて下さったんですね、ユヴュさんは――」
「私達、記憶力はいいんです」
 ユヴュはそっけなく言った。
「私は、そういう――基本的な能力は、一応それなりの水準に達しているんです。ただ――」
「――ただ?」
「――なんだかみんなとちがうんです」
「――それでいい、と思いますよ、私は」
「え?」
「教えてくれたじゃないですか」
 私は笑う。生意気なやつだと、いらいらさせるやつだと、そう思われるかもしれないが、それでも笑う。私は、笑う。
「ちがっていたっていいことを、あなたは教えてくれたじゃないですか」
「――」
 ユヴュの瞳が、揺れている。
 それにどんどんつけこんでいくんだから、私はほんとに、ひどい、やつだ。
「私は――あなたにここに、いて欲しい。それに――正直に言いましょう。私達地の民は、あなたがたツキの民に、依存、しています」
「依存?」
「ええ。私達は、あなたがたに、政治と行政、さらには司法を依存している。特に――」
「――特に?」
「私達は――あなたがたに死刑執行人という役割を押しつけている」
「それってそんなに気になりますか?」
 ユヴュはきょとんと言った。
「法律上、死刑という刑罰が存在するんですから、誰かがそれを執行しないといけないでしょう?」
「どうしてあなたがたは、その『誰か』であろうとすることが出来るんです?」
「――?」
 ユヴュはひどく不思議そうに私を見つめている。
 私の胸は、しめつけられる。
「――簡単に言いますと」
 私の言いたいのは、こんなことじゃない。
 なのに。
「私達地の民は、あなたがたツキの民がいないと、困るんです、とても」
「しかし、サマリナやアタラクシアは、私達がいなくても、別に困っているような様子はありませんが?」
「それは――」
「それに、困ると言われても」
 ユヴュはヒョイと片眉を上げた。
「その方法が見つかれば、私達は勝手に飛んでいってしまいますよ」
「――あなたも?」
「え?」
「あなたも――飛んでいってしまうんですか――?」
「――」
 ユヴュは、フイとそっぽを向いた。
 問いに答えは返らないだろう。
 それでもいいと、私は思った。



(ユヴュ)
 腹が立った。
 無性に、腹が立った。
 なぜって、それは。
 即答、出来なかったから。
 なぜ?
 なぜ、出来なかった?
 なぜ、言えなかった?
 飛んでいく、と、たったひとこと。
 なぜ、そう答えることが出来なかった?
「――」
 私が黙って不機嫌にしていても、この馬鹿ときたらただひたすらに、にこにことうれしそうに笑っている。
 ああ――いらいらする。体の内側から棒か何かであちこちつつきまわされているような気分だ。
 どうしていつも私ばかりが、こんなおもいをしなければならない。
 それなら――やめるか?
 この場を立ち去り、仲間のもとへかえるとするか?
 ――なんだか面倒くさい。
 いったい何が、面倒くさい?
 ――ああ。
 考えるのも、おっくうだ。
 ――そうだ。
 そういえば。
 朝になるまでここにいれば、またあの、ちっちゃな子達に会えるじゃないか。
 ――そういえば。
「――今までの話とはまったく何も関係がないんですが」
「え? あ、はい、なんですか?」
「あなたの塾には、どうしてあんなにいろんな年代の生徒さん達が来ているんですか? そういう教育方針なんですか?」
 赤ん坊、幼児、子供、まではまだわからなくもないが、どうして『老人』までがそこに混ざっている?
「――ええと」
 アンツは、わずかに口ごもった。
「あの、ユヴュさんは、赤ちゃんやお年寄りが教室にいることが不思議、なんですよね、きっと」
「ええ、まあ」
「――ええと」
 あ。
 これは。
 この顔は。
 何度も見たことのある、これは。
 泣き出しそうな、笑顔。
「あの人達は、ですね――行くところも、いる場所も、ここより他にないんです」
「――は?」
 まったく意味がわからない。
「それは――あなたは何を言っているんです?」
「ええと、ですね――」
 アンツは少し考えこんだ。
「仕事をしている時に、ですね、赤ちゃんの面倒まで見ているひまがない人達も、いるんです、ここには――地の民の、平民の、街には」
「――え?」
 私には、理解しがたい価値観だった。
「だって――子供って、他の何より大切な、未来へつながるかけがえのない存在でしょう?」
「でも、毎日のご飯も、そのご飯を買うためのお金も、そのお金を稼ぐために働くことも、とってもとっても、大切なこと、なんです」
「――」
 衝撃を受けた。
 それは、ひどく不思議な、なじみのない概念だった。
 食べるために、働く。
 いや――むろん、私達イギシュタール貴族だって、労働の重要性も尊さも、きちんと理解している。働くというのは大切なことだ。だが。
 だが――。
「じゃあ――あの、老人達は?」
「――年をとると、若いころと同じようには動けません。若いころのようにはもう、働けません」
「それくらい私だって知っています」
「そこにいて手伝われる――手を出されるよりも、そこにいてくれないほうが助かる、邪魔にならなくていい、と、いうことも――あるんです。私達の――地の民の、暮らしの中には」
「――」
 なんだろう。
 この気持ちは、なんだろう。
 私は何――私は何を――。
 私は何を怒っているんだろう?
「邪魔? 邪魔って――なんで、そんな――」
「――」
 気がつくと、アンツはもう、笑ってはいなかった。
「それがいいことだ、とは、私達も思っていません」
 アンツの声が、わずかにかすれた。
「それでも、私達は――そういうふうに、してしまうんです――」
「――どうして?」
「私達は――弱いから、とても」
「――」
 だったら私は、いったいなんだ? 弱いという、とても弱いというおまえに、おまえ一人に、たった一人に、どうしても勝てない、勝つことの出来ない、この、私は?
「――ちっちゃい子って、かわいいのに、すごく」
 あ――あれ? な、なんだ? 私はいったい、何を言っているんだ?
「老人というのは、すばらしい存在なのに。なのに、なんで――」
「――」
 言え。
 言えよ、アンツ。
 そんなことは知っているって。とっくの昔にわかってるって。
 言え。
 言えよ。
 勝手なことをぬかすなって。何の義務もない、責任を負う必要もない部外者が、きいたふうな口をたたくなって。
 言え。
 言えよ。
 おまえには関係ないって。よけいなお世話だって。
 言え。
 言えよ。
 なのに。
 なのに、おまえは。
「――ありがとう」
 どうしてそんなことを言う――。



(アンツ)
「――あなたを――あなたがたを理解することは、出来ないのかもしれない。私――それとも、私達、には」
 ユヴュの瞳は、揺れていて、私の心は震え続ける。
「私――というか私達は、イギシュタール貴族は、今まであなたがた地の民を理解する必要を、あまり感じてこなかった。だから、理解しようと『しなかった』。でも――でも、本当は、『しない』のではなく、『出来ない』のかも、しれない――」
「そう――でしょうか」
 悲しい。
 寂しい。
 あなたのせいじゃない。
 だけど。
 苦しい。
「私達と、あなたがたとは、わかりあうことの出来ない存在どうし、なんでしょうか――?」
「――私はあなたがわからない」
 ああ、ユヴュ。
 私は。
「――私は知りたい、あなたのことを」
「――わかりたい、では、なく?」
「あ――」
 ああ。
 胸をあなたが突き抜ける。
「――ユヴュ、さん」
「はい」
「私はあなたになれません」
「――それはそうでしょうね」
「だから、すべてを『わかる』ことは、きっとできません」
「――それはそうでしょうね」
「――それでも」
 それでも。
「私は知りたい、あなたのことを――」
「――ばかばかしい」
 そうだ。
 私は、馬鹿だ。
「――馬鹿ですよ、私は」
「――」
 ユヴュが息を飲む。
 私は。
 笑って、いる。
「だから、知りたいんです」
「――」
 あなたが私に触れてくれるなら。
 八つ裂きになろうと、そこが楽園。



(ユヴュ)
 自分でもおかしいと思う。
 いらいらすると抱いてしまう、というのは、やはりおかしいだろうと自分で思う。
 小さくて、細くて、弱い。力なんてまるで入れずに、ただ少し体重をかけているだけで、いともたやすく押さえこんでおくことが出来る。
 顔を真っ赤にして、少し苦しげな顔で息を弾ませている。それを見ても別段、魅力を感じるわけでも性欲をそそられるわけでもない。
 ただ、やめられなくなっている。
 ――なにが?
 私は何が、やめられない?
 上半身をさわっている時は、ただもじもじと身をよじっていただけだが、手を足のほうへ、つま先のほうへとすべらせていくと、ビクリと身をすくめ、懇願するような目で私を見る。
「――そこ――あの――」
「ここさわられると、気持ちいいでしょう?」
「え――」
 ビクビクと、まなざしが揺らぐ。かまわず足をつかまえ、靴下を脱がす。指と指とが融合した、小さな異形の足先。
「あ――あ、の――」
 小さくかすれた、苦しげな声。
「なんで――ですか――?」
「は? 何が?」
「なんで――そんなとこ、さわってくれるんです――?」
「特に意味はありません。なんとなくです」
「――」
 もしかしたら、この瞬間が一番、私は勝利に近づいているのかもしれない。
「――あなたの靴、あなたの足にまるきりあってないって、言いませんでしたっけ、私?」
 もともと形が歪んでいるのが、足にあわない靴を無理やりはいているせいで、さらに歪みがひどくなっている。
「こんな――こんな足にあう靴を作ってくれる人なんて、私達の街にはいませんから――」
「――足がかわいそうですよ」
「――!?――」
 アンツはハッと息を飲んだ。はりさけんばかりに目を見開き、顔から血の気までひいている。
「あし、が――かわい、そう――」
「私、そんなに変なこと言いました?」
「――」
 アンツの目ににじんだ涙は、こぼれる前に乱暴にぬぐわれた。
「私、は――そうですね、私は――今まで自分の足に――ちっとも優しくなかったですね――」
「ほら」
 少し、足先をもんでやる。固くこわばって、角質化して、なんで自分の足がこんなになっているのに放っておくのかと思う。
「こうすると、気持ちがいいでしょう?」
「――」
 苦しげにうなずく顔は、抱いて、貫いている時の顔とどこか似ている。
 ゆっくりと、足を開かせる。抵抗している、というよりも、自分から足を広げるということを思いつかないのだろう。
 指で広げていると、声だか何だかわからない音が聞こえる。見ると、自分の指を噛んで、たぶん声が出ないようにしているんだろう。
 ふと、思う。
 こいつはいったい、私に抱かれるのが苦痛なのか快感なのか。
「――自分で、してみます?」
「――え?」
「あなたの好きなようにしていいですよ」
「え――」
 ひどくとまどった顔が、次の瞬間カッと赤くなる。
「あ、の――え――あの――」
「もう、やめますか?」
「や、やめないで下さい!」
 大声で叫ばれ、ちょっと驚いた。アンツがぎこちなく私の上にまたがり、不器用にいれようとする。
「――いれたいんですか?」
「――」
 コクコク、と懸命に頷くのを見て。
 つかまえて、突き入れる。
「――あ――」
 フ――と一瞬、呆けたような顔をして。
 一息あとに、ふわりと笑う。
 ふわりと。
 幸せそうに。
 思わず、突き上げていた。
 高い声が上がるのを聞いて、悲鳴かどうか、少しとまどう。
「――痛い?」
「――」
 小さくかぶりをふって、おずおずと私を見つめ。
「大丈夫、ですから、あの――やめないで、下さい――」
「気持ちいいんですか?」
「――はい」
 と、頷くが、その顔はやはり、どうも苦しげに見える。
 ふと――奇妙なことを、思う。
 地の民達の寿命は、私達よりずっと短い。
 その短い寿命の中が、苦しい事ばかりで埋められてしまうとしたら、それはもう、ほんとにたまったものではないのではないだろうか。
 これはもしかして、憐憫という感情か。
「――あなたの好きなようにして、いいんですよ」
 もう一度、ささやいてみる。
「――」
 おずおずと、顔が近づいて。
 そっと、口づけられる。
 トクン、と、奇妙な音が聞こえた。
 なんの音かは、わからない。
 思いきり動きたいのを、なぜか我慢する。
「あ、の――」
「はい?」
「あの――ど、どすれば、ユヴュさ、あの、きもち、い、です、か――?」
「――」
 いったい何を言っているんだ、こいつは。
「――あなたの好きにすればいいでしょう」
「あなた、に、きもちよく、なって、ほし、です――」
「――」
 まったく。
 馬鹿だ、こいつは。
「――私がしたいようにしたら、あなたはつらいと思いますよ」
「つらく、ない、ですよ――? いつも、いつも、すごく、うれしく、て、きもちく、て――」
「――ばかだな、あなたは」
 せっかく一度は我慢したのに。
 そっちがそういうなら、もう手加減なんてしてやるもんか。
 でも。
 だけど。
 なのに。
 なぜだか手加減していた、ような気がする。
 だって。
 私の耳に聞こえてくるのは。
「もっと――もっと――ああ、もっと――」
「――」
 本当に、壊してやろうか。
 でも、まだ。
 今日は、まだ――壊さずに、おこう。



(アンツ)
「イッたんですか?」
 その声に、半ばわけもわからず頷いている。
「そうですか」
 そっけない声。でも、その手は優しい。
「――ばかみたいですね、私達」
 さすがに頷くわけにもいかず、黙って目をしばたたく。
「ああ、ドロドロだ」
 そっとぬぐわれ、うろたえる。もう何度も、信じがたい事だがもう何度もしてもらったことなのに、やはりうろたえずにはいられない。
「痛いんですか?」
「――いえ」
 かぶりをふる。下半身全体が、まだジンとしびれているような気はするが、痛くはない、と思う。
「――」
 後始末がつき、黙ってそっぽを向いているユヴュは、命を持った彫像のように見える。
「――窓、開けますよ」
 ああ、そうしてあなたはまた。
 この部屋に風を呼んでくれる。



(ユヴュ)
「――月、見えますか?」
「今日は月は出ていませんよ」
「あ、そうですか」
「星は、きれいですけど」
「星――」
 ベッドの上でもたもたと、こっちに来ようとしているのに体に力が入らないらしいのがじれったく、上掛けごと抱きかかえて窓辺に立つ。
「あ――」
「軽いですね、あなたはほんとに」
「――」
 にこ、とアンツが恥ずかしげに笑う。それをチラリと見て、また星を見る。
 腕の中から、小さな歌声が流れだす。
「星を見あげて  歩くなら
 自分の足元  気をつけて
 星を見あげて  歩いていたら
 地上の井戸に  落っこちた」
「『地上の井戸』とは、重力井戸のことですか?」
「え?」
「重力井戸。――わかりませんか。後で説明してあげますよ。――で?」
「え?」
「歌の続きは? それで終わりですか?」
「あ、いえ。ええと――。
 井戸の底から  星を見る
 星はやっぱり  光ってる
 ここも居心地  悪くはないけど
 星は遠くて  手が届かない」
「――」
 星は遠くて、手が届かない。
 私――私は。
 その言葉を聞いても、特にどうとも思わない。
 私には、ないのだ、きっと。
 同胞達の内にある、輝く星への渇仰が。
 ふと、腕の中のものに目をおとす。
 アンツの瞳に、星がうつっている。
 瞳の中の星が瞬いている。
 私は、黙って。
 瞳の中の、星を見つめていた。

二人の心今は二つに

(ユーリル)
 なぜだろう――と、思う。
 私はなぜ、ユヴュに何も言わないのか。
 そして。
 ユヴュもなぜ、私に何も言わないのか。
 といって。
 私はユヴュに、何を言えばいいのかわからない。
 私はユヴュに、何を言って欲しいのかわからない。
 だから何も言えず、だから何も聞けず。
 何も変わらぬように見える日々が、ただ続いていく。
 ――何も変わらぬ?
 ――冗談じゃない。
 私――私は――あれからずっと、苦しくて、苦しくて――。
 ユヴュ。
 ねえ、ユヴュ。
 どうしてわかってくれないの?
 私、苦しいんだよ。こんなにこんなに、苦しくて苦しくてたまらないんだよ。
 ねえ。
 わからないの? 通じないの? 私の心は、おもいはもう、君には届かなくなってしまったの?
 ひどく幼かったあの日、私のけがを見たユヴュは、私のかわりに泣きじゃくった。
 では――今、は?
 今、は――。
 ふっ――と。本当に唐突に。突然に。
 私は気づいて、息がとまる。
 では――私は?
 私には、ユヴュの心がわかるというのか? ユヴュのおもいが、わかるというのか?
 ああ――そうか。そうだ、私もなんだ――。
 私にも――私も、もう――ユヴュの心が、わからない――。


 やりたいことが、あればいい。
 やりたいことが、何もない。
 やりたいことが、やれなくて、苦しいおもいをするならば。
 私はどんなに、気が楽だろう。
 ユヴュ。
 ねえ、ユヴュ。
 君にはきっと、あるんだろうね。
『やりたいこと』が。
 私には。
 でも、私には。
 ないないない。なんにもない。
 やりたいことが、何もない。
 私はほんとは、なんにもせずに。
 ただ――見ていたい。見つめていたい。
 ほんとはなんにもしたくない。
 けれども言えない、そんなこと。
 やりたいことが、何もない。
 なのに私が『オリジナル』。
 たすけて。誰かたすけて。
 ないないない。どこにもない。
 私の居場所が、どこにもない。
 たすけて。誰かたすけて。
 ほんとは違う。知っている。
 私がほんとに、言いたいことは。
 たすけて、たすけて――たすけてよぉ。
 ユヴュ――ユヴュ――私を、たすけて。
 たすけて、たすけて――たすけてよぉ。
 ユヴュ――ユヴュ――いかないで。ここにいて、ここにいて、ここに、いてよぉ――。
 だって私じゃ、だめなんだ。
 いつからだろう。いつからだろう。
 私はずっと、思ってる。
 いつからだろう、いつからずっと。
 私は私に、見切りをつけた。
 私は、きっと。
『主役』になれない。
 好きだった。子供のころから、好きだった。
 本を読むのが。昔の話が。
 だけどいつから、いつからだろう。
 私の胸には、穴がある。
 読めば読むほど、思い知る。聞けば聞くほど、はじかれる。
 話の輪から、はじかれる。
 私は『主役』ではない。
 私は『主役』にはなれない。
 だって、だって、私には。
 やりたいことが、なんにもない。
 やりたいことがわからない――では、ない。
 やりたいことが、なんにもない。
 だから私は――だから、私は。
 いつも、いつも、いつだって。
 ユヴュを見つめて、生きてきた。
 だって、ユヴュには。
『やりたいこと』があるから。
 ユヴュは私とちがうから。私はユヴュとはちがうから。
 ユヴュは、ユヴュは、ユヴュならきっと――。
 ――いや。
 ユヴュはもう――もう、とっくに。とっくの昔に。
『主役』なのだから。
 ユヴュ、ユヴュ――いかないで、ユヴュ。
 君は私でないけれど。私は君ではないけれど。
 それでも、それでも、それでも――ねえ。
 私達は、つながっているから。
 君といっしょにいるならば。君の隣りにいる時だけは。
 私は、物語の中に入れる。主役になることはできないけれど、主役のかげぼうしにならなれる。
 でも、でも――ねえ、ユヴュ。
 君がいなくちゃ、だめなんだ。
 だって私は、かげぼうし。
 君がいなくちゃ、いられない。
 私は中に、入れない。物語には、入れない。
 そうだよ、ユヴュ、君ならいい。それならいい。その方法なら、大丈夫。
 だって君は、『この』物語を飛びだして、『あの』物語に行くだけだから。いついつだって、いつだって、君が話をつくるのだから。
 私の手には、なんにもない。やりたいことが、なんにもない。語る夢も、見る夢も、守るべきものも何もない。
 私には、ただ。
 君が、いるだけ。
 わが半身よ。わが同胞よ。
 ああ、そういえば、知っている。知識としては、知っている。
 失ってしまうくらいなら、自らの手で壊してしまう、という思考形態がある、らしい。
 けれど、私は。
 そんなことなど、したくない。
 倫理ではない。理性でもない。恐怖ともちがう。
 私は、ただ。
 やりたくない、だけ。
 それでは私は――ただ、失うのか。
 ――いや。
 そもそも私が、何かを『持って』いたことなどあるのか?
 ないないない。なんにもない。
 私はなんにも、持っていない。
 だから。
 ほんとは失うことすらできない。
 ユヴュ、ユヴュ――ユヴュ、お願い。
 かげぼうしで、いさせて。
 君のそばに、いさせて。
 お願い、どこにもいかないで。
 怖い、怖い――怖いんだ。
 君がいるなら、かげでいられる。君がいるから、私はここにいられる。
 みんなのようならよかったけれど。みんなとおんなじ望みを持てれば、みんなのように生きていけるのだけど。
 私もユヴュも、そうではない。
 ユヴュの望みは、みんなとちがう。
 私はそもそも、望みがない。
 たった一つの、望みのほかは。
 ユヴュ、ユヴュ――ねえ、ユヴュ。
 ここにいて、ここにいて、ここに、いてよぉ――。


 ――星が、動いている。
 いや、本当は。
 地球が、動いている。
 ユヴュが、行ってしまった。
 いや、本当は。
 私がついていけなくなった。
 追いつくことが、出来なくなった。
 私は、川原で。赤子が――異形の赤子が捨てられ、流されていく川のほとりで。
 寝ころんで星を眺めている。
 ――不意に。
「――なにしてるの?」
 声を、かけられた。
「星を見ているんだよ」
 星だけを見て、私はこたえる。
「星なんか見て、どうするの?」
「だって、きれいじゃないか」
「――変な、人」
「君はここで、何をしてるの?」
 やはり声の主のほうは見ず、私は問いかける。見ようとしないことに特に意味はない。ただなんとなく、だ。
「――ここならね――」
「――ここなら?」
「ここならね、誰もわたしを、見ないから」
「――見られたく、ないの?」
「悪い?」
「別に。だったら私は、あなたを見ずにおくよ」
「――そう」
 私は星を見ている。
 星が、動いている。
 いや、本当は。
 本当は――。
「あなた、もしかして――地の民じゃないの?」
「どうしてそう思うの?」
「なんとなく」
「ふうん。――私は貴族だよ、一応」
 え――一応? 一応、って――。
 私は何を言っているんだ?
「貴族――さま? なのに、なんでこんなところにいるの?」
「なんとなく」
「悪趣味よ」
「え、そう? そうかな? そうなの?」
「赤ちゃん死ぬの見てるなんて、悪趣味」
「そんなの見てないよ。私は星を見ているだけだよ」
「そんなの屁理屈よ」
「そうかな?」
「わたしはそう思う」
「ふうん」
 悪趣味、なのか、私は。
 初めて言われたな、そんなこと。
「でも、私は、赤ちゃんを捨てたり川に流したりはしていないよ? それをやる人達は、悪趣味じゃないの? それとももうその人達には、悪趣味だって言ってきたの?」
「――大ッキライ」
 ――小さな足音が遠ざかる。
 大ッキライ――か。
 そんなことも、初めて言われた。


 かすかに、かすかに。
 星から音が降ってくる。
 川原をふきぬける風に乗り、音は紡がれ旋律となる。
 私は共感覚者ではない――なかった、はずだ。
 だけど、今夜は。
 星から音が降ってくるのがわかる。
 私は。
 星から降る音を聞き、風と旋律にひたっている。
 私はとても、孤独だけれど。
 美しい夜だと、思った。


 いつ、気がつくかな、と思っていた。
 ユヴュが私のやっていることに、いつ、気がつくかな、と。
 ずいぶんと長いこと、ユヴュは気がつかなかった。私のしていることに気がつかなかった。ユヴュは目を開けていたけど、何も見ていなかった。
 ユヴュは、ぼんやりと、何かを考えていた――のだろうと思う。
 私にはもう、ユヴュの心がわからない。同じ部屋の中にいるのに、心は遠い。ひどく、遠い。
 音を出したら、やっと気がついた。
「あれ」
 ベッドの上に寝転がっていたユヴュが、ヒョイと身を起こす。
「笛、ですか?」
「うん。ちょっとね、作ってみようと思って」
「へえ」
 きょとん、と目をパチクリさせるユヴュは、かわいい。
「材料は?」
「竹。竹が一番簡単かな、と思って」
「ん?」
 ユヴュは、ちょっと眉根を寄せた。
「ユーリルは、笛を吹きたいんですか? それとも笛を作りたいんですか? どっちですか?」
「ん、両方」
「へえ」
 トコトコとやってきたユヴュが、私の手元をのぞきこむ。
「へー、よくできてますね」
「まだ途中だよ」
「私もやってみようかな」
「やってみる?」
 私は笑う。
 でも。
 本当に、言いたいことは。
 ねえ、ユヴュ。
 知ってる?
 星から降る音を、風の中の旋律を、赤子が流れる川を、声しか知らない女の子を。
 ねえ、ユヴュ。
 知ってる?
 私がこれから、どうすればいいかを――。


(ユヴュ)
 ぼんやりと、思い出していた。
 ひどく時間を無駄にしたものだと思う。
 ぼんやりと、思い出していた。
 こんな、ことを。


「――あの、ユヴュさん」
 腕の中のアンツが、いつものように、まっすぐ私を見あげてくる。
「はい?」
「おうかがいしてもいいですか?」
「なんですか?」
「私達の先祖――地の民達の先祖は、いったいどこまで行くことが出来たんでしょうか?」
「どこまで、とは?」
「あの、ええと、月とか、火星とか――」
「ああ、その二つには行っていますよ。あとは、アステロイドベルトと、木星の衛星群と――そこまででしたね、確か。水星や金星、木星なんかには、無人探査機が何度も送られていますが」
「無人って――人がいないのに、何かを調べることが出来るんですか?」
「あれ、あなた、もしかして、コンピュータとか、そういうものについての知識はあまりないんですか?」
「こ、こんぴゅーた?」
「知らない人に説明するのは難しいですね。人工知能というと、よけい混乱させてしまいそうですし」
「じ、じんこうちのう? ってあの、も、もしかして、人が創った知能、っていうことですか?」
「そうですよ」
「ホ、ホムンクルスとか?」
「それは錬金術でしょう。もっとも錬金術については科学史の授業で勉強しましたから、そう遠くもないのかもしれませんが」
「あ、ええと、あの――ユヴュさん」
「はい」
「重く、ないですか?」
「はあ?」
 私はあっけにとられて、上掛けごと両腕で抱き上げている、もしくは抱きかかえているアンツを見つめた。なんでこいつはこういつもいつも、突拍子のないことばかり言うんだ。
「さっきも言いましたが、あなたは軽すぎますよ」
「で、でもあの、ずっとじゃ大変でしょう?」
「ああまったく、めんどくさい人だな」
 アンツを、ポンとベッドに放りこむ。
「これでいいんですか?」
「す、すみません。――あの」
「はい?」
「人工知能、って――」
「――月の『スーマー・チェン』。火星の『シャンティ』。アステロイドベルトの『ノーチラス』。木星衛星群の『パック』、木星の『オベロン』と、『ティターニア』。――他にもまだまだありますがね。宇宙――特に、太陽系のあちこちに送り出された、『大厄災』以前の最高レベルの人工知能達は」
「『大厄災』の時に、壊れてしまったんですか――?」
「わかりません」
「え?」
「あなたにわかるように説明するとですね、コンピュータ――本当は正しくないんだけど、人工知能、って言ったほうがまだあなたにはわかるかな。『大厄災』の時にはですね、人工知能達のあいだに、ひどい病気がはびこったんです。その病気の発生源はここ、地球で、地球の人工知能達は、その病気のせいでほとんどすべて壊れてしまいました。しかし――その病気が、宇宙にまで広がったかどうかはわかりません。それを調べる手段がないんです、もう」
「じ――じゃあ」
 アンツがポカンと口を開けた。
「も、もしかしたら、宇宙のどこかに、『大厄災』の前の人工知能が生き残っているかも――」
「しれませんね。しかし私達にはもう、それを知るすべはありません」
「――知りたいな――」
 かすれた、うっとりとした声で、アンツがつぶやく。
「――知って、どうするんです?」
 皮肉ではなく、ただ、尋ねた。こいつが、ただのちっぽけな地の民のこいつが、そんなことを知っていったいどうしようというのだ。
「ただ、知りたいんです」
「だから――」
 苛立ちかけ、ふとアンツの顔に目をおとす。
 アンツは本当に――幸せそうな、顔をしていた。
「――知れば、失望するかもしれませんよ」
 そうだ、知ったところで。
「知ってしまえば、それがほんとは、あなたの考えているようなすばらしいものではなくて、つまらない、どうでもいいものであることが、わかってしまうだけかもしれませんよ――?」
「――」
 にっこりと、アンツは笑った。
「それでも私は、知りたい、です」
「――おかしな人だな、あなたはほんとに」
「――」
 ああ、知ってるさ、わかってる。そう言ってやったところでこの馬鹿は、やっぱりにこにこしてるんだ。
「――彼らと何を話すつもりです?」
「え?」
「どうせあなたのことだ。『大厄災』以前から生き残っている人工知能に、何か聞いてみたいことがあるんでしょう?」
「そうですね――まずは」
「まずは?」
「その、人工知能さんが、見てきたことや、聞いてきたことや――ずっと地球と、私達と話す事が出来ずにいたんですから、きっと話したいことがいろいろあると思うんですよねえ――」
「――」
 虚を、つかれた。
 人工知能に、欲望はあるのか。
 人工知能は知り得たことを、誰かに、何かに、伝えたいと思うのか。
 人工知能は。
 孤独を、知るのか。
「――もしかしたら」
 私はなぜだか手をのばし、アンツの髪をわけもなくいじる。
「病気が地球の外へは出ていかなかったとしたら――太陽系の人工知能達は、彼らのあいだで情報を交換しあっているのかもしれませんね」
「ああ、それなら寂しくないですね」
「――彼らに感情はない、と思いますよ」
「そうなんですか?」
「チューリング・テストに合格したものなら、いくらかあった、らしいですけど」
「ちゅ――」
「人間らしい反応が出来るかどうかのテストですよ。だからといって、それが心の存在を証明するとは限りませんが」
「でも、もし、心があったら?」
「え?」
「もし本当に心があるのに、誰もそれを信じてくれなかったとしたら――」
 アンツは怯えたような顔で、自分で自分を、ギュッと抱きしめた。
「そんなに悲しいこと、他にありません」
「――」
 それは確かに悲しいだろう、と、私も思った。
「――大丈夫ですよ」
 言いながら、なぜか。
 私はアンツを、そっと抱いた。
「あなた、もう、人工知能に『さん』までつけてるじゃないですか。だからあなたは信じるでしょう。人工知能に心があると、あなただったら信じるでしょう。だから大丈夫ですよ。あなたが信じているんですから、『誰も』信じない、なんてことにはなりません」
「――ありがとう、ございます」
「別に――」
 私は何をしているんだろう。
 馬鹿馬鹿しいことをしているな、と思う。
 そっと体をまさぐっている。別に挿入したいわけじゃない。ただなんとなく、さわっている。
「――します、か?」
 というその声が、もしも怯えをふくんでいたら、私は挿入していただろうが。
 おっとりとした、やわらかな、優しげ、といってもいいような声、だったので。
「しません」
 そう言って、たださわっていた。
 たださわって、それで――。


 その時笛の音がして。
 私は回想から覚めた。



(ユーリル)
 私は笛を作りたかったんじゃない。
 私は笛を吹きたかったんじゃない。
 私は、本当は。
 星からの音楽を再現したかった、だけ。
 その音楽は笛の音に似ていたのか、と聞かれたら、私は首を傾げるよりほかない。そもそもあれは、耳で聞いたのではないのだから。
 それでも私は、それを自分の手で再現してみたかった。
 なぜ、そんなことがしたいのか。
 よく、わからない。
 ただ私は。
 笛を作り、そして吹いてみる。
 なぜ?
 わからない。
 わからないまま、私は。
 笛を手に、川原へとおもむく。


 これじゃない。
 これじゃない。
 私が欲しいのは、こんなものじゃない。
 これじゃない。
 これじゃない。
 私がしたいのは、こんなことじゃない。
 笛なんか吹いたって、なんにもならない。どうにもならない。
 なのに、なぜ、私は笛を吹くのだろう。
 なんの役にも立たないことを、なぜするのだろう、私は。
 川原で私は、笛を吹く。
 星を見ながら、笛を吹く。
 ぼんやりと、思う。
 これ――なのか?
 私の内から流れ出るものは、この意味もない笛の音なのか。
 欲しかった。私は確かに、欲しかった。
 私の内から流れ出る何かが。
 でも――それが。
 こんなもの――だ、なんて――。
「――何してるの?」
 あ。
 また、あの声だ――。
「――笛、吹いてるんだよ」
「なんでこんなところで笛なんか吹いてるの?」
「さあ――なんでだろう? 私にも、よくわからない」
「――へんなの」
「そうだね」
「へんな人」
「そうだね」
「――」
 乾いた、軽い、小さな足音。
「――ねえ」
「ん?」
「こっち、見ないの?」
「見ても、いいの?」
「――うん」
 そっと、視線をやる。
 頭からヴェールをかぶった、小さな影。
「こんばんは」
「――こんばんは」
「私は、ユーリル」
「――聞かないの?」
「え? 何を?」
「――『あなたの名前は?』って」
「聞いていいの?」
「――」
「いやなら、聞かないよ」
「――アグニ」
「え?」
「わたしは、アグニ」
「昔の――『大厄災』の前の世界の、炎の神様の名前だね」
「大ッキライ、こんな名前」
「え? どうして?」
「――」
 彼女は――アグニはそっと、ヴェールを持ちあげた。
 その顔は、ケロイドで覆われていた。
「――大ッキライ」
 その言葉とともに、ヴェールは再びおろされた。


(ユヴュ)
 なぜだろう。
 なんであいつは、あんな顔をするんだろう。
 会わない時は、そう思う。
 なぜだろう。
 なんでこいつは、こんな顔をするんだろう。
 会っている時、そう思う。
 聞いてみたって、わかりはしない。アンツの理屈は、私にはまるでわからない。てんで意味を成さない。なんでそうなるんだかわからない。
 あいつのことなんて、別にどうでもいい。
 だったら、考えなくたっていいのに。いいはずなのに。
 なぜ私は、考えてしまうんだろう?
 ――あいつは。
 あいつは何を、考えているのか。
 私のことを、考えたりするのか。
 ――あいつが私のことを考えているとして、いったいそれがなんだというのだ?
 わからない。
 わからない。
 何がわからないかすらわからない。
 それなのに、私はなぜ。
 アンツと会うのをやめないのだろう。


(ユーリル)
「誤解しないでね」
「え?」
「わたし、『ツキのヒルコ』じゃないのよ」
「え――ああ、うん、わかるよ。やけどしたんだろ?」
「そ、そうよ。だからわたし『ツキのヒルコ』じゃないんだからね」
「うん、わかった」
「そんなんじゃないんだから、わたし、ほんとに」
「――」
 不思議だった。
 なぜアグニは、そんなことにこんなにもこだわるのか。
「――聞いても、いいかな?」
「なに?」
「どうして君達地の民は、『ツキのヒルコ』――異形のことを、そんなにも嫌うの?」
「え――どうして、って――」
 アグニはわずかに口ごもった。
「だって――だって、キモチワルイもの」
「気持ち悪い?」
「うん。キモチワルイ」
「どうして?」
「ど――どうして、って――」
 私の言葉に、アグニはひどく、困惑してしまったようだった。
「だって――だって――だって、変じゃない、あいつら、あんなの」
「そう?」
「そ――『そう?』って――え――だって――」
「私達――イギシュタール貴族は、異形を愛し、敬うよ」
「え――あ、ええと――『ツキノヒト』でしょう? わ、わたしだって、それっくらい知ってるんだから」
「うん、そうだよ。だから私は、異形が、異形の存在が気持ち悪いと言われても、どうしてそんなふうに感じるのか、正直よくわからない」
「え――ええと――だって――だって――」
「ごめんね。別に、君を困らせたいわけじゃないんだ」
「――」
 ヴェールで顔はよく見えないが、アグニはうつむき、黙りこんでしまった。
「――ねえ」
 ややあって、アグニは、ポツリと言った。
「聞いても、いい?」
「ん、なに?」
「貴族さま達は――わ、わたしのこれ、な、なおせる?」
「え? これ、って?」
「どうしてそんな意地悪言うの!?」
「え、い、意地悪?」
「大ッキライ!」
「え、あ、え、えーと、き、気にさわることを言ってしまったのなら、ごめん。謝るよ」
「――貴族さま達なら、わたしのやけどのあと、きれいに出来る?」
「出来るかもしれないけど、やらないよ」
「ど、どうして!?」
「だってそれは、私達の仕事じゃないもの。そんなことをいちいちやっていたらきりがないもの。ほんとの仕事が出来なくなるもの。だから、やらないよ」
「――ひどい」
「ひどい? そう――なの? だってそれは、私達の仕事じゃないんだよ?」
「どうして出来るのにしてくれないの!?」
「いや、だから、それは私達の――」
「仕事じゃない? じゃあ、あなた達の仕事っていったい何!?」
「君達を統治することだよ」
「――え?」
 私にとっては当然のことを言っただけなのに、アグニはひどく、驚いたようだった。
「と――とう、ち――?」
「うん。――え、ち、ちがうの?」
「――」
 また、アグニは黙りこんでしまった。私も、何をどう言えばいいのかさっぱりわからず、私達は、けっこう長いこと、黙って二人、そこにいた。
「――ねえ、ほんとかな」
 唐突に、アグニは言った。
「え? 何が?」
「アタラクシアに行けば――アタラクシアに行って、アタラクシアの信徒になれば――どんなけがでも病気でも『神様』がなおしてくれるって――?」
「――」
 初耳――いや、初耳ではない。以前ここで、『乳の川』のほとりで出会った、異形の赤子を抱いた小さな母親は、確かそんなようなことを言っていた。
「――わからない。そんなうわさを、聞いたことはあるけどね。でも私は、アタラクシアに行ったことなんてないもの。だから、ほんとのことは、わからない」
「――そう」
「――」
 どんなけがでも病気でもなおしてくれる。
 それならば。ああ、それならば。
 私の胸の、この穴も。
 なおしてくれると、いうのだろうか。
「ねえ」
「ん?」
「もう、笛吹かないの?」
「え、だって、君と話してる時にそんなことしちゃ失礼だと思って」
「――笛――吹いて、くれる?」
「うん、いいよ」
 笛を、唇にあて。
 音を、紡ぎ出す。
 私の耳に、かすかに。
「――アタラクシア――」
 祈りを唱える、アグニの声が聞こえた。

震えているのは風邪のせい

(ユヴュ)
「ご――ごめんなさい」
 ふらふらと戸を開けたアンツは、あからさまに様子がおかしかった。
 やけに赤い顔で、ケホケホと咳を繰り返している。
「か――風邪、ひいちゃったみたいで。あの、う、うつると悪いんで、す、すみま、ケホッ、すみませんけど、今日はその、ケホッ、か、帰っていただけますか? 本当にすみません」
「風邪、ですか?」
 手をのばして、アンツの額にあてる。
「あ、い、いけませ、ケホッ、う、うつりますよ」
「うつりませんよ」
 熱はあるようだが、ものすごい高熱というわけでもないようだ。おそらく、インフルエンザではないだろう。
 なら、大丈夫だ。
「私達、生まれつき、あなたがたより病気になりにくい体質なんです。まあ、インフルエンザとかなら私達もちょっと危ないんですが、あなた達がひくような普通の風邪なら、まず大丈夫です。めったなことでうつったりはしません」
「で、でも、万一うつったりしたら申し訳ない――」
 そこまで言って、アンツはケホケホとひどく咳きこんだ。
「うつりませんよ」
 と、もう一回言ってやる。
「あなた、ちゃんとご飯食べてます?」
「え?」
「ちゃんと栄養を取って、あったかくしてないと、風邪、なおりませんよ」
 いくら私達がめったに風邪などひかないといっても、さすがにそれくらいの知識はある。
「あ、パン、食べました」
 ふにゃり、とアンツが笑う。
「だから、大丈夫です、はい」
「馬鹿なことを言わないで下さい」
 アンツを押しのけ、家に上がりこむ。
「炭水化物しか取れてないじゃないですか。もっと栄養のバランスというものを考えなさい」
「あ、だ、だめですよ、入っちゃ。う、うつり、ケホケホッ!」
「――」
 ああ、かなり具合が悪いんだな。
 …………。
 確かに。
 この、アンツと言う男は。
 馬鹿で。
 とろくて。
 要領が悪くて。
 いつもへらへら笑っていて。
 まことにもって、見ているといらいらさせられる男ではあるが。
 いつか絶対、完膚なきまでに叩きのめし、地に這いつくばらせ泣きべそをかかせてやろうと思っている相手だが。
 だが、しかし。
 いくら私だって、アンツが本当に病気でぐあいが悪いのを見て、それを楽しんだりするほど趣味が悪くはない。
 さらにいうなら。
 こいつ――一人暮らし、だよな。
 かなりぐあいが悪そうなのに、本当につらそうなのに、誰からも世話をしてもらえないんだ。
 …………。
「ユ、ユビュさん、う、うつると悪いですから、ね、きょ、今日は、ケホッ、か、帰って下さい、ね?」
「――寝ていなさい」
「え?」
「病人は、寝ていなさい」
「――はい」
 アンツは、熱で真っ赤な顔のまま、にっこりと笑った。
「ありがとうございます」
「そのあいだに、私が何か、栄養のあるものをつくりますから」
「…………え?」
 アンツはきょとんとした。
「え? あ、あの、ユ、ユビュさん?」
「なんですか?」
「か、帰るん、ケホッ、帰られるんじゃないんですか?」
「どうせあなたを看病してくれる人なんて誰もいないんでしょう?」
 あ、ちょっと言いすぎたかな、とチラッと思ったが、だってしかたがない。単なる事実だ。
 こいつは――アンツは。
 家族が一人もいないうえ、近所の連中からは『ツキのヒルコ』だということのせいで、かなりひどい扱いを受けている。
 まったくもって、ばかばかしいことだと思う。『ツキのヒルコ』の――異形のどこが悪いというんだ、ほんとにまったく。
「こんな状態のあなたを見て、それでこのままほっぽらかして帰っちゃったら、私がものすごく、不人情な人間みたいじゃないですか」
『不人情』――か。
 私達は――イギシュタール貴族は、あんまり使わない言葉だな。
『不人情』なんて。
 でも、まあ、こいつはそういうふうに言ってやらないと、理解することが出来ないだろう。
「だから」
 だから。
「しょうがないから、私が看病してあげます。なに、どうせ私達イギシュタール貴族は、あなたがたより何倍も、頑丈な体を持っています。その程度の風邪がうつりっこありません。というか、あなたほんとに、半分万年栄養失調なんじゃないですか? いつも言ってるでしょう? ちゃんと食べなさいって。そんな頼りない体だから、風邪なんてひいたりするんですよ」
「…………」
 泣き出しそうなアンツの顔を見て、言いすぎたかな、と、ちょっとあわてる。
 そりゃ私は、こいつにいつか、泣きべそかかせてやりたいと思っている。
 でも。
 でも、それは、こんなふうに、こんな方法で、泣かせてやりたいっていうわけじゃ、ないんだ。これは、違うんだ。今泣かれたって困るんだ。
「――ありがとう、ございます」
「――」
 こいつは、時々、こんなふうに私に礼を言う。
 ひとことひとこと、噛みしめるように。
 ギョッとするほど真剣な顔で、力をこめて、私に礼を言う。
「――どういたしまして」
 そんなふうに礼をいわれると。
 私はいつも、一瞬、どうすればいいのかわからなくなる。
「ケホケホケホッ!」
 ひどくアンツが咳きこむのを見て、思わず手をのばして背中をさする。
 ええと、こういう時って、こういうふうにすればいいのか? なにしろ私達イギシュタール貴族が、いわゆる『風邪』をひくことなどめったにない。知識としては知っていたが、あまり見たことのない症例を目の当たりにして、ああ、風邪をひくと、人間は本当にこんなふうになるんだ、と、いささか感慨深いものがある。
「ほら、あったかくして寝ていなさい。何か食べるものを作ってあげますから」
「い、いいですいいです」
「よくないですよ。食べなきゃ治りませんよ」
「あの、その――」
 アンツはもじもじとうつむいた。
「今、その――う、うちに、食べるものが何にもないんで――」
「はあ!?」
 やっぱりこいつは、心底馬鹿だ。
「あなた、そんな状況で私に帰れっていったんですか!? あなたねえ、そんな、食べるものも食べずにただ寝ているだけで風邪が治るわけないでしょう!」
「い、いや、その――も、もうすこし症状が落ち着いたら買い物に行こうかと――」
「あなた、本物の馬鹿ですね」
 腹が立ってきた。ひっぱたいてやりたいが、さすがに病人をひっぱたくというのはまずいだろうと自重する。
「ああ、もう、いいです。あなたはただでさえ馬鹿なのに、風邪のせいでさらに頭が働かなくなっているんですね。わかりました。寝ていなさい。私が買い物に行ってきます。お医者さんには――」
 と、言いかけて、聞く前に答えがわかってしまった。
「――私なんかを診察させたら、お医者さんがかわいそうですよ」
「――」
 一瞬、めまいがした。
 そんなことを言いながら、こいつは、この馬鹿は、アンツは。
 悲しそうな笑顔を浮かべていた。
「――買い物に行ってきます」
 なぜだろう。
 腹が立った。あ、いや、なぜも何もないな。アンツがあんまり馬鹿だから、腹が立ってしょうがないんだ。そうだそうだ。別に不思議なことはない。
「あなたは寝ていなさい。いいですか、私が帰ってきたときあなたが寝ていなかったら、たとえ病人といえども手加減抜きでひっぱたきますからね!」
 でも。
 なぜだろう。
 なぜ。
 どうして。
 どうして私は、悲しくてしょうがないんだろう――?



(アンツ)
 ああ、これは、夢なんだな。
 と、半ば本気で思っていた。
 熱があるしな。食欲がないからって、朝から何にも食べてないし。あ、そうだ、パンが一個残ってたのを食べたは食べたっけ。
 夢だな、きっと。頭がボーッとしているから、白昼夢を見てしまったんだ。
 でも。
 別に。
 夢でも、いい。
 だって。
 とてもいい、夢だったから。
 ユヴュが、あんなふうに私のことを心配してくれるだなんて。
 夢だ――夢。
 ああ、まったく、私ときたら、あんなに自分に都合のいい夢を見るだなんて。いまさらいうのもなんだが、私という人間は、本当に能天気に出来ているらしい。
 そんなことを考えながら、うつらうつらしていた。
「――ちゃんと寝ていますね」
 と、やさしく声をかけられて。
 私は。
 目を開けるのが怖かった。
 夢でもいい。妄想でも、幻聴でもいい。
 でも。
 でも。
 目を開けたとき、そこに本当に、誰もいなかったら。
 私はやっぱり、ひどくがっかりしてしまうだろう。
「起きられますか? それとも、もう少し寝ていますか?」
「あ――お、おき、ます」
「まだいいです」
 起き上がろうとする私の体を、優しい手がそっと押し戻す。
「今、持ってきてあげますから。それまで寝ていなさい」
「――はい」
 ああ。
 もしかしたら。
 これはやっぱり、夢ではないのかもしれない。
「――持ってきましたよ」
「あ――ありがとう、ございます」
 ユヴュは、私が身を起こすのを手伝ってくれ、どこやらに適当に投げ出しておいた上着まで着せかけてくれた。あらかじめきちんと用意されていた小机の上に、具沢山のスープ二皿と、ふっくらとしたパンが乗った皿がおかれる。水の入ったコップも二つ、コトコトとおかれる。
「スープぐらいなら、食べられるでしょう?」
 と、ユヴュが小首をかしげる。
「は――はい。ありがとう――ございます」
 泣きそうになった。こんなところでいきなり私に泣き出されてしまったら、ユヴュは困ってしまうだろうと思って一所懸命我慢したが。
 でも、もう少しで泣くところだった。
「せっかくつくったんだから、ちゃんと食べてくださいよ。私も、ついでだからいただきます」
 そういって、ユヴュは、スープにスプーンを突っ込んで、パクパクと食べ始めた。ユヴュがパクッと一噛みすると、パンの半分ほどが一瞬で口の中に消えうせる。
 若い人の食べっぷりって、見ていて気持ちがいいなあ――と、ぼんやり見ていると。
「あのですね」
 ジロリとユヴュににらみつけられた。
「食欲がないのかもしれませんが、少しは食べなさい。具が無理なら、スープだけでも飲みなさい。どんなときでも、水分補給は必要なんですからね」
「あ、ご、ごめ、ケホッ、ごめんなさい。ちょ、ちょっと、見とれてしまって」
「見とれる?」
 ユヴュはきょとんと目をしばたたいた。
「何に?」
「いや、その――若い人の食べっぷりって、見ていて気持ちがいいなあ――と」
「……そういうもんですかね?」
 ユヴュは、不思議そうに首をかしげた。
「まあ、とにかく、見ていないであなたも食べなさい」
「はい」
 なんだか食べるのがもったいなかった。
 ユヴュの手料理なんて、食べるのは初めてだ。
 ああ、風邪なんてひいてる場合じゃなかったなあ。もっとちゃんと、体調が万全のときにじっくり味わいたかった。ん? でも、私が風邪をひいていなければ、そもそもユヴュは、私に手料理を作ってなんかくれなかったわけか。はは。
「いただきます」
 口に入れて、真っ先に思ったのは、やさしい味だな、ということだった。
 おいしい。本当においしい。
「――おいしい」
「そうですか」
 ユヴュはチラリと笑った。
「それならよかった」
「――初めてです」
「え?」
「ひとから、こんなことをしていただいたのは」
「――そうですか」
 ユヴュが、つと手をのばして。
 私の額にあてた。
「熱は、そんなに高くはないようですね。まあ、いつものあなたの体温よりは上のようですが」
「ええ――」
 正直、熱はあるにはあるようだが、それよりつらいのは、ひたすら寒気がすることだ。今までの経験から、とにかくこの寒気がおさまってくれないことにはどうにもならないことを知っている。
「――何かして欲しいことがあるならしてあげますよ」
 と、ユヴュが言う。
「え、そ、そんな、ここまでしていた、ケホケホッ!」
「ああ――のど、痛いですか? しゃべるとつらいなら、無理してしゃべらなくてもいいですよ」
「い、いや、のどが痛いというか、その、どうも咳がとまらなくて――」
「結核じゃないでしょうね?」
「――」
 なんとも答えようがない。もし結核だったら、それはきっと、私の命を奪うだろう。
 そこまで考えて、頭から氷水をかけられたようにすさまじい寒気がした。
「ユ、ユヴュさん、か、帰ってください!」
「は?」
「も、もし結核だったら、わ、私、あ、あなたにうつしちゃったら、し、死んでわびてもおっつきませんから!!」
「――馬鹿ですね、あなたは」
 ピンッ、とユヴュが私の額をはじいた。
「私達は、抗生物質を持っています。ああ、あなたには、結核の特効薬と言ったほうがいいのかな? とにかく、私達は、結核の特効薬を持っているんですよ。だから、たとえあなたが結核で、仮に私がそれに感染したとしても、簡単に治せますからあなたが心配する必要は別にありません」
「あ――よ、よかった――」
 安堵のあまり、体がベッドの中に沈みこんでいくかと思った。
 ああ――そうか。それなら、よかった。
「死んでわびるって」
 ユヴュはあきれたように肩をすくめた。
「あなた、そんなことされて私が喜ぶとでも思ったんですか? それに、私は別に、あなたに頼まれたからここにいるんじゃありません。私自身の意思で、ここにいることを決めたんです。自分の選択の結果を、他人に押しつけるつもりは毛頭ありません」
「あ、その――す、すみません――」
 顔から火が出る思いだった。どうも私は、ひどく馬鹿なことを言ってしまったようだ。
「――しばらくここにいますよ」
 ユヴュは、そっけなく言った。
 そっけない声だったけど。
「とりあえず、あなたが一人で起きて、ちゃんと自分で食事をつくれるようになるまではここにいますよ。やりはじめたことをやりかけのまま放り出すのは気持ちが悪いですので」
 語る言葉は、とてもとても優しかった。
「え、そ、そんな、わ、悪い――」
「あなたそんなに私をいらいらさせたいんですか? 私はね、一度始めたことを中途半端で終わらせるのは、我慢が出来ない性分なんです」
「あ、その――す、すみません。で、でも――」
「でも?」
「う、うち、あの、ケホッ、ベ、ベッド、一つしか――」
「いつものようにすればいいでしょう?」
「え――」
「あ、いや」
 ユヴュが、ちょっとうろたえた声をあげた。
「べ、別に、今日はあなたをどうこうしたりはしませんよ。いくらなんだって、病人に手を出すほど趣味が悪くはないつもりです」
「――いいですよ、出してくださっても」
 それは、心底からの本心だった。
 あなたの腕に抱かれる機会を、一度だって逃したくはない。
 あなたの腕に抱かれて死ねるなら。
 それ以上の幸せなど、ちょっと思いつくことも出来ない。
「何を馬鹿なことを言っているんです」
 ユヴュの指が、再び私の額をはじいた。
「いいから食べてしまいなさい。おなかにものを入れれば、とにかく少しはましになるでしょう」
「――はい」
 あたたかかった。
 私の内側が。体の中が。心の奥が。
 とても。
 とても、とても――。
 とても、あたたかかった。



(ユヴュ)
 震えている。
 震えて――いる。
「――寒いんですか?」
「――」
 アンツは、困ったような顔でケホケホと咳きこんだ。
「寒いなら、寒いと言って下さい」
 いつもいつも、どうでもいいことはペラペラペラペラとやたらよくしゃべるくせに、どうしてこんな時だけ黙りこくるんだ。
「――少し、寒いですね」
 アンツはやっぱり困ったような顔で、ボソボソと言った。
「で、でも――しょうがないですよ。か、風邪ですから。風邪の時は、誰でも寒気がするものなんですよ」
「そうなんですか?」
「――ええ」
 そういってアンツは、またケホケホと咳きこんだ。
「――」
 寒いのか。
 ああ――寒いのか。
 私達イギシュタール貴族が、暑さ寒さを感じないわけではない。ただ、私達は、こいつら地の民達より、暑さ寒さ、つまり、温度変化一般にかなり強い。温度の違いはわかる。だが、そのことを苦にすることはほとんどない。
「――あっためてあげましょうか?」
「え?」
 私達が、こいつらの病気に感染することはほとんどない。
 だから。
「あ――!? ユ、ユビュさん、な、なに――!?」
「――あったかく、ないですか?」
 布団の中は、いつもより熱く、どうしてこれで寒いのかとほんの少しだけ不思議になる。
 こいつの体も――いつもより、熱い。
 ああ、これが『熱がある』という状態なのか。
「――あ――あったかい――」
 アンツの声が震えているのは。
 風邪のせい、なのだろうか。
 熱のせいで、弱っているから、なのだろうか。
「あた――あたたかい――あったかいです――すごく――すごく――」
「そうですか」
 腕の中にすっぽりとおさまる、やせて小さな、貧相な体。
 奇妙に、熱い。
 ああ――病気なんだな、こいつは。
「――どうしてあなたがたは、こんなにも弱いんでしょうね」
 こんな妙なやつとずっとつきあっているからだろうか。
 私まで――妙な事を、思う。
 どうしてこいつら地の民は、こんなにも弱いんだろう。
 どうしてこいつらは、あっという間に年老いてしまうんだろう。
 どうしてこいつらの寿命は、私達からすれば驚くほど短いんだろう。
 人類という種の多様性のため――と、私達の記録は言っている。
 私達――イギシュタール貴族のような存在を、『大厄災』の前は、どうもこう呼んでいたらしい。
『デザインドチルドレン』――と。
 ある特定の目的のために、創り出された子供達。
 特定の目的があるのだから、その目的のために必要のないものは、遠慮会釈なく削ぎ落された。
 そして、最終的に、その目的にピッタリな、最適モデルが創り上げられ、そのモデルが大量生産される。
 だから。
 私達は、イギシュタール貴族は、互いにみんな、非常によく似かよっている。遺伝子プールが極端に狭く、浅い。
 遺伝子プールが狭く、浅いほど、種の絶滅の危険性は高くなる。
 だからこそ。
 多くの人類の遺伝子には手をつけることなく、『自然の』多様性をそのままそっくり保護したのだ――と、私達の記録は語っている。
 多様性――か。
 こいつらが。
 弱く。
 脆く。
 寿命も短く。
 あっという間に年老いてしまうのも。
 今のアンツのように、ちょっとした病気でひどく苦しむ体なのも。
 多様性のため――なの、か。
 ああ――そうだ。私達イギシュタール貴族は、宇宙を征服せよと創り出された尖兵達の末裔だ。
 ――尖兵。
 尖兵。
 後から来る本隊のために、道を切り開く者達。
 私達のあとからやってくるのは――いや。
 私達の先祖のあとからやってくるのは、こいつら地の民達の先祖――だった、らしい。
 ――こんなに。
 弱いくせに。
 脆いくせに。
 寿命が短いくせに。
 あっという間に年老いてしまうくせに。
 ちょっとした病気で、こんなにも苦しまなくてはいけないくせに――。
「――少し寝たらどうですか?」
 なんとなく、何を言っていいのか思いつけず、そんなことを言ってみる。とにかく、睡眠をとれば体力が少しは回復するはずだ。
「――眠るのがもったいないです」
「は?」
 ああ、この馬鹿は、やっぱり極端に馬鹿だ。
「なにを馬鹿な事を言っているんです。いったい何がもったいないんです?」
「あなたといっしょにいられるのに――眠ってしまう、なんて――」
「――馬鹿ですね、あなたは」
 やはり人間病気の時は、馬鹿がさらに馬鹿になるのだろう。実例を見てよくわかった。
「そんなに苦しそうにしてるんだから、病気をなおす事だけ考えたらどうです?」
「そう――ですね」
 小さな笑い声。次の瞬間、また咳きこむ。
「ケホケホッ。ごめんなさいね、馬鹿な事を言ってしまって」
「別に。あなたの馬鹿にも、いいかげん慣れてきましたから。もっとも、あなたの馬鹿っぷりにはやっぱり腹が立ちますが」
「す、すみません」
「まったく――」
 話しかけたらこの馬鹿は、私としゃべるためにずっと起きているだろう、と思ったので、とりあえず口をつぐんだ。
 なんとなく、背中をさすってみる。あんまりこんなことをしたことがないが、別に害になることでもないだろう、と思う。
「あ――ありがとう、ございます」
「いいから。もう寝なさい」
「――はい」
「――」
 いったい私は何をやっているんだろう、と、自分自身にあきれてしまうのは、これでもう何回目になるのか。
 腕の中の体から、フッと力が抜ける。
 ひどく――頼りない、体だ。
 こう思うのも、いったい何度目になるのだろう。
 まあ――たぶん、私のしたことで、こいつの風邪は、それなりに快方に向かいはしただろう。
 だったら私のしたことも、まったくの無意味というわけではないだろう。
 ――無意味、か。
 そもそも、こいつとこんなふうにつきあっていること自体、かなりの無意味には違いないんだが。
 ああ――馬鹿な事をやっているな、私は。
 まあ、こんなことが出来るのも、ユーリルがまだ当主の座を引き継いではおらず、スペアの私も、まあもともと、スペアである私の立場はオリジナルであるユーリルよりもかなり気楽なものだが、その気楽な立場がさらにさらに、気楽なものになっているからだろう。
『猶予期間(モラトリアム)』というやつか、これは。
 ――まあ、いいか。
 今日のところは、まあいいということにしておくか。
 だって。
 私達の寿命は、私達に与えられた時間は、こいつらよりずっと――ずっとずっと、ずっと、長いのだから。
 いかに私が、この馬鹿に心底うんざりしているとはいえ。
 一人ぼっちの病人を、看病することが無意味だなどと、主張するつもりはさすがにない。
 だから、まあ――たぶん、きっと。
 今日は、いつもよりむしろ、有意義な日だったのだ。
 と、そういうことにしておこう。

月の影踏み地を歩く

月の影踏み地を歩く

オリジナルでSFでやおいでおっさん受け。 一度文明が崩壊した後の遠未来が舞台。ツンデレ青年も登場します。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • SF
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2013-09-08

CC BY
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CC BY
  1. 月の民と地の民と
  2. ちいさきもの、みなうつくし
  3. 『ツキのヒルコ』とツキの影
  4. スコティッシュフォールドのいましめ
  5. 生きる姿は様々なれど
  6. 翼ある者、翼なき者
  7. 月と私と、あなたと私と
  8. ただ知りたくて、知りたくて
  9. そして私は、悟ってしまった
  10. いつか覚めるとわかっていても
  11. 鏡は横にひび割れて
  12. 瞳の中の星を見つめて
  13. 二人の心今は二つに
  14. 震えているのは風邪のせい