ピアノの音
【少女】
「音、鳴らないね」
男は外回り業務の休憩時間、公園のベンチで煙草をふかしていた。すぐ隣のベンチでは女子高生が自分の膝でピアノを弾く仕草をしていた。だから男は声を掛けた。
「音、鳴らないね」
平日の昼間に学校はどうしたんだろうかとか、どこの学校の子だろうとか、そういう疑問は少しも考えなかった。ただ単に、男から自然と漏れ出た言葉がそれだった。
「音?鳴るよ?」
そう言って少女は座っていたベンチと向き合い、今度はベンチの上を指で叩き始めた。カタカタという無機質な音が耳に入る。もちろん音階は成してないが、何かの曲なのだろうか。少女の指使いは慣れた手付きで何かを奏でている。
「何の曲?」男はさらに尋ねる。
「知らない」少女はカタカタと音を立てながら無機質に答えた。
「ピアノ、習ってるの?」
「習ってない。弾けないもの」
「やってるみたいに見えるけど」
「適当に叩いてるだけ。弾いてるマネ」
「その割に上手いね」
「ありがと」
「ほんとにピアノ弾けないの?」
「弾けないよ。でもベンチだったら弾ける。ほら」
そう言って少女はベンチの上で指を軽やかに躍らせてみせた。カタカタという無機質な音が響く。
「私はベンチを弾いてるの。音、鳴るでしょ」
少女は美しくベンチを弾いていた。その姿を男は煙草を咥えながらただぼんやりと眺めていた。
【雨】
雨は一日中降り続いていた。男は休憩時間を車の中で過ごしていた。フロントガラスに激しく雨粒が叩き付け、車の天井にもそれが響いている。まいったな、そう考えながら男は煙草に火を点け、FMラジオのスイッチを入れた。ワイパーは動かしていない。そこで男は気が付いた。あの少女だ。
「どうしたの。ずぶ濡れじゃないか」男は車を出て少女に声を掛けた。
「車、乗っていいかな」少女はうつむいたままそう言った。雨音にかき消されそうな声だ。
「いいけど」
助手席に座った少女は髪の毛から水を滴らせ、制服も靴も何もかもが完全に濡れていた。男はハンカチを手渡した。
「それしかなくて。とりあえず拭きなよ」
「ありがと」少女はハンカチを受け取り、それを膝の上で握りしめた。顔はうつむいたままで、髪を拭こうともしない。
まいったな。とりあえず男は車を出した。
しばらく走った後、適当なラブホテルに二人は入った。ずぶ濡れの女子高生と一緒に入れる場所は男にはここしか思い当らなかった。男はソファーに座り、少女はシャワーを浴びている。テレビを点けるとくだらないAVが流れていた。男はうんざりしながらテレビを消し、煙草に火を点ける。ふと部屋の隅を見るとピアノが置いてあった。少々古臭いが、ちゃんとしたアップライトピアノだ。ピアノが置いてあるラブホテルは初めてだったので男は少し驚いた。
「ピアノ、置いてあるよ」シャワーから出てきた少女に男は言った。
「知ってる。部屋に入った時すぐ目についた」
「なんか弾いてみたら?」
「私はピアノ弾けないから。前にも言ったでしょ」
「ほんとに?」
「ほんと」
少女は濡れた制服をハンガーに掛けドライヤーで乾かしていたが、しばらくすると諦めて男の隣に座った。
「いいから、ベッドで寝なよ」
「うん、ありがと」
少女はベッドにもぐりこみ、男はソファーで二本目の煙草に火を点けた。まいったな。そう考えながら、男は天井に上る煙草の煙をただ眺めていた。
【音】
男が少女と再会したのはそれから三か月後のことだった。陽が沈みかけの時間、空を眺めていた男の車をコンコンと叩いたのが彼女だった。この日少女は制服姿ではなく、青いワンピースを着ていて、髪も少し伸びたようだった。
「乗ってもいい?」
「いいよ」
男は少女を乗せて車を走らせた。行くあてなど特になかったが、停まってる理由も特になかった。陽は完全に沈み、街頭の明かりの中を他の車に混ざって適当に運転していた。前の車のブレーキランプが点くと男もブレーキを踏み、信号が青に変わるとアクセルを踏んだ。特に会話もなかったが、先に口を開いたのは少女の方だった。
「こないだは、ごめんなさい」
「いいよ」
「何があったのかとか、聞かないんだね」
「うん」男は車線変更しながら答えた。
「何度かあなたの車を見たよ。でもなんとなく声を掛けれなくて。あなたは空ばかり見てたね」
「うん」
「今日はね、私の事を知ってもらおうと思って」
男は何も答えなかった。車はいつのまにか国道から外れ、次第に傾斜のある山道に入っていった。ビルや信号やブレーキランプを灯す車も今はなく、ガードレールと深い木々がただ辺りを包んでいた。
少女は通り過ぎるそれらの景色をぼんやりと眺めていた。何も言わず、ただ自分の膝でピアノを弾く仕草を続けていた。
「音、鳴らないね」
最初に会った時と同じように、男は声を掛けた。どこに向かえばいいのかとか、これからどうするのかとか、そういう疑問は少しも考えなかった。自然と漏れ出た言葉がそれだった。
「音、鳴らないね」
「…うん」そう言って少女は膝の上で指を動かし続ける。自分のその指を見つめ少女は続けた。
「私はね、私を弾いているの」
少女は鳴らない音を奏で続け、男はヘッドライトが照らす山道を、ただぼんやりと眺めていた。
ピアノの音