安定志向(5)
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第四章「分岐点」
棒立ちの少年に、拳が迫る。だが、その拳が少年に接触する前も後も、少年は微動だにしない。普通は殴られたら、その衝撃のベクトル方向に多少なりとも動くものだ。しかし少年は動かない。付け加えるならば、少年は表情すらも全く変わっていない。眉一つピクリとさえしていないのだ。
「何なんだよ……何なんだよてめぇは!!」
殴った側の男が顔を蒼白にして少年に怒鳴る。
彼が怒鳴りたくなるのも無理はあるまい。なぜなら――少年は、笑っているのだ。
「もう終わりか?」
少年が口を開く。この一方的な暴力劇は既に十分以上続いている。だが、少年は今初めて男に対し言葉を投げかけた。まるでそう――これで終わりとでも言わんばかりに。
「お前は力による解決を求めた。それ自体は悪くない。事態を収束させる最も手っ取り早い手段は力で押さえつけることだからだ。だが、それは力ある者のみに許された手段だ。だがお前は弱い。一方的に十分も殴らせてやっても俺一人屈服させられないほど、脆弱だ。だからお前にはその資格が無い。つまり、これは失策だ――」
そう告げて、男がどれだけ力の限りを尽くしても一ミリたりとも動かなかった少年の足が男の方へ一歩進む。
「よ、ようやくやる気になったかよ……?だけどあんなけ殴られて俺を倒すなんて出来るわけねえだろっ!!」
一瞬少年に飲まれそうになった男だったが、すぐに調子を取り戻して彼もまた、少年の方へ一歩を踏み出す。
このような異常な状況でも男がまだ正気を保っていられたのには理由があった。彼は学生時代、ボクシング部の部長を務めており、大会でもかなりの上位までいっていたのだ。だから彼には自信があった。だから彼にはプライドがあった。そんな彼がこの場で屈するということは、つまりそのまま彼の今までの全てを否定することにもつながるのだ。だから彼は負けられない。己の本能がどれだけ逃げろと伝えていても、彼にはそれを無視することしかできないのだ。
「へぇ、これは驚いた。これだけの差を見せられてもまだ諦めないのか。
だが、それでいい。俺はここに来てずっと退屈していたんだ。ここは確かに平和さ。娯楽にも満ち溢れている。だが、何か肝心なものが欠けているんだ。俺はそれの正体を知らぬまま、ずっと探し求めていた。
だけど今、それが何か分かった。そう、俺はリスクを求めていたんだ。リスク――それは、ありすぎれば身の破滅を呼ぶ。だがしかし、リスクの全くない生活などゴミだ。俺にはここにはリスクがないように思える。他の連中からしたら、ここにだってリスクは溢れているんだろうさ。でも俺にはそう思えない。あの地獄で暮らし続けて、そして地獄を地獄とも思わなくなるほど長い時を過ごした。だからあれこそが俺の日常なんだ。
そしてこの状況。あそこに比べればまだまだ生ぬるいが、それでもここよりは何百倍もマシだ。
だから俺はお前に告げるよ。ありがとう、と――」
そして少年の姿が消えた。
「え……?」
いや、消えたように、見えた。
「が、はっ……」
少年の拳が男の腹部にめり込んでいた。そのまま男は意識を失って倒れる。
「ふぅ……。やっぱり、そうでもねぇな。結局何も変わりやしない。退屈なままだ」
倒れた男の顔に唾を吐きかけ、少年――いや、俺は、今いた例の廃工場から立ち去った。
今の男は道端で偶然であっただけのチンピラだ。そいつが俺にぶつかってきて因縁をつけてきやがったから返り討ちにしてやったのだ。ちょうどいろいろあってストレスが溜まっていたので、発散するいい機会だった。殴られ続けていたので身体に傷は多々あるが、それも一撃で敵を倒した時に得られるカタルシスのため。やはり、何事も少し我慢してから発散するのが一番なのだ。食事は少し空腹の時のが美味いし、睡眠は睡眠不足の時ほど幸せに感じるし、オナニーだってしばらくオナ禁してからの方が断然気持ちいい。要は、これもそれらと同じ事なのだ。
俺には特技らしい特技なんてものは全くない。敢えて言うなら今まさにやったように、喧嘩だ。
もう、かったるいことはやめだ。
俺は蒼樹美雪が好きだった。
そう、好きだった――
それはあくまで過去のことであり、とっくに吹っ切れていると、そう思っていた。
けれど実は違った。
俺の初恋はまだ終わっていなかった。
彼女がドラッグに手を出して捕まって、それから面会に行って。そうしてようやく気付いた。
ああ――俺はまだ、彼女のことが好きなんだって。
だけどもう遅い。
既に賽は投げられた。
俺は、藍沢佳苗と付き合っていると、そう言ってしまった。
だから、もうどうしようもないはずなんだ。
どうにかなる可能性なんて、もう何処にも――
【選択肢】
1「いや――ある。それでも俺は、美雪を諦めきれない」
2「ありは、しないんだ……」
安定志向(5)
えー、約3ヶ月ぶりの更新となりますが、量は大したことございません。まあ、ぶっちゃけた話、忘れてました。
だがしかし!今度こそは、今度こそは最後まで書き続けてやりますとも!!