溺水者


     一

図書室には様々な本がある。古今東西のあらゆる人物が、その神経を擦り減らし、情熱という名の命をかけて紡いだ、小説があり、評論があり、絵画があり、写真があり、ノンフィクションがあり、漫画がある。僕はページを繰りながら、魅力才力ほとばしる彼ら作者を思っては、その誰しもに憧憬を抱き、またその分と同じだけ、焦燥する。
例えば黒柳徹子の「窓ぎわのトットちゃん」を拾い読みする。僕はたちまち「徹子の部屋」での司会者の姿を想像し、作品中のトットちゃんと比較してみて、彼女の人生について考える。僕は彼女に会ったことはないから、今まではテレビの中から伝わってくる印象でしか分からなかったけれど、こうやって本を読むことによって、新たな真実に出会い、感動する。
僕は三日前に「徹子の部屋特別編」を見ていて、それは過去のトークを再放送する内容だったのだが、番組を思い出しているうちに、出演していた高倉健のカリスマ性や吉永小百合の美貌について、
(なんであんなに絵になるのだろう)
などと、いつのまにか今度は彼ら映画スターのことについて強く思いを巡らせている。
(僕なら絶対無理な職業だな)
例えばジャクソン・ポロックの画集をパラパラとめくってみる。僕ははじめ軽蔑する。
(ぐちゃぐちゃやん。こんなもん幼稚園児でも描けるわ)
そのあと三島由紀夫の全集を開いて、掌編を読んでみる。私小説か、エッセイといってもおかしくない「独楽」という作品を読み終わって、僕はたちまち心を馬のひづめにスクラッチされたみたいな感覚を得る。必然と、三島由紀夫の生涯について、またその対比として自分を置いたときの劣等そういうものを考えて、どきどきする。興奮のなかで先程の画集を再度見ると、どこか違っている。それは根拠のない幼稚園児の落書きではない。ポロックにしか描けない、何かがある。
こんな風に、一度図書室に入り込むと、僕はたちまち出られなくなってしまう。
「閉館まであと五分でーす」
若々しいソプラノ。もともと借りるつもりの本を持ってカウンターへ行く。
強い雨が図書室の窓を暗くする。雲は厚く世界に闇の色を醸す。
「二年三組一番です。お願いします」
「はーい」
 だらりとした甘美な声に視線を上げて、少しだけ彼女を盗み見る。茶色い髪はショート・カットで、垂れた目をした若々しい小顔にこの上なく似合っている。けれどもすぐに怯えてしまって、僕は再び瞳を落とす。
「えっと、青木君かな?」
「そうです」
 バーコードを〝ピッ〟とやったあと、僕に本を手渡してくれる。そのとき表紙の〈川端康成〉の文字を見て、
「文章がとっても美しいよね」
僕はもう一度だけ視線を上げる。彼女はこちらを見据えて微笑んでいる。きっと返事を待っているのだろう。何か言わないといけないのに、はにかむだけで言葉が出せない。
 そしていま、傘のうえの雨の音を聞きながら、図書室で見た彼女の笑顔が忘れられない。それまでに考えていた黒柳徹子やジャクソン・ポロックのことは自分とは遠く離れた世界の出来事であるけれど、彼女の笑顔はそうではない。それは僕に向かった、僕のためだけの笑顔だった。散り落ちた桜の花びらがアスファルトの地面を埋めている。僕はそのピンクの絨毯のうえを歩く。
 ここは関西地方の人口十万人足らずの市である。市内は三六〇度山で囲まれた盆地であるから、夏はめっぽう暑く、冬はめっぽう寒い。
K高校の一学年に二クラスある特進コースに進んでから、単調な日々が丸一年も続いている。中学校での気を許せた友達はこの高校には一人もいない。みんな離ればなれになってしまった。
 休み時間は毎回読書をして過ごしている。教室内に友達はいない。二年になってクラス替えがあったから、何か変化が生まれる可能性もないことはないけれど、僕としては望んでいない。かつて中学のときに想像していた孤独に比べ、実際のそれというのは思っていたほど辛くないからだ。
昼休みになると立入禁止の非常階段へ行って、下の道を歩く人々や遠くの山々を眺めながら、一人で弁当を食べる。誰にも見られずに屋外で食事をするというのは非常に気持ちのよいものだ。そよ風に吹かれながら、鳥のさえずりや車の音を聴き、田舎の景色を見つめながら、僕はリフレッシュしエネルギーをチャージする。
そして放課後は図書室へ行く。だいたい週に三度ほど。普段は司書のおばさんがカウンターに座って貸出・返却の手続きを行うが、運が良ければ先程の美人に会うことができる。
 一度地面に降った雨が僕の靴に侵入して、靴下を攻める。乗用車がエンジン音を震わせて僕の横を高速で過ぎ去る。
 彼女、――桜井先生は今年やってきた新任教師だ。けれども教員免許はないから、正確には講師である。彼女は図書部に在籍している(これは進路指導部、生徒指導部みたいな要領)。だからデスクが図書室にあるし、ときどきカウンターにも座る。僕はそれらの情報をある日のSHRで配られた「学校案内パンフレット」で知った。
 彼女は僕らの古典を教える。彼女の書く字は独特で、丸みを帯びているのに上品な、古風な美しさを持っている。そして、これはおそらく最も重要なことだが、僕は彼女が好きなのだった。
 赤信号に来る。カバンからウォークマンを取り出して、音楽を再生する。ボブ・ディランの「ミスター・タンブリンマン」を選ぶ。雨の日はボブ・ディランに決めている。村上春樹の小説に、ボブ・ディランの声を「小さな子が窓に立って雨ふりをじっと見つめているよう」と表現する女性が出てくる。それがきっかけで僕は聴き始めた。聴くことによって返事をできなかった先程の失態を忘れようとしている。でもそれじゃあ彼女の笑顔まで忘れてしまいそう。
 湿度が高くてブレザーがうっとうしく感じる。それでも僕は歩き続ける。雨の音は先と変わらず小刻みに傘を打ち続けている。まるで心臓が鼓動するのと同じように……。



 次の日の朝、この学校で最も親しい友人の吉岡を昇降口の下駄箱で見る。
上履きに変えたあと、とくに意味もなく後を追おうと決心する。けれども昇降口は金魚すくいの金魚みたいに人で溢れていて、思うように進めない。そうするうちに僕は彼を見失う。
 彼から遅れてようやく中央階段に到達すると、目前を女子生徒四人が横に広がって、しんどいなどと言いながらとても遅く歩いている。後ろ姿からしてクラスのチャラい女子たちだ。抜かしたいけれど抜かせない僕は、後ろが詰まっているというのにスピードを変えない彼女たちに、少しも声を掛けることができない。(おそらく自分自身への)苛立ちが募るばかりで、最上階の教室に入るころには僕は醜い鬼の形相をしている。これでは女子は寄ってこないし、リア充も遠い。
 自席に座って一限目を待つ間、いかにして僕は女子恐怖症になってしまったのかを考える。一番有力なのは、やはり月経の存在を知ったせいだろう。人は自分の知らない世界を怖れ、初めてを怖がる。死は勿論、ここを受けるときの入試にしても、そのほか数多くの物事だって同じだ。月経の存在は小学校低学年の保健の授業で習う。けれどもリアリティに欠け、第一に教育を受けるには幼すぎるので、特に男子は話をあらかた忘れてしまう。しかし高学年になると、体育や水泳の授業を見学する女子が出てくる。ここに来てだんだん真実に気づき始めるのだ。そのころから、女子はふとしたことで感情的になり、すぐに泣いたり怒ったりする。僕はしだいに、女子に近づいては迷惑なのだ、と思うようになる 。
 結局のところ、この「迷惑」という推測は間違いなのだ。少なくとも母親とそれなりの会話ができる限りは、「迷惑」だということに矛盾する。僕はそのことをすぐ気づけずに、気づいた頃にはもう遅かった。後はいつ、勇気を出して開き直るかだ。僕の場合はいまだ堅い殻のなかだ。いつか。いつ? ただひたすらに(自ずから)その時期がくるのを待っているのだ。自席で川端康成の文庫本を読みながら。

 七限目の終わった後、図書室に向かった。カウンターには司書のおばさんが座っていた。よく太った、脂っこい食事が好きそうな女性である。
 一番奥の世界文学のところを通ると、思ったとおりに椅子に腰掛け本を読んでいる吉岡に会えた。彼は視線だけこちらを向き、「よっ」と短く言った。
「何読んでんの?」
 彼はちらっと僕に表紙を向けて、素早く本棚にしまった。その背を眺めて、僕は彼がウィリアム・フォークナーを読んでいたことを知った。
「ああ、特進はいま終わったんやな」
「うん。疲れた」
 そう言って僕は大袈裟に肩を落とした。吉岡は小さく何度か頷いて、図書館内をうろつき始めた。僕も同様に、足に体重をかけて、のろのろとついていった。
 ちょうど二周したところで、
「帰ります?」と聞かれたので
「帰ります」と答えた。
 僕は彼の自転車置き場へついていった。

 吉岡は絵を描いている。というのも、僕らの学校には芸術係の学科が存在する。彼はそこにいるのだ。
 授業のカリキュラムは僕のクラスと全然違う。ただ体育だけは一緒の講座で、
それを通じて僕らは親しくなった。都会のヤンキーの多い中学からやってきたから、彼もやはり友達がなく、高校生の大人しさと彼女のいない侘しさに不満を覚えている。そういうところから馬が合い、僕は彼と、この学校で唯一と言ってもよい、まともに話せる間柄になったのだった。
 芸術係は主に絵の書き方を習うらしい。けれども吉岡は授業中以外にも、小さなスケッチブックに絵を描く。描かれるのはもっぱら女性のヌードである。それもだいたいにおいて巨乳の女性だ。吉岡はそういう問題に関して驚くほどオープンだ。
彼の魅力は他にもあって、それは孤独を孤独と思わせない過ごしかたをしているということだ。
例えば移動教室のとき、彼は決まっていちばん最後に動く。シャツを出して堂々と、自分が独りであることを誇るように歩く。だから僕のように、顔だけ知って友達ではないグループ二つに挟まって、一人縮こまって歩くという苦難が起こり得ないのだ。彼はその回避を無意識のうちにやってのける。

「それでどうすか。新しいクラスは」
吉岡の声は、屈託したような、だるそうな声だ。とてもゆっくりしたペースでものを言う。
「まだ慣れへん。仲良い友達いいひんし」
「そのうち慣れるわ。芸術係みたいにさ、クラスが変わらへんよりましや」
 僕は歩く。吉岡も歩く。彼は自転車を押す。
 太陽が暖かくて人々に春だよと伝える。名の知れぬ小鳥のさえずりが聞こえる。ゆるやかな上り坂には制服を着た男女があちらこちらで佇んでいる。
「それよりさ、青木は今年さあ、安川さんと同じクラスやろ?」
「ああ、そやで」
 安川莉菜は僕の家の三軒隣に住む幼なじみだ。黒髪はまっすぐ長く品があり、くちびるはいつも白桃色につややかである。僕と彼女の関わりといえば、中学校入学を境にぱっと途切れてしまった。それが今年久々にクラスメイトになったのである。
「吉岡、安川さんのこと可愛いて言ってたもんな」
「うん、マジやばいわ」
 莉菜、と呼んでいた小学生時代が僕の心に蘇る。彼女の大きな二重の瞳、のみ込まれそうなきらめき……。
「安川さんかぁ。俺の中の思い出は小五のときやな。学校から一緒に帰ってたら、急に黄帽とられてん。他にも知り合いがいっぱいいたけど、みんな莉菜に
加勢すんねん。だから俺一人で帽子追いかけても、他の人にパスされて……」
 吉岡は愛想程度に笑ったが、少し経ったあと、
「りな?」
 僕は急に済まない気がして、うんと静かに頷いたあと、それきり話す言葉を失ってしまった。
「……昔は仲良かってん」
 ようやく絞り出した声で僕は自分の心臓を強く痛めた。いま偶然に彼女が現れても、僕は絶対に莉菜とは呼べない。それなのに変な意地を見せようとした自分の小ささ。
僕らはしばらく無言で歩いた。僕は通り過ぎる車のナンバーを一台一台見て歩いた。そしてその数字を足してみた。こんなときは目で見る景色がいたずらに鮮明だ。
 吉岡がコンビニに寄ろうと言った。

 歩きながらチキンを食べる。ジューシーな肉はコショウのかかった外皮よりも中が熱くてたまらない。
「熱っ」と言った僕の声を全く聞かず、吉岡は通りかかった進学塾の前に立ち止まって、貼り出された広告をじっと睨んでいる。溜め息をついて近づくと、
「青木はさ、大学行くの?」
 途端に勉強のことを思い出して、僕は憂鬱な気分になる。
 そうだった、そうだった。僕の生活は勉強を主体に回るのだ。辛く厳しく、もとより理由の見出だせない勉強。楽しくない宿命。生きるためにもっと大事なことがあるだろう、と常々思う。
 中学のときはそれなりに楽しかった。テストは毎回平均以上。ろくに勉強しなくても一夜漬けでなんとかなる。けれど今は、そうはいかない。国語以外は残酷だ。だから勉強が嫌なのだ。逃げているのは分かっていても、逃げてはいけない理由が分からない。
「うん、やっぱり行きないなあ」
「就職するには大学出なな。まあ、俺は行ける気せんけど」
「吉岡はでも芸術のほうやろ。頑張れよ」
 ひと呼吸置いたあと、彼は、「ああ、俺らは何なんやろな」
 先程までじっと貼紙を見ていた吉岡が、今は眼を見開いて、深く僕を見据えている。
「なんかさ、時代に流されてる気がするわ」
「……というと?」
 吉岡は無言で歩き出す。僕も並んで歩く。チキンをかじろうとして、やめる。カラスの鳴き声がうるさい。
「どうせさ、運よく就職したとしてもさ、毎日パソコンに向かって働いて、時には営業行って、残業しまくって、居酒屋で愚痴叩きまくって、キャバクラではしゃいで金捨てて、そんな型にはめられた人生やで。そう思うとなんかさあ……」
 彼は下を向いていた。僕は彼を見ていた。
「うーん。でもおそらく結婚するやろ。それは幸せやん?」
「確かにそれは幸せかもな。でもなんかさ、有り触れた幸せやん。俺は子供のころから絵ばっかり描いてて、お前は天才や、啓太ちゃんはピカソやとか言われながら育ってん。親とか親戚の叔母さんとかに。あ~あ、勘違いもええとこやな。子供はそうやって過信して、小さいときから自分は特別な道を歩むんや思って……でもほんまはまったく違ってて、嘘やって、ほんで挫折するんやな」
「……なるほど」
「なんていうかさ。まあ平凡もいいんやけど」
 少しの間のあと、
「俺にもし子供できたとしてもな。甘やかさんと、厳しく育てよう思うねん」
 僕は激しく同意する。小学校の、周りからすごいすごいと言われ続けた、百点ばかりの答案を思い出す。あのころは自分の才を疑わなかった。莉菜の家へ行って、勉強を教えたこともあった。莉菜のお母さんはいつも「和哉くんは天才や。うちの莉菜をよろしくな」と言った。僕は顔を赤らめながらそれでも大いに納得していた。

 チキンを食べ終わるころには、もう僕の家のすぐ近くまで来ていた。水色公園の前で僕は思い出したように口を開く。
「あのさ、前から思ってたんやけどさ」
 吉岡は無言で、「なんだい?」と言いたげに眉を吊り上げる。彼の顔は関西人ぽくないから、初対面の人が彼の声を聞くと角度にして十五度くらいの違和感を感じるのではないかと思う。僕は笑顔で言う。
「吉岡ってなんで女の裸ばっかり描いてんの?」
 彼は瞬間こちらを見て、それから正面に視線を戻す。……沈黙。彼の作るこの闇に僕は耐えられない。続けて尋ねる。
「好きやから?」
「……まあ、そんなところやな」
吉岡は前を向いたまま、まるでそんなことはどうでもいいといった様子で、
曖昧に答える。僕はひとまず相槌を打つ。
「風景画とか書かへんの?」
「うーん」
 彼はこちらを見て、微笑む。
「昨日の夜はレモンの絵を書いてたで」
「レモン?」
「梶井基次郎の小説であるやん。『檸檬』。ちょうど京都の話で身近な」
「あれやんな。本屋に本積んでレモン置くやつやろ?」
「まあそやな。そういうの美しいよな、限りなく。ほんでさ、俺の場合はお袋にスーパーで買ってきて貰うんやけど、だから部屋にはいっつも二三個飾ってあるで。いい香りするし」
「へえ。素敵やな」
「そうやろ。じゃあ今から買いに行こか。青木チャリ取ってきたら」
「何処まで行くの?」
「学校の近くに青果店あるやん。あそこ」
「なるほど。小説みたくな」
「オッケー。じゃあここで待ってるわ」
 僕が行こうとすると、
「なあ、安川さんの家どこ?」
 わざと無視して早歩き。

 自転車の運転にかけて僕は絶対の自信を持つ。
 中学校のときサッカー部の練習試合でしょっちゅう隣町まで漕いでいた。二三年が前と後ろから真ん中の一年を挟んで、かなり速いペースで走行したから、まだ身体の出来上がっていない年齢なのに毎回歯を食いしばって運転した。途中で足が疲れても息が切れたとしても後ろに迷惑がかかるから止まることができない。そんな緊張感のある環境下で僕のサイクリングテクニックは否応なく上達した。
 そういうことで言えば吉岡も決して下手ではない。僕らは国道を信号のないところで横断して、トラックにクラクションを鳴らされながら、青果店のある小道に入った。国道とは打って変わって交通量が乏しく、買い物帰りの主婦が忙しくママチャリで走っている以外に人は見当たらなかった。
 さてもう少しでたどり着くというところで、僕は密かに羞恥の心を感じはじめていた。普段馴染みのない場所に高校生が行くことはあまり落ち着くことではない。自分が些か変ではないかと思えてきた。みんなと同じは一番嫌なはずなのに、そうやって客観的に気にしてしまう。おそらく恐れているのは店主との会話なのだ。自分ではっきり気づいているが、認めたくない。
 ちょうど吉岡も似たような感情を抱いていたのだろう。電信柱の横で急にブレーキを踏んで、足を地面につけた。やや後ろを走っていた僕もほっとして止まった。吉岡が迷ったような微笑を僕に投げ掛ける。
「マジで来てしまったな」
 僕は無言で頷く。
「マジで行くん?」
「どうする?」
「……待って、考えるわ」
 そう言って吉岡は目をつむった。彼の長髪が風で靡いた。
 そのまま一分が過ぎた。
 吉岡の体制は一分前のそれと全く同じなので、僕は勇気を振り絞って(もしくは沈黙の重みに耐えかねて)、店へと向かった。少しして後ろから自転車の音がしたので安堵すると同時に、「山田青果店」と大きくかかれた店の前に来てしまった。
 僕らは、列車がホームに止まるようにきっちり停止して、ゆっくり自転車を降りた。エプロンをしたおばさんが「いらっしゃい」と言った。
 店にはあらゆる果物が並んでいるようだったが、よくみると少しずつ種類が違うだけで、だいたいが林檎かミカンだった。隅っこにはブドウやナシ、バナナなどが置かれていた。甘い、みずみずしい香りが鼻孔いっぱいに広がった。
 一瞬の間に僕は呼吸を整えた。そして一息に言った。
「すいません。レモンってありますか?」
 おばさんは僕を見ながらの微笑みを止めて、考えるふうに斜め上を向いた。そうしてレモンか……と何度か呟いた。吉岡は静かに林檎を見つめていた。
「うーん、レモンはいま無いのと違うかな。ごめんな、置いてないわ」
 そうですか分かりました、と言った声に失望のかけらは混じっていただろうか。
 おばさんは林檎なら沢山あるのでいかがですかと言ってきた。僕は吉岡を見て、吉岡は僕を見た。その目に意思はなかった。
「買います」
「あ、僕も」
 おばさんは満面の笑みになって、
「毎度。どれにします?」
僕らはそれぞれ木箱に「ふじ」と書かれた林檎を手にし、おばさんに渡した。
真っ赤に熟れたその果実は他に比べ大きいのに安かった。
「じゃあ八十円ずつですね」
 僕らはそれぞれ百円を出した。二十円ずつ返ってきた。袋は断った。手で持ちながら店を離れるとおばさんが大声で「毎度おおきに」と言った。
 そのとき僕は、働くって素敵だなと思った。バイトしようかなと、漠然と思った。僕は林檎を服で擦ってから、思いきりかじった。

 自転車を押し、林檎を頬張り、僕らは歩いていた。変な重圧から解放されていい気分だった。甘みと酸味を噛み締めながら、僕は唐突に尋ねた。
「吉岡、フォークナーって誰?」
 あまりに突然だったので、彼は危うく林檎を落としそうになった。少しの間――図書室の光景を思い出すために――考えて、「ああ」と言った。
「まず、なに人?」
「アメリカ人」
 彼は林檎を再度かじり、
「二十世紀で俺は一番やと思ってる」と咀嚼しながら言う。
「一番……何?」
「偉大」
「アインシュタインより? ジョン・レノンより? ピカソより?」
「いや、違う。一番偉大な作家ってこと。だいたい分かるやろ」
「プルーストより?」
「そう。プルーストよりジョイスよりカフカより。何よりさ、新しいねん。時間を組み換えるなんて過去に誰が考えた? 人種差別の見事な描写、独自の町の独特の世界。あんなのは人間の成す業じゃない……と思う」
 なるほどと僕は言う。
「何作品ぐらい読んだ?」
「うーん、三つぐらい。なかなか日本語訳が少ないからな」
「他に好きな作家は?」
「十九世紀ロシア文学はやっぱりすごい」
「ドストエフスキーとか?」
「えっ? そう、あとトルストイとか」
 ふぅんと僕が言ったきり、会話が途切れた。僕にはついていけないと思った。そして相手もなにか無理しているようだった。林檎がとても美味かった。
「そうや!」
 吉岡が立ち止まった。
「青木さ、この間俺の絵欲しいって言ってたよな? あげるわ」
 僕は以前に会話の成りゆきで、絵が欲しいと言ったことを思い出した。
 僕が答えを憚っているうちに吉岡は自転車のカゴの中のスポーツバッグを開いてノートを取り出した。授業に使う大学ノートには雑な字で「生物」と書かれていた。
 彼はノートを開いて、折り目をつけて一枚きれいに破った。慣れた手つきだと思った。描かれた絵は意外にも色がついていた。
「タイトルは?」
 眉を寄せてうーんと唸ったのちに、
「『たたずむ女の子』ということで」
「たたずむ女の子……」と復唱して僕はヌードの絵を見た。僕はカバンからファイルを取り出して、丁寧にその美しい紙切れを挟んだ。
 
 もう暗くなった帰り道、水色公園のベンチに若いサラリーマンがうなだれて座っていた。おかげで街灯の照らす小さな公園は途方もなく悲壮感が立ち込めていた。僕は見て見ぬふりで高速にその場を通過した。
 莉菜の家を通り自宅に自転車を止めたときには、うちのリビングから発せられた電気の明りにほっとした。

     三

 湯の沸く単調なリズムを聴きながら、カップの底にインスタントコーヒーの粉末とクリープを落とす。クリープの容器の蓋をしめ、キッチンの棚にしまうころには、やかんはまるでデパートのおもちゃ売り場で泣き落としに挑む子供のように暴れだしている。
 湯を止める。するとそこには寝静まった沈黙がある。時計の針の音がひとり寂しそうに徘徊している。僕は沈黙の音を聴く。
 湯を注ぐ。湯気を立てて生まれくる液体。スプーンでゆっくり掻き混ぜると、穏やかな白に和まされたコーヒーの色が柔和に浮かぶ。
 僕は流し台のうえにある角砂糖の入った瓶をあけ、ひとつ摘んでカップに入れる。無言のうちにそれは溶けゆく。
 豊かな豆の匂いがする。
 キッチンの窓には漆黒の闇が映る。深夜の空気は重く、穏やかだ。
 寝巻の上から半纏を羽織って、僕は机に向かう。引き出しから紙と原稿用紙を、ペン立てから万年筆を取り出す。
 紙には小説のメモ書きがある。僕は紙を見つめる。僕は作家になりたい。書こうと思う。書かねばと思う。この世界を創作で表現しなければと思う。動かない闇で見えない未来と闘っている。
万年筆を手に取って両手でいじるのだがこれがまさかの超能力で原稿用紙がみるみる埋まる、というはずもなく、ただただ無意味でしかない。仕方なしにキャップをはずす。神聖な動物の角のようなペン先の黄金を拝む。そしてまたキャップを閉める。徒労である。力のいらない徒労である。
 もう一度はずして、今度は紙にペン先を落とす。藍色の滑らかな線がA4サイズのコピー用紙に僕の手から生まれる。その鮮烈がたまらない。僕はもう一度キャップを閉める。
 カップを握ってコーヒーを飲む。甘く苦く、音楽のようにそれは僕を落ち着かせる。一口飲んで溜め息をつく。そうしてカップを握ったまま視線を上げる。
 学習机の上段には何冊かの書籍がある。どれも過去に感銘を受けた小説ばかりだ。僕は常に本を読む。活字を一日でも読まないと何か身体が変になる。けれども主に小説しか読まない。虚構の芸術を僕は好む。
 綿矢りさの「蹴りたい背中」を開く。去年の夏に吉岡からもらった、表紙が日に焼けた単行本だ。退屈な夏の一日に、昼下がりから夕暮れにかけて一気に読んだ。そのときはただ本棚の肥やしになるだけであろうと思われた。第一に著者のビジュアルで譲り受けたのだ。
 適当にページを開いて拾い読みを始めるが、そうするだけで時計の長針が一周する。カップのコーヒーはとうに尽きて、ペンは全く動かず、ただただ焦りがつのるばかりで、そして美人の才に感嘆する。にな川に自分を重ね合わせて、ハツのような存在に憧れながらページを繰ったのは今日ばかりではない。本棚から机上段に移されて以降毎回だ。僕は静かに本を閉じる。
 携帯を開くと午前一時だ。家族は当然のように寝静まっている。ゴールデンウィーク初日、何ひとつ予定のない人生。
作家になる? そんなこと、可能だろうか。休み時間に自席にいると将来のことを語るクラスメイトの会話が聞こえてくる。教師になるというのが僕のクラスで最も多いらしい。他にも公務員とか、理系の人は医師とか看護師とか……。しかし僕は思う。一体高校生の段階で、果たしてどれだけの職業を知り得ているだろうか。江戸時代なんかは、農民の子は農民、武士の子は武士であるはずであった。いつからか日本人は将来どんな職種にもつけるという権利を与えられ、それゆえに夢を追うニートも増えたのだろうが……。はっきり言って、僕が知り得る職業というのは、いつも間近に存在している教師だけである。そのほか、職業柄ゆえに知ることができる作家、歌手、芸人、女優、声優、政治
家、エトセトラ。そしてサラリーマンである。それ以外に、仕事に関する接点がないのである。例えば僕は食用の牛肉を誰が殺すのか知らないし、万年筆の金の部分を誰が採掘しているのか知らない。 僕はミュージシャンに憧れがあるし、お笑い芸人にも憧れがある。YouTubeで歌唱や漫才を見る度に、ああ俺もこういう風になりたいなと思う。けれど自分には無理だ、と分かっている。それはきっと、何もしていないからだ。ギターを弾かなきゃ学校でギャグも言わない。しかし小説は書いている。だから、目指しているのだ。きっと有名になってやる。僕はそれしか考えていない。孤独が嫌なのかもしれぬ。現実逃避かもしれぬ。しかしそう信じてはおしまいである。僕は何にもなれなくなる。
 下半身がむずむずする。携帯は僕をそちらへと誘う。
 吉岡の描く、女の反り返った乳首が、鮮やかな赤となって脳裏をつく。そうして僕は、仕方なしに、裸の画面を求めるのである。

 ベッドに入り、萎えと快感の不気味なジレンマをさ迷いながら、真っ暗な中にウォークマンの光りをともし、ボブ・ディランを流す。社会に対するシンガーの声は今日もいつもと相違ない。
 僕は考える。この先何度、同じように疲れはて、見えない天井を嘆きみるのであろう。

The answer, my friend, is blowin' in the wind,
  The answer is blowin' in the wind.

  その答えは、友よ、風に吹かれている。
その答えは 風に吹かれて 誰にもつかめない

さて、いよいよ疲れてとめどなく耳鳴りがするようになっても、睡魔は一向に訪れない。キーンという音は孤独の音だろうか? 僕は障子を少し開けて外を見る。
 二階から見える住宅街の道路は静まりを見せる。酔っ払いはひとりもいない。向かいに連なる四軒の家々は一番左の家だけ一部屋に明かりが点いている。若い夫婦が住むその家の、白いカーテン越しに浮かぶ明かりを見つめて、僕はよこしまな想像に耽る。そうだ、長期休暇なのだ。
 空を見ると、真っ暗な闇夜のなかに、くっきりと月が浮かんでいる。もう少しで満月になりそうな(もしくは少し前にそうであった)、八分目の月だ。こんなものかと思った。
 高校生は昼間にリア充を繰り返す。若い夫婦は夜を徹して愛しあう。フォークの神様はしゃがれた声で唄い続ける。美人作家は僕の心を落ち着かせる。そして僕は夜を眺める。働きもせず勉学にもはげまず、静かな平和な世界を眺めて、勝手に悲しんでいる。いましがたマスターベーションを終えたばかりの、力の無い眼差しで。
 今日のような夜を僕はこの先何度過ごすことになるだろう! 休みはまだ四日ある。人生はこんなものなのだろうか? クラスでは勉強できず、運動部にも入らず、アルバイトもせず、己の才を過信する机の上でもペンは動かず、ただただ高級万年筆が泣き続け、それでも僕は裸の女を思う。
 ひどく唐突に、そして恐ろしいほどに、死にたいと思う。この世から消えてしまいたい。世界が終わってほしいと思う。
 仕方ないからスマホを開いて、インターネットのニュースを見てみる。画面にうつるニュースというのは端から端まで偏っていて、それに影響された幼稚なコメントにも腹が立つ。ほとんどが芸能関係で、不特定多数の一般人が威張った立場で否定的なコメントを書いている。そしてだいたいにおいて、「マスゴミ」というなんだか訳の分からない用語が使われている。僕はこの無数とも思える似通りあったコメントが、すべて僕と同じような境遇のものによって生み出されているのだといつも思う。そのくせ記事に引き込まれて、賭博のようにはまってしまう自分はいったい何なのだろう。
それでも僕は、続けて掲示板を見ることになる。
最も僕を感嘆させた書き込みの作者ほど、一般社会では残念な人であるのだと僕は思う。そして僕もその中の一人。底辺と呼ばれる、そのくせして最も人口の多い、ピラミッドの黒塗り。そこはドロドロの液体が溢れていて、みんながみんな闇の中で頂点の黄金の輝きを眺めている、そのせいで足元が見えない……。溺れているのだ。
文学を読んで、俺はこいつらとは違うんだ、と思いたがっている。でも本当はどんぐりの背比べなんだ。あるものはロックに惹かれ、あるものはアイドルにのめり込み、あるものは非行に走る。けれど心のどこかで自分が平凡にして最低なことを知っている。それでも、より下の、水底に這いつくばって生きている者たちを覗いては、安心感を抱いている。
そんな自分は嫌だ。特別でありたい。みんなそう考える。至極当たり前のことなのだ。
これが現代なのだ、平和の証なのだ、と僕は納得する。
 そうか! このことを書くのだ。この他人指向型のモラトリアムこそ、僕が真に描かなければならない命題なのだ。
 僕は栄光の壇上に想いを馳せ、再び机に戻る。しかし頭に浮かぶのはプロットでもストーリーでもなく、忘れていた宿題の存在だった。僕は今度こそ意気消沈して、頭を垂らしながら、ベッドに引き返した。ああ、人生はなんて酷なんだ、とそのとき思った。
 ふいにいつか吉岡がフォークナーを読んでいたことを思い出した。村上春樹「ノルウェイの森」に彼の名前があった覚えがあったので上巻を本棚から出してペラペラと繰った。ところがいつまで経っても見つからず、もしや下巻かと思うころには眠気がして何より喉がカラカラだった。
 コーヒーのカップを持ってキッチンに降りた。冷蔵庫から2Lのミネラルウォーターを出して、グラスに注いで飲んだ。想像以上に美味しくて哀しくなった。
 桜井先生のことを考えながら、僕は浅い眠りについた。

     四

僕は夢を見る――。

森の奥、新緑の木々を掻き分けて、僕は進んでいく。真っすぐに前を見据えて横は向かない。
 しばらく行くと地面が芝に覆われた平地に出る。そこには一軒の家がある。ニスがてかてかに塗られたログハウスだ。
 僕は引き寄せられるように、軋む丸太の階段を上り、入口の扉を押す。するとそこは思っていたより広い。
 中央に、縦長の大きなログテーブルが二つあって、奥のほうに小さなテーブルがある。桜井先生は小さなテーブルの椅子に座って、じっとこちらを見つめている。
 彼女は浴衣を着ている。茶色い髪は長くて、紺色の模様が入った白い浴衣に似合うように結ってある。
 僕は子供である。桜井先生も今よりもっと若い。彼女は微笑みながら僕に尋ねる。
「他の子たちは?」
「みんな川に行ったよ」
「そっか。じゃああたしたちも遊びに行こっか」
 僕は彼女が立つのを待つ。彼女は扉に向かって歩く。僕は彼女とすれ違う。すれ違う時うっすらと香水の匂いがする。白い花を思い出させる、爽やかな匂
いだ。
 彼女のあとから外に出る。軋む丸太の階段を降りて、平地の芝の地面を歩く。僕はやはり彼女のうしろに附いている。やがて端のほうにやってくると、僕らは大きく息を吸って、深い森へと入ってゆく。
 僕は彼女のうなじを見る。若さの中に言いようのない美しさが篭っている。僕の足は浮いてるようだ。
 やがて僕らの前に、横向きに流れる小川がある。
 ヤマメの泳ぐ透きとおる清水は、川底の瑠璃色や琥珀色に光る岩々まで透けて見え、その堀の砂利の中に五六人の子供たちが衣服を濡らして水浴びをしている。
 そのうちの一人の女の子が両腕をいっぱいに拡げて大声で僕の名前を呼んでいる。僕は少女が莉菜であるのかと考える。そうであってほしいと思うが、本当はそうでない。
 桜井先生が「みんな集合!」と叫ぶ。子供たちは集まって、一斉に衣服を脱ぐ。もちろん僕も脱ぎ捨てて、太陽の光り輝く清水のなかに、凄まじい勢いで飛び込む――。
 水が冷たい。顔を上げると、桜井先生が、小川に足だけつけて、静かにこちらを見ている。僕は言う。
「お姉さんは泳がないの?」
「うん。お姉さん見てるだけで楽しいの」
 僕はまた潜る。水の中で目を開けると、他の子供も鏡みたいに同じことをしている。
 僕らは叫び、泳ぎ、楽しむ――。

     五

朝、というより昼前だったが、起きると誰もいなかった。両親は仕事、弟はおそらく遊びに行ったのだろう。身体が重く水に浮いているみたいな感覚があった。
 起き上がってキッチンへ行って冷蔵庫を開き、卵とバターと牛乳を取りだした。僕はプレーン・オムレツを作ろうとするのであった。
 昔読んだアルベール・カミュの「異邦人」に主人公が卵をたくさん焼いて鍋のまま食べる場面があった。ボウルに卵を溶きながら僕はそのことを思いだした。彼は果たして何を食べたのだろう? オムレツか、目玉焼きか、……。あれは確か市立図書館で借りたのだった。
 フライパンにバターを敷きながら、学校の宿題を持って図書館へ行こうと決めた。

「そうやって本のページを開くということは、結局、現実から逃げているんだよ」
 くぐもった声はそう言った。僕は見知らぬその声にカチンときて、すぐさまカミュを閉じてやった。卵を食べる場面は見つからなかったけれど、一生探すもんかと思った。
「ごめんって、そんなつもりじゃなかったんや」
 僕の眉間のしわに気づいてか、相手はすぐさま謝罪の言葉を口にした。
 顔を上げると吉岡啓太が申しわけなさそうにこちらを覗きこんでいた。
「なんや吉岡やったんか。なんでここに?」
 彼はいつものだるそうなスローペースに戻って、
「いや、読書するために。でも、もう飽きたわ」
「お前も読書好きやんな。そら。なんでさっきあんなこと言ったんや」
「その……ちょっとからかってやろうと思って。ほんま、悪気はなかったんや。ごめん」
 僕はまだ心が煮えていたが、彼が反省しているのでこれ以上は言わないことにした。吉岡はいい奴だけど時々訳が分からなくなる。
 その後二十分ほど各々読書に耽ったあと(吉岡は飽きていなかった)、僕らはそろって図書館を出た。窪田啓作訳はこうだった。

自分で、卵をいくつも焼いて、鍋からじかに食べた。パンが切れていたが、部屋を降りて買いに出たくなかったので、パンは我慢した。

なんてことはない。ただの短い文章だ。その一行の、それも遠い過去に読んだ文章が、長い時間を経て僕の午後を決定づける力を発揮したということだ。思うに文学は、きらめくような可能性に満ち溢れている。
(ところで、結局ムルソーは卵をどう調理したのだろう?)
しかし卵の描写ばかりが印象に残っていた「異邦人」であったが、解説を読んでみると世界文学史上に強く名を刻んでいたことが分かる。そこで僕は考える。だからといって、果たしてガリ勉のK高校二年三組の生徒のなかで、一体何人がカミュを知っているだろうか。恐らく、そう多くはないのではないか。想像すると悲しくなった。
フォークナーを知っている吉岡にカミュを知っているか聞くのはさすがに失
礼であろう。僕は昨夜携帯でニュースを読んだ話をした。吉岡はこう言った。
「読者のコメントだってさ、ほんまはさ、マスコミ側が勝手に作った意見かもしれんで。一般人のニートじゃなくてさ」
 彼の家が近かったので、特に目的を持たぬまま、二人はそこへ向かうことにした。

 吉岡が着替えるといったので、僕は陽の当たらない玄関のベンチに座って彼を待った。どうやら僕に家へは入れたくないらしい。しかしこの気持ちはよく
分かるのであった。僕は机の引き出しに小説の構想のメモ書きを入れている。それを見られるのは嫌だから、なるべく家には入れたくない。僕的にも人の部屋で気を遣うより、外の空気を浴びていたかった。
野球の軟式ボールが落ちていたのでそれを上に放ったりして待っていた。坂道を上ってきたので僕はうっすら汗を感じた。吉岡家の白い門越しに見える前の道路では、小学生の男の子と女の子がカップルみたいに楽しくはしゃいでいた。
 三年生ぐらいだろうか、男の子も女の子も可愛かった。二人は自転車に跨がって道路を端から端まで何周もくるくる回っていた。自転車を漕いでるだけでよくそんなに楽しそうにしていられるなと思った。おまけに道路は陽がじかに当たって暑そうだ。
 好きな人となら、何をやっても楽しいのだろうと僕は思った。女の子は白いキャミソールにデニムのパンツをはいて、長い髪はポニーテールにしていた。男の子のほうは半袖のワイシャツを着ていて、とても賢そうに見えた。僕は少しだけ桜井先生のことを考えた。先生は彼氏がいるのだろうか? いるのだろうおそらくと僕は思った。
 本当は三年生よりもっと若くて、ほんの最近自転車が乗れたとこなのかもしれない。吉岡が出てきたら聞いてやろうと思った。
 三年生だとしても、歳にすると八か九なのだ。僕はもうじき十七になる。こう考えると僕は随分年寄りだし、将来に大した希望もないように思えた。
 ――太陽がにわかに傾き始める。
 あの子たちはこれから何にでも成れる。その権利をまだ持っているのだ。僕にはもう無限の選択肢はない。もちろん過去にはあったのだ。けれどそれはどの時代のどの国の人にもあった訳じゃない。僕はそれを棄てたのも同然なのだ。そして今、自分の半分の歳の子に、強い憧れを見るのだ。彼らの日焼けした清純な肌はいま黄金に照り輝いている。

 吉岡はまだ出てこない。おそらくシャワーを浴びているのだろう。子供たちはようやく運転ごっこに飽きたと見えて、二人とも向かいの家に入ってしまった。
 太陽はいま雲に隠れて姿が見えない。半袖の露出した腕を手でさすって、僕は途端に暇になった。
 携帯でニュースを見ようかと思ったが、マスターベーションと同じように萎えると思ったのでやめた。変わりに電卓で計算を始めた。
 一ヶ月ほど前に、生物の授業で、人間はいくつの細胞から出来ているかという問いがあった。僕は一番前の一番端の席で顔を腕の上に乗せてその問いを考えていた。教師は、
「およそ六十兆個と言われています」と教えた。
「きっと想像のつかない数でしょう。それもそのはずです。今からイチ、ニ、サン、シと数えだしても一生数えきれないのですから、」と。
 僕はそのとき、いつか途方もなく暇な状況になったら、計算してやろうと考えていた。そして途方もなく暇ないま、そのことを思い出した。僕は計算した。
 一秒間に1カウントしたとして、それを七十年続けたとしたら、二十二億と少しだ。もちろんはじめのうちは一秒間に1以上たやすく言えるだろうが、数が大きくなるに従って1言う長さもうんと変わる。「キュウオクキュウセンキュウヒャクキュウジュウキュウマンキュウセンキュウヒャクキュウジュウキュウ」なんて、滑稽だ。しかし僕はこの瞬間、人生ではじめての強い衝撃を受けた。
 死ぬのがこわい!
 そうだ死んだら全てがなくなるのだ。たとえいま必死で勉強して、東大に入って、そのまま総理大臣になったとしても、いつかその事実はもう自分では意識できないようになってしまうんだ。それも、地球の人口よりうんと少ない秒数しか経たないうちに、そんなに短い生涯において!
 ならばなんの為に生きているのだ。なぜ生きるのだ。なぜ斜陽は輝くのだ。なぜ少女は笑っていられるのだ。
 ああ、何をしても無駄だ。どうせ死ぬんだ。いくら頑張って生きても、死んだら何もないんだ。いくら人に影響を与えても、それを知ることもできずに墓の下に失せているのだ。
 死ぬのがこわい。昨夜死にたいと思ったのは何だったのか。おそらく異常だ。いや、この人生こそが異常だ。
 ようやく吉岡が出てきた。
「ごめん青木、俺さ、これから用事あんねん。大事な用事やけど忘れてた。だ
から悪いけど、帰ってくれる。わざわざ来てもらったのにごめん」
笑顔で了承して僕は自転車にまたがったが、恐怖の感情を慰めてもらおうとしていたばっかりに、余計に寂しくなってしまった。

昼間の水色公園、若い女性がベンチに座り、小さい女の子が砂場で遊んでいた。母親はスマートフォンしか見る目がないようで、子供が「あっ」とか「きゃ」とか叫んでも「こら、気いつけや」を連呼するばかりだった。それでも瞳は液晶を見ていた。
莉菜の家を通った。僕は「死」ばかりを見ていた。
   
     六

催眠術。どのくらいの人間がその存在を信じているだろうか。
 先に断っておくが僕は幽霊や宇宙人など科学的根拠のないものは信じていない。けれども催眠術は信じる。というより今まさにかけられているのだから疑うほうが滑稽だ。数学という名の禿げた教師の授業の声は、いかめしき妖術の白眉なのである。
 すぐに名指しで注意されるからどうしても机に伏せることができない。頬杖をついて目を閉じる。頭の中で睡魔が僕に暗示をかける。僕のまぶたは重く、どこかでなにかが鳴っているように思う。とても低く断続的な音で。そして終わらない授業に最高の退屈を感じ、ぼうっと炙られた焦燥を手にする。
 自由になりたい。帰りたい。寝たい。中学の友達と、どこかリゾート地でも行って、のんびりしたい。いや、それほどの多額な資金は僕にはないのだ。いよいよアルバイトが必要かもしれない。

「死」について僕はもう敏感ではなかった。だいたい多くの人はごく小さい頃――幼児か、遅くても小学校低学年の間――にそれを経験して、母親の身体に抱き着くのだった。そうして母の愛で恐怖から抜け出せる。覚えている範囲で僕にそんな経験はなかった。
 恐怖を忘れたのには大きなきっかけがある。それは桜井先生の古典の授業だ。
 鴨長明の「方丈記」をやった。
『ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。……』
 である。彼女は言う。
「まあ、あたしなんかでも、今日無性にケーキが食べたいななんて日があるわけ。ね? でもいざ仕事終わって、よし、ケーキ屋行こう! としたら、なんかもう食べたくなくなってさ、さっきの欲望は何だったんだ! みたいなこと、あるやん? あ、ないか。あたしは結構あるんやけどな……」
「まあ、人間の気持ちってね、気分とかで変わりやすいやん。あたしみたいに(笑)。それと同じようにさ、人の住まいも移り変わるし、もちろん川の水も移り変わる。うーん、同じではないか……。まあでも、言いたいのは諸行無常ですね」
 美女との会話ひとつで気分ががらりと変わる男子高校生にとっては、彼女の言うおよそ当たり前な講義には素晴らしく納得できる節があった。なるほど人間の考えなんて断続的なものなんだ。
 そのうち考えが変わるだろう、少なくともよぼよぼの爺さんになるまでに無数のことに思いを巡らすだろう。「死」のことはそうなったときに考えればいい。それまでに今考えなければならないことは山ほどある。三角関数、クラスになじむ方法、彼女を作る方法、そのほか沢山、……お金を稼ぐ方法も。
 かくして僕はこの世で最も普遍的思想、「死の恐怖」を克服した。

 それからじめじめした雨期を越えて猛暑を迎えるまで長く退屈な日々を過ごした。部活もバイトも勉強もせずに過ごしたので何かしなければということで必死に小説を書こうとした。書きたいことは毎日現れ、毎日消えていった。芸能界のピン芸人みたいだった。
 ことあるごとに影響された。保健で人間の受精するビデオを見ると、生命の神秘と奇跡を書きたいと思い、断念した。日本人は上下関係をはっきりさせる種族だから、生徒は先生に対して「先生」と、二人称代名詞(「あなた」など英語で言うと「you」のこと)を使わず立場で呼ぶのだと知って、それを批判したものを書こうと思い、断念した。体育でサッカーをやってゴールを決めると快感のあまりスポーツ青春小説を書こうと思い、断念した。すべては一日の終わりの湯船の中で構想を練り、深夜にかけてやってみるのだが、翌日の学校はだるく眠たく、しかもその作品に対する意欲はその日のうちに消え去っているという、残念で不名誉な結果を招き続けた。
 やはりクラスに友達はできなかったが、六月くらいまでは莉菜が僕とすれ違ったときに、「よっ」などと言って手を挙げたりしてくれた。けれど咄嗟に言われるから、僕は低い声で「よお」とか「ああ」とか幽霊みたいに呟いて、彼女の顰蹙を買うというのが毎回だった。だから次第に、お互い伏し目で通り過ぎることが多くなっていった。
 クラスの中でも彼女はとりわけ美人だった。白い肌、整った眉、黒く濃い睫毛、上品な二重まぶた……。細身の体躯に体操服を身につけると、胸元だけが
大きく膨れあがった。
僕が莉菜のことを考えるとき、最早親友が惚れている幼なじみの美少女としか思わなくなっていた。それは自分から莉菜を避けているのであったし、その理由は羞恥と照れ以外の何物でもなかったわけだが……。莉菜はもう僕の知る仲良しの女の子ではなくなっていた。彼女は女だった。化粧もする、脚も組む。
昔の莉菜は顔そのものの美しさよりも、僕との親しさが強かった。姉弟のような、だからこそ好きだった。しかし今は顔や身体の若さ溢れる魅力ばかりが際立っている。おそらく今が人生のなかで最も輝きを放つ時期なのだろう。女の莉菜に、僕はもう親近感を抱けない。この気持ちは無人駅のホームで独り木枯らしに吹かれているように、侘しい。
一方、廊下などで桜井先生とすれ違っても、会話することはおろか挨拶をかわしたことさえ一度もなかった。彼女が僕の名前を知っているのかさえ定かでないようだった。先生は多くの女子生徒や明るい男子とは仲が良かった。僕は劣等感を背負い、それは日に日に重くなり、かくなるうえは期末テストで満点をとって、背中の異物を取り除いてやろう、という思いに変わっていった。それから執筆を投げ捨てて「方丈記」ばかり読んだ。
 そんな長いのか短いのか分からない時間という名の管を通って、知らぬ間に僕は終業式の校長式辞を聞いているのだった。

 しかし、そう簡単に夏休みは来てくれない。
 翌日の午後、僕は母とK高校に向かった。一学期の成績が発表される三者面談である。
 土曜日であった。普段は賑わっている校門近くに人は全くいなかった。
 お茶を買うと言って、母は下駄箱には反対方向の自販機へと向かった。僕は校門付近にひとり立って待っていた。夏の風が冷ややかだった。うら寂しい気持ちがした。
 校門に大型車が入ってきた。僕は少し端に寄った。運転手が知ってる教師なら嫌だと思ったが知らない顔だった。ほっとしていたらペットボトルを持った母が急ぎ足で戻ってきた。

 担任(禿げた数学教師)の一言。
「青木君は天才ではない。普通の人」
「…………、」
「普通の人やからこそ、努力しないとできない。一回やっただけでできる人は天才です。でも僕はそんな人見たことないし、きっと青木君も違うと思う」
分かっているのに、知っているのに動揺した。
(普通の人普通の人普通の人普通の人普通の人)
 言われなくても分かっている。自分だけが特別でありたいという、それ自体は有り触れた、しかし無駄に頑固な劣等感。天才でありたい。変人でありたい。世界を変えたい。
 本当は何もできないと知っているから、つい真反対へ逃げたがるのも、全部分かっている。
 母がそうですよねと相槌を打つ。僕はもう一度通知表を眺める。
 現代文4、古典4、数学2、その他3。
 特進の、それも比較的簡単な一学期にしてこの成績は褒められない。そしてなにより、本気の古典が奮わなかった。
「いいか青木君、『夏はあっという間に来てあっという間に去っていく』んやで。ぜひ頑張ってください。健闘を祈ります」
 ――鯨の呼吸のような溜め息で教師の瞳を見た。夏でも冬でもあっという間なのは自明であると思った。ありふれたさびしい一学期が、ようやく終わったと僕は思った。

     七

イチロー選手が燦然と輝く大記録を打ち立て続ける所以として、毎日同じリズムで生活していることが挙げられる。同じ時間にトレーニングをして、同じ時間にカレーを食べて、同じ時間にユンケルを投入する。彼の場合は天賦の才にたゆまぬ努力が加算されてのリズムであるから素晴らしいのだが、ただリズムだけでいうのなら僕の夏休みも彼に劣らず規則正しいものであったのだと、自信をもって言うことができる。
 毎朝十一時三十分に起床し、顔を洗い着替えをして、正午に昼飯をとる。ほとんど毎日同じもの、平日ならご飯と味噌汁、キュウリの浅漬けにスーパーのコロッケ、鯖の塩焼き、鶏の唐揚げ、ときには納豆などを食べ、土日はパスタや炒飯などを一人作って食べた。サイダーとかブドウジュースとか飲み物をたくさん飲んだ。
 午後は読書をしたり、パソコンやゲームをしたり、書店に行ったり、ときには中学の友達とサッカーをしたりして過ごした。彼らは相変わらずで、彼女なしの良い奴であり続けていた。
 夕食は毎晩七時にとり、その後テレビに大笑いし、宿題に手をつけてみようかどうしようかと悩む作業をこなした。
 毎晩十一時に風呂に入り、キンキンに冷えた麦茶を飲んで、斉藤和義なんかを聴きながら、だいたい一時に就寝した。
 月曜日にはコンビニに行ってジャンプを立ち読みし、火曜日にはお気に入りのドラマを見て、水曜日にはレンタルショップへ出かけてCDやDVDを返した後、また新しいのを借りた。
屋外にいると蟬の声を背に「暑い暑い」と何度も言った。特に一人じゃないときは相手の者とまばたきするのと同じぐらいに言い合ったので鸚鵡だか九官鳥だかに間違えられても仕方のないくらいであった。
 あまりに規則正しい生活だったので一日の少しでも予定が狂うと変に焦った。以前に何度か考えていたアルバイトなどできるはずもなかった。そんな日々はあっという間に流れるのだった。
『夏はあっという間に来て、あっという間に去っていく』
 禿げの言葉に異論の余地はなかった。

 ある月曜日僕がコンビニでジャンプを読んでいると、入口付近から僕の名を呼ぶ低い声がした。見ると推薦で野球の強豪高に入った松下だった。細く剃った眉毛と相変わらずの丸刈りはいかにもチャラかった。片方の耳にピアスをしていた。むき出しの腕にブレスレットが虹みたいだった。彼はこちらに歩いてきた。僕は長身の彼を見上げた。
「おう、懐かしいな」
「和哉ちゃん何してんの?」
 とふざけて聞かれる。
「ジャンプ読んでんの」
「ふぅん。ちょー、元気やった? てか勉強ばっかやろ。疲れるやろ」
「まあな、そっちはやっぱ野球ばっか?」
「ほんま死ぬわ。練習鬼やで、もう」
 その時彼の携帯がなった。僕の知らないレゲエのチャラい曲だった。
「あ、もしもし。うん、え、今コンビニ。うん、もうすぐ行くわ。ほんじゃあ」
 電話の相手の甲高い声は僕にまで聞こえた。松下の彼女だろうとすぐに分かった。
 彼はゴムを買いにきたのだった。夏の太陽照り付ける、月曜の昼間に、それを買いにきたのだ。
 そのことを特に後ろめたそうにするでもなく、会計を済ませ僕に「じゃあな」と言ってそそくさと去っていった。これが松下なのだ。自動ドアのメロディが変に切なかった。僕はジャンプに戻ったが果たして頭に全く入ってこなかった。
 俺とあいつ、青木と松下では住む世界が違ってるんだ。同じ地域で生まれたのに、同じ年で同じ男なのに、どうしてこうもルックスが違うのか。どうして彼はくるりとした目で、俺のほうは細いヒジキなのだろうか。どうして彼はイケメンで、俺はブサイクなのだろうか。
 松下が、他にも、五割ほどの男子が、普通に女の子とメールして、当たり前に青春を謳歌している。うざかった。不公平だと思った。いつもは受け入れていることを、そのとき再確認させられた。
 彼女が欲しいと思う。セックスしたいと思う。キスしたいと思う。手を繋ぎたいと思う。
 そしてそれから、自分が童貞で、キスしたことがなくて、彼女がいないこと、を思い出す。
 結局のところ全て自分に原因があるのだ。その証拠は、今、この悲しさをどうすることもできないこと。僕はますますかなしい。
 こんなときでも蟬は強く活き続けて、太陽は高く輝き続ける。僕は全部がたまらなく悔しい。

     八

吉岡の家は、つつじヶ丘と呼ばれる小高い山を開拓して建てられた住宅地の一軒で、まだ築十年の新しいものである。彼の家へ行こうものなら、角度こそ緩やかなのだが上り坂が長いため、額に汗して自転車を立ち漕ぐことになる。市立図書館を通過したりしてやっとのことで彼の住む白く大きな一軒家に来た頃には、息がハアハア切れ切れである。
 油蟬が飽きることなく鳴いている。僕は慣れた手つきで自転車を停め吉岡家のしゃれた門を開ける。胸の高さほどのそれはやはり白くて、そこから砂利詰めの道を歩き段差を上がると玄関である。
 扉を開くと部屋が三つと木造の階段がある。床は清潔にピカピカ光っている。彼の部屋は入って右手にある。左側がトイレで正面がリビングだから、比較的彼の親に気を使わないでいられるのがよい。知らない大人と接するのは苦手だ。僕はここ五日間、毎日欠かさず通っている。
 さて僕がこの部屋に通って何をしているのかというと、答えは暇つぶしです。
 彼の部屋は閑散としていて、存在するものとしては、ベッド、エアコン、勉強机、椅子、本棚と、窓際に置かれたレモンが三つ入ったかご、くらいである。本棚には多くの外国文学、少しの日本文学と、たくさんの画集、そしてなぜか鳥谷敬のサインの印刷が入った硬球が仕舞われている。なぜこんなものがあるのかと一度聞いてみたことがあったが本人もどうやって手に入れたのか忘れてしまったそうである。野球に全く興味のない吉岡が持っているのはとても勿体ないようで、けれど僕もそれほど精通していない訳で、冷房の効いた涼しい部屋の中で、ベッドに寝転んで天井に向かってそれを投げてはキャッチしてみたり、また画集を開いて鑑賞したりして過ごしていた。
 吉岡はというと、彼は部屋に古新聞を敷き詰めイーゼルにキャンパスを立てて、熱心に油絵を描いていた。凡人には人がいると邪魔迷惑この上ないようだが彼はむしろ独りが嫌だった。彼が言うに描くのは辛い作業だから独りでは挫折してしまうのだそうだ。けれど完成間近だから一番辛い時期はもう通過しているらしい……。今日も僕が訪ねた午後一時の時点で彼はパレットと筆を持ち、絵の具塗りに没頭していた。
「ああ、」
「どうも。おう、大分できてきたな」
 吉岡は林檎を描いているのだった。けれどそれはガラスの器や果物かごにあるのではなく、人の手の中にあった。細く優美な女性の腕。糸のように繊細な指。その綺麗な爪が赤く熟れた大きな果実に突き刺さって、中から汁が溢れている。女性の手は汁にまみれて、僕はその絵に言いようのない官能を感じる。
 その絵は僕に、ここへ何しに来たのだろうと、自分でも分からなくさせる。
「なんか飲む?」
 僕はいらないと言い、勿体振ったような言い方で
「吉岡、君はやっぱり画家になるの?」
「…………、」
「それだけ一つのことに打ち込めるって凄いと思うわ、ほんま」
 彼は静かに重々しく、
「でもさ、まあ俺は全く勉強してないやん。青木みたいに。その分好きなことしてるんやから、なんも考えんと」
 蟬はやはり絶叫を止めない。
「あのさ」と僕は言う。
「吉岡の絵って、ちょー写実的やな。ピカソみたいにさ、キュービズムやったっけ、そういう絵は描かへんの? あとジャクソン・ポロック的な、ぐちゃぐ
ちゃなやつ。俺の好きな」
「…………、」
 吉岡が黙るときは答えられないときだ。
「じゃあさ、誰かのために描いてたりする? やっぱり身を削りながらの作業やからさ、金銭目的とか名声目的ではないやろ。お前のことやから」
「…………、」
 吉岡が答えられないときは図星のときだ。
「ていうかさ、いつから描きはじめたん?」
「……ゴールデンウィーク始まったあたりかな、」
 なるほど僕が必死で書いていたとき彼もやはり必死で描いていたのだ。僕は断念したが彼は順調に芸術を紡いだのだ。誰かに捧げるために。

 いきなり深い沼の底のような溜め息を吐いて吉岡が部屋から出ていったから、フランソワーズ・サガンを拾い読みしていた僕はひとり部屋に取り残されてしまった。「大便だろう」と、気にせずに、無視られたことをうるさい蟬に愚痴っていると、しばらくして湯の入った巨大なカップ麺を持っていかにも幸福そうに帰ってきた。これは自分のものですよと全く嫌味のようだった。自分のみじめさを思うと睨まずにはいられなかった。
「欲しい?」
「いらんわ」
「……あっそ」
 湯気を顔面に浴びせながら吉岡は麺を食った。塩だか豚骨だかの濃厚な匂いがアトリエの中に充満した。しばらくして僕は無念ながらその麺を乞うた。耐えようと思えば耐えられたが時間とともにその意義がかすんでしまった。吉岡は「やっぱり」という目つきで隠し持つもう一つの割り箸を渡してくれた。僕は嬉しい気持ちでカップを覗いた。麺はわずかしか残っていなかった。

 時計が三時を示すと、もう絵かきは仕事をやめて、イーゼルを部屋の隅に押しやっていた。そして静かに僕を見ていた。僕はというとベッドの下に大量のCDがあるのを発見して、箱から出して一枚一枚チェックしていた。邦楽は一つもなく、すべてが洋楽だった。洋楽といってもアメリカ人かイギリス人しかないのであった。
「あ、オアシスやん。これ知ってる」
「おう」
「ノエル・ギャラガーやっけ? この間日本のテレビ出てたで。この人一目で好きになった」
「格好いいしな。もう解散してしまったけど」
「ギターとボーカルが兄弟やったっけ?」
「そう。ノエルとリアム。ギャラガー兄弟は仲が悪いことで有名やな。あと嫌いなバンドを名指しで言うとか」
「素敵やん」と僕は言った。少し顎をしゃくらせると吉岡が笑った。
「ちょー、聞こうや」
「でもラジカセないしさ」
「取ってきてよ」
「青木取りに行けよ」
「えー、俺かい。勝手にいいのかい」
「どうせさ、誰もいいひんって。リビングにあるわ。青いやつ」
 僕はまだ呟いたが吉岡はわざとらしくシカトした。こちらもわざとらしく溜め息をついて、リビングの方へ向かった。先程のカップ麺のゴミが流し台にそのままだった。見つけたラジカセは想像よりも小さかった。
「いやあ、蟬とリアムが合唱してるな」
 とても小さな音で「ホワットエバー」をかけたのでリアム・ギャラガーも油蟬も僕らの声もよく聞こえた。
「洋楽が好きなんやな」
 彼はしみじみ、
「ていうかさ、……全世界が英語を話せばいいのに」
 まあ俺は英語2やけどなと付け足して笑う。その笑顔に僕は強い関心を持つ。
「言語なんて一個でいいと思う。そのほうが諍いも戦争も減ると思うし、いろんなことを知ることができる。もっと言ったら国境もいらんわ。世界が一つになれば。国なんていらんわ」
 僕は「ちょっと」と瞬時に言った。
「でもさ。じゃあ例えば文化はどうなる? 川端文学の美しさはどうなるん」
彼はすぐに、
「それはさ、ごく少数の物好きがさ、どこぞの大学で習えばいいやん。相対性理論を完璧に理解できる人ってさ、世界中で一握りだけやん。それに第一過去の人類の栄光をどうこう言うより、いま命が危ないという数多の難民や被災、被爆者のほうがどれだけ重要か、ちゅう話やで」
 吉岡はまた笑った。きっと本気で言っているわけじゃないんだ。それとも上辺を冗談めかしているだけだろうか。
「じゃあさ。サッカーとかはどうなるん? ナショナルチームは? クラブチームだって、目茶苦茶やん」
「別にそれは今まで通りでいいやん。ただ国境がいらんと思うだけ」
僕は彼の反民族主義に明らかに反対意見を持っていたのだが、不思議と言葉が出なかった。ギャラガー兄弟は尚も唄っていた。

I'm free to say whatever I
Whatever I like
If it's wrong or right it's alright

何を言っても自由さ
僕が好きなことはなんでも
それが間違っていても正しくてもまったく問題ない

吉岡は机の引き出しからマルボロを取って百円ライターで火をつけた。
くわえながら、
「吸う?」
 僕は乗り気でなかったがなんとなく呑んでみた。すると頭がすうっとなってなんだか平和が訪れた気がした。案外日本語なんていらないかもしれない。それは僕がゴールデンウィークにあれだけ苦しんだ創作活動の言い訳でもあるようだった。俺かて英語は3やけど。
吉岡は口から煙を吐きだし、
「ああ、安川さんに逢いてえ」
 本人の前だと氷みたいに固まるだろうにこうやって上機嫌に野望を言ってのけるということはやはり彼も気分がすうっとしているのである。
「あの人ほど美しい女はいいひんよ。だってな、青木。あの人明るいやろ。気さく。可愛いくせに明るい、これが誰からも愛される理由」
「へえ、喋ったことあったん?」
 吉岡は言いよどんだあと、低い声で、
「一年のときにさ、俺も安川さんも美化委員やってん。美化委員ってさ、期末考査のあとにさ、毎回黒板消しクリーナーを掃除しなあかんねん。一回一緒にやったときに……」
 僕は全く予期していなかったが、なるほどな、と思った。吉岡が美化委員なんて似合わない、とも思った。
「俺そういうの苦手やしひとりだけ掃除すんの遅れててん。あれって詰まってる粉出して揉んだりしなあかんから大変やねん。そんときに安川さん手伝ってくれてん。優しかったで」
 ――なんてピュアなんだこいつは。しかしいかにも彼ららしい。莉菜がマリア的なのは性分なのだ。そういう人はいつの時代も素敵である。僕とはまるで正反対の人である。
 僕は根はジョークだが上辺だけ本気の口調で、
「じゃあ告れば」
「そうしよか」
 人の告白というままごとみたいな青春は僕のなかでは中学校までの話だった。それが彼はあっさりと受け入れてしまうのだ。こいつ煙草に酔っているのかも。
「行こうよ取り敢えず」
 僕は彼の自由奔放なのに少しばかり不安を覚えた。そして悟った。彼は莉菜のために描いているのだ。莉菜とは似つかない官能の芸術作品を、明るい、気さくな彼女に捧げるつもりなのだ。
「本気で言ってんの?」
 答えるかわりにラジカセのコードが抜かれた。途端に鳴き声と蒸し暑さが広がった。サラウンド、と僕は思った。

僕と吉岡はいま、水色公園の水色のベンチに座っている。ここから莉菜の住むクリーム色の家が見える。彼女はいま何をしているのだろうか。
「青木、俺さ、やっぱ直接は無理やからさ、とりあえずさ、安川さんに俺にアドレス教えていいか聞いてくれへん?」
これじゃ吉岡は何のためにここまで来たのか分からない。まあ僕は帰ってきただけだから何も問題ないのだけれど。薄々、というかはっきりと、こうなることは分かっていたように思う。
「別にいいけど……」
ここで僕が一番怖れたのは莉菜のアドレスが変えられているかもということであった。幼なじみとはいえ長い間連絡を取り合わず、一学期も僕のせいで疎遠になったわけだから、その怖れは重々あった。
幸運なことに僕の送信は相手にしっかり届いた。第一関門突破である。次は帰ってくるか心配になった。
 二分後、僕の携帯は揺れた。しっかり〈安川 莉菜〉と出た。
「いいよ(^^)/」というものだった。僕は感謝のメールを送り、ほっとして吉岡にアドレスを教えた。
「こんなに早く返ってきたんやから、やっぱりそこにいんのかな」と、僕は家を指さして言った。
「実はすごい近くにいること、安川さんは夢にも思ってないやろな」
「じゃあ知らせてあげたら?」
「できるわけないやろ。ストーカーみたいやん。ていうかさ、いま見つかったらやばいよな」
それから吉岡は自転車に乗って急いで家へ帰っていった。僕は莉菜の家を通
るとき、やはり本人が出てきたらどうしようかと心配したが、幸いそんなことはなかった。
 家に入った途端、疲れた、と思った。莉菜はやはり素敵な子だ。僕は幸福な気持ちになって部屋のふかふかのベッドに寝転んで、そのまま静かに目を閉じた。

     九

僕は夢を見る――。

「そろそろ帰ろう!」
 桜井先生が高い声で叫ぶ。斜陽が水面を照らす。僕は空腹を感じる。
 子供たちは一様に衣服をつけて、歩きはじめる。僕はひどく疲れている。けれどこれは嬉しい疲れだ。まったくしんどくない。
 僕らは森を歩く。一番後ろにお姉さんが歩く。木々を上手く抜けながら、僕はときどき振り返って、お姉さんを見つめる。彼女は悲しそうな顔をしている。瞳がうるんで、どこか遠くを見ながら、歩いている。浴衣がとっても似合っている。
 やがて芝の平地に出て、ニスがてかてかのログハウスが見えてくる。すると僕も他の子たちも居ても立っても居られずに、全力で走って階段を上る。みんな同時に扉を開くと中にはたくさんの大人がいて、美味しそうなカレーの匂いがぷんぷんしている。
 おばさんたちはカレーをよそって真ん中のログテーブルに並べたりしている。旦那さんたちと奥さんたちがそれぞれ楽しそうに話している。おじいさんの周りにお兄さんやお姉さんが集まっている。みんな過ごしやすそうな服を着ている。桜井先生は眼鏡をかけたおじさんの所に行って、なにやら話している。僕ら子供たちは、それぞれに大きなログテーブルに座る。
 まもなくテーブルに全員がそろう。
「いただきます!」と、みんなで叫ぶ――。

     十

翌日も朝十一時半に起きた。適当に飯を食って服を着替えて外に出た。空が眩しいように青く、雲が浮き出るように白かった。
吉岡の家へは行かない。自転車に跨がって僕はこれからブックオフに行き、
それとともに祖母の家に行くのだった。
 午後だからやはり暑かった。直射日光は僕の剥き出しの髪に強く注いだ。サドルのうえでジーパンの厚みが皮膚にきた。よく日本には四季があるというが、他の国にも四季ぐらいあるだろうというのが以前の僕の考えだった。けれどここまで明確な四季はやはり日本だけだと思わせる、そんな暑さだった。
 ブックオフまで距離は自転車で三十分ほどだった。国道沿いをずっと走ってゆくのだった。祖母の家はもう少し先にある。長いこと会ってなかったから久
しぶりに会おうと思った。昼を食べたあと携帯から電話をかけていた。
「気をつけて来て下さい」といつもののんびりした口調で祖母は言った。どうせ盆には会わないから上手くいけばお小遣いを貰えるだろう。それ以上に祖母はお喋りなのでそれを期待して向かっているのだった。
 住宅街をしばらく行くと、住居の庭で五歳ぐらいの女の子が三人、ビニールでできたおもちゃのプールで遊んでいた。彼女らはみなこれ以上ないぐらいに日焼けして、その小麦色の肌は蛍光色の水着の輝きと調和していた。露出した自分の白い腕を見て僕はその差を思った。
 五歳の時分はいつか自分が高校生になるなんて想像もつかなかった。今は結婚して子供もいる近所の女性は僕が五歳のとき高校生だった。制服姿の彼女を僕は道路に座り込みじっと見てい、そのそばにはピンクのゴムボールが転がっていた。そして莉菜がいた。そんな時分は高校生など雲をつかむような存在で、僕はひたすら小学生の黄帽に憧れていたのだった。
 小学校も六年になると親や教師は中学校を、より高度な所と位置づけた。先輩には敬語、部活は毎日、弁当、そして教科ごとに教師の変わるそのシステムは、否応なしに自分の成長を感じさせた。入ってみるとやはり高度なのであった。
 高校受験を控えた生徒はやはり志望校に思いを馳せるのであった。食堂、その通学方法、カリキュラム、非・義務教育の到来など、僕らはこぞって高校生活を夢みたのだ。
 そして今、おぼろげながらも確実に、僕は大学を見据えるのであった。しかしそれ以降の熾烈な就職活動とサラリーマンの刻苦の日常とには目を背けたいのである。
 小学生は中学生に憧れ、中学生は高校生に憧れ、高校生は大学生に憧れ、そして大学生は決して大人に憧れないのだ。そう思った。立派な社会人なんかには微塵もなりなくないのだ。……

 ブックオフに着いて自転車を止めるとなるほど自分の汗のすごいのを感じた。最近少し太ったようだった。サッカーをやっていないので運動はしていないのも同然だった。店内の冷房は氷みたいに冷ややかだった。
 珍しく、その日買いたい本が見つからなかった。経済的理由からそれなりに流通している本は近所の書店ではなく少々遠いブックオフに世話になるのだった。ところが今日はあらかじめ目星をつけていた本が一冊も置いてないのであった。
 僕は気持ちを切り替えて祖母の家に向かうのだったが、店を出た途端に猛暑
のせいでその心をへし折られた。
 なよなよしながら自転車はすぐに国道に出た。

 広い庭に松の木があって、深緑の針葉樹が空高く登りゆく、そんな情緒を見せていた。すぐ側に現代的な国道が走っているとは考えづらかった。
 僕はその日本的な庭園にみとれながら自転車を止めるのであった。チャイムを押さないうちから玄関の引き戸が開かれ、太った、腰を折り曲げた祖母が、深いしわをくしゃくしゃにして僕を迎えるのであった。
 祖母は七十九歳、八人兄弟の四番目に生まれ、二十五六で祖父とお見合い結婚をし、父と叔父を産み、彼らが家を離れた後は、夫婦二人でのんびり余生を送っているのであった。
 祖母はいつも八人兄弟の話や父の子供の頃の話をするのであった。そして僕も、春に巣に戻ってくる燕のように、思い立ったらここに来ては話を聞くのであった。
 僕は見慣れた和室のリビングに入った。畳のうえにはベージュの絨毯がひかれ、薄型の大きなテレビはきめ細やかに韓国ドラマを映していた。
 若い女性が韓国語でなにか話している。怒っているような口調はとても早口だ。下のほうに小さな字幕が出ているのだが、果たして喋ったこと全部をきちんと翻訳できているのだろうか?
 疑惑の目でテレビの高画質を睨んでいると、盆を抱えた祖母がゆっくりふすまを開けて入ってきた。以前よりも白髪が増えたようだった。
「はいこれ。ケーキとお紅茶」
 そう言って祖母は、僕の座るテーブルにロールケーキと午後の紅茶ストレートティーの1・5Lペットボトルとグラスを並べた。
「そんな正座しんと」
 僕は自分で正座をしているのを知らなかった。どこかで気を遣わなければと思ったのだろうか。足を崩して胡坐をかいた。
「和くん、それおもろいか?」
 黙ってテレビを見つめる僕に祖母は言った。どうやら喋りたくてたまらないみたいだ。
「いや、ついてたから。おじいちゃんは?」
「パチンコや。まーた。あの人はあればっかりや」
 僕は笑った。
「あんたえらい大人みたいな顔になったなあ。高校、何年生や?」
「二年、二年」
「そうか二年か。早いなあ。よっちゃんわいな?」
「あいつは今年中学」
「ああ、そやったそやった。おばあちゃん忘れるとこやったわ。ハハハ」
(いやあんた完全に忘れとったやろ)
「まあお兄ちゃんみたいに勉強頑張ってほしいわいな」
「あいつは馬鹿やから」
「そうかあ?」
少しの沈黙のあと、
「おばあちゃんは最近こればっかり見とんねん」
 顔を上げると祖母はテレビを指差していた。僕はロールケーキにフォークをつけた。それはイチゴの味がした。
「どうや学校は? 勉強難しないか?」
 僕は首を振り、
「めっちゃ難い」
「そうやろなあ。やっぱり。近所の人に『孫がK高校の特進行ってるんやで』いうたら、『へえあんたとこの子すごいな』いわはるもん」
 僕は控え目に笑ったがそのとき自分がはにかんでいることに気づいて落ち込んだ。
「うちの兄弟はみーんな先生なったからな。わたしだけは違うけど……。一番上の兄さんはな、教科書をごっつい声で読まはったわ『いーち、にー、さーん』言うて」
「うん」
「ほんで二番目の兄さんはな、試験の大分前から勉強して、前日はいびきかいて寝たはんねん。もう、すぅぐ寝はった。それで点取れたんやからすごいな。昔あんたの高校の校長先生したはったんや」
「へえ、普通にすごいな」
 以前に何度も聞いていたが、思い返すとやっぱりすごい。
「まあ相当の変人やったな。ほんま変わっとった」
「それにしてもさ、昔はやっぱり貧しかったん違う?」
「そらもう戦争中は酷かったで……。ただでさえ八人も兄弟おるから。今でかて八人もおったらお金のうなるやろ。わたしのお母さんはいっつも子供らにおかずあげて、残ったもんをさらえたはったけど、まあほとんど残らへんかったなあ」
「ふーん」
「ほんま、こんなに科学が発達するなんて思いもせんなんだわ」
「やろうな」
 僕は紅茶を飲む。
「ちょっとわたしにも頂戴」
 僕は紅茶をもう一つのグラスに注いだ。

 その後祖母は僕の父の子供時代の話をした。彼女は気分が良くなって当時の写真を奥の部屋から出してきて僕に見せた。
 初めて見た。セピアがかったカラー写真だった。父は色白で可愛らしかったが、それ以上に祖母が美しかった。今より大分に背があるようだった。パチンコに行っている祖父もこの頃はハンサムだった。
 となると僕の顔面は誰に似たのだろう。母も醜い訳じゃなく弟も普通だからやはり僕は不幸な生まれなのだ。
 それにしても祖母は美しかった。今では想像できないほどだった。きっと痩せているからだろう。黒く濃い髪は女の強さのようだった。もしかすると祖母は自分を見てほしかったのかもしれない。
 僕は「山の音」の菊子を思った。考えてみれば年齢的にやっと変わらない。日本的な美しさを彼女は備えていた。
「おばあちゃん美人やな」
「ほんまか、そらおおきに」
 祖母は笑ったが、はにかんでいるふうは全然なかった。聞き慣れていること、どうでもいいこと、そんな感じだった。それとも遠い過去は関係ないと切り離
しているから他人事なのだろうか。
「でもなあ、わたしのお姉さんはもっと別嬪やったで。芳子さんいうんやけどおばあちゃんの三つ上や」
「へえ、校長の妹?」
「えー、あのひとは長男やから、そうやな。妹やな」
「いまどこに住んでんの?」
「確かな、京都市内のな、東山あたりちゃうかな……。芳子姉さんは小学校の
先生したはったんやで。あ、そうやそうや」
 祖母はこちらを向いて微笑んだ。途端、なんとなく嫌な予感がした。祖母の顔は老いていた。しかしその瞳は自慢できる喜びのおかげで輝いていた。僕はケーキの最後の一口を食べた。
「K高校に桜井言う先生おらへんか? 若い女の先生や。あの人姉さんの孫やで」
「……えっ?」
「これほんま」
「…………、」
「だからあんたの又いとこやで」
「……え、ていうことはもしかして、はとこってこと?」
「そうそう」
「……会ったことは?」
「いや、小っちゃい頃に何回か会ってる思うけどな」
「…………、」
 
 ――祖母は僕に五千円渡した。僕はお礼を言った。
 ロールケーキが残っているから持って帰るかと聞かれた。いらないと僕は答えた。
 踏切の音も聞こえないような放心状態だった。
 家に帰る気が起きず全速力で自転車を漕いだ。気持ち悪くなって吐きそうになってコンビニのトイレに急いだが嗚咽だけでケーキもなにも出なかった。顔が青ざめてゆくのを感じた。
 意味が分からなかった。淡くとも僕は彼女を意識しているはずだった。彼女は僕を好いていないようだった。だからこそ考査は本気を出したのだった。それでまさかの親戚だった。知らなかったなんて大馬鹿だ。
 向こうは知っているだろうか。青木といっても祖母の妹の苗字だとピンとはこないだろう。僕だって桜井でなにも気づかなかった。
 こんなことってあるのだろうか。
 僕は生まれてはじめて怖くなった。「死」を思ったときの比ではなかった。このうえなく震えはじめた。
 それほどにまで好きだったのだろうか。それほどまでに惚れていたのだろうか。
 死のうとも生きようとも思えなかった。心はすうっとその中間をさまよった。そのうちにはとこに恋しても何も問題ないように感じられた。実際法律上もそうである。しかし僕の心を抉ったこの事実は衝撃だった。すっぽ抜けたような夏休みは残りわずかだった。

     十一

夏休み最後の深夜、僕はサッカーの試合を見ていた。ヨーロッパナショナルチームの大きな大会でカードはスペイン対イタリアだった。
 僕はキッチンの棚から父の赤ワインを出してきて、グラスに半分ほど注いでちびちび飲みながら試合を見ていた。どちらを応援するというのでもなかった。身体がぽうっと熱くなって、明日学校だというのに仄かに夢見心地だった。時刻は二時を過ぎていた。明日は居眠りの始業式になるだろうと思って見ていた。
 0―0のまま試合は動かない。ジャンルイジ・ブッフォン、イケル・カシージャスという世界屈指の両キーパーが、ゴールマウスを堅く守り、ゲームは非常に引き締まっていると同時に退屈でもあった。放たれるシュートはそのほとんどが無回転で、ボールはぶれているにも関わらず、彼らはまるで吸盤のようにキャッチした。惜しいシュートのリプレイの後には決まって頭を抱えるサポーターの姿が映った。若い女性が抜かれることも多かった。顔に国旗を描いたレディたちはグラマーで美しかった。
 主審の笛が鳴り、前半が終わった。カメラはスタジアムに近いポーランドの美しい港を捉えた。赤いレンガの屋根をした真っ白な家々は青い海と絶妙に調和し、見ている僕は胸を打たれる。ハイビジョンはときに肉眼を越える。
 こんな西洋に一度でいいから行ってみたい。いっそのことテレビの中に入り込みたい。それにしても世界は広い……。スーパースターは輝いているし、美女たちも輝いている。それにひきかえ僕はなんだってんだ。
大きな欠伸をした。少し頭が痛かった。そろそろ眠りに就こうかと思った。

 テレビを消し電気を消すと部屋は一気に静まった。目をつむって浮かんでくるのはやはり桜井先生のことである。
 思えばすぐまた顔を合わせることになる。親戚だなんてあっちは知っていただろうか。話のタネとしては申し分ないはずだがもう今となっては……。
 また単調で退屈でそのくせ速い二学期がやってくるのだ。そしてその先三学期がきて、三年生になる。ここまでははっきりしている。
それなりの受験勉強をすれば、それなりの大学に受かるだろう。それなりの大学へ行き、それなりの企業に入り、それなりの給料を貰えれば、(いまは想像
し難いが)それなりの女と結婚して、それなりの幸せを得ることができるだろう。
そして書斎は本に溢れ、老後は孫と仲良く遊ぶ……。
 僕はこれを望んでいるのだろうか。いや、そうではない。僕はこれを最低ラインと思っている。グループリーグで引き分けて勝ち点1。サッカーの解説者はこういう場合「最低限の結果を残した」とよく言う。平凡な人生はちょうどそれである。
ああ、しかし、数奇な人生を理想としながら平凡な人生にも妥協するやつは世界中にいったい何人いるだろう。おそらく沢山いる。沢山のモラトリアム・ボーイたちが未来を案じてどうしようもなく苦しんでいるのだ。誰もかれもがブッフォンやカシージャスになれるわけじゃない。そして沢山の似通った一生を歩み、沢山の子孫を残し、それぞれ墓に眠りゆくのだ。塵も積もれば山となる。山が時代を創って、世界を変えて、けれど一人一人は全く実感をもてない。
 なんとなく浮いているレールを渡っていく、なんて平和な世の中なのだろう。どこかで挫折するほうがきっと面白い。
 吉岡は何になるだろう。彼は少し分からないな。莉菜などは逆で、淑やかな夫人になるだろうと目に見える。賢いからひょっとすると高校教師などになるかもしれない。そうなると桜井先生と共に働くのかもしれないし、もし僕に子どもができたら、担任するなんてことが起きるかもしれない。
 いよいよ眠たくなってきた。僕は寝たまま欠伸をした。長い長い欠伸だった。長い長い人生はまだ始まったばかりなのだった。

     十二

僕はもう、夢を見ない――。

     十三

登校中の国道の交差点で安川莉菜と出くわす。彼女はポニーテール姿で道路ぎりぎりに立っている。ああ、気まずいと思う。
朝の忙しなさは万国共通だろうな。トラックの運転手だけはそれほど慌てていないように映る。きっと彼らにとっての朝は、夜中なのだろう。
向こうも向こうで僕みたいな草食系インキャに出くわすのは気まずいようで、後ろをちらっと振り返って僕と目が合った以降は何が何でも振り向かまいと肩をすくめていた。
通学路は一つで二人とも徒歩だからひどく困った。彼女が右側を歩いていたので僕は左側を歩いた。逃げるように早足で追い抜きながらこう考えた。
(皆さん、これが僕らの青春なのです。照れて、縮こまって、前を向けない。果たして誰の仕業なのでしょうか?)

 ウィリアム・フォークナーを借りようと思って図書館に行った。今日ばかりは太ったおばさんが良いと思ったが、あいにく座っていたのは桜井先生だった。しかし本を借りるのは前々から決めていたことだったし、たったそれだけの理由で諦めるのも馬鹿馬鹿しいので、僕は世界文学のところで本を抜き取って、意を決してカウンターへ向かった。
(なんだ。こうやってみると化粧が濃いではないか。荒れた肌を必死で隠しているんだ。おばさんだなあ、僕のはとこ。あはは)
「二年三組一番です」
「はーい」
〝ピッ〟
「…………、」
「…………、」
 茶色い髪は以前よりも伸びている。僕は〈フォークナー〉をかばんにしまう。好きだと思う感情も、笑顔が素敵と思う心も、全くもって消えている。それなのに、やはり若い女性だからだろうか、どこか僕は固まって、天井から糸でつられた人形のように、思っていることが素直にできず、重い空気の力に流されているよう。僕の人生なんて所詮そんなもんだ。
小説を書こう、といつものように僕は思った。
ポケットが震えるスマホが鳴る。吉岡からの電話だった。
「絵、完成したんやけど」
彼は成し遂げた。吉岡は僕とはまるきり違うところへ昇華した。僕は四年に一度のワールドカップが始まるような、そんなわくわくを一時に感じた。
吉岡は続けて、
「プレゼントするわ」
僕は自分でも分かるぐらいに瞳を輝かせた。安川莉菜の大きな瞳が困惑の苦笑に揺れるのを僕はたやすく想像する。しかしその一方で、安川莉菜の喜びの感情が腹から湧き上がってくるのを、心が躍りゆくのを感じる。いずれにしても怠惰からの脱却は間違いなさそうだ。しかし彼は続けて言うのである。
「青木にな」
僕は絶句した。
「とにかく待ってるから、俺ん家来て」

一度家に帰り自転車にまたがって吉岡家まで漕ぎ、完成した絵を見た。吉岡の絵は僕の知っているどの画家の絵とも違っていた。写実的だったが、写真のようではなかった。写真よりも奥行きがあるように感じた。
「絵、完成したらもう必要ないから。よかったら受け取って」
僕は多少早口で言う。
「え、じゃあ何のために描いたん。まさか俺にくれるため?」
吉岡は困ったようにうつむいて、言葉を探していた。しばらくして、
「やっぱり、好きやからかなあ。描かずには生きてゆけない」
全く想像通りの回答である。これほどまでに断定的なことを、どうして迷いながら自信なさげに言うのだろうか。わざわざ口にする必要がないほど、当たり前なのだろうか。
「ほんまにくれんの?」
「うん、まあ、いらんかったらいいけど……」
僕自身、それほど欲しい訳じゃなかった。こんなのが家にあると僕は親友の才に嫉妬し続けるだろうし、第一にどうやって持って帰ればいいか分からない。
「いやいや。さすがに俺は貰えない。こんな力作は」
「そうかあ」
「安川さんにあげたら。ていうか俺ずっとそうするんやと思っててんけど」
「…………、」
「そうしろよ」
「それは恥ずいな。というかさ、青木でも受け取ってくれへんもんを、一回しか喋ったことない彼女が貰ってくれるわけないし」
「うーん、でもメールしてるんやろ?」
「もう全然してないよ」
 この一言は僕を励ませた。なんだ吉岡はやっぱり吉岡だなあ。
「もし要らんのやったら、コンクールとかに出せばいいやん」
「俺はそんなために描いたん違う!」
この声は非常に大きく、吉岡らしくない早口だった。
「ごめんごめん」
「まあ、ほんなら押入れに閉まっとくわ。またこれからさ、新しい絵、描かなあかんしな」
僕が貰わなくても吉岡はそう落ち込んではいないようだった。夏休みに彼が熱心に描くのを僕は見守っていた。あの時間は何だったのだろう。しかし吉岡は描かなければ生きてゆけないのだ。僕にとっての執筆は、果たしてそうと言えるのだろうか。
「そうか、まあ頑張って」

風を受け自転車を走らせながら僕は考える。空はオレンジ。雲は金色。
自分は決して作家になれない。なぜなら僕はただ有名になりたいだけだからだ。桜井先生のことにしたって、衝撃の事実のおかげですっかり気持ちが変わってしまった。
吉岡は違う。吉岡こそ真の芸術家だ。彼は将来立派になる。少なくとも凡人ではない。おそらく安川莉菜を想う気持ちだって、照れてはいるが、まことだろう。これは根本的な違いである。
どうせ変われない自分で、どうせ平凡な自分なのだから、小説の執筆なんかに逃げずに、またモラトリアムをモラトリアムとせずに、真っ向から大学受験に挑もう、そう思った。

溺水者

溺水者

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-07

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著作権法内での利用のみを許可します。

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