潔癖症
「洗っても、洗っても。落ちないの」
特に人殺しをしたというわけではないのだが、まるでそこら辺のドラマよろしく、手をいくら洗っても落ちない。
何が落ちないのかと問われても、落ちないのだから解らない。
なにかどろっとしているようでさらっとして、そして厭な何か。
落ちない。本当になぜ落ちないのだろう。
母がいつまで洗っているの、水が勿体無いじゃないと水栓を閉めた。
落ちないのよ、だから洗っているのよ。と弁明しても、
母は呆れて私の側から去っていく。
「潔癖症?姉ちゃん、病院行けば?」
ソファに座っていた弟が雑誌に視線を落としながら、私に言葉を投げた。勝手に病人扱いしないでほしい。
汚れが見えないのか、こんなにもびっしりとこびりついているのに、母にも弟にも見えないなんて。そっちの方が異常なのに。
壁にも、床にも、カーテンにも、べったりとこびりついているのになんで気づかないのか。
母や弟だってこびりついていて、私なんかよりも体中から、はらはらと残骸が落ちるほど積もるほどに付いているのに。
昨日まではこんな事なかったはずだ。別段なにも変わっていないはずだ。
「いい加減に食事を食べなさい」
ダイニングテーブルに出された黒い何かを母は進めてくる。
ひどい臭いのするスープに私は顔をしかめて目をそらす。
弟は雑誌を置き、ソファから立ち上がって食卓に付いてそれを
当たり前のように食べている。唇を真っ黒にしながら。
おかしい。狂っているのはこいつらだ。
私は吐き気を催してトイレに飛び込み便座を開き嘔吐した。
否、しようとした。私は目を瞠る。
黄ばんだ粘性のものがトイレに張り付いていて、しかも蠢いていた。
私の吐き気は限界に達してそこに嘔吐したのだが、粘性のソレは私の吐瀉物に群がり食べている。あまりの気色悪さに私は立ち上がり、玄関に飛び出そうとした。
「どこにいくの」
母に呼び止められ振り返ると。
それは母ではなく、母の体の輪郭そっくりの、さっきの粘性のそれだった。
「姉ちゃん、駄目だよ。外は危ないよ」
弟もやはり、弟の形をしたそれだった。
私は悲鳴をあげ、扉を開けようとしたが扉はびくともしない。
固く閉ざされた扉を必死に叩き、私は泣き叫ぶ。
助けて!助けて!助けて!!
その途端いきなり扉が開き、私は反動で前のめりになる。
喜んで顔を上げると、そこには―毛むくじゃらで目をぎらぎらとか輝かせた、大きな赤黒い角を生やした獣が私の両肩を掴んでいた。
「ただいま」
低い唸るような声でその獣は私を抱きしめ、そして世界は暗転した。
「事情聴取は可能でしょうか」
「不可能です。諦めて下さい」
「と言っても彼女は重要参考人です」
「重要参考人といっても彼女は被害者ですよ」
遠くから声がした。空は白かった。
体は宙に浮いているみたいだったが、心地よくはなかった。
でも先程の奇妙な家にいるよりは、ずっとましだった。
対話が消えた時に白い空から覗きこむ顔が出てきた。
ああ、ここは外じゃなくて部屋なのだ、と私は思った。
「気分はどうですか、トレーシー?」
金髪碧眼の若い医師が、柔和な笑顔で私に問う。
「……」
私がぼんやりと彼の顔を見ながら小首を傾げると、彼は憂いを含んだちょっとだけ悲しそうな顔で私を見つめる。
なんでそんな顔をするんだろう。私は不思議だった。
「うなされていたね。ひどい夢を見た?」
夢?
ああ、そうだ夢だったのか。なんだ。と私は軽く息をつく。
「弟と母が、黄ばんだひどい臭いの…そう、スライムで。恐ろしくて、逃げようとしたら、恐ろしい大きな角の鬼が…私を…食べようとしたんです」
そうか、と医師は頷いて、横目で看護師に何かを促す。
私の右腕には点滴が刺さっていて、手は隠されていた。
看護師は点滴の袋を変えるために来たようだった。
「先生、私の手。汚れてるの。洗わなきゃ」
「汚れてないよ。ここの看護師さんが綺麗にしてくれた。大丈夫だよ」
言われてみれば、気持ち悪くはないし清浄な感じがした。
「リチャード先生。トレーシー、いつ警察に引き渡すんです?」
閉鎖病棟を出た渡り廊下を歩きながら、看護師であるアンが、担当医師であるリチャードに問う。
「暫くは無理だよ。やっと病室に移せて落ち着いたところなんだから」
「けど、あの子。両親と弟を殺しているんですよ?殺人鬼じゃないですか」
「君はあのかわいそうな女の子を殺人鬼って言っちゃうんだね」
リチャードは溜息を付いて、まだ新人で経験の薄いアンに困った顔を向ける。
「だって…」
「君はナースステーションに戻って。これで一通り病院は見ただろうし。持ち場は婦長さんが決めると思う」
「は、はい」
アンは足早に彼の側から去って行き、リチャードは窓の外からそよぐ木の緑と青い空を暫く見つめてから、手元のカルテを見返す。
【トレーシー・スプリッド 17歳 PTSD 統合失調症】
●月×日
23時15分に警察署から搬送される。
狂乱状態に陥っており、手が付けられずに保護室に移送。
警察の調書によると、慢性的な性的暴行を父親から受けており、母親と弟は知っていて見て見ぬをしていた(咎めると自分たちに被害が及ぶため)。父親は常軌を逸しており、家族の見ている前で平気で暴行を行なっていたという。
その最中に加害者が手元にあったガラスの灰皿で、
まず父親を撲殺、続けて母親と弟を撲殺した。
(本人の供述ではなく、鑑識・科研の状況判断と、近所の人間からの証言による)
第一発見者は、母親の叫びに気づいた隣人で、全裸で血にまみれたトレーシーが呆然と血がこびりついた灰皿を握りしめて座り込んでいたという。
遺体の損傷は酷く、殊に両親に至っては頭部に原型をとどめていなかったという。
犯行は極めて残忍であるが、当人の精神的な状況によっては刑罰は無効―
【先生、私の手。汚れてるの。洗わなきゃ】
虚ろに自分の手を気にしていた少女を思い出す。
「汚れてないよ。頑張ったよ」
勿論、彼女は違法だ。
殺人鬼と言われても仕方がない。
手は血で汚れているだろう。
けれど、せめてあの閉鎖された白い部屋では、彼女とって苦痛でしか無い、
見た目美しい汚い世界を今はまだ見せないで、何もない清浄な空間で癒してやるのが、
医者である自分の勤めであると、彼は思った。
潔癖症