むぼうびな老け顔

1974年10月に実際にあった話である。
PC、スマホなどまったくなかった時代はこんなものだった。

一九七四年十月午後四時、I駅内。

一九七四年十月午後四時、I駅内。
オレは山手線のI駅階段を降りて右に曲がった。
六歩ほど歩くと、背後から男の声がした。
 「もしもし、警察です。どちたに行くのですか」
 別にたまげなかった。オレこと関根輝夫は善良なる都民だからだ。
 「T台に帰ります……」
 「TT線の、ですか」
 「はい、そうです」
 「T台なら反対の方向です」
 「あ、そうだ。いけない」
 何の疑いのなく、オレはそう答えた。
 「交番まで来てください」
 「オレは何もしていない。ただ方向を間違いただけだ」
 「いいから、来てください」
 警官がオレの右手をつかんだ。
 「え、なんで、なんかした、オレが……」
 オレが振り払う素振りを見せると、左側にもう一人の警官がどこからともなく現れ、オレの左手をつかんだ。
オレの左手にはアタシュケースタイプのカメラバックを持っていた。色は黒だった。
身なりは黒のスリーピースに黒のエナメル靴、しかもノーネクタで白のワイシャツの襟元にフランス国旗のスカーフを巻いていた。
地味なようで派手な恰好である。実はなんのことはない。田舎の友人の結婚式に出席した帰りで、襟元だけ好きなスカーフを巻いただけのことだった。
ところが、日本の優秀な警官は、方向を間違えただけのオレをある事件の容疑者と思ったらしい。
 
 その当時、オレは二十一才で、写真専門学校の学生だった。
I駅内を警官二人を引き連れて歩くオレは、はじめて人間の冷たい視線をひっしと身をもって感じた。
行き交う人は横目でちらり、オレに視線をおくる。みんながみんな真顔である。
オレは威風堂々とは歩けないが、悪いことは何もしていなので俯きはしなかった。
しかし、だれか知り合いでも遭いはしないかと内心はハラハラしていた。
なにせ、二人の警官はオレの両脇にぴったり貼りついているように歩くものだら、第三者からしたらただ事ではないと思うのも当然である。
 オレは無言で歩きながら、交番に行ったら戦ってやると心に決めていた。
 
 若い警官とややベテランの警官に連れられ、オレは交番に入った。
交番は、以外に広く他にも警官が三人いた。
 最初に声をかけてきた若い警官と、オレは机を挟んで正対して座った。
グレーで地味な薄汚れた机の上に、若い警官はわら半紙のA3一枚を置いた。
 警官にしては肌ツヤがいい、良く言えば品がいい顔だが、悪い言えば締りがない顔立ちだ。
まあ、顔に関してはオレの方が明らかに老け顔で、おまけにイカリ顔である。
 いよいよ職務質問がはじまった。
若い警官がわざとらしい笑顔で言った。
 「あなた、名前は……」
 「せきねてるお、です」
 若い警官は、鉛筆を持っているのに、まだ何も書かない、妙だ。
 「どんな、漢字……」
 「関根のセキは関係の関(かん)です」
 わら半紙にオレの苗字の関を、若い警官がぎこちなく書いた。
 「根は……」
 「根本の根(こん)です」
 若い警官がためらっているので、オレは咄嗟にまさかと思った。
 「木偏の根です……」
 若い警官は根の木偏をなんと漢字の右側に書いたのである。オレも頭はあまりいい方ではないが、こんな間違いはしない。
人間をこの時点で二十一年間ほどやらしてもらっていたが、木偏の漢字を右側に書く発想は一度もなかった。
 「え、木偏はふつう左に書くでしょう」
 警官はばつが悪そうに薄ら笑いでごまかした。
 「輝夫のテルは、どんな漢字……」
 オレは小噺のネタを探しに華の都に来ているわけではない。警官とオレは同じ年頃なのだが、ここは一つ頼むよ、若いの、という心境だった。
 「輝くです。光に軍です」
 若い警官が書いた漢字を見て、またしてもやらかしてくれた、思った。コイツの頭はどうなっているのかと、オレは本気でハンマーで叩き割りたかった。
 なんと驚くなから、軍を左側に光を右に書いたのである。
 「おいおい、おい。なにそれ、日本語?あ、わかった。あんた農家の次男坊だ」
 「あれ、よくわかったね……」
 「輝くは光が左、軍が右でしょう、日本の決まりごとだ。あんたナシ人か」
 「え、なに、ナシ人。どいう意味……」
 「別に意味ないよ、逆に取ってくれればいいだけ……」
 若い警官はキョトンとしていた。
 「夫(お)は、どんな漢字?」
 「オスメスの雄(お)じゃなく、男女の男(お)じゃなく。おっとの夫」
 偶然に知っていたか、その漢字を書くと、やや笑みを浮かながら若い警官はひげ一つ生えていない顎を少し上げた。
人間の心理とはおもしろいものだ。こんな単純な行為でも顔に、行動に出る。
 ここで若い警官は首を傾げながら言った。
 「さっき、農家の次男坊だと、わかったのは、どうして……」
 「字が書けなくて、農家の次男坊だったら、自分の存在感がまずない。だが金、
 米、暇はある。なんか社会に貢献したい。だったら警察官。そんな流れじゃな
 いの、違う」
 「当たり、あなた凄いねぇ、すごい……」
 ここで見かねたベテラン警官が座っていた若い警官を押しのけ、椅子に座りオレと正対した。
 ベテラン警官はいきなり言い放った。
 「あんた、年は幾つだ。三十か、子供は何人だ」
 オレは直ぐに返すことばに戸惑った。
二十一才の男にこれはないだろう。独身も独身だ。
ちんちんに毛が生えてばかりとは言わないが、できることなら顔じゃなく下半身で判断してほしかった。
 「二十一才、まだ、学生です」

 ちょっと、ここで老け顔の小噺を一、二席、いや三席ほど吐露します。
まず、一席目。
 オレが十八才の高校生のときだった。
卒業を間近にした謝恩会の二次会でのこと、先生は参加していない。
 ある会場で法律的には違反なのだが、オレはビールを飲んでいた。
仲のいい霧島高志がはじまって間もなく、オレに寄ってきて、ほざいた。
 「関根、老け顔だが歯は丈夫そうだな。ビール瓶の栓を歯で抜いてくれ」
 オレは粋がって、やって見せたが簡単には抜けず前歯に思い入り力を込めたら、前歯一本が折れた。
辛うじて歯の根本から折れずに済んだが、歯の半分は欠けてしまった。さほど、痛みもなく二次会が終わり、予てより頼んでおいたスーツをあるデパートに取りに行った。
就職するために注文した、生まれて初めてのオーダースーツだ。すでに、勤めは大手印刷会社と決まり、気分だけはやけに高揚していた。
酒も入っていて、顔面は相変わらずのイカリ顔の赤ら顔だった。
 店員に名前を告げると、ひばらくして店員はグレーの大きな箱を持って現れた。
 「おめでとうございます。どちらの大学をご卒業なさったのですか」
 「いえ、オレは高校生、まだ十八才です」
 店員は照れながらやや俯いたが、すぐに気を取り戻し、オレに言った。
 「上着だけでも、“羽織って”見ますか……」
 「いや、いいです。もうすでに“歯を折って”いますから……」と言うと、オレは前歯を店員に見せた。店員は笑ってを口を押さえながらオレに背中を向けた。
 ジャンジャン……

 二席目です。
大手印刷会社に勤めて、二ヶ月ほど経ったある日曜日のことだった。
オレは上野公園のベンチで友人と話し込んでいた。
 その時、西郷隆盛の像を思わせるような大男がオレに近付いてきて言った。
 「お前さん、仕事向きの顔だ。オレの子分にならないか」
 大男はそうぬかして、座っているオレを指さした。
オレはただ驚き、一瞬だが返答に困った。
 「黙っていないで、なんとか言え。我孫子に仕事があるんだ」
 「けっこうです。仕事ありますから……」
 「まあ、そう言わずに、悪いようにはしない。どうだ」
 嫌だ、とはっきり言えなかった。
大男の身なりは太鼓腹で、見るからにその筋の男だとわかった。
だぶだぶスーツにデブなのに横縞のネクタイ、ゴールドの腕時計、年季が入ったエンジのスーツ。
右耳に赤鉛筆、袖のポケットにスポーツ新聞、靴はスーツに合わせたのかエンジの革靴。
顔は丸顔で、意外にかわいい顔立ちだが、如何せん目付きがが悪い。ケンカして勝てる相手ではないが、案外、人はいいのかも、と思った。それは次の言葉だった。
 「困ったら力になるぞ。オレは子分を何人もかかえている。お前みたいな若く
 て老け面は、社会の荒波を泳いでいくには、ジタバタ泳がないことだ。そう
 すれば身体は浮くのだ。あんちゃん、仕事やるか、安定するぞ」
 意外に名言だと、オレは思った。
 「やらないです。けっこうですから……」
 「最後にもう一度言うぞ。オレの子分にならないか、我孫子にいい仕事がある
 んだがなあ、やれよ……」
 「我孫子とは、おのれの孫、子と書きます。オレはあなたの子でも孫でもあり
 ません。意味わかりますか」
 そう言うとオレと友人は小走りでその場を去った。逃げる自信はあった。転がった方が早そうなオヤジに負けるわけがなかった。ジャンジャン……

 三席目です。もうちょっと、お付き合いください。
年月の経過はI駅交番とは前後するが、オレが田舎の会社に勤めていた頃の話。
 オレは二十三才の夏を迎えようとしていた。
ある金曜日の夜のことである。
 同級生がスナックを経営していたため、夜はそのスナックに入り浸っていた。
仲間、十人ほどで十一時ごろまで呑んでいた。オレは主にウーロン茶だった。
 仲間の二人が帰ると言いだした。帰ると言ったのは材木問屋の跡取りと木工会社に勤める“気が合う”男二人だった。
 五分ほどして、親友である霧島高志がオレの肩に手をかけ言った。
 「関根、オレたちも帰ろうぜ駅まで送ってくれ。頼む」
 オレはこのスナックではアルコール類はあまり口にしなかった。
このスナックがやや市内の外れにあったため、車で通っていた。
勤めだしてから、あるスポーツクラブに入り、オレは酒にあまり縁のない生活をしていた。
 高校時代の霧島とオレはどちらもイカリ顔で老け顔だった。
しかし、霧島はフォークソング部長、オレはバレー部キャプテンだった。同じクラスで唯一共通する老け顔というだけで仲良くなった。
  
 この夜の霧島の身なりは黒のネクタイに上下グリーンのアイビー調のスーツを着ていた。オレは上下黒のスーツ、ノーネクタイ。白いシャツに茶系のスカーフである。
 オレは霧島を駅まで送るため、スナックを出た。
車を一分ほど走らせると、先に出て行った仲間二人が十人ほどのチンピラに囲まれていた。歩道の店先に追い詰められているようだった。
 オレは勇んで車を止め、霧島と一緒に多数のチンピラに向かって歩きだした。
オレはチンピラに近付くと、軽く啖呵をきった。
 「お前ら、何していんの、おい、こら……」
 大声では言わなかった。言葉をちょっと荒げただけだった。
 「すませんでした。すいません」
 チンピラたちは一目散に逃げ出した。オレと霧島は呆気にとられた。
霧島いわく。
 「やぁさんと勘違いしたんじゃないか。関根とオレだもの」
 無事でなによりだったが、先に帰った二人の身なりは同じ年だがジィーズにTシャツという恰好である。
人間、身なりも時として自分の身を守り、老け顔も人のために役立つこともある。この時、はじめて知った。
 オレは車に二人と霧島を乗せ走り出した。
材木問屋の友人が車中で身をすくめなが言った。
 「助かった関根、霧島。ラーメンをおぐらせてくれ、食べに行こう」
 霧島が見事な返答をした。
 「お前ら、普段から木を使っているのだから、呑んだときぐらい気を使うな」
 ジャンジャン……お粗末。


 I駅交番内……
ベテラン警官は、目を皿のようにでかくしてオレを見た。
 「うそをつくな、おまえ三十才だろう、どう見ても」

 「お巡りさん、二十一才の男にそれないよ。しかも、おまえ呼ばわりだも。名
 誉毀損で訴えます」
 「二十一才という証拠を見せろ……」
 「お巡りさん、口悪いね。オレが何したの……ただ行く先を間違えて歩いただ
 けなのに、何でそんなに粋がっているのねぇ」
 「粋がってなんかいない。それより身分証明書かなんか、ないの」
 「オレは写真専門学校の学生、そんなのない」
 「何もないの、プー太郎か、あんた」
 「あんた呼ばわりは止めてくれ。学生だと言っている……定期券ならある」
その後、渋谷駅までの定期券を見せ、誕生日を名乗り、実家、現住所、正式な写真学校の所在地と学長の名を言って、
はじめてオレは二十一才の都民であることを認めさせた。
 ベテラン警官が嫌味なのか、オレを小バカにした。
 「それにしても、あんた。ご厄介な顔だねぇ……」
 「お巡りさん、オレをバカにしているの。本当に訴えるよ。人権蹂躙だ」
 「あ、悪かった、悪かったね。ところで、アタシュケースの中身を見せてうよ」
 オレはカメラバックを開けて、机の上に置いた。
すると、オレの許可なく若い警官がカメラを取り出そうとした。
 「勝手にカメラに触らないでよ。お巡りさん」
 若い警官が首をしきりに振っている。
 「このレンズでかくねぇか。本当にカメラレンズ?」
 「これはコムラーの925と言って、人気のズームレンズだよ」
 「本当に……中に火薬など入っていたりして、中身見せてよ」
 「何言って、火薬、何それ。中身を見せろ、まさか分解して、冗談でしょ」
 ベテラン警官が真顔でオレを睨んだ。
 「冗談じゃないよ。本気も本気。ふざけるな……」
 これを聞いて、オレは本気で怒った。
 「ふざけるな、はオレの台詞だ。善良な都民を連れまわして、訴えてやる」
 「ああ、訴えろ。ただし、そのレンズが本物だったらの話だ」
「レンズの裏表をよく見ろ、火薬見えるか」
 「見ただけではわからない。分解してくれ……」
 「よし、そこまで、お巡りさんが言うなら、メーカーに電話して来てもらう。
 ただし、メンテ代諸経費は交番で支払ってもらいます。いいですね」
 「アイム・ジャスト・キーディングだよ。関根さん。アイム・ソォーリだ。そ
 の言葉を聞きたかった。あんたの疑いは晴れた」
 ベテラン警官は笑みを浮かべている。
 「バカにしているの。下手な英語なんか使ってからに。それにまだ、あんた呼
 ばわりだ、名誉毀損で訴える。もう許さん」
 「まあ、そう言わず、爆弾犯の疑いは晴れましたよ。帰っていいですよ」
 「爆弾犯だぁ。オレが……日本の警察は優秀と思っていたが、イヤハヤ参った」
 若い警官が真顔でオレに質問した。
 「なんで、黒のスーツに黒のケース、しかも、無防備な老け顔」
 「黒は友人の結婚式に出席した帰り、老け顔は馬の飼葉にもならないって言う
 諺を知っているか、お巡りさん」
 「え、どういう意味なの……」
 「つまり、食いに食えないということ。どうにもならないことだよ。無防備の
 老け顔と言われても防衛しょうがない。他国から侵略がいつでもできるような
 老け顔で悪かったね、お巡りさん。今度、会うまで漢字を勉強しておいて」
そそくさと、オレはカメラケーズにカギをかけた。
 ベテランの警官が交番の出入り口で、オレを見送ってくれながら大声で言った。
 「爆弾犯、今度遭ったら逮捕するぞ。老け顔直せよ!ジャストキーデーング」
 最後の英語だけ小声だったもんだから、通りすがり人たちが一斉に肩をすくめ
た。爆弾犯で驚きながらも何事もないと分ると、人々はオレをさげすむような目付きでオレを見た。この冷たい他人の視線とはなんとも嫌なものだ。
 負け時、オレは交番に黒のケースを投げるふりしながら叫んだ。
 「これで食らえ、泰平ダイヤモンド社と同じ運命になれぃ」
 泰平ダイヤモンド社とは一九七四年八月に起きた爆弾事件のことである。
これを聞いた途端、交番にオレを連れてきた警官二人が飛び出してきた。
 ベテラン警官が血相を変えてオレの右に張り付いた。若い警官も左側に回りながら血の気を失っていた。
 「冗談だよ。じょうだん……」
 若い警官は手錠に手を掛けている。
 「逮捕、します。冗談ではありません。泰平という漢字は書けます」
 オレは二人から小走りで逃げながら思った。
 〈これが老けた顔を持つ定めか。独りでは生きていけない。早く結婚しょう〉
                      〈了〉


 
 

 
  
  
 

 
 
 

むぼうびな老け顔

ノンフィションのため、一部イニシャルを使い。会社名は実存しないものだが、ニアンスはそれらしい名前にした。
なんの事件か、想像してみてください。

むぼうびな老け顔

関根はふとしたことことから、交番に連れいかれた。ある事件の容疑者と間違えられた。 字もろく書けない若い警官と関根をあんた呼ばわりするベテラン警官に苦労するが、老け顔と職務質問に翻弄される。これは実際にあった話である。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-06

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