七つの交響的断章、あるいはキリエ/間もなく翼を無くした鳩の悲鳴がラルゴで……

2010年8月に、一週間で書かれた物語。
2010年11月21日、大阪芸術大学主催「"世紀のダ・ヴィンチを探せ!"高校生アートコンペティション2010」にて優秀賞受賞。
あまりの衝撃ゆえに、コンペティション以外ではどこにも発表されなかった作品。
約一年の封印を経て、物語が紐解かれる――。
この鎮魂歌を、全人類に捧ぐ。

 眠いのに眠れない真新しい列車の中、例えば、そんな心情。
 八月。
 焼け死んだアスファルトの上に聳える僕。水晶体には瑞々しい少女。用意された戯曲、僕はそれをなぞるように少女に近づく。二人は同時に近付くことを余儀なくされ、街を後にする人々。長い抱擁。そうなってしまうことを預言されたような。狂おしく舌を絡ませ、再びの長い抱擁。興奮と好奇と、希望。爆発してしまいそうな息を抑えつつ、僕は少女の上着を外した。僕のそれと代わり映え無い平坦な乳房。もう一度、口吻。二人は高層ビルの陰へ。手を繋いだままで。アスファルトの上で、少女の上着はやはり死んでいた。
 恐ろしい速さで乳輪を舐め回す。強く押さえつけられた僕の頭。離れると二人は身にした無駄な物をすべて取り払う。頭の上から足の爪先まで一糸纏わぬ二人。見下ろす、屹立した男性器。躊躇することなく、しゃがみ込んでそれを口に包む少女。舌の感触は身体を這い回る蛇のよう。限界に達した、という快感。液体を全て吸い取られると、立ち上がる少女。
 為すべきこと。僕の下半身は再び息を吹き返し。少女の陰部は発達していた。それ独特のきつい匂いは僕にも似て。しかしそれは、黒い茂みの中に。近くで鼻を鳴らすようにきつい匂いを嗅ぐ。そして恐る恐る、舌を差し込む。何も見えない状況の中で、例えるなら暗闇の迷路。少女は僕の頭を優しく撫で。無機質な動作。それが続き、感情も何も見えない。ただ、いかに相手に希望もしくは絶望を与えるかを考え。
 伸ばした舌先の筋肉が攣りそうだった。何故群衆はこの場を離れて行ったのか。考えているうちに僕は眠くなり、少女も僕の額を優しい手つきで陰部から離す。意識が暗黒の地底に落ちた、その瞬間。
 僕は、彼女の名前すら知らない。


 安らかに眠ってください過ちは繰返しませぬから。表面が太陽の光を乱反射する碑文。気温は摂氏三十度を超え、路地を歩いていても汗。
 碑文を脳内にリピート。過チハ繰返シマセヌカラ。幾分前に、その主語は人類全てだと聞いた。死という状況が存在しない限り、僕たちは未来永劫、十字架を背負って生きなければならない。ならば僕も彼女も、呪われた存在である。僕たちは何をしているのだろう。
 まだ十歳の僕と彼女には分からないことが多すぎて、知りたいことがたくさんあるのに、どうして動けないのか。足枷。性は快楽であると共に、共存と繁栄の象徴でもある。繰返シマセヌと、焼け爛れた肉体の行列に向かって叫び続ける。それが僕。彼女は、あの場所から遠く離れた木陰で、あの街の方向を指差している。


 僕は死んだように眠りについていた。起き上ってみると、そこは学校の教室。僕の隣で寝ているのは彼女ではなく、真っ黒になった楕円形の死体。
 僕は、自分も死んでいやしないかと自分の掌を眼の前に翳す。傷すら無い肌色の指は自由に動く。死んではいないのだ。それを認識した時、既に僕は立ち上がっていた。
 治療室か霊安室か。そんな殺伐とした光景に変貌した教室の中に、僕は存在している。廊下から呻き声が聞こえる。僕の足元からは、渇き切った喉の奥から声にならない言葉が聞こえる。僕も死んでいて、この黒い人の列に混じっているのではなかろうか。そう考えると恐ろしくて、早急に教室を後にした。
 廊下は横たわった呻きで足の踏み場もないほどだった。恐らくこの学校の教師だと思われる人物が、児童たちに指示を出し、死体を運ばせていた。児童たちは淡々と、絶えた人間を引きずっている。
 恐怖。その不思議な感情の誘惑。廊下の窓から外を見てみると、人々が山積みにされて燃やされていた。百人は居る。吐き気を催す匂い。死体は上から降り。
 眼が合った。瞬間、止まる時。左眼は閉じたままだったが、右眼はまだ白かった。それがカッと見開かれたまま。水ヲ、と唇が震え。
 再び、時は動き出す。僕の方に眼を向けたままの死体は、地に叩きつけられ。胴を鉤で打たれ、無造作に死体の山に運ばれた。二人がかりの作業だった。途中で頭と胴が千切れたのを僕は見逃さなかった。あまりの物々しさに声さえ出なかったが、最後まで見届けていた。
 この悪夢から眼覚めたら。いや、悪夢ではなく現実であるにしても、僕は足枷を千切る。そして叫びに行く。街。過チハ繰返シマセヌカラ。あの日に。それが僕に課せられた罰。


 少女は凍りついた裸体を僕の眼の前に晒していた。人差し指を、遠くへ向けて。
 僕の左足そのものを鋳型にしたかのような、鉄製の足枷。足が地面に埋まってしまったような、とてつもない重さの足枷。動くことができない。彼女にはもう触れられないだろうか。彼女、その裸体という一つの「もの」に。
 さらに続く道の道標のように立っている彼女。指差す先に、街。自分の存在するべき場所はあの街。真偽は別として、自分は眠って夢を見ているのだと信じることにした。おぞましい悪夢。


 何のため。何のために、僕は彼女を追究しているのか。時が、きっとその答えを握っている。だが、静止したままの一九四五年八月六日から動けないでいる。身体を洗うように這いまわる舌。それは動いている。だが午前八時十五分から動けないでいる。時間はそこで止まっている。一九四五年八月六日八時十五分という世界に束縛されている。
 レールの上、回らない車輪。流れない雲。死んだ人々が歩いている姿勢のまま、彫像のように空を見上げて。太陽は針のような光を放ったまま。ルツィファーがそれを受けてミヒャエルの輝きを呈す。静寂。僕と彼女以外の全てを、氷の中に閉じ込めてしまったような。
 一秒後には全てが終わる。この場の全て。だが動かない。何もかもが動かない。だから僕は彼女を追究している。黒の茂みをかき分け、赤黒い陰唇を舐め。だが何をしても、彼女は一言も発さない。ただ僕の頭を押さえつけているだけで。
 本能。それが僕を突き動かしているのか。分からない。僕は悲劇に遭ったことも無ければ死んだことも無い。それでも、足枷は一生つきまとう。彼女の深部へ指や舌を入れても足枷は決して外れない仕組みになっている。では何を求めているのか。僕という存在が現実に許容されなかったのか。
 なぜ、生きることを望む? 死が怖いから?


 夢の中にいると分かっているのに、夢から抜け出せない。
 長い年月が経っても、消えない傷痕。鐘が鳴り響く街。慰霊碑の前には、夏の朝日に照らしだされた人々が鳩を見上げ。そんな光景が瞼に浮かぶ。慰霊碑。過チハ繰返シマセヌカラ。
 高層ビルが林立する街。一九四五年の焼け野原から再生したとは思えないほどの見栄え。しかし、その上空を、あの日あの時と同じルツィファーが、翼を広げて舞う。
 やがてルツィファーは降下する。時は動いている。氷に幽閉された人々はどこかへ行ってしまった。何も知らない僕だけが、不条理という名の街に取り残されたのだ。
 光。
 全てを吹き飛ばす光。
 やがて光は僕にも届き。
 轟音。
 その炎の中に、彼女が居た。
 皮膚は黒い服と化し、爛れたヴェールを揺らしながらこちらに近付き――かと思うと、足を踏み出した瞬間、彼女は倒れてしまった。
 僕はそれでようやく動くことができた。
 これが答えだ、と気付いた。だから動くことができた。


 いずれ僕は死ぬのだ。なぜ、生きることを望む? 何を求めて生きる?
 だが、今、一九四五年八月六日。午前八時を過ぎたところだ。ゆっくりと路面電車が走り、人々は街の中を何も知らないまま行き交う。
 いつまで、この悪夢が続くのだろう。
 生きることを望む決定権など僕には無い。
 生きなければならない理由が、僕の足枷だからだ。今ここに生きていることが、僕の足枷だからだ。
 僕は彼女のもとへと向かった。彼女のいる場所はちゃんと分かっているから、すぐに着いた。当然のように、彼女はそこに居た。それなのに、なぜか僕は息を荒げていた。走ってきたわけでも、興奮しているわけでもないのに、どうして胸がざわめくのか。
 僕は彼女の左手を手に取ると、そこから舌を体中に回し始めた。背中も、胸も、顔も……。
 なのに、どうして。
 どうして、答えがこの中に無いのだろう。僕は実際、彼女のことなどよく分からないし、偶然の邂逅だったのだけれど。だが彼女がこの日に関与している可能性がある気がしてならなかった。それが答えとばかり思っていた。それが答えだと……。答えはどこにも無かったのだ。
 それが、答えだ。
 僕は彼女から手を離し、彼女を解放した。彼女はそれを悟ったようで、さよならも言わずに路地裏を後にした。朝の強い日差しの中に溶け込むように、彼女は、消えた。
 僕はよろよろしながら立ち上がり、彼女の去った方に行った。もう、あの時間が近付いているのだろう。人々は、真っ白な太陽の下を気だるく歩いている。
 咆哮。早く逃げろ、空襲だ、と、死に物狂いに僕は叫んだ。そう叫びながら走り始めた。どこへ向かうとも無く。いつの間にか僕は泣き出していた。生きることが、死が、怖いのだ。それでも叫び続けた。走り続けた。人々の中を掻い潜って。
 この夢から覚めたら、きっと僕は生きていく。理由も無く。行く当ても無く。今僕にできることは、走り続け、叫び続けることだ。それで世界が平和を迎える保証はない。可能性さえ無いに等しい。だが、今の僕には、叫び続けるしかできない。死が訪れるまで。
 朝陽に包まれたルツィファーが、降下するのが見えた。間もなく翼を無くした鳩の悲鳴がラルゴで――

七つの交響的断章、あるいはキリエ/間もなく翼を無くした鳩の悲鳴がラルゴで……

不謹慎だとか、そういう考えは一切排してこの作品を書いた。
この作品を読んで嘆く方もおられるかもしれない、という危惧はあった。
ただ私は、私の表現に内在する「モノ」を、この作品に映した。

この小説が孕む大いなる危険は、決して軽視できるものではない。
ただ、この小説に描かれている問題自体の危険性さえ黙視されている今だからこそ、あえて危険に足を伸ばした。
私はそれが功を奏したとなどは決して考えたくない。

アートコンペティションでの受賞は、必然的だったとまでは思っていないが、ある程度の確信はあった。
正解か失敗かのどちらかに転ぶだろう、と思っていた。
この作品は、一般に言われる娯楽小説とは趣を異としている。
だがそれが逆に、この作品に流れるアート性を強調したのだろうと思う。
同じく応募した「猫は死んでいた」にも、同じ要素が見られる(と思う)。

これまで、ヒロシマについて書かれた小説は、惨劇を訴えるものが多かった。
ただ、ダイレクトに「惨劇を伝えていかなければならない」「決して忘れてはならない」と訴えるものが今日眼立たない。
ゆえに、私がこの物語を書いたのかもしれない。

余談ではあるが、「聞こえる」という合唱曲を聴きながらこの物語を描いた。
脱稿から一年たった今でも、この物語を見返すと心にジンとくるものがあるのは、決して小説単体が生み出すもののためだけではないだろう。


ヒロシマの犠牲者、そして明日もこの世界を生きる全人類に捧げる。


2011年8月27日   錬徒利広

七つの交響的断章、あるいはキリエ/間もなく翼を無くした鳩の悲鳴がラルゴで……

その日の衝撃に、眼球まで痺れた。 1945年8月6日という世界に束縛された僕の物語。 僕を生に繋ぎ止めておくための足枷。 そして、僕があの世界で生きなければならない理由。 それでも、きっと僕は生きていく。 そう、 間もなく翼を無くした鳩の悲鳴がラルゴで――

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-08-27

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