ラベンダー(仮)

1.僕のくせに

ピ、ピ、ピ、ピ……

 遠くから電子音が聞こえる。僕は自転車に乗って学校への道を急いでいる。この地域で一番の流域面積を誇る川を橋から見下ろすと、誰かが川に入ってなにか言っている。よく見ると幼馴染の(あや)だ。
 (あや)は鮭を両手に鷲掴んで大声をあげている。最初のうちは何と言っているのかわからかったが、段々とはっきりと聞こえるようになってきた。

「けーたろー! ご飯できたぞー!」

 その声は郁というより、姉貴の声だった――。


「っ!!」
 ぐっしょりと汗ばんだ背中。ねっとりと絡みつくような熱気。乱雑に散らかった布団。

 朝だ。しかも月曜日。

 変な夢を見て寝覚めもすっきりしない。下の階から姉貴の声が聞こえてくる。頭の左上では目覚まし時計が7時30分を指していた。7時30分というと、僕が毎日家を出発している時間なわけだが。僕は今こうして地味なパジャマに身を包んで乱れた布団に横になっている。つまり、このままだと僕は遅刻する。
 ここまで考えて僕の寝ぼけた脳みそは事の重大さを理解する。じわじわと迫る焦燥感に飛び起きる。
 勢いよく階段を下り、焼き鮭の香りに胃袋を刺激されつつ半袖のワイシャツに着替える。歯磨きをしながらズボンを履いて、顔を洗ったら身支度完了。朝食を食べない僕を姉貴がガミガミと罵っているが、生憎言い返す余裕が無い。逃げるようにして玄関を出て、全力で自転車を漕ぎだす。

 7月に入って、急激に気温が上がった。まるで神様が上半期をぼーっと過ごした僕らにじりじりと嫌がらせをしているみたいだ。そんなことをされると、益々やる気をなくす。僕には神も仏も見分けがつかないが、どちらにせよ僕に優しくはないようだ。
 学校に到着すると、ちょうど野球部の朝練が終わるのと重なってしまった。ぞろぞろとグラウンドから出てくる坊主頭たちは、アメリカのパニック映画のワンシーンと大差ない迫力を有している。僕は邪魔にならないようにそっと駐輪場へ向かった。
 木陰に位置する駐輪場は葉の陰があるだけなのにとても涼しい。近所の朝ごはんの香りを運ぶ風が心地いい。自分が遅刻中の学生だということをうっかり忘れそうな爽やかさがある。静まり返った駐輪場には僕しかいない。どうせ遅刻ならここで居眠りしても構わないかもしれない。サドルに跨ったまま、くだらないことを考える。高台になっている駐輪所から町を眺めていると、携帯が鳴った。びっくりして自転車から落ちそうになる。電話の主は郁だった。
「もしもし慧太郎? 私今日ちょっとだけ遅れるから先生に言っておい……あ」
 途中からなんとなく嫌な予感はしていた。郁は携帯を片手に自転車で僕の前に現れたのだ。
「お、おはよう」
 とりあえず挨拶をしておく。
「あー、うん。おはよう。まさか慧太郎も遅刻とはね……。想定外だったわ」
「郁こそ珍しいじゃん。寝坊?」
「まぁ、そんなとこ。慧太郎だってあんまり遅刻しないじゃん。どしたの?」
 郁が鮭を鷲掴んでる夢を見てて遅れたなんて言えない。僕はテキトーに誤魔化す。郁はテキパキと教室に向かう準備をして昇降口に向かって歩いていく。僕もいつあでもサドルに跨っているわけにはいかない。急いで支度をして郁の隣に並ぶ。

 僕の高校生活は可もなく不可もない毎日で構成されている。こんな日々が永遠に続くんじゃないかと思うほど、淡々としていて面白みがない。まるで作業のような毎日だ。変化に乏しい。そんな中でも郁の存在は、僕の日常にちょっとだけ起伏を加えていた。恋愛的な意味ではなく、単純に人間として。
 郁とは小学校の頃からの仲だ。家が近所というわけでもないが、なぜか昔から一緒にいた。知り合って最初の頃や中学のときは特別気が合うというわけでもなかった。郁は活発で気が強く、僕は消極的で気が弱い。それは今も変わらない。郁は僕に説教したり八つ当たりしたりといろいろだが、不思議と口を利かなくなるほどの喧嘩をしたことはなかった。

 高校の授業というものはなぜこうも眠くなるのか。今日も7つある授業のうち3つは寝潰した。そんなことをしているものだから、下校の時間はあっという間にやってくる。僕はなにも部活に所属していないので、尚のこと帰宅があっという間だ。
 僕は街中を通って毎日登下校する。もっと近いルートがあるが、そっちはつまらないので街の中をわざわざ通る。僕の住む街は近代的すぎず、かといって寂れてはいない良い街だ。高齢の人は多いが、若い人もたくさんいる。ぱっと見ただけでも、犬の散歩をしている若い女性や小さな子供の手を引いて歩く若いお母さんなんかが目に入る。
 ちょうど病院を通過するとき、どこからか花のようないい香りが漂ってきた。気になって辺りを見回すと、20代前半の女性がラベンンダーを持って病院に入っていくところだった。ラベンダーの切花なんて珍しい。この街ではラベンダーは栽培されていない。近隣の地域でも聞いたことがない。珍しいものを見て、なんとなく得した気分だ。さて帰ろう、そう思ってペダルに足をかけたそのとき真っ白な猫が僕の前を横切った。近いうちにいいことがありそうだ。

翌日

 今日は昨日と違って夢を見る余地もなかったらしく、ぐっすり眠れた。なんちゃって遮光カーテンが白くきらきらと光って、若干目に悪い。そして相変わらず暑い。カーテンと窓を開けて部屋を出た。
 階段を下りると姉貴の姿がない。そっと部屋を覗くとまだ寝ていたので、起こさないように朝食を食べて用意をする。
 今日は朝から体育だ。めんどくさいな。郁、今日は遅刻してないかな。郁にこんなことを言ったら、僕に心配される筋合いは無いと怒られそうだ。さっさと着替えて教室内の数少ない友達と一緒にグラウンドへ向かう。
 グラウンドはフライパンの上のように暑い、もとい熱い。まだ朝だというのになぜこんなに暑いんだ。帰る頃がおそろしい。僕は家にたどり着けるだろうか。途中ででろでろに溶けたりして。
 頭の中を愉快な空想で埋めていると、ふいにサッカーボールが飛んできた。僕は驚いて両手でガッチリと掴んでしまった。ゴールキーパーではないのに。普段僕と仲良くしているやつ等は容赦なく大爆笑を浴びせてくる。あまり接点がないやつ等は笑いを堪えてニヤニヤしている。僕は仏頂面でボールを掴んでいる。なんだこれ。
 体育の授業の後の数学ほど眠いものはない。そうやって寝潰した数学の後の国語ほど目が開かない授業もなかなかない。昼食後の地理ほど以下略。
 こうしてまた僕には下校の時間があっという間にやってきた。朝の時点では無事に帰宅できるか危ぶまれた午後3時30分だったが、すっかり天気がひっくり返って大雨が降っている。傘を差しながら自転車に乗るのは好きじゃないし、そもそも傘を持ってきていなかったので鞄だけ防水措置をして雨の中に飛び出す。
 今日はさすがにはやく帰れる方のルートで帰ろうと思い、いつもと違う道を走る。こっちの道も結構新鮮でおもしろい。知らないお店や建物がたくさんある。
 もう少しでいつものルートとの合流地点というところで、僕は思いっきりブレーキを握った。見たことのないこじんまりとした神社に見慣れた背中がちらっと見えた。真っ白なシャツを雨に濡らし小さくしゃがみ込んでいる、郁だった。こんな所でなにしてるんだろう。いくら気が強くても、長い間雨にあたっていたら風邪をひいてしまう。僕は自転車を降りて郁を呼びに行くことにした。
 泥でぬかるんだ地面が靴について汚れる。構わずに郁がしゃがんでいる石畳のところまでまっすぐ進む。雨脚は強くなる一方で、肩にあたる雨粒が段々重くなってくる。石畳にあたった雨粒は5cmほどの高さまで跳ねた。
「郁……?」
 声を掛けると郁の肩がビクッと震える。驚かせてしまったようだ。
「……慧、た……」
 雨のせいでなにを言っているのかよくわからない。とにかく雨のあたらないところに行こう、そう言ってみたがやはり聞こえていないようだ。仕方ないので後ろから腕を引いて立たせよう。僕は手を伸ばして郁の腕を引いた。
 その瞬間。
 僕に背中を向けてしゃがんでた郁の脚がもつれてバランスを崩し、僕の胸に郁が飛び込んできた。そして、郁の鼻が僕の鼻を掠め、やわらかい感触が唇に。
 僕はもちろん驚いたし、好きでもない男とこんなことになってしまった郁に申し訳ないと思った。しかし、僕はそんなことよりもっと驚くべき現象を目の当たりにする。
「郁……? なんで、泣いてるの……?」
 あの強くて明るい郁が泣いている。僕の腕の中で声を殺して泣いているのだ。僕は郁が泣いているのを初めて見た。

「……っ、慧太郎のくせにっ……」

 郁はそう言って僕を突き放し、豪雨の中に走り去ってしまった。

 お賽銭箱の横には、昨日見た白猫が座っていた。

2.恋愛とは

 朝がきた。私の憩い、月曜日の朝が。

 浪人生の私にとって、月曜日は唯一の休憩日だ。社会的集団に属さない我々浪人生は、自主的に休まなければ誰も休みを与えてはくれない。毎日通っている図書館が休館なので、私はそれに(あやか)って月曜日を休憩の日としている。休憩の日はいつもより勉強する時間を短くしたり、全く勉強しなかったりといろいろだ。私は私の中のルールとして、月曜日を自分が最も自由にすごせるようにしている。好きなことをして好きなものを食べて一日まったりすると、次の日がビックリするほど爽やかに迎えられるのだ。
 いつもはパンが主流なのに、今日は冷蔵庫に入っていた大きい鮭の切り身を贅沢にも朝食として食べているのだから月曜日万歳だ。しかしせっかく月曜日の幸せに浸っているというのに、珍しく遅刻気味の弟がドタバタとうるさくするのが妙に癪に障る。おまけにせっかく焼いた鮭も食べていかないという。学生にとって朝食がどれほど大事なものか弟は知らないのだろう。私は弟に朝食の重要性について一通り語ったのだが、私の話をちゃんと聞いているとは思えない態度でそそくさと家を出てしまった。

 浪人生活が始まって約4ヶ月が過ぎた。私はほぼ毎日図書館に通い、その帰りに近所の古本屋に寄っていた。その古本屋は私が小さいときからあった。とても小さい店だが、雰囲気が良くて高校生の頃から好きだった。そんな馴染みの古本屋に、今から2ヶ月前くらいから推定年齢25歳の若い店番が出るようになった。最初のうちは愛想も良かったのだが、私が毎日来ていると知った途端にあろうことか客をイジリ始めたのだ。
「お嬢さんさぁ、もしかして毎日来てるの?」
「え。あ、はい」
「うわー、暇人なの? ニート?」
 なぜ贔屓にしている店の店員にこんなことを言われなければならないのか。私は一瞬何が起きているのかわからなくなったが、馬鹿にされていると気づいた瞬間抑えきれない怒りをおぼえた。
「私から言わせてもらえば、あなたの方が暇人に見えますけどねぇ??」
 店番はにやにやしながら一人でオセロをしていた。私の発言などまるで無視だ。これ以上ここにいたくない、そう思って店の出口に向かって歩き出そうとしたそのとき、店番が口を開いた。
「お嬢さんオセロやったことある? ちょっと相手してくれない?お兄さん、”暇人”だから退屈で」
 当然、私は馬鹿馬鹿しくなったので無視して帰ろうと思った。しかし店番はこう続けた。
「お嬢さん勝ったらニートとか言ったの謝るからさ、ね?」
 ここで帰ったら逃げたと思われるだろうと思った。それよりなにより、こいつが頭を下げるのを見たいと思った。それで私はオセロ勝負を受けることにした。
 結果は惨敗。ボロ負けだった。今思えば店番は毎日一人でオセロや将棋、チェスなどをしていたのだから、最初から勝てるはずが無かったのだ。負けた瞬間、私はもうこの古本屋に来られないなと思った。しかし次に店番が言った一言で私は今も古本屋に通う破目になっている。
 本当はオセロに負けたときからあわせる顔が無かったのに。
「お嬢さん、浪人生でしょ? なんとなくわかる。まあ、オセロも負けたんだし大学受かるまで毎日ここ通いなよ。で、俺の話し相手になってよ。なんたって暇人だからさー、お兄さんは」
 私はたぶん呆れた顔をして、こう言ったと思う。
「……いい歳して、お兄さんはないわ」
 店番は笑っていた。

 というわけで、今日も私は古本屋に行く。これはオセロに負けた私に課せられた義務だ。月曜だろうと行かねばなるまい。敗者に選択権は無いのだ。それに私自身、さほど苦に感じているわけでもないことも古本屋に足を運ぶ理由のひとつであることをここで告白しておく。悔しいことに、店番は話しが上手い。話すのも聞くのもとても上手い。会話が楽しいのだ。あのトークスキルがあってなぜ田舎の古本屋なんぞで店番をしているのか不思議で仕方がない。私はその魅惑のトークにすっかり魅入られていると言ってもおかしくはないかもしれない。相変わらず私をイジルことで成立していく会話構成には納得できないが。

 一通り家事を終わらせて、外に出る準備をする。
 お気に入りの洋服を着て、髪をまとめたら準備完了。パステルカラーの自転車に乗って古本屋を目指す。古本屋は図書館に行く途中にある。家から自転車で10分くらいのところだ。そして古本屋の手前の道を一本曲がると、その通りにはお花屋さんがある。
 地域密着型のお店で、小中学校の卒業式やらなにやらのときに使う花を割引で提供している。私も中学校を卒業するときに貰ったここで作った小さいブーケを、ドライフラワーにしてしばらく飾っていたことがある。なんだか懐かしくなってきた。久しぶりにお店を見てみようかな。どうせ時間はたっぷりあるんだし。私は古本屋の手前の道を曲がった。
 久しぶりの通りには花の香りが漂っている。自転車をゆっくりと漕ぎ進め、その香りに癒される。ああ、月曜日最高。少し行くとお店の木目調の外壁が見えてくる。私は自転車を降りて手で押しながらお店の横まで進み、邪魔にならないところに自転車を停める。かわいらしいお花屋さんとパステルカラーの自転車がなかなか良い雰囲気を醸し出していて、私っぽくないなと思いながらもその風景に欠片ほどの乙女心を弾ませた。お店の前まで来ると香りが一層鮮やかに香る。
「横瀬......?」
 突然、誰かに呼ばれて辺りをキョロキョロと見回す。すると、声の主はお店から出てきた。
「……佐伯(さえき)?なにしてんの……?」
 そこにいたのは佐伯(さえき)という中学のときの同級生だった。しかし、ただの同級生ではない。
「あ、いや……その、俺ここで働いてるんだよね……」
 よく見ると確かに佐伯はこのお店のロゴが入ったエプロンをしている。地元ではあるが彼も社会人になりつつあるということだ。そう考えたとき、私の中になにか焦りに似た憂いが芽を出した。胸が締め付けられるように痛む。苦しくなる。
 私は挨拶もほどほどにお花屋さんを後にした。

 お店を離れても心臓への締め付けは止まない。風が頬を掠めるたび、思い出したくないようなことが脳裏を掠めていく。朝の清々しい気分がその風と思い出に(むし)り取られて、代わりにどろどろとした重く冷たい憂いの影を心の底に落としていく。なんでこんな気持ちにならなければいけないのだろう。いつまでこんな思いを勝手に一人で抱いて苦しまなければいけないのだろう。なぜ私は、全部自業自得の一言で片付く話を必死に他人のせいにしようとしているのだろう。ああ情けない。みっともない。格好悪い。

 いろいろな事を考えすぎて、古本屋に着く頃にはネガティブ精神の化身のような状態になっていた。店の前に無造作に自転車を停め、トボトボと扉に向かって歩く。腕にほとんど力を入れずに、体重だけでその古めかしい扉を開ける。
 カランッと微妙な音色のドアベルが鳴ると、薄暗い店の奥でパイプ椅子を引く音がする。
「いらっしゃい」
「はい、どうも」
「なんか今日はいつもと違うテンションの低さだな。別にどうでもいいけど」
 パイプ椅子の前に置かれた小さなテーブルの上には将棋板が広がっていた。ちょうど玉の方が王手をかけられているところで止まっていた。
「別に心配されようなんて思ってないから」
「あっそ。将棋……下手だもんなー。相手にならないんだよ」
 なんとなく歳が上なのはわかるし私は基本年上には敬語を遣うのだが、この男に関しては別だ。私は敬語を遣われるほどこの男は大人じゃないと判断した。そんなことを言いながら、上に兄や姉がいない私は単純にこの男に甘えているだけなのかもしれないとも思う。実際、敬語を遣わないことに明確な理由は無い。ただ、なんとなくだ。この男との間にはなんとなくなことが多いような気がする。まあ、それが適当な距離感というものなのだろう。
 私は最近やっと用意されるようになった私専用のパイプ椅子に座り、眼下に広がる攻め滅ぼされた玉の陣地を眺める。
「で? 今日はなんのお悩み相談室を開けばいいのかな?」
 いちいちムカつく言い方をする。まるで話聞いてやってますよ的な空気を出してくる。本当は自分だって私が来なければ退屈してるのに。
「なにその言い方。腹立つわー」
「ストレスは肌に良くないからあんまり怒らない方がいいぞ?」
「うるさい」
「……ほんとに今日はテンション低いな。なにかあったのか?」
「……話、聞いてくれる?」
 彼は細かい細工の入ったグラスに麦茶を注いで私に差し出し、うなずく代わりに瞬きをひとつした。
「さっきね、昔の恋人に遭遇しちゃってさ。恋人っていっても正味半年くらいしかそういう関係じゃなかったんだけど。でもそいつ、地元のお店でちゃんと働いてたのよ。なんか私、浪人生なんかやってて置いてけぼりくらってるなーって思って。普通の同級生だったらなんとも思わなかったかもしれないけど、一度そういう仲になった人だったからダメージ大きいみたいで。そいつと上手くいかなくなったのも浪人したのも、全部自業自得なのは私だってわかってるの。でも、心のどこかで他人のせいにしようとしてるみたいで、そんな自分が情けなくて……って負のスパイラル」
 私は終始麦茶の入ったグラスを見つめて話した。目を合わせないように。
「……まずどこから片付ければいいんだ」
「そんなの、わかってたら自分でなんとかしてるから!」
 つくづく失礼なやつだ。なにから解決すればいいのかすらわからないから相談しているというのに。
「んー……じゃあまずは、置いてけぼり喰らってるように感じてるってとこからだな」
 私は透明なグラスから彼の鼻のあたりに視線を移す。こうやって話題をおおまかに分断してまとめて話すのは、彼のトークテクニックのひとつだ。
「これに関しては簡単だ。早く社会人になることが進歩ではないし、一概に良いこととは言えない。学校に押し出されるように無理やり社会に突入させられるやつもいれば、じっくり時間をかけて堂々と社会人の仲間入りを果たすやつもいる。いいか? 浪人は停滞じゃない。明確な目標を達成するために費やす貴重な”時”だ。お前が浪人してる間、お前の人生は一時停止するのか? しないだろ? 要は、その男が働く時間もお前が勉強する時間も、比べることができないそれぞれの価値を持ってるってことだよ。俺を見てみろよ。社会人への憧れとか焦燥、感じるか?」
 突き放すような言い方も諭すような口調もその全てが私の迷路みたいな脳をスルーして、心に直接流れ込んで染み渡る。言っている事には、はっとさせられるのだが、その言葉たちは常に納得と共に私に入ってくるため同時に頭を整理することができるのだ。
「うん、全然感じないわ。比べられない価値がある、かぁ。さすがだわー」
「おい、全く感じないのもちょっと」
「え?」
 二人で小さく笑う。心の底に溜まったヘドロのような憂いが少し片付いて、軽くなったような気がする。
「あとは、お前のそいつに対する微妙な未練みたいなものだな」
「違う、未練じゃない。そんなものはとっくの昔に消え失せちゃったよ」
「……その言い方。まだ好きでいたいみたいな言い方。なんだ”消え失せちゃった”って」
「ちがっ、そういう意味じゃなくて! ……その、恋愛する心?みたいなものがどこかに行っちゃったっていう意味」
「恋愛する心……ねぇ」
 彼は私の顔を覗き込んで唸る。
「……なによ」
「俺が思うに、恋愛っていうのは勘違いの連鎖が引き起こす超常現象みたいなもののことだ」
「と、申しますと?」
「人間ていう生き物は言うほど複雑にできていなくて、好きって言われると好きになっちゃうみたいなとこあるだろ? 惚れやすいやつ以外でも、普通にしてるやつにだって多かれ少なかれそういうところがあるわけ。そうやって知らない間に、自分はその好きって言ってきた人のことが好きだって勘違いするんだよ。そうすると好きって言った人は、この人自分のこと好きだって勘違いするだろ? そんな感じで勘違いが連鎖していくわけ。で、あるときどっちかの勘違いが解けると関係が終わる」
ナイスひねくれ! ものすごく曲がったものの見方をすると、案外ポジティブに生きられるのかもしれない。
「すっごいひねくれてるけど、実際そんなものかもね。所詮恋愛なんて目が覚めるまでの幻想なんだ。そんなのできてもできなくても変わんないわ」
「まあ、俺が言いたいこととはちょっと違うけどな」
「なにそれ、すごい気になる。違うの?」
「違うけど、今は言わない」
 これはいくら聞いても絶対に答えないパターンだ。前にも何回かこういうことがあったから学習済みである。あきらめてまた今度聞くことにする。
 それから午後5時まで、私と彼の談笑は続いた。この前読んだ本がどうとか、最近の文芸がどうとか。他愛も無い、おまけに私たちに直接関係の無いような話をしてゆったりと時間をつかう。とても贅沢で優雅な時間だ。ここに通い彼と長い時間話すようになって初めて、時間を忘れるということの本当の意味が良くわかった。不思議とお腹も空かないのだ。
 しかし彼が言ったように私がそんな感覚に陥っていたとしても、時間は止まってくれない。私の憩いの月曜日はもう終わろうとしている。今週の月曜日も満喫できた。大満足だ。いつもの月曜日なら睨み付けているような沈み行く夕陽を、今日だけは愛おしく思う。
 また明日からがんばろう。

 翌日。

 ガチャン、と玄関が閉まる音で目が覚める。カーテンから差し込んでいる日差しがいつもより強いような気がする。一瞬フリーズしてから慌てて目覚まし時計を見ると、いつもの起床時間より短い針が1つ進んでいる。私としたことがこの神聖なスタートの日、火曜日に寝坊をしてしまった。この一時間のズレが私になにをもたらすかというと、計画のズレと勉強における一日のノルマ達成が難しくなってくるという重大な問題だ。大体、なぜ弟は私を起こして行かなかったんだ。とにかく今は腹を立てている場合じゃない。私は大急ぎで支度をし、家を飛び出して自転車に飛び乗った。

 私が毎日通う図書館は、私が浪人生になる頃に改装工事が行われて内装や蔵書がリニューアルされた。外見が変わらなかったため、頻繁に利用する人以外は変化がわからないと言っていた。しかし、通いなれた人々にはその変化がしっかりと伝わった。例えば、以前は児童向け蔵書のコーナーに近く位置していた自習室を、落ち着いて学習できるように地理系の蔵書の隣のスペースに移動されていた。蔵書の数も増えたし、その種類もかなり増えた。どの変化も退化ではなく進化だととることができたので、私は無駄な改装とは思わなかった。
 図書館に着くと、既に自習室には人がたくさんいた。いつもは空いている時間に来るので席が残っているか心配だ。私はやっとのこで席を確保し、すぐに勉強に取り掛かった。なにせ寝坊により生じた1時間の遅れをどうにか取り戻さなくてはならない。今日の私に落ち着いている暇などないのだ。周囲の雑音が気にならなくなるほど集中して、ぶ厚い参考書の難問を解き漁った。
 必死にシャーペンを動かしているうちに、あと少しで終わるというところで閉館の時間がきてしまった。自習室にも朝の状態が嘘のように人がいない。帰らなきゃ、そう思って帰りの支度をしようと立ち上がる。しばらく仕事をしていなかった膝がグギギと悲鳴をあげる。肩の凝りもひどくて石像にでもなった気分だ。用意をして、人の少ない館内を出口に向かってまっすぐ歩く。足音が響いて神秘的な空間のようだ。実際、たくさんの本たちに囲まれているこの空間は神聖で神秘的に違いない。私はこっそりと深呼吸をして文字たちから湧き出る神秘の空気を摂りいれる。微かに、インクの味がした。

 図書館の外は雨上がりの独特な香りと湿気に噎せ返るようだった。必死になって進めたが、やはり1時間の遅れは痛い。基本的に家では勉強しない主義を貫いてきたのだが、今日は帰っても少しやらねければならない。いろいろ考えていると20メートル先くらいに古本屋が見えるところまで来ていた。今日は寄っている場合じゃない。しかし、敗者に選択権はない。已むを得ないのだ。私は自分にたんまりと言い訳をして、自転車を古本屋の方に進めた。
 古いドアベルが変な音で出迎えてくれる。それと同時にふんわりとラベンダーのいい香りが私を包む。火曜日は決まって必ず濃いラベンダーの香りがする。妹さんが毎週火曜日にポプリを作って持ってきてくれるそうだ。その香りは火曜日に一番強く、月曜日にかけて段々と弱くなる。今日は妹さんが持ってきたばかりのポプリが壁にかけられているから、香りが一層強いのだ。そういえば昨日通ったお花屋さんの通りにも似た香りが漂っていた。
「いらっしゃい。遅いから今日はサボりかと思った」
「やっぱりここに通うのは義務なのね」
「来たくないなら来なくても……いや、義務だね」
「今、お客に言っちゃいけないこと言いそうになったでしょ」
「お前ウチで本買ったことないくせに」
ああ、落ち着く。悔しいけど、ここは私の居場所になりつつあるのかもしれない。この空間はそれを許してくれそうだから、気を抜くといけない。
「今日はちょっと忙しいからもう帰るね」
「へぇ、珍しい。」
呟く横顔がなんとなく寂しそうに見えるのは私の勘違いかもしれない。勘違い……? 
「そういえば、昨日言わなかったこと今日も教えてくれないの?」
彼が昨日言った「まあ、俺が言いたいこととはちょっと違うけどな」という言葉が気になっていた。できれば彼の話を、彼が言っている意味のまま受け取っておきたいからだ。彼はこっちを見ずに、小さなテーブルに散らばった裏返しのトランプを見つめながらこう言った。
「ああ、あれなら忘れてくれ」
それはいつもの飄々とした口調と違って、冷たく突き放すような響きを持っていた。
 私は何も言えないまま、そそくさと店を出るしかなかった。
 店の古めかしいドアの傍らには、真っ白な猫が座っていた。




 


 

ラベンダー(仮)

ラベンダー(仮)

ゆっくり更新していきます。全部で10章になる予定です。更新情報は随時twitterで報告しますので、気に入っていただけたらフォローしてくださるといいかと思います。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-09-06

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  1. 1.僕のくせに
  2. 2.恋愛とは
  3. 3