貝殻
オープニング
easer(容易)といういみだが所謂こと。本来easy,easier,easiestこのことは人間課増健次郎にも謂える。主人公課増は主局計人事部係長であり、この物語はフィクションで或。課増「かます」は本来長い間メインルートに乗らず傍流の人生をおくって来た。そこでかんがえを巡らすと完全個人主義の堅物なので或。なぜ個人主義者がメイン街道で経過をたどらなかったかというと運である。しかも本人が望んでとはいってないと運がまとめるのである。ただこれは運が見方なのか敵なのかの現れなのかは通常人には安易な判断を除き解からないだろうが課増本人にはわかってる。「そこ!」「そことって!!」掛け声がとんだ。
「はっ」急な掛け声に課増ははっとした。とる?何を??さあ?これは指示語か。わかってるよとるよ。堅物?いやそうじゃないと言いたい気持ちを抑え、そこはそう、簡単おちた羽を拾うだけなんだ。そうバドミントンをしてただけなのだ。ただ思考しながら。課増健次郎本人をとらえていた思考はバドミントンの勝ち方ではない。もっとちがう物だ。それはというと簡単。今後の人生の在り方についてだけなのだ。なんだ簡単だ?そうはおもわないね。実に奥行きがありそこそこな安易なまとめでおわる様な代物ではない。ことは重大だ。じつに複雑怪奇。よみが必要だ。しかも慎重に。失敗?許される??思考の段階ならね。だれもこのご時勢個人の思考内部まではよめないからね。実行はとくに注意は要しない。問題なのは結果だ。実行はただの手段。ふん。まあ。いいさ、そこはそこ段階さへ踏みゃあいい。
長い結末?ふん。要しないね。完全だ。結果とその産物の効果はすぐおわる。完結する。ただね。声を大にしていいたいんだ。短絡だと。この完全主義者が。だよ。そう思わない?むづかしいけど。なぜかわたし也に解決しよう。
「結末とは結果の終着点。そう思わない?ちょっと哲学的過ぎたね。ただハッピーエンドだがね。大多数が望んでいるのは。この長い物語りの始まりは結末へと向けて進行。そう。それだけよ。なにも刹那的になる必要はない。だよそことってまただまたおとした羽を。」
「もう昼休みあがりましょ。」筧葉子の声がとんだ。
「うん。そうしよう。」
「社にもどるか。」
「まだ余裕はあるけどね。」
筧は慎重に時間をプレイ時間をみていた様だ。たのしくはない。日々日常はルーティンのおきまり事で思考をめぐらす暇などなく過ごさざるを得ない人生手法を選んだ者にとってはね。
それと、感じながら疑問を残しわたしはまた業務に就いた。どうなんだろ?これって。ルーティンて生活するための手段と割り切ればそれ迄だがどうもちがう。感じわるい。日々実に前進がないんだ。ただ消化。これて意味があるのだろうか?解答を教えて戴きたいぐらいだ。だれかに。どなたかに。そうよねなんかいい解答ないかしら?ただ、だれかこんな貴重な教えを自分も努力して掴んだだろうしただで・・教えてくれるだろうか。いったいどんな報償でいくらの価値が要るんだろうか?それは解答を聴いてみないと払える報償は自分で価値判断したいところだ。価値がないものに高い対価は払いたくなしね。でもなんか不安・・。このままでいいのだろうかと。さてまた上司間抜輔五郎から苦情愚痴が飛んだ。自分としては叱って構ってもらえるうちが花だと自分なりには満足してる責任もそれなりに重いんだし。
「課増さん!この仕事教えてください。おねがいします。」と葉子が接近してきた。最近やけに慣れなれしい。
「うん。おれがやっとくよ。」
ただ、それだけなんだ。おれが解決できることって欲を際限まで延ばすと「おれのできることにないものはない。」なんて感じ悪い思考手段自己中心人間になる。ごめんだー。自分は自分なりに分をわきまえることは押さえてるつもりだ。親の教育もそうだったし。謙虚でありながら謙虚じゃない?というか、
「謙虚な態度は自尊ではなく真の謙虚の布石?つまり謙虚であることにときと場合によっては謙虚であり?ようはつかいわけだ。」
まぁ、いいでしょう。つまらん言葉上のお遊びだ。わたしは男でありながら男尊女卑なんてまっぴら御免だ。時代がそうだから?ちがいます。そういう志向なのです。言い換えれば、こうだ。
「そもそも男子たるもの、機能上、ほんとに上に置かれるものだろうか?しかしいまはすくなくともややであれ、男性上位。これは機能上、優れた男性が歴史の積み重ねでこのシステムをつくりあげた=機能上位なんだろうか?この点は深く考えねば・・。はぁつかれた。答えはどこにあるんだろう。」
仕事って一体なんなんだろう?本質について考えたことがあるひとは歴史上存在するのだろうか?どうしてこういう根本的なことを考えもせずみながやるから・・と躊躇なく先入観で就職するのだろう?それは尤も社会のシステムがそういうつくりになり、嫌が応でもせざるを得ない雰囲気・・。わたし自身は筧葉子を愛してる。とりわけ、個性的ではないが。そこがいい。みんな求めるものてそういうことではないだろうか?なんとなくの安定。奇抜は要らない。じゃないかな?24歳の僕にとって仕事の見栄えはどうでもいい。生活がかかっている。その一点だ。喰わせなきゃいけない。家庭を。でもゆとりは欲しいよね。物を考える。でもスタミナの限界じゃないかな?定職にありながらその道を外れた事象を考えるゆとりを持つことって?たばこ?嫌いだね。ヤニ中が。批難は受けましょう。愛煙家からのね。理解ができない。だめとわかってて始め続けること自体に疑問がわく。ただ、お答えしましょう。自由なんだ。それで商売がなりたつってそういうことじゃない?需要がない以上その商売にひとがからむわけがない。これは商売という概念が発生して以来の基本中の基本だと思っている。しかし、むづかしい。それはなぜかというと商売の媒介物として生み出された?「おかね。」がこれほど主流を人間界で占めるって発案者自身も予測出来たであろうか?否、便利な道具とわりきればいい。あればあるに越したことはないとね。だが、それだけに執着するのもいかがと。なんか薄っぺらいなあとおもわざるを得ない。金を趣味なんてありうるのだろうか。媒介物としてときには消費しときには老後の安定のためにとっておく。そじゃないかな。老後の安定と述べたが、ただの収入が得られるなくなったときのその時点の消費媒介物。完全そうだよね。札を拝んで楽しまれる方もおる様だが。こんなことをひとに話したことはない生意気だって殺されるよ。しかし原点はこうだ。金は媒介物これは疑いようがない。ただ、主流を思考形成の中であらゆる箇所で占める現実の歴史通過のためあまりにも融通が利く利点からとり過ぎてるだけだ。だからこそこう考えればいい。お年玉なんだとね。楽して稼ぐことに越したことはない。しかし、過剰に必要なんだろうか?そこに金という変な気が起きる麻薬がある。優越感。権力欲。独占欲。つまりだれにも過剰にあっても譲りたくない。という変な麻薬性。少々自分の頭の中に説教をぶち込み過ぎたようだ。仕事に戻ろう。
「おっと、もう5時だ。はやくかたづけよう。」とわたし。
「そうね。今日は金曜だもんね。やりのこしがあっちゃまずいは。」と葉子。
そう2人は仕事上、ペアなんだ。もちろん、わたしが責任者である。と、兎にも角にもやりのこしがないように取りあえず仕事はおわらした。
「ふぅ、今日このあと、どこかいきません?」
「そうだね、どこかいこうか?」仕事上、なんかの関係に配属されると妙に親近感が沸くのかも知れない。わたしとしてはうれしいことだ。女性は好きだし。卒なく会話ができる女性とは居ても自分自身も苦じゃないし心地良い物だ。
「和食でも食べにいきます?」
「いいわよ。」
とどのつまり、自分自身ではわかってるつもりだが、心地良いと思う。こういう感じって。むづかしい考えで人生を充実させることにおもいを馳せ、その結果を見事に成就させることより。日常的愉快とでもいうものかな。そして二人は社をでた。
始まりは。
外は曇天の空模様だ。冬の午後6時半、まだ空模様の区別は付いた。もう11月か、そろそろ冬支度の人の姿が街中も目立ってくる。心も冷え切ってしまわねばいいが。できるだけ暖かい温い格好で心が圧し折れ挫折するタイミングの到来を夏時分より厳重注意し、見張らないと。
「ねぇ。予算はどれくらいにする?今夜?」
「そうね。私、カツが食べたいは。」
ふたりは、しばらく街の景観を楽しむかの様に宛ても無く、目的店も考えずにふらふらと並んで、歩いた。
いつも葉子は、わたしと歩くとき、いつも右斜めややほんのちょっと50cm程、後ろを歩きついて来る。今夜もやはりそうだった。特別な意味が葉子に取りあるのだろうか?いや、この歩き方だよ。それとも癖?ひとと歩くとき、いつも性別問わず、この位置なのだろうか。増してや、ひとにより位置は変えているのだろうか。
不安になりつつ、私たちは以前葉子の友人に紹介された有名な和食系のお店を目指す事にした。その経過、ふたりはこんな会話をした。
「ねぇ。」と葉子。
「ねぇ、ひとってこんなにも簡単に外出するいきものなんだね。これって原始の人間の発生時分からこんなに気軽な外出だったのかしら?また、変な目的や理由がなければ、外出はしてはいけない?特別なのかしら、外に出るってことって?私、外って一応好きだけど、ときに寄っては見られたくないという意図以外にも外が好きになれないで、家に閉じこもる理由もなしに漠然と悲観にくれる屋内の景観を眺めてるときが多くあるは。」
変な事をいう。とおもった。高卒の筧葉子にとってこんな達観を含み、深い、抽象・哲学的な考えをわたしへ向かい、問うというのはショックを受けた。大卒で或る、わたしにとり一応教養で凌駕されるのは非常に気まづいのでどうにかそれ相応の返事を返したくなった。
「そうだね、筧さんにとって、外はやはり、特別、こういう物だと考えたことがなかったんだよ。それに外と屋内もべつに違いがあるってことを意識する時点でそれはそれで、生活は充実してるんじゃないかな?俺は、そんなこといちいち意識してすごしたりはするようなタイプじゃないな。季節柄かな?筧さんがそういうの問うのって?」
ふたりは街の雑多の繁忙の中に染まりながら店の前で、軽くまわりのひとや建物の景観を眺めつつ、店に入った。よくある、和食レストランで在ったが、友人が紹介するぐらいの店の雰囲気とバリューは店に入ってすぐにあると気づく程だった。メニューリストをみたが、みたこともないような料理メニューもあり、何を注文しようか、すこし混乱した。
「なににする?」と葉子。そうだな。めづらしく、アチーブメントを葉子に仕事外では譲りたくなった。
「温かい物にしよう。」と取り敢えず、返事した。
「解かったは。じゃ、課増さんはこれ。わたしはこれにするー。お値段はだいじょうぶかしら・・・。」
「うん、それでいいよ。ところで、今日の仕事はなんで、めづらしく恭子はからんでこなかったんだろ?」
「んん、冴場は別の課の同僚と関わり合いを増やしたいみたいよ。彼女にもいろんな考えがあって仕事一途で終わらしたくは無いみたい。仕事はちゃんと出来るんだし、私も見習いたいは。ああいう風に要領良く、頭を賢くつかい、充実の世界感で日々進むといいなぁ。」
冴場恭子は、係もおなじだが、割と要領のいい才能型人間でまわりの評価も外見でも内面でも高い。その分、わたしはどうも関わりを保つのが不得手だ。才能のある人間かぁ。とわたしは不意に優越的な感覚で考えた。才能の高低なんてあまり考えもしなかった自分。
才能て動物界にも有利不利を生むのだろうか?いや、こうではない。動物界の中の食物連鎖に必要なシステム弱肉強食じゃなく、人間が外部から捕食や趣味・利益の為に動物をああしよう・こうしようと影響を行使することに対し、対応することにも才能は影響少なしとは謂えぬ?それは捕食される動物だけからだけじゃなく、捕食する人間の才能つまり、人間外と人間の才能の両方の量的・値的バランスの差が決め手となり、生と死の違いの結果を動物にはもたらすのだろうか?賢い動物はそれだけ生き延びる率UP?種に寄り賢愚の差があると思うが、それ相応に数と全種族生き残りの才能種族別パワーバランスは人間が文明をもつ以前はとれていたんだろうな。と思っていた。でも葉子と今夜、この店に入ったことでなんかわたしの考えのバランスも狂いいままでの子供のころからの考えに行き詰まりを覚えて来、考えを修正、自分なりにしたくなってきた。
葉子はどうなのだろう?ふと葉子に自然の成り立ち方について考えをこんな場面であれだが、訊ねてみたく成った。
「まぁ、いいか。恭子はひとも羨む才女だ。自分のことも把握出来てるだろう。簡単なことをさせつづけるのも酷だし、配慮を考えてみるよ。おっと。ビールが来たね。じゃ、おつかれさま。ひとまずはお互いの関係を良好にときどきいままでもこうしてきたかのように遊びでオフを設ける機会てのもいいね。じゃ、ひとまずは急くことなしに小時間寛ごう。仕事では急かされぱなしだしね。それに今日は金曜だ。時間はだいじょうぶ?」
と、わたしは大して、話したくもない内容のお決まり事を謂ってしまった。さてと、食事が運ばれて来たので、葉子より先にわたしは食べ始めた。ときどき、うやむやする気持ちはある。葉子の述べた、さっきの話題もでることも不思議に思わなかったし、ショックは文言上受けたが、わからない気持ちでは無かった。共感を得てるってこういうことだろうか。やはり意見の相違の普段からの少なさもあり、葉子といたり、話をしているのは心地よい。価値観はひとにより持っていたり価値観を判断を狂わせる欠陥品として持たないという価値観?のかたもおられると聞いた。24年も外界で暮らすといろんなことがみえるようで、結局何も自分自身もみえずに終わり、そしていま理解できてるとわかっているつもりのことも全て無価値で、意味が無く、空虚・全てが誤解で、間違いや錯誤の集合思想かも知れない。そして、何も得ぬ人生を死に寄り、終える。それは嫌だと思うが、ただ、自分以外の周りも同じ様にそうならいいか?とも思える。相対的な物ではないだろうか?得てないと嫌だ、自分以外が得てるものが自分も得ていないと嫌だ、人生全うできてない、なんて。相対的にみんな自分と同じ程度の得物があればそれでOK。満足して終えれる。自分はたしかにそうだ。パワーと呼ばれる権力だってそう。使う側と使われる・被る側のパワーバランスなんだ。被る者がいなきゃ権力は効果をだし得ない。つまりこう。「権力は性格によりSとMに分類される場合が多い。権力を行使する側のS。被る側のM。ただ。Mの側も被る権力というのは変な言い回しだが、権利?とでもいうか、Mが受け手をむしろ積極的に望むとしたらSとMは両方ないとSとMの両方の権力にある持ちつ持たれつの関係は成就しない。しかもSとMの1個にあたる、総体的なパワーの量はわたし自身S側1こあたりの方が多く持つとおもう。そうすると権力は数的な面ではSが少数でMが多数であると量的な合計バランスはとれるとおもう。そうして権力の需給は一致する運びだ。結局行使と被行使の違いがあるが、権力に関し、生きている間の相対的な周りとの得物はSであれMであれ、同じ得物を得るのはふたつの側をどっちでもいいので、選び易いし、この件は、比較的いろんな目的の中では差が生じにくく、満足な結果で死を迎えられる、カテゴリーなんだ。ただ、割り切れないとうやむやな思いのまま、苦渋の人生を進む心理をもたらす物だとは思う。」
葉子が謂った。
「私達ふたりはまだ若いわねー。そうよ。私色々考えたけれど、これから色んな仕事以外の経験をみてみたいは。」
「うん。そうだね。時間的にはまだ恵まれていそうだ。時間を無駄にするなとよく謂われるけど、そうかな?ゆとりってのが一番時間を無駄にしてない有効な方法であるとも謂えるよ。週末とか筧さんは何してるの?」
とわたしは聞いてみた。
「うん、最近なんか仕事もおちついてきたせいか、落ち込むことが多くなって、暇つぶしにもならないことを有意義とも自分では思わないで、ゆっくり自分が本当にしたいことを考えて過ごしてるとこよ。」
葉子も、自分なりの生き方を考える年齢だし、それは正しい。変な言葉遣いに気を取られながらも葉子とわたしは料理を食べていた。
料理である、サラダを食してるときに葉子がこう語り出した。
「この課増さんのサラダ、美味しそうだけど。なんか可哀想ね。可愛くもあるけど。なんかもったいない・・・。」
葉子は葉子なりに自分の姿は気にしてる様だ。薦められた、店は良かったが、ふたりはその良さとは関係のない、エリアの心理状態で会話を坦々と進めた。細身とは謂えない葉子だがこうみると対面では非常に美しい。関係ないとこでそう思う。なんとなく葉子が謂った、サラダの話のように可愛くもあるけれど、可哀想という感情も一瞬わたしのこころを葉子に対し、過ぎりだした。
葉子に対するわたしの考えはここでは口に出さず、控えた。だって恥ずかしいんだもん、やっぱり。それにそれが本意であるか確認しきれなかったし。ただ、謂える事はわたしは葉子に対し、違和感を覚え出し、少なくとも心地良さ以外にももう何種かの感覚・感情を抱いてる事に不安・興奮・よろこびを発見しそれを自分の中で、曖昧にもう消えてしまえ。と処理しようとしていた。そこにプライドや葛藤が含まれつつある事だけは確認できた。
それはそうと筧葉子は最近無頓着にもプライベートの現れをわたしに知ってか知らずか気付かれる、程度にまとってわたしの前で居る事が多く成って来た様だ。それは、一体、不可思議なオーラで在った。なんともいえぬ生活感ではなく悲壮を纏った、日常からは、通常感じえぬ一種の、敗北感を感じた。それは葉子はどういう風に日常から醸して纏い出したのであろう?日々の疲労の所以で在ろうか?挫折や敗北は社会人ともなれば学生時分より、数字的な側面以外からも多々よく形に外からみてわかるように現れる。女性であるはずの葉子に中性的な雰囲気を感じ出したのも最近に成ってからで在った。
気分が悪くなった、なんだか。不吉にも似た予感が将来当たらなければいいが。
「ねぇ。今晩は、帰って、なにに縛られるのかしら・・・又。」と、葉子。
「そうだね。仕事も可も無いが不可もない程度には進めれた時分だ、もうちょっと自分を俺自身も見詰め、筧さんも日常を週末離れ、アブノーマルな世界で空虚ななんの為にも成らぬ出来事を整頓してみては?」と、わたし。
「そうねぇ、キャッとか何が起こってもおかしくて楽しんで居た、学生時代や幼少のころが思い出しなつかしいは。それにあの時代て私自身はアブノーマルだったのねぇ。世間様と比較して。」
「うん。お腹は満たせたかな?なによりも体が資本で健康が一番大事だ。何をするにもね。お決まりな言い方だけど、体力は必ず保持するべきだ。精神面まで病んじゃうよ。健康を保持しつつ、世間を渡らないと。」と、わたし。
「そうね、相互作用みたいなものね。精神と肉体の分離って。分かったは。お腹は満ちたけど、まだ酔い足りないみたい。もう1つビールを注文するは。」
「はは、いいね。でも最近の筧さんは元気とは掛け離れた、精神的自立をわたしから見ても感じるときがあるよ。精神面では充実かな。肉体面の方も気を使って大事にね。ほどほどに・・。体は壊さないでね。精神面の充実に体力を傾けすぎないで。」
ふたりは食事のあと、しばらく談笑したのち、店をでた。
一時間程、あの店には居ただろうか?味は悪く無かった。でもそんな事とは別の次元の中でふたりは存在し、ふたりの内面を解かり合おうとしてたかの様だった。とどのつまり、こうだ。「葉子は葉子の生活が在る様だが、決して孤独では無い様だ。プライベートの充足とでも謂うべきか、決して悲壮感に暮す内面の構築にわたしとの関係でわたしを巻き込みそういう感じを共有したくはないようだった。だからこそ店でのふたりだけの内面的世界ではむしろ悲壮よりも楽観を感じた。きっと葉子自身もそうだったと思う。飲酒のせいもあったかも知れない。ただ、日々つきまとう暗黒の影をだれかしらも垣間見せる様に、葉子やわたしもあの店の中でそれを避けるのは不可避で、やはり、幾度かはその姿を相手に感じさせることに不本意ながらあった。でもそんなことはどうでもいい。あの店でのふたりの内面は外観や見栄え世間体、又、プライド、エゴとは無縁のところから全てが発せられ包み隠さない心理を交換し合えていた。そこにふたりの店の空中にでも存在した、意識相互のもたれ合いが店のだれにも気付かれることも無く、まして外界のだれにも気付かれず、外界のだれもが一度として経験したことのないふたり独自で人類初の心理面経験対談ができた訳だ。と謂っても、こういう独自心理対談は関係がある数だけ星の数より多くひとの数・組み合わせの発生した数だけ存在し、似たようなのも在り、増長の種となるべきネタではない。それだけを心掛けて置けば良い。ただ、心地は良かった。増長は全ての人間から要注意とされ取り置かれる諸刃の剣なんだから。」ふたりは、街道にでた。駅へ向かいなんとなく歩き出した。
「足元だいじょうぶかい?少し覚束無いけど??」とわたし。
葉子はぐったりしている様子だった。仕事の終わりの週末金曜ということもあったろう。長い時間強引に食事等さそわなきゃよかった。
「だいじょうぶよ?私、でも眠くなったは。帰りの電車内では寝るかも・・。乗り越ししなきゃいいけど。」
「まぁそこは助言らしいのは思い付かないけど、また月曜日に元気な筧さんの仕事ぶりで確認するよ。今夜が悪くなかったってこと。それが俺を安心させるよ。いいお店だったね。またつぎに機会有れば、行きたい箇所でもお互い暇で息抜きしたいとき探しとこうか?まぁこうしてオフの機会を得れ、俺の出世も筧さんが理由となり渡ってくるといいなあ。」
葉子はなにやら上手いコメントを返そうとしばらく沈黙して考えていたが、不意にこう謂った。
「今日は食事代持って貰い、ありがとう。美味しかったは。持たれ通しの人生も悪く無いなー。」
それがどういう意味をもったのかわからないが、葉子の真意はただ、奢って貰ったことへの洒落た台詞であるとそのときは思ってしまった。
「じゃ、また月曜に。おつかれさま。」とわたし。
「はーい。」と葉子。
不吉な予感に取り付かれつつこの曇天の空のようにわたしは黙々と雲の動く速度に合わせ、駅を目指した。わたしは帰宅の電車内、不意に家にある以前購入した、古いDVDをみたくなった。タイトルは「モダン・タイムス」。
帰りの車内では映画のこと以外にこういうことも考えた。
「店で葉子を可愛いとか可哀想とか思ったのは、葉子が失われるからではないか?最近の葉子は以前の葉子と変化はあるにせよ、オカシイところは見受けられない。異常性は感じられない。だが、何かが妙に漠然と不安に引っ掛かる。何か得体の知れないなにかが僕を不安へ掻き立てる。どうも女と対面すると積極的にそういう箇所を聞くに聞けない。どうしたらいいんだろ?取り越し苦労なら、いいが。」
DVDの「モダン・タイムス」は文明に振り回される、人類を主人公の役者が演じる大作だ。主人公の滑稽な演技で笑い、文明に振り回される愚かさや悲壮、かえっての不便さや見失うものの多さ・大きさを悲壮から滑稽に演じられている。滑稽なシーンのみならず機微的な悲壮の場面でも何故か何度観ても苦笑いせざるをえない。訴えかけてくる製作した人々の意図以外の感情をもつのはちょっとした優越感に毎度観る度に浸る。穿った側面からわたしはこの映画をみることに長けている様だ。長くは成った。こういう穿った面から物事を観察することに慣れる時間的スパンの受忍限界ラインが。
仕事や私生活でもこうありたいものだ。いつもクールにだれも出来ぬ視点からものをみれる自分、そういう点を目指してみよう。とこのとき確信を抱いた。風呂に入りながら、観終わったあとの映画のおさらいを感覚的に行ってみた。まぁ、いつもすることなんだが。同時進行でストーリーを含蓄奥まで考えれるほど頭はよろしくないようで・・・。
さて、日が変わってしまったが、土曜は何をしよう。そんなことを考えつつわたしは眠りについた。出世という夢に取り憑かれてしまったようだ。ちょっと修正せねば、足元を見失うのは葉子のこともそうだが、大事な物・者を失いそうで怖い。そう、慎重に緩やかにゆとりのように、激しくもあり、情動的に。感情に身を任せつつ時には理性のエッセンスも効かせ、メリハリをたもちつつ、充実の・・・。世界を。
半分まどろみの中そんなことを考えわたしは寝入って行った。眠りの最中外界では、いろんな事件が起こって居た。またメディアが騒ぐほどの。課増がそれに気付くのは朝だろうか?世間の流れと同調するかのように課増は何も知り得ずただ睡眠欲を消化していた。明るい朝を待たず、そんな予見もせずに、ひたすら、寝息を世間の雰囲気と同調させながら・・。同調は妙に苦しそうで、課増のみならず、世間もそう、課増の寝息の同調と同様苦しげだった。そう願いたいものだ。全てはうまく行くものと・・・。
夜の闇が長くつづく、冬。11月にしては暖かいが、そこには暗黒の極寒の予感さへ漂う、不思議な別の空々しさが在った。冬に敢えて、温もりや賑やかを求めるのは冬季節に対して酷だろうか。否、そうではない。冬は冬で夏の前提とも謂うべき、積極な予感を含んだ、ひとびとの寒さへの飽くなき抵抗の熱が籠められて進む。そして、課増自身にもその抵抗・熱意・奮闘が混在していた。
課増健次郎は朝7時に自然に布団の上で、横に向いた状態で寝返りをうつ、格好で目覚めた。
「あぁ、寝足りないな。」ぼそっと、わたしは気だるく叫んだ。そう、昨夜は葉子のバイタリティを日頃にあるような量を感じ得なかったんだ、なぜかそこがちょっとだけ気になり、解決出来ずに寝た、自分がもどかしかった。やはり葉子は自身も気付いて居ない変化が生じている。それは同僚として注意、留意するよう図らうべきであろうか?そんな結論も出そうに無い事に考え思索を巡らし、わたしは、朝食の準備をすることにした。キッチンに向かう前にテレビをいつも通り点けてみた。調理の前ニュースの報道が音だけだが、映像なしに情報がわかる範囲で耳に入ってきた。あるキャスターが怒り口調でこう云う。
「昨夜、9時半過ぎ、栃木県今市市JR日光線の鉄道で脱線事故がありました。現在、事故の回収作業中で、死傷者は・・・・・・・。」
おっと、こうしてはいられない。目玉焼きが焦げちゃう。こんなことに目の前を占有されながらもわたしはそのニュースの内容が気掛かりだった。朝食をつくり終えたわたしは、そのニュースが気に成り、食事は食べながら、そのニュースをやってる別のチャンネルに替えてみた。
「死傷者数は現在少なくとも、12人以上。大きく、脱線した車両が線路脇に横たわり・・また・・車内に残されている・・・。」
ふいにこのニュースに関し、わたしは行動を取り出した。否、取ったのでは無い。反射的に考えと体の両方がなにかしら反応し、とある、本のページをめくり出した。それは過去の鉄道事故の記事のスクラップだった。以前大学時代よりこういった関連の作業を黙々と続けてきたわたしであった。なぜか聞き逃しそうな、この事故が当たらねば良いが、胸騒ぎというか体と頭脳を意識レベルを超え、動き出したかの様に、巨大な不安として圧し掛かって来たのであった。それはほんの数秒の反射的動作であったが、事故の真実を知るには十分な素材で、行動にでたのは反射的にしては意味があり、正解だった。「これは犠牲の影響を受けたシステムやひと・設備の不備が原因ではない。過去の事例に照らし、そう思う。犠牲は本当のところ、人為的な簡易な盲点的箇所からの原因で、どう足掻いてもつくり出すシステムでは補えないフォロー出来ないカテゴリーの不可避な運が作用、運だけが、運のみが司る、どうしても数百事例の中に誕生する人知で補え得ない架空の世界のレンジからのダメージなんだ。その現場や報道を知る我々が主体者と成る、運が能動者であり、決して・・・。」
その関係者のことを思いやると居た堪れない気持ちになり、そこで朝食中ということも在り、わたしは悲しげにテレビを切った。
葉子はこの事故に関し、どう思うのだろう?急にわたしはいますぐにでも葉子に対面して聞きたくなってきた。どうしてだろう?こんな気持ちになるのって。葉子は高卒で教養の面では遠くわたしには及ばない。だが、心を共有する権利はあるはづだ。実社会の軋轢の中わたしより上から押さえ込まれる経験の時間を長く過ごした葉子の方が、わたしより達観なのではないだろうか?だが、それは葉子以外にも女性に限定しても沢山居る。それなのに葉子に意見を聞きたいのは好意の意思以前に、もっと違った意図をもって聞きたがっていた。
そう。好意的な女性だからその女性をもっと知りたく、尋ねてみたくなったのではなく、葉子に特別ななにかを昨夜以来、感じたからであったと思う。この聴聞の意志はなにかのきっかけかも知れない。好意とは真逆の自分がもってない、葉子が優越している、才能の隠れた素質から教えを請いたくての。それは秘かな隠れた、葉子の最近の角度が異常な表現の現われへの嫉妬心かも知れない、とわたしは佇まいを正し、危惧した。決してこの嫉妬をもし本当にそうなら悟られてはいけない。簡単に処理しようとした行為が思わぬ影響を周囲にそして最終自分に与えて来るケースは多々あるのだ。いろんな影響があると思う。その影響に寄り少なくともひとは才能を開花させてきたのも歴史が物語っている。そう、ここでも運だ。運が才能の開花に影響を与え、才能の数値を上げ、できることの量や数をそのひとに増やし与える。それってずるくないだろうかね?努力とは無縁の偶然ともいえる事象で、努力家たちの積み重ねを一気に抜き去るなんて。だが運さへ自分の意思で左右させる事ができたら・・。急に空々しく成った。運とは他の才能へ影響を与えやすいが恣意的には確かに使用しにくいが多種あるとされる才能の1つではないだろうか。そう考えると空しくて、なにもかも放置してみたくもなる。便利な才能ではあるが、そこはそこ、捉われ過ぎると緩やかなカーブで昇り調子に人生を描き終えれないのではないだろうか。生き急ぎという言葉があるが運を左右させ酷使するという生き方は当にありえないほどの生き急ぎなのでは?早く死ぬという理屈ではない。生から死までの間にその初期で大半のエネルギーとやりたいことを終わらし、あとには後半戦には何も残して置けず、ただ、ひたすら苦悩で怠惰ではあるが無為な優越感、つまり絶対的達観?早熟とはそういうことで発生しこういう生き方でトータル的には損をし得物は通常よりむしろ少ない人生を送る、ひとからはうらやまれあこがれられるかもではあるが、本人自身は最初からわからなかっただけであってゴールしてみると損な生き方をしたと誰にも漏らさずに才能人の称号をもらいつつ簡単の生き方をした、ひとを隠れてこそこそと羨みながら、楽な人生だった感を演じ、装いながら運の使用を誤ったと内心後悔しながら、過ごしてる種類のひとの存在がなんとなくあるような気がしてならない。
葉子もそうだろうか??近頃の妙なひっかかる含みは少なく、言葉選びも稚拙であるが遠慮含みの話しっぷりは楽観の装いも新たに、深い依存感で表面をカモフラージュ、楽観と無教養を出汁に隠した、圧倒的なわたしへの好意ではないのでは?と自賛的に自分をほめているかのように受けてみたい推測に過ぎない葉子の想いに身を震わせ、わたしはなにをしようと呆然とやる宛ての無い週末の土曜の午前時間、無駄なアイディアを絞る労力を少しつかった。しかし葉子の圧倒的な違うかもだがわたしへの好意?のエネルギーは運を巻き込まねば果たせない様な巨大な指向では?そうすると、これを生き急ぎとすると生き急ぐ理由はそこで葉子に何故そうそうさせるのか?それほど為さねば成らぬ、絶対の理由と動機が葉子側に存在する?否、女の前では聞くに聞けないわたしではどんなに考えたって結局空想内の違った解答である確率が大だ。それとも葉子はわたしでも誰でも良かれ、運を作用させる程の行為をこの時点で、やっておきたいのではないのか?対象は本意から外れない限り、だれでもで、この時点だからこそ・・。何かを区切りとして経験上に掴みたいのだろう。そんな思いに駆られ、わたしはソファーに横たわり窓の外へ視線を向けた。焦るのはよくない。外は冬の大気感だ。つんと、張り詰めている。外の景色の中にある、無造作に置かれた、建造物は葉子とは真逆になにもしたくないかの様に存在して居た。決して生き急ぐことなく、風雨に晒されつづけるビルディング。それとは対照的に急かす自分を抑えることなく、駆っていまを進む現代的な少し声の篭るしゃべりかたの何かを遠望する葉子。少し恋愛にも似た感覚を葉子に敢えて持ち、わたしは再度今度は注意深く外を視た。大人だった自分が再度大人になるってどういう感覚だろう?とわたしは自分に問い掛ける。さっきのニュースのせいもあるが考えがどうも暗い。そんなはづじゃないが、意味が自分で理解できない質問を自分に問うなんて。結局こうだ。感情に寄り人間はどう仕様もない考えにとりつかれ結局それは意味のないことに永遠に気付かない。そこでわたしはここで時間の無駄を果たした訳だ。そうする間にかたづくことだって多く在る。効率的なのはやはり感情に左右されず影響を受け辛い人間が受ける恩恵だ。きっと神が与えてくれた、恩恵。感情のすばらしさをここで述べる気にはならないが、やはり恣意的に使用ができぬのが感情と謂うシロモノである以上、あとは感情に関しは神に委ねて天命をまつ類(たぐい)の物だ。運もそうだが、ルーレットを回し、出た目に従わざるを得ない物なんだ。そう思う事にし、外で視線に留った物質にギクッとした。
非常に美しい女性が歩いていた。一目で美人と分かる美人だった。2秒ほど観察したが、その女性が視線の範囲の外側へ移動するに従い、なぜか小さくなって目には映るのに視線の外側に移るほどその女性が寄り美しく見えた。視界から消える直前わたしは卑怯にもその女性と子供時代の男女の付き合いの様な関係をもちたくなった。だが、その女性はこちらの意図に気付いたのか気付いてないのか、大人っぽい仕草でシャキシャキとしかも突っぱねたような仕草でずっと歩く方向を見ながら、優雅に長い髪を一度かき上げだれかと約束でもあるのだろうか???少し予定含みのあるような表情で視線をやや下に落としたとき丁度、わたしの視界から消えた。
そこまで自分の理性を平常に保つ自信は無い。が、葉子に関しはこのいまの様に節度をこののち、いまからの関係でどう左右するか、また変な突き動かされるアクトにでない自信も自分に以前に何度か問うたがないようだった。しかし、極度にその働きに十分に配慮は自分也にしていくつもりだ。それがいまとらえた衝動ではなく大人の付き合いと言い聞かせる自分であった。そう全ては全てを成し遂げるための要素をあちこちに配置し、利用してくれるのをまって居るのだから。あちこちに散らばってそこそこに存在するのさ・・。小さな全ての各部品が・・・。組み立て方を考え自分也の創造図の完成型を目指せば良いんだ。全ては全てのためにあるってとこか・・。そう思うことにし、わたしは無造作に仕事のことにうつつを抜かすことに決めた。適当にはやらないよ。しっかりと堅実に固く・難しく・色彩豊かになんでもそうであるかのように地道さに重点を置き、思考が錯誤へ向かうのを防ぐため、嫌が応にも現実へ引き込んでくれる仕事に嵌る土曜の夕方までの時間を選択した。
果てのない、宇宙を連想するようにわたしは仕事に励んだ。それはそう、丁度うやむやな感覚と戦う何かと似ていた。心理状態が。きっとそれはそう、忘却の彼方からやって来る、暴威だったんだ。そこでわたしはふと書類への手の動きを止めた。やはり、そう、こんなことは間違っていたんだ、わたしが何もかもを連想出来るなんて、思い込みは。
角度を穿ってひととは違う方角寄りモノをみる・みえるということは人によっては、そこで抽象的な偏見を持ち得ない事を禁じえない。なんでこんな感覚に突き進むことを自分自身で確かめ自信たっぷりにまい進の決意をしたんだろう?
そんな当て外れな思い込みに反省を当てながらわたしは昼食を仕事をしつつ、書類に視線を落とし奮闘していた。奮闘していたのは食事への働きがほとんど向けられていたが・・。そうして夕刻になった。すこしここから離れ仕事への情熱を外出がてら冷ましてみたく成った。
課増は実直とは程遠い性向の人間であり、そこには謙虚さへも本人が自負・自慢・慢心する以上に存在は希薄だ。そんな不完全な人格形成を効果面で偶々今まで発揮することもないまま、幸運か不運か他人にその点は気付かれる事も無く、24年間を経過さして来た。わたしは外へでた。街路樹がキチンと整頓されて植えられている。長いあいだまった甲斐があるような気がする。さきほど室内からみた景色の中に存在した物質がそこには居た。否、長くはないんだ時系列的には、ただ、ほんのちょっとタイミングが合致した。その美人と巡り合うと謂う。
つてつてとその女はわたしに向かって歩いて来る。
「すいません。この天気でわたしは心も肉体も疲れてます。どこかでお会いしませんでした?」とその美しすぎる女はわたしに突如・唐突にすこしちょっとだけぶっきら棒に話し掛けた。
「いえ、あった憶えは無いですが・・・・。なんてラッキーなんだろ。君のような路上の樹木のような散歩に心を遠くからでも気付くぐらい意識して出会え面識を問われる・・なんて。」
彼女は犬の散歩を近所からしてた様だ。名前をこのきっかけに訊いてみたく成った。関係ないよ、葉子の事なんて。このときはどうしようも無く、わたし、そうおもいたくなったし、そういう衝動がわたしをがんじがらめに捉えて離してくれない自分。なんて淫靡なんだ。このご時勢って・・。丁度緩いカーブの放物坂に差し掛かる頃、丁度この2者は並んで犬も加え、歩いた。
「ねえ。」と今度はわたしから切り出した。
「?」とその名も知らぬ名も無き女性は怪訝な表情を更に曇らせた。なんだか、真っ青だった。土曜の冬の今夕の天気は。
「どんなとこで、最近遊んでます?」と急に囃し立てる速さでわたしは頭を回転させた。そして自分からその名も知らない女性に身を寄せ始めた。
「?」とまたその名の知らぬ、女性は怪訝な振りを今度はした。でも実際は今回は怪訝ではない内心はなぜかわたしからもみえた、垣間見る余裕が有った。
どんなことだろう?この女性の名前て???名前にこの女性の持つイメージと合致完全するナイスな付加価値がつくのも可能なぐらいのモノでしょうか。どんなことだろう?って名前にしては自問に使用する文言にしては変だ。可笑しい。
そこでわたしはその女性に対し美しすぎる以前にもっと前段階の致命的ともいえる段階で攻め込む事にした。なにかというと、こうだ。
不倫概念への挑戦だった。それは相手の美すら無視するほどの。そう言い聞かせわたしは葉子への思いをこのときは完全に無にした。無にすることに成功させた、可能だった。そうすることは。微力ながらわたしも葉子への貢献は果たして来たつもりで、この際両者の心理をはっきり輪郭線を描くいい機会の到来だ、となんだか言い訳がましくも気分を晴らそうと2,3秒躍起になった。この女性にその行動は悟られなかったであろうか。そこには不可視な葉子とわたしの世界がある。
今度はその女性から切り出した。
「あの。この犬はどう思います?」
「ん。この辺の地理をご存知の様だ。いつもお決まりのコースで慣れた感じで、ルート闊歩してますね。そうそう、いい犬だ。主人によく似ていらっしゃる。聡明そうだ。良かったこの犬が居てくれて。」
「あの。なんで貴方はそうなの?いつも不思議。いつもみてた様でいつも距離を縮めててたかのようにわたしに知ってか不意を装い連携を願ってる。そう、この散歩においても。」そんなはずはない。そうだ。この間、わたしは距離を更にその女性側へ詰めた。
この女性も満更ではなさそうだ。初心(うぶ)な匂と経験の雰囲気が女性から発せられていた。ここで社の同僚の冴場恭子のことがこの女性と似て関連づけになんか思い出されて来そうな源を感じた。そしてそれは現実となった。才能型人間である恭子とよく似ている。いえ、姿ではなく、その才能そのものが連環の切っても切れぬ輪の如く、わたしを苦痛の世界への誘いを産む、屈従というあまり普段女性から受けない、屈辱をこの女性の恭子サイドの人間からの圧力として才能人=わたしへの屈辱を誘うモノ、かの如く、わたしをいままでも何度か経験してきた圧力をこの女性はなんで与えて来るんだ?
どうしようもない挫折に甘んじるのはごめんだ。そういま女性に伝えたい気持ちを誰か判ってはくれないだろうか。
「あの、その、美人ですね。あなた。こんな事って・・。」自分でも驚いたが。
半分無意識でわたしはこの女の乳房の膨らみを触れては居た。服の上からであるが衣服の上からそれとなく動物的感性で触れていた。
そんなことに変な意味をその女は気付かぬ振りをその後したようだ。しかしわたしはまだ依然、乳房の触感を腕に伝わせて居た。半分無意識に動物的にそして、もう残りの何パーかは意図で・・。女性にとりその件はなんでも無かったかのうようだ。そして別れる間際わたしはその女の名前を訊いた。
その後わたしは驚いた、改めて。自分の取った行動に。名前を訊いたり、乳房に触れた事もそうだが、女性に才能の高さを感じるのは新鮮である事に。あまり女性の才能に気付く事が少なかった様だ。そう。たったいままで・・。これじゃいかん、と葉子の事を考え真面目に捉える約束を再度何度も5秒間、してみた。たった5秒の頭脳内整理で在ったが。つぎにわたしは外出の用を果たし、家路の途中こう考えを巡らした。またさっきの女性には会うのだろうか。つぎはこうしてやろう。あの態度知恵の輪を解かずには居られない心理へわたしを誘う態度。この流れのわたしの思考は完全停止してるのか?流れ的に矛盾している。ふたりの女性への想いが錯綜して?いえ、違います。矛盾の原点は異なるカテゴリーのぶつかりあいを多分に含む。これは同カテゴリーの同体の相互効果期待値なんだ。葉子一途へ向けられた、そう思うことにしてわたしは帰宅した。始まりとは切ない物だ。者と者がぶつかり合う開始はこんな程度の儚さ、夢を追い、失うものだ。一時の少量の欠落ではあるが。犠牲の無い出会いは無い。はらんだ結末への初期はいつも、いつだってハラハラどきどきの興奮の渦なんだ、得れる物が得れればいいさ。そう考え生きて来た課増で有った。さて、ここで先程の女性の美人過ぎる名前を紹介して置こう。伊菜。あの女性はただ、下の方だけをこうボソッと気に入らないかの様にわたしには教えた。ただ、それが真実じゃなくても満足だ。こうしていられる自分がなぜか心地良い。度量が大きくなったなあ、とおもってしまった課増で有った。器とその内容物のしたたかさを気にもせずに課増は優越感について1この結論を所有する道すじを帰宅後通過しつつ在った。が、興奮の止まないせいもあり、軽い眠りへ自然と課増は落ちていた。目覚めさせつづける興奮も在れば、睡魔を呼ぶそれもある訳で・・。後者の場合はハッピーエンドで終わる場合が多いと良いが。始まりは全てのおわりとは良く謂ったモノだ。歴史を紡ぐべき人類の課せられたハッピーを量の変化なく続けるのは大変な労力だ・・・・。始まりとは完全な夜と朝の往復を期待しそれ以外の終わりを叶えさせるべき前置き。そんなことを交え、深層の肉体全体に浸透させながらか課増は軽い休息の始まりの予感の夢をみる睡眠を取った。
暗い夢だった・・。あのときみたのはその後。長く経ち振り返った、まだ将来の未来事で或るがわたしはこう振り返ることに成る。「さばさばした、感じ。寝汗をびっしょり汗をかきそこはかとない沈黙。だれかが夢の中で自分本人以外もう2人存在し、黙っている。
わたしもその夢の中では黙って、その憂鬱そうな、2人をマジマジと眺めた。そう、これは完璧である、とある、人間の尊厳。そのとあるとはわたしではその夢の内部では持ち得なかった。そうわたしは夢中所持出来なかったんだ。なぜならわたし以外の両者が夢内では俄然優位・完璧だったから。なにかこう・・・漠然と見下ろして居た。その2人は僕を・・・。」そんなことにいまは気付かないことに幾分楽をちょっと分、得をし、わたしは未来の土曜今夕の夢を立ち戻るすべと理由を持たずに夜刻半ばに目覚めた。
しかし、わたしは一体何をやっているんだろう??そう、ここは我が自宅で在り、自由なんだ。完全になににも束縛される気はない。
そんな詰まらない想いに葉子と夕刻会えた女性に積極的に影響をわたしに打開という利器を与えてほしい、なんて期待を含め2人を妄想してみた。2人は完全に終わりの存在し、そこにターミナルのしがらみがいつまでも2人の各々に打開してくれるのを待っている、2人に取っては安易な試練で、あるかの様にわたしは薄々2人の実力を認めはじめて2人を捉え始めて居た。そして、これは完全なんだ。屋内での無束縛なんて。
束縛はどこそこにいくらでも星の光の数とその光に照らし出される物質の個数だけ存在し得る。そう束縛は光の裏側の影の部分。そして葉子を仕事仲間として今後ずっと割り切っていくとわたしは非常に個性が変化する可能性がある自分に危険を予見してまう。「そんなはづじゃないんだ。ちがう違う。こうじゃない決してこれは裏切りじゃ無い。いつも面倒でも手間を惜しまなかった、葉子のために僕は・・。」そう、いつでも全ては2人の関係上限定ならわたしは葉子に気を使って振る舞って来た。そんな浅く決して深度の無い短絡な気遣いじゃ無い。実直な振る舞いだった。わたしの葉子に関する関与時の接し方は。ところで、わたしプライバシーは関与しないという最大の偏屈性格が有る。それにいままでどんだけ女性相手に気を使い難渋して来たことだろう・・・。女性とはどこまでの生活への関与を手放しで容れて放任するのだろう。はて?そんな許容量はその女性次第だ。問題は質。質なんだ。どんなモノを容れて受け入れてくれるか?そこをとくに知りたい。だが、これはみっともないことにわたしでは現実的にそれを知るすべは生きている間、実現は出来そうに無い。電話の着信音がわたしの注意を引き寄せた。
「もしもし、はい。そうですか。? はい。わかりました。はい。そのように処理します。では来週の水曜にでも。計画は大丈夫そうで、安心してください。はい。手抜かりはありません。大丈夫です。」
とわたしは太鼓判の表現を2度も繰り返した。そして電話を終えた。水曜かあ、いよいよ社のある発表が執り行なわれるのは。重大である。やはりビジネス。ノウハウの蓄積に労を費やした、わたしの勤務する社はようやくここに至って大きく飛躍するチャンスを得た。そして、その実現は社員のがんばりと動きに今回は掛かっている。
仕事の充実は見も心も賑わい、奮え上がらせる。アドレナリンの分泌が課増を襲う。ようやくここまで来たかぁと、以前わたしは達成感に酔いしれ、社への足運びも軽やかに心身健全なそのライバルで或、影を感じないで短期間過ごしてこれた。わたしの捕捉している自分の環境は本当、広いのだろうか?気付かない影響でも存在し、未知の圧力をわたしの体内へと刻みこんでいる?わからない。
そして、わたしは夕食の準備に取り掛かった。
ストレスを受けるわたしの肉体はいつも限界間際だ。若いのに?そう謂われたってさ。仕方ないじゃん。これが仕事なんだし。でも一度として本物の限界最終へ到達させたことはなかったりする。いつも注意深くしてたからだ。自分をおいつめない様に・・。いつも葉子の事だが、葉子へもわたしを売り、追い詰めない様にせねば。要注意だった。気付かなかったがそんなことが。配慮をするあまり逆の配慮を相手に強いることにもっと若く、血気盛んな時分に経験・学んでおくべきだ。そうすべきだった、たとえ若気ありでも、できたことはできたはづだ。なんて勿体ないんだ。若き日の時間の無駄さ加減って・・。
いろんな経験を積んできたわたしではあったが、社会情勢については結構うとい。終わりの視得ないのが人類社会であると仮定する輩に則り、わたしもその法則で考えると、情勢の変化は安易的なその都度の止観で用はたりる。先々までみておくとどうも人類全体のバイタリティーをいつまで持つのやらと遠慮含みにこの今現在の時も大丈夫なのか?本当に?と我が身大事さ故に危惧してしまうのだ。わたしはそうしてわたしはあまり社会情勢に関し、判断できるほど詳しくはない。態と材料不足の状況に普段は心掛け自身の居所をおいて居る。そんなことなんだ・・。葉子との始まりはこうだった。これは反わたしの意図的だが社会が関係を取り持ってくれた。あの昼、わたしと葉子は始めて関り合いを得た。こんな昼下がりだった。「ねぇ、すいません、いつも拝見してますが、これはもうちょっと・・なんていうかイメージに合わないと思い・・コピーを変えた方が良いのでは・・??」
こんな会話だった葉子と始めて口を交わしたのは。声がすごく特徴的だった。葉子のって、他のどんな女性より。比べてみると陰惨な低音の響き。始めての接触らしい接触はそんだけの価値しか僕に印象をくれなかった。声質の印象だけがそのときわたしの記憶に残ったんだ、確かに。日頃から交わす会話をプライベートにまで押し進めたのはそんな時間が用意する量ではなく、ごく少量の時間量で、そこまでの関係に辿りつき、ざっくばらんな気の許す人にお互いはなった。そして2人は、より、よく気の合う仲間と成って行った。とどのつまり、やはりこれって神のくれた運命だったのよ。とあとに成って2人は視線でお互いをそう出会いの偶然必然性について内面の側面で確実視していたとわたしは自分の事についても半信半疑だが、葉子もきっとそう捉えて止まないとこっち側についても半信半疑で気づいている振りをわたしはしていた。やがて2人は仕事上のペアのみならずよき、理解の同型系として親近認識を新たに両者ほぼ同時に心で得た、と僕は覚えている。ほぼ同時期だったと思う。葉子も理解へのストーリーを通る経路がわたしと似ていることに気付いたのは、ほぼね。そうして2人は距離をときには適度にときには遠慮なく、つめながら、深く短くこの周囲の意図しない望まない、不可思議な不可視の遠回しな結び線をこねてゆくことに慣れて、その境界線が一体どこに存在するのかが、からんだあやとり糸の如く、中々ほどけないようなだれかがそこに指を差し込んだらどうなるものかわからないいけない仕組みに情熱を徐々に自動で仕組んでいくシステム自体を構築するかのように貫かす行為に励んだ。
終わりの
おわりの予感はこうだった。しかし雁字搦めとはよく謂った物だ。と、わたしはそうぼやく。
取って置きの予感、感覚。2人、いや、3人の女性に対する・・。それは一応、頑張り次第でどうにでもなる事柄のように一考では思えた。
しかし、その事はやはりむづかしい事柄だった様だ。そこんところを考え違いされたらこまる。トコトン考えた結果なのだから・・・。
それはそう、所謂・こんなはづじゃないという、終着を迎え、じゃ無かったんだという、ラストのためにやった、行った思案では無い・・。やはり、女性とは考え次第で男側からは幾らでも扱いやすいコトガラのようだ。考えるだけの内部ならね・・。考え内のやりかた扱い方法だけなら安易なものだったんだ。ずっと以前の子供時代なら・・。
「やった。やったぞ、俺は。遣り込めた。とうとう忍者のような受忍の最中俺は、成果を出せた。」とわたしは日曜の土曜の翌日の朝土曜に遣り残した、経験・体験をも消化しつつ、成果をなんとしても確認したく成り、自分自身にそう言い聞かせた。束縛をさきの3人寄り受ける限りその、3者はもはや俺の物じゃ無い。そうなんだ。簡単、会話のない成果はわたしは認めたく無かっただけなんだ。そうし、この飽くなき溺れ勝ちな時代を突き進むことに遠慮せずにわたしは自分を時勢に向けて押し付けた、考えを。そう。
考えだけじゃ経路は突き進まず成り立たない脳内でしか、形を成してない、思考は外部からは決して視えないし、形として捉え判断周囲は、してくれない、できない。そこで外形のある、話術・発声の遣り取りを僕はいつも女性に対し、非常に切なく、懇願的に熱意を高め希望してきた、つもりだった。少なくとも外形上は・・。
そんなこんなの生き方を選んだ、僕がバカだった。そう、バカなんだ・・。
そうすることに寄って、デメリットしか生めないことは結局、いまにして気付いた。この冬の日曜の午前の朝方に・・。
「そこ。わかってるよ。やり方を再考せねば・・。仕事上も何もかも。」こんな刹那の中でもわたしは葉子のことを集中で考えて居たわけでもない。いろんなシガラミの最中、わたしは仕事を優先することにした。そう、この再考についてだけどね。一点に集約する事は決して楽な行動とは謂えぬ。そう、ぼやいて、わたしは仕事の優越性を一頃、入社時に考え巡らせた程度に熱意を持たねば、と肝に銘じ直した。おわりの始まりはいつもこうなんだ・・。こんな感じ、敢闘精神の果て、行き着く、先端のひどい結果。つらいねぇ。とわたしは又ぼやく。少し仕事のことに時間経過と内容を情熱の考えで費やしたあと、わたしはつぎにふと、葉子のことを考える時間を短時間だが、得た。そう。
あのとき、葉子が謂った台詞だ。そう、金曜の晩、ふたりで食事をし、店をでた直後のあの台詞。「持たれぱなしの人生も・・。」と謂う。気に成ったんで、再考してみる。それは例えば、こうだ。積極的にイコール、アグレッシブ?そうではない。アグレッシブイコール排他的なんだ。非常に。日本語である積極とはまわりに与える影響・雰囲気さへも考慮する行為に英語と違い受けるイメージの差異をわたしは気付く。感じる・・。葉子のアグレッシブや積極とは真逆の台詞はこのどっちの言語の反対意語なんだろう・・。不思議、こう謂った事を考えるなんて・・。
そう思いながらもわたしは持たれっぱなしと謂う人生観につき、やってみたくもあるが程度次第だがお断りの感も否めない生き方であるとこの再考の最中、思った。楽観視はよくない何事も。そう考えわたしはいままでの葉子との絡みについて反芻してみた。それはいつ時のコト細かな点にまで及び、そこには非具体的な抽象的振り返りも含まれて居た。そして、わたしは又、そこから途方に暮れた。
成果を期待し過ぎては居ないだろか。そんな事を葉子自身もわたしに対する時節、感じ始めて居たろう。そう2人の初期時代から。そうすると、いつもそうであるかのように期待の量と裏腹に関係は、人間、マンネリ的化する。
そう、そこよ。マンネリとは遅滞なんだろ?そういつでも遅滞は思考細部まで及ぶ、そして不純物の介入を招く。きっとわたしのみならず葉子もそうであった様に。葉子も本当の処、わたし以外の男性と関わる機会は得、損な役回りをわたしの前で幾度かしたに違いない。実はわたしもそうであった。そして、葉子との径路の中、ふたりはお互いに中性的な捉え方で相手を見つめる素振りに労を費やした物だった。そして、それは突然の拍子に崩れた。脆くも。それは嬉しい結果で、在ったが。ふたりはとても真摯に向き合った。結局、まわりからどう思われ、不埒とみられているとしても、ふたりの内面の向き合いは真面目その物で在った。そこに意外な伸展をモタラす、急転直下の事象が舞い降りてきた。そう、それは職場の配置転向だった。
そしてふたりは同じチームの一員とされ、ペアで仕事を請け負う責任組と成った。それまで意外な遠い関係だった葉子とはこの契機に近い構築を築きたく覚え接近止む無しとなったのは僕自身も、葉子自身も同様であったろうと、わたしは確信を抱いている。心の関係で、ある、それは。
そうしてやがて半年が過ぎる頃、夏であったろうか葉子の他人にはない一面にわたしは気付いた。
「葉子の排他的・主導性はいつごろから身に付けて覚えたのだろう。頃合の歳である女はいつも猟奇性のあるところで、ある。しかし、葉子のはちと違う。働きながらの主導を発揮ではなく、結果への自分の手での排他、主導性だ。めづらしい女性だな、とそのとき観念したように葉子には接し、配慮を怠るな。」とその当時のわたしは考え、葉子にそういう態度で行動に出だしたことをいまも憶えている。そんな中社の、上司である間抜氏に良くふたりのサポートをして貰って居たモンだ、と振り返れる。いつもこうだった。上司と部下の位置付けというモノは。気にしてる様で気にしてない。気にされている様で気にされてない。そんな関係だ、わたしの社に本心で願っているのは。詩的な調子に日々をお決まりに過ごしながら達観的に仕事外の展望を考え出したのもこの頃だった。
危険含みの太古からの世間の中、わたしはいつの時代でも通用するとおもう、手法でこの展望を考えたかった。そして、そうした。例えば、女性と男との営みの中でいままで存在した、恋は果たして本当に楽なお手軽な動物本能的な感覚で、行え行われて来たのだろう。そう前提を踏みこの事は処理する。そして、つぎ。人間つながりで一番楽なカテゴリーは一体なんだ?はて・・。友情?否、親子だ。そうその夏と記憶してある、時期葉子へのアチーブメントをどうにか保ちたく、わたしは一応2名以上の団体と呼ぶ、種の、ことにつき一応、思考を当て嵌めた自分を虚に曖昧にいまでもときどき、そう、休日の本日の日曜の朝みたいなとき、迷子の親を求め探すかの様に見出し、思い出す。そんなこんなでその当時夏、わたしとわたしの周囲は余裕振って、目まぐるしく回転していた、それは本当に稚拙な表現で謂うと打寄せる波のタイミングの早さだった。そして、わたしは謂った。よし今度こそ本物だ、と。よく謂えばマンネリの型と形式を取り入れ、悪く謂えばレアな型で、わたしは生活の一部を自然、仕事・人間関係の両面でサポートした。それが全てではなく、ほんの一部の事象への配慮・サポートでは在ったが。形のある物は怖い物だ、この時真摯でなければ今頃どうなっているか、予測不能なわたしでその当時在った。だが、いまのわたしがその当時形成されているとしたらきっと予測可能であったに違い無いと、思う。そう時は戻せないんだ。ときには戻してみたくなる意志を持ちたくはなるが決して叶うことはないとすぐ諦めの付く思い・・。ただし、そんなことをせずに済む関係をわたしの全ては夏?秋に執り行なえて経過していく自分が居、その中、わたしは漲る展望の明に喜びを不安なく、発見していたに違いなかった。
きっと、そう。そこは当たってる。自分にそう言い聞かせ、わたしは、ふたりのこの後を思いやった。そして、途方に暮れる事に成る。
なんでだろ?とふいに疑問が首をもたげた。そして、そのとき頭を過ったのは、厭くまでも葉子は自分であるという事。葉子は葉子なんだ・・・。
それはそれで自分としては満足で充足してる。しかし、こんな事って・・。在りなのか?葉子はわたしをどう思い詰めて居る?思い詰めは思い付きとは違う。能動であり、宙に浮かび・宙から授かる物ではない。そこはそう。発想転換が必要だ。決して、他人は自分をこう想っててほしい通りには想ってはくれない、ことがある。
しかし、葉子にはこう想ってて欲しい。「いつも親密とは謂えぬ、仕事上のプライベートが偶に、発生するぐらいの浅いが、遠慮の不必要な関係。だが、何かが・・安心する。このふたりだと。」
そう、それだけで、いいんだ。そう想っててくれることは、わたしにとり安泰な将来、未来の仕事の希望を生む。
そして、今後、葉子とのからみはストレートに仕事へ差し向けてみせることが可能だ。ここでもう一点、仕事上のことはわたしとしてはプライベート。つまり、葉子とはわたしの側は仕事と仕事外で両天秤で割り切れないのだ。
あんなことで失敗した。なんて、もうこの年齢で謂いたく無い。葉子は、まだそれが許されるであろう。葉子はまだ22歳だ。そんな年齢で全てを見通せなんて、無理は謂えない。そしてわたしの時間とまわりの時間は同時期に同調を強要されることもなしに夕刻へと進んでいた。
ん?待てよ。そうなんだ?んん??そっか、忘れていた。彼方に置いて来た、経験の数々。幼少のころ楽しかった。あの想い出。そして、それを楽しみとして、捨てて来た、またその想い出、過去の記憶が上書きされるに連れ、わたしは世間成れして行く。そうして、わたしは大人に成った。そんだけなのさ・・・。忘れていたモノを振り返らない、振り返れないって事は。
やはり、大人はすばらしい。ずるさを文明を得た、人類の如く、大人である見栄えで利器として利用する、利用することができる。それは石を磨いで、鋭い刃先にする行為に似ていた。遠慮含みに大人であれることを利用すべきではない、むしろ積極的に・・。このとき、わたしはそう想った。このさき葉子とはどうなるのだろ?そこに大人な関係は介入してくるのか?とほほ、不安。
そうよ、まだ22歳である葉子はまだ幼少と大人の移行点でやや、不安定で大人という武器の使い方も、どういう武器を得れるかもよく判っておらず、手にとった武器を振りかざしてすら居ない。また、その武器の重さと責任性も理解不足だ。でもやはり、わたしとしては葉子には大人であって欲しい。
そんな付き合いを望んで居たわたしであった。そして、きっと葉子サイドも仕事の関係と割り切っていたであろう。そしてときは流れた。
日曜のこの時間が夕刻から夜にかわったようにふたりも出会い?隠遁?始まり?発展への順序を辿る時間を暮れ染まる外世界の如く、冬の空をいつか明ける、朝の空への期待のように時を経ていた・・・。
いつか、みた、空。そんな事を想いながら、勝手な妄想にウツツを省く。いけないことじゃないが、いつかみた空は決して濁りなき透明ではなかった。遠い過去の空もわたしの記憶ではそうだった。そんなはづでわたしの24年間はただ、ひたすら、わたしを夜明けから日没までだけを光照らしていた。そう、日がおちる夜は照らす光が居てくれないのだから。で、こうだ。妄想の相手は葉子。最近つとにそう想う。必死なんだ。お互いに、しかしわたしの周囲ではひたすら、この結果に介在する魔の手が自分で薦んで得たのか付きまとい、他人含みの展開になりつつある。今度こそ、あの対面すると美しいひと、あの女性とは食事以外でもうまくやっていこう、いま以上に、そうおもい語り継がれる、真面目さに一人の葉子に傾倒を決心したわたしであった。不埒は決してイケナイのさ・・。簡単。簡単ってなんだろ?でも自分はこの考えは簡単な行為だと断定した。ほかの女性をみた時もそう。断じて裏切らない簡単さだった。
真摯にいく決意も新たに、自分勝手な振る舞いは許されない、そして葉子はわたしにはもう十分、真摯に思えた。女性だからだろか。そんなこんなで、葉子も自分なりの哲学感をもったらしい、それは稚拙であろうと、誤りの角度から選ばれた心理で無ければOKだ。わたしはその様に許容する。そして腹が空いた。晩御飯の準備をし出した。ん?そうだ。肉を焼きながらその焼き加減と焼く際でる音がなぜだか愉快だった。心理的に随分かたづいた問題が多かったせいであろう。そうして今夜の自虐的な愉快さは間延びして、食事の充実をもカバーしてくれた。そんなこんなで・・・・。
そのときだった、それが起こったのは、とある、隣の住民が差し入れを普段付き合いも全然ないのに持参してくれた。あの枝豆、邪魔にならない食材だったので、わたしは食事のつまみにと、大いに喜んだ。そして、ふたりでありたいと願う心細い期待と環境のわたしの食事は寡黙で進んだ。そうおもう、稚拙とはつねに遠慮では語りつくせぬ次元で発揮される方も多々おられる用法であり、それは葉子に取っても楽観していいものでなく、つねに大人による許容と監視が必要なシロモノであった。そしてわたしも葉子への寛容な視線を保つ、そうすれば何かが回天すると進捗を希望するのは容易いがそれがどうしても抜け出さない希望のわたしで在った・・。
日曜の夜が明けた。月曜に成った。それでは、とわたしは日々使っている電車で毎度の都会へ繰り出した。いつもの様に受付をビルの1階で済ますと、偶然そこで今日は葉子に出会い、わたしから声をかけた。葉子はなにか落ち着かなさ気だった。
お決まりの定型あいさつで在った。が、そこにはやはり内面の何かが介在していた。お互いに。心理的な好意がお互いの内には少なくともわたしにはあって、葉子はこの朝の偶然の出会いからのあいさつには好意を、含めたつもりだったのだろうか?否、含めたという作為ではまづい。無意識レベルじゃないと。葉子の側に含まれていたのは自前の親近の定型ではないが、軽いだけの好意感にしかわたしからは見えなかった。そして落ち着かない理由もなんだかわたしは想像出来た。
葉子の軽い笑みの中そこの全体姿にわたしは明らかな恥じらいを発見した。そして、こう語り出した。
「ねえ。課増さん、私今日ちょっと相談があって。昼食ごいっしょできませんか?いいですよね?おねがいします。」
「?」とわたし。この会話の以前に僕は葉子の照れにも似た表情の機微を発見してた事は自分で得物のおおきさを、感激してこの葉子の語り掛けが満更予想と掛け離れたものでは無いことを迎え入れ、素直に喜んだ。
「そうなの。じゃぁ、社外で、とろうか?」
「はい、お願いします。ちょっとここではあれなので・・。」
そうだね。と謂おうとしたがわたしはその文を発するのは止めにした。
そして、この繋がりでわたしは穿った、別の言い方・表現文に変えた。
「ここじゃ、言いにくいかな?なら仕事外のことだね、わかった、じゃぁ、それまで楽しみに待つよ。じゃ例の件での話の打ち合わせをしとかなきゃ。もう、始業時間だ。頑張らないと・・。」
わたしが止めた表現というのは、ここでは伏せて置く。それはあまりにも、あざとく葉子の機微を見抜いたことを乱用しすぎてる感が否めず、すぐ取り止めた表現種だった。だから、止めた。それは実際、相手の前で発するより、隠す方がもっとずるかった種のもので在ったと思う・・・。昼の11時頃、わたしは今朝の社の受付前でのやりとりのことを頭に置いて他の仕事をしていた。
だが、実際葉子は、昼食はわからないが他の誰かとか1人でとりに行ってしまった。わたしは完全にあぶれた。しかたない、とおもい男性社員の友人と社員食堂で昼食をとり急いだ。
葉子につぎ会う時この件を確かめてみたいが、現実がそうは許さなかった。そして、つぎの水曜へは社を挙げた企画がある。それを集中させる頭しか、わたしは不器用にも使い道を利用する容量がなかった。
簡略化して仕事をこなすことは無い、少なくともわたし自身は。器用でない自分にとり、そんな余裕が無い事もあるが、理性がそれを許さない。常に前向きでアグレッシブな僕で在り、今後もそう、在りたいと願って止まなかった。プライベートもそうありたいね、なんて茶化した、考えもわたしは産まれ、此の方、一度も得た試しはない。仕事外の相談はなんだろう?期待半分、絶望みたいにしょげる内容への不安も込みで、坦々と前向きに夕刻への活力への昼食をとり終え乱れ勝ちにみえるほどのパワーで、葉子ともからみ仕事へ神経を傾けて個性のある出し惜しみしないノルマをこなしつつあった。そして、やがてときは夕刻へ。
葉子に呼び止められた。仕事のおわる直前。なんだろう。ふと、わたしは素直に疑問だった。昼の様なことで葉子の個性は言い訳、理由の補足等しない、それが疑問を感じた、理由だった。
「そんなに気にしないで。」と葉子は切り出した。ぶしつけに気にしないで、とはなんてぶしつけなんだろう。と、ちょっと不愉快に成った。でも、そんな気がしないでもない、憂鬱さが葉子から感じられた。ふたりはもう他人ではない。そう、同じ所属になったあのときより。
「昼の事かい?」と、そのまま切り返す。
「うん。そうなんだ・・。ごめんなさい。勇気が持てなくて・・・・。」
「そっか。気にしないで。よくあるよ。葉子と付き合うと。」
葉子は次にこう謂った。
「もうすぐ今日は終業ね。これからどうする。」
「うん、少し残業含みだね。筧さんは何かあるの?」
「うん、仕事やりながらでいいけど、少しね、気が滅入って居て・・。不調なの、迷惑掛けてごめんなさい。」
そうして、葉子はさきに仕事を終え、帰り支度に入った。わたしも大急ぎで残業を無為にかたし、上司の顔色を見ながら業務報告を終えた。
「この先、どうするの?」と葉子。
「ん。水曜には一段落つきそうだ。なにもかも、やっと来たって感じ、つかれたね。」わたしは好意を込めて伝えた。その中に社へ対する感謝と好意も込められていたんだ。そして、ときが過ぎ、社を出るタイミングの夜刻前になった。
すると、1階のロビーでさきに葉子がなんと、待っていた。それは何かを我慢しているような表情ではあった。そしてふたりは、それとなく自然な成り行きに委ね、歩き出した、街灯の隙間を・・。恥じらいの最中お互いに顔は見ない様に非常に気を使った。なぜか両者そうせざるを得なかった。そして、これ又、自然に繁華街の駅を目指すふたりで在った。
それとなく、相手がつぶやいた。ねぇ、こんなことって、と。それがどっちであったのかあとに成ると忘れそうな想い出と成りそうなつぶやきだった。目的もなく、駅を目指すふたりでは無い、そこには目的が介在した。なんとなくはない、お互いの意識は共存していた。とある、指向へと・・。ほぼ、無言の並行で歩いたあと上を両者は同時に見上げた。空は晴れだった、たぶん、暗くて分かり辛かったが街灯が、照らす上への視線先の空間は空の広さともう、1つの狭い空間を意味していた。暗黙の了解というべきか?夢に観た様な少なくとも感覚で、わたしは上への視線を葉子に肩のラインに目がけて落とした。そして、葉子は謂った。
「遠くを見るとキリがないわね。どんなことでも中庸である自分で居たいわ・・。」そして、ふたりはホテルに誘われた。夜は本当に夜っぽい冬の個性の暗い影と光彩の重なる遅い時刻だった。もう、日没後、3時間経過、していた。
そして部屋へ、上がる階段のまえで葉子は謂った。
「ねぇ、大丈夫かしら。こんな事って?」
「ん?自然の成り行きさ。そう、こうなるのは仕方ない。みなに謝ろう。」
「中庸で居たいは・・・。ただ、ヒタスラに。そんなことって簡単だもん・・。」
ふたりは、部屋のまえに着いた。
「うん、要はこうだ、こうしようとか思い詰めるからイケナイんだ。もっと端的に表現を絞ろう。考えて駄目なことでもやってはいけないなんてことが無い場合もある。割り切ろう。」
「はい。わかりました・・。じゃ、部屋で・・・・。」葉子はさきに部屋に入室した。あとを追って、わたしもやや遅れ目に入った。そして、ルームライトの明かりを確認し合った。
さて、どうなることだろう?とお互いはむづかし気な表情と息遣いで自然さを躍起でアピールした。しかし、やはり緊張の糸はどちらのサイドからも相手の細い、半透明の線が見える様だった。まだ、世間さまからみれば若いふたりでは在った。そこで、わたしはこの時、日曜にみたあの美しい女性を不埒であるが、こんな瞬間に思い付いてしまう。それは、肉体の想像分野だった。
こう最近の何名かの女性の姿に触れる度、同じ人間でも異性になると違った生命種とも思えるほどのことが正直ある。
そして、やがてわたしたちふたりはルームライトの明かりを手掛りにすることもなく、お互いの体をまさぐった。軟らかいタッチで在った。それはひたすらに・・。違う種の人間であるが故か、不思議と新鮮な感覚を両者は感じ取って居た。わたしは、この遣り取りの中、女性特有のやわらかさを夢中で認識しようとしていた。それは男の性(さが)であろうか。やはり男にはない軟らかさの含みを他種生物のように女性からは感じるモノだ。そして、体のぶつけあいが一段落つき、若いともいえる、ふたりは呼吸の乱れもほぼ、なしに、短い時間の功績を確認した。それはワイルドさであり、且流暢な寸劇のような投影物のように端からはみえた映像だったに違い無く疲れた表情など微塵もないエモーション・ショットであった。やがてときが経つに連れ、ふたりは落ち着きを取り戻した。そして、葉子は眠りに付く前、こう、謂った。
「微塵さの欠片もないは。こういうことって。さぁ、やっちゃおう、なんてセンチメンタルなことなんて含まれない。でも、今回はそうじゃなかった・・。結局、こうよ。独断と偏見はいい結果を産む、って。やり直せる時代を召還できるなら私はいまじゃなく、2年前、そう、あのときがいいわ。そうよ・・。愉快でたまらなかったあの時分。なにも知らなくて、ふわふわ浮かんでたあの自分。」
わたしは葉子が眠りに付いたのを確認し、安心して眠りに付けた。朝起床すると、葉子はシャワーを浴び、さきに帰宅していた。シャワールームの床の湿りが妙に感慨深く、愛着心を呼んだ。ルームからでるまえわたしは、ふと見知らぬ物体が目に留った。それは、時計であった、よくみると。しかし普通の時計ではなかった。床の隙間に落ちていた、ルームメイドさへも見落とした、指時計であった。
それを拾い上げるとわたしは部屋からチェックアウトした。時計のことは係には告げなかった。気になる形状のめづらしい時計で在った。そして、急ぎ足でわたしは帰路へ着いた。
朝出社すると、同僚で友人のKがにやにやしていつも通り語り掛けてくる。それは淫靡なエロい下品な表現種であり、憂鬱さに拍車をかけた。
「おい、冴場のこと、知ってるかい?彼女、おれと親密なんだぜ。いいか?おれは今度こそ・・。」
と、話は続いて居た。
それを紳士的に聞き逃し、相槌を打ちながら、Kとわたしは階上へあがった。そして、別の情熱を生む必要があった。そう、仕事への飽くなき、感謝の情熱を。葉子との昨日のやりとりは触れないでおこう。そうすることが、新鮮さを失くさずに済む、ことだってあるんだ・・。そう言い聞かせ、だれにも語らない、語れない真意はわたしの側からは、伏せられそうだった。しかし、葉子の側はどうだろう?とわたしはどうでもいいが、考えた。終わりの予感が前触れもなくわたしの脳裏を襲った。それは固唾を呑んでわたしを待っていた。襲うことを。ある種の人間が持つ、危機感ではない。焦燥がなぜかわたしを掴んで離さなくなっている。昨日以前からもずっと。しかし、今回の予感の危惧は量が多かった。具体的にどういう質のものかはうまく表現出来ないが。
終わりを告げたのは、こういう経緯だった。そう、全ての終わりへ・・。深意のない、ある想い出。わたしの中にある、学生時代の。それを想い出すことが多くなったのが、この敗因だったのかもしれない。とかく謂われる種の時代、わたしは部活に打ち込んで居た。そして、恋愛も経験せず邁進していた。真摯さを身に付けるという考えに・・。成就することもない考えに。やがて、大人になったわたしは色んなことを覚え、学んだ。世間の大人しさも薄々、知った。子供がそれらを知るに連れ、逆に卑怯なモノと思えるようになってきたのもこのころだ。
そんな考えの蓄積に果てに、終わりは訪れるんだろうか。そうして、ヒトは諦めていく・・。老後へと・・・。わたしも例外ではない。自前の思考で判断しながら、いやそうするしかなかったんだ。が、老後への肉体、思考の遠慮性を喜んで迎える日々の到来を待ち望むわたしを子供の拙さを想い出とからめ、再確認しながら、終わりの予感である、終末にその形への期待を胸に早く来ることを願って止まないわたしでも在った。会話のない考えだけの状況に取り憑かれながらわたしの、青春は進んだ。そして偏屈さをその傍らの一部で産み落としてしまった。で、子供のアクドサを他意はないにせよ気付く。子供は背徳感のない、害を生む、それも大量に。そして、害意がないだけに注意しづらく、やっかいである、と。ただ、できないことも反面多い。それは行動種ではなくて、自発性が発揮できない、いつまで経っても子供は親の子ってわけだ。若年のころ、特に包み込まれる必要があり、それに親も子も期待して生活を送り自滅する、そう子離れだ。それは必然だろうか?と、考える。必要性はあるが、万人の理屈ではない。自主性を縛って今は保護必要とする家族がある以上、行動の概念は子供時代にはすくなくとも狭まる。そんなことに大人になると自分の理屈と理由で、相手を納得させ、自主を発揮、変化に富んだやり方を経験でき、返ってアクドサがなくなるのかも知れない。なんて、ご都合的な考えを持つわたしでも在った。しかし、最後の予感への繋がりは、このとき確かに起こっていた、すでに。そして、それは不幸な劇ではないようにこのとき不思議に、その予感を思えたものだった。子供時代だったら逆に、そのアクドサを盾に回避可能だったかもしれない、結末、それはもう得たくない、性向物だけにこのわたしには部外のシロモノで在った。
客観的の有意義性
さてここから本題だ。そういうことって・・好い加減。肉体と精神の破壊に繋がる事態は保護下に居る、子供にとり存在しない。これは謂える。でも、そこから必然性はむづかい議論なしでも親の匙加減だと、おもう。何事も過度に成らなければいいのさ・・。
そして、そう、わたしも実際そうだったんだし、そういう扱いで過ごさされて来た。なにも強要できない。こういうときって・・・。
昨夜のことも有るが、葉子とはもうこれっきり、アコギな付き合い方はしたくないもんだ・・。そうしてふたりを淵へ追いやる・・追いやってもいいが、選択を窮地の背水の陣のごとく焦って、判断ミスしなければいい。そう、おもうんだ・・。
そんなこんなの展開を両者は望んでもらいたいなんて、葉子はおもって、昨夜を許容したのかもしれない。選択ミスの無い、淵へ追い込まれを期待して。昨日の台詞だってそうだ・・。ちっともセンチメンタルじゃない・・って、いったい。あらゆるジレンマから開放を待つふたりでも在りたい反面、矛盾込みの人生を待つふたりであった、と思えるお互いに成りたい。そう、願う課増で、あった。
それより、待ち望むのは冴場恭子の様な、強固な固定観念の打破であり、それは必要な高い才能がほしい。観念を固定で在れ、融通のそれであれ打破するのはやはり、感受性とは逆のクールさ?つまり、できることの量と数の両面の指標高さだとわたしは、考えている。
しかし、それはオイソレと身に付かない。子供のころの恵まれた環境、つまり英才教育が必要だ。いまからでも遅くはない。そうして、葉子を自分の思い通りに・・。葉子自身を融通性で表面、豊かな、内面静かな余裕のある人生を、人知れず送ってほしいと、いつも切に願っていた。それがせめてもの葉子へのわたしからの好意であった。それだけでもわたしサイドからは果たせればいいと思っていた。しかし、最近の葉子は充実と謂うか、欠落してる点がいつも漂い、欠点をうまい具合に本人自身で利用してる感が否めない。それが非常に邪魔だ。融通性身に付けに。そして、客観を真にあらゆるサイドの事象において、発揮できたととき、わたしを葉子は全て越え、あらゆる有効者と成ろうなにに、対しても・・。それで、自分は満足だ。たった、ひとりだけの幸せを願っていると謂うのでは無い。余裕性は、活路を開いた本人と、それを見抜いてる側の者にも恩恵を与える。
おっと、こんな時間だ。それを忘れていたようだ。仕事に熱中するあまり。Kが不可思議に話し掛けて来る。
「おい、そんなことじゃだめじゃん。もっと、こう・・メリハリだ。そうじゃない。あー。まただ・・。」
「ごめん、ここはどうするんだ?」
「そこは、こう・・、もっとイメージを膨らませて・・そうそう。いいね、こんなもんで挙げるか?上に・・。ん??納得?いいだろ・・。」
わたしは疾走した。会社の表舞台への階段の昇段のために。ここ最近ヒラスラ。
Kはいい奴だ。協調性が高い。しかし、面倒見がいいなぁとも思える。少々お節介なベクトル含みの強さだが・・。果たせばいいのさ。
何事も。結果はそれしかない。結果=果たすまでの経過ではない、結果とは果たせた結論なんだ。やっぱり、こうだ。やってて良かった。仕事を。
いい仲間とも会い、巡り合いの偶然と奇跡が噛み合った、と自然に思えた、今日この頃で或る。そして、こうだ。偶然とは必然の前提、そしてときはそれを呼ぶのを嫌い遠慮する。なぜかってときにとって不利この上ない屈辱だからだよ・・ときは介入を許さないその自然に見える流れの中に。経由する際、ときはいつも遠慮含みに勝手な強引さで、生命を縛る。死という。そして、出会いの偶然と別れ、死の逆概念のそう、必然を嫌いながらも強いる、縛り付けて離さない。せめて、ときに向かいこう、つぶやきたいもんだ、呪念だよと。ときすらもこの必然には縛られている。ときを流れる速度を弄れないという束縛。そして、ときはいう、支配は勝者につぶやくと。支配は勝手な自意識を凌駕可能な真の実力のある、本心のみ語る自尊の方に舞い降りる。そうして、ときはそれだけはやっとこ、得て、謙虚な側面も持ち、支配と生命の優劣とを、生まれるのを監視している。話は替わるが、葉子とも3者マジエてこうしたいもんだ。短絡だと、ときなんて、と。馬鹿にしたようにKやわたし葉子をカラカイたいもんだ、ときを。それすら凌駕してやるとも。いつか、永遠に果てぬ関係をシガラミのときの流れに逆らわず、逆手に取るように・・。そして時は夕刻になった。Kとわたしは退社し、ノウハウについて相談した。そう、プライベートの。管理についての・・、在り方・両者位置付け置き場所について・・。なあ、そうだろう、と。半分カラカイながら、そんな会話をした。ながらではあったが、しっかりとした意向を所持しての意見交換であった。そして結論は即、でた。
だいたい、こんな内容だった。「楽観はよくない。我らの環境に置いて・・なあ、そうだろう?恭子を知ってる???あいつしっかりと計画を立ててるぜ。将来への、それも驚くな、幼少時代にだぜ。それも親を利用し、巻き込んでという無遠慮さだ。なんのための親なんだろう?と最近みてて、おもうな、しきりに。いつも、こうしよう。分け隔てのない、寛ぐ世界を・・って、強制より、簡単を相手に、与えよ。なんて、一番利口な方法論。それを吹っ切れて、できるアンドやろうとした輩、が、いままでいない。そんだけだ。やってやろうじゃないか。おれらは。世代の共感を元にした、団結の安楽の実現をおれらなりの可能域で。そしてこう、叫ぼう。いつもやってくれた、者・疎外物はなにも元から存在しない、想像内の悪さするブツだったのが、判ったって。」と、まぁ、こういう運びだった、だいたいは。そしてふたりで歩みを進めつつ、ふたりは別の道へ離れた。それがいつも通りの離れ方で、いつも距離をとる、スパンがどのひととも一定であると退屈に成らねばな・・などと、嫌な思いも産む偏屈なわたしだが、最近はつと、葉子に関し、心理で距離を置きたがる、こういう要素の多さを慎重に確認してるつもりのわたしであったし、完全にそうである、ありたいと祈るばかりの忙しいばかりの辛さを持って居た。こんなことって、ってそう、謂われてもな。なんて噛み合うはずの事が狂う点を生じさせず、時代を経たい、課増で、いつも通りのコースで帰路する事にした。今夜は・・。そういや、あの空間はなんだろ?なんて思わない方がいいな・・有意義な事をもっと優先して要領よく、期待に沿う様に。自分も含め、ときへの期待とときからの期待へにも。そして、愛情を歪めた表情を出さず、出る風采すらなく、自分でもなく、わたしは歩いた、成果を感じる自分に満足して・・・。暗黒のときはいつも客観視して、無言だった。われわれの動きに関し、注文等付けない・・。
わたしの考えはこう、だった・・。
やはり・・こうでなくては。
そんな考えに取り憑かれつつ、いつも献身的に自分を置き去りにし、周囲への気配りを第1におく、課増で在った。そしてそのことは、いつもわたしを苦しめていた。思い通りに成らないと・・・。
ライバルはそこに存在する?いいや、しないね?いや、するかも?見えて気付いてないだけ??かも。しかし、存在は認めるべきだ、発見し次第。そして、この世の敗北を自分を通し、見届けねば、あくまで自分の世界敗北だがね・・。
世界てこういう物だろう、と、わたしは思う。
世の中はマーケティングで大幅動く。それは扇風機の回転の如く、風が扇風機であるように、回転しつづける世の中だとすると、それが生み出す物は、風?うん、人々を涼ましてくれる、風、つまりモノの豊かさだ。強引なネジ込みのようだが、やっぱりそこはそう、風はパワーであるようだがやはり、パワーには違いなく、であるが故にメリットという効果を与えてくれる。涼むというメリット無しに、扇風機を回すかたは居ない。なら、世の中は利点ということが無い限り自らも、他動でも動かさないように、少なくとも停止から進まないのだろか?うむ。そうなると、金の流動は微妙だ・・・。そして、金にもライバルが存在するのだろうか。唯我独尊的な金。しかし、そこにライバルは存在するとわたしは考える。リスクから考えよ、なんて偉そうだが金は欲のぶつかり合いの産物では無く、廻り物の例えがある様に、持ちつ持たれつ的な側面が強い。そこに唯我独尊的な金の利便性、故の欠落部位がどうしても生じる。そしてライバルはと、いうと・・楽々と、唯我を喫することが出来るシロモノ。そう、やはりあるんだ。何かが。それは、決して、黙ってはいけない。何故なら、金の独尊性を助長し、世の中を壊すから。つまり、ライバルの存在は金のそれを御するためだけのためなのだ。
まぁ、金の話は置いとこう。それでだ。さすがだ、もっともな話題で、形作る資質。だれの?それは世の中の理だ。金以外にもいつも、波乱の世界はいろんな産物を出現させる。そして、皆々にいつもこう告げる、もっと楽にせよしかも出来るだけ、と。
よし、こうしよう。世の中の動きに同調する必要はない。そこでだ。別の生き方が必要だ。それも楽な方法の。でも、そんなことを態々選ぶ苦労人はいない。孤独は排他も呼ぶ。そして真の、虚像の嘘が生まれる。紳士、ジェントルマンという。紳士はまわりがそういうからってそうなのでは無く、形がそうなので、とどのつまり自己満足の側部から出たモンなんだ。そして、それは孤独である、何故なら、決して交流的でないから・・。
そして、紳士は行動も自ら意識しなくても、縛られる。結局、こうなんだ、なにもかも。美しい生き方は、他人から映る、それは詰まらないんだ。周囲も自分も。なら、美しさイコール、害?かな。かも知れない、でも望むひとは非常に美を欲する、可也の強度で。
客観的な範囲でモノをみる限り、美はそうそういまの時代では結論を容易にだせそうに無いシロモノの様だ。うん。だからこそ、わたしも美に容易に賛同する人生では少なくともなかった、こののちは解からないが・・。馬鹿な?美は追求してこそ、美も美でよりあろうとする?たしかに。周囲へその影響を及ぼすのは解かるが、わたしへ美へ方向を向けさせてくれる補助は受けるかどうか考えものだ。
そして、わたしはこういう。真のエリアからでた、美の追求心は、必ず敗北を産む、人生のね。それを踏まえてなんとなくだが、美への抵抗がわたしにはある。自分の見栄えだけに関しだがね・・。ん?葉子は美かって。そうだろう、あの美しさは・・。
そんな想いの中、いつも葉子を見て来た裏腹な見方で、毎度軽い、背徳と反省を繰り返して。災害のような、あの美。追従を許さない雰囲気。好意とはそういう偏見の中からも産み出されるな、と初めて気付かされたのも、葉子からだった。
それは、決して相手の勝利を喚呼するもので、葉子のためだけであった。いつも、嬉しさ半分、焦燥半分のわたしではあるな、と心地好さ気にわたしは葉子を評価する。そして、今後もそうありたく、彼女を縛りたかった。そして、ときは流れた。知り合って幾ばくのときを・・。駄目なんだ・・。融通の利かない恋愛関係は、いつも壁をその進行方向の先につくり、何れ当たってしまうから。
ずっと、先だといいな・・。なんて、被害妄想はよそう。そしてこれからを、もっと快楽の渦へと、試みつつ遠慮して、段階を構築せねば。決して、一時しのぎの愉悦感ではなく、もっと異次元の豊か、また豊穣の実りの感覚を得る、結論への物語りのため・・。
おわりの引き伸ばし、最終へのは、最後の到来を前提してるのだろうか・・。そして、最後はいつやって来るかを予感・連想させてくれるのだろか?途中経過で気付かせてくれるのだろうか。なら、それは意図的な他者からの悪意?から気付くのだろう・・・。
そして、そんな事を経ないと人間はいつも最終段落を諒解しないのだろうか。悲しいかな、他者からの攻撃なしに、この結論には至らないだろう。また、外からの外からみえた上での働き掛けであるからこそ、自虐を含まぬ、正当な権利を、与えられた寄与された、行動となるのだろう・・。
いつも他者はこう、いう。常に受身で在れ、と。そして、他者へは行動を取れ、と。結びつきは常に楽観を喚起する。だから、ギブ&テイクを怠るな。これはだれが教えるでもなく日々日常の過ごし方でいつの間にか、教わる歴史だ。
Kと帰社の途中で別れたあと少し、わたしは、公園のブランコで、毎日そうする様に脳を効率化させる作業に取り掛かった。その後、またあれを、せねば。そうする事は課増の日常で在った。明日の検討に邁進する度、課増はエネルギーを充填する。まるで、労費していくしか無い乾電池の宿命、それを無理に詰め込み、それを回復させているかもわからない作業に勤しむ課増。そして、わたしは帰宅した。乾電池は使い切るとそれは用を為さない・・。無くなる直前に不要になる前、補充をせねば・・。取り替えられる前に。
一方通行のエネルギー、それは他動の介入を許さない。よくいう、最高権力者の採る手だ。そして、それは人生を最高に充実させる。例え独り善がりのはだかのおおさまで、在ってもね・・。
権力者にとり、行為の妥当性は考慮しない。そのことは歴史と、その同時代に実感して生きた、評論家達も賞賛している。ただ、只管従えと・・、そのほうが楽・・だと・・・?今の時代、民主制度が実存してるという少なくともカタチ上はそう、みえ、制度上騙されてるかそうじゃないに関わらず、それを結局、民主を発案した、その制度発見者にシステムで従えと、いう、隷属に異ならない。それは、完全主義な制度は永遠に生まれないことを意味、既知することになるじゃないだろか。遠い将来ね。
Kはいつも、こういう。「ただ、完全であれ、と。仕事に関し。」また、いつもこう加える。「経過を捨て去れ、と。受忍のときだ、と。事故は事故では終わらない。それは事件だ。いつまでも記憶に残る、そしてそれは、遠い先完全となったとき、回収されるモノだと。常に楽観せよ。最後まで行き着きゃ、その方向性は間違いなくどんな方角も回収可能だ。」その事は、いつもわたしを悩ませる。終わりが視得ないだけに・・。「簡単な方法を教えてくれ、と叫びたい。母の内部から解き放たれた瞬間、わたしは自我を求め出した。そして、それを得た。ひとよりやや、遅かったが・・。だが、いつも不安。さきに炎が揺らめくんだ。消えはしないが、経過の苦痛と相成り、しゃがみ込んでしまう。だから教えて欲しい。疲れない方法論を。そして学びたい、一番簡易的な、経過を。あるなら。」不安と焦燥から自我を越えた物を得たときからわたしはその様に考え、余計に苦しむ羽目に成って行った。Kはどうなのだろう???K、それを受忍と呼ぶ?Kなら可能だろう。しかし、わたしは違う。生き様が違う。その前に揺らめく炎の明るさが違う。色も違う。どうなってんだ。遣り方次第で全て回収だって?でも、それはわたしへの自分の自我からの信頼を意味する。いつも自分を分かっていると謂う。
Kはいつもこうだ。こうあれ、こうあれ、と。経済の発展性はいつも置き去りにするものをしないことを重視する傾向。だが、生産する仕事人である課増にとり、生産性はライバルを蹴落とすために常に上げていかねば。等価による等価交換なんていつの世も許してくれない。だれだって、ひとより裕福に優越したいからさ・・。物質的・精神的・人間関係的にね・・。
そしてそのことは、葉子を巻き込み俄然、欲の権化へとわたしを誘う。精神的な優越を得る行為へとね・・・。等価な交換なんて葉子とは望まない。残りの二つは捨てよう、しかし精神は得たい。何故かって?それは男性たる所以だろう・・。恐らく、男は一人ではない。少なくとも、母性を成人後も求める様に、常に母胎の中にいる。居心地良さそうに。それは、葉子には解からないだろう。何故精神面に拘るかを。まだ話しても居ないがね。経済の発展性に似ている。置き去りにする物なんて作るつもりがない。万能物への将来への完成を目指し帳消しにする、経済の志向とわたしの葉子への感性方向は似ている。そして、それを必ずしや胎内の安定性の中、ゆるりともっていく。それが男には出来る。だが、女性は気付かない、気付けない。母となる事を思春期初期に意識させられる状況故に・・・・。
そして、その感性を葉子はきっと許してくれる。毎日必ず。気付いていても。それが葉子にわたしが、認める、美しさだった。頑張らねば、勝つことに向かい、進捗して・・。なんの勝ちでも良い。取り敢えず、目の前に視える揺らめき・朧気解消のため。そうしないと病んでしまう。なにもかも、とくに怖いのは精神病みだ。これは周囲が視得なく成る。独善へと向かう。権力者を目指す、万物の最果ての姿だ。それは、孤独・楽観・悲観・排他・攻撃・悲哀を抱える。同時にこれ等を抱えると、それは生命の死と同様体となる。生きていても・・・。
心が折れそうだ。いっつも、修羅場をくぐるときいつもそう、想う。想うのは、連想の分野だ。想う・・なにを・・嫌な先見をだ。空想の仮定の部類に入る。
そして、自分も、孤独と戦う必要があるのかと、自問自答する必要が在る様だ。それは何かに似ている。似て非ではなく、そのものだ。
きっとそれは、そう、想いを果たす行動に、直結する、意思・・。
好きな感情を封印・遣り込められぬ、歯痒さ。全てを含み、含ませたいことへの連携願望・・・。いつもそれ絡みで参る。もう降参だ。ひとを好きになるのはただ、ひたすら、種族維持の目的だけのためなのであろか?否、それは切ない、切なさを絡めた、何かの意図を感じる。そうでないと説明がむづかしい。繁栄に快感など不要のはずだ。好きになるという、行為は、ある種、売女(ばいた)の打ち震える敗北感、においそれと追従させる性衝動だけに関連した、すばらしさ?という、結びつきへ向かっては居ない。なにかの、生命が繁栄のため生命である所以、理由がその目的、だけに、向けられたものとは人への好意心は存在するとはどうも、思えない。なにかのプレゼントとだけ思ってればいいのよ。生命は繁栄・存続のため、生殖つまり、衝動以外のなにかがほかに存在する。それがLOVEという衝動絡みで誰もが選択したがる、遊戯なのさ。たとえ、それが邪魔者であるとしても・・・・。
そんな真似をしてると吸引される、壺と化すよ、とは良く謂った、物で。それのみでは駄目なんだ・・。何事もカルトでは困る。社会性が損なわれる・・。人類種だけではなくて、他動物に取っても。好意にウツツを抜かす、駄目人類はいずれ滅ぶ。支離滅裂、論理矛盾のようだ。しかし、そこだ。かの有名な生産性のクダリ・・。どんな事態も専門性の追求のみではいずれ駄目になる、解体余儀無い、柔軟と決断さへあれば組織は上手く動く、という・・クダリ。
そんなこんなで、波乱な人類の歴史は幕をいつ、どう、なにに寄り閉じるべく自ら達を縛る??いまから???なにも解かってない。人類の滅亡はこう思う、謂う。それは天災のざわめきでは無く、圧倒的な物量が不足し、生産を重視した結果からくる、切り捨てられた目にもとまらぬ意外な不足物から生じる。きっかけもエンディングも。葉子もこれには賛同する。長い付き合いで、それは諒解している。葉子側も同じ意見だ・・。でも、こう思わないかい?いつだって人類は前向きだった。当たり前だが文明の進歩へと。商売というカテゴリーが発掘されたときからの・・。愛を追求する人類はそれを謳歌し、それを薦め、美化する。必要以上に。そして、それをしないヒトを軽蔑する。カルトだと・・。ダメージは少なく済む。そのほうが。何故なら愛求は行動力を物凄く喚起する。それは滅亡への逆シナリオと充分成り得ると、思う。わたしは。例え種の起源が、愛を込めてなかったとしても・・。葉子はこういう、きっと生命は自主的な己種の客観視判断を避けたんだは・・。ずっと初期に。それがいまもつづき・・。駄目じゃないか?主観に頼る楽観ほど、文化が花開く、時代はなかった。そう言い聞かせる自分。そして、文化は文明ほど偉大ではない、それも差が開く一方だ。客観と主観は意図的に使用し、バランスをとるべき、シーソーなんだ・・。ジグザグな回路もいいじゃないか。試行錯誤の果て、客観を捨て、最後に残ったなにかが、きっと正しい選択を働かせてくれるさ・・。
葉子の悲し気な表情から理解をしてくれている様子がわたしの秘かな隠れた想いが実現へと近づく歩みの捗りとわかり、時折、犠牲となる自分の将来と、葉子への申し訳なささがモツレ複雑な一方的とも謂える喜びに浸るわたしをここ最近は、メインに押し進め、基盤化してる自分に他の要素をとくに見出せない分量の軽さを受け入れた最近でも在った。
さてさて、なんてこと、だと・・開く一方の感覚、それは一切の妥協の無いカテゴリー、うん。ダメージさ。ダメージは待ってくれない。いつナンドキも。
理性を置き去りにして、すぐ被害を与える、ダメージ。うんうん、すぐすぐ。もう少し。防御壁をどんな完璧に敷いても貫通する。なんかに似てるな・・
ダメージも理性を備えてくれりゃ。はははっ、一通の道路に似ている。しかも、妙に強制感がある。
壁を壊せない、かた、等いるんだろか・・
辛辣なご意見どうも、ありがと・・。さっそく、きた。例のメールだ。なに何?ふむ、とても、事務的だ。機械的。オートメーションか・・なんか見透かされてるな。近頃の状況を。
簡単な応対に追われ、リードをどうにか保たせながら、わたしはメールを切った。しかもクールに。要らないよ、そんな助言・・虚ろな意見に左右されるなんてご免だ。はは、有意義。
堪忍してよー。と問いたい。「妥協は積極の副産物、いわば落とし子、いらないモノなんじゃないかな??」
家の家具を並べ、配置を気にする、感情ではない。常に同じ環境、それが妥協。
壁を壊すのにも妥協は強いる??否、自主依存。サクランボの2対に似ているな。どっちか片方が折れ、負けるという。駄目じゃないか。勝利を手にするのは。
両方の意見を参考にし、走るという、行為つまり、カタチヅクリから始めないと。そうして人類はいずれ完結する。完全無欠な社会へと・・
そうして、こうして全体性からみると全ての細かさはなんの意味もない一部。それで居て、全部も無意味。なにが有意義なんて絶対に存在しない、出来ない。よく、考えれば判る。
過去はどうだろう?・・と。イニシエの時代、ヒトは火を発明した。いわば発明とはモノや事態の順序を逆にする。そして、振り切ってリードを保つ。葉子もそうだ。
ヒラメキを大事。そして、それに依存、いわば火事場の馬鹿力以上の力点、腕力を期待して止まない。不可能なことがなにをするにも多すぎ、なにも得ぬ、人生に成っちゃうね。そして、死、才能とは客観的に可能不可能を探る指針には成る。時間的に間に合うかどうかさへも、凡そだが予測できる、シロモノ。色んな面でこれは大切だ。よし、優雅なインスピレーションはおいとき、こう生きよう。常に敗北的に・・これが正しい。所詮、勝敗なんて、負けるのが嫌だから、勝ちに拘るというだけのものだ。勝たなくても負けなきゃいいって・・変な理屈、権力の座から降りた人格はまた、つぎのチャレンジを探し出すだろう・・なんて楽観視しながら今夜は眠ることにした。
しかし、この期に及びこんな観点からしか、得れないなんて。なにもかも。ハランだ結末への道・・途中経過はなんでもいいんだ。
そして、夜が明けた。しかし、課増はまだ・・寝ている。事件の起こった瞬間というのはこういう物だ。ある時点での時系列のオコリかた。ストップと、運命が叫ぶ。
結果は流石、納得のゆくモノにしたい。なんでか?それは、限りある、時間の副産物であり、また多様物でもあるし。
以前、起きた事件、これは死を直感させるものでは不思議だがなかった。死を取り扱ったものなのに・・・周囲は愕然とするだろう・・・こう謂った事を漏らすと。
寝ている家屋の外壁外では淡々と日常が人間だけでも起こり始めて居た。んと、絡んで?全て因果??寝ているだけなのに。
産まれてこのかた、わたしは誕生を喜んだことは無い。しかも、それなりに前向きに生きていたにも関わらず。
身動きせずに呼吸レベルを整え、まだ眠りにある課増・・しかし、それはもうすぐ、許されなくなる。
そろそろ、課増本人に客観を超えた主観の世界が始まるだろう。それは睡眠より、より有意義なカタチ。混沌の中、そこを抜け出す兆しがみえたいま、抽象から具体への転換が意思強要される。無欲な睡眠を終えたわたしは、有意義な活動へと動き、強要される。そう、動作をし始める。おおかたのひとがそうするように。当たり前の如く。
チチッと小鳥の鳴き声がする。それは無意味な音声。そう、思えて成らない。心地良く起きれる、あぁ、喜びよ。張り詰めた冬の空気がなぜか湿度を適度に含み緊張する。朝刊を読む。毎度よくない事象が軒を連ねるように印字されてある。また刺激というか敗北の印象をその文から受ける、事実という活劇より。そして、わたしは過ごした、すなわち無為にときをなぜか経過させた。やる事はたくさんまだまだあるのに。一人暮らしはもう慣れた。初期は一人暮らしで、帰宅で誰もいない部屋に向かい、挨拶してたっけ・・・。昔の繋がりなんてもう気にしない。忘れたいとすら思える。あの自堕落で活力的な満ち溢れる思い出の数々。そうして、思いを周囲に漏らさずわたしはある時期、過ごしたんだ。ひととはちょっと違ってたかも。ふーと朝、コーヒーをススリ、息をつく。自営はできてど、いつ状況変化でおちるかわからない世代。もう甘えの時代は遠く、遥かだ。外でひとの動きが激しいこと位みずとも、探知出来ていた。特に今朝は、なんか神経過敏だ。逆撫でする、音声に耐えつつ、わたしは姿勢をとり、だれも持たない考えをぶら下げ、玄関をでた。そう、予感と感知した、雰囲気の予想は、なぜか今回は当たっていた。
貝殻