笑む月

笑む月

 僕が生まれたのは月の笑う夜でした。
 月の笑う夜とはどんなものか、ご存知でしょうか。
 それは静かな、とても静かな夜です。
 ちろちろと鳴く虫の、かすかな声も聞こえない夜。
 花の風に触れる音も聞こえない夜。
 この世界に息づくものがすべて、存在を隠そうとする夜です。
 そんな静かな夜に、月だけが煌々と天にかがやき、青く世界を照らすのです。
 僕が生まれたのはそういう夜です。
 それがどんな凶事であるか、ご存知でしょうか。
 月の笑う夜に、おぎゃあと生まれ、静寂を打ち破った僕は、その瞬間に、月の呪いを身に受けたのです。
 僕は母を知りません。なぜなら母は僕が生まれたその暁に月に召されました。僕が静寂を破った罪を、母はその豊かな命で贖おうとしたのです。
 しかし、それは無理なことでした。
 月が許すはずもなかったのです。
 僕の肌は白く、青い血管が瑞々しく透いて浮きでるほどに白く、熱を孕んだ太陽の光の前では生きられないほどに白かったのです。
 連なる山々を飲みこむように燃える太陽の残像も、突き抜ける空に光を放射する白い太陽も、海が光に青くかがやくことも、僕は知識としてのみ、知るのです。
 僕が生きるのはさみしい月の明かりに照らされた青暗い世界です。
 僕は太陽の光を受けた月の、そしてそのまた残りの光を受けた世界しか知りません。
 真っ黒な海の前に立った時、押し寄せ蠢く巨大な波と、夜の空の狭間に境界はなく、どこまでもつづく暗闇に、僕は足元から攫われてゆくような心地になりました。
 海底を削るような荒い波音の重なる中に、攫われてもよい心地になりました。


「きみ、泳ぐのには早いよ」
 背後から腕を掴まれて、僕ははっとしました。
 気がつけば、僕の胸元で海がたぷたぷと揺れていました。
 頬と云わず髪と云わず、塩辛くべたべたとした海に濡れていました。
「戻ろう」
 僕の腕を引っ張ったのは、僕よりいくつか年嵩の男でした。引き締まった面長の頬には、焦った様子もありません。僕とはまるで違うしっかりとした首筋からつづく鎖骨が、驚くほどにきれいなひとです。
「さあ」
 そのひとは、一向に反応のない僕を肩に担いで、まるで荷物でも運ぶような調子で、岸まで歩きました。海水に芯まで浸った僕と云ったら随分重かったでしょうし、水の分子の中を、しかもごつごつとした岩の中を歩くのは、骨の折れることだと思うのに、そのひとはまったく苦しい素振りを見せずに進みました。
 黒く尖った岩場の上に僕は下ろされました。そのひとは倒れるように僕のすぐ隣に手をついて息を吐きました。
 そのひとは僕の右肩に大きな手をかけました。のしりと、重みのある手でした。
「寒いな」
 云ったのはたったひとことでした。


 そのひとはサトと名乗りました。
 サトは月の隠れた夜のように暗い髪と目を持っていました。整った鼻筋や尖った顎から始まる頭、まっすぐな背中、腰からのびるしっかりとした足は総じて均整のとれたうつくしい骨格でした。うつくしいくせに、若さに申し分なく鍛えており、しなやかな筋肉で身を包んでいるため、強靭な上に鋭い印象をひとに与えました。
 サトは僕と月に纏わる呪いについて知りませんでしたし、僕もサトのことを知りませんでした。お互いのことを深く尋ねようともしませんでした。それが僕たちの主義でした。
 サトは旅人でした。
 彼の荷物はひとつの鞄だけでした。僕にはそれはうらやましいことでした。彼の鞄にはわずかな着替えと世界の地図、水とビスケット、小さな手帳だけがありました。彼にはそれ以外のものは連れてゆく必要がなかったのです。僕にはできないことです。僕はいくつかの気に入った音楽と、長い昼をやり過ごすためのパズルや数式、美しい宇宙を案内する本、机や照明が必要です。そしてなによりそれを囲む壁や屋根が必要です。
 サトにはそんなものはいらないのです。
 僕はサトに会いたくて、夜に海へ出るようになりました。
 サトは僕の知らない太陽の世界について教えてくれました。
 朝焼けに羽ばたく鳥の旋回する様子や、川の煌めくせせらぎに足を踏み入れて山を歩いたことや、からだを焼きつくそうとする夏の乾いた道程。
 波打つ砂浜に腰を下ろして太陽の話を聞くことは、僕にとって胸の躍る喜びでした。僕はサトの話をいつまでもいつまでも聞いていたいと思いました。
 弓なりの細い月は沈黙して、僕たちの声に聞き耳をたてているようでした。


「ここで、人魚がいないか、見ていたんだ」
 サトはぽつりと云いました。
「俺がおまえくらいの年の頃に、海で人魚に会ったんだ。海のあるところに来ると、もしかしたらまた会えるのじゃないかと、思うことがある」
 サトがそんな話をするのは珍しいことでした。サトはどこか恥ずかしそうでした。
 僕は砂浜から立ちあがりました。お尻の砂を払って海へと歩きました。
「どうしたんだ」
 サトが追いかけて立ちあがり、僕の腕を取りました。僕がまた沈んでゆこうとするのではないかと危惧したのでしょう。サトにとって僕は危なっかしい存在だったのです。
 僕はサトに見せてあげたいものがありました。だから、サトの手を振り切って、海へと走りました。砂に足を取られて、転びそうになりました。
 僕は上着を脱ぎ捨て海に飛びこみました。
 空気が温かくなってきたとはいえ、海はまだ冷たい季節に止まったままでした。冷たさというのは度を過ぎると痛さに変わります。肌から脳へと送られる痛みの刺激に、僕は身を震わせました。
「どうしたんだ。戻って来い」
 サトは叫びました。
 僕はサトに手招きをして、頭まで水に沈みました。ゆらゆらと揺れる海の中で、姿勢をまっすぐには保てません。じたばたと手足を動かしました。
 そのうち、力強く腕を掴まれ、立たされました。足は十分につく場所でした。
 サトが呆れていました。
「なにがしたいんだ」
 僕はサトに見せてあげたかったのです。きっと、サトが出会った人魚が見ていた夜の海の風景を。
 僕は海に再び沈みこみ、今度は泳いでゆきました。沖へ、沖へ。サトは仕方なく僕についてきます。そして僕は海に潜りこみました。深く、腰を沈めてゆきます。サトも追いかけて潜水してきました。
 僕はサトに向かって両手を伸ばしました。両手を大きく動かし、海をかき混ぜました。すると、その軌跡に、淡くこまかな光が生まれました。泡沫のような光は動く僕の手に、まるで魔法のように生まれては儚く消えてゆきました。
 サトは目を見開いて、そして嬉しそうに笑いました。その笑顔は、とても温かく、僕は全身の血が沸騰するような喜びを覚えました。
 サトは僕の腕を捕まえて、揺らぐ水面へと導きました。僕はサトのしっかりとした腕に包まれ、サトの体温を感じました。
 海から顔を出して、サトは云いました。
「夜光虫か」
 夜の海では、魚は動き止めて眠り、甲殻類が蠢き、かすかな光に夜光虫がささやくように煌めくのです。
「きれいだな」
 サトの頭上で、月が静かに清潔な横顔を見せていました。
 僕たちは、それからまた海に潜り、寒さを忘れて泳ぎました。サトが海の中で足を蹴ると、それに纏わりつくように、夜光虫が無数に浮びました。夜の星のかけらは、海に生まれては消えるのです。僕の手からも、サトの足からも、星が砕けて煌めき、一瞬に音もなく消え去りました。

 
 その夜の後、僕は熱を出し、床に臥せりました。からだの強くない僕にとって、仕方のないことでした。熱く倦む頭の中心では、サトと追いかけた夜光虫が星の螺旋を描いていました。
 旅人が月に召されたという話を聞いたのは、この病の床でした。
 兄は僕に水を与えるついでに云いました。
「小さな岩場があるだろう。あそこに打ちつけられていたんだ。ひどいものだったらしいよ。何度も何度も岩に叩きつけられて、血だらけだったって。なんだって夜の海になんか出たんだろうね」
 波に揺られ、硬く鋭い岩に叩きつけられ、健康的な顔や腕、足やからだの皮膚が破け、血が流れる。彼の黒い目はうつろに海を見ていたことでしょう。僕にはその光景がとても鮮明に想像できました。
 ああ、彼がなぜ、海へ出掛けたのか。彼は僕を待っていてくれたのでしょうか。人魚を探しに行ったのでしょうか。
「なにを泣いているんだい」
 兄が口の端を曲げていました。
 兄は僕が部屋を抜け出て、夜の海に出掛けていたことを知っていました。
「どうしておまえが悲しむんだい」
 悲しむ。僕は悲しんでいたのでしょうか。彼と会うことは二度とない。その事実がひどく僕を痛めつけたのは確かでした。
 兄は水の入ったコップを僕の口に押し当てました。
 僕は飲みたくもない水をあてがわれ、顔をそむけようとしました。
「おまえが殺したも同じだろう。月がおまえを許すはずはない。おまえが誰かに好かれるはずがない。母さんを殺したおまえを」
 兄はささやきました。
 僕は、月の笑う幻を聞いた気がしました。


 雨が降っていました。僕は大きな蝙蝠傘を手に、丘を歩きました。
 厚く雲ののしかかる灰色の空の下を歩きました。
 ぱちぱちと傘に雨が舞いました。
 僕は水溜りを飛び越えました。
 路の途中に、バス停がありました。
 緑色のベンチに、頬かむりをしたおばあさんが座っていました。
 ずんぐりとくの字に曲がった背中は雨ですっかり濡れていました。
 雪降る季節の茶色いコートを着込んでいましたが、季節はずれです。傘はさしていません。それに、深夜でした。バスが来るとは思えません。
 僕は立ち止まりました。しばらく、遠くから、おばあさんの様子を伺いました。
「傘を貸しておくれよ」
 みょうに甲高い声で、おばあさんが突然云いました。鳥が鳴くような大きな鋭い声でした。僕は驚きました。
「貸してくれないのかい」
 おばあさんは僕を見ずに云いました。潰れた形の鼻に、雨水が滴っていました。
「なにを怖がっているんだい。あたしが怖いのかい」
 おばあさんは顔だけ振り向きました。ぽっちゃりした頬の中で、大きな目がぎょろりとこちらを見ていました。
「傘を貸してくれないなら、あたしは雨に打たれて死んでしまうよ。あんたが殺すも同じだよ」
 そう云って底意地悪く笑ったのです。僕は困りました。
 おばあさんは腰を曲げたまま立ちあがり、不安定に左右へと揺れながら、突進してきました。それはお年寄りとは思えないほどの勢いでした。そして僕の手から傘を奪い取り、またベンチへと急ぎ戻って、今度は目を疑うほど上品に座りなおしました。
 僕はその隣に進んで、座りました。
 おばあさんは傘を僕の頭にも掛けてくれました。相合傘でした。
「きれいな子だね」
 おばあさんは正面を向いたまま、云いました。僕のことを褒めてくれたようでした。僕は容姿を褒められたことはありませんでした。兄はそういうひとではなかったのです。
「月の笑い声を聞いたことがあるかい」
 それは正確にはありませんでした。月が笑ったのは、僕の生まれた夜で、月の笑う夜はそうそうないのです。
「月の笑い声を聞いたものは祝福を受けるんだよ」
 僕は月に呪いをもらいました。
「あんたは月に愛されたんだよ」
 おばあさんは悪者にしか見えない顔で笑いました。口の右脇に、大きなほくろがありました。
 このおばあさんは、僕の呪いについて知っている。そう思いました。
 僕は傘を残してベンチから立ちました。
 僕の受けた呪いを面白おかしく、騒ぐ連中はわずらわしいだけでした。
 僕が月に愛されただなんて、そんなでたらめを云って僕を揶揄かうなんて、なんて趣味の悪いおばさんなのでしょう。
 僕は歩くほどに腹立たしく、水溜りを乱暴に蹴りました。派手な音を立てて、水は破れてはね飛びました。

 
 翌日、僕は兄に黒い服を着せられ、夜に出掛けました。細長い建物の間の入り組んだ石畳には昨晩の水溜りが乾かぬままに残っていました。兄は迷路のような路地奥へと僕を誘いました。小さな家の玄関には白い明かりがふたつ灯っていました。黒い服を着た大人たちが、その家を出入りしていました。
 僕は見知らぬその家に入りました。僕が通ると、周りの大人たちは、僕の白い顔を凝視しました。
 きしむ廊下を歩き、建てつけの悪い扉を開けました。部屋の中央には四角い棺が置かれ、その周りにひとは寄り、白い花をその中へと丁寧に添えては去ってゆきました。
 僕は兄に花を渡され、皆と同じように、その棺に近寄りました。
 白い花に囲まれて、棺に横たわっていたのは、おばあさんでした。おばあさんの口の右端にはほくろがありました。
「月に愛されたんだよ」
 背中の曲がったおばあさんの、呪詛のごとき声がよみがえりました。
 兄に促され、僕は棺に花を添えました。
 帰り道、あれは誰なのかと尋ねました。兄は冷たい風の吹く湖のような顔で云いました。
「祖母だ」


 いくつかの季節が巡りました。
 年を経て、僕の肌はいよいよ白くなりました。月の光は、僕の白さを容赦なく浮ばせました。
 ある晴れた夜、僕は屋根に上り、空を観察していました。僕は筆記帳に星の軌跡を記していました。
 月は地球との間の引力に楕円運動をして宇宙を回り、振り動かされるようにして少しずつ、地球から離れていっているのだそうです。いつか月は地球から見えないほどの距離へ遠ざかるのです。つまり過去、太古の地球では恐ろしく巨大な月が天にあったのです。そんな月の引力に支配された海の荒れ狂うさまは、想像するだけで鳥肌が立ちます。
 いつか月がいなくなる。
 それを考えると、僕は頭蓋骨の内側が痒くなります。僕を呪った月がいつかいなくなる。宇宙の彼方に消えてゆく。この世で一番憎い相手が消えることは、ひとにとって嬉しいことなのでしょうか。僕は、月が遠くなくなることを考えると、どうしたらよいかわからなくなるのです。頭を掻きむしりたくなるのです。
「こんばんは」
 卒然、礼儀正しい挨拶が、僕のくだらない思考を遮りました。僕は空から顔を地上へと戻し、声の方向を確認しました。
隣家の庭の大きな木に、短い髪の少女が登っていました。器用に枝へ腰かけていました。彼女は好奇心に満ちた愛らしい目で、僕を見ていました。
「手を貸してくださる?」
 彼女は僕へ小さな手を差し出しました。
 まるで少年のような身なりでしたが、態度は淑女でした。
「よい夜ね」
 彼女はふうっと息を漏らして、屋根の上に座りました。
「お引越しの挨拶に伺ったの。よろしく」
 彼女は首筋に髪を揺らして首を傾け、そう云いました。
 引越しの挨拶にしては風変わりでした。しかし、僕自身、いわゆる世間の普通であることからは程遠い人間でしたので、その挨拶を受け入れることにしました。僕は彼女に向けて友好のしるしに右手を差し出しました。
「まあ、よろしく」
 彼女は素敵な笑顔で僕の手を握り返してくれました。
 

 彼女の名前はユキと云いました。うつくしい白銀の名前です。それは彼女の清冽な性質にいちじるしく当てはまった名前でした。
 兄は僕が部屋の外へ出ることを嫌っていました。兄にとって月に呪われた僕という存在は忌むべきものだったのです。兄は僕にもっとも近い場所で、繰り返し月の呪いについて語りつづけてきました。もしも兄がいなければ、僕は月の呪いについて知らずに生きてきたかもしれません。
 僕がユキと会うのは、兄が眠った時刻、月の冴える時間でした。ユキにとってそれはとても遅い時間だったので、彼女は話をしながら、最後には僕を背もたれにしてあくびをしていました。小さな彼女のやわらかい温度を腕にすると、まるで雛を守っているような気がしました。いつも壁や屋根や兄に守られている僕にとって、誰かを守る感覚というのは奇妙くすぐったいものでした。
「あなたは物知りね」
 ユキはそう云ってはぱちぱちと手を叩いて僕を褒めました。
 ユキは記憶力のよい少女でした。
「木星はイオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト。土星はミマス、エンケラドス、テチス、ディオーネ、レナ、タイタン、イアぺタスがふたつにフェーベ。それから」
 僕が教えた火星や木星、土星に天王星、すべての月の名前をいっぺんに諳んじることができました。
 指を折りながら諳んじるユキの楽しげな顔を見ていると、僕の頬も自然とやわらかくなりました。
 月がまんまるとすべてを見せている夜、僕とユキは月の海を図鑑と比べ、その黒い海へ帆を揚げました。ある航海で僕たちは、氷の海に帆を揚げ、雨の海を渡り、嵐の大洋へと舟を進め、知られた海へと抜け、蒸気の海から晴れの海へ流れ、最後に豊かの海へと終着したのでした。
「ああ残念。眠たくなっちゃった」
 冒険の終わりで、ユキはそう云って目をこするのでした。
 ユキが隣に腰掛けているときだけ、月は不気味な呪いのかたまりではなく、遊びの道具となるのでした。
 ユキこそがやさしい魔法でした。


「今度は誰と会っているんだい」
 カーテンにふさがれた暗い朝食の席で、兄が云いました。兄はまるで機械のように規則正しく、食事を口へ運びました。 ただ、目が僕をきつく捕らえました。
「どれくらい前だったっけ。おまえが海で会った旅人がいたね。岩に叩きつけられて死んだ」
 僕は食事する手を止めました。
 彼は僕にとって特別なひとでした。彼は太陽の匂いを想像させるひとでした。
「おまえ、まさか許されるとでも思っているのか」
 兄は静かにスプーンを置きました。
「おまえが幸せを感じることなんて、月が許すはずがない。母さんを殺したのは、おまえも同然だ」
 兄の声は陰鬱に地下を流れる汚水のようでした。
「僕がこの暗い家で我慢してやっているのに、おまえだけが自由に振舞うなんて、おかしな話だろう」
 兄は傲慢に云いました。
「おまえはもう外へ出るな。夜もだ」


 兄は僕を部屋へ押し込め、窓に板を張りつけ、扉には鍵をかけました。照明を灯すことも禁じられました。日に何度か、僕は兄に水と食事を与えられました。
 僕は宇宙のように暗い部屋の中で、うつろに横たわって過ごしました。兄が出るなと云うのなら、僕はそれを侵すことはできません。
 いったい夜なのか朝なのか、どれくらいの時間が経ったのか。次第僕はわからなくなりました。僕が醜く生きている証に、部屋の中には排泄したものの匂いと僕自身の生臭さが充満していきました。冷たい海に潜り込みたいと、僕は思いました。

 
「ねえ、ねえ」
 それがいつだったのか、わかりません。僕はユキのかわいらしい声で目を覚ましました。同時に、窓のあった場所を叩く音がしました。
「返事をして。いったいどうしたの」
 ああ、ユキは僕を心配してくれたのでした。
 僕はのそりと起きあがり、板張りの窓へ頬を寄せました。
「開けて頂戴。顔を見せてくれないとさみしいわ」
 ユキはねだるように云いました。
 僕には不可能なことでした。兄の命令を破ることは、この家ではできないのでした。
 やがてユキのため息が聞こえました。そして外は静かになりました。去っていったのです。
 それから、ユキは時々現れては僕に話しかけました。家を出てしまえばいいとさえ、云いました。兄を非難しました。僕は月の呪いについてユキに話しました。
「ばからしいわ」
 ユキの声は怒っていました。しかし、ユキは知らないだけなのですから仕方がありません。僕へ関わった人間を、月は許さない。それは事実なのです。


「ねえ、出てきて。一緒に逃げましょう」
 ユキはある時、そう云いました。それは誘惑でした。しかし、この家を離れることはできません。僕は死んでしまうでしょう。
「ねえ。あっ」
 そして、ユキの声は悲鳴に変わりました。闇を切り裂く悲鳴です。
 ああああ、ひあああ。
 かわいらしいユキの、恐怖にひきつれた悲鳴です。僕は兄の打ちつけた板にかじりつきました。力のない僕だったので、それは時間の取られる作業でした。その間に、悲鳴は消えていました。僕はやっとのことで、板をはがし、窓を開けました。
 清涼な夜の空気がなだれ込みました。窓の外には大きな禍々しく赤い月がありました。
 僕は弱りきった足をなんとか動かし、屋根へ出ました。ユキの姿がありません。そのかわりに、兄がいました。狂おしくかがやく月の下で、兄は僕に振り向きました。
「外に出るなと云ったじゃないか」
 兄は穏やかに云いました。
 僕は兄に掴みかかりました。兄は僕の手を払いもせずに、揺らぎもせずに、笑いました。
「月が許すはずがないって云っただろう」
 月の明かりに照らされて、屋根の下、固い地面の上に、小さなユキがからだを不自然に曲げた格好で寝ていました。大きな目は皿のように開き天を凝視し、頭が割れて黒々とした脳髄が流れていました。
 静かな夜に、兄の笑い声がかすかに聞こえました。
 月も笑んでいました。


 僕は今、すっかり重くなったユキのからだを腕に抱いて、丘の上を歩いています。
 とても静かな夜です。
 ちろちろと鳴く虫の、かすかな声も聞こえない夜。
 花の風に触れる音も聞こえない夜です。
 そして、月の笑い声が聞こえています。
 やがて空は紅に染まるでしょう。月は地平に消えるでしょう。
 いくら不吉に笑おうとも、僕を支配しても、月はやがて隠れるでしょう。
 そして暁の太陽が現れるでしょう。
 僕を照らすでしょう。
 僕は黒く焼け焦げるでしょう。
 月が笑っています。月は笑って僕を支配します。月は僕を憎み、呪っています。
「あんたは月に愛されたんだよ」
 おばあさんの死霊がささやきます。
 月のかかる丘を、僕はユキを抱えて歩きます。
 サトの待つ海へ向かって。

笑む月

笑む月

月の笑う夜に生まれた少年のお話です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-08-26

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